芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 地獄
地獄
人生は地獄よりも地獄的である。地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の與へる苦しみは不幸にもそれほど單純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外樂樂と食ひ得ることもあるのである。のみならず樂樂と食ひ得た後さへ、腸加太兒の起ることもあると同時に、又存外樂樂と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順應するのは何びとにも容易に出來るものではない。もし地獄に墮ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年三月号『文藝春秋』巻頭に前の「政治的天才」二章と「戀は死よりも強し」との全四章で初出する。私があらゆる世のアフォリズムの中でも(芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中で、では、ない、ので注意されたい)殊の外、偏愛するアフォリズムである。私はしばしば、この冒頭の「人生は地獄よりも地獄的である。」という一文を、何処にあっても心の中で呟いている自分を見出すのである。
底本後記によれば、初出では最後の一文が、
況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまひさうである。
となっている。改稿は正しい。
・「地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである」冒頭から辛気臭いことを言うが、「地獄」と言っておいてその例として「餓鬼道」(がきだう(がきどう))を出すのは厳密には正しい叙述ではない。仏教に於ける浄土に対するところの、ありとある生きとし生ける衆生(しゅじょう)が生死(しょうじ)を繰り返すところの「六道(ろくどう)」は、最下層の地獄道に始まって餓鬼道と畜生道(以上を「三悪道」と称する)があり、その上に修羅道・人間道・天上道(この三つを「三善道」と称する)であって、「餓鬼」道と「地獄」道は自ずと異なる世界だからである。「地獄」道は謂わずもがなであるが、ウィキではシンプルな「地獄」よりも「八大地獄」の記載の方が詳述を極めるのでお薦めである。一応、概要を前者に基づくと、死後、人間は三途の川を渡って閻魔をはじめとする十王(初七日から順に秦広王 ・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成(へんじょう)王・泰山王(四十九日目ここまでが七日目毎)・平等王(百か日目)・都市(とし)王(一周忌目(一年後))・五道転輪王(三回忌(二年目))の計七回の裁き(十全に手厚く冤罪を防ぐように七審制を採っていて我々の現世である人間道の冤罪だらけのそれよりも遙かに完全無欠な理想の司法制度であると言える)を『受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされる。地獄にはその罪の重さによって服役すべき場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあるという。そして服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされる』のである。『衆生が住む閻浮提』(えんぶだい)の下方、四万由旬(ゆじゅん:古代インドに於ける長さの単位で梵語 yojana(ヨージャナ)の音写であるが、当時は度量衡が統一されておらず、厳密な定義は出来ない。一般的には七キロメートル、十一・三から十四・五キロメートル前後とされる)を『過ぎて、最下層に無間地獄(むけんじごく)があり、その縦・広さ・深さは各』二万由旬ある。『この無間地獄は阿鼻地獄と同意で、阿鼻はサンスクリット avici を音写したものとされ、意味は共に「絶え間なく続く(地獄)」である』。『その上の』一万九千由旬の位置に『大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活の』七種の『地獄が重層しているという。これを総称して八大(八熱)地獄という。これらの地獄にはそれぞれ性質があり、そこにいる衆生の寿命もまた異なるとされる』。また、この八熱地獄の』四面には四つの門があり、その門外にまた各四種の『小地獄があり、これを合して十六遊増地獄という(四門地獄、十六小地獄ともいう)。八熱地獄と合せ』ると実に『百三十六地獄となる。また八熱地獄の横に八寒地獄または十地獄があるともいわれる』。『また、山間廣野などに散在する地獄を孤独地獄という』とある。但し、これら地獄思想は主に中国で形成された偽経に基づいて細述具象化されていったもので、仏陀自身は悟りを得ない死後の世界は永遠に続く絶対の闇としてしか語っていない(その方が実は恐ろしいのだが)はずである。
一方、一般に分かり易い「餓鬼道」はというと、生前に贅沢をした者が落ちる所とされ、今少し正確に規定するなら、生前に於いて強欲で嫉妬深く、物を惜しみ(吝嗇で他者に施しをしない謂い)、常に貪る心やそうした行為を恥じることなく平然として来た者が死後に生まれ変わる世界とされている(但し、少なくとも「餓鬼草紙」などを見る限りでは、一部の「餓鬼道」は現世とパラレルに存在する或いは通底している世界であって、隣りに餓鬼が居ても見えないだけという感じもし、その方がより変化に富んでいて面白いと個人的には思っている)。「餓鬼道」の世界は常に飢えと乾きに苦しみ、食物や飲物が眼前にあってもそれを手に取ると、忽ち火に変わってしまい、永遠に植え続けるとされる(より細かなバラエティに富んだ「餓鬼道」の各所案内はウィキの「餓鬼」に詳しいので、是非とも先の「八大地獄」ともども、事前によく勉強されておかれるとよい)。
・「腸加太兒」「ちやうかたる(ちょうカタル)」と読む。英文科の龍之介はルビを振るとすれば、「カタル」とカタカナ表記でしたであろう。カタル(英語:catarrh)は、『感染症の結果生じる粘膜腫脹と、粘液と白血球からなる濃い滲出液を伴う病態のこと。カタルは通常、風邪、胸部疾患による咳に関連して認められるが、アデノイド、中耳、副鼻腔、扁桃、気管支、胃、大腸に出現することもある。カタル性滲出液は排出されることもあるが、狭窄とともに管腔を閉塞させたり、慢性化したりすることもある』。消化器系では急性胃炎の方がよく知られているいるが、ここは「腸」と明記されているから大腸で起こる「大腸カタル」としておくが、龍之介自身をしつこく襲った実際のそれは多くは胃炎(それも神経性の)の方であったろうとは思う。
・「針の山」地獄の最下層に位置するとされる阿鼻地獄や無間地獄のガイドに出る剣樹・刀山がモデルであろう。
・「血の池」原始仏典の一つとされる「長阿含経(じょうあごんきょう)」に八大地獄に付随する小地獄の一つとして挙げる「膿血」地獄辺りが濫觴であろうか。
・「跋渉」「ばつせふ(ばっ しょう)」は、原義は山を越え、水を渡ることで、いろいろな所を歩き回ること。散策。ハイキング。]
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