忘れがたみ 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「けはひ」
けはひ
ごそつと机の引出を開ける音がする。紙をめくつてゐるけはひがする。……私が徹夜して書いた原稿を讀んでゐるのだ。紙をめくる音も歇む。障子にはたきをかけだしたやうだ。……その頃私は床にゐて、妻の動作をぼんやり感じてゐるのが好きだつた。
いいものが書けた時は、妻の顏色も爽やかであつた。私も救はれるやうな氣持がした。だが、いいものは書けず、徹夜しても白紙のままのことが多かつた。そんな時、私は妻の動作の微細なところまで氣に懸つた。……俎でコトコト菜葉を庖丁で叩いてゐる。コトコトといふ細かい音の中に何ともしれぬ憂鬱が籠つてゐる。私は暗默に咎められてゐるのだつた。
このやうにして、昔の月日は水のやうに流れて行つた。……だが、近頃でもひとり家にゐると、私はどこか見えない片隅に懷しいもののけはひを感じる。自分の使ふペンの音とか、紙をめくる音のなかに、いつのまにやら、ふと若い日の妻の動作の片割れが潛んでゐる。
[やぶちゃん注:太字「はたき」は底本では傍点「ヽ」。]
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