忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「椅子」
椅子
おまへが靜かに椅子に横たはり、あたりもひつそりとして吐く息、吸ふ息を數へながら、うつとりとしてゐると、空氣も爽やかに澄み亙り、おまへのふるさとの山のはざまの靑空が浮かび、とびかふ小鳥のさへずりもきこえ。
おまへが椅子のうへで頰を火照らしてゐるとき、海の近いこの土地の、わるい濕氣や、南風や、苛立たしい光線などが皮膚のすみずみに甦り、何もかも堪へ忍ばねばならぬ人間のかなしさがむねをふさぎ。
おまへの嘆き、歡び、背の恰好をのこしてゐる椅子。
[やぶちゃん注:第一段落と第二段落の行空けはママ。
「海の近いこの土地」民喜夫妻が当時住んでいた千葉県千葉市登戸(のぶと)町(現在の千葉市中央区登戸)のことを指すと考えてよい。地図を見ていると、当時の登戸地区の海岸側は海から六百メートル(或いはもっと遙かに短い)圏内にあったものと思われる。現在の千葉街道登戸交差点の直近にあるバス停に「登戸海岸渚跡」という名を見出せる。]
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