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2016/05/20

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 武器

 

       武器

 

 正義は武器に似たものである。武器は金を出しさへすれば、敵にも味方にも買はれるであらう。正義も理窟をつけさへすれば、敵にも味方にも買はれるものである。古來「正義の敵」と云ふ名は砲彈のやうに投げかはされた。しかし修辭につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、滅多に判然したためしはない。

 日本人の勞働者は單に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。これは正義に反してゐる。亞米利加は新聞紙の傳へる通り、「正義の敵」と云はなければならぬ。しかし支那人の勞働者も單に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命ぜられた。これも正義に反してゐる。日本は新聞紙の傳へる通り、――いや、日本は二千年來、常に「正義の味方」である。正義はまだ日本の利害と一度も矛盾はしなかつたらしい。

 武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家の雄辯である。武后は人天を顧みず、冷然と正義を蹂躙した。しかし李敬業の亂に當り、駱賓王の檄を讀んだ時には色を失ふことを免れなかつた。「一抔土未乾 六尺孤安在」の雙句は天成のデマゴオクを待たない限り、發し得ない名言だつたからである。

 わたしは歷史を飜へす度に、遊就館を想ふことを禁じ得ない。過去の廊下には薄暗い中にさまざまの正義が陳列してある。靑龍刀に似てゐるのは儒教の教へる正義であらう。騎士の槍に似てゐるのは基督教の教へる正義であらう。此處に太い棍棒がある。これは社會主義者の正義であらう。彼處に房のついた長劍がある。あれは國家主義者の正義であらう。わたしはさう云ふ武器を見ながら、幾多の戰ひを想像し、をのづから心悸の高まることがある、しかしまだ幸か不幸か、わたし自身その武器の一つを執りたいと思つた記憶はない。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年六月号『文藝春秋』巻頭に前の「小兒」と併載。第一段落の「ほんとう」はママ(なお、私の『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』では注を附さない原則であったために、正しい歴史的仮名遣の「ほんたう」に訂しておいた)。

 

・「日本人の勞働者は單に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた」新潮文庫の神田由美子氏の注に、先立つ十年前の一九一三(大正二)年頃、アメリカ『カリフォルニア州議会が中国人移民排斥法を日本移民にも適応し、日本人労働者は、パナマから退去を命ぜられた』(一九〇三年にパナマ地域はコロンビアから独立を果たし、初代大統領にマヌエル・アマドールが就任したが、新たに制定された憲法ではパナマ運河地帯の幅十六キメートルの主権は永久にアメリカ合衆国のものと認めるという規定があったため、以降、パナマは長くアメリカ合衆国によって事実上支配され、運河地帯の主権を獲得したアメリカ合衆国によって運河建設は進められ、一九一四(大正三年相当)年にパナマ運河は開通している。ここはウィキの「パナマ」に拠った)。アメリカでの『排日の機運は一九〇六年』(明治三十九年相当)の『サンフランシスコでの日本学童隔離問題あたりから高ま』っており、一九〇八年(明治四十一年相当)には『日米紳士協定で、日本人移民労働者に厳しい制限が加えられ、』本章発表の翌一九二四年(大正一三年相当)には『排日移民法成立によって、日本人は米国から完全にしめだされた』とある(最後の部分は新たな日本人のアメリカ移民が実質上、出来なくなったことを指す)。但し、この「排日移民法」というのは日本での通称であって、「一九二四年移民法」(Immigration Act of 1924)又は「ジョンソン=リード法」(Johnson–Reed Act)と呼ぶのが正しく、しかも独立した法律なのではなく、既存の移民・帰化法に第十三条C項(移民制限規定)を修正・追加するために制定された「移民法の一部改正法」のことを指す。日本人移民のみを排除した法律ではなく、各国からの移民の年間受け入れ上限数を一八九〇年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その二%以下に抑えるというもので、一八九〇年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限することを目的としたものであるので注意が必要である(ここはウィキの「排日移民法に拠った)。

・「支那人の勞働者も單に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命ぜられた」岩波新全集の山田俊治氏の注に、この前年の大正一一(一九二二)年三月十四日附『「東京新聞」は、内地労働者の失業問題に悩む折から、中国人労働者に対して、』二十三年も前の明治三二(一八九九)年に出された『外国人労働者に関する勅令によって退去を命じたと報じている』とし、神田氏の注では、はっきりと『千住(東京都の荒川区及び足立区の地名)に住む中国人労働者を退去させた』と注してある。

・「日本は二千年來」本章が発表された大正一二(一九二三)年を百の桁で切り上げたに過ぎないものと思われる。因みに神武天皇即位紀元の皇紀では二五八四年であるが、実際に皇紀が多用されるようになるのは、軍国主義化が進んだ昭和に入ってからで、当時の一般認識であったとは言えない。ここを龍之介が「二千五百年來」としていたら、もっとアイロニーは強くなったろうにと、寧ろ、少し残念な気はする。

・「武后」中国、唐朝第三代高宗の皇后であった則天武后(六三〇年頃或いは六二四年頃~七〇五年)。後に自ら「周」朝を建て、危うく唐が滅びかけた。山西省の大きな材木商で唐朝の創業に貢献して栄進した男の娘で、美貌で十四歳の時に太宗の後宮に入り、帝の死後、尼となっていたところを高宗に見出され、寵を得たと伝えられる。姦計を用いて皇后王氏らを陥れ、六五五年、皇后となった。この立后には元勲長孫無忌(ちょうそんむき)一派とそれに対抗する官僚グループの対立が絡んでいたが、彼女は文芸と吏務に長じた新興官僚を巧みに登用操縦し、旧貴族層を排斥した。数年の後に高宗が健康を害するや、自ら政務を親裁し、独裁権力を振るうに至り、六八三年に高宗が病没すると、自分の子中宗・睿(えい)宗を次々と帝位につけ、彼女に反抗して挙兵した李敬業(後注参照)や唐の皇族らを武力で打倒、同族を重用した。さらに御史(ぎょし)や隠密を使って大規模な弾圧を行って政権強化に努めた。一方、女徳をたたえる仏経を偽作、遂には六九〇年、国号を「周」と改め、自ら皇帝を称して中国史上唯一の女帝となり、約十五年に亙って全国を支配した。周の伝統に従って暦法・官名などを改正し、また十数個の新字(則天文字)を使わせるなどの人心一新を図り、狄(てき)仁傑・魏元忠といった名臣をよく用いはしたものの、末期には張易之(えきし)兄弟ら寵臣が政治を乱し、七〇五年、張柬之(かんし)らのクーデターによって中宗の復位と唐の再興が成され、その後、間もなく高齢で病死している。彼女は悪辣な策略や残酷な弾圧に加えて、陽道壮偉(巨根)の男を求め、妖僧薛(せつ)懐義や張易之兄弟との醜聞を残すなど、非難の的となる反面、自ら書をよくし、学芸を庇護するとともに、有能な人材を抜擢して新興階層を受け入れ、政治・社会・文化の各方面に亙って新機運を齎した点は高く評価される。死後、夫高宗と長安の北西の乾(けん)県にある梁山の乾陵に合葬されている(小学館「日本大百科全書」の池田温氏の解説に拠った)。

・「人天」「じんてん」でよかろう(類聚版は「じんてん」とルビする)。人間界の人と天上界の神、転じて、人間界と天上界を指し、全世界全宇宙という謂い。仏教用語では「にんでん」或いは「にんてん」などと読むが、如何にも辛気臭い読みで私は採らない。

・「李敬業の亂」六八四年に眉州刺史英公であった李敬業(六三六年~六八四年)が賄賂事件に連座させられて柳州司馬に左遷されたのを恨み、中宗の復位を名目として則天武后に反旗を翻して失敗、殺された事件。

・「駱賓王」(六四〇年?~六八四年?)「らくひんわう(おう)」。我々は概ね、高等学校の漢文の文学史で覚えさせられた「初唐の四傑」の一人。ウィキの「駱賓王」によれば、『婺州義烏(浙江省義烏市)の出身。初めから落魄し、好んで博徒と交わり、性格は傲慢・剛直。高宗の末年に長安主簿となり、ついで武后の時に数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷される。出世の望みを失い、官職を棄てて去った』。六八四年に『李敬業が兵を起こすと、その府属となり』、『敬業のために檄文を起草して武后を誹謗、その罪を天下に伝えた。武后はその』檄(げき:敵の罪悪などを挙げて、自分の信義・意見を述べ、公衆に呼び掛けて決起を促すために作成した文書のこと)を手に入れて読ませ、『「蛾眉敢えて人に譲らず 孤眉偏に能く主を惑わす」のあたりでは笑っていたが』、「一抔土未乾、六尺孤安在」(後注参照)の句に至って、『愕然としてその作者の名を問い、駱賓王であることを知ると「このような才ある者を流落不遇にしたのは宰相の過ちである」と言ったという。敬業の乱が平定された後は、亡命して行方が知れなくなった(一説には誅殺されたとも)。銭塘の霊隠寺に住んでいたという伝説もあり、霊隠寺と題する詩もある』。僅か七歳から『良く詩を賦し、成長してからは五言律詩にその妙を得た。ことにその「帝京篇」は古今の絶唱とされる。好んで数字を用いて対句をつくるので「算博士」の俗称がある。武后は駱賓王の文を重んじ、詔してその文章の数百編を集めて郄雲卿に命じ編纂させたのが』、「駱丞集」で、『頌・賦・五七言古・五律・排律・絶句・七言絶句・啓・書・叙・雑著の』十一項目に『分かれて、作品が収められている』とある。

・「一抔土未乾 六尺孤安在」駱賓王の檄は邦文サイトでは見出せない。中文サイトのそれらしいものを加工したものが、以下の通り。

   *

僞臨朝武氏者、人非溫順、地實寒微。昔充太宗下陳、嘗以更衣入侍、洎乎晩節、穢亂春宮、密隱先帝之私、陰圖後庭之嬖。入門見嫉、蛾眉不肯讓人、掩袖工讒、狐媚偏能惑主。踐元后於翬翟、陷吾君於聚麀。加以虺蜴爲心、豺狼成性、近狎邪僻、殘害忠良、殺姊屠兄、君鴆母。人神之所同嫉、天地之所不容。猶復包藏禍心、窺竊神器。君之愛子、幽之於別宮、賊之宗盟、委之以重任、嗚呼、霍子孟之不作、朱虛侯之已亡。鷰啄皇孫、知漢祚之將盡、龍漦帝后、識夏廷之遽衰。

敬業、皇唐舊臣、公侯種胤、奉先君之成業、荷本朝之舊恩。宋微子之興悲、良有以也、袁君山之流涕、豈徒然哉、是用氣憤風雲、志安社稷、因天下之失望、順宇之推心、爰舉義旗、誓淸妖孽。

南連百越、北盡三河、鐵騎成群、玉舳相接。海陵紅粟、倉儲之積靡窮、江浦黃旗、匡復之功何遠。班聲動而北風起、劍氣衝而南斗平。喑嗚則山嶽崩、叱吒則風雲變色。以此制敵、何敵不摧、以此圖功。何功不克。

公等或家傳漢爵、或地協周親、或膺重寄於爪牙、或受顧命於宣室。言猶在耳、忠豈忘心、一抔之土未乾、六尺之孤何託。倘能轉禍爲福、送往事居、共立勤王之師、無廢舊君之命、凡諸爵賞、同裂山河。請看今日之域中、竟是誰家之天下。

   *

この「一抔土未乾 六尺孤安在」は「一抔(いつぽう)の土(つち)未だ乾かず 六尺(りくせき)の孤(こ)安(いづ)くにか在(あ)る」と読む。「一抔」は死者の墳墓にかけた一掬いの土の意。高宗を葬った乾陵におかけ申し上げた土のこと。「六尺の孤」は未成年の孤児の謂い。「六尺」は一・四メートル相当で、これを十四、五歳の身長とし、転じて年齢とする説、或いは一尺は二歳半の謂いでもあることから、十五歳とする説などがあるが、ここは単に「子」の謂いでよかろう。孰れにせよ、ここは高宗の子で実子である中宗や睿宗のことであり(「子」としたのは二人とも李敬業の乱当時は二十を有に越しているからである)、広義には皇帝の「赤子」たる当の詩人に代表される路頭に迷っている国民総ての含みであろう。即ち――亡き帝の土はいまだに乾いてはいない。……残された孤児は一体どこにどうして居られるというのか?――の謂いである。

・「雙句」「さうく(そうく)」。対句。

・「天成」「てんせい」。ここは「生まれつき」の意。

・「デマゴオク」デマゴーグ(ドイツ語:Demagog)は、ウィキの「デマゴーグ」によれば、古くは古代ギリシアに於ける煽動的な民衆指導者のことを指す。『英語ではdemagogueであり、rabble-rouser(大衆扇動者)とも呼ばれ』、『民主主義社会に於いて社会経済的に低い階層の民衆の感情』・恐れ・偏見・無知に『訴える事により』、権力を得』、且つ、『政治的目的を達成しようとする政治的指導者を言う。デマゴーグは普通、国家的危機に際し慎重な考えや行いに反対し、代わりに至急』且つ『暴力的な対応を提唱し』、『穏健派や思慮を求める政敵を弱腰と非難する。デマゴーグは古代アテネの時代より民主主義社会に度々現れ、民主主義の基本・原理的な弱点、則ち究極的な権限は民衆にありその中でより大きな割合を占める人々の共通の願望や恐れに答えさえすれば(それらがどの様なものでも)政治的権力を得られるという点を利用した』とするが、筑摩全集類聚版では、『古代ギリシャの民主政治の指導者 Demagogos から出た言葉で本来は悪い意味ではなかった』と結ぶ。ここは確かにそう附したくなる心情が分かる。

・「飜へす」「ひるがへす」。書物をつま開いては再度、見直す、というニュアンス乍ら、「飜」にはそうした意味はない。されば、いい加減に書物を「ひっくり返す」ように歴史をいい加減に見てみると、という謂いであろうと私は解釈する。

・「遊就館」「いふしうくわん(ゆうしゅうかん)」は現在の東京都千代田区九段北にある靖国神社(明治二(一八六九)年創建)境内に併設された同社の祭神ゆかりの資料を集めた宝物館。明治一五(一八八二)年に開館している。ウィキの「遊就館によれば、『幕末維新期の動乱から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る戦没者、国事殉難者を祭神とする靖国神社の施設として、戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示している』。『日本における「最初で最古の軍事博物館」』で、『「遊就館」という名称は、『荀子』勧学篇の「君子居必択郷遊必就士」(くんしはおるにかならずきょうをえらびあそぶにかならずしにつく)に拠る』。『靖国神社の祭神の霊を慰め、その徳を頌するため絵馬堂を兼ねて祭神の遺物を陳列する所とし』て、明治一一(一八七八)年に『陸軍卿・山県有朋その他の主唱によって西南戦争の際に献納された華族の恤兵金の一部で建築に着手』、四年後に『幕末維新の新政府軍(官軍)戦没者ゆかりの品を展示する目的で開館』した。『日清戦争や日露戦争を経て』、明治四三(一九一〇)年には『明治天皇の勅令「武器ノ沿革ヲ知ルヘキ物件ヲ蒐集保存シ軍事上ノ参考ニ供スル所トス」』が発布されて、『第一次世界大戦を経て』、『展示資料は増加し、施設も逐次増築されたが』、本章発表の大正一二(一九二三)年の九月の『関東大震災で損壊。翌年に仮館を建設し』、昭和七(一九三二)年に再建されたとある。龍之介がここで描いたものが今も展示されているなら、何時か見に行ってもよい気はしている。
 
・「をのづから」はママ。]

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