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2016/05/30

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或資本家の論理

 

       或資本家の論理

 

 「藝術家の藝術を賣るのも、わたしの蟹の鑵詰めを賣るのも、格別變りのある筈はない。しかし藝術家は藝術と言へば、天下の寶のやうに思つてゐる。あゝ言ふ藝術家の顰みに傚へば、わたしも亦一鑵六十錢の蟹の鑵詰めを自慢しなければならぬ。不肖行年六十一、まだ一度も藝術家のやうに莫迦莫迦しい己惚れを起したことはない。」

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「政治家」(二章)「事實」「武者修業」「ユウゴオ」「ドストエフスキイ」「フロオベル」「モオパスサン」「ポオ」「森鷗外」と、後の「或資本家の論理」の全十一章で初出する。

 

・「蟹の鑵詰め」「日本製缶協会」公式サイト内の「缶詰・製缶業界のあゆみ」の「大正時代」によれば(以下、本注内の下線は総てやぶちゃん)、『日清戦争で台湾、日露戦争で北洋漁業と大きな資源を確保した日本はパイナップル、鮭鱒・カニを原料とした缶詰の発展を見た。さらにタケノコ、グリーンピース等の蔬菜の缶詰も出現し』、『今日の様な水産、畜肉、果実、蔬菜と様々な分野の缶詰が誕生した』。『缶詰の製造が一つの産業として確立すると』、『日露戦争の後の軍需が一旦途絶えるものの』、『欧米人の嗜好にあった缶詰を開発することで輸出産業として缶詰産業は大きく転換した』。『代表する例として千島・樺太のカニ缶詰、カムチャツカのサケ缶詰である』。『いずれも水煮で欧米人に歓迎され品質も優良だったといわれている』。『そのほか、カキ、エビ、貝柱、グリーンピースなどもこれに加わった』。大正一一(一九二二)年に『サケ缶詰の国内消費拡大を目的とした「缶詰普及協会」が創立され輸出とともに国内の需要拡大を図った。当普及協会の活動としては、①市販缶詰開缶研究会②研究会に出品の優良缶詰に推奨マークの貼付③缶詰の宣伝試食等を行っている』。大正一二(一九二三)年に『相模湾を震源地とする関東大震災が発生し、京浜地帯に壊滅的な打撃を与えたが、その時避難民の救済に缶詰が使われ、はからずも国内の需要を高めるきっかけになった』。『大正年間に缶詰業からの製缶業の分離・独立は下記の経緯を辿った。明治維新以降、我が国においては缶詰業が勃興したが明治年間においては、缶詰業と製缶業の分離がなされず、それぞれの缶詰工場にて製缶の熟練工を抱え缶を製造していた。しかし、北洋漁業のサケ・マスを原料とした缶詰製造を開始した堤商会が』、大正二(一九一四)年に『米国より自動製缶機を購入し、カムチャツカにて缶詰を製造した。この自動製缶機は高性能であり、自社が製造する缶詰以上の能力を発揮した』。大正五(一九一六)年にはこれを『函館に移設し』、『自動製缶機の空缶製造の余力分を外部の缶詰会社に販売した事が缶詰製造と製缶業が分離した始まり』となった。『しかし、名実ともに缶詰業から製缶業が分離・独立したのは』大正六(一九一七)年の『大阪にて米国から自動製缶機を購入し、創業した東洋製罐株式会社であった』。大正一〇(一九二一)年には、『北海製罐倉庫株式会社が創業した。同社は北洋漁業関連の空缶製造を目的に設立された。また』、大正一四(一九二五)年には『函館に日本製罐株式会社が創業した。この製缶業の分離・独立によって、それまでの缶詰業者が勝手な寸法の缶を注文し、製缶会社が多品種小ロットの生産を強いられていたものを、より安価な空缶を提供することを目的に、缶詰業者と協議の上、空缶の規格統一化が推進された』とある。なお、小林多喜二の「蟹工船」が発表されるのは龍之介の死から二年後の昭和四(一九二九)年(『戦旗』初出)でのことである)。また、ウィキの「蟹工船によれば、「あらすじ」の項に、『蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用される、漁獲物の加工設備を備えた大型船である。搭載した小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに母船で蟹を缶詰に加工する』。『蟹工船は「工船」であって「航船」ではない。だから航海法は適用されず、危険な老朽船が改造して投入された』。『また工場でもないので、労働法規も適用されなかった』。『そのため蟹工船は法規の真空部分であり、海上の閉鎖空間である船内では、東北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者に対する資本側の非人道的酷使がまかり通っていた。また北洋漁業振興の国策から、政府も資本側と結託して事態を黙認する姿勢であった』。『情け知らずの監督である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは劣悪で過酷な労働環境の中、暴力・虐待・過労や病気で次々と倒れて』いったのであった。同ウィキの「現実の蟹工船」の項には、『夏場の漁期になると貨物船を改造した蟹工船と漁を行う川崎船が北方海域へ出て三ヶ月から半年程度の期間活動していた。 蟹工船は漁をしていない期間は通常の貨物船として運行しており、専用の船があったわけではない。 蟹の缶詰は欧米への輸出商品として価値が高かったため、大正時代から』昭和四十年代まで『多くの蟹工船が運航されていた』。大正一五(一九二六)年九月八日附『函館新聞』の記事には、『「漁夫に給料を支払う際、最高二円八〇銭、最低一六銭という、ほとんど常軌を逸した支払いをし、抗議するものには大声で威嚇した」との記述がある。逆に、十分な賃金を受け取ったという証言もある。「脱獄王 白鳥由栄の証言」(斎藤充功)において』、白鳥由栄(明治四〇(一九〇七)年昭和五四(一九七九)年:吉村昭の「破獄」で知られる「昭和の脱獄王」)『は収監以前に働いていた蟹工船について「きつい仕事だったが、給金は三月(みつき)の一航海で、ゴールデンバット一箱が七銭の時代に三五〇円からもらって、そりゃぁ、お大尽様だった」と述べている』。大正一五(一九二六)年に十五歳で『蟹工船に雑夫として乗った高谷幸一の回想録では』、陸で働く十倍にも『なると述べているが、単調な』一日二十時間労働で『眠くなるとビンタが飛ぶ過酷な環境で』、大半は一年で『辞めるところ、高谷幸一は金のために』五年も『働いたと証言している』。『高い給料を貰える代わりに、睡眠時間は短く、狭い漁船の中で何カ月も過ごさなくてはならず(監禁に近い)、食料も限られた。そのため、ストレスや過労により環境がおかしくなり、陸では温厚な人物ですら、鬼に変えてしまうほど精神的に追い詰められ』たとある。そういうことをしていたトップにいたのが、この爺(じじい)であったことをよく知った上で、このアフォリズムは読まれなければならない

・「顰みに傚へば」「ひそみにならへば(ひそみにならえば)」と読む。元来は「西施(せいし)の顰みに倣う」で美人の西施が病気で顔を顰(しか)めたところが、それを見た醜女(しこめ)らが自分も顔を顰めれば美しく見えるのかと思って真似をしたという「荘子(そうじ)」「天運篇」に載るの故事から、「善し悪しも考えずに人の真似をして物笑いになる」意であるが、ここはそこから派生した、他人に倣(なら)って事を成すことを遜(へりくだ)っていう謂いである。但し、それがまたこの資本家の用法では慇懃無礼ななものとなり、蟹缶と合わせて生臭く面白いのである。

・「六十錢」先に十円を今の金額に換算すると凡そ一万円から五万円相当、中をとって三万円ほどとしたから、六百円から三千円、中をとって千八百円相当か。

・「行年六十一」「きやうねん(きょうねん)」「ぎやうねん(ぎょうねん)」「かうねん(こうねん)」といかようにも読む(私は私が死んだ年の意味では「こうねん」とは個人の趣味で発音しないので、それで読みたい。筑摩全集類聚版では「ぎやうねん」とルビする)。ここは単に今まで生きて来た年数の意で、数え六十一だから、単純に発表時から換算すると、文久三・元治元年(一八六四)年に相当する。

・「己惚れ」「うぬぼれ」「おのぼれ」二様に読めるが、私は後者で読みたい。]

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