芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 火星
火星
火星の住民の有無を問ふことは我我の五感に感ずることの出來る住民の有無を問ふことである。しかし生命は必ずしも我我の五感に感ずることの出來る條件を具へるとは限つてゐない。もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保つてゐるとすれば、彼等の一群は今夜も亦篠懸を黃ばませる秋風と共に銀座へ來てゐるかも知れないのである。
[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』巻頭に、後の「Blanqui の夢」「庸才」「機智」(二章)の全五章で初出する。私の好きな一章。SFっぽい内容は勿論、その語り口やロケーションのダンディズムはもとより、我々が生命体と呼んでいるものの如何にあやういものであるかということをよく伝えるところのすこぶる科学的な記載でもあるからである。龍之介の言うような透明な生命体であっても、それは恐らく現在の科学ならばそれと明らかに認知することは可能かも知れぬ。しかしそれは、ただ龍之介が、五感の中の視覚、それもたかだか肉眼レベルでの、ごく分かり易い例として示したものに過ぎないことに着目しなければならぬ。例えば、透明でなくともよい。見た目が石ころのようにしか見えない生命体がおり、それは我々の想像を絶する時間系を持っていて、何百年もかけて少しだけ体内代謝するような生命体がいたとしよう。現行の科学では恐らくそれを分解して精査しても、せいぜいよくって生物の「化石」だと断ずるにとどまるであろう。何故なら、それを何百年もかけて観察することが我々には不可能だからである。我々はそれを生命体としては遂に認識し得ないのである。「だからこそ宇宙でヒトは孤独なのだ」とも考えているのが一箇の生命個体である私でもある。
・「火星の住民の有無を問ふ」このアフォリズムが書かれた時代(現在(二〇一六年)から凡そ九十三年前)の地球では、現在の一部の信望者などとは比べ物にならぬほど遙かに多くの人類が、真面目に、地球外生命体の実在、とりわけ「火星人」の存在を強く信じていたことを確認する必要がある(それは私は精神的には幸福なことであったと考えている)。まずはウィキの「火星人」から引こう。実に既に十八世紀前半、かの大数学者として知られるドイツの天文学者で物理学者でもあったヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(Gauß De-carlfriedrich gauss/Carolus Fridericus Gauss 一七七七年~一八五五年)らは、『ランタンと鏡を使って火星人に光学的な信号を送ることを構想した。遅くともこの時期までには、火星人の存在が考慮されていたことがわかる』。一八七七年(明治十年)の『火星大接近の際、イタリア王国のミラノの天文台長である天文学者 ジョヴァンニ・スキアパレッリ』(ジョヴァンニ・ヴィルジニオ・スキアパレッリ Giovanni Virginio Schiaparelli 一八三五年~ 一九一〇年)が火星を口径二十二センチメートルの『屈折望遠鏡で観測しているときに、火星全体の表面に線状模様があることを発見した(なお線状模様についてはこれ以前にも複数の観測者によってみいだされている)。それを発表の際』、『Canali(イタリア語で「溝・水路」の意)と記述したものを、英語に翻訳された際』、『Canal(英語で「運河」の意)と誤訳され、「それは運河である」という説になった。模様が直線や円などのなす幾何学模様で、とても自然に造られたようには見えないことからも、そう考えられるようになった』。『また、運河があるのならそれを作ったものがいなければならないということで、火星人が存在するに違いないという説が広まり始めた。また、運河は火星全体を覆うように縦横に張り巡らされており、これほど大規模な施設を建造できるなら、火星人は地球人よりはるかに進んだ文明を持っている、という説も出された』。『火星人が存在するという説を強く支持した人々のうちの』一人が、『アメリカ合衆国の天文学者パーシヴァル・ローウェルで、火星および火星人の研究に大いに貢献した。彼は実業界の出身で、火星観測のため私財を投じて、ローウェル天文台をアリゾナに建設し』、『その後の惑星研究の中心地となった。アリゾナ州フラッグスタッフという天体観測に最適な場所を見出したのも評価されている』とある(最後の引用箇所はウィキの「パーシヴァル・ローウェル」に拠る)。さて、ここで日本研究者としてもよく知られるパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell 一八五五年~一九一六年)について、そのウィキの「パーシヴァル・ローウェル」から引こう。彼は『ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家であったが、数学の才能があり、火星に興味を持って天文学者に転じた。当時屈折望遠鏡の技術が発達した上に、火星の二つの衛星が発見されるなど火星観測熱が当時高まっていた流れもあった。私財を投じてローウェル天文台を建設、火星の研究に打ち込んだ。火星人の存在を唱え』、一八九五年(明治二十八年)の「Mars」(「火星」)『など火星に関する著書も多い』。この出版された「Mars」には、『黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果が掲載されている。運河の一部は二重線(平行線)からなっていた』(なお、同書には三百『近い図形と運河を識別していたが』、現在では『火星探査機の観測によりほぼすべてが否定されている』)なお、彼の『最大の業績は、最晩年の』一九一六年(大正五年)に『惑星Xの存在を計算により予想した事であり』、これはそれから十四年後の一九三〇年(昭和五年)になって、『その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーにより冥王星が発見された。冥王星の名 "Pluto" には、ローウェルのイニシャルP.Lの意味もこめられている』。『なお、彼の業績』(火星観測の謂いであろう)『に対して天文学者のカール・セーガンは「最悪の図面屋」、SF作家のアーサー・C・クラークは「いったいどうしたらあんなものが見えたのだろう」と自著の中で酷評している(しかし一方で、前者は「彼のあとにつづくすべての子どもに夢を与えた。そして、その中からやがて現代の天文学者が生まれたのだ」と子供たちに天文学を志すきっかけを与えた面を、後者は「数世代のSF作家たちが嬉々として発展させた神話の基礎を、ほとんど独力で築き上げた」とSFの分野に影響を与えた面を評価した)。一部の眼科医はローウェルは飛蚊症だったのではないかという仮説を述べている』。『また、ローウェルの火星人・運河研究は』、イギリスの作家で「SFの父」H・G・ウェルズ(後述)の「宇宙戦争」(後述)、アメリカの「火星シリーズ」で知られるSF作家(彼は冒険小説「ターザン・シリーズ」の作者でもある)エドガー・ライス・バローズ(Edgar Rice Burroughs 一八七五年~一九五〇年)の「火星のプリンセス」(A
Princess of Mars 一九一七年(大正六年)初版)、アメリカの幻想作家レイ・ブラッドベリ(Ray Douglas Bradbury 一九二〇年~二〇一二年)の「火星年代記」『火星年代記』(The
Martian Chronicles 単行本発行は一九五〇年(昭和二十五年))に『インスピレーションを与えるなど、SF小説・映画などのエンターテインメント分野にも影響を与えたことも評価されている』とある。さても大御所ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells 一八六六年~一九四六年)の「宇宙戦争」(The War
of the Worlds 明治三一(一八九八)年)であるが、言わずもがな、そこで地球に襲来するのはまさに醜悪な蛸型をした「火星人」(Martians)なのである。御存じのかたには釈迦に説法だが、これは後の一九三八年十月三十日にアメリカで、かの後にアメリカの名優となるオーソン・ウェルズがアメリカを舞台として、事実報道と聴き紛う驚くべきドキュメンタリー・タッチでラジオ・ドラマ化(生放送)、多くのアメリカ市民が現実に起きている出来事と勘違いして、一大パニックを引き起こしている。因みに、この一九三八年とは昭和十三年である。本章の執筆は大正一三(一九二四)年である(以上の引用部も含めて下線は私が引いた)。ともかくも、少なくとも芥川龍之介はジャリ向けや冗談でこの一章を書いたのではないのである。これは至極大真面目に、ヒトという生物の認識とその思想主義といったものの儚さ及び厳然たる限界を語ったアフォリズムなのである。
・「篠懸」「すずかけ」と読む。一般にはヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis で、和名は晩秋に成る果実が楽器の鈴に似ていることに由来する「鈴掛」「鈴懸」であると多くは記すのであるが、そうすると芥川龍之介が当てている「篠懸」が解明されない。そこで「篠懸」で調べると、この「篠懸(すずかけ)」とは「鈴掛」とも書き、修験道の行者である山伏が衣の上に着る麻製の上下の法衣(ほうえ)全体の呼称であることが判った(金剛界を表わすとする上衣と胎蔵界を表わすとする袴から成る)。さてもここに「篠」を当てるのは、行者が深山を行く際に群れ茂れる篠竹の露を防ぐためのものであったからとされ、まず合点(がってん)! 而して山伏の衣を思い出すと、またまた合点! もしかして!?……「鈴」とは、あの胸に着いているボンボンのような丸(まある)い房飾り(水干・水干袴や鎧直垂(よろいひたたれ)・鎧直垂袴などの縫い合わせの箇所にそれを隠すように附けられた「菊綴(きくとじ)」が正式名称。以下は私の妄想――さても先に書いた通りに上衣が金剛界なら当然、丸は曼荼羅辺りがイメージされているのかも知れん――)の比喩じゃあねえか?! あれこそ「鈴」だろ! あれが懸っている法衣だから「鈴懸け」なんじゃあないか?! と今度は一人合点! さらに調べてみると、あの玉状の飾りは「結袈裟(ゆいげさ)」と呼ぶことが判明した(一般の山伏では紅色であるが、「勧進帳」の弁慶の墨染めの衣の胸の辺りに附いているそれは白い、と言えば画像が浮かばれよう)。さても! そこで私の結論は――「篠懸」を「すずかけ」と読み、それを樹木の「すずかけ」に当てるのは、これは樹木の「スズカケ」の実が「鈴」に似ているから「すずかけ」なのではなく、法衣である篠懸(すずかけ)の上着に飾りで附けられている結袈裟が「スズカケ」という和名のルーツなのではないか――である(大方の識者の御批判を俟つ)。現在は属名の「プラタナス」の呼称で呼ばれることが多いものの、実際には現在、我々がプラタナス=スズカケの木と名指している街路樹は圧倒的にこのスズカケノキ Platanus orientalis とスズカケノキ属アメリカスズカケノキ Platanus occidentalis の交雑種であるスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus ×
acerifolia であるらしい。龍之介が見たそれもモミジバスズカケノキであった可能性を考慮する必要があるようにも思われる。しかし一部の今の読者の中には「銀座の並木なら、柳じゃないの?」と疑問を呈する方がおるやも知れぬ。さても、銀座一帯はもともと水はけが悪く、明治初期に並木として植えられた松・桜・楓(かえで)は直きに根腐れて枯れてしまい、その代替となったものが、後に流行歌にも歌われた(昭和四(一九二九)年「東京行進曲」(作詞・西条八十/作曲・中山晋平)一番冒頭『昔戀しい 銀座の柳』)水気を好む柳であったのである。しかしながら、それも明治の後期には銀杏(いちょう)主体に替えられていた。ところが、この前年の関東大震災によってそれも壊滅してしまった。そこで新たに植えられたのがこのスズカケだったのである(だからこそ西条八十は「昔恋しい」と詠ったのであった。因みに、この歌謡曲(唱:佐藤千夜子)のヒットによって銀座の柳並木の復興が行われた。しかしそれも、東京大空襲によって壊滅、現在のそれは既に四代目という。ここまでの樹種や銀座並木についてはネット上の複数の信頼出来る記載を参考にして書いたものである)。最後に。これにはきっとダンディ龍之介も賛同してくれる自信があるのだが、考えてみると、ここはシチュエーションとしても「篠懸」(プラタナス)が本章の内容にも(言うまでもなくロケ地たる銀座にも)よりモダンな樹種選択であることが、よぅく解ってくるではないか。もしかしたら、柳や銀杏は少しは残っていたかも知れぬ。しかしモダンな火星人がそこに佇ませるとなると、これ、如何にも古臭い柳の下の足のない幽霊やら泉鏡花風「化け銀杏」にはなりはすまいか?――火星人にヤナギやイチョウはお洒落じゃあ、ない。やっぱ、プラタナス(篠懸:すずかけ)じゃあ、なくっちゃ――]
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