吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「嗟嘆」
嗟嘆
日盛の靜かな時刻であつた。私は椅子にねころんで、ぼんやり本を展げてゐた。露次の方に、荷車の音がして、垣のところの芥箱の蓋があく音がする。塵取人夫の來てゐることは、その音でもわかる。窓に面した六疊の方で、妻の立上つて、臺所へ行く氣配がする。暫くすると、窓のところで、「御苦勞さま」と人夫に呼びかけてゐる一きは快活さうな聲がする。「これ一つ」と何か差出したのは、多分、梅燒酎だつたのだらう。やがて、「あーツ」と、いかにも、うまさうに一氣にそれを呑み乾したらしい、溜息がきこえる。
……いつのことであつたか、もうはつきりは憶ひ出せぬ。「あーツ」といふ嗟嘆ばかりは今も私の耳にのこつてゐる。日盛の靜かな時刻であつた。
[やぶちゃん注:この小さな夏の永遠の至福の瞬間のスカルプティング・イン・タイムは何時のことか。「いつのことであつたか、もうはつきりは憶ひ出せぬ」と筆者は言っているが、千葉の登戸の景であり、「もうはつきりは憶ひ出せぬ」とならば、貞恵の発病のずっと以前であり、前の出た「マル」や「カナリヤ」の時間以前と推定し得る。都心からの登戸への転居は昭和九(一九三四)年の初夏で、雌犬「マル」を飼い始めたのは昭和一一(一九三六)年の初めであったから、私はこれを昭和九年か翌十年のロケーションと見たい。貞恵との結婚(昭和八(一九三三)年三月)から一年半か二年半後のこととなる。私はこの短章が、涙が出るほど好きである。
「嗟嘆」この場合の「さたん」は、ひとしきり感心して褒めること・嘆賞の謂いである。
「日盛」「ひざかり」。
「芥箱」「ごみばこ」。
「梅燒酎」自家製の梅酒。]
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