芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 戀は死よりも強し
戀は死よりも強し
「戀は死よりも強し」と云ふのはモオパスサンの小説にもある言葉である。が、死よりも強いものは勿論天下に戀ばかりではない。たとへばチブスの患者などのビスケツトを一つ食つた爲に知れ切つた往生を遂げたりするのは食慾も死よりは強い證據である。食慾の外にも數へ擧げれば、愛國心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名譽心とか、犯罪的本能とか――まだ死よりも強いものは澤山あるのに相違ない。つまりあらゆる情熱は死よりも強いものなのであらう。(勿論死に對する情熱は例外である。)且つ又戀はさう云ふもののうちでも、特に死よりも強いかどうか、迂濶に斷言は出來ないらしい。一見、死よりも強い戀と見做され易い場合さへ、實は我我を支配してゐるのは佛蘭西人の所謂ボヴアリスムである。我我自身を傳奇の中の戀人のやうに空想するボヴアリイ夫人以來の感傷主義である。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年三月号『文藝春秋』巻頭に前の「政治的天才」二章と後の「地獄」との全四章で初出する。
・『「戀は死よりも強し」と云ふのはモオパスサンの小説にもある言葉である』フランスの自然主義作家で劇作家にして詩人であったモーパッサン、正式な本名、アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de
Maupassant 一八五〇年~一八九三年)は作家芥川龍之介にとってはかなり複雑な対象者であったようである。「侏儒の言葉」では後で「モオパスサン」の章を立てて、『モオパスサンは氷に似てゐる。尤も時には氷砂糖にも似てゐる。』と意味深長なことを述べているが、若き日の龍之介は優れた短編作家であったモーパッサンを乱読し、且つ、絶賛していた。例えば、大正五(一九一六)年三月二十四日附井川恭(後の恒藤恭)宛書簡(岩波旧全集書簡番号二〇一)では、『僕はモウパツサンをよんで感心した この人の恐るべき天才は自然派の作家の中で匹儔の鋭さを持つてゐると思ふ すべての天才は自分に都合のいいよやうに物を見ない いつでも不可抗敵に欺く可らざる眞を見る モオパツサンに於ては殊にそのその感じが深い。』『しかしモオパツサンは事象をありのままに見るのみではない ありのまゝに觀た人間を憎む可きは憎み 愛す可きは愛してゐる。その点で万人に不關心な冷然たる先生のフロオベエルとは大分ちがふ。 une vie の中の女なぞにはあふるるばかりの愛が注いである。僕は存外モオパツサンがモラリステイクなのに驚いた位だ。』と記している(「点」はママ。「匹儔」は「ひつちう(ひっちゅう)」と読み、匹敵すること。同じ類いや仲間と見做すことを言う。「une vie」一八八三年発表の彼の代表作「女の一生」。なお、ここで龍之介がやはり本章に出る「ボヴアリイ夫人」の作者フローベールを辛辣に批判言及しているのにも着目されたい)。また、逆説や揶揄のニュアンスも多分に含まれてはいるものの、大正六(一九一七)年一月『新思潮』に発表した夢オチの諷刺小品「MENSURA ZOILI」(メンスラ・ゾイリ:Mensura はラテン語の秤・物差の意、ZOILI は本作の仮想国(ゾイリア)のこと)では、ゾイリア国の完璧なる芸術作品測定器についての説明を「角顎(かくあご)の先生」から受けて、芥川龍之介が「しかし、その測定器の評價が、確だと云ふ事は、どうしてきめるのです。」と問うと、「それは、傑作をのせて見れば、わかります。モオパツサンの「女の一生」でも載せて見れば、すぐ針が最高価値を指さしますからな。」と答えたので、龍之介がやや不服そうに「それだけですか。」と応じると、「それだけです。」と答えるばかりで、『僕は、默つてしまつた。少々、角顋の頭が、没論理に出來上つてゐるやうな氣がしたからである』と出る。ここには既に「女の一生」に対するやや眇めの印象もあるが、やはり一般通念としての名作という認識に物申しているとは言えない。ところが、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の山本卓氏の「モーパッサン」の項には、上記の例などを高評価のそれとして掲げた上で、『だが、芥川はモーパッサンの巧妙な語り口を作り物のように感じていた。否定的な評価も記しているのだ』として、「あの頃の自分の事」の初出(大正八(一九一九)年一月『中央公論』。但し、これを含む第二章(第六章とともに)は何故か、翌年一月に刊行された第四作品集「影燈籠」では丸ごと削除されている)を引いておられる(引用は山本氏のそれではなく、岩波旧全集に拠った。引用も山本氏より長く引いてある)。そこでは龍之介は感服した作家としては「何よりも先ストリントベルグだつた」(スウェーデンの劇作家ユーアン・オーグスト・ストリンドバーリィ Johan August Strindberg 一八四九年~一九一二年:「令嬢ジュリー 」(Fröken
Julie 一八八八年)・「死の舞踏」(Dödsdansen 一九〇一年)・「幽霊ソナタ」(Spöksonaten 一九〇七年)などで知られる。私も好きなことと言ったら、龍之介の人後に落ちるものではない。なお、かれの精神疾患(恐らくは統失調症)を患っていたと考えられている)とし、彼には「近代精神のプリズムを見るやうない心もちがした。彼の作品には人間のあらゆる心理が、あらゆる微妙な色調の變化を含んだ七色に分解されてゐた」とまで持ち上げた上で、「ぢや嫌ひな方は誰かと云ふと、モオパスサンが大嫌ひだつた。自分は佛蘭西語でも稽古する目的の外は、彼を讀んでよかつたと思つた事は一度もない。彼は実に惡魔の如く巧妙な贋金使だつた。だから用心しながらも、何度となく贋金をつかまさせられた。さうしてその贋金には、どれを見ても同じやうな Nihil と云ふ字が押してあつた。強いて褒めればその巧妙さを褒めるのだが、遺憾ながら自分はまだ、掏摸に懷のものをひきぬかれて、あの手際は大したものだと敬服する程寛大にはなり切る事が出來ない。」とまで言い切っている。また、大正一〇(一九二一)年二月『中央文學』発表の「佛蘭西文學と僕」の中でも龍之介は、「ド・モオパスサンは、敬服(けいふく)しても嫌ひだつた(今でも二三の作品は、やはり讀むと不快な氣がする。)」と記してもいる。山本氏は以上から最後に、『ここにはモーパッサンに対する芥川の複雑な評価が読み取れる』と記しておられる。こうした龍之介のアンビバレントな感覚の背景には、私は、短篇作家として寵児となった龍之介が、その創作実際の苦闘の中で、事実、モーパッサンの巧妙にして狡猾なる技巧を見抜いたことも真実ではあろうと思うのであるが、また意地悪く言うなら、彼にとってはモーパッサンを痛烈に罵倒することが自己の小説理念の独自性を表明することにもなったに違いない(しかし寧ろ、それは龍之介と親しい作家仲間たちからさえ強い批判をも浴びたのではなかったか? 私は先の「あの頃の自分の事」の単行本での削除の理由の一つにそんなことを考えたものである)。さらには、モーパッサンが根っからの病的厭世主義者であったこと、晩年に精神疾患を患って自殺未遂を起こしながら生き永らえてしまい、精神病院に収容された末にそこで亡くなったこと(一八九一年に発狂、翌一八九二年には自殺未遂を起こして、パリの精神病院に収容されたとウィキの「ギ・ド・モーパッサン」にある)が、龍之介の厭世観や自殺観、精神疾患を患っていた実母のそれに関わる発狂恐怖という神経のイラっとくる部分に触れたということも挙げられるように私には思われるのである。
モーパッサンの解説が長くなった。ここで芥川龍之介は「小説にもある言葉」とするが、これはほぼそれに近い標題の小説のことを指す。一八八九年に発表した「死の如く強し」(Fort
comme la mort)である。筑摩全集類聚版脚注に、『長編小説。次第に老境に入って行くにつれて感ずる男女の悲哀が明快簡潔な筆致によって極めて巧妙に切実に描き出されている』とある。
・「チブスの患者などのビスケツトを一つ食つた爲に知れ切つた往生を遂げたりする」「チブス」はここでは腸チフスのことと思われる(日本に於いて「チフス」と呼ばれる疾患には、この他にパラチフスや発疹チフスがあり、腸チフスとパラチフスはともに真正細菌プロテオバクテリア門ガンマプロテオバクテリア綱エンテロバクター目腸内細菌科サルモネラ属 Salmonella に属する菌株による疾患であるが、発疹チフスはプロテオバクテリア門 Proteobacteria でも全く異なるアルファプロテオバクテリア綱リケッチア目リケッチア科リケッチア属 Rickettsiaの一種発疹チフスリケッチア Rickettsia prowazekii による疾患で、これらの疾患は症状が似ているために孰れも「チフス」と呼ばれていたが、全く別の疾患であるので注意されたい)。サルモネラ属の一種チフス菌 Salmonella enterica var enterica serovar Typhiによって引き起こされる感染症。以下、ウィキの「腸チフス」より引用する。『感染源は汚染された飲み水や食物などである。潜伏期間は』七~十四日間ほど。『衛生環境の悪い地域や発展途上国で発生して流行を起こす伝染病であり、発展途上国を中心にアフリカ、東アジア、東南アジア、中南米、東欧、西欧などで世界各地で発生が見られる』。『チフスという名称はもともと、発疹チフスのときに見られる高熱による昏睡状態のことを、ヒポクラテスが「ぼんやりした、煙がかかった」を意味するギリシア語 typhus と書き表したことに由来する。以後、発疹チフスと症状がよく似た腸チフスも同じ疾患として扱われていたが』、一八三六年に『 W. W. Gerhard が両者の識別を行い、別の疾患として扱われるようになった。それぞれの名称は、発疹チフスが英語名 typhus、ドイツ語名 Fleck typhus、腸チフスが英語名 typhoid fever、ドイツ語名 Typhus となっており、各国語それぞれで混同が起こりやすい状況になっている。日本では医学分野でドイツ語が採用されていた背景から、これに準じた名称として「発疹チフス」「腸チフス」と呼び、一般に「チフス」とだけ言った場合には、これにパラチフスを加えた』三種類を指『すか、あるいは腸チフスとパラチフスの』二種類のことを『指して発疹チフスだけを別に扱うことが多い』。『日本の法律上の起因菌は』、腸チフスが Salmonella Typhi、パラチフスが Salmonella Paratyphi A である。『無症状病原体保有者や腸チフス発症者の大便や尿に汚染された食物、水などを通して感染する。これらは手洗いの不十分な状態での食事や、糞便にたかったハエが人の食べ物で摂食活動を行ったときに、病原体が食物に付着して摂取されることが原因である。ほかにも接触感染や性行為、下着で感染する。胆嚢保菌者の人から感染する場合が多い。ネズミの糞から感染することもある。上下水道が整備されていない発展途上国での流行が多く、衛生環境の整った先進諸国からの海外渡航者が感染し、自国に持ち帰るケース(輸入感染症)も多く見られる』。『日本でも昭和初期から終戦直後までは腸チフスが年間』約四万人『発生していた』(漱石の「こゝろ」の「先生」の両親は「膓窒扶斯(ちやうチブス)」で亡くなっている。リンクは私の初出復元版の当該章)。『食物とともに摂取されたチフス菌は腸管から腸管膜リンパ節に侵入してマクロファージの細胞内に感染する。このマクロファージがリンパ管から血液に入ることで、チフス菌は全身に移行し、菌血症を起こす。その後、チフス菌は腸管に戻り、そこで腸炎様の症状を起こすとともに、糞便中に排泄される』。感染から七~十四日経過すると、『症状が徐々に出始める。腹痛や発熱、関節痛、頭痛、食欲不振、咽頭炎、空咳、鼻血を起こ』し、そこから三~四日で症状が重くなり、四十度前後の『高熱を出し、下痢(水様便)、血便または便秘を起こす。バラ疹と呼ばれる腹部や胸部にピンク色の斑点が現れる症状を示す。腸チフスの発熱は「稽留熱(けいりゅうねつ)と呼ばれ、高熱が』一週間から二週間も持続するのが特徴で、そのため体力の消耗を起こし、無気力表情になる(チフス顔貌)。また重症例では、熱性譫妄などの意識障碍や難聴を起こしやすい』。二週間ほど『経つと、腸内出血から始まって腸穿孔を起こし、肺炎、胆嚢炎、肝機能障碍を伴うこともある』。『パラチフスもこれとほぼ同様の症状を呈するが、一般に腸チフスと比べて軽症である』(本「チブス」を私が「腸チフス」と判断したのも相対的に後者が軽症であることに拠る)。現在はワクチンがあるが、『腸チフスのワクチンにはパラチフスの予防効果は無く、腸チフスのワクチンとして弱毒生ワクチン』(四回経口接種)と『注射ワクチン』(一回接種)『が存在するが、日本では未承認。そのため日本国内でワクチン接種する際は、ワクチン個人輸入を取り扱う医療機関に申し込む必要がある。経口生ワクチンを取り扱っている医療機関は非常に少なく、輸入ワクチンを取り扱っている医療機関の多くは不活化である注射型のものを採用している。有効期間は経口ワクチンが』五年、不活化Viワクチンで二~三年間程度と『言われている。そのほかは手洗いや食物の加熱によって予防できる』が、『ワクチンの効力が出るには接種完了後』二週間ほどかかる。『治療は対象株に感受性のある抗菌剤を用いるが、ニューキノロン系抗菌薬が第一選択薬となる。しかし、ニューキノロン系薬の効果が望めない症例では』第三世代セフェム系抗菌薬を『使用することがある。また、治療後も』一年間ほど『チフス菌を排出する場合がある』とある。岩波新全集の山田俊治氏の注に、腸チフスでは『当時絶食療法が行われていた』とあり、さればこそ、重篤化して医師も匙を投げた腸チフス患者に、末期の一口と「ビスケツトを一つ食」わせたが「爲に知れ切つた往生を遂げたりする」(この「知れ切つた往生」とは、最早、はっきりと分かっている絶命、既に決まっているところの臨終の謂い)、ということになるわけである。
・「ボヴアリスム」「我我自身を傳奇の中の戀人のやうに空想するボヴアリイ夫人以來の感傷主義」「ボヴアリスム」ボヴァリズム(Bovarism)とは、フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert 一八二一年~一八八〇年)の代表作にして問題作「ボヴァリー夫人」(Madame
Bovary:田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリー(Emma Bovary)が不倫と借金の末に追い詰められ、自殺するまでを描いた作品。一八五六年十月から十二月にかけて文芸誌『パリ評論』に掲載されたが、翌年の一八五七年に風紀紊乱(びんらん)の罪で起訴された。しかし無罪判決を勝ち取って同年にレヴィ書房より出版されるや、ベスト・セラーとなった。フローベールは本作に実に四年半もの歳月をかけており、『その執筆期間に徹底した文体の彫琢と推敲を行なっている。ロマン主義的な憧れが凡庸な現実の前に敗れ去れる様を、精緻な客観描写、自由間接話法を多用した細かな心理描写、多視点的な構成によって描き出したこの作品は写実主義文学の礎となった。サマセット・モームは『世界の十大小説』の一つに挙げている』。以上は引用を含め、ウィキの「ボヴァリー夫人」に拠る。因みに私は大学二年の時に最初の数ページを読んでリタイアし、五十九の今に至るまで、その本を持ってはいるが、読んでいない。私には冒頭だけで地獄の退屈だったのである)の主人公である夫人の性格に基づき、後の一九一〇年にフランスの哲学者ジュール・ド・ゴーティーエー(Jules de Gaultier 一八五三年~一九四二年)が生み出した造語。Seoknamkjp氏のブログ「脳を起こすキーワード」の「Bovarism(ボヴァリズム)」に、『人間の本性の一つとして、“本来の自分自身と間違って、自分自身を想像する機能”を指して称するためにボヴァリズムという言葉を使った以来、今までも普遍的な人間の心理として見做されている。不可能な幸福を夢見ながら、自分自身の実際の姿をそのままで受け入れずに理想的なモデルとかイメージと自身を同一視する態度は、誰でもある程度持ってる人間の心理であろう』。『フローベルもこの作品を完成した後、“マダムボヴァリーは私である”といたと伝えている。現実から得る以上に何かを望むのは人間の悲劇性であろう』と記しておられる。「ボヴァリー夫人」と縁のない私には、諸注のインキ臭いそれよりも、この方の説明の方が遙かに即理解で目から鱗であった。なお、老婆心乍ら、「傳奇」とは現実には起こりそうにない不思議な話。また、そのような話を題材とした幻想的で怪奇な物語や小説類(楽天的なファンタジーもブラッキーなそれも総て含む)のジャンルの総称である。]
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