芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 尊王
尊王
十七世紀の佛蘭西の話である。或日 Duc de Bourgogne が Abbé Choisy にこんなことを尋ねた。シヤルル六世は氣違ひだつた。その意味を婉曲に傳へる爲には、何と云へば好いのであらう? アベは言下に返答した。「わたしならば唯かう申します。シヤルル六世は氣違ひだつたと。」アベ・シヨアズイはこの答を一生の冐險の中に數へ、後のちまでも自慢にしてゐたさうである。
十七世紀の佛蘭西はかう云ふ逸話の殘つてゐる程、尊王の精神に富んでゐたと云ふ。しかし二十世紀の日本も尊王の精神に富んでゐることは當時の佛蘭西に劣らなさうである。まことに、――欣幸の至りに堪へない。
[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集の後記によれば、大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』(巻頭に前の「小兒」と「武器」を併載)を初出とするものの、この一章は巻頭の二つとは別に当該誌の三十頁に単独で掲載されており、本文章末に『―侏儒の言葉―』『―川龍之介―』(姓の部分はママ)と記されてあるとする。この別置理由については誰も問題としていない。単に前の二つを合わせて巻頭配置した場合のページ余白が本文内の最初の作品配置と上手くいかなかっただけのことかも知れない(これはだったら初出誌を見れば、一発で分かると思う)。いや、もしかすると、編集者の誰かが(中心は菊池寛であるがこの仮定が事実とすれば彼ではあるまい)、本章の内容を巻頭に配して誰にも読まれた場合、不敬の謗りを受けるのを危ぶみ、本文内へずらしたのかも知れない(という仕儀も如何にもしょぼくさい話ではある)。しかし、それを研究者の誰も問題にしていないというのも、これまた、不思議なことではあると私は思うのである。或いは、芥川龍之介が「侏儒の言葉」が常に巻頭に載せられ、それが『文藝春秋』の「デマゴウグ」(まさに本号の「武器」の中の文句である)の旗振り役のようになっていることを、内心では幾分かはこそばゆく感じていたことから、こうした不敬染みた内容の一章をわざと拵え、これは本文内に別置した方がよいと自らが提案して菊池寛にそれとなく思いを暗示したものかも知れぬ。今や、理由は藪の中ではある。但し、既に述べた通り、「侏儒の言葉」は巻頭であり続ける。
なお実は、実際の『文藝春秋』巻頭には、狭義の「侏儒の言葉」(現在の書誌上で標題を「侏儒の言葉」とする生前発表のアフォリズム群)とは別に、芥川龍之介の短章が大正一四(一九二五)年十二月以降も巻頭に掲載され続け、それは龍之介が自死した翌月、昭和二(一九二七)年八月号まで続けられている。さらに、翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の鳥居邦朗氏の「侏儒の言葉」の解説と底本書誌を勘案すると、すこぶる興味深い事実がある。それは、
『文藝春秋』の目次は「侏儒の言葉」が巻頭となった創刊号から大正一五(一九二六)年八月号までは「目次」が表紙に配されてあった
のであるが、
その大正十五年七月号までの「目次」の第一行は常に「侏儒の言葉」で、翌八月号から「追憶」に変わる
のである。ところが、実は本文巻頭内の柱標題は既に、
その前年の大正一四(一九二五)年十二月号及び翌年一月号の本文内標題は『澄江堂雜記――「侏儒の言葉」の代りに――』
で、続く、
大正一五(一九二六)年二月号及び三月号の本文内標題は『病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに――』
で、
四月号からは「追憶」(十一回分)となっている
のである。即ち、鳥居氏曰く、雑誌本文内の題名が変わったにも拘わらず、大正一四(一九二五)年十二月号以後、実に八回分もが、『目次と本文標題が食い違ったままだったのである。そこには「侏儒の言葉」というタイトルにこだわる編集者菊池寛の意志が感じられる。芥川にもそれは分かっていながら、「侏儒の言葉」のスタイルで書きつづけられなかったのであろう。その事情を物語るのが変わったばかりの本文標題で』(上記で示した通り)、『「澄江堂雜記」に副題「―「侏儒の言葉」の代りに―」がついているのである、菊池への友情を守りながらみずからの意志をとおそうとする芥川の姿が見える』、なのである(下線やぶちゃん)。なお、これらは総てが、死後の単行本「侏儒の言葉」には所収されてはある(上記リンクは総て「侏儒の言葉」とは別立として作成した私の電子テクストである)。「侏儒の言葉」という迷宮(ラビリンス)がそう簡単には抜けられぬということが、この事実を見ても分かるのである。
なお、本章発表当時の天皇である大正天皇には例の遠眼鏡事件などの噂がある。この流言は主に第二次世界大戦後の一九五〇年代後半に流布したものとされるが、ウィキの「大正天皇」の「遠眼鏡事件」によれば、『政治学者の丸山眞男は、大正天皇の在位中からこの手の風説はあったとしている。丸山眞男は著作「昭和天皇を廻るきれぎれの回想」において、以下のように記している』。『私は四谷第一小学校の二年生であった。大正天皇が脳を患っていることはそれ以前に民間に漠然と伝わっていた。それも甚だ週刊誌的噂話を伴っていて、天皇が詔書を読むときに丸めてのぞきめがねにして見た、というような真偽定かでないエピソードは小学生の間でも話題になっていたのである』。『この事件について、近年、大正天皇付きの女官による証言が報じられて』おり、それによれば、大正天皇から直接聞いた話として、「ある時、議会で勅語が天地逆さまに巻きつけてあったので、ひっくり返して読み上げ、随分恥ずかしい思いをした。このようなことがないよう、詔書を筒のように持って中を覗いて間違っていないことを確かめて読み上げようとしたものだ」(『朝日新聞』二〇〇一年三月十四日附記事に拠る。ここは引用元の注から引いた)というのが真相だという。『また、大正天皇は脳膜炎を患って以来、手先が不自由であり、上手く巻けたかどうかを調べていたのが、議員からは遠眼鏡のように使っていたように見えたという説』もあると記す。丸山眞男は大正三(一九一四)年三月生れであるから、尋常小学校二年生ならば大正十年か十一年である。本章は大正十二年六月発表である。当時の小学生低学年にさえ蔓延していた大正天皇のアブナい話を龍之介が知らなかったはずはない。それが根も葉もない噂であるのか、何らかの所作の見間違いであったのか、それとも実際に何らかの精神疾患や脳障害があったか否かは、私には実のところ全く以って興味ない。私が言いたいのは、本章の内容は公開された当時の状況から考えて、明らかに確信犯的な危ない内容であり、不敬と指弾されかねないぎりぎりのアイロニーであったと私は読む、という事実である。これは私がこう書かない限りに於いて、若い読者は思い至らないのではないかと危惧して敢えて記すものである。因みに、新潮文庫の注で神田由美子氏は「欣幸の至りに堪へない」の箇所に注して、『誠に喜ばしいと皮肉を言っている。大正天皇は病弱のため、大正十月二十五日に皇太子裕仁親王(昭和天皇)うを摂政(せっしょう)に任じ』、『療養生活に入ったが、当時その理由を狂気とする噂(うわさ)があった』とはっきりと注しておられる。これぞ正にあってしかるべき注と言えると私は思うのである。
・「尊王」この場合、本文で分かる通り、中国や本邦で限定的に異様な形で特殊化した儒教思想に基づく「尊王思想」を指すのではなく、洋の東西を問わず、心の底から(或いは全くの表面上)、皇帝や国王の権威を重じ(るかのように振る舞い)それを発揚し、それを頂点とした(或いはそういう妄想やそれを形式主義的に遵守するかの如くに構成した)身分秩序社会を守ろうとする思想を指す。
・「 Duc de
Bourgogne 」「ブルゴーニュ公」の謂いであるが、新全集の山田俊治氏の注に、『一七世紀のブルゴーニュ公にはルイ・ド・フランスがいるが、この逸話の出典とともに未詳。但し、フランス王シャルル六世の摂政を勤めたブルゴーニュ公として、フィリップ二世(一三二四―一一四〇四)がいる』と注されておられる。しかし最後のフィリップ二世では以下のショワジと同時代人ではないから違う。他の注釈者に至っては、分からないことを分からないとさえ書かずに、ただ「ブルゴーニュ公」で済ませているが、そんな注なら附けぬがマシと断じておく。
・「 Abbé
Choisy 」フランスの著述家で聖職者フランソワ=ティモレオン・アベ・ド・ショワジ(François-Timoléon de Choisy一六四四年~一七二四年)。ウィキの「フランソワ=ティモレオン・ド・ショワジ」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『パリ生まれ。彼の父はオルレアン公ガストンの元、尚書(シャンスリエ)として働く。アンヌ・ドートリッシュと親密な関係にあった彼の母はルイ十四世を喜ばせるために定期的に呼び出された。彼の母は彼が十八歳になるまで女性の様な服装を着せた。その後、短い期間の男性の格好を経験し、彼はラファイエット夫人の間違いない風刺的な助言により再び女装を始める。彼はモントジエ公シャルルに公的に叱咤されるまで贅沢な身なりを楽しんだ』。『彼は幼少期にアベ』(Abbé:フランスのカトリック教会の聖職者の称号)『となり、彼の贅沢によって引き起こされた貧困は彼をブルゴーニュのセント=セーンでの聖職禄つきの聖職の地位におくことになる。そこで彼はビュシー=ラビュタンという気の合う友人を見つけた。かれは一六七六年、ブイヨン枢機卿とともにローマへ行くがそのすぐ直後、大病にかかり信仰への傾倒が始まった』。一六八五年、『ショワジはシュヴァリエ・ド・ショーモン率いる、シャムへの大使に同行する。彼は聖職者となり』、『教会制度中で昇進する。一六八七年、ショワジはアカデミー・フランセーズ入りを果たし、数々の歴史や宗教の著述を行った』。『ショワジはこの他にもゴシップ的要素の強い Mémoires(1737)で記憶されている人物である。この著作には彼が正確性には自負していないにもかかわらず、彼の時代の著しい正確な描写を含んで』おり、よく版を重ねた』。『ショワジは自分の気に入らない書き物を燃やしたとされるが、一方で大量の刊行されていない手稿も残し』ており、その一部では、『彼の女性としての冒険を描』いてもいるという。新潮文庫の神田由美子氏の注にも『長じてもデ・パール伯爵(はくしゃく)夫人の仮名のもとに女装し、さまざまのゴシップに満ちた奇怪な青春を送っ』たが、後に『死病を得て回心し、「教会史」』(Histoire
de l'Eglise (1703-1723))『などの教化的著作の他、青壮年時代の思い出をつづった「ルイ14世伝資料のための回想録」』(Mémoires
pour servir à l'histoire de Louis XIV(1727))『を残した』とある。龍之介の本文からは想像もつかない、なかなかに興味深い人物ではないか。なお、彼の生存時のフランス王は太陽王ルイ十四世 (Louis XIV le Grand, le Roi Soleil 一六三八年~一七一五年)は在位:一六四三年~一七一五年)である。
・「シヤルル六世」シャルル六世(Charles VI 一三六八年~一四二二年)はフランスのヴァロワ朝第四代国王(在位:一三八〇年~一四二二年)。ウィキの「シャルル6世(フランス王)」より引く。百科事典類も見たが、精神疾患の記載が乏しく、どうもここの引用にするには不満な優等生記載ばかりで面白くなかった(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『第三代国王シャルル五世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの長男。親愛王(le Bienaimé)・狂気王(le Fol, le Fou)と呼ばれた。一三八五年にイザボー・ド・バヴィエールを王妃に迎えている』。『一三八〇年、父シャルル五世が食中毒で急死したため、王位を継承した。若年のため、初めは叔父であるアンジュー公ルイ一世、ベリー公ジャン一世、ブルゴーニュ公フィリップ二世(豪胆公)らが摂政となったが、一三八八年から親政を開始した。しかし母ジャンヌの家系ブルボン家には精神異常の遺伝があり、シャルル六世も早くから精神的な不安定性を示していた』。『一三九二年に寵臣であったフランス王軍司令官オリヴィエ・ド・クリッソンの暗殺未遂事件が起こると、シャルル六世は興奮して首謀者と見られたブルターニュ公ジャン四世の討伐軍を自ら率いた。しかし、ブルターニュ遠征の途中で出会った狂人に「裏切り者がいる」との暗示を受け、ある兵士が槍を取り落とした音に驚いて発狂し、周りの者に斬りかかった。この時、同行していた叔父のフィリップ豪胆公は、後に対立することになる王弟オルレアン公ルイ・ド・ヴァロワに「逃げろ、甥よ」と声をかけたといわれる。その後一旦回復したが、不安定な精神状態が続いた』。『翌一三九三年一月二十八日には「燃える人の舞踏会」(Le Bal des ardents)という事件が起こっている。王妃イザボー・ド・バヴィエールは侍女の一人の婚礼を祝して、大規模な仮装舞踏会(モレスコ、morisco)を開催した。シャルル六世と五人の貴族は亜麻と松脂で体を覆い、毛むくじゃらの森の野蛮人(ウッドウォード)に扮して互いを鎖で繋いで踊る「野蛮人の踊り」(Bal des sauvages)をしようとしたが、たいまつに近づきすぎて衣裳が燃え上がり、シャルル六世はベリー公夫人ジャンヌ・ド・ブローニュのとっさの機転で助かったものの、四人が焼死するという事件になった。シャルル六世はその後、急速に精神を病むようになった』。『精神異常のため、シャルル六世は事実上政務を執ることが不可能となり、豪胆公や息子のジャン1世(無怖公)を中心とするブルゴーニュ派と、王弟オルレアン公と息子シャルル・ド・ヴァロワを中心としシャルル六世を支持するアルマニャック派に宮廷内部が分裂し、主導権を巡って争うことになった』。『このようなフランスの状勢を見て、イングランド王ヘンリー五世は、アルマニャック派を支援しながらその裏でブルゴーニュ派と提携するなど、両派の争いに巧みに介入した。そして一四一五年、ヘンリー五世はシャルル六世に対し、支援の見返りとしてフランス王位の継承権譲渡とフランス領土の割譲、さらに多額の賠償金を要求した。あまりのことにアルマニャック派がこれを拒絶すると、ヘンリー五世はすかさずイングランド軍を率いてフランス北部に侵攻する。ヘンリー五世の勢いは凄まじくフランス軍は各地で連戦連敗、十月二十五日のアジャンクールの戦いで大敗したアルマニャック派はオルレアン公らが捕虜となる大打撃を受けた』。『その間、王太子ルイが一四一五年に、ルイに代わる王太子ジャンが一四一七年に、と二人の嗣子が相次いで没するなどの不幸もあった』。『このため両派に和解の動きが起こったが、一四一九年にアルマニャック派を代表する王太子シャルル(後のシャルル七世)が和解交渉の会見においてジャン無怖公を殺害したため、その跡を継いだフィリップ三世(善良公)はイングランドと同盟して王太子シャルルと全面的に対立し、一四二〇年四月にトロワ条約を結んでヘンリー五世のフランス王位継承を支持した。これにより、ヘンリー五世とシャルル六世の娘カトリーヌ(キャサリン)との結婚と、シャルル六世の死後は王太子シャルルではなくヘンリー五世がフランス王位を継承することなどが定められた。ヘンリー五世は現実に王位を継承することなく一四二二年八月に没したが、シャルル六世も同年十月二十一日、ヘンリー五世の後を追うように病死した』。『シャルル六世の治世は四十二年の長きにわたったが、精神障害によってその治世のほとんどは家臣団やイングランドに左右される時代となった』とある。
・「婉曲」「ゑんきよく(えんきょく)」。言い回しが穏やかで角が立たないさま。露骨を避けて遠廻しに言うさま。「婉」という字は穏やかで角がないの意であり、曲は文字通り、「まげる」でストレートではないさまを謂う。因みに外国人にはこの意味を伝えることは非常に難しく、私は高等学校の古文の文法でも「婉曲」の意味を十全に理解させることは遂に出来なかったのではないか、と内心忸怩たるものがあるぐらいである。それほど、文法上の「婉曲」というのは実は日本独自の感性的修辞法であり、論理的であるべき文法用語としてはすこぶる怪しいものであると私は実は思っているのである。
・「欣幸」「きんかう(きんこう)」は幸せに思って喜ぶこと。]
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