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2016/05/22

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 告白

 

       告白

 

 完全に自己を告白することは何人にも出來ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出來るものではない。

 ルツソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸々の彼自身は懺悔錄の中にも發見出來ない。メリメは告白を嫌つた人である。しかし「コロンバ」は隱約の間に彼自身を語つてはゐないであらうか? 所詮告白文學とその他の文學との境界線は見かけほどはつきりはしてゐないのである。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年八月号『文藝春秋』巻頭に次の「人生――石黑定一君に――」とそれに続く二篇の「又」(「人生」)の計四章で初出する。

 

・「ルツソオ」ジュネーヴ共和国に生まれてフランスで活躍し、「学問芸術論」(Discours sur les sciences et les arts (1750))によって人為的文明社会を批判して『自然に還れ』と主張し、「エミール、又は教育について」(Émile, ou De l'éducation (1762))では知性偏重教育を批判し、「社会契約論」(Du Contrat Social ou Principes du droit politique (1762))で「人民主権」を展開、フランス革命に大きな影響を与えた哲学者で作家のジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau 一七一二年~一七七八年)は私の生理的嫌悪の絶対対象である。高校の「倫理社会」で、彼の私生活のエピソードの話を聴き、それが脳裏に固着したまま、私のルソー嫌いは四十年以上定着し続け、彼の如何なるありがたいお言葉も右から左へ抜け、私の心を全く動かさないのだから、仕方がない。ウィキの「ジャン=ジャック・ルソー」によれば、『私生活においては、マゾヒズムや露出癖、晩年においては重度の被害妄想があった。こうした精神の変調の萌芽は若い頃からあり、少年時代に街の娘たちに対する公然わいせつ罪(陰部を露出)で逮捕されかかった。更に、自身の』五人の『子供を経済的事情と相手側の家族との折り合いの悪さから孤児院に送った。自身の著書『告白』などでそれらの行状について具体的に記されている』とあるが、私の最大の嫌悪はこの五人の子の子棄て(孤児院というのは我々の認識とは異なり、単なる子棄て場に過ぎない)の行為にある。こんな男は、たとえその口をついて出る言葉が皆、御説御尤もであっても、人非人以外の評価を私はしない。「父」であることを放棄した彼は人間ではない。私は龍之介が「良き父」であるために自裁と本気で大真面目に思っている(御不信の向きは彼の子らへの遺書を再読精読されたい)。さればこそ龍之介はルソーを激しく嫌悪したものと思うのである。或いは龍之介は、ルソーのような思想と行為の乖離した人間であったなら私は自殺せずに済んだか知れぬ、と中有(ちゅうう)の底に沈んでゆく最中にちらりと思いはしたかも知れぬ。

・「懺悔錄」Les Confessionsは「告白(録)」などとも訳されるルソー晩年の自叙伝で、一七六四年から一七七〇年に執筆されたものの、死後の一七八一年(第一部)、一七八八年(第二部)になって出版されたものである(龍之介が前の古典」で言ったように既に死んでいる作家の「告白」「懺悔録」である点に注意)。以下、小学館「日本大百科全書」の原好男氏の解説に拠る。『世間の誤解を解くとともに、将来の人間研究の資料を提供しようという目的で書かれた。ルソーは自分の一生を、作家になる前とその後に分け、前半生を幸福な時代、後半生を不幸になった時代としてとらえていたが、作品にもそうした考え方が反映し』、二部に『分けられている』。第一部の『少年時代、青年時代の記述は、率直かつ詳細なもので、ときには卑しい行為や性的異常をも、はばかることもなく描いている。ユーモアあり悔恨あり、それが過ぎ去った時代をふたたび生きる喜びと混じり合い、いまなお読者を魅了してやまない』。第二部は、『晩年の被害妄想の影響下に書かれたため、また、昔の友人たちへの遠慮からか』、第一部と『比較すると精彩を欠き、暗いものとなっている。思想家ルソーのひととなりを知るための第一級の資料であるとともに、自伝文学の傑作の一つ。日本では、明治初期、自由民権運動の時代に、『社会契約論』が影響力をもったのにかわって、明治後期』(明治二四(一八九一)年の森鷗外によるドイツ語訳からの抄訳が本邦の初訳となった)、島崎藤村など、日本に於ける近代文学の成立、特に本邦独特の自然主義文学の形成に本書は強い影響を与えた。

・「メリメ」フランスの作家プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée 一八〇三年~一八七〇年)は怪奇作家として私の大好きな小説家である。「日本大百科全書」の冨永明夫氏の解説を引く。パリ生まれ。『大学では法科に学んだが、早くから創作を志し』、一八二五年に「クララ・ガスル戯曲集」を『同名の女優の作と偽って出版したのが処女作』で、一八二九年、歴史小説「シャルル九世年代記」(Chronique du règne de Charles IX)で『好評を得、以後』、『続々と傑作短編群を発表するに至る。裏切りをはたらき家名を汚した幼い息子を冷然と処刑するコルシカ男の物語』「マテオ・ファルコーネ」(Mateo Falcone (1829))、『奴隷船上の黒人の反乱とその後の惨たる漂流を叙事詩風に綴』った「タマンゴ」(Tamango (1829))、『歴史ものらしく仕立てた怪異譚』「カール十一世の幻視」(Vision de Charles XI (1829))、精緻にして粋な恋愛心理小説である「エトルリアの壺」(Le Vase étrusque (1830):怪奇小説ではないが、私お薦めの作品である)『など、題材も手法もまちまちだが、いずれも透明な文体と緊密な構成により短編小説の見本といってよい。メリメの文名はかくて』二十代後半に『確立した感がある』。一八三一年からは官界に入り、一八二四年には『文化財保護監督官、以後は頻々と国内外に巡察旅行を試みて、歴史的建造物、遺跡の調査、保護、修復に精力を注ぐ。当時無名に近かった建築家ビオレ・ル・デュック』(一八一四年~一八七九年)『を登用して各地の中世建築の修復にあたらせたのも大きな功績である。数多い巡察旅行の副産物として、ピレネー山麓』『のイールを舞台とする考古学的怪談』である「イールのビーナス」(La Vénus d'Ille (1837))、『コルシカに取材した』「コロンバ」(Colomba (1840):後注参照)『などの佳作が生まれた。代表作と』される「カルメン」(Carmen (1845))も、『この延長線上にある作品といえる』。一八四四年にアカデミー会員、一八五三年には旧知のナポレオン三世の妃であったウージェニーに請われて上院議員となっている。しかし、「カルメン」以後、『小説への意欲は衰えをみせ、史伝、考証、ロシア文学の翻訳・紹介に文筆活動の重点が移る。他方、廷臣として多忙な社交生活のなかから、多分に公刊を予期した膨大な書簡群が生まれている。最晩年には小説への意欲が再燃したが、傑作を生むには至らず』、一八七〇年、『プロイセン・フランス戦争の敗北と帝政の崩壊を見て、失意のうちに』同年九月に『カンヌで没した』。『メリメの本質は』十八世紀的合理主義者ではあるが、『時代の好尚は争えず、ロマン派の影響下に、異国や遠い昔に材をとり、人間の暗い情熱や運命との抗争を物語る中短編がやはりその本領である。他方、心理小説風の試みや、風刺的戯作』、『怪異への好みなども指摘できるが、いずれの場合も古典的端正さを崩さない明晰』 にして『冷徹な文体が支えとなっている。明敏な都会人メリメは、異常な、あるいは幻想的な事件を物語りつつも、つねに作品と一定の距離を保たずにはいられない。彼はいつも「醒』『めて」いなければならな』かったのである。

・「コロンバ」(Colomba)はコルシカに永く伝わるかたき討ちの風習を素材とした、旧家の娘コロンバを主人公とする一八四〇年刊の、しばしば「カルメン」と併称されるメリメの代表的中編小説。新潮文庫の神田由美子氏の注は、『コルシカ島の名家の娘コロンバとその兄のオルソ』(Orso)『陸軍中尉』『が、父を暗殺したバリッチニ』(Barricini)『兄弟に仇討(あだうち)する話。「カルメン」とともに、女性の野性的情熱を描いたメリメの代表作、芥川の「偸盗(ちゅうとう)」のヒロイン「沙金(しゃきん)」に、この影響があると言われている』と、勘所を押さえつつ、コンパクトに纏めておられる。

・「隱約」「いんやく」で、はっきりと見分け難いこと。言葉は簡単であっても意味が奥深いこと。或いは、あからさまには表現していないこと、の謂いで、ここはの意である。筑摩版全集類聚脚注も新潮の神田氏もの意とするが、従えない。因みに、小学館の「大辞泉」の「隠約」のの意味の例文は、まさにこの龍之介の一文が引かれてある。]

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