柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(6) 神人目を奉る
神人目を奉る
九州の一つ目信仰には、まだ色々と考へて見るべき點が殘つて居る。薩摩では日置郡吉利(よしとし)村の御靈神社、神體は木の坐像が八幡であつて、尚權五部景政を祭ると傳へて居る。當村鳩野門(はとのもん)に居住する農民某、之を鎌倉より奉じ下る者の苗裔と稱して、今でも此神社の祭典に與かつて居るが、其家の主人は代々片目である(一)代々片目といふことは餘程想像しにくい話だが、斯んなことに迄遠方の一致があつた。甲州では古府中(こふちう)の奧村氏、山本勘助の子孫と稱して、代々の主人が片目であつた(二)山本勘助は果して實在の人物か否かさヘ問題となつて居るが、その生地と稱する三州の牛窪では、左甚五郎も玆から出たと傳へて居る。是が同國橫山の白鳥六所大明神に於て、此神片目なる故に村に片目の者が多いといふ話(三)若くは前に擧げた自分の郷里の隣村などの例と、源頭一つであることは想像してよからう。
[やぶちゃん注:「日置郡吉利村の御靈神社」現在の鹿児島県日置市日吉町吉利の吉利神社。鹿児島県神社庁公式サイトの同神社の記載によれば、祭神は鎌倉権五郎景政で、『相州鎌倉から奉護し』、『勧請したといい、御神体の御鏡には、裏に文禄七年甲戌八月吉日角内蔵左衛門清英の刻銘があって、この年に勧請されたと伝えられる』(この記載が正しいとすると、この刻銘は怪しい。文禄は五年に慶長に改元されており、「文禄七年」は存在しないからである。但し、干支は合っている。西暦一五九六年相当)。『景政公は、相州鎌倉権ノ頭景成の子で、源義家に従い後三年の役に出陣し、敵兵鳥海弥三郎に眼を射られたが、その矢を抜かぬまま弥三郎を追送し、遂にこれを射殺したという武勇が伝えられる。この神を相州より奉じて来た鳩野門は、代々当社の祭祀に与ったとされる』。『また、文禄七年に景政公を祀る以前は、古来より山城国の御霊社を勧請して、御霊八社大明神と称されたともいう。吉利の総鎮守である』とある。
「鳩野門」は本文では明らかに吉利村内の地名であるが、前注の引用ではどうも家名のようにしか読めない。地名と土地の有力者が一致するのはよくあることで、別段、おかしくはない。但し、現在の吉利地区にはこの地名は現存しない模様である。
「苗裔」「べうえい(びょうえい)」で、遠い子孫の意。「末裔」と同じい。
「古府中」現在の山梨県甲府市古府中町。戦国大名で甲斐国守護であった武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)があったことで知られる。
「山本勘助」(明応二(一四九三)年~永禄四(一五六一)年)戦国時代の武将として「甲陽軍鑑」などには武田信玄に仕えた独眼で片足が不自由な天才的軍師として記されている。同書によれば、幼名は貞幸、後に勘助・晴幸としたとする。しかし、武田晴信(信玄)の「晴」の字は、将軍足利義晴の諱の一字を与えられたものであって、それを家臣に与えることは通常、考えられない。ここに出るように三河牛窪(現在の愛知県豊川市牛久保町)の出身とされ、天文一二(一五四三)年に板垣信方の推挙により、信玄に仕えるようになって、次第に認められ、「足軽大将五人衆」の一人に称されるに至った。信玄と上杉謙信が一騎打ちをしたことで知られる永禄四(一五六一)年の川中島合戦に於いて作戦を指揮、失敗したその責任を取って討ち死にしたと伝える。「甲陽軍鑑」が広く読まれたことに加え、近松門左衛門の浄瑠璃及びそれを歌舞伎化した「信州川中島合戦」などで取り上げられることで広く世に知られるようになったものの、その実在については長い間、疑問視されてきた。しかし、弘治三(一五五七)年と推定される六月二十三日附文書中に、信玄が奥信濃の土豪市河藤若に宛てた書状があり、そこに「山本菅助」という名前があることから、近年、実在説が有力になってはきた。しかし、この人物が「甲陽軍鑑」の山本勘助と同一人であるという証拠はなく、実在の人物とするにはなお疑問が多い(以上は「朝日日本歴史人物事典」の笹本正治氏の記載に拠った)。
「左甚五郎」江戸初期の建築・彫刻の知られた名工。出生地は一説に播磨とされるが、紀伊・讃岐説などもあり、一定しない。本姓は伊丹或いは河合。「左」は左ききだったためとも、また、右腕をなくして左手で仕事をしたため、とも伝えられるものの、生涯は未詳で、伝説的要素が強く実在説自体が疑われる人物でもある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
「橫山の白鳥六所大明神」愛知県新城(しんしろ市横川宮ノ前にある白鳥神社か。
「前に擧げた自分の郷里の隣村などの例」前項の「目一つ五郎考(5) 御靈の後裔」を参照。
「源頭一つ」「みなもと/あたまひとつ」と訓じておく。]
さうすると次に間題になるのは、何故に神に其樣な思召があるかといふことであるが、是は單に古くからさうであつたからと、一應は答へて置くの他はあるまい。自分は以前片目の魚の奇瑞に關して、二つ三つの小發見をしたことがあるが、其一つは此魚の住むのは必ず神泉神池であつて、魚の放養が生牲の別置に基いたらしいこと、第二には神が特に魚の片目を要求したまふらしきことであつた。例へば魚釣の歸路にあやかしに逢ひ、還つて魚籠を開いて見たら悉く眼を拔いてあつたといふ話があつて、遠州の南部などでは深夜天狗が殺生に出ると稱して、神火の平野水邊を來往するを見ることがあるが、其當座には水田に泥鰌の片目なるものを多く見かけると謂つて居た(四)東京の近くでは上高井戸村醫王寺の藥師の池に、眼を患ふる者一尾の川魚を放して祈願を籠めるが、其魚類は何時となく皆片目になつて居る、夏の出水の時などに下流で片目の魚を撈ひ得たときは、是は藥師の魚だといつて必ず右の池に放すといふことである(五)即ち數限りも無い同種の言ひ傳へは、大抵は神が其方を喜ばるゝ故と、説明することが出來るのである。
[やぶちゃん注:「遠州」遠江(とうとうみの)国。現在の静岡県西部地区に当たる。この話、私は酷似したものを以前に全く別な近世随筆で読み、注も附したようにも思うのだが、思い出せず、出て来ぬ。後で追加するかもしれない。
「上高井戸村醫王寺」現在の杉並区上高井戸にある真言宗明星山遍照院医王寺。同寺については、いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」のこちらに詳しいが、それによると『江戸時代以後、この寺が「おめだま薬師」「眼病にきく薬師様」といわれ、寺の境内に毎月十二日、「おめだま薬師大護摩供」が修行されて参詣者でにぎわ』い、『旧境内の薬師の池は湧水であったので渇水することがなく、また眼病平癒のため放した魚が一眼になるという伝説があ』るとする。明治初めに廃仏毀釈のために廃寺となったものの、『薬師堂だけは関東大震災の大正十二年(一九二三)まで、現在地より南側の甲州街道に面したところに残ってい』たとあり、その翌年、現在の場所に再興が叶ったとある。「杉並区の寺院」よれば、『江戸時代の当寺は、本堂は南面し、本尊は「大日如来」で、薬師堂が西面して「薬師如来」が安置されていた。このお薬師様は眼病に大変霊験があらたかだった為、近隣・近郷の人々から信仰を集めた。ところが、明治初年廃仏毀釈令により廃寺となり、本寺「三宝寺」に合併された。本堂は高泉小学校の仮校舎となり、近隣住民の強い要望で「薬師堂」を残し、毎月十二日の縁日には「おめだま」「おめだま薬師」といわれた行事が昭和二〇年終戦の年まで毎月続けられた。大正一二年の震災後「薬師堂」は倒壊したが、無事であった薬師像を奉じた檀徒が再興を企てて三宝寺三三世融憲を招請し、大正一四年に伽藍が再興され、昭和一七年には寺名も復した(大正一四年当時は寺院新設禁止中のため別名を用いた)。そして「おめだま薬師」法会も復活し、現在も毎年一〇月一二日に行われている。また、眼病平癒祈願のために、この池に魚を放生すると魚が片目になるという「薬師の池」も残されている』とある。
「撈ひ」「すくひ」と訓ずる。網ですくう。]
しかも生牲が魚である場合には説明は寧ろ容易で、斯くして神の食物を常用と區別し、其淸淨を確保したと言へるのだが、其理論は推して他の生物には及ぼし難い。加賀の大杉谷では、那谷(なた)の奥の院と稱する赤瀨の岩屋谷の觀昔堂附近に於て、大小の蛇悉く片目なりといふこと、恰も佐渡金北山の御蛇河内の如くであつた。現在は物語風にやすと稱する片目の女、旅商人に欺かれて、恨を含んで身を投げて死んだなどゝいふが、今でも小松の本蓮寺の報恩講には、必ず人知れず參詣すると稱して、本來は信仰に基いたらしい言ひ傳ヘであつた(六)越後頸械郡靑柳の池の主なども、附近の某大寺の法會の折に人知れず參拜して、後に心付くと一つの席が濡れて居るなどゝ謂つたが、是はもと安塚の械主の杢太といふ武士で、美しい蛇神と緣を結んで池に入つて主になつた。それで此池の魚も片目になつたといふ(七)野州上三川(かみのかは)城址の濠の魚も皆片目だが、是は慶長二年五月の落城のとき、城主今泉氏の愛娘が身を投げて死んだ因緣からといふ(八)其際匕首を以て一眼を刺して飛込んだといふからには、是も亦同系の話である。作州白壁の池にも片目の鰻住み、玆にも曾て片目の馬方が、茶臼を馬に負はせて來て引込まれたといふ話があつた(九)同じ例は尚多からうと思ふが、何れも水の神が魚のみか人の片目なる者をも愛し選んだといふ證據であつて、それは勿論食物としてゞは無く、多分は配偶者、少なくとも眷屬の一人に加へる場合の、一つの要件の如きものであつたのである(二〇)
[やぶちゃん注:「大杉谷では、那谷(なた)の奥の院と稱する赤瀨の岩屋谷の觀昔堂」現在の石川県小松市赤瀬町(まち)にある小松市那谷町那谷寺奥の院である、観世音菩薩を祀った赤瀬那殿。
「佐渡金北山の御蛇河内」既出既注。「神蛇一目の由來」参照。
「本蓮寺」現在の石川県小松市細工町にある浄土真宗本蓮寺。この話(この話は柳田國男の「日本の傳説」(昭和五(一九三〇)年アルス刊)ではもう少し丁寧に(子供向けであるから当然)書いていある(ルビは概ね省略した。傍点は下線とした)。
*
昔赤瀨の村に住んでいたやす女(な)といふ者は、すがめのみにくい女であつて男に見捨てられ、うらんでこの淵に身を投げて主(ぬし)になつた。それが時折(ときを)り川下の方へ降りて來ると、必ず天氣が荒れ、大水が出るといつて恐れました。やす女(な)の家は、もと小松の町の、本蓮寺(ほんれんじ)といふ寺の門徒であつたので、この寺の報恩講(ほうおんかう)には今でも人に氣付かれずに、やす女(な)が參詣して聽聞(ちやうもん)のむれの中(なか)にまじつてゐる。それだから冬の大雪の中でも、毎年この頃(ごろ)には水が出るのだといひ、また雨風の強い日があると、今日は赤瀨のやすなが來さうな日だともいつたさうであります。(三州奇談等。石川縣能美郡大杉谷村赤瀨)
*
「越後頸械郡靑柳の池の主なども……」以下の話は既出既注。「一目小僧(十二)」を参照のこと。
「野州上三川(かみのかは)城址」全集版では『上川(かみのかわ)』とするが誤り。これで正しい。講談社の「日本の城がわかる事典」には「上三川城」で「かみのかわじょう」と読みを振る。それによれば、現在の栃木県河内郡上三川町にあった平城で、『同町市街地の中心部に位置し、鎌倉時代から安土桃山時代まで』三百八十四年間、続いた城である。建長元(一二四九)年、『宇都宮頼綱の二男の頼業が横田城を築城したが、その後上三川城を築いて居城とした。頼業の家系はこれ以降、横田氏を名乗ったが』、第十二代の元明の時に、『今泉姓に変えている。上三川城は多功城とともに宇都宮氏の本城である宇都宮城の南を守る重要な拠点となった。この城は上杉謙信や武田信玄、北条、水谷などの軍勢の攻撃をたびたび受けたが、これを撃退したことから武勲の城として知られるようになった。しかし』、慶長二(一五九七)年、『主家の宇都宮家の嗣子問題がこじれて芳賀高武の夜襲を受け、城主の今泉高光は城を逃れて菩提寺の長泉寺で自害し、上三川城は落城して今泉氏も断絶した。現在、城跡は市街地化が進んで、本丸のみを残すだけになっているが、土塁などが残り、上三川城址公園として整備されている』とある。
「匕首」「あいくち」。
「作州白壁」前の「一目小僧(十二)」で「岡山縣勝田郡吉野村大字美野の白壁の池」と出るものである。]
自分は力めて根據の乏しい想像を避けようとして居るが、尚一言を費さゞるを得ないのは、夙く古淨瑠璃の中に影を潛めた權五郎雷論(いかづちろん)である。或は「景政いかづち問答」と題する曲もあつて、現存のものは終始金平式武勇を演じ、雷は單に名刀の名に過ぎぬが之を若君誕生の祝に獻上したといふのを見ると、何か上代の天目一神神話から筋を引いたものがあるのでは無いか、尚本文に就て考究して見たいと思ふ(一一)眇をカンチといふのは鍛冶の義であつて、元此職の者が一眼を閉ぢて、刀の曲直をためす習ひから出たといふことは、古來の説であるが自分には疑はしくたつた。秋田縣の北部では、カヂといふのは跛者のことである(一二)恐らく足の不具たる者の此業に携はつた結果であつて、別に作業の爲にそんな形を眞似たからではあるまい。作金者天目一箇の名から判ずれば、事實片目の者のみが鍛冶であつた故に、眇者を金打(かぬち)と名けたと解するのが自然である。本來鍛冶は火の效用を人類の間に顯はすべき最貴重の工藝であつた。同時に又水の德を仰ぐべき職業でもあつた。日木では火の根源を天つ日と想像し、雷を其運搬者と見たが故に、乃ち別雷系の神話は存するのである(一三)之を語り繼ぎ述べ傳へた忌部の一派が、代々目一つであつたにしても怪むに足らぬ。たゞそれが一轉して猛く怒り易い御靈神となり、又多くの五郎傳説を派生するに至つた事由のみは、上代史の記錄方面からは説き盡すことが六つかしいのである。
[やぶちゃん注:「古淨瑠璃」人形浄瑠璃の義太夫節以前に存在した諸流派。十五世紀に語り始められた「浄瑠璃十二段草子」が語り物の一ジャンルを形成して十六世紀末から十七世紀初めにかけて三味線・人形と結んで人形浄瑠璃芝居が確立した、その初期のものを指す。
「權五郎雷論」「景政いかづち問答」私は不学にして聴いたことも見たことも読んだこともない。注(一一)の私の注のリンク先を参照されたい。
「金平式」「こんぴらしき」と読み、「金平」は金毘羅権現のことを指す。金毘羅権現とは香川県西部の琴平山(象頭山)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合神(本地仏は不動明王・毘沙門天・十一面観音など諸説あるが、祭神の方は本来は不詳で、大物主(三輪大明神)・素戔嗚尊説などがあったが、現在は大物主とする)。ウィキの「金毘羅権現」によれば、象頭山松尾寺の『縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、不動明王を本地仏とした』。『クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた』。長寛元(一一六三)年には『崇徳天皇が象頭山松尾寺金光院に参籠した』ことから、『御霊信仰の影響で』永万元(一一六五)年からは崇徳天皇も『象頭山松尾寺金光院に合祀された』とある。『修験道が盛んになると金毘羅権現の眷属は天狗とされた。『和漢三才図会』には「当山ノ天狗ヲ金比羅坊ト名ヅク」と記された。また、戦国時代末に金毘羅信仰を中興した象頭山松尾寺金光院』第四代別当で『修験者でもあった金剛坊宥盛は、死の直前に神体を守り抜くと誓って天狗になったとの伝説も生まれた』とあり、この最後の辺りが、柳田の言う荒事の謂いと関係があろうか。
「恐らく足の不具たる者の此業に携はつた結果であつて、別に作業の爲にそんな形を眞似たからではあるまい」ここ以降の柳田の推理には私は賛同出来ない。例えば、鍛冶・冶金師は鞴を踏み続ける必要があり、足の不自由な者が選ばれてそれをしたとは私には考えられないからである(彫金師ならばその可能性はある。例えば、嘗ての鼈甲細工師の中には有意に多く、下肢に障碍を持っておられた方が含まれていた)。
「事實片目の者のみが鍛冶であつた故に、眇者を金打(かぬち)と名けたと解するのが自然である」何故、柳田は職業病が素のその職の呼称と成ることはないと考えるのであろう? 冶金には高熱が必要であり、その温度は視認による焰の色によって知るしかなかったから、彼らは長い時間、炉に空けた小さな穴から灼熱の火を見つめ続けねばならなかった。彼らの片目に障碍が発生するのは確かな職業病であったと考えて、私は何ら、不自然とは思わない。
「火の根源を天つ日と想像し、雷を其運搬者と見た」非常に納得出来る。ホモ・サピエンスが火を手に入れるというシークエンスを考える時、火山の噴火口から火を採るよりも、落雷による自然発火の火の採取の方がずっと日常的であり、納得も出来るからである。
「別雷系の神話」「別雷」は「わけいかづち」と訓ずる。賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)などの雷神系神話である。賀茂別雷命は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神。記紀神話には登場しない。ウィキの「賀茂別雷命」によれば、「山城国風土記」逸文には、『賀茂建角身命の娘の玉依姫が石川の瀬見の小川(鴨川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた』ので、『それを持ち帰って寝床の近くに置いたところ玉依日売は懐妊し、男の子が生まれた。これが賀茂別雷命である。賀茂別雷命が成人し、その祝宴の席で賀茂建角身命が「お前のお父さんにもこの酒をあげなさい」と言ったところ、賀茂別雷命は屋根を突き抜け天に昇っていったので、この子の父が神であることがわかったという。丹塗矢の正体は乙訓神社の火雷神であったという』。但し、『神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」ではない』ともある。
「たゞそれが一轉して猛く怒り易い御靈神となり、又多くの五郎傳説を派生するに至つた事由のみは、上代史の記錄方面からは説き盡すことが六つかしいのである」こんなことは当然である。彼らは大和朝廷によって統御された天孫降臨系の神話体系とは全く異なる、土着の自然崇拝の中にある、本邦の真の神の「系」に属する神々の一人だからである。当時の官学の権威者であった柳田精一杯のしょぼい誠意の一言である。]
(一) 薩隅日地理纂考卷四。
[やぶちゃん注:明治四(一八七一)年に刊行された鹿児島県私立教育会編「薩隅日地理纂考」(さつぐうにちちりさんこう)。本格的な最初の鹿児島県地誌である。]
(二) 山中翁共古日錄卷七。此古城の堀の泥鰌も皆片目といふ。
[やぶちゃん注:「共古日錄」既出既注であるが、改めて詳注する。山中共古(嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年 本名・笑(えむ))の日記。幕臣の子として生まれる。御家人として江戸城に出仕し、十五歳で皇女和宮の広敷添番に任ぜられた。維新後は徳川家に従って静岡に移り、静岡藩英学校教授となるが、明治七(一九七四)年に宣教師マクドナルドの洗礼を受けてメソジスト派に入信、同十一年には日本メソジスト教職試補となって伝道活動を始めて静岡に講義所(後に静岡教会)を設立、帰国中のマクドナルドの代理を務めた。明治一四(一九八一)年には東洋英和学校神学科を卒業、以後、浜松・東京(下谷)・山梨・静岡の各教会の牧師を歴任したが、教派内の軋轢が遠因で牧師を辞した。その後、大正八(一九一九)年から青山学院の図書館に勤務、館長に就任した。その傍ら、独自に考古学・民俗学の研究を進め、各地の習俗や民俗資料・古器古物などを収集、民俗学者の柳田國男とも書簡を交わしてその学問に大きな影響を与えるなど、日本の考古学・民俗学の草分け的存在として知られる。江戸時代の文学や風俗にも精通した。日記「共古日録」は正続六十六冊に及ぶ彼の蒐集資料集ともいうべきものである。(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。]
(三) 早川孝太郎君「三州橫山話」。
[やぶちゃん注:「早川孝太郎」(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年)は民俗学者で画家。ウィキの「早川孝太郎」によれば、愛知県出身で、『画家を志して松岡映丘に師事、映丘の兄柳田國男を知り、民俗学者となる。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し』、昭和一九三〇五年には「花祭」を『刊行。農山村民俗の実地調査を行った』とある。「三州橫山話」は大正九(一九二一)年郷土研究社刊。]
(四) 郷土研究四卷参〇九頁、渡邊三平君。
[やぶちゃん注:「渡邊三平」『郷土研究』の投稿記事に複数出るが事蹟は不詳。]
(五) 豐多摩郡誌。俗名所坐知抄卷下に、陸奧の三日月石。眼の祈願の禮物に鮒泥鰌を此邊の溝川に放てば、一夜にして其魚片目を塞ぐとある。
[やぶちゃん注:「豐多摩郡誌」東京府豊多摩郡編「東京府豊多摩郡誌」(大正五(一九一六)年刊)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該箇所を視認出来る。
「俗名所坐知抄」保宋斎槃雅(ほそうさいはんが)著「狂歌俗名所坐知抄」のこと。寛政七(一七九五)刊。]
(六) 石川縣能美郡誌九一三頁。
[やぶちゃん注:「石川縣能美郡誌」石川県能美(のみ)郡編。大正一二(一九二三)年刊。]
(七) 越後國式内神社案内。
[やぶちゃん注:藤原武重著天明二(一七八二)年刊。]
(八)「日本及日本人」の郷土光華號。
[やぶちゃん注:「日本及日本人」明治四〇(一九〇七)年から昭和二〇(一九四五)年二月まで政教社から発行された言論雑誌。大正一二(一九二三)年秋まで国粋主義者三宅雪嶺が主宰した。「郷土光華號」は、その大正四(一九一五)年刊行の臨時増刊号の名。]
(九) 東作誌。
[やぶちゃん注:津山藩軍学師正木輝雄(まさきてるお ?~文政六(一八二四)年)が個人的に調査・著述・編集を行った、先行する森家津山藩の公的地誌「作陽誌」が扱わなかった美作国の東部六郡(東南条郡・東北条郡・勝南(しょうなん)郡・勝北(しょうぼく)郡(この二郡は後の明治三三(一九〇〇)年の郡制の施行で勝田郡となった)・英田(あいだ)郡・吉野郡)を対象とした地誌。ウィキの「東作誌」によれば、原型は文化一二(一八一五)年に出来たが、文政六(一八二三)年の死の直前まで編著を行っていたと推定される。正木の死後、『津山藩に献上されたが、複写・活用されることなく死蔵されてしまう』。嘉永四(一八五一)年、『江戸藩邸で儒官昌谷精渓(さかや
せいけい)が死蔵されていた『東作誌』を発見。欠本散佚があったため修復して編集し直し、これが現在伝わる『東作誌』の元となっている』。『当時の津山藩は正木の活動に御内用として補助金を支給していたが、あくまで『東作誌』は正木の個人事業であり、費用の多くは自弁で公的許可もなかった。その為、正木は廻村時の他領調査を「潜行」と称している』とある。]
(一〇) 及川氏の筑紫野民譚集一四一頁には、人蛇婚姻の一話に伴なうて、蛇神が眼を拔いて人間の幼兒に贈つたといふ珍しい一例がある、詳しく考へて見たら所謂三輪式説話の新生面を開くであらう。
[やぶちゃん注:「筑紫野民譚集」及川儀右衛門著。大正一三(一九二四)年郷土研究社刊。福岡県中西部の現在の筑紫野市(ちくしのし)一帯の民話集と思われる。]
(一一) 繪入淨瑠璃史中卷五〇頁。今あるものは爲義産宮詣と稱する。自分はまだ親しく見たのでは無い。
[やぶちゃん注:「繪入淨瑠璃史」水谷弓彦著大正五年(一九一六)刊。
「爲義産宮詣」「ためよしうぶすなまうで」と訓ずる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで前記の当該箇所を読むことが出来る。]
(一二) 東北方言集に依る。
[やぶちゃん注:「東北方言集」大正九(一九二〇)年仙台税務監督局編のそれか。]
(一三) 此間題は海南小記「炭燒小五郎が事」に幽かながら述べて置いた。八幡神はもと水火婚姻の神話の中心であつたことは、他にも推測の根據がある。
[やぶちゃん注:『海南小記「炭燒小五郎が事」』「海南小記」は大正一四(一九二五)年四月大岡山書店刊。]