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2016/05/29

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  ユウゴオ

 

       ユウゴオ

 

 全フランスを蔽ふ一片のパン。しかもバタはどう考へても、餘りたつぷりはついてゐない。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」と、後の「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」「或資本家の論理」の全十一章で初出する。「ユウゴオ」「レ・ミゼラブル」(Les Misérables(不運な人・悲惨なる者):一八六二年完成。執筆開始は一八四五年で初期稿の題は Les Misères (不運・悲惨))で知られる、フランス・ロマン主義の詩人にして小説家、フランスの七月王政から第二共和政期には政治家でもあったヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor, Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)のこと。

 

・「一片のパン」「レ・ミゼラブル」の冒頭(作品内時制では一八一五年設定)に登場する主人公四十六歳の男ジャン・ヴァルジャン(Jean Valjean)は、貧しさゆえ、二十七の時にたった一本のパンを盗んだ罪によって十九年も服役していたことが明かされる。因みに、「レ・ミゼラブル」は黒岩涙香による翻案が「噫無情」(ああむじょう)の題で明治三五(一九〇二)年から翌年にかけて黒岩が創刊した日刊新聞『萬朝報(よろずちょうほう)』に連載され、ユーゴーの名も広く知れ渡ることとなった(当時、芥川龍之介十歳)。私の海外文学の幼少時体験の古層にある名作である。ウィキの「レ・ミゼラブル」がよく書けている。芥川龍之介は管見する限り、少なくとも、ユーゴーの反体制の気骨(私の電子テクスト「骨董羹壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文」の「俗漢」或いはそれを勝手現代語翻案した私の芥川龍之介「骨董羹寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案附註した「骨董羹(中華風ごった煮)寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと」という無謀不遜な試みの「俗漢――俗物」を読まれたい)や、大衆に対して持つ言葉の力強さという点では、非常に高く評価していたように読める(条件付きながらもそれがよく表われているのは『「改造」プロレタリア文藝の可否を問ふ』であろう(大正一二(一九二三)年二月発行の『改造』に「階級文藝に對する私の態度」で発表後、単行本「百艸」で改題)。そこで龍之介は彼を頼山陽と並らべ、国民とともにその『悲喜を同うする』ことは軽蔑してよいものではない、文章の彫琢に精緻を凝らすよりは彼らのそうした立位置は遙かに『江東なることを信ずるものなり』と断言している。芸術性の高さは別とするとしても、「文藝一般論」の「三 内容」(大正一四(一九二五)年四月文藝。春秋社編『文藝講座』中の掲載)、『レ・ミゼラブル」は兎に角通俗小説としても成功すると言はなけでばな』らぬ(累加の係助詞「も」に着目。ここは文芸的価値が高い小説と通俗小説を対比して解説している箇所である)ともあり、また、「點心」の時弊一つ(単行本化の際には削除。リンク先は私の初出復元版)でも『もし作品の鑑賞上、作家の傳記が役立つとすれば、それは作品が與へた感じに、脚註を加へるだけのものである。この限界を守らぬ評家は、たとひ作品の價値如何に全然盲目でないにしても、すぐに手輕な「鑑賞上の浪曼主義」に陷つてしまふ。惹いては知見に囚はれる餘り、味到の一大事を忘却した、上の空の鑑賞に流れ易い。私はかう云ふ弊風が、多少でも見えるのを好まぬのである。ユウゴオ、芭蕉、ベエトオフエンなぞが輕々に談られるのを好まぬのである』と芭蕉・ベートーヴェンの巨頭と一緒の挙げて警告しているほどである。しかし、龍之介は彼の作品の芸術上の輝きについては強いて賞揚していない。そうしたある種の、時に読み進めるに退屈を感じるような部分を、フランス・パン特有の、あのバターなしだとそのうちに食い飽きてしまうパサついた感じで出そうとしたのかも知れない。]

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