忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「門」 / 忘れがたみ~完
門
見たこともない土地の夕暮であつた。若い男がとぼとぼと砂の道を歩いて行つた。糠のやうな砂は男の踵を沒し、一足ごとに疲れは加はつてゐた。それでも男は歩いて行かなければならなかつた。炎暑のほとぼりをもつた空には低く雲が迷つてゐ、行手は茫漠として果しもないやうであつた。
若者は立留まつて、ふと、
「遠い遠い道だなあ」と嘆息した。
「どこを歩いてゐるのです」と、その時頭上の雲の裂間から母親の聲が洩れた。
「遠い、遠い道……」若者はしづかに答へた。
しばらくすると、若者の目の前には大きな大きな琥珀色の石の砦が現れて來た。彼はやや嬉しげにその城門を見上げようとした。だが、城門のてつぺんは目もとどかない大空の高みにあつた。
「高い高い門だなあ」と彼は力無げに呟いた。
「どんな風な門なのです」と今度は前よりもつと感動にふるへる母親の聲がした。
「大きな、大きな門……」彼は低く低くうなだれるやうに應へた。
息子を喪つた婦人が私の妻の七七忌にやつて來て、臨終の話をしてゐた。その話を私はいつのまにか、こんな風な夢につくりかへてゐた。
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