芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 侏儒の祈り
侏儒の祈り
わたしはこの綵衣を纏ひ、この筋斗の戲を獻じ、この太平を樂しんでゐれば不足のない侏儒でございます。どうかわたしの願ひをおかなへ下さいまし。
どうか一粒の米すらない程、貧乏にして下さいますな。どうか又熊掌にさへ飽き足りる程、富裕にもして下さいますな。
どうか採桑の農婦すら嫌ふやうにして下さいますな。どうか又後宮の麗人さへ愛するやうにもして下さいますな。
どうか菽麥すら辨ぜぬ程、愚昧にして下さいますな。どうか又雲氣さへ察する程、聰明にもして下さいますな。
とりわけどうか勇ましい英雄にして下さいますな。わたしは現に時とすると、攀ぢ難い峯の頂を窮め、越え難い海の浪を渡り――云はば不可能を可能にする夢を見ることがございます。さう云ふ夢を見てゐる時程、空恐しいことはございません。わたしは龍と鬪ふやうに、この夢と鬪ふのに苦しんで居ります。どうか英雄とならぬやうに――英雄の志を起さぬやうに力のないわたしをお守り下さいまし。
わたしはこの春酒に醉ひ、この金鏤の歌を誦し、この好日を喜んでゐれば不足のない侏儒でございます。
[やぶちゃん注:初出は大正一二(一九二三)年四月号『文藝春秋』巻頭であるが、前の「好惡」が一緒に掲載されている。翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の鳥居邦朗氏の「侏儒の言葉」の解説では本章について、『みずからを「侏儒」に見立てることはすでに定まっていた』が、それを『ここに至って、何故「侏儒」なのかを言いたい思いが湧いたのであろう。単なるポーズと読むことはたやすいが、やはり時に「英雄の志」に駆られる「わたし」の、それゆえに背負う苦悩から身を守ろうとする姿勢は明瞭である』と評されておられる。
・「綵衣」「さいい」。色様々な糸で繡って模様を浮かばせた豪奢な衣服。
・「筋斗の戲を獻じ」「きんとのぎをけんじ」と読む。「筋斗」(「筋」とは木を切る道具のことで、柄が軽く頭が重いために、振った際によく「斗」転(回転)するところから)は「蜻蛉(トンボ)返り」のこと。それを高貴な者の膝下でうって見せること。まさに役者としての小人(こびと)たる「侏儒」の者の軽業芸の一つである。「侏儒の言葉」の「侏儒」がそうしたフリークスの俳優・役者の意を含ませていることがこの章で明らかとなるのである。
・「熊掌」「いうしやう(ゆうしょう)」。熊の手。御存じの通り、古来、その右手(左手で蜂を払い、右手で蜂蜜を掬うとされることから右手を最上とする)は中国料理最高の珍味とされる。
・「採桑の農婦」「採桑」は「さうさう(さいそう)」で桑の葉を摘むことであるが、これは西晋の楽府「陌上桑」や李白の詩「陌上桑」に出るような(筑摩書房全集類聚版には『続列女伝、陳弁女伝、弁女者陳国採桑の女也』と注する)、貴人が惚れ込んで妻とする美女を意識した表現である。近代文学者の中でも最後の漢籍通と言える、単なる「後宮の麗人」との対表現ではない、芥川龍之介ならではの行間に潜ませた逆説の仕掛けと私は読む。
・「菽麥すら辨ぜぬ」「菽麥」は「しゆくばく(しゅくばく)」と読み、豆と麦。豆と麦の区別さえつかないの意であるが、これは「春秋左氏伝」の成公(せいこう)十八年の条の、
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周子有兄而無慧。不能辨菽麥。故不可立。菽、大豆也。豆麥、殊形易別。故以爲癡者之候。不慧、蓋世所謂白癡。
(周子、兄、有れども無慧なり。菽・麥を辨ずること能はず。故に立つべからず。菽は、大豆なり。豆・麥は、形を殊(こと)にして別ち易し。故に以つて癡者(ちしや)の候(こう)と爲す。不慧は、蓋(けだ)し世の所謂、「白癡」なり。)
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に基づく。「候」は様態の意。
・「雲氣」空中に立ち上る異様の妖しい気。古来、天文家や兵術家が天候・吉凶などを判断する根拠にしたもので、気象学上のそれよりも遙かに呪術的予兆的なものを指す。
さへ察する程、聰明にもして下さいますな。
・「春酒」「しゆんしゆ(しゅんしゅ)」。前年に醸した新酒の初酒。
・「金鏤の歌」「金鏤」は「きんる」と読み、金で出来た細い糸で、ここは美「歌」の形容として金線の如き静かでかつ妖しく美しい歌の謂いであるが、やはりこれも、新潮文庫の神田氏の注に、『中国の古代歌謡に「金鏤曲」または「金鏤衣」があ』るとある。優れた漢詩サイトで昔からよく参考にさせて頂いている碇豊長氏の「詩詞世界」の「金縷曲」によれば、唐代の杜秋娘の作で(訓読もリンク先のものをほぼそのまま(句読点を除去し字空けを変更)引用させて戴いた)、
*
勸君莫惜金縷衣
勸君惜取少年時
花開堪折直須折
莫待無花空折枝
君に勸む 惜しむ莫(なか)れ 金縷の衣
君に勸む 惜しみ取れ 少年の時
花 開き 折るに堪へなば 直ちに 須(すべから)く
折るべく
花 無きを待ちて 空しく 枝を折ること莫(なか)れ
*
とある。語釈や歌意を是非、リンク先で精読して貰いたい。実にこの歌詞こそ、実は本篇の通奏低音なのではあるまいか? この歌を脳内に流しながら、本章は読むに若くはないと私はしみじみ感ずるのである。
・「誦し」「じゆし(じゅし)」。]
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