吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「葡萄の朝」
葡萄の朝
私は靑白い中學生だつた。夏が來ても泳がうとはせず、二階に引籠つて書物を讀んでゐた。だが、さうした憂欝の半面で、私のまはりの世界は、その頃大きく呼吸づき、夏の朝の空氣のやうに淸々しかつた。
家の裏には葡萄棚があつて、涼しい朝の日影がこぼれ落ちてゐる。私はぼんやりその下にゐた。すると、ふと、その時私は側にやつて來た近所の小父の聲で我にかへつた。
「少しは水泳にでも行つたらどうだね。この子を見給へ、毎日泳いでるので、君なんかよりづつと色黑だ」
さう云はれて、彼の側にくつついてゐた小さな女の兒は、いま私の視線を受け、羞みと得意の表情で、くるりと小父の後に隱れてしまつた。
ある朝の、ほんの瞬間的な遭遇であつた。その少女が、私の妻にならうとは、神ならぬ私は知らなかつたのだ。
[やぶちゃん注:短章ながら、とても印象的な映像である。当初、私はこの標題は「葡萄の棚」の誤植ではないかと疑っていた。しかし、注を附すために熟読するほどに、これはやはり「葡萄の朝」なのだ、と得心したのであった。でなくて民喜は「神」を最終行には出すまい、と私は読んだのである。貞恵は遺言を綴った手帳に「マタイ伝」の一節を引いている(私の原民喜「忘れがたみ」の「手帳」を参照されたい)。
「私は靑白い中學生だつた」原民喜は大正七(一九一八)年三月に県立広島師範学校附属小学校を卒業後、広島高等師範学校附属中学校(すぐ上の兄四男守夫が在学中)を受験したが不合格で四月から尋常小学校高等科に入学、改めてよく大正八(一九一九)年四月に広島高等師範学校附属中学校を再受験して合格、ここに五年在学した(但し、四年修了で大学予科の受験資格が与えられたため、五年進級後は一年の間、登校せず、文学に親しんだ)から、ここは民喜満十三歳から十七歳までの、夏のシークエンスである。底本年譜によれば、この在学中、『級友も教師も原民喜の「声」を殆ど聞いたことがなかった』とある(同全集第一巻の長光太の「解説」に基づくが、そこではもっと強烈で、『中学でのこの四年のあいだ、同級生も教師もだれも原民喜の声を、まったくただの一言も、返事の声も聞いたものがいない』(!)という民喜の若き日よりの盟友であった熊平武二の証言を載せているのである)。貞恵は明治四四(一九一一)年生まれで民喜より六つ下であるから、当時七歳から十一歳となる。
「小父」民喜は親族の場合には「伯父」「叔父」の語を用いて区別するので、この「小父」は、年下の人間が親族以外の壮年期以降の成人男性を指して呼ぶ一般的用語と採れる。「小父」を赤の他人ではなく、父母の兄弟以外の親族である、例えば従兄弟(いとこ)の伯父(叔父)や父母と年齢の近い従兄弟及び兄弟姉妹の舅などを指して呼ぶ場合もあるが、この「小父」の台詞は少し遠縁の親族中学生相手にしては「給へ」や「君」という用語が如何にも他人行儀であるから、親族や姻族ではなく、単に原家と親しい(でなければ葡萄棚のある裏庭に入ってくるはずがない)「おじさん」と読む。そうしてその「近所のおじさん」の兄弟か何かの親族の小学生の娘が、この日はたまたま夏休みで来ていたのを朝の散歩に連れていた。それが何と、後に妻となる貞恵であったというのであろう。【2016年5月14日追記】
「羞み」「はにかみ」。
「その少女が、私の妻にならうとは」民喜の妻貞恵は広島県豊田郡本郷町(現在は三原市本郷町(ちょう))の米穀肥料問屋永井菊松とすみの次女で、見合い結婚であった、と底本年譜にはあるが、その邂逅はもっと前に、かく、あったのであった。]
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