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2016/05/20

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 神祕主義

   神祕主義

 

 神祕主義は文明の爲に衰退し去るものではない。寧ろ文明は神祕主義に長足の進步を與へるものである。

 古人は我々人間の先祖はアダムであると信じてゐた。と云ふ意味は創世記を信じてゐたと云ふことである。今人は既に中學生さへ、猿であると信じてゐる。と云ふ意味はダアウインの著書を信じてゐると云ふことである。つまり書物を信ずることは今人も古人も變りはない。その上古人は少くとも創世記に目を曝らしてゐた。今人は少數の專門家を除き、ダアウインの著書も讀まぬ癖に、恬然とその説を信じてゐる。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかつた土、――アダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人は悉かう云ふ信念に安んじてゐる。

 これは進化論ばかりではない。地球は圓いと云ふことさへ、ほんたうに知つてゐるものは少數である。大多數は何時か教へられたやうに、圓いと一圖に信じてゐるのに過ぎない。なぜ圓いかと問ひつめて見れば、上愚は總理大臣から下愚は腰辨に至る迄、説明の出來ないことは事實である。

 次ぎにもう一つ例を擧げれば、今人は誰も古人のやうに幽靈の實在を信ずるものはない。しかし幽靈を見たと云ふ話は未に時々傳へられる。ではなぜその話を信じないのか? 幽靈などを見る者は迷信に囚はれて居るからである。ではなぜ迷信に捉はれてゐるのか? 幽靈などを見るからである。かう云ふ今人の論法は勿論所謂循環論法に過ぎない。

 況や更にこみ入つた問題は全然信念の上に立脚してゐる。我々は理性に耳を借さない。いや、理性を超越した何物かのみに耳を借すのである。何物かに、――わたしは「何物か」と云ふ以前に、ふさはしい名前さへ發見出來ない。もし強いて名づけるとすれば、薔薇とか魚とか蠟燭とか、象徴を用ふるばかりである。たとへば我々の帽子でも好い。我々は羽根のついた帽子をかぶらず、ソフトや中折をかぶるやうに、祖先の猿だつたことを信じ、幽靈の實在しないことを信じ、地球の圓いことを信じてゐる。もし噓と思ふ人は日本に於けるアインシユタイン博士、或はその相對性原理の歡迎されたことを考へるが好い。あれは神祕主義の祭である。不可解なる莊嚴の儀式である。何の爲に熱狂したのかは「改造」社主の山本氏さへ知らない。

 すると偉大なる神祕主義者はスウエデンボルグだのベエメだのではない。實は我々文明の民である。同時に又我々の信念も三越の飾り窓と選ぶところはない。我々の信念を支配するものは常に捉へ難い流行である。或は神意に似た好惡である。實際又西施や龍陽君の祖先もやはり猿だつたと考へることは多少の滿足を與へないでもない。

 

[やぶちゃん注::初出は大正一二(一九二三)年五月号『文藝春秋』巻頭であるが、次の「自由意志と宿命と」が一緒に掲載されている。しかも没後の昭和二(一九二七)年十二月六日に文藝春秋出版部より出版された単行本「侏儒の言葉」には所収されていない。これについては底本の岩波旧全集注記に引用された単行本「侏儒の言葉」の後記に、『「侏儒の言葉」本文は』『雜誌「文藝春秋」の切り拔きに著者自身が手を加へたものに據つた。その爲――「神祕主義」他、二、三のものが省かれることとなったのである』とあう。但し、ここで『他、二、三のもの』とあるものの、具体的にはこの「神祕主義」の他に「或自警團員の言葉」「森鷗外」「若楓」「蟇」「鴉」で全六篇が除去されている。この除去について、諸解説は、上記の単行本後記の事実を鸚鵡返しするばかりで、除去はあくまで切り抜きがなかったという物理的事実に純粋に拠るものと理解して、何ら、問題視していない。私はこれには非常に違和感を持つものである。例えば、この「神祕主義」は最初に述べた通り、次の「自由意志と宿命と」とペアで掲載されたものであり、「若楓」「蟇」「鴉」の三つはその前に「幼兒」「又」(「幼兒」の再同題)「池大雅」「荻生徂徠」の七篇一挙掲載の最後の三篇で、切り抜き忘れたなどということは私には全く以って考えられないのである。しかも、少なくとも「森鷗外」はその内容から(極めて短いので引いておくと「畢竟鷗外先生は軍服に劍を下げた希臘人である。」である)意識的に抜き去った可能性が高いようにさえ私には思われるのである。それはまた、各個に考察する。

 なお、標題の「神祕主義」は英語の「ミスティシズム」(mysticism)の訳語で、『超越的実在(神・絶対者)を、日常的感覚世界を脱した内的直観によって直接に体験しようとする宗教・哲学の立場をいう。東洋では、インドのヨーガ、中国の道教・密教、イスラム教のスーフィズム、西洋ではプロティノスに始まり、新プラトン学派、エックハルト・ベーメらのドイツ神秘主義、現代ではハイデッガーなどが代表的』。『語源は〈目や口を閉じる〉という意味のギリシア語myeinにあり、通常的でないことが示されている』と中経出版「世界宗教用語大事典」にはある。

 

・「ダアウインの著書」イギリスの地質学者(存命中、一貫した自称でもあった)で生物学者でもあったチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年二月十二日(文化五年十二月二十七日相当)~一八八二年(明治十五年)四月十九日)が、かのサルがヒトとなったという当時の文化にあってトンデモないスキャンダラスな「種の起源」(On the Origin of Species)を発表したのは一八五九年(安政六年十一月一日相当)で本章発表の六十五年前であるが、本邦での学術的に本格的な紹介は明治一〇(一八七七)年の東京大学に於ける同大学生物学教授エドワード・S・モースによる講義や一般向けの講演会がその濫觴であったが、一般国民がこれを正しい定説として主体的に受け入れるようになったのは明治も後半になってからであり、学術的にはヨーロッパ留学から帰朝した生物学研究者らを通してであった。その中でも、大きな功績を果たしたのは東京帝国大学生物学教授丘浅次郎で、中でも彼が進化論の普及を目指して一般教養向けとして分かり易く解説した「進化論講話」初版刊行は明治 三七(一九〇四)年のことであるから、ダーウィンの、自然選択と突然変異の二つの柱を骨子とする進化論の汎日本的大衆理解はそれ以降と考えてよい。とすれば、実にたかだか僅かに二十年前のことであるとも言えるのである。因みに、私は既にE.S.モース著石川欣一訳「日本その日その日」の全電子化注をブログで終えており、また、その丘淺次郎の「進化論講話」の電子化注もブログで実行中である。

・「エホバ」(Jehovah)「旧約聖書」に於いて神聖にして口にしてはならない神の名。「YHWH」の伝統的な読み方。最近では、近代の研究によって復元された原音に基づいて「ヤハウェ」(Yahweh)と表記することの方が多い。原義は「在りて在るもの」の意とされ(「旧約聖書」の「出エジプト記」第三章第十四節に於いて、『神、モーセにいひたまひけるは、「我は有て在る者なり」。又、いひたまひけるは。「汝、かくイスラエルの子孫にいふべし我有といふ者我を汝らに遣したまふ」と』と名乗った事に由来する)、この唯一神がイスラエル民族とともに永遠に「在る」ことを示すものとされる。

・「腰辨」江戸時代に勤番の下侍(しもざむらい)が腰に弁当をぶら下げて出仕したところから、毎日、弁当を持って出勤する、特に下級官吏或いは広く安月給取りのことを指した。今は既に死語と言ってよかろう。

・「日本に於けるアインシユタイン博士、或はその相對性原理の歡迎されたこと」ドイツ生まれのユダヤ人であった理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein 一八七九年~一九五五年)が「特殊相対性理論」を発表したのは一九〇五年(当時のアインシュタインは二十六歳)で、

有名な式 E=mc² の発表は一九〇七年であるが、それから十五年後の大正一一(一九二二)年になって、ここに出る出版業界きっての立役者として知られた「改造社」(当社は御存じの通り、龍之介の諸作品の発表や出版企画をも手掛けた)創業者山本実彦(さねひこ:後注参照)が博士をエルザ夫人とともに日本に招待した(アインシュタイン満四十三歳)。アインシュタインは同年十一月十七日に神戸港に着き、十二月二十九日に門司港よりパレスチナに向けて出航離日している。その間の日程や講演はウィキの「アルベルト・アインシュタイン」の「アインシュタインと日本」に詳しい。本篇の発表は大正一二(一九二三)年五月であり、未だ四ヶ月前という新しい出来事でもあり、アインシュタインの来日とその熱狂的歓迎、時間の相対化というSFが事実となる驚くべき不可解極まりない理論は、まさに「神祕主義」的科学理論との遭遇であったのである。その十一年後には彼の一声で造られた悪魔の兵器が二つも日本に落されるとは誰一人考えてもいなかったことを考えると、まさにそれは神のみぞ知る、確かなおぞましき「神祕」であったと言える。因みに、本執筆時の龍之介は三十一歳であった。

・『「改造」社主の山本氏』改造社社長山本実彦(明治一八(一八八五)年~昭和二七(一九五二)年)。ウィキの「山本実彦」によれば、現在の鹿児島県薩摩川内市出身。日本大学卒。『門司新報』『やまと新聞』記者を経て、大正四(一九一五)年に『東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本関係はない)社長に就任』。大正八(一九一九)年には『改造社を創業し、総合雑誌『改造』を創刊。大正期最大のベストセラーとなった賀川豊彦の「死線を越えて」、志賀直哉の「暗夜行路」や林芙美子の「放浪記」、火野葦平の「麦と兵隊」など堂々たる作家人達がこぞって執筆し『中央公論』と併称される知識人に圧倒的に支持され、必読の総合雑誌とな』った。また昭和二(一九二七)年、『世間を一世風靡した「円本」の先駆けとなった』「現代日本文学全集」全六十三巻を刊行(死を目前に控えていた芥川龍之介も宣伝講演に駆り出されている)、『それまで経済的に困窮していた作家たちの生活は、それによって大いに潤うこととなった』。昭和五(一九三〇)年、『立憲民政党から衆議院選挙に当選し、戦後は中道主義を掲げた協同民主党を結成し委員長となった。しかし山本亡きあと』、三年で雑誌『改造』は労働争議の末に廃刊となっている。『アルベルト・アインシュタインやバートランド・ラッセルの来日招聘にも尽力し、日本の科学界や思想界にも貢献した』とある。本篇発表当時で実彦は満三十九歳であった(芥川より八つ上)。龍之介の作品もよく載った雑誌『改造』についてもウィキの「改造(雑誌)」から引いておく。『社会主義的な評論を多く掲げた日本の総合雑誌』(大正八(一九一九)創刊・昭和三〇(一九五五)年廃刊)。『主に労働問題、社会問題の記事で売れ行きを伸ばした。当時はロシア革命が起こり、日本の知識人も社会問題や社会主義的な思想に関心を寄せるようになった時期であり、初期アナキストの佐藤春夫、キリスト教社会主義者の賀川豊彦、マルクス主義者の河上肇、山川均などの論文を掲載した』。『小説では幸田露伴『運命』、谷崎潤一郎『卍』、志賀直哉『暗夜行路』の連載などがある。また改造誌上にて当代を代表する谷崎潤一郎と芥川龍之介の文豪同士の「小説の筋の芸術性」をめぐる文学論争が繰り広げられることになり』、文壇を越えて、『注目される展開となった。文学面でも単なる文芸誌以上の内容の重厚さを見せる『改造』が支持され、より売上を伸ばす結果となった』とある。岩波新全集の山田俊治氏の注によると、まさに直近の大正一一(一九二二)年『十二月号は「アインスタイン号」として「歓迎辞」に始まる全面的特集を組んでいる』とあり、仮に実彦がこの龍之介の一文を目にしていたとすれば、正直、あまりいい気持ちはしなかったのではるまいか? さても。そこである。私は秘かに、本篇が龍之介の切り抜き帖から除去されているのは、山本の名を出したこの箇所を慮ったからではないかと踏んでいる(山本に限らず、当時や現今に於いてもアインシュタインの相対性理論(同僚だった物理教師によれば特殊相対性理論よりも一般相対性理論(但し、こちらは一九一五年から翌年にかけて完成された論文)の方が遙かに難解とのことである)の意味は私も含めて一般大衆の殆んどは理解していないし、況や当時の山本がそれを理解して「熱狂した」のでないことは明白ではある。が、やはり『何の爲に熱狂したのかは「改造」社主の山本氏さへ知らない』という文章は、ダンディスト龍之介にしてみれば、余りに傲慢なる謂いであり、単行本では失礼に当たるからカットしようと考えていた(仮にそれが死後の刊行になると分かっていたとしても、である)可能性が大であると考えている。或いはこの掲載後に、誰かが龍之介に、山本の記載部分について何らかの揶揄を述べた可能性も高い。人によっては最後の一文を省略すればよいと考えるかも知れぬが、それでは不十分である。アインシュタインを招待したのが山本である以上、最後のカットだけでも山本への皮肉が消えるとは言えない。削除するなら、「もし噓と思ふ人は日本に於けるアインシユタイン博士、或はその相對性原理の歡迎されたことを考へるが好い。あれは神祕主義の祭である。不可解なる莊嚴の儀式である。何の爲に熱狂したのかは「改造」社主の山本氏さへ知らない。」の箇所全文を取り除く必要がある。ところがそうすると、「神祕主義」が最先端の科学認識にさえ色濃く影を落としているという本章のキモの部分が失われて、アフォリズムが如何にも卑小となり、腰砕けにさえなってしまう。さればこそ、龍之介はこれを切抜きから敢えて外したのではあるまいか?

・「スウエデンボルグ」(Emanuel Swedenborg  エマヌエル・スヴェーデンボリ 一六八八年~一七七二年)はスウェーデンのバルト帝国出身の博物学者・神学者で、現在、本邦ではその心霊学や神智学関連の実録や著述(主要なものは大英博物館が保管)から、専ら霊界関係者に取り沙汰される傾向があるが、その守備範囲は広範で魅力的である。以下、ウィキの「エマヌエル・スヴェーデンボリ」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。父は『ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した』人物で、エマヌエルは『その次男としてストックホルムで生まれ』た。『十一歳のときウプサラ大学入学。二十二歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。二十八歳のときカール十二世により王立鉱山局の監督官になる。三十一歳のとき貴族に叙され、スヴェーデンボリと改姓。数々の発明、研究を行ないイギリス、オランダなど頻繁にでかける』。『一七四五年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、スヴェーデンボリという人材を重視した王室の庇護により、回避された。 神秘主義者への転向はあったものの、スウェーデン国民及び王室からの信用は厚く、その後国会議員にまでなった。国民から敬愛されたという事実は彼について書かれた伝記に詳しい。スヴェーデンボリは神学の書籍の発刊をはじめてからほぼイギリスに滞在を続け、母国スウェーデンに戻ることはなかった』。『スヴェーデンボリは当時 ヨーロッパ最大の学者であり、彼が精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学などで、結晶学についてはスヴェーデンボリが創始者である。 動力さえあれば実際に飛行可能と思えるような飛行機械の設計図を歴史上はじめて書いたのはスヴェーデンボリが二十六歳の時であり、現在アメリカ合衆国のスミソニアン博物館に、この設計図が展示保管されている』。『その神概念は伝統的な三位一体を三神論として退け、サベリウス派に近い、父が子なる神イエス・キリストとなり受難したというものである。ただし聖霊を非人格的に解釈する点でサベリウス派と異なる。聖書の範囲に関しても、正統信仰と大幅に異なる独自の解釈で知られる。 またスヴェーデンボリはルーテル教会に対する批判を行い、異端宣告を受けそうになった。国王の庇護によって異端宣告は回避されたが、スヴェーデンボリはイギリスに在住し生涯スウェーデンには戻らなかった。 彼の死後、彼の思想への共鳴者が集まり、新エルサレム教会(新教会 New Church とも)を創設した』。『スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも若干散見され、例えばイマヌエル・カントは「視霊者の夢」中で彼について多数の批判を試みている。だがその批判は全て無効だと本人が後年認めた事は後述する。フリードリヒ・シェリングの「クラーラ」など、スヴェーデンボリの霊的体験を扱った思想書も存在する。三重苦の偉人、ヘレン・ケラーは「私にとってスヴェーデンボリの神学教義がない人生など考えられない。もしそれが可能であるとすれば、心臓がなくても生きていられる人間の肉体を想像する事ができよう。」と発言している』。『彼の神秘思想は日本では、オカルト愛好者がその神学を読む事があるが、内容は黒魔術を扱うようなものではないため自然にその著作物から離れていく。その他、ニューエイジ運動関係者、神道系の信者ら』『の中にある程度の支持者層があり、その経典中で言及されることも多い。新エルサレム教会は日本においては東京の世田谷区にあり、イギリスやアメリカにも存在する』。『内村鑑三もその著作物を読んでいる』が、彼及びその支持者の思想を『異端視する向きが』あることも事実で、『一例として、日本キリスト教団の沖縄における前身である沖縄キリスト教団では、スウェーデンボルグ派牧師(戦時中の日本政府のキリスト教諸教会統合政策の影響からこの時期には少数名いた)が、戦後になって教団統一の信仰告白文を作ろうとしたところ、米国派遣のメソジスト派監督牧師から異端として削除を命じられ、実際削除されるような事件も起きている』と記す。スヴェーデンボリは『神の汎神論性を唱え、その神は唯一の神である主イエスとしたのでその人格性を大幅に前進させており、旧来のキリスト教とは性格的・構造的に相違がある。スヴェーデンボリが生前公開しなかった「霊界日記」において、聖書中の主要な登場人物使徒パウロが地獄に堕ちていると主張したり』、『同様にプロテスタントの著名な創始者の一人フィリップ・メランヒトンが地獄に堕ちたと主張はした。だが、非公開の日記であるので、スヴェーデンボリが自身で刊行した本の内容との相違点も多い。この日記はスヴェーデンボリがこの世にいながら霊界に出入りするようになった最初の時期の日記であるため、この日記には、文章の乱れや、思考の混乱なども見られる。なお、主イエスの母マリアはその日記』『に白衣を着た天国の天使としてあらわれており、「現在、私は彼(イエス)を神として礼拝している。」と発言している』。『なお、スヴェーデンボリが霊能力を発揮した事件は公式に二件程存在し、一つは、ストックホルム大火事件、もう一つはスウェーデン王室のユルリカ王妃に関する事件で』、これは心霊学の遠隔感応として、よく引き合いに出されるエピソードである。『また、教義内の問題として、例えば、霊界では地球人の他に火星人や、金星人、土星人や月人が存在し、月人は月の大気が薄いため、胸部では無く腹腔部に溜めた空気によって言葉を発するなどといった、現代人からすれば奇怪でナンセンスな部分もあり、こうした点からキリスト教徒でなくても彼の著作に不信感も持ってみる人もいる』。『彼の生前の生き方が聖人的ではない、という批判もある。例えば、彼より十五歳年下の十五歳の少女に対して求婚して、父親の発明家ポルヘムを通して婚姻届まで取り付けておきながら少女に拒絶された。また、生涯独身であったわけだが、若い頃ロンドンで愛人と暮らしていた時期がある、とされている。しかし主イエスから啓示を受けた後、女性と関係したという歴史的な事実は全くない。次にスヴェーデンボリは著作「結婚愛」の中で未婚の男性に対する売春を消極的に認める記述をしている。倫理的にベストとはいえないかもしれないが、基本的にスヴェーデンボリは「姦淫」を一切認めていない。一夫多妻制などは言語道断であり、キリスト教徒の間では絶対に許されないとその著述に書いている』。『スヴェーデンボリは聖書中に予言された「最後の審判」を一七五七年に目撃した、と主張した。しかし現実世界の政治・宗教・神学上で、その年を境になんらかの変化が起こったとは言えないため、「安直である」と彼を批判する声もある』。『哲学者イマヌエル・カントは、エマヌエル・スヴェーデンボリについて最終的にこう述べている。『スヴェーデンボリの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と。』(K・ ペーリツ編「カントの形而上学講義」から)。哲学者ラルフ・ワルド・エマソンも、エマヌエル・スヴェーデンボリの霊的巨大性に接し、カントと同様、その思想を最大限の畏敬の念を込めて称えている』。以下、スヴェーデンボリから影響を受けた著名人として、ゲーテ・バルザック・ドストエフスキイ・ユーゴー・ポー・ストリンドベリ・ボルヘスなどの名を挙げてある。『バルザックについては、その母親ともに熱心なスヴェーデンボリ神学の読者であった。 日本においては、仏教学者、禅学者の鈴木大拙がスヴェーデンボリから影響を受け、明治四十二年から大正四年まで数年の間、スヴェーデンボリの主著「天国と地獄」などの主要な著作を日本語に翻訳出版しているが、その後はスヴェーデンボリに対して言及することはほとんどなくなった。しかし彼の岩波書店の全集には、その中核としてスヴェーデンボリの著作(日本語翻訳文)がしっかり入っている』とある(国立国会図書館近代デジタルライブラリーでエマヌエル・スヴェーデンボリ鈴木大拙訳「天界と地獄」が画像で読める)。因みに、夏目漱石「こゝろ」には彼の名がKの口から洩れる名として登場する(リンク先は私の初出復元版のブログ版)。

・「ベエメ」ドイツの神秘主義(神秘神学)者ヤーコプ・ベーメ(Jakob Böhme 一五七五年~一六二四年)。私は彼について今日まで全く知らず、著作も読んだことがないので(言っておくが、私の注は先ず私のためにこそある。無学な私自身の疑問を氷解し得ずして如何して他者に供する注たらんや、である)、やや長くなるが、ウィキの「ヤーコプ・ベーメ」より大々的に引くことを許されたい(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『ルター派教義を背景とし、パラケルススら新プラトン主義に影響を受けた独特の自然把握と「神の自己産出」という哲学史上稀な概念の展開は、敬虔主義やドイツ観念論といった近世のドイツ思想だけでなく、近代の神秘学にも影響を与えている』。主著に「アウローラ」「シグナトゥーラ・レールム」「大いなる神秘」「キリストへの道」などがある。『一五七五年、北ドイツ・オーバーラウジッツのナイセ川流域の都市ゲルリッツの近郊、アルト・ザイデンベルク(Alt Seidenberg)に生まれ』、『靴職人としての修養を終えたベーメは、一五九九年以降』、『ゲルリッツで靴職人として働き、家庭を設ける』。『ベーメが著述を始めた時期は確定できないが、一六一二年最初の著作「アウローラ』」が完成する。ベーメはのちに書簡中で、この著述の根底にそれ以前の神秘体験があり、「十二年もの間それ(=神秘体験)に関わった」と述べる。正規の哲学教育のみならずギムナジウムでの中等教育をも受けていない靴職人にとってこの作業が困難を極めたことは容易に想像される。ベーメ自身もまた、この最初の著作が文体と内容の両方に渡って晦渋であることを認めているほどである』。『しかし同時に』、『この著作にはベーメの根本的思想の萌芽が現れていることも広く認められている。ベーメは上掲の書簡において「アウローラ」について「一冊より多くの書物、一つ以上の哲学が、しかもつねにより深められて生み出される」とも語っている。自己の神秘体験をつづった「アウローラ」によって一度は異端として非難され、休筆するものの、その後著述を再開する』。『ベーメははじめ己の体験の覚書として「アウローラ」を著し、公開する意図はなかった。しかし友人に乞われ』、『その手稿を貸し出すうちに、これを筆耕するものも出始め、「アウローラ」はベーメの交友範囲を越えて、ゲルリッツ市民に知られるようになった。神秘体験という個人的な幻視と、素朴なキリスト教信仰の合致から生まれた自然と人間の関係についてのこの著述は、しかし当時ゲルリッツの監督牧師であったグレゴール・リヒターにはルター派正統教義をおびやかすものとして認識された。リヒターは説教壇からベーメを異端思想の持ち主として非難し、これに呼応する市民は公然とベーメの自邸に攻撃をするなどし、ベーメの平穏な生活は脅かされた。この結果、ベーメが著述を以後しないこと、リヒターは教会においてベーメを非難することをやめるとの妥協が市の当局の仲裁によって定まり、ベーメは著述を控えることとなった』。『一方でベーメの「アウローラ」を好意的に受容する者も一定数存在した。その中には貴族階級の読書人もあり、ベーメの精神的支援者となるばかりでなく、ベーメに錬金術など当時の新プラトン主義的自然哲学思想を媒介するとともに、読書の機会を与えた。ベーメの著作に散見するラテン語はこのような友人たちからベーメが学んだものがほとんどであるが、パラケルススの著述については、これを直接読んだとベーメは証言しており、錬金術用語を「シグナトゥーラ・レールム」・「大いなる神秘」をはじめとする後の著作では大いに用いている。またこの読書はベーメに遅い年齢に達してではあるが、自己の著述を反省し』、『言葉を練る助けとなった』。『ベーメは和解の協約を守り新たな著述を行うことはなかったが、その後もリヒターは教会での攻撃をやめず、市民を扇動してベーメを悩ませた。また友人たちもベーメに「アウローラ」に続く著作を所望した。ベーメは自らの沈黙が平和をもたらさぬことを知るばかりでなく、この期間に熟成していった自己の思想をむしろ積極的に表明することが自己の使命であると確信するに到る。一六一八年』になって『ベーメは著述を再開し、一六二四年の死に至るまでの六年間に「シグナトゥーラ・レールム」を始めとする幾つかの大著、および付随する小論文、信奉者宛の書簡などで、精力的にその思想を語りだしていく』。『幾つかの小論を集めて出版を勧めるものがあり』、『一六二三年に「キリストへの道」を出版する。この著作は「アウローラ」同様、激しい議論と敵意の的となり、ベーメはその対応に追われて本格的な著述をする暇を取れないばかりか、ゲルリッツに家族を残してひとり退去し、ドレスデンに一時滞在することになる。しばらくドレスデンに滞在した後、ゲルリッツに戻ったベーメは病を得て没した』。『ベーメは生涯、自身の自覚としてはルター派の信仰に忠実でありつづけた。ベーメの思想の第一の背景としてはベーメが教会を通して受けた宗教教育が挙げられる。しばしば自然哲学として解釈されるその思想も、ベーメの意図としては晩年の著作の題名が示すように「キリストへの道」として語りだされている。しかしその思想はベーメが正規の教育を受けなかったがゆえに、伝統的なキリスト教の形而上学の神概念を超出している』。『ベーメの見たヴィジョンは万物の神的な実相とでもいうべきものであった。ベーメはあらゆる存在の中に神のドラマを見て、わたしたち人間すべては神の歓びの調べをかなでる楽器の弦であるという。「すべてのものは神である。」と言ってしまえばそれは単純な汎神論になる。しかしベーメの汎神論は決して単純ではない。名状しがたきヴィジョンをどうにか捉えようと特殊な用語を駆使し、神の現われをダイナミックに描写しようとする彼の思想は複雑難解なものである。その記述は神の起源にまでさかのぼる。神の奥の奥、三位一体の神の根源をベーメは無底と呼ぶ。無底とは底なきもの、他の何かによって根拠づけられることがなく、また底がないのであるから何かを根拠づけることもない』。『このどこまで行っても何もない無の中には他の「あるもの」を求めるあこがれがあるという。ただし、あこがれは無限に広がっており、中心もなければ形もない。あこがれの海、そこには何もないのだから何も見ず、何も映さない。いわばこれは目でない目、鏡でない鏡である。あこがれから外に向かっていこうとする運動を意志というが、この意志が無底の内に向かって収斂し、自分自身である無をつかむとき、無底のうちにかすかな底ができ、ここからすべてが始まる。意志は本質の駆動力であり、いかなる本質も意志なくしては生じないという』。『意志は底に立つことで外に向かうことができるようになる。底ができることによって無底が無底となり、目が目となり、鏡が鏡となる。あるものがあるものとして認識されるためには区別が必要なのである。ベーメによれば神ですら自己を認識するには神以外のものを必要とする。さて、中心と円周が明確となることによって智慧の鏡と呼ばれるものが生じる。鏡は精神(ガイスト)を受けとめ、すべてを映すが、それ自体は何かを産むことのない受動的なものである。智慧の鏡は別名ソフィアという。ソフィアは「受け入れるが産まない」という処女の性質をもつ無である。無であるというのはソフィアが存在から自由なものだからだ。この自由なるソフィアを見ようと意志は鏡をのぞきこみ、鏡に自分自身の姿を映す。ここで意志は欲望をおこし、イマギナチオ(想像)する。イマギナチオによって意志は孕み、精神としての神と被造物の原形が鏡において直観されるのである』。『これから神の欲求が外へと向かうことで世界が形成されるのだが、この後直接に我々が目にするような自然が創造されるというのではない。次いでベーメが語るのは、可視的自然の根源たる永遠の自然である。彼は七つの霊もしくは性質によって万物が形成されるという。性質(Qual)とは苦(Qual)であり源泉(Quelle)である。これは単なる語呂合にも思われるかもしれないが、これから述べるようにベーメにとって言葉やひびきは存在の本質と深く関わったものである。内容からすれば、存在がさまざまなかたちに分かれ、性質をもつということは始元の融合からの乖離として苦であるという意味にとれる』。『まず第一の性質、それは欲望であり、内側に引きこもる働きを持っている。渋さ、堅さとも表現される欲望は、自分自身を引きずり込み、濃縮して闇となる。既に無底の内で働いていたこの原理は自然の第一の原理である』。『第二の性質は第一のものと逆に外へ向かう運動、流動性。これはつきさして暴れ、引きこもる力に抗して上昇、逃走しようとする。この性質は「アウローラ」では』「甘さ」と呼ばれ、他では「苦さ」と呼ばれる。『第三は上の二つの力の張り合いである不安。内へ向かう力と外へ向かう力は互いに反発しあい、一方が強くなれば他方も強まるので安定することがない。それは相反する面が互いに運動する車輪の回転のようでもある。不安の輪の回転は限りなくエセンチア(存在物、本性)を生み出す。以上の三つの原理は第一原理、万物の質料の源である』。『さて、第四の性質は熱とか火花と呼ばれ、闇を焼き尽くして光を生じさせる。この原理によって前の第一原理の三性質、暗い火が明るい火へと転じ、死のうちから生命が現れる。不安の輪の残酷な回転が結果的に火の鋭さ、そして輝かしい生命を生む』。『第五の性質は光であり、熱から出たものでありながらも焼き尽くす破壊的な熱とは反対にやわらかく、優しい。この性質は歓びと恵みの原理であって、ここから五感(見、聞、感、味、嗅)が誕生する。愛に抱かれ、ここで統一された多様な力は再び外へ向かって広がりゆく』。『この広がり、すなわち第六の性質はひびき、音、そしてことばである。内にあったものがこの性質によって外へ顕わになり、語られるのである。ひびきは認識を可能にし、自然の理を明らかにして知と関係する。精神はここまで細分化しつつ展開してきたわけだが、理に至って自らの展開を十分に認識する』。『そして最後の第七性質においてこれまで展開してきたものに形が与えられる。このようにベーメにとっての世界の創造とは、神が一気に制作することではなく、神の想像の働きが自己を展開してゆくことである。その際否定的な要素が大きな役割を果たしているのに注目すべきである。世界が生き生きとしたものになるためには障害が不可欠なのである』。『ドイツ観念論の完成者ヘーゲルはベーメを「ドイツ最初の哲学者」と呼んだ。対立する力の働き合いの内に絶対者が自己を実現してゆくという彼の哲学はベーメの内にその原形を有していると言える。ただしヘーゲルはベーメの「混乱したドイツ語」には辟易していた。この項では概略を見てきたが実際にはベーメの思想はさらに複雑で、錬金術の特殊な用語や記号との対応があり、言葉の使用法は通常のものとは大きく離れている』。世界の内に「甘さ」や「苦さ」が働いていると言われても、『普通の人間は奇妙な印象を受けるだろう。彼が神秘学にかぶれた「無学な靴職人」とそしられるとしても、その晦渋な文章を考えれば理由がないわけではない』。『ところで現実の世界を見渡すとき、そこには悪があふれている。ベーメはこの悪の起源についても語る。伝統的な神学上の問題として、完全な善である神が世界を創造したというならなぜ』、『世界には悪が存在するのかというものがある』。『ベーメの神観では、神は純粋な善であるわけではなく、暗い面をも持っているわけだが、それが直接にこの世の悪の原因となっているわけではない。可視的自然の創造以前に創造された天使の世界に悪の起源があるというのである。天使は怒りの暗い火と愛の明るい火を精神の原理とするものとして創造された。怒りを愛に従わせることが善なのであるが、自由な意志にとっては逆も可能である。そして天使は自由な意志を持っていた。大天使のひとり、ルシファーは自由をマイナス方向に向けて用いた』。『第一性質と第二性質には悪が潜在的に存在していたが、ルシファーはこの二つの性質に対し自らが神たらんとするイマギナチオを向けたのである。ルシファーの神への反逆はマイナスの創造として自由のエネルギーを逆流させ、闇の鏡をつくりだす。闇の鏡はソフィアの鏡と異なって多様な虚像を映し出す。これが空想である。ルシファーは闇の鏡をのぞきこんで空想に踊らされ、ますますエゴを肥大化させる。かくして天使の国は怒りの暗い火が燃える地獄と明るい光の天国に分裂してしまう』。『しかし神は世界の混乱をそのままにしておかない。ルシファーの闇の創造に対して再び光の創造が発動する。創世紀第一章で神が「光あれ」と言ったところがこの創造である。ここで時間と空間、可視的自然、そして人間が創造される。最初の人間アダムは神が自己を実現してきた最後の到達点であって、その中にはすべてが見出され、天使にも勝るというまさに至高の存在である。当初のアダムは男と女の両方の性質を合わせ持つ完全な統一体であった。だが、アダムもやがて堕落する。神から愛され、自らも自らを愛する素晴らしきアダムを悪魔は手に入れたいと思った。悪魔はアダムを誘惑し、不完全なる多の世界にアダムの心を向かわせる』。『この堕落によりアダムの中の女性の部分である乙女ソフィアは天に帰ってしまった。それとともにアダムを中心として調和していた宇宙は統一を失って複雑な多の世界と化す。アダムは孤独となり、神はそれを憐れんで新たなる女性、エヴァを創造した。しかしエヴァはソフィアの完全な代理とはなりえない。アダムはエヴァの中にソフィアを求め、男女はこうして惹かれ合うようになるものの、性によって苦しみもするのである。

だが、アダムの堕落はルシファーのそれと違う点がある。ルシファーが自らの自由意志で神に反逆したのに対し、アダムはそそのかされて罠に落ちたに過ぎない。そして人間は時間の中の存在である。時間には対立するものを調停する働きがあるので、人間の罪は許される可能性があるのだ。それに対しルシファーは永遠の存在であるため、罪が贖われるということがない。神は堕落した人間を救うため、救世主キリストを遣わす。キリストはエヴァのソフィア化である処女マリアから生まれたので、アダムが喪失した男性-女性の両極性を持っている。いわばキリストとは第二のアダムである。キリストは堕落のそもそもの原因である自由意志を放棄し、完全な受動性のもとに十字架にかけられる。この第二のアダムたるキリストに倣うことで我々は救われるとベーメは述べている。キリストの十字架を背負い、すすんで迫害や嘲笑に会い殺されることで、火も焼き尽くすことができない新しい人間として生まれることができるという』とある。

・「三越の飾り窓」東京日本橋室町にある三越本店のショー・ウィンドゥは、岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、明治三五(一九〇二)年に『土蔵造りの店頭を飾窓に改造して以降、店頭にショー・ウィンドーを常設した』とある。「同時に又我々の信念も三越の飾り窓と選ぶところはない。我々の信念を支配するものは常に捉へ難い流行である」とは、まさに販売促進及び季節や流行によって一夜にして変貌することを文化知識のそれに揶揄したものである。

・「西施」現在の浙江省諸曁(しょき)の田舎娘であったが、会稽の恥を雪がんとする越王句践(こうせん)によって籠絡の道具として仇敵呉王夫差のもとへ送り込まれた悲劇の美女。文字通り傾国の美女である。

・「龍陽君」「ろうようくん」或いは「りゆう(りゅう)ようくん」と読む。中国の戦国時代、紀元前四世紀末頃の魏の公子。ウィキの「竜陽君」によれば、「戦国策」の「魏策」に出る『話では、竜陽君が哀王とともに釣りをしていた際、より大きい魚を釣って喜ぶ王に対して、竜陽君が涙を流した。王が涙の理由を尋ねると、竜陽君が答えて言うことに、「今、ご寵愛を受けている私も、より美しい者が現れると、王のご寵愛を失ってしまう。そのことを思うと悲しくて涙が出るのです」と。これを聞いた王の竜陽君への寵愛はさらに強まったという』とあり、『後代では男性同性愛(男色)を表す言葉の』一つとして『この人名が用いられた』と記し、皓星社「隠語大辞典」には、「男色」の漢語で、龍陽君(りゅうようくん)が魏王に君寵の長からんことを乞うたところが、魏王は誓つて美人を近づけるなと答えたという故事から出たとある。西施と並んでいるから、美女と思い込んでいた人も実は多いのではあるまいか。芥川龍之介にはしっかり、その手の手稿(「VITA SODMITICUS」(やぶちゃん仮題))も存在するのである。]

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