芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 暴力
暴力
人生は常に複雜である。複雜なる人生を簡單にするものは暴力より外にある筈はない。この故に往往石器時代の腦髓しか持たぬ文明人は論爭より殺人を愛するのである。
しかし亦權力も畢竟はパテントを得た暴力である。我我人間を支配する爲にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかも知れない。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年一月号『文藝春秋』巻頭に前の「地上樂園」及び次の『「人間らしさ」』の三章で初出する。
・「複雜なる人生を簡單にするものは暴力より外にある筈はない」とすれば、繊毛や触手のように脳底にうじゃうじゃとひろごり、絡まった「複雜なる人生を簡單に」したいと思う「もの」は「暴力」を行使する「より外に」そこから逃れる術(すべ)の「ある筈はない」ということになる。この私のブログを読まれているあなた方はどうだか知らないが、私は「暴力」という単語を見ると必ずある小説の一節を思い出すのである。もう、お分かりであろう、夏目漱石の「こゝろ」である。「上 先生と私」で、学生の父が倒れ、学生の「私」が先生から金を借りて帰郷し、父が小康を得た後、帰京、「先生」のもとに返金と御礼に参ったシークエンスに出る。部分を引く(リンク先は私の初出復元版の当該章)。
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「然し人間は健康にしろ病氣にしろ、どつちにしても脆いものですね。いつ何んな事で何んな死にやうをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考へて御出ですか」
「いくら丈夫の私でも、滿更考へない事もありません」
先生の口元には微笑の影が見えた。
「よくころりと死ぬ人があるぢやありませんか。自然に。それからあつと思ふ間(ま)に死ぬ人もあるでせう。不自然な暴力で」
「不自然な暴力つて何ですか」
「何だかそれは私にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使ふんでせう」
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力の御蔭ですね」
「殺される方はちつとも考へてゐなかつた。成程左右いへば左右だ」
其日はそれで歸つた。歸つてからも父の病氣の事はそれ程苦にならなかつた。先生のいつた自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいふ言葉も、其場限りの淺い印象を與へた丈で、後は何等のこだわりを私の頭に殘さなかつた。
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私は個人的にこのシーンは、謎の多い「こゝろ」の中でも超弩級に謎めいた箇所と思っている。私は「こゝろ」の多くの謎解きを自分なりにして来たが、これは殆んどお手上げに近い。それだけに脳裏にこびりついて離れない。或いは――芥川龍之介にとっても「こゝろ」のこの場面と台詞、いやさ、「暴力」という語は謎であったのではあるまいか?……といったことを私は今日只今、この注を記しながら、ふと、考えたのである。
・「往往」「わうわう(おうおう)」副詞。そうなる、そうなってしまう場合が多いさま。ある事柄や状態がよく在り、またよく起こるさま。好ましくない事態に対して用いることが多い。
・「石器時代の腦髓しか持たぬ文明人」ここで龍之介の言う「石器時代」とは、旧石器時代前期まで遡る謂いであろう。そうとらないと文意を把握出来ないからである。旧石器時代前期とは二四〇万年前から一四〇万年前まで存在していた原人ホモ・ハビリス(脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱サル亜綱正獣下綱霊長(サル)目真猿(サル)亜目狭鼻(サル)下目ヒト上科ヒト科ヒト属ホモ・ハビリス Homo habilis:「器用な人」の意)や同時期に存在していた原人ホモ・エレクトス(ヒト属ホモ・エレクトス Homo erectus:「直立する人」の意)の時代である。その原始人「の腦髓しか持たぬ文明人」という謂いはまっこと、面白い。即ち、そこまで遡ってしかも「文明人」の中に偏在的に潜在する原型とは何かというならば、善悪の観念を持たない弱肉強食性しかないからである。これを剥片石器が出現した中期旧石器時代――(ネアンデルタール人(ヒト属ホモ・ネアンデルターレンシス Homo neanderthalensis:種小名はドイツのデュッセルドルフ近郊のネアンデルタール(ドイツ語:Neanderthal:ネアンデル谷)の石灰岩洞穴で初めて発見されたことに由来)が広がるとともに極東アジアでは当該域に限定された北京原人(ヒト属ホモ・エレクトス・ペキネンシスHomo
erectus pekinensis)などの原人類から進化した古代型新人が誕生、繁栄した時代)――や、石器が急速に高度化多様化した後期旧石器時代――(クロマニヨン人(現生人類と同じヒト属ヒト Homo sapiens:「クロマニヨン人」という通称は発見された南フランスのクロマニョン(Cro-Magnon)洞窟に因む)が主流となって他の化石人類が急速に姿を消した時代)――まで広げてとしてしまうと、ややこしくなる。ネアンデルタール人には死者を悼む埋葬習慣(屈葬。弔花を添えていたとする説もある)生じており、クロマニヨン人は御存じの通り、洞窟壁画や彫刻が残されており、死者は丁重に埋葬し、呪術をさえ行なった証拠もあって、既にして原型としては文明人と変わらぬ善悪の倫理観念が形成されていたと考えてよいからである。……さても。では「論爭より殺人を愛する」「石器時代の腦髓しか持たぬ文明人」とは――「世界正義」を振りかざしてどこにでも出向いては戦争をすることを好むどこかの野蛮な国、現に戦争を放棄すると明記した憲法を持ちながら、戦争をしたくてたまらないどこかの国の政治家どもを指すと考えて、よかろうよ。
・「パテント」patent。特許(権)・特許品・特許証。この場合は、合法的に暴力を行使することを独占的に使用することを許可された権利という皮肉である。しかしそれを許可するのは形式上、国民の総意であるケースもある訳である。
・「我我人間を支配する爲にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかも知れない」この逆説は逆説ではない。そもそも「複雜なる人生を簡單にするものは暴力より外にある筈はない」以上、大方の世界国家の首長たる「石器時代の腦髓しか持たぬ文明人は論爭より殺人を愛するのである」からして、「人間を支配する」という願望を実は彼らは持たない、のである。されば彼らの、否、ヒトという生物種の行き着く果ては、遂には自分をも含めた「殺人」行為、ヒト種を殲滅するホロコースト(英語:holocaust:大虐殺・大破壊・全滅)、ポグロム(ロシア語;погром:破滅・破壊)に至るということになる。されば「人間を支配する爲に」は「暴力」は最終的には「必要ではない」、無効であるということになるのである。驚くべき数の死神のマサカリたる核兵器と、不全で危険極まりない業火としての原子力発電所が地球上に数多ある今、私の謂いはこれ、凡愚の妄想や空論では、なくなっているのである――]
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