ブログ810000アクセス突破記念 原民喜「雲の裂け目」 (恣意的正字化版)
雲の裂け目 原民喜 (恣意的正字化版)
[やぶちゃん注:本篇は昭和二二(一九四七)年十二月号『高原』に発表され、原民喜の死後の昭和二八(一九五三)年に刊行された角川書店版作品種第二巻で民喜自身の配列に基づいて、「美しき死の岸に」の中の「画集」と「魔のひととき」の間に配された。
底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅱ」に拠ったが、殆どの漢字を恣意的に正字化した。その理由は既に何度も述べているので、繰り返さない。ともかくも民喜自身の直筆原稿に遙かにこうした方が近づけると私は固く信じているからである。
最初に簡単な注を先に附しておく。
作中、「僕」(「薰」)の「五十を過ぎた」「多年宿痾の療養をなほざりにしてゐた」「亡父」のことが主に述べられてゆくが、二〇一六年岩波文庫刊「原民喜全詩集」巻末の竹原陽子氏の手に成る「原民喜年譜」によれば、民喜の父貞吉(広島の幟町(のぼりちょう:現行の呼び名もこの通り、但し、ネット情報では「まち」と呼んでいたこともあるとあった)の実家で「原商店」として陸海軍・官庁用達の縫製業(軍服・テント等の製造・卸)を経営していた)は大正六(一九一七)年二月二十七日に享年五十一で胃癌のために亡くなっている。逝去当時の民喜は満十一歳で広島師範学校附属小学校五年(この年四月に六年に進級)であった。本篇第二パートの冒頭では「僕といふ少年が父親の死を境に變つて行つた姿をくりかへし繰返し考へてゐた」と出るが、竹原氏は大正六年の父の死の記事の後に、『やさしく庇護者であった父を亡くしたことで、家族や店の従業員との人間関係に微妙な変化が生じ、「世に漲(みなぎ)る父性的のもの」の圧迫を感じ、死の問題を抱えて無口で内向的な性格にな』ったとされ、『この頃から、二階の自室から見える楓に愛着を感じ、霊魂のやすらう場所と思うようになった』と本篇の終りのパートに即した記載をしておられる(この楓は民喜の他作品にもしばしば登場する。最古期の詩篇「楓」などを参照されたい)。因みに、この「世に漲(みなぎ)る父性的のもの」というのは、二〇〇六年にまさにこの竹原氏が発見された本「雲の裂け目」の初期自筆草稿と推定される原稿からの引用である。それを報じた『朝日新聞』の『原民喜の短編「雲の裂け目」 初期の草稿発見』(二〇〇八年三月十一日ネット記事。現在も閲覧可能)の記事中に、自筆原稿から『父を失つてからの私は、何かこの世に漲(みなぎ)る父性的のものに絶えず威あつされて……人と争ふことも親しむことも好まず内側へ内側へと消え入らうとした。さうして、何時(いつ)までたつても、一人立の出来ない大人になつてゐた』と引用され(「……」は記事編者の省略か)、記事は続いて、『また草稿には、父の臨終をいつか書きたいと思いながら〈何故(なぜ)か微妙なつかへがあつて書けなかつた〉と記しており、冒頭には〈私の父は大正六年二月二十七日夜半に死んだ〉と書きながら線で消している。いずれ直視すべき自らのトラウマに、ようやく取り組んだ作品であることが伺える』。『発見した竹原さんは「これまでも父の死がトラウマの原因だったと推定はされていたが、民喜自身が具体的に書いたものはなかった。〈父性的のもの〉に威圧されて、などと、自らの心理をつづった記述はこの草稿が初めて。草稿では発表作よりも内面が赤裸々に書かれていて、自己克服するために父の死をとらえ直す必要があったのでしょう」とみる』とあり、本作を鑑賞する上で、というよりも、被爆体験ばかりが意識されることの多い民喜の「死」への独特の傾斜感覚が、妻貞恵との死別(昭和一九(一九四四)年九月二十八日)、そしてそれより遙か前の、この父との死別へと遡るものであるらしいことは非常な示唆に富む指摘である。なお、この原稿の全文と解説は、同年四月十日発売の『三田文学』春季号に掲載されている(私は未見。されば敢えて新聞記事を引用させて戴いた)。
第七段落の「お前と一緒に暮してゐたあの旅先の借家」「旅先」とあるが、叙述から推して、これは十年余りをほぼ妻貞恵と二人で過ごした、千葉の登戸(のぶと)の家をモデルとしているように思われる。
同段落の「火がいこつてゐたし」は当初、「おこつてゐたし」の誤字かとも思ったが、第二パートにも出るから、これは「憩う・息ふ」で、炭が赤くほっこりと火を起こしていた、の謂いと思われる(「(火が)おこる」の広島弁の可能性も考えたが、辞書やネットでは現認出来なかった)。
第二パートの第一段落内の「ほんとうに臺所の窓は薄暗くなつてゆくやうだつた」の「ほんとう」はママ。
第二パート第四段落中の「隣境の黑い坂塀が取除かれて」の「坂塀」はママであるが、これは「板塀」の誤りではあるまいか? 坂に面した塀を意味する「坂塀」という熟語はあるので、暫くママとする。
隣家の台所の中央にある「車井戸」とは、所謂、滑車の溝に掛け渡した綱の両端に釣瓶(つるべ) をつけて綱を手繰って水を汲み上げるタイプの井戸のこと。
「睥みつけて」「にらみつけて」。民喜の好む用字である。
なお、本テクストは私のブログの810000アクセス突破記念(つい数分前)として公開する。【2016年5月8日 藪野直史】]
雲の裂け目
お前の幼な姿を見ることができた。それは僕がお前と死別れて郷里の方へ引あげる途中お前の生家に立寄つた時だつたが、昔の寫眞を見せてもらつてゐるうちに、庭さきで撮られた一家族の寫眞があつた。それにはお前の父親もゐて、そのほとりに、五つか六つ位の幼ないお前は眼をきつぱりと前方に見ひらいてゐて、不思議に悲しいやうな美しいものの漲つてゐる顏なのだ。こんな立派な思ひつめたやうな幼な顏を僕はまだ知らなかつた。さういへば、お前と死別れて間もない頃、お前の母はこんな話を僕にしてくれた。
「あの子は小さい時から、それは賢くて、まだはつきり昨日のやうに憶ひ出せるのは、あの家から小川の方を見てゐると、小さな子供達があそこで遊んでゐるのです。さうすると、そこへ學校の先生が通りかかりになると、ほかの子たちは知らぬ顏してゐるのに、あの子だけが路の眞中へ出て來て、丁寧にお辭儀するのです。先生も可愛さにおもはず、あの子の頭を撫でておやりになるのでした。」
僕はそれから、自分の郷里に戾ると、久振りにこんどは僕の幼い姿を見ることができた。その寫眞も家族一同が庭さきに並んでゐる姿なのだが、父親に手をひかれて氣ばつてゐるこの男の子は、もう自分の片割ともおもへないのであつた。そのかはり久振りで見る亡父の姿はつくづくと珍しかつた。ついこの間まで僕は父親といふものを、ひどく遠いところに想像してゐた。ところが今度みる寫眞では、もう殆ど僕の手の屆きさうなところに父親がゐる。僕は土藏の中から父の古い手紙を見つけると、警報の合間には憑かれたやうにそれを讀み耽つた。
僕の父は死ぬる半年あまり前に、病氣の診斷を受けるため、はるばる大阪へ赴いてゐるのだが、その大阪の病院から母へ宛てた手紙が二三あつた。止むを得ない周圍の事情のため多年宿痾の療養をなほざりにしてゐたことを嘆じながら、診斷を受けてみると、もう手遲れかもしれぬと宣告されたときのことだ。何處からも見舞狀もやつて來ないし、父はよほど寂しかつたのだらう。それで僕の父は母に對つてかう訴へてゐるのだ。「お前樣も漸くー通の見舞狀を呉れただけその文面にも只驚いたとの事ばかりにて 私の精神とお前樣の精神は大變に相違して居るのに今更私も驚く外はない小兒が多くて多忙ではあらうが毎日はがきなり又二日に一度なり手紙を下さらぬか 病室には只一人で精神の慰安は更にない」
はたして、これが五十を過ぎた男がその妻に送つた手紙なのだらうか、手紙といふものの微妙さに僕はすつかり驚かされてしまつた。そして、僕はすぐにこれをお前に讀ませたくなると、まるでお前がまだ何處かこの世の片隅に生きてゐるのではないかといふ氣がした。僕はこれを讀むときのお前の顏つきも、その顏つきを眺めてゐる僕自身の顏つきまですつかり想像できるのであつた。だが、かういふ空想に浸つてゐる時でも、僕は自分のゐる家が猛火につつまれる時のことがおもはれてならなかつた。お前と死別れて廣島に歸つて來た僕は今度はここの家の最後の姿を見とどけることになるのかしらと考へてゐた。
そして、間もなくそれはそのとほりになつたのだつた。あれは夏の朝のほんの數秒間の出來事だつた。眞暗な音響ととも四方の壁が滑り墜ち、濛々と煙る砂塵が鎭まると、いたるところに明るい透間と柱が見えて來た。それはおそろしく靜かな眺めだつた。僕はあの時、あの家の最初の姿と最後の姿を同時に見たやうな氣がしたのだつた。間もなく火の手があがりだしたので僕はあの家を逃出して行つたのだが、むかし僕の父が建て、そこで死んで行つた家もあれが見おさめだつたのだ。
あの時から僕はすつかり家といふものを失つてしまつた。しかし、どうしたものか郷里の家の姿はもうあまり僕の眼さきにちらつかなかつた。それなのに、お前と一緒に暮してゐたあの旅先の借家の姿は、あれは僕の内側にあつて、僕はまだどうかすると、あそこでお前と一緒に暮してゐるのではないかしらとおもふのだ。僕はあの立てきつた部屋で何かぼんやり不安と慰籍につつまれてゐた。机の前の窓の外の地面には氷の張つてゐることが感じられたが、僕のゐる部屋は暖かに火がいこつてゐたし、廊下を隔てて隣の部屋にはお前が睡つてゐた。殆ど毎晩僕は同じ姿勢で同じ灰の色を眺め、同じことを考へてゐたらしい。お前が睡つてゐる時間が僕の起きてゐる時間だつたので、僕は僕ひとりの時間が始まると、夜の沈默(しじま)のなかに魅せられながら、やがて朝がやつて來るまでを、凝とあの部屋に坐つてゐた。夜あけ前の微妙な時刻には、ふと、どうしたわけか、死んだ人の生還つてくるやうな幻覺がした。
毎晩、僕たちは夕食後の一ときをあの部屋で過したので、あの部屋には僕たちの會話や、會話では滿たされない無限の氣分が一杯立罩めて行つたやうだ。お前が寢室に引退り僕ひとりになると、僕はよくあの部屋の柱や壁をじつと眺めた。その柱には懷中時計の型をしたゴム消が吊りさげてあつた。あれはお前が女學生だつた頃から持つてゐたゴム消だつたが、僕はあの時計の面の針が一向動かないのがひどく氣に入つてゐた。電燈の明りが夜更になると靜かな流れをなして古ぼけた襖の模樣の上を匐つた。僕はそつと立上つて、壁際にある鏡臺の眞紅な覆ひをめくつてみた。すると、鏡は僕の顏や僕の背後をそつと映してゐる。僕は自分の顏を覗き込むより(何だか古い、もの寂びた井戸の底を覗くやうに)向側から覗いてくるものを覗き込まうとしてゐた。僕はお前の云つてゐたことを思ひ出す。「深夜の鏡で自分の顏を眺めると、怕くなることはありませんか」何氣なくさういふことを云つたお前も、僕を覗き込むよりもつと向側から覗いてくるものを覗き込まうとしてゐたのではあるまいか。よくお前は臨終の話をした。人間の意識が生死の境目をさまよふ時の幽暗な姿を想像するお前の顏には、いつも絶え入るやうなものと魅せられたやうなものが入混つてゐた。そして、僕たちは死のことを話すことによつて、ほんとうに心が觸れあふやうにおもへたものだが……。
僕は絶えずあそこの部屋で自分の少年時代の回想をしてゐた。僕といふ少年が父親の死を境に變つて行つた姿をくりかへし繰返し考へてゐた。僕の父の顏に瞼しい翳が差すことを、僕は十位のときから知つてゐた。恰度、雷雨がやつて來さうになる前の空模樣とか、遠かに光線の加減が變つて死相を帶びる叢の姿にそつくりそれは似てゐた。よく僕は眞晝の家のうちが薄暗くなると、脅えて藻搔くやうな氣持に驅られるのだつたが、時どき僕の父も何かに驅られてもがいてゐるやうな不思議な顏をしてゐた。しかし、父はもう眞暗なものを通り越してゐたのだつた。二ケ月あまり熱病で魘されてゐた父は、やがて病床を離れると、雷雨の去つた後のやうに爽やかな氣分が訪れた。僕はもう父が死ぬるとは考へてもみなかつた。父は快活に振舞つてゐたし、僕も明るい子供だつた。だが、さういふ家のうちの空氣が二三年するとまた妙にこぢれて來た。父は旅に出て行つたし、母は心配相な顏をして父のことを話しだした。僕は薄光りする臺所の板の間に立つてゐた。何か心配なことを話すとき母はいつもそこにゐるのだつたが、すると、ほんとうに臺所の窓は薄暗くなつてゆくやうだつた。それから間もなく母も旅に出て行つた。母は父に追ひついて看護のために出かけて行つたのだつた。僕は母が家のうちからゐなくなると、だんだん不機嫌になつた。ぞくぞくと鳥肌のやうなものが家の隅から迫つて來るし、僕はききわけのない子供になつてしまつた。無茶苦茶な氣特に引裂れて、僕は泣き狂ふのだつた。だが、やがて兩親は家に戾つて來た。すると、僕はすつかり安心したらしかつた。父はまた元どほり生きて還つたのだ。
ところが、ある日、父はみんな彼の部屋に呼び集めたのだ。障子の窓からはひつそりした冬の庭が見えてゐた。父は脇息に凭掛り、その側には母も坐つてゐた。大きな桐火鉢に新しい火がいこつてゐたし、僕のすぐ隣には二番目の兄が手を膝の上に置いて坐つてゐたが、――僕はかうして、みんなが揃つたからには、何かすばらしい團欒が始まるのではないかと思つた。すると、ちよつと浮浮した氣持がした。父はまだ何も云ひ出さなかつたけれども、兄の顏を覗くと、その顏は少し綻びかけてゐた。僕はもう我慢ができなくて、くすりと笑つた。すると、兄も僕に誘はれてくすくす笑ひだした。父はまだ何も云ひ出さうとしない。僕の氣持はをかしさが一杯詰つて、すつかり上づつてしまつた。そのとき漸く父が口を開いた。「けふこれからお父さんが話すことは……」氣がつくと、父の聲はひどく沈んでゐるのだ。だが、僕の彈んだ氣持は容易に鎭まらうとしない。僕は父がしみじみ話し出せば出すほど、その下をくぐり拔けるやうに、くすくす笑つた。その癖、僕はその時の父の言葉はみんな憶えてゐた。
やつぱし父の病氣はただごとではなかつたのだ。父は醫者から胃癌の宣告を受けたのだ。もし手術をして經過が良ければ助かるかもしれないが、この儘ではもう先が見えてゐると云はれたのだ。それで、父は思ひ惑つた揚句、手術を受けることに決心したのだつた。またはるばる手術を受けに旅に出ることになつたのだ。だが、手術で失敗すれば、それきり助からないかもしれないから、これがお別れになるかもしれないのだつた。――話のなか頃から僕は隣に坐つてゐる兄が洟を啜りだすのに氣づいた。見ると、兄の鼻翼を傳つて大粒の涙が流れてゐるのだつた。それでも僕は何か目さきにちらつくをかしさを怺へることができなかつた。そのうちに、父も眼に指をあてて、涙を拭ひだす。僕はもう流石に笑はなかつたやうだが、それでも何か自分ひとり取殘されてゐるやうな、變な氣持だつた。僕は茶棚の上に飾られた翡翠の小さな香爐を眺めてゐた。子供の僕にはどうしてあんなことがおこつたのかわからなかつた。僕はやはり父が死ぬるとは容易に信じなかつたのだらう。
間もなく父は福岡の大學病院に入院して手術を受けることになり、母が附添つて出掛けて行つた。さうするとまた家のうちは薄暗くなり、寒い風が屋根の上を吹いた。僕はときどき、走り𢌞つた揚句など、火照る感覺の向に、ひんやりした西空の翳をおもひ出すことがあつた。庭の池には厚い氷が張り、雪圍ひの棕櫚の藁は霜でふくれ上つてゐた。ふと、僕はひつそりした庭が病氣してゐるやうに思へると、庭の方でもじつと僕を見つめてゐるやうに思へるのだつた。日南の緣側には福壽草の鉢が置いてあつた。あの褐色の衣の中からパツと金色に照り返ってゐる蕾が、僕には何だか朽葉色の夜具の下で藻搔いてゐる熱病の時の父を連想させるのだつた。父はまたあの嶮しい翳を額に押されて、ひどいあがきをつづけてゐる――僕には手術といふことがはつきり解らなかつたが、もの凄い感じだけがわかつた。やがて父は旅先から歸つて來た。手術は無事に終つたらしかつた。だが、家へ戾つて來ると父はすぐ奧座敷に引籠つた儘、寢ついたままであつた。僕はその病室に入ることを許されなかつたし、父の容態がどうなつてゐるのか分らなかつた。ひよつとすると僕はまたあの雷雨の後の爽やかな氣分が訪れてくるのかとおもつた。ところが、ある日、隣境の黑い坂塀が取除かれて、そこから隣の空家へ行けるやうになると、子供たちは晝間はその空家の方で過すことになつた。
僕はその隣の家に絡まる不思議なことがらを知つてゐた。その家は以前は酒屋だつたのが死絶えてしまつたのだ。僕は幼い時、表の方からよくその店さきに遊びに行つたことがあるし、その家族の顏もよく覺えてゐる。ある年そこの主人が亡くなると、若い息子がフラフラ病になつた。そのをとなしい靑年は幼い僕にガリバアの話などしてくれたこともあつたが、僕はもう長い間その姿を見なかつた。僕はある朝その靑年が死んだといふことを聞かされた。恰度その少し前、鴉が妙な啼きかたをしてゐたので、やつぱし、さうでした、と母は不思議さうな顏をした。それから次いで、そこの主婦さんが殺された。一週間ばかし前に傭つた小僧が夜明けがたその主婦さんの枕頭に立ち斧を振つて滅多打にしたのだ。犯人は有金を攫つて逃げたらしかつた。それきり、そこの酒屋は裏戸が鎖され長らく棲む人もなかつた。僕は黑塀越しに見える隣の松の梢に月が冴えてゐるときなど、その方角を振向くのも怕い氣持がした。だから、隣境の塀が取除かれても、僕一人ではとてもその空家へ這入つて行けなかつただらう。僕は兄たちに從いて、裏口から踏込んで行つた。すると薄暗い臺所の中央に深い車井戸があつて、長い綱の垂れ下つた底には水が鏡のやうに覗いてゐた。荒れた庭さきには植木鉢が放り出してある。小さな圓形の厚つぼつたい葉をした草が埃をかむつてゐる。それから隅の方に、紅い椿が淋しさうに咲いてゐる。僕は何か探險でもしてゐるやうな氣持で、黴くさい疊の上を歩き𢌞つた。表の方の戸は鎖ざされてゐるので、家のうちは薄暗かつた。いたるところに怕いものが潛んでゐさうなので、僕は絶えずそれを踏みつけてゐなければならなかつた。僕たちはそこでさんざ騷ぎ𢌞つてゐた。家の方からオルガンが運ばれると、そこは一層賑やかになつた。女中は僕の妹を背に負つた儘オルガンを彈いた。僕はこの幽靈屋敷がだんだん氣に入つた位だつた。しかし、電燈のつかない家だから、日暮になるともう堪らなかつた。僕は逃げだすやうに家の方へ走つて歸るのだつた。
僕は家に戾つて來ると、よく厭な氣分に陷つた。もう久しく母の姿を見なかつたし、大人たちは誰も僕をかまつてくれないのを知つてゐたが、それがどうかすると我慢できなくなるのだつた。僕は臺所の方へ𢌞ると、尖つた聲で從姉を呼びとめた。その次の瞬間には僕はもう自分が狂暴な喚きをあげさうなのを知つてゐたし、すぐ側の火鉢に掛つてゐる鍋がくらくら湯氣をあげてゐるのを僕は睥みつけてゐた。ところが、從姉はそのとき僕の顏を見ると急にとても心配さうな顏つきになり、殆ど哀願するやうな眼つきだつた。「ね、薰さんだつて、お父さんが亡くなられたら悲しいでせう。この間お父さんはこんなことを言つてゐられましたよ。薰はときどき騷いだりするがあれほ僕が死ぬるのを喜んでるのかしら、さうお父さんは私に訊かれたのです。いいえ、いいえ、とんでもない、薰さんだつてお父さんと死にわかれるのは、それは淋しいにちがひありません、心のうちではやつぱし心配してゐるのです、とさうお父さんには申上げておきました」
僕は從姉の言葉を聞いてゐるうちに、側にある鍋の湯氣まで凍ててゆくやうな氣持がした。それからふと僕は父の顏の翳をおもひ出した。すると、それが遙かに怨めしさうな白つぽいものにかはり、それが病室一ぱいに擴がつてゐるやうな氣がした。
僕はその日、學校の一番最後の時間が理科の時間で、先生が次の理科の時間までにしてくる宿題を出したのをおぼえてゐる。僕は次の理科の時間には學校を休んでゐるかもしれないなと考へた。すると、何だか明日からもう學校を休まなけれはならなくなるやうな氣持がした。僕はその頃、女の子が不思議な夢の話をしてゐるのに耳を傾けてゐたことがある。「紅いお月さんの昇る夢をみたら、お父さんが亡くなる。白いお日さんの沈む夢をみたら、お母さんが」二人の女の子はさう云ひながら教室の片隅で靜かに頷き合つてゐるのだつた。その女の子たちは近頃ほんとうに不幸があつたのだから、僕にはどうも不思議でたまらなかつた。僕はその日も學校の歸り路で、ちらりとその夢のことを考へてゐたやうだ。
僕はその夜、寢る前に父の病室に呼ばれて行つた。父は腹這になりながら枕に齧りつくやうにして、顏をもち上げ、喘ぎ喘ぎ口をきいた。「薰か、お父さんはもう助からないが、お父さんが死んだ後は、みんな仲よくやつて行つてくれ」僕は默つてただ頷いてゐたが、間もなく次の間に去つた。それから僕は間もなく床に這入つたのだつた。だが、僕はさきほど見た父の難儀さうな姿がはつきり目に見えて、なかなか睡れさうにない。そのうちに僕はつい夢をみてゐた。圓い大きな紅い月が昇つて來た。僕は夢のなかで、たうとう紅い月の夢をみたなと思つた。それではいよいよ父も死ぬるのかしら、さう考へた瞬間、父の病床がぱつと眼さきに見えて來た。さきほどあんなに喘ぎ喘ぎしてゐた父は今、夜具を跳ねのけると、するすると、疊の方へ匐ひ出して來る。はつとして僕は呻かうとした。そのとき僕は從姉にゆすぶり起されてゐた。「お父さんが……」彼女は急いで僕に着物着替へさせた。僕が父の病室に入つた時、あたりは泣聲に滿ちてゐた。
たうとう父はほんとに死んだのだつた。僕はしかし何か半信半疑の氣持がしてならなかつた。死んだ父の額にはあの不吉な翳が刻まれてゐたし、身を縮めて棺に納まつてゆくときの父はやはり喘いでゐるのではないかとおもはれた。だが、家には大勢の人が集まつてゐたし、埋葬はもの珍しく賑やかだつたので、僕はやはりどうやら、その方に氣をとられてゐる子供だつたのだ。
だが、それから一年位すると、僕はいつの間にか、あの飛んだり跳ねたりしたがる子供の衝動をすつかり喪つてゐた。父の臨終の時の空氣がその頃になつて、ぞくぞくと僕のなかに流れ込んで來た。僕の家の庭の隅にある大きな楓の樹が無性に懷しくおもへだしたのもその頃だ。その樹は恰度父が死んだ部屋のすぐ近くの地面から伸び上り、二階の窓のところに二股の幹を見せてゐたが、僕は窓際に坐つて、靑く繁つた葉の一つ一つの透間にしづかに漾ふ影を見とれた。殆どその楓の樹は僕のすべての夢想を抱きとつてくれたやうであつた。幹には父親のやうな皺があつたが、光澤のいい小さな葉は柔かにそよいでゐた。夜もそこに繁つた葉があることを考へると、ひつそりと落着くのだつた。雨の日はしづかなつぶやきが葉のなかにきこえた。僕はその密集する葉をそのまま鬱蒼とした森林のやうに感じたり、靈魂のやすらふ場所のやうにおもつた。そして、僕はもう同じ齡頃の喧騷好きの少年たちとは、どうしても一緒になれなかつたし、學校の課業にはまるで張合を失つてゐた。僕は子供のとき考へてゐた僕とはすつかり變つてゐる自分に面喰ひだした。僕は何になりたいのか、わからなかつたし、大人たちが作つてゐる實際の世界は僕にはやりきれないもののやうに思へだした。僕は運動場の喧騷を避けて、いつも一人で植物園のなかを歩いた。さうすると、樹木の上の空が無限のかなたにじつと結びつけられてゐるのがわかつたし、樹影の沈默のなかに祕められてゐる言葉がみつかりさうだつた。それから、ふと樹の枝にある花が僕に幼年の日の美しい一日を甦らせたし、父親の愛情がそこに瞬いてゐるやうであつた。僕の頭には、あの莊嚴な宗教畫の埋葬の姿が渦卷き、沈んだセピア色と燃える紅と、光と翳の襞につつまれ、いま僕の父親の死が納まつてゐた。
彈力のある靑空からは今にも天使の吹く喇叭の音がききとれさうであつた。僕は樹の列から列へゆるやかに流れてくる日の光のなかをくぐつて、僕はいつのまにか、中央にある芝生の圓い花壇のところに來てゐた。圓い環のなかではアネモネ、ヒヤシンス、チユーリツプなどが渦卷いてゐて、それはいきなり僕を眩惑させる。僕はエデンの園にゐるやうな氣がした。そして僕はどこか見えないところにゐるイヴの姿を求めてゐるのだつた。
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