忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「手」
手
いたづらつぽい、小さな手であつた。指もすんなりとして指さきは圓々としてゐた。どの爪も、爪のつけ根にある三日月型のところが、はつきりと白かつた。器用で、敏捷で、可憐な手だつた。その手は、活花や習字やお茶の稽古にいそしんで來た手だつた。その手は指にふつくらと肉が盛り上り、笑靨の浮んだやうな、健やかな手になりたがつてゐた。
「よく寫眞を視てみると、どの寫眞もお茶の手つきをしてゐる」と嫂は云つた。發病する前、睡れない床で、その手は茶の湯の手前のことばかりを考へてゐたのだ。
不思議なことに、どんなに容態が惡い時でも、爪のつけ根の三日月型は白く冴えて美しかつた。死んで行つた時も、その三日月は消えなかつた。
私は古い寫眞をとりだして、指のところを注意して視た。やつぱり、くつきりと白い三日月は昨日のやうに殘つてゐるのであつた。
[やぶちゃん注:「笑靨」「えくぼ」。
「發病する前」民喜の妻貞子の発病は、全集年譜では昭和一四(一九三四)年九月で、貞子は満で二十八の年であった。]
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