吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「机」
机
私のいま使つてゐる机は、――机ではなく實は箱なのだが、下に石油箱を橫たへ、その上に木製の洋服箱を重ね、書きものをする高さに調節してゐる譯なのだが、この上の方の輕い箱には蓋も附いてゐて、それが押匣の代用にもなり、原稿用紙や鳥渡したものを容れておくのに便利だ。もともと、これは洋服箱ではなく、實は妻が嫁入する時持つて來たもので、中には彼女が拵へた繻子の袱紗や、水引の飾りものが容れてあつた。
私は昨年の二月、千葉の家を引上げ、郷里の兄の許に移ると、土藏の中で、この箱を見つけた。妻が嫁ぐとき持つて來た品々は、まだその土藏の長持の中に呼吸づいてゐて、それが私の嘆きを新たにした。警報がよく出てあはただしい頃ではあつたが、私は時折、土藏の二階へ行つて、女學生の頃使用してゐたものらしい物尺や筆入などを眺めた。はじめて島田を結つたとき使つたきり、そのまま埋沒されてゐた頭の飾りも出て來た。私は刺繡の袱紗の上に、綺麗な櫛など飾つて四五日眺め、やがて一纏めにすると妻の郷里へ送り屆けた。それから空箱になつた木の箱には、私の夏の洋服やシヤツを詰めて、田舍の方へ疎開させておいた。
原子爆彈のため、廣島の家は灰燼に歸し、久しく私が使用してゐた机も本箱も、みんな喪はれた。だが、八幡村へ疎開させておいた洋服箱は無事であつた。私は八幡村の農家の二階で、この箱を机の代用にすることを思ひつき、そこで半歳あまり、ものを書くのに堪へて來た。昭和廿一年三月、私は東京の友人のところへ下宿することに決心したが、荷物を送り出すについて、この箱が一番氣にかかつた。薄い板で出來てゐる箱ゆゑ、もしかすると途中で壞れてしまひさうだし、それかといつて、どうしても諦めてしまふことは出來なかつた。私は材木屋で枠になりさうな板を買ふと、奮然としてその箱に枠を拵へた。實際、自分ながら驚くべき奮鬪であつたが、やがて、その箱は他の荷物と一緒に無事で友人の許に屆いてゐた。
[やぶちゃん注:「押匣」これは限りなく「抽匣」(ひきだし)の誤字か誤植と思われるが、ママとした。「抽匣」の用例なら原民喜「幼年畫」の「靑寫眞」に多出する。
「鳥渡したもの」「ちよつとしたもの(ちょっとしたもの)」。
「繻子」「しゆす(しゅす)」と読む。布面(ぬのおもて)が滑らかで、つやがあり、縦糸又は横糸を浮かして織った織物。
「袱紗」通常、茶道(貞恵は茶の湯をやった)のそれは「帛紗」と書く。道具をぬぐったり、盆・茶托の代用として器物の下に敷いたりする絹布。普通は羽二重で出来ており、縦を九寸(約二十七センチメートル)、横を九寸五分(約二十九センチメートル)ほどに作る。
「水引」紙縒(こよ)りに米糊(こめのり)を引いて干し固めたものを三本或いは五本並べて固めたもの。贈り物の飾り紐とし、慶事・弔事など用途に応じて用いる色や結び方に決まりがある。
「昨年の二月、千葉の家を引上げ、郷里の兄の許に移る」民喜は昭和二〇(一九四五)年一月末に千葉の登戸の家を引き払って、広島市幟町の実家(当時は三男信嗣が継いでいた。長男次男は夭折)へ戻っている。これは底本年譜によれば『疎開』目的であった。そこで彼は原爆に遇うこととなったのである。
「妻の郷里」広島県豊田郡本郷町(現在の三原市本郷町)。
「田舍の方」後に出るように「八幡村」のこと。広島県の旧山県郡八幡村(現在の北広島町内)。
「昭和廿一年三月、私は東京の友人のところへ下宿することに決心した」実際の上京は同年(一九四六年)の翌月の四月で、「友人」とは大森区馬込に住んでいた、中学以来の友人で詩人の長光太のこと。]
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