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2016/06/30

俳人芥川龍之介   飯田蛇笏

[やぶちゃん注:底本は飯田蛇笏「俳句文芸の楽園」(昭和一〇(一九三五)年交蘭社刊)を国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像を視認して電子化した。踊り字「〱」は正字化した。句の表示の字配は再現していない。また、芥川龍之介「芭蕉雑記」の引用部では、全体が一字下げとなっているが、ここは無視したので引用終了箇所に注意されたい。以下、少し語注を施しておく。なお、蛇笏が多く引用している「芭蕉雑記」及び草稿を含めた全文を私が電子化しているので、未読の方は参照されたい。

 形式第一段落の「遉に」は「さすがに」と訓ずる(「流石に」に同じい)。

 同段落の小穴隆一の「二つの繪」の強烈な回想引用の中の「縊り」であるが、原本(昭和三一(一九五六)年中央公論社刊)を私は所持するが、これは同書の「死ねる物」の一節乍ら、原文は、『芥川が首縊りの眞似をしてゐるのをみてゐたときよりも、押入の中で、げらげらひとりで笑つてゐたというふ話を聞いたときのはうが凄く感じた』で正確な引用ではなく、脚色がなされている。なお、この原文により、「縊り」は「くびくくり」と読むのが正しいことが判る。

 同段落の「羸弱」は「るいじやく(るいじゃく)」で、衰え弱ることを意味する。

 同段落末の「流眄」は「りうべん(りゅうべん)」で、流し目で見ることの意。

 第二段落に出る「西谷勢之介」(明治三〇(一八九七)年~昭和七(一九三二)年)は詩人で、『大阪時事新報』『大阪毎日新聞』『福岡日日新聞』などで記者を続け、大正一二(一九二三)年に大阪で『風貌』を創刊主宰、翌年、詩集「或る夢の貌」を発表。昭和初期にかけては佐藤惣之助の『詩の家』や中村漁波林の『詩文学』に属す一方、『文芸戦線』『不同調』などに詩や随筆を寄稿、昭和三(一九二八)年に発表した「虚無を行く」が野口米次郎に認められ、師事した。著書に詩集「夜明けを待つ」の他、「俳人漱石論」「俳人芥川龍之介論」(昭和七(一九三二)年立命館出版部刊)「天明俳人論」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」等に拠る)。

 「三つの窻」「窻」は「窓」。自裁直前の昭和二(一九二七)年七月一日発行の『改造』に発表された私の偏愛する作品。本文に出る他の作品に比べると知名度はやや落ちると思われるので、電子テクストであるが、リンクさせておく。

 第五段落「犬牙錯綜」犬の牙の如くに互いに食い違ったり、入り組んだりしていること。

 同「剔刳」は「てつこ(てっこ)」で、「刳」も「えぐる」で「剔抉(てっけつ)」に同じい。

 第六段落「如上」は「じよじやう(じょじょう)」で、前に述べた通り、の意。

 同「前者は最後まで表面化さなかつた」はママ。「前者」即ち「運命的な哲理を奧深くひそめて鉛のやうに重くしづみきつた思想」「は最後まで」俳句作品には「表面化さ」せ「なかつた」の意である。「せ」の脱字が疑われる。

 同「決河の勢」「けつかのいきほひ(けっかのいきおい)」と読み、河川の水が溢れて堤防を切る如き猛烈な勢いの意で、勢いの甚だ強いことの譬えである。

 同「唾咳みな金玉抵に」「唾咳」は「だがい」で、「つばき」と「せきばらい」で普段の日常的で些末な感懐の比喩であるが、一般には「咳唾(がいだ)」である。「抵に」(ていに)はそれらと相当にの意で、一茶の句作が日常茶飯の月並句と珠玉の句の創作の滅茶苦茶な玉石混淆状態にあることを指す。

 同「終ひに行くに所な足疲れ衣破れて」ママ。「行くに所なく」の「く」の脱字であろう。

 第九段落「韓紅」は濃い赤色で、普通なら「からくれなゐ(からくれない)」と訓ずるところだが、飯田蛇笏はお読み戴ければ分かる通り、極めて佶屈聱牙な読みを好む俳人であるからして(俳句作品でも然り)、ここは敢えて「かんこう」と音読みしておく。その方が、本文の文脈にもしっくりくる。

 同「波濤が卷き起つてゐる海洋への突つ鼻に常識外の巨きな耳を持つた怪物が首垂れてゐる圖」この自画像は芥川龍之介の絵画作品の中では自画像でありながら、最も知られていない異様な一枚と思う。面倒なので引用元は明かさないが(文化庁は平面的に写真に撮られたパブリック・ドメインの絵画作品の写真には著作権は発生しないと規定している)、日本近代文学館蔵の当該元画を以下に示す。

 Ryunosuke_self_portrait1921104yugaw  


 同「第二の繪の北斗七星が一つ缺け落ちてゐる、それに賛して、/霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉   龍之介/と沈痛に吟じてゐる」は、「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五」で現物画像を見ることが出来るので、是非参照されたい。

 第十一段落『「龍之介は詩人ではない」と云ふ蔭口をきいた人物があつたのを耳にして彼は直ちに起つて家の子郎黨をひきぐしてから、その人物の居宅につめよつたと云ふ巷間の説であつた』の「人物」とは萩原朔太郎であり、ここに記されたことは「噓説」なんぞではなく、概ね事実である(但し、「蔭口」ではない)。何よりも当の詰め寄られた萩原朔太郎が「芥川龍之介の死」の「11」で描いているからである(リンク先は私の古い電子テクスト)。未読の方は、是非参照されたい。

 第十三段落「寧ろ龍之介的芭蕉を現出餘りに是れ力めんとする氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。」の一文はやや読み難いが、――「寧ろ」、「龍之介的芭蕉を現出」せしめんとして、「餘りに是れ」を「力」(つよ)「めんとする」過剰にして異常なる「氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。」――という謂いであろうと読む。

 第十五段落「灼耀」「しやくやく」光り輝くさま。「赫奕(かくやく)」に同じい。

 最終段落冒頭の「決河の勢ひで漲り出た――」のダッシュは後半が空白になっている。植字ミスと断じてダッシュを延した。

 同前「燦」「さん」。輝いて鮮やかなさまを謂う。]

 

 

      俳人芥川龍之介

 

 重患のはげしい痛苦で、泣きわめきながら文稿をつゞつた不敵な魂の持主である正岡子規と、どうした因緣か齡を同じうして現世を去つていつたのは芥川龍之介であつた。子規と龍之介といふ人物との對照は、又別に相常興味ある問題を構成し得べきものでもあるのだが、それはそれとして、一脈相通ふところのものが看破されるのは、その不敵なたましひの有りやうである。遉に龍之介も子規といふ人物のそのたましひに次第にひかれてゆく心のすがたを見せた。小穴隆一氏の「二つの繪」によると、げにも「精も根も盡きはてた」又、「縊りの眞似をする彼よりも、押入の中でげらげら、獨りで笑つてゐる彼のはうに凄さがある」ところの龍之介であつたがために、此の羸弱と而して、ヂャールやべロナールが愈々助長せしめる慘憺たる心身の崩潰が、子規の如きそれへ流眄をはげしくしたにちがひなかつたらうことも肯ける。

 芥川龍之介の思想の中には、絶ず兩つの極面が向ひあつてゐて、それが、時に人知れぬ火花を散らすことがあつたと同時に、又多くは明鏡の如くはつきり文藝作品の上に立像を現出し來つたものゝやうである。いさゝか物故した者へ鞭觸れるかの感じで、愉快ではないけれども、故人西谷勢之介の如き、よく龍之介を理解し、龍之介を惜しむに人後に落ちなかつたものであることは、その遣著「俳人芥川龍之介論」に照らして明瞭なことであるわけだが、名の示すその通りに、餘りに俳句に觸れてのみものを云うた點にも因ることだらうけれども、龍之介の思想を觀察、檢討して其の點に觸るゝ所が見えなかつたことが、吾人をして若干の遺憾を感ぜしめた。しかも勢之介は云つてゐる。

 「傳へきくところによれば、芥川龍之介はその文人としての本領を俳道に置いてゐたとのことである。小説家としての彼が、大正昭和の文壇に最も光榮ある足跡をのこし去つたことを想ひ見るとき、右の言葉は誇張されてゐるやうであり、疑惑せずに居られぬ向もあるけれども、その凡ゆる文藝作品とよくよく吟味すれば、筆者必ずしも不當とは考へられないのである。(「俳人芥川龍之介論」緒言)と。

 この邊の觀察力に缺くるところなく油斷ない彼の研究をもつてしてゞある。

 龍之介の思想に於ける兩つの極面の現はれとして、具體的な證左をあげて云へば、一つは「三つの窻」のやうな運命的な哲理を奧深くひそめて鉛のやうに重くしづみきつた思想であり、一つは「羅生門」乃至「鼻」。いよいよ圓熟の域にすゝんで猶同系たる「鼠小僧次郎吉」のやりな、技巧畢竟天衣無縫の感あらしめるところの彼が明鏡的天才の絢爛さをかき抱く純悴に文藝的な思想である。さうして、此の間に介在して犬牙錯綜、血みどろな人生の葛藤を剔刳するところのものは、彼が漱石的影響のもとに、そのおほらかな天分に乘じた「鼻」の如き初期の作品から、世間彼をめざして云ふこころの所謂、「私小説」への轉換期作品に、たまたまこれを觀るのであるが、その最も顯著なるものゝ一つとして永遠に人心を衝くところのものは 「藪の中」である。であるから、龍之介の思想的全面容から見て、彼が漱石から出て常に漱石を思ひ漱石を忘れなかつたにも拘はらずその作品の或る深刻さが、哲理的背景をひそめて、どこやらに詩的な香味をたゞよはす點に於て、(例ヘば「二つの窻」の如き)故國木田獨步を思はせるものがあつた。「偸盜」や「河童」のやうな作品をのぞく以外には、多く短篇に於てその天分を發揮したことも相通ずるものがあつたのである。

 そこで、世間これを餘技と稱し、龍之介自ら微苦笑をもつて迎へながら、時に甘んじて餘技的態度をかまへながら、その実、滿を引いてはなつに怠りなかつたところの彼の俳句に就いて見るのだが、素より龍之介の俳句は龍之介なりに、幾分でも、龍之介が心臟からつたはつて流れいづるところの血潮そのもので血塗られぬ筈はないであらう。この故に、如上龍之介が思想的背景のもとに、俳句作品の二つの面影は生涯の扉を閉めた内にあざやかな姿をとゞめて鑑賞をほしいまゝにせしめてをる。だが、ここに最も注意すべきことは、前者は最後まで表面化さなかつた。これは俳人芥川龍之介に見る驚くべき事實であつた。(驚くべきことであつてその實彼にとつては驚くべからざることである所以はこの稿の終りに至りて了解し得ると信ずる)だが、さきに事實に就いてだけ云へば、これは斷末魔に至つて、決河の勢をもつてはち切れてゐるのである。俳人として左樣な例は決して多くはない、けれども少くとも小林一茶に就いて見れば的確なるものを示してゐる。一茶が天分を恣にして唾咳みな金玉抵に(この點龍之介は正反對であるが)濫作をつゞけて、終ひに行くに所な足疲れ衣破れて、郷里信濃の柏原の里にたどりついたとき、

   これがまあ終ひの栖か雪五尺   一茶

と、滂沱たる萬斛の血淚をしつてゐる。その人とその藝術の違ひこそあつたにせよ、各、個々の思想を背景として、斷崖の上に起ち、全裸のすがたをぶち出し、眞つ赤な心臟を割つて見せた點に至つては斷じて機を一つにする。龍之介にも亦これがある。

 龍之介の俳句を批判するとして彼自らの作品を直下に論ずべきは當然すぎる當然である。と同時に克明に彼が俳句道に生くる根本義を物語りその識見を披き得るところのものは、俳句史上、最大の標的松尾芭蕉に對する彼の見地に照らすことが第一である。幸にも彼は「芭蕉雜記」といふ好文献を遺してをる。就いてこれを見ると、

(一)「芭蕉の説に從へば、蕉風の集を著はすのは名聞を求めぬことであり、芭蕉の集を著はすのは名聞を求めることである。然らば、如何なる流派にも屬せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう? 且又この説に從へば齋藤茂吉氏の『アララギ』へ歌を發表するのは名聞を求めぬことであり『赤光』や『あら玉』を著はすのは『これは卑しき心より我上手なるを知られんと……』である。

と、及び、

(二)「しかし又芭蕉はかう云つてゐる。――『我俳諧撰集の心なし。』芭蕉の説に從へば、七部集の監修をしたのは名聞を離れた仕業である。しかもそれを好まなかつたと云ふのは何か名聞嫌ひの外にも理由のあつたことゝ思はなければならぬ。然らばこの『何か』は何だつたであらう?』

と、及び、最後に、

(三)「芭蕉は大事の俳諧さへ『生涯の道の草』と云つたさうである。すると七部集の監修をするのも『空』と考へはしなかつたであらうか? 同時に又集をあらはすのさへ、實は『惡』と考ヘる前に『空』と考へはしなかつたであらうか? 寒山は木の葉のやうに詩を題した。がその木の葉を集めることには餘り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千餘句の俳諧は流轉に任せたのでなかつたであらうか? 少くとも芭蕉の心の奥には、いつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかつたであらうか?」

とで結んでゐる。

 (一)(二)(三)は筆者が假りに之れが段階を追ふの順序として、はつきりさせる爲だけに附けたものであつて、「芭蕉雜記」の筆者の爲業ではない。近代に生を享けて、小説家著述業者芥川龍之介が彼のぎらぎらした心頭に、鬼才龍之介の盛名はよし微塵であれ、芭蕉のこの流轉的心像に逢着してこれが深くも深く關心を買ふべく餘儀なくせられたのは、まことに當然のなりゆきでなければならぬ。龍之介が俳句道にたちあがるや、彼の不敵なる魂が、氣壓さるべきでないと手向ふものゝ、さうした精進にひるみは見せないものゝ、いつしか、此の流轉的心像にぶちあたつて不覺にも泣きぬれたる姿であるのである。

 小穴氏稿するところの限りない悲哀「二つの繪」が示す、その奧底に渺々として橫たはる所のものは果して何であつたか? 死直前の作「齒車」を賞讃する批評家もあつたし、その他、若干のベロナール乃至ヂャールをブラスする阿修羅の作品によつて鵜呑みされる甚だ非阿呆(?)の龍之介ファンが尠なからず散在したやうに見受けられもしたが、其等の盛名的外郭によることよりも故人龍之介が韓紅なる心臟を裂いて、はつきりと示すところのものは、小穴氏の主觀は小穴氏の主觀として、一事實としての盤上に盛られた「二つの繪」そのものでなければならなかつた。第一の繪の、波濤が卷き起つてゐる海洋への突つ鼻に常識外の巨きな耳を持つた怪物が首垂れてゐる圖と第二の繪の北斗七星が一つ缺け落ちてゐる、それに賛して、

   霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉   龍之介

と沈痛に吟じてゐるのである。

 だが、「芭蕉雜記」は總ての速斷をゆるさない。

 更に、同記第四項「詩人」に於て例の、

   人聲の沖にて何を呼やらん   挑鄰

   鼠は舟をきしる曉       翁

の「曉」の附句で、許六がこれを、

 「動かざること大山の如し」と賞讃したとき、芭蕉が起き上りて曰ふことに、

 「此曉の一字聞きとゞけ侍りて、愚老が滿足かぎりなし、此句はじめは「須磨の鼠の舟きしるおと」と案じける時、前句に聲の字有て、音の字ならず、依て作りかへたり、須磨の鼠とまでは氣を𢌞し侍れども、一句連續せざると宜へり。予が云ふ、是須磨の鼠よりはるかにまされり(中略)曉の一字つよきこと、たとへ侍るものなしと申せば、師もうれしく思はれけん。これほどに聞てくれる人なし、唯予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる貌のみにて、善惡の差別もなく、鮒の泥に醉たるごとし、其夜此句したる時、一座のものども我遲參の罪あると云へども、此句にて腹を醫せよと自慢せしと宜ひ侍る。」

 と云ふ、此處の消息に就いて、龍之介はどう觀てゐるかといふと、

 「知己に對する感激、流俗に對する輕蔑、藝術に對する情熱、――詩人たる芭蕉の面目は、ありありとこの逸話に露はれてゐる。殊に『この句にて腹を醫せよ』と大氣熖を擧げた勢ひには――世捨人は少時問はぬ、敬虔なる今日の批評家さへ辟易しなければ幸福である。」

と云ふのが彼の論斷である。凡そ、この種の論稿に於て一とくさりの皮肉は忘れることのなかつた彼にして、正直正銘、ひらき直つた態度で、かうまで喝破したものは、果して幾何か有り得る? と云へようと思ふ。實に是れは芭蕉その人を物語るよりも、龍之介彼自身を多く物語るものでなければならぬ。文人龍之介といふものゝ眞骨頂を、爰に分明に認らるゝのである。前に、不敵なたましひの持主として筆を起した、その不敵さ――彼云ふところの流俗に對する輕蔑、藝術に對する惰熱それは直ちに轉換してもつて、彼の面上に冠すべきものであるのではないか。筆者は、さうした古典味から類推することよりも、もつと生ま生ましい、人間龍之介を描き得る自信をもつ。彼、元氣旺盛なりし頃「龍之介は詩人ではない」と云ふ蔭口をきいた人物があつたのを耳にして彼は直ちに起つて家の子郎黨をひきぐしてから、その人物の居宅につめよつたと云ふ巷間の説であつた。善哉河童居士、よし、その擧は空しい噓説であつたにしたところで、寒骨、鶴のごとき瘦軀を指して臆面ない、熾烈なる詩人的たましひの嚴存は、分明に居士に認めて餘りあるものである。

 閑話休題として、さて龍之介の「雜記」は、

 「芭蕉も亦世捨人になるには餘りに詩魔の飜弄を蒙つてゐたのではないだらうか? つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか? 僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる」と、結んでゐるのである。

 芭蕉をば十分に理解してゐる龍之介ではあるに相違ない。それは、前掲(一)(二)(三)の説述に照らしても合點されるところでなければならぬ。而も、その「詩人」(第四)の項に於て、「俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり」とは、芭蕉の惟然に語つた言葉である。その他俳諧を輕んじた口吻は時々門人に洩らしたらしい。これは人生を大夢と信じた世捨人の芭蕉には寧ろ當然の言葉である。――とする龍之介その人の矛盾に照らして見ても、芭蕉のそれを、我自身に結ばうとする、――一歩をすゝめて云へば、寧ろ龍之介的芭蕉を現出餘りに是れ力めんとする氣配をさヘ感ぜしめられることなしと云へない。即ち、芭蕉文藝が搔き抱く流轉相に對して反撥する彼自身の矛盾をば、敬虔に、素直に熱をこめて、而して賢明に告白するところのものでなければならぬ。鏡に向へば、忽然として其處に、「羅生門」なり「黃雀風」なり、「傀儡師」なり「夜來の花」「沙羅の花」「邪宗門」等々々斷翰零墨も亦「點心」たり「百艸」たることに於て、天下百萬の愛讀者を擁する彼れ龍之介が、彼の面前に現はれ出るのであつた。枯枝に點ずる鴉を見、人生を大夢と觀ずる飄々たる風羅坊と相對して、餘りにも絢爛たる存在の龍之介がこの豪勢さである。然もよく是を理解しこれに深く共鳴し、その途をさへたどらうとする龍之介その人であればこそであつた。

 龍之介一代の俳句作品を通じて、誰でもが直下に見得るところのものは、素晴らしい表現的技巧の冴えであつた。俳句以外の文藝作品に於て、彫心鏤骨の形容詞を賞讃の上に冠せられたことは、事新たに説くまでもないことだが、この形容詞は俳句作品の方面にも亦最もしつくりと据わるものでなければならなかつた。(否、寧ろそれに過ぎてあたら珠玉に血塗つたことさへ筆者はよく知つてゐる。)一々例を擧げて云へば、その的確なるものは枚擧に遑ないことであるが、この稿にはさうした煩はしいことを避ける。だが、唯、早く發表され若しくは上梓を得た其等のものゝ中から如何に多く次ぎ次ぎに現はれ來つた彼の著述の中に改竄されたそれを發見し得るかと云ふことだけを述ベておく。

 小説に於て金石文字たり、俳句に於て天衣無縫たらしめよりとする、その彫心鏤骨の精進にあたつて、絶えず心を來往する灼耀たるもの影の一つに、俳人芭蕉その人があつたことは、既に述べた通りである。而してその芭蕉的影響が、近代人の中に聳えた近代人龍之介の雙びない尖鋭の神經に美妙にも若干のゆとりを加へ、若しくはめまぐるしく拍車を加へた。彼謂ふところの「僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる」心境から、巖をしぼれる雫のやうに、滴りおちた彼の俳句作品であるに相違なかつた。彼が、人生の大團圓に於て、日常文人生活の惱みであり、さうして、實に前述の「二つの繪」である大關門の扉が細目に突つ放なされたとき、そこに、

   水洟や鼻の先だけ暮れのこる   龍之介

かぎりない寂然たる天地が覗かれた。

 これ即ち、決河の勢ひで漲り出た――と云ふよりもむしろ潜みに潜んだ鬼才龍之介の、最も恐るべき、驚くべき方面の、一極面の思想を背景とするものが、玉の如く凝つて如實にぶち出されたのである。尚、一度「二つの繪」によれば、「二つの繪」の筆者がこの天才の最後の場面、納棺に際してちらつと一瞥したところ、胞衣と一緒にした幼名が「龍之介」ではなく「龍之助」であつたかもしれぬ、と云ふ。それを讀んだとき、果然、芥川龍之介は最後を燦として此方へ光つた。筆者はあくまでも「龍之介」に左袒するものである。(昭和九、九、二一)

享年三十六歳

正岡子規が脊椎カリエスで亡くなった時、享年36であった。――芥川龍之介が薬物を服用して自裁したのも同じ享年36であった。――

2016/06/29

北條九代記 卷第九 時賴入道靑砥左衞門尉と政道閑談

 

      ○時賴入道靑砥左衞門尉と政道閑談

最明寺時賴入道は、天下政理の正しからん事を思ひ、四海太平の世を守りて、仁を專(もつぱら)とし、德を治め給ふといへども、時既に澆薄(げうはく)に降(くだ)り、人、亦、邪智の盛なる故にや、諸國の道義、次第に廢れて、非法非禮のみ行はれ、正道正理は埋れ行きしかば、罸を受る者は日を追(おひ)て多く、誡(いましめ)を蒙る者は、月に隨ひて少からず。奉行、頭人(とうにん)と云はるゝ人々も不孝、不慈にして廉直ならず。これに依て、職を改め、所領を放(はな)たるゝ輩(ともがら)、是更(ことさら)に絶ゆる事なし。時賴入道、朝夕、是を歎き給ひ、靑砥(あをとの)左衞門尉藤綱を召して、竊(ひそか)に仰せられけるは、「汝は誠に學道を勤めて、仁義を修め廉恥を行ひ、奉公に私なく行跡に罪なしと見る故に、他人には替りて貴き人と覺ゆるなり。然るに、時賴は今、是(これ)、天下の執權として、撫民の政理(せいり)を重くし、賞罸を明(あきらか)にして、無欲を專とすといへども、無道の訴論は、年を經るに隨ひて、愈(いよいよ)重り、月を積むに任せて益々滋(しげ)し、萬民上下、猛惡の盛(さかん)なること頗る防ぎ難し。抑(そもそも)是(これ)、我が行跡(かうせき)に非ある故歟(か)、自(みづから)省(かへりみ)るに知(しり)難し。汝、靜(しづか)に見及ぶ所あらば、有(あり)の儘に申して聞(きか)せよ、直(ぢき)に諫言(かんげん)とはなしに、聖賢の示教(じけう)なりと思ひはべらん」と宣へば、藤綱、頭(かうべ)を地に付け、淚を流して申しけるは、「尩弱(わうじやく)の愚蒙(ぐもう)、元より短才(たんさい)の身にて候へば、我だにも修(をさま)り得ざる所に於いて、君に非法のおはしますべき事、爭(いかで)か見咎め奉るべき。然れども、心に存ずる趣(おもむき)を仰を蒙(かうぶ)りながら、默止(もだ)して申さざらんは、却(かへつ)て不忠の恐(おそれ)遁(のがれ)難く候へば、心に存ずる所を以て言上すべきにて候。この比、諸方の間(あひだ)に於いて、政法を輕(かろし)め、無道の行ひ多く候事は、全く御行跡に奸曲(かんきよく)ましますにもあらず。政道に誤ありとも覺えず候。但し、上下の遠きに依ての御事にこそ、國家に不孝無道の者、數を知らず、訴論、是より多く出來候と見えて候、その中に、訴論を構へ、内緣を以て、奉行、頭人に窺へば、非なるは、罪科遁るべからず。下(した)にて某(それがし)扱ひ侍らんとて、理非の訴(うつたへ)を上に通ぜず、押して中分(ちうぶん)に決せらる。理(り)あるは半分の負(まけ)となり、非あるは大に勝ち候。愚なるは、是(これ)を國法かと思ひ、智なるは歎きながらさて止(や)み候。是より遠境(ゑんきやう)の守護、目代(もくだい)等、皆、この格に習ひて、非道を行ひ、百姓を責虐(せきぎやく)し、押領(おうりやう)重欲(ぢうよく)を專とす。天下、喧(かまびす)しく、相唱(あひとな)ふといへども、更に以(もつ)て知召(しろしめ)さず。是(これ)、上下の遠くまします故にて候。凡そ步(かち)より行くものは、一日に百里を過ぎて行程(ぎやうてい)とす。堂上の事有りて、十日にして聞召(きこしめ)さゞるは、百里の情に遠(とほざか)り、堂下に事有りて、一月に及びて聞召さざるは、千里の情に遠り、門庭(もんてい)に事有りて一年まで聞召さずは、萬里の情に遠ると申すものにて候。奉行、頭人、私欲を構へ、君の耳目(じぼく)を蔽(おほひ)塞ぎ、下(しも)の情、上(かみ)に達せざれば、この御館(みたち)に座(おは)しましながら、百千萬里を遠り給ふ。每事(まいじ)、斯(かく)の如くならば、国民(くにたみ)、互(たがひ)に怨(うらみ)を含みて、その罪、必ず一人に歸し、蔓(はびこ)りては、遂に天下の亂(みだれ)となるべく候。又、當時鎌倉中に、儒學、盛(さかり)に行(はやらか)し、聖賢の經書(けいしよ)を取扱(とりあつか)ひ、講讀(かうどく)の席(せき)を啓(ひら)く事、軒(のき)を競(なら)べて聞え候。かの學者の行跡(ふるまひ)、更に故聖(こせい)の掟(おきて)を守らず、侫奸(ねいかん)重欲なる事、殆ど常人に增(まさ)り、毀譽(きよ)偏執(へんじう)を旨とし、他の善を蔽(おほひ)妬(ねた)み、惡を表して救ふことなし。况(いはん)や、佛法は是(これ)、王法の外護(げご)として、國家平治の資(たすけ)とす。道行(だいぎやう)殊勝の上人有りて、四海安穩(あんをん)の祈(いのり)を致し、生死出離(しやうししゆつり)の教(をしへ)を弘(ひろ)むるは、佛法の正理(せいり)なり。然るを今、鎌倉諸寺の僧、法師と云はるる者、多くは空見(くうけん)に落ちて、佛祖の教に違(たが)ひ、無智にして住持職を受け、僧綱(そうがう)高く進み、貪欲深く、檀那を諂(へつら)ひ、何の用ともなき器物を貯へ、茶の湯、遊興に施物(せもつ)を費し、身には綾羅(りようら)を嚴(かざ)り、食には肉味(にくみ)を喰(くら)ひ、美女を隱して濫行(らんきがう)を恣(ほしいまゝ)にす。亦、その中に學智行德の僧あるをば、妬(ねたみ)憎む事、老鼠(らうそ)を見るが如くし、王法(わうばふ)を恐れず、公役(くやく)もなし、偶(たまたま)、白俗(はくぞく)に示す所、地獄淨土を方便(ほうべん)の説とし、三世不可得(ふかとく)の理(り)を誤り、罪惡に自性(じしやう)なし、善法(ぜんぱふ)も著(ちやく)せざれと、是(これ)に依(よつ)て、檀那の心、無道に陷り、法度(はつと)を背き、道を破り、世の災害と成行(なりゆ)き候。神職(じんしよく)、祝部(はふり)の者は神道の深理(しんり)を取失(とりうしな)ひ、陰陽顯冥(いんやうけんめい)の相(さう)に惑ひ、祈禱に縡(こと)を寄せて、財寶を貪り、託宣に詞(ことば)を假(かつ)て、利欲を旨とす。武家より始(はじめ)て、儒佛神道(しんだう)に至るまで、大道、悉く廢(すた)れ、利欲、大に盛(さかん)なり。奉行、頭人より萬民まで、皆、奸曲邪欲を本として、迭(たがい)に怨(うら)み、迭に怒り、胸に咀(のろ)ひ、口に謗(そし)る。この故に、國中、頻(しきり)に喧(かまびす)し、たゞ殿(との)御一人、正道を重じ、正理を守り、御威勢強くまします故にこそ、上部(うはべ)計(ばかり)はせめて安穩(あんをん)無事の世中のやうには見えて候ものを」と語り申しければ、時賴入道は大息つきて、暫くは物をも宣はず。良(やゝ)有て、仰せられけるは、「御邊(ごへん)、かく國家政道の亂れたる事を我に知らさせける事は、誠に大忠の至り、何事か是に勝(まさ)らん。然れば、奉行、頭人、評定衆に、奸曲重欲のあらんには、下民、何ぞ奸(かたま)しき事なからんや。この罪、皆、我が身に歸(き)す。我、愚(おろか)にして、上下遠きが致す所なり」とて大に歎き給ひ、その後、正直の者十二人を撰出(えらびだ)し、密(ひそか)に鎌倉中の有樣を尋聞(たづねき)かしめらるゝ所に、靑砥左衞尉藤綱が申すに違(たが)はず、是に依て、評定衆を初(はじめ)て非道の輩(ともがら)を記(しる)さるゝに、三百人に及べり、時賴入道、是等を召出し、理非を決斷し、科(とが)の輕重に從ひて、當々(たうたう)に罪(つみ)し給ひけり。斯(かく)て仰せありけるは、「往昔(そのかみ)、義時、泰時、宣ひ置かれしは、頭人、評定衆の事、此、一家一門の人に依るべからず、智慮有りて學を勤め、正直にして道を嗜み、才覺もあらん人を撰出(えらみいだ)して定むべし」と、然るを近代、時氏、經時より以來(このかた)、評定は只、其家にあるが如し、その子孫、或は愚にして理非に迷ひ、或は奸曲有りて政道の邪魔となる。是(これ)、亡國の端(はし)にあらずや。諸人の惱(なやみ)、是(これ)に過ぐべからず」とて、器量の人を撰びて、諸国七道に使を遣し、諸方の非道を尋探(たづねさぐ)らる。探題、目代、領主たる輩(ともがら)、無道猛惡の者、二百餘人を記して鎌倉に歸る。時賴入道、是を點檢(てんけん)し、科(とが)の輕重に從ひて、皆、罪に行はる。有難かりける政道なり。

[やぶちゃん注:既に述べた通り、青砥藤綱の実在を私は認めないし(「北條九代記 卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直」を見よ)、これがマクラとなっている次章の時頼諸国回国譚も、素人が「吾妻鏡」を見ても判然とする通り、あり得ない笑止千万な話である。

「澆薄(げうはく)」「澆」も薄いの意で、道徳が衰え、人情が極めて薄くなってしまうこと。

「頭人(とうにん)」ルビはママ。「たうにん」が正しい。評定衆を補佐して訴訟・庶務を取り扱った引付衆の長官。

「不慈」慈悲心が全くないこと。

「廉直ならず」正直でない。

「これに依て」酷吏の内、特に際立って孝心なく、無慈悲で、正直でない行為を繰り返すために。

「尩弱(わうじやく)」「尫弱」とも書く。現代仮名遣では「おうじゃく」。取るに足らないこと。頼りにならないこと。

「愚蒙」愚かで道理がわからないこと。「蒙」も道理を弁えない愚かなこと・無知なことを意味する。「愚昧」に同じい。

「短才の身にて候へば」「短才」は浅はかな知恵と乏しい才能の意であるが、自分の能力を遜(へいくだ)っていう語で、ここもそれ。

「我だにも修(をさま)り得ざる所に於いて」私自身をさえも自ら修養することが出来ざる愚か者である存在が。

「言上」「ごんじやう」(ごんじょう)。

「この比」「このごろ」この頃。

「奸曲(かんきよく)」心に悪しき意識があること。

「上下の遠きに依ての御事」上と下の意識があまりに遠く隔たって齟齬し、相互の意志が全く疎通しなくなっておりますこと。

「内緣を以て、奉行、頭人に窺へば」奉行や頭人といった裁定者の中に縁故のあるのをよいことに、彼らに賄賂(まいない)などを以って自分の都合によいように裁定を不当に曲げるように働きかけることがあるので。但し、次の「非なるは、罪科遁るべからず」とは上手く繋がらない。私はここは挿入文と読む。即ち、

……奉行や頭人に縁故のある者は訴訟を有利に運ぼうとするのですが――無論、そんな行為自体も非であることは火を見るより明らかであり、そうした事前に裏で手を回すことの罪科を遁れてよいはずはない――ないけれども実際には、そうした不法な取引が行われているのです。

と藤綱は言うのであろう。

「下(した)にて」そうした幕府の上級の裁きよりも下の、中・下級の裁定部署にあっては。

「某(それがし)」中・下級の官吏。以下は、本来ならば、自分よりも上の中・上位の裁定部局に通して理非を明らかにするのが当然である訴訟の場合であっても、それを通さずにその者たちが勝手に中・下級の官吏が裁定して済ましてしまうことを指している。

「押して中分(ちうぶん)に決せらる」縁故者に罪が有意にあっても、「理非」を「中分」、半々にして裁定してしまう。

「さて止(や)み候」明白な不当裁定に対して大いに論理的上の不満を抱きながらも、これが公の裁きである以上、としぶしぶあきらめて、それ以上訴訟を続行させないのです。頭のあまりよくない者は、「国の法律というものはこういうもんなんだろう。お上に逆らっちゃ罰が当たる」と思って引き下がるのとは大きな違いではる。後者の場合は、国法への不信がより深刻となり、国家自体を恨んで謀反に繋がるか、或いは正直者が馬鹿を見るのであるのが現実ならば、そうした連中よりも、さらにより巧みに悪に徹しようとする可能性が出て来るからである。

「遠境(ゑんきやう)の守護、目代(もくだい)等、皆、この格に習ひて、非道を行ひ」幕府の監視の目が届かない分、違反行為はやり放題、私腹は瞬く間に肥える一方となるからである。

「責虐(せきぎやく)」責め苦しませること。

「押領(おうりやう)」民の私有財産等の違法な押収・横領・着服。

「天下、喧(かまびす)しく、相唱(あひとな)ふといへども」失礼乍ら、実際には巷間ではこうした正しい不平不満を口々に主張し、訴えんと問題にしているのですが。

「更に以(もつ)て知召(しろしめ)さず」天皇や主君はそれを全く御存じない。ここでは敢えて形式上の謂いとして採った。実際の実権は執権にあり、この時は時頼の嫡子時宗の代となっていたとしても、訳の上では直接に時宗或いはその上の将軍家を指すとは私は読まない。後に藤綱は「堂上」を用いているのもそうした配慮があるからと私は思う。

「步(かち)より行くものは、一日に百里を過ぎて行程(ぎやうてい)とす」徒歩で旅する者は一日の行程を百里を目標上限とする。日本の中世の一里は凡そ五~六町を一里としたから(東国で使われた「坂東道」「田舎道」はそれ。鎌倉の「七里ヶ浜」はそれに基づく。但し、実際には二千九百メートルほどで半分強しかない)、これは現在の五百四十五メートルから六百五十五メートル相当で、中をとって六百メートルとすれば、六十キロメートルであるが、屈強の武士でも同一速度での歩行は無理である(武装していればなおさら)から、「百里」(六十キロメートル)を上限目安としても、事実上は時速四キロメートル+αで実動十時間、四百里(二十四キロメートル)から六百里(三十六キロメートル)ぐらいがせいぜいであろう。ここでそれを倍にしているのは、百里で示した方が後が分かり易い比喩になるからに過ぎないと思われる。

「堂上」ここは「だうじやう(どうじょう)」でよいと思うが、古くは「とうしやう」と清音で読んだ。ここは文字通り、「昇殿を許された公卿・殿上人の総称・公家・堂上方」の意で採っておく。無論、それは比喩であるから、訳す場合は「主君」(の身辺)の方が違和感はあるまい。

「百里の情に遠(とほざか)り」ごく身辺の出来事でありながら、それが十日経ってもその主君の耳に入って来ないとすれば、その事件・事情は何か奇体不可思議な理由から主君とは「百里」も隔たった心理的距離を持っている対象なのであり。

「堂下」本来は「堂上」の対語である「地下(ぢけ(じげ))」を持ってきたいところである。下々の世界。民間。

「門庭(もんてい)」教育社一九七九年刊の増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記で氏は『遠境の国々』と訳されておられるが、比喩を壊すのは私はどうかと思う。それに「下々」よりも自分の御殿の「門庭」は近い。寧ろ、ここで藤綱は身内の高官らの中に発生した事件や出来事について、一年たってもお聞き及びなられることがない、などという事態があったとすれば、その自邸内で起きた某重大事件であっても、それは万里(ばんり)の距離を隔てた事情を有する奇怪千万なものだと言いたいのではあるまいか? だからこそすぐ後の「奉行、頭人、私欲を構へ」と繋がるのだ、と私には思われる。

「君」主君。

「この御館(みたち)に座(おは)しましながら、百千萬里を遠り給ふ」ここで藤綱は比喩が五月蠅くなったのであろう、主体を実際の権力者である時頼に還元して露わに示している。

「每事(まいじ)」何事(に対しても)。

「必ず一人に歸し」主君一人。具体的には執権時宗であり、その父で実際の権力を握っている時頼一人にである。時宗と時頼は得宗で、同体として認識して問題ない。

「經書(けいしよ)」「經」は縦(たて)糸で、古今を貫く真理を載せた書物の意で、儒教の経典、四書・五経などの中国古代の聖賢の教えを記した書物全般を指す。仏教経典は含まれないので注意。

「侫奸(ねいかん)」口先では巧みに従順を装いつつも、心の中は徹底して悪賢いこと。

「毀譽(きよ)偏執(へんじう)を旨とし」増淵氏の訳は『他人の名誉をけがし偏見に執着するばかりで』と訳しておられる。

「生死出離(しやうししゆつり)」正しい仏法によって悟りを開き、生死(しょうじ)の苦海から脱すること、涅槃の境地に入ること。

「空見(くうけん)に落ちて」(修行を疎かにしているために)中身のない空しい見解に陥ってしまい。

「僧綱(そうがう)」本来は僧尼の統轄や諸大寺の管理運営に当たる僧の上位役職の総称。僧正・僧都(そうず)・律師が「三綱」、他に「法務」「威儀師」「従儀師」を置いて補佐させたが、平安後期には形式化している。所謂、名誉称号に過ぎない。

「綾羅(りようら)」あやぎぬとうすぎぬ。美しく高価な衣服。

「嚴(かざ)り」飾り。荘厳(しょうごん)の意からもこの字を用いるのは実に皮肉が利いていると言える。

「老鼠(らうそ)を見るが如くし」「學智行德の僧」であるが故に、衣服も貧しく、貧弱に見える者もいる。そうした者を乞食か老いさらばえた今にも死にそうな鼠を見るように蔑み、おぞましい目を向ける、という実にリアルな映像表現ではないか。

「公役(くやく)」官府から課せられた軍役や夫役(ぶやく)

「白俗(はくぞく)」俗人。墨染で僧は黒衣。但し、ここは江戸時代の作者の感覚で、この時代は必ずしも黒衣ではなく、逆に僧の黒衣着用を禁じた時期もあっりしたと私は記憶する。

・「三世不可得(ふかとく)」三世(さんぜ:前世(ぜんせ)・現世・後世(ごぜ))の事物事象は認知出来ないこと。仏教では一切の存在に固定不変の実体を認めないことから、その三世(過去・現在・未来の時空間と置き換えてもよい)の本体を追求してもそれを認識することは不可能であるする。

「罪惡に自性(じしやう)なし、善法(ぜんぱふ)も著(ちやく)せざれ」先の「三世不可得」(或いは「不可得空(くう)」)の理を誤認して、「罪悪などというもの自体がもともと存在しない。従って善行を積むということも何ら身の果報とはなるもんではない!」と説法している僧さえいる、というのである。これは恐らく、当時(設定された鎌倉時代)の浄土真宗の親鸞が義絶した息子で、関東で強い勢力を持った善鸞一派のそれを誇張変形したものではなかろうかと私は推察する。因みに善鸞の生没年は建保五(一二一七)年?~弘安九年(一二八六)年?)である。

「神職(じんしよく)」神官。

「祝部(はふり)の者」「はふりべ」(ほうりべ)とも読む。神社に属して神に仕えた職の一つで、通常は神主・禰宜(ねぎ)より下級の神職を指す。

「陰陽顯冥(いんやうけんめい)の相(さう)」陰陽師(ここは幕府や神社仏閣に附属した陰陽師であろうが、それ以外にもこの頃には怪しい民間の怪しげな連中が沢山いた)連中らの下すところ吉凶の相(判断)。

「迭(たがい)に」「迭」には「入れ替える」の以外に、もともと「かわるがわる・順番に代わりあって・交代に・互いに」の意がある。

「咀(のろ)ひ」呪詛に同じい。

「たゞ殿御一人」ここで最後に時頼にヨイショ。上手いね、藤綱。

「下民、何ぞ奸(かたま)しき事なからんや」反語。上が致命的にダメなのに、民草の方は心のねじけることなく、いまわしい心の持ち主にはならないなんてことの、あるはずがあろうか! いや、ない! 人民まで十把一絡げに悪道に落ちてしまっている!

「當々(たうたう)に罪(つみ)し給ひけり」それぞれ各人にその罪に相応相当の罰をお与えになられたという。

「依るべからず」のみに限定してはいけない。

「時氏」北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二(一二三〇)年)。第三代執権北条泰時の長男。嫡子で泰時も期待していたが、惜しくも病いのために早世し、執権にはなっていない。

「經時」時頼の前の第四代執権北条経時(元仁元(一二二四)年~寛元四(一二四六)年)。

「評定は只、其家にあるが如し」評定衆は実質上、北条家だけで占めているようなものであった。

「その子孫、或は愚にして理非に迷ひ、或は奸曲有りて政道の邪魔となる。是(これ)、亡國の端(はし)にあらずや。諸人の惱(なやみ)、是(これ)に過ぐべからず」ここは「諸人」が北条の「子孫」が幕府の裁定の総てを牛耳っているのが、そのメンバーは「或は愚にして理非に迷ひ、或は奸曲有りて政道の邪魔となる」者ばかりではないか! 「是(これ)、亡國の端(はし)にあらずや」と「惱」む、のだ、これこそまさに「亡國の」の始まりである! という謂いである。かの狸親父の時頼が本当にそう言ったとしたら、少しは私も時頼が好きになるんだけど、ね。

「諸国七道」古代律令制の「五畿七道」に基づく、秋津島(日本)の全域の謂い。東海道・東山道(現在の青森・岩手・秋田・宮城・山形・福島の東北六県に栃木・群馬・長野・岐阜・滋賀の各県を合わせた地域)・北陸道・山陰道・山陽道・南海道(現在の香川・徳島・愛媛・高知の四国四県に三重県熊野地方・和歌山県・淡路島を合わせた地域)・西海道。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蝎

Kikuimusi

きくいむし 木蠹蟲

【音曷】 蝤蠐 蛣

      蛀蟲

      【和名乃牟之】

カツ

 

本綱蝤蠐即蝎也狀如蠐螬節長足短口黑無毛在朽木

中食木心穿木如錐至春雨後化爲天牛

凡似蠺而在木中食木者爲蝎 似蠶而在樹上食葉者

爲蠋 似蠋而青小行則首尾相就屈而後伸者爲尺蠖

似尺蠖而青小者爲螟蛉【蠋尺蠖螟蛉】此三蟲皆不能穴于木

至夏俱羽化爲蛾

凡蝎隨所居所食之木性味良毒不同未可一槩用也古

方用蠹多取桑柳構木者亦各有義焉

按蝎【破古木枝見之在中】和方取臭樹蠹炙用治小兒五疳保童

 圓藥中亦入用此蠹内外白而形色與柳蠹無異售者

 僞之宜辨之

 

[やぶちゃん注:ここに縦罫。]

 

柳蠹蟲【甘辛平有小毒】 至春夏化爲天牛蓋桑柳蝎共有治驚

 風及血症之功然今俗以柳蟲爲治痘瘡變症神藥予

 屢試之未見効

桑蠹蟲【甘温無毒】 其糞能治小兒胎癬先以葱鹽湯洗浄用

 桑木蛀屑燒存性入輕粉等分油和敷之凡小兒頭生

 瘡手爬處即延生謂之胎癬

桃蠹【和名毛毛乃牟之一名山龍蠹】 食桃樹蟲也殺鬼辟邪惡不祥又

 其蛀糞爲末水服則辟温疫令不相染

蒼耳蟲 生蒼耳草梗中狀如小蠶取之但看梗有大蛀

 眼者以刀截去兩頭有蛀梗多收線縛掛簷下其蟲在

 内經年不死用時取出細者以三條當一用之以麻油

 浸死收貯毎用一二枚擣傅疔腫惡毒即時毒散大有

 神効

 

 

きくいむし       木蠹蟲〔(こくそむし)〕

【音、曷(カツ)。】 蝤蠐〔(しゆうせい)〕 蛣〔(きつくつ)〕

            蛀蟲〔(しゆちゆう)〕

            【和名、「乃牟之(のむし)」。】

カツ

 

「本綱」〔に〕、蝤蠐は、即ち、蝎〔(きくひむし)〕なり。狀〔(かたち)〕、蠐螬〔(すくもむし)〕のごとく、節、長く、足、短く、口、黑くして、毛、無し。朽〔ち〕木の中に在りて、木の心を食ひ、木を穿〔(うが)〕つこと、錐(きり)のごとし。春雨の後に至りて、化して天牛(かみきり)虫と爲る。

凡そ、蠺〔(かひこ)〕に似て、木の中に在りて木を食ふ者を蝎〔(きくひむし)〕と爲す。 蠶に似て、樹上に在りて葉を食ふ者を蠋(はくひむし)と爲す。蠋に似て青く小さく、行く時は則ち、首尾、相ひ就き屈して後〔ろに〕伸〔(の)ぶ〕る者を尺蠖(しやくとりむし)と爲す。尺蠖に似て青く小さき者を螟蛉(あをむし)と爲す。【蠋。尺蠖。螟蛉。】此の三つの蟲は皆、木に穴すること能はず。夏に至りて俱に羽化して蛾と爲る。

凡そ、蝎、居る所、食ふ所の木に隨ひて、性・味、良・毒、同じからず、未だ一槩〔(いちがい)〕にして用ふるべからざるなり。古方に蠹〔(きくひむし)〕を用ふるに、多く桑・柳・構〔(かじ)〕の木の者を取る〔は〕亦、各々、義、有り。

按ずるに、蝎【古木の枝を破りて之れを見るに中に在り。】、和方〔にては〕、臭樹蠹(くさきのむし)を取りて炙りて用ひ、小兒五疳を治す。保童圓の藥中にも亦、入れ用ふ。此の蠹〔(きくひむし)は〕内外、白くして、形・色、柳の蠹と異なること無し。售〔(う)〕る者、之れを僞る。宜しく之〔れを〕辨ずべし。

 

[やぶちゃん注:ここに縦罫。]

 

柳蠹蟲(やなぎのむし)【甘辛、平。小毒、有り。】 春夏に至りて化して天牛(かみきり)虫と爲る。蓋し、桑・柳の蝎、共に驚風及び血症を治するの功、有り。然るに今、俗、柳蟲を以て痘瘡變症を治する神藥と爲す。予、屢々之れを試みるも未だ効を見ず。

桑蠹蟲〔(くはのむし)〕【甘、無。毒。】 其の糞、能く小兒の胎癬(かしらのかさ)を治す。先づ、葱鹽湯〔(ねぎしほゆ)〕を以て洗浄して桑の木の蛀屑(むしくそ)を用ひ、燒きて、性を存〔し〕、輕粉(はらや)を入れて等分に油に和して之れを敷く。凡そ小兒の頭に瘡〔(かさ)〕を生〔ぜしは〕、手を以て爬〔(か)〕く處、即ち、延生〔(えんしやう)〕す。之れを胎癬と謂ふ。

桃蠹〔(たうと)〕【和名、「毛毛乃牟之〔(もものむし)〕」。一名、「山龍蠹〔(さんりうと)〕」。】 桃の樹を食ふ蟲なり。鬼を殺し、邪惡を辟(さ)く。又、其の蛀糞(むしくそ)、末と爲し、水服すれば、則ち、温疫を辟け、相ひ染(うつ)らざらしむ。

蒼耳蟲(をなもみのむし) 蒼耳草の梗(くき)の中に生ず。狀、小〔さき〕蠶のごとく、之れを取るに〔は〕、但だ、梗を看〔(み)〕れば、大なる蛀-眼(むしあな)有る者、刀を以て兩頭を截り去るに、有る〔のみ〕。蛀〔(むし)〕あら〔む〕梗を多く收〔め〕、線(くゝ)り縛〔り〕て簷〔(のき)〕の下に掛くれば、其の蟲、内に在りて年を經ても死せず。用ひる時、取り出す。細なる者は三條を以て一〔(いつ)〕に當て、之れを用ふ。麻油を以て浸死〔(ひたしじに)させ〕、收〔めて〕貯〔ふ〕。毎用、一、二枚を擣〔(つ)き〕て疔腫(てうしゆ)・惡毒に傅〔(つ)〕く。即時に、毒、散ず。大いに神効有り。

 

[やぶちゃん注:「本草綱目」の引用部には前の「蠐螬」に出る漢字が頻繁に出て明らかに時珍を始めとする明以前の本草家が、これらを一緒くたにして平気でいた(漢方製剤に使用していた)ことが窺える。ともかくも差別化するならば、まずは、「蝎」、「木食虫」の異名を持つ生物(或いは幼体)であり、その形状は前項の「蠐螬(すくもむし)」、即ち、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属 Mimela に属するコガネムシ類の幼虫に似ている。但し、それよりもよりも有意に「節、長く、足、短く、口、黑くして、毛、無」いこと、その棲息する場所は、土中にいる「蠐螬(すくもむし)」とは異なり、「朽ち木の中に在りて、木の心を食ひ、木を穿(うが)つこと、錐(きり)のごと」く強力に食い、そして、「春雨の後に至りて、化して天牛(かみきり)虫と爲る」というのであるから、これはもう、

鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ(髪切虫・天牛)科 Cerambycidae の幼虫

としてよい。ウィキの「カミキリムシ」によれば、以下に示すように(下線やぶちゃん)、『全世界の熱帯から亜寒帯まで、陸上性の多年生植物がある所にはたいてい分布する。名前がついているものだけで』も約二万種を数え、本邦だけでも凡そ八百種ほどが知られている。『ごく一部の種を除き草食で、成虫の体は前後に細長く、触角、脚、大顎が目立つ。 幼虫成虫という一生を送る完全変態の昆虫で』、『成虫の触角は長く、英名"Longhorn beetle(長い角の甲虫)"または"Longicorn"もここに由来する。また、漢字表記の一つ「天牛」は中国語に由来し、長い触角をウシの角になぞらえたものである。触角の長さは種類やオスメスによって異なり、体長の半分くらいのものから体長の』三倍『以上に及ぶものまで変異に富む。同種では雄の方が長い』。『脚はカブトムシなどのような棘は発達しないが、長くがっしりしている。脚先に並んだ付節はハート型で細かい毛が生えており、吸盤とは構造が違うがものにくっつくという点では同じである。この付節と鉤爪があるため、垂直に立つ木の幹も、ガラス面でも歩くことができる』。『成虫は植物の花、花粉、葉や茎、木の皮、樹液などを食べる。植物の丈夫な繊維や木部組織をかじりとるため、大顎もそれを動かす筋肉もよく発達する。うかつに手で掴むと大顎で咬みつかれることがあり、大型種では出血することもあるので注意が必要である。カミキリムシという呼び名も、髪の毛を切断するほど大顎の力が強いことに由来する(「噛み切り虫」からという説もある)』。『また、カミキリムシを手でつかむと、ほとんどの種類が「キイキイ」という威嚇音を出す。多くは前胸と中胸をこすり合わせて発音するが、ノコギリカミキリ類など前翅の縁と後脚をこすり合わせて発音するものもいる』。『幼虫の食草・食樹は種類によってだいたい決まっており、卵もそれらの植物に産卵される。幼虫は細長いイモムシ状で、体色はたいてい半透明の白色をしており、日本では俗にテッポウムシ(鉄砲虫)などと呼ばれる。一般には円筒形の体で、前胸だけが大きく、腹背にやや平たい。胸部の歩脚も腹部の疣足も外見上はない。草の茎や木の幹など、植物の組織内に喰いこんでトンネルを掘り進み、大顎で植物の組織を食べながら成長する。生きた植物に食いこむものと、枯れた植物に食いこむものとがいるが、大型の種類は生木に入りこみ、数年かけて成長することが多い』。『充分に成長した幼虫は自分が作ったトンネル内で蛹になる。蛹はほぼ成虫の形をしており、触角が渦巻き状に畳まれる。羽化した成虫は大顎でトンネルを掘り進み、植物の外へ姿を現すが、羽化した段階で越冬するものもいる』。「種の多様性」の項は中略し、ここでは種によって異なる樹種を選ぶ(成虫・幼虫ともに)の生態を記載する「人間とのかかわり」を以下に引く。『カミキリムシは、草木を利用する人間の観点では害虫としての存在が大きい。幼虫(テッポウムシ)が生木に穴を開けて弱らせたり、木材そのものの商品価値をなくす。また、成虫でも木や葉、果実を食害するものがいるので、林業・農業分野においてカミキリムシ類は害虫の一つといえる』。『害虫として挙げられるおもなカミキリムシには以下のようなものがある』(一部で個人的に増やしてある。分類タクサと学名は独自に調べた)。

・カミキリムシ科フトカミキリ亜科ヒゲナガカミキリ族ゴマダラカミキリ属ゴマダラカミキリ Anoplophora malasiaca

 ――ミカン・ヤナギ・クリ・イチジク等

・フトカミキリ亜科シロスジカミキリ族クワカミキリ属クワカミキリ Apriona japonica

・フトカミキリ亜科ヒゲナガカミキリ族キボシカミキリ属キボシカミキリPsacothea hilaris

 ――両種ともクワ・イチジク等

・シロスジカミキリ族シロスジカミキリ属シロスジカミキリBatocera lineolata

・カミキリ亜科ミヤマカミキリ族ミヤマカミキリ属ミヤマカミキリMassicus raddei

 ――両種ともクリ・クヌギなど

・カミキリ亜科スギカミキリ族スギカミキリ属スギカミキリ Semanotus japonicus

 ――スギ・ヒノキ

・フトカミキリ亜科ルリカミキリ族ルリカミキリ属ルリカミキリBacchisa(Bacchisa) fortunei

・フトカミキリ亜科トホシカミキリ族リンゴカミキリ属リンゴカミキリOberea japonica

 ――サクラ・リンゴ・ナシ及びバラ科の樹木

・カミキリ亜科トラカミキリ族トラカミキリ属ブドウトラカミキリ Xylotrechus pyrrhoderus

 ――ブドウ類

・フトカミキリ亜科トホシカミキリ族キクスイカミキリ属キクスイカミキリPhytoecia(Phytoecia) rufiventris

 ――キク類

・フトカミキリ亜科ヒゲナガカミキリ族イタヤカミキリ属イタヤカミキリMecynippus pubicornis

 ――ヤナギ

・フトカミキリ亜科ヒゲナガカミキリ族ビロウドカミキリ属イチョウヒゲビロウドカミキリ Acalolepta ginkgovora

 ――イチョウ・ニワトコ・クサギ

「桃蠹」でモモが出るが、お分かりとは思うが、「桃」はバラ科 Rosaceae(モモ亜科 Amygdaloideae モモ属モモ Amygdalus persica)である。また、後で出すが、後の本文に出る「構」(カジ)はクワ科 Moraceae の、「蒼耳草」(オナモミ)はキク科 Asteraceae の植物であるから、これらで一応、本文で叙述する食害対象の樹木類をカバー出来たと思う。以下、ウィキの戻る。『また、飛んで移動できるカミキリムシの成虫は、植物の伝染病などを媒介するベクターの役割も果たす。たとえば「マツクイムシ」と呼ばれる』カミキリムシ科フトカミキリ亜科ヒゲナガカミキリ族ヒゲナガカミキリ属『マツノマダラカミキリ Monochamus alternatus は日本の在来種だが』、二十世紀『前半頃にマツを枯らす線虫の一種・マツノザイセンチュウ Bursaphelenchus xylophilus が北アメリカから日本に侵入、以降は線虫を媒介するとして線虫共々「マツクイムシ」として恐れられ、駆除が進められるようになった経緯がある』。『害虫として嫌われる一方で、大型種の幼虫は世界各地で食用にされ、蛋白源の一つにもなっている。日本とて例外ではなく、薪の中などにひそむカミキリムシの幼虫は子どものおやつとして焚き火で焼いて食べていた。ただし、これも薪などが身近にあった時代の事象になりつつある』。『総じて、大顎が下を向くフトカミキリ亜科』Lamiinae『の多くや、カミキリ亜科』Cerambycinae のトラカミキリ族トラカミキリ属トラフカミキリトラフカミキリ Xylotrechus chinensis・トガリバアカネトラカミキリ族トガリバアカネトラカミキリ属スギノアカネトラカミキリAnaglyptus(Anaglyptus) subfasciatus ・トラカミキリ族トラカミキリ属ブドウトラカミキリ Xylotrechus pyrrhoderus『等が、農林業害虫として問題視される』。『一方、あまり害虫視されていないのは』、カミキリムシ科ノコギリカミキリ亜科ノコギリカミキリ族ノコギリカミキリ属 Prionus のノコギリカミキリ類やノコギリカミキリ亜科ウスバカミキリ族ウスバカミキリ属ウスバカミキリMegopis(Aegosoma) の』系統で、これらの種の幼虫が食するのは地中に埋もれた倒木や、腐朽した木である。その意味で幼虫の生態はクワガタムシ』(多食(カブトムシ)亜目コガネムシ上科クワガタムシ科 Lucanidae)『に近いといえるが、クワガタムシほど腐朽、軟化が進行した材を食べるわけではない』。ハナカミキリ亜科 Lepturinaeの『幼虫はほぼ全種が枯死、腐朽した材を食樹とする。中でも原始的な種とされるヒラヤマコブハナカミキリ』(ハイイロハナカミキリ族ヒラヤマコブハナカミキリ属Enoploderes(Pyrenoploderes) bicolor『やベニバハナカミキリ』(ハナカミキリ族ベニバハナカミキリ属Paranaspia anaspidoides)、『ハチに擬態した』ホソコバネカミキリ亜科ホソコバネカミキリ属ホソコバネカミキリ属Necidarisの『大型種オニホソコバネカミキリ』(Necydalis gigantea)『等は、老木の芯腐れ部分を食べるという特異さから、生態がなかなか解明されなかった』。ハナカミキリ亜科ハイイロハナカミキリ族『ヒメハナカミキリ属Pidoniaの一部は幼虫の食性がさらに極端であり、腐葉土を食べている』。『また、カミキリムシはその多種多様さ、多彩さから昆虫採集の対象としても人気があり、熱心な収集家も多い。彼らは各種の花や木、伐採後の木材置き場や粗朶場(そだば : 間伐材などを積み上げた場所)、夜間の灯火などに集まったカミキリムシを採集する。木材置き場には生殖と産卵のために多くの種が集まる。また、ハナカミキリ類は小型の美麗種が多く、多くは初夏に山地の花に集まる。それもクリの花とかリョウブ』(ツツジ目リョウブ科リョウブ属リョウブ Clethra barbinervis)『など、花がふさふさとしたものに集まるものが多く、これを捕虫網ではたくようにして捕まえるのが大変な楽しみである』とある。

 

・「蝎」既に述べたが、これは漢語で蠍(サソリ)以外に地虫の類を広く指す語でもあるので注意されたい。

・「蛀」この字は現代中国でも「木食い虫」(蠹)、他に広く、虫が木や書物を対象として「食い荒らす」謂いがある。

・『和名、「乃牟之(のむし)」』。「和妙類聚抄」に、『蠹 説文云蠹【音妬和名乃牟之】木中虫也』とあるから、非常に古くからの呼称であることが判る。

・「蠋(はくひむし)」所謂、芋虫で、広く蝶・蛾の幼虫に対する漢語の俗称である。

・「尺蠖(しやくとりむし)」狭義には鱗翅目シャクガ(尺蛾:幼虫の尺取虫に由来)科 Geometridae に属するガの幼虫の名であるが、そうした運動形態を持つ幼虫は概ね、こう呼ばれてしまう(但し、通常は無毛或いは無毛に見えるものに限定されるように思う)。

・「螟蛉(あをむし)」音「メイレイ」は青虫(あおむし:蝶や蛾の幼虫の中で体に長い毛を有さず、緑色を呈しているものの総称)のこと。因みに、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科 Ammophilinae 或いはその下位の ジガバチ族 Ammophilini ジガバチ(アナバチ)類の一部が、麻酔をかけて卵を産むのを見た中国の古人が「青虫を養い育てて自分の子とする」と誤認したことから、この語には「養子」の謂いもあるのは面白い。

・「【蠋。尺蠖。螟蛉。】此の三つの蟲は皆、木に穴すること能はず。夏に至りて俱に羽化して蛾と爲る」博物学的には概ね正しいのであるが、さて、この項、「蝎(きくひむし)」の記載としてこれが相応しいかといえば、首を捻らざるを得ない。本草書ではしばしばあることではあるが、迂遠な記載ではある。しかし、読んでいて楽しくはあるから、それでよい。

・「一槩〔(いちがい)〕」一概に同じい。

・「構〔(かじ)〕の木」本邦では「梶」の漢字表記の方が一般的であるが、実際に「構」とも書く(但し、その場合は「こう」の木と音読みするようである)。イラクサ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera ウィキの「カジノキ」によれば、『樹高はあまり高くならず』、十メートルほどで、『葉は大きく、浅く三裂するか、楕円形で毛が一面に生える。左右どちらかしか裂けない葉も存在し、同じ株でも葉の変異は多い。雌雄異株』。『古い時代においてはヒメコウゾ』(クワ科コウゾ属ヒメコウゾ Broussonetia kazinoki:種小名に注目!)『との区別が余り認識されておらず、現在のコウゾ』(コウゾ属コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera)『はヒメコウゾとカジノキの雑種といわれている』(学名参照)。『また、江戸時代に日本を訪れたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもこの両者を混同してヨーロッパに報告したために今日のヒメコウゾの学名が「Broussonetia kazinoki」となってしまっている』。『なお、カジノキは神道では神聖な樹木のひとつであり、諏訪神社などの神紋や日本の家紋である梶紋の紋様としても描かれている』。『古代から神に捧げる神木として尊ばれていた為、神社の境内などに多く生えられ、主として神事に用い供え物の敷物に使われた』。『煙などにも強い植物であるため、中国では工場や鉱山の緑化に用いられる』。『葉はブタ、ウシ、ヒツジ、シカなどの飼料(飼い葉)とする。樹皮はコウゾと同様に製紙用の繊維原料とされた。中国の伝統紙である画仙紙(宣紙)は主にカジノキを用いる。 また、昔は七夕飾りの短冊の代わりとしても使われた』とある。

「各々、義、有り」それぞれの樹種の木食い虫にはその発生と食性に由来する、処方にそれなりの厳然たる区別がある、という意であろう。

・「臭樹」シソ目シソ科クサギ属クサギ Clerodendrum trichotomum。和名は葉を触わると、一種異様な臭いがすることに由来する。

・「小兒五疳」小児のひきつけ・眩暈(めまい)・悪寒・発熱などの症状の総称。

・「保童圓」本邦のオリジナルな漢方の薬方の名である。青森市公式サイトの「あおもり歴史トリビア」第五十五号二〇一三年四月二十六日配信「浪岡の桜の名所」の中に、室町時代のこの浪岡城(青森県青森市浪岡(旧南津軽郡浪岡町))の城主であった浪岡北畠氏が公家山科言継(やましなときつぐ 永正四(一五〇七)年~天正七(一五七九)年)のもとに使者を派遣し、朝廷から位を受ける許可を得ようと、さまざまな根回しをしていたことが山科の「言継卿記(ときつぐきょうき)」に残っているとある記事の中に、賄賂として送ったもの中になんと『煎海鼠(いりこ、干しナマコ)』があり、また、逆に『昆布や煎海鼠をたびたび送ってきている浪岡北畠氏の使いの者、彦左衛門に保童円(ほどうえん)三包と五霊膏(ごれいこう)三貝を遣したともあります。保童円の「円」は練り薬のことですから旅の疲れを癒すために服用するように、また五霊膏の「膏」は膏薬のことですから、疲労した脚にでも塗るように遣わしたのかもしれません。言継の旅人をいたわる心遣いがうかがわれ、身近な人のように感じてしまいます』とたまたま書かれてあったので、特に引いておきたく思う。但し、京都府京都市下京区中堂寺櫛笥町にある「寶蓮寺」の公式サイトの「歴史」の記載には、『京都寶蓮寺の十八代目までは、萬里の小路(までのこうじ)(現在の柳馬場三条下ル)に所在した境内地に住んでいた。この萬里の小路の境内には、前田という医者が住んでいて(現在の前田町の町名の起源となる)、保童円(ほどうえん)という丸薬を売り有名であったとも記録に残されている』とある。因みに、これは私自身が『博物学古記録翻刻訳注 12「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる海鼠の記載』で注したものを援用した。そこでは記さなかったが、「保童」とある以上、もともとは小児処方薬であったものであろう(ここでの記載からもそれは判る)。

・「售〔(う)〕る」売る。

・「柳蠹蟲(やなぎのむし)」例えば先に出したイタヤカミキリMecynippus pubicornis の幼虫であろう。以下は別個に記載しないので、先の私の作成した例一覧を参照されたい。

・「驚風」小児がひきつけを起こす病気。癲癇の一種や髄膜炎の類に相当する。

・「血症」婦人の生理不順や或いは「血の道」(思春期・生理時・産褥(さんじょく)時・更年期などに訴える、眩暈・のぼせ・発汗・肩こり・頭痛・疲労感などの諸症状を含む古語で現在の自律神経失調や更年期障害に相当する)のことを指すか。

・「痘瘡變症」天然痘の症状の中でも特徴的な、水疱性発疹が化膿して膿疱となった状態を指すか。

・「小兒の胎癬(かしらのかさ)」これは当初は無気門(コナダニ)亜目ヒゼンダニ科ヒゼンダニ Sarcoptes scabiei var. hominis に感染することによって生ずる皮膚感染症である疥癬の一種かと思ったが、後に掻いた部分が延伸して痒くなるというのだから、これはもしや、現行で言うところの「アトピー性皮膚炎」ではなかろうか? 識者の御教授を乞う。

・「葱鹽湯〔(ねぎしほゆ)〕」ネギを塩茹でしたその液であろう。

・「蛀屑(むしくそ)」これは幼虫の本体(それも含むのであろうが)よりも、その食って糞となって出たもぞもぞになったものを指していると読める。

「燒きて、性を存〔し〕」東洋文庫版現代語訳は入れ替えて、『性を損なわないように焼いて』とする。意味は分かるが、どうすること? と反問したくはなる。焦がさないようにするということか。

・「輕粉(はらや)」普通に「けいふん」とも読み、古く中国から伝えられた薬品で、梅毒薬及び白粉(おしろい)の原料にした白色の粉末。塩化第一水銀(甘汞(かんこう))が主成分で水に溶けにくく毒性が弱い。「水銀粉(はらや)」などとも表記し、別に「伊勢おしろい」とも呼んだ。

・「敷く」塗布する。

・「鬼を殺し、邪惡を辟(さ)く」これは神話時代の中国からの、桃の仙木仙果思想(神仙に力を与える樹木・果実の意)に基づく謂いである。ウィキの「モモ」によれば、『昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物として親しまれている。桃で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けの、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないとなる。桃の実は長寿を示す吉祥図案であり、祝い事の際には桃の実をかたどった練り餡入りの饅頭菓子・壽桃(ショウタオ、shòutáo)を食べる習慣がある』。『日本においても中国と同様、古くから桃には邪気を祓う力があると考えられて』おり(というより、私は中国伝来のものと考えている)、「古事記」では、『伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させ』ている(私が「古事記」の中で最も偏愛する呪的逃走のシークエンスである)。『伊弉諸尊はその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与え』ている。

・「蛀糞(むしくそ)」ここも前の「蛀屑(むしくそ)」と同義である。

・「水服」「すいふく」。水で服用すること。

・「温疫」漢方では「瘟疫」とも書き、種々の急性伝染病を総称する。急性の発熱症状が激しく、伝染力が強い流行性感冒などを指す。

・「蒼耳(をななみ)」キク目キク科キク亜オナモミ属オナモミ Xanthium strumarium。聴いたことない? いや! 知ってるさ! ほら! よく人にひっつけたあのトゲトゲの楕円形のあれの仲間さ! ウィキの「オナモミによれば、『果実に多数の棘(とげ)があるのでよく知られている』。草の丈は五十センチから一メートルで、『葉は広くて大きく、丸っぽい三角形に近く、周囲は不揃いなギザギザ(鋸歯)がある。茎はやや茶色みをおび、堅い。全体にざらざらしている。夏になると花を咲かせる。雌雄異花で、雄花は枝の先の方につき、白みをおびたふさふさを束ねたような感じ。雌花は緑色の塊のようなものの先端にわずかに顔を出す』。『見かけ上の果実は楕円形で、たくさんの棘をもっている。その姿は、ちょうど魚類のハリセンボンをふぐ提灯にしたものとよく似ている。先端部には特に太い棘が』二本『ある。もともと、この』二本の『棘の間に雌花があった』のである。『見かけ上の果実は最初は緑、熟すると灰褐色となり、棘も堅くなる。その前後に根本からはずれる。この棘は防御のためというよりは、動物の毛にからみついて運んでもらうためのものと考えられる。事実、オナモミは強力なひっつき虫であり、その藪を通れば、たいていどんな服でもからみついてくる。特に毛糸などには何重にもからみついてしまう。皮膚に当たっても結構痛い。ただし、大きさがあるため、はずすのはそれほど難しくない。これらの特徴から、投げて遊ぶ目的で使用される場合もある』。『オナモミはアジア大陸原産で、日本にはかなり古くに侵入した史前帰化植物と考えられている。ただし、現在ではオナモミを見ることは少なくなっている。多くの地域では近縁種のオオオナモミ X. canadenseやイガオナモミ X. italicum などの新しい帰化種に取って代わられているからである。また、それら種の繁殖にも波があるようで、オナモミ類全体をさほど見かけない地域もあるようである。帰化植物には侵入して大繁殖しても、次第に廃れたり、種が入れ替わったりといった移ろいが見られるのが、その一つの例である』。なお、『オナモミは生物時計が精密で』、八時間三十分の『暗黒時間を経てつぼみをつける性質があるが』、八時間十五分では『つぼみをつけない』とある。

・「梗(くき)」茎。

・「蛀-眼(むしあな)」虫食いの孔。

・「刀を以て兩頭を截り去るに、有る〔のみ〕」前の「但だ」に呼応させて「のみ」を振ったが、あまり意味の通りはよくない。ここは孔を見つけて、有意に離れたその前後を小刀で切り取れば簡単に採取出来る、という謂いである。

・「麻油」胡麻(ごま)油のことであろう。中国語ではそうであり、ここは処方に関わるからそれでよいと思う。

・「擣〔(つ)き〕て」搗き潰して。

・「疔腫(てうしゆ)」汗腺または皮脂腺が化膿し、皮膚や皮下の結合組織に腫れ物を生じた症状。顔面に発症した場合の「面疔」がよく知られる。

・「惡毒」前の「疔腫」から考えて、これは毒腫(諸毒による腫れ物)或いは、進行して膿みを持った性質の悪い腫れ物の謂いであろう。]

2016/06/28

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(9) 生目八幡 /目一つ五郎考~了

 

       生目八幡

 

 日向景淸の奇拔なる生目物語を、弘く全國に流布したのは座頭であつたらうといふことは、證據はまだ乏しいが多くの人が推測する。所謂常道の饒舌なる近世記錄でも、まだ明らかにたらぬ諸點の中で、殊に興味を惹くのは雨夜皇子の事、及び日向に澤山の所領があつて、其年貢を以て養はれたといふ言ひ傳へである。德川氏の新らしい政策に因つて、京と江戸との盲人の一群が、偏頗なる保護を受けて競爭者を壓抑したが、其以前の勢力の中心は西國にあつたかと思はれる。是は社會組織の地方的異同などを參酌して、考へて見るべき問題であるが、少なくとも奧羽地方には見られぬ宗教的支援が、西へ行くほど必要になつて居るのは、久しい沿革のあつたことであらう。京都の團體でも妙音天堅牢地神の信仰を佛教に基づいて敷衍する外に、尚守瞽神だの十宮神だのと名けて、一種の獨立した神道を持つて居た。九州では肥前黑髮山下の梅野座頭を始として、僧侶よりも寧ろ神主に近い盲人が多かつたやうである。其特徴の特に顯著なるものは帶刀の風であつた。

[やぶちゃん注:「雨夜皇子」「あまよのみこ」と読み、「雨夜尊(あまよのみこと)」とも称した、「当道要集」(当道(とうどう:後述)の文献で、江戸幕府の盲人保護政策に対する奥田総検校失敗の反省を受けて寛永一一(一六三四)年に小池凡一検校らが当道の沿革などを纏めて幕府に上書すべく編集されたものの根幹をなすところの室町以来の当道資料集成。「当道」(とうどう)とは一般名詞では〈特定の職能集団が自分たちの組織〉を指す語であるが、狭義には、特に室町時代以降、〈幕府が公認した盲人たちによる自治組織〉を指す。明石覚一(覚一検校)によって組織化されたとも言われ、後に妙観・師道・源照・戸嶋・妙聞・大山の六派に分流、一種の「座」として存在したが、その内部で階級制を生じて検校・別当・勾当・座頭の別を立てた)に見える盲人たちの祖先神。自らも目が見えず、視覚障碍者の保護に努めた仁明(にんみょう)天皇の皇子である人康(さねやす)親王のこととも、また、光孝天皇の皇子のこととも言われる。「雨夜御前」「雨夜君」などとも呼称する。一九九八年新紀元社刊戸部民夫著「日本の神々―多彩な民俗神たち―」の同出版社公式サイトの解説が御霊信仰との関連を述べていて非常に参考になる。必読。

「妙音天堅牢地神」文庫版全集によって「妙音天・堅牢地神」と切れることが判る。「妙音天」はめうおんてん(みょうおんてん)」で弁財天の別名。視覚障碍者が琵琶などの音曲(おんぎょく)を生業としたことから、親しまれたものであろう。「堅牢地神」「けんらうぢしん(けんろうじしん)」は 地天(じてん)・地神(ちじん)のことで、元はインド神話の神であったが、仏教に組み込まれて世を守護する十二天の一つとなった(十二天は帝釈天(東方を守護する。以下同じ)・火天(東南)・閻魔天(南)・羅刹(らせつ)天(西南)・水天(西)・風天(西北)・毘沙門天(北)・伊舎那(いしやな)天(東北)・梵天(上)・地天(下)・日天・月天)で大地守護を司る。釈迦の成道(じょうどう:悟達)を証明して説法を諸天に告げた神とされる。あくまで私の妄想であるが、大地を守るためには地中にあるわけで、そのために視力を喪失したという解釈は可能であり、そこで視覚障碍と繋がるか。また地の神は同時に旅人の神、道教えの神であろうから、そこでも繋がるように思われる。

「守瞽神」文庫版全集では「しゆこしん」とルビする。平凡社「世界大百科事典」の呪術的信仰対象の一とする「宿神(しゅくしん)」の解説中に、この神は「守宮神」「守久神」「社宮司」「守公神」「守瞽神」「主空神」「粛慎神」「守君神」など様々な表記があるが、元来は「シャグジ」「シュグジ」『などと称された小祠の神の名だったと思われ』、『辺境の地主神であるが』、『呪術的性格の強かった密教や神道のほか荒神』(こうじん)・『道祖神など他の民間信仰と習合を果たし』、『非常に複雑なまつられ方をしている』とある。この叙述から見ると、「守瞽神」即ち「目の見えない人を守る神」の「瞽」(こ)は当て字と読めるが、考えてみれば「地主神」「荒神」「道祖神」などは琵琶法師や瞽女(ごぜ)のように旅をして芸能を見せることを生業(なりわい)とする視覚障碍者との親和性はすこぶる強いと言える。

「十宮神」「じふぐうしん(じゅうぐうしん)」は、同じく平凡社「世界大百科事典」の「宿神」の解説中に『宿神は現世利益(りやく)の霊威たけだけしい一面』。『強烈にたたる神と考えられ』、『いやがうえにも神秘化され』、『おそれ敬われた。なお』、『盲僧集団の祭祀した守瞽神』、『十宮神は同じ神であり』、『これを〈宿神〉と表記した文献もある』と出る。

「肥前黑髮山下の梅野座頭」現在の佐賀県の西部に位置する武雄(たけお)市梅野(うめの)に近い黒髪山(くろかみやま:武雄市と同県西松浦郡有田町の市町境にある。標高五一六メートル)には源為朝による大蛇退治伝説があり、それには梅野村に住んでいた海正坊或いは梅野座頭と称された盲目僧が絡んでいる。古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「為朝の大蛇退治」に詳しい。但し、彼は神主よりも僧の印象の方が強い。]

 廣益俗説辨の著者は熊本のであるが、景淸盲目の談を説明して斯んなことを言つて居る。曰く景淸が盲になつたのは、痣丸といふ太刀を帶びて居た故である、其後も此太刀を帶せし者は皆眼しひたりといふ云々とある。即ちかの地方の座頭等の間には、東へ來ると通用し難いやうな、色々な昔語が行はれて居たので、景淸の眼を抉つて再び生じたといふ神德は勿論、同じく八幡神に附隨して今も祭らるゝ後三年役の勇士の話なども、自分は却つて當初あの方面に於て醞釀したのでは無いかとさへ思ふのである。痣丸の太刀のことは謠の大佛供養に見えて居る。彼曲には母を若草山の邊にたづねて、やはり親子が再會したことを述べて居るが、人丸も無く阿古屋も無く、又目を潰したといふ話も無く、單に此太刀に由つて呪術を行ひ、霧に隱れて虛空に消え去つたといふのみである。併しそれも是も景淸といふが如き一小人物を、英雄として取扱ふ習ひある遊藝團が無かつたならば、恐らく民問文藝の題目となる機會無く、又信仰を背景とした或勢力が無かつたら、是だけの流傳を望むことは難かつたので、即ち又平家の哀曲と共に、遠く其淵源を京以西の地に尋ねなければならぬ所以である。

[やぶちゃん注:「廣益俗説辨」神道家で国学者の井澤長秀(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)が書いた考証随筆「広益俗説弁」(全四十五巻・正徳五(一七一五)年~享保一二(一七二七)年)は江戸時代非常によく読まれ、後の読本の素材源ともなったが、井澤は肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子で、「肥後地志略」などの地誌なども著わしている。

「痣丸」「あざまる」。

「あの方面」無論、地理的な西日本を指すが、同時に視覚障碍者の集団内、当道内のニュアンスも含む謂いと私は読む。

「醞釀」「うんぢやう(うんじょう)」と読み、原義の酒を醸(かも)す(醸造する)ことから転じて、人の心の中である思いが徐々に大きくなってことを意味する。

「謠の大佛供養」「謠」(うたひ(うたい))、謡曲の「大佛供養」は景清が京の清水寺へ参詣、大和国春日の里(若草山直近)に住む母を訪ねる。そこで母から旧主平家の仇敵頼朝が東大寺大仏殿を再建、大仏供養を行うということを聴き及んで、その大仏殿供養の折りに頼朝の命を狙う企てを起こす。母への別れを告げ、景清は春日の宮人に変装、頼朝に近づくも、装束の脇から鎧の金物が光ったを怪しまれて警固の武士に見破られ、自ら「平家の侍惡七兵衛景淸にて候」と名乗りを挙げ、若武者一人を切り伏せただけで姿を消すという筋である。]

 所謂光孝天皇第四の皇子の口碑は、亂暴には相異ないが彼等の大切なる家傳を、出來るだけ史實に接近しようとした努力と見れば解せられる。即ち祖神が神子であり、從つて最も惠まれたる者であつたことを述べるのは、すべての宗教に共通した宣傳法である。その單純にして自然に巧妙たるものが感動を與へて記錄せられ、しかもそれが時代と共に推移つた故に、終には相牴觸して分立してしまふのである。之を本の形に復原して見ようとする場合に、後に取附けたる固有名詞に拘泥することは誤りである。先づ共通の趣旨ともいふぺきものを見出すべきである。

[やぶちゃん注:「神子」「みこ」。

「推移つた」「うつつた」(うつった)。

「牴觸」「抵触」に同じい。]

 けだし眼を傷けた者が神の御氣に入るといふ類の話だけならば、代々盲目又は片目の一人が社に事へて居る間には、自然に發生し又成長變化したかも知らぬが、それだけでは何故に最初其樣な不具を神職に任することにしたかゞ證明せられず、且つ其祖神が特に荒々しく勇猛であつたかが分らぬ。然るに一方には天神寄胎の神話の一つに天目一神の御名があり、それと同名の忌部氏の神は作金者であつた。即ち太古以來の信仰の中に、既に目一つを要件とする場合があつたのである。宇佐の大神もその最初には鍛冶の翁として出現なされたと傳へられる。而うして御神實(おんかみだね)は神祕なる金屬であつた。譽田別天皇を祭り奉るといふ説が本社に於て既に確定して後まで、近國の支社には龍女婚姻の物語又は日の光の金箭を以て幼女を娶つた物語を存して居た。さうして近代まで用ゐられた宇佐の細男舞の歌には、播磨風土記と同系の神話を、暗示するやうな詞が殘つて居たのである。

   いやあゝ、ていでい、いそぎ行き、濱のひろせで身を淨めばや

   いや身を淸め、ひとめの神にいく、いやつかいやつかまつりせぬはや

即ち此社に於ても本は天の目一つの信仰があつた故に、關東地方からやつて來て權五郎景政が諸處の八幡社を創建し、又惡七別當が目を抉つて、後に大神の恩德を證明することになつたのでは無いかと思ふ。

[やぶちゃん注:「宇佐の大神もその最初には鍛冶の翁として出現なされた」ウィキの「宇佐神宮によれば、社伝等によれば、欽明天皇三二(五七一)年に宇佐郡厩峯(うさのこおりまきのみね)と菱形池(ひしがたいけ)の間に鍛冶翁(かじのおきな)が降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると、それが三才の童児となって、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(ほむたのすめらみことひろはたのやはたまろ:「譽田天皇」は応神天皇の諱。本文にも出る「誉田別」(ほむたわけ)も同じ)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある、と記す。

「御神實(おんかみだね)」文庫版全集では『おんかみざね』とルビを変えてある。

「金箭」暫く「かなや」と訓じておく。

「細男舞」「せいのをまひ」(せいのおまい)。古舞の一種で「さいのうのまい」「くわしおのまい」とも読み、「才男」「青農」などとも記す。春日若宮の御祭(おんまつり)では白い衣を着し、白い布で顔を覆った六人(笛二人・腰前に下げた鼓二人・所作二人)によって演じられる。春日若宮のものではあるが、それについて作曲家「平野一郎のブログ」の八幡巡礼 〜石清水の、細男舞〜に、このかなり奇体な舞は、『八幡愚童訓(ハチマングドウクン)等に記された安曇磯良(アズミノイソラ)の伝説に由来する』とされ(改行部を続けた)、『神功皇后が三韓征伐に際して、安曇磯良に海道案内を命じる。永年海中に棲み、一面貝殻だらけの醜い顔を恥じる磯良、俄には応じない。そこで皇后は策を凝らし、海の上にて磯良の好む神楽を奏したところ、磯良は己の顔を袖で隠しつつも、奇妙な舞を舞いながら、ゆっくりと海中より浮上してきた。その磯良の舞こそが、細男舞である』述べておられる。非常に、興味深い。]

 生目八幡は日向以外に、豐後にも薩摩にもあつた。さうして眼の病を禱る八幡はそればかりでは無いのである。さういふ幽かな名殘を止むるのみで、今は由緒の傳へらるゝものが無くとも、之を盲人の神に仕へた證據とすることは、もう許されるであらうと思ふ。ただ彼等が自ら進んで其目を傷ける風習が、いつ頃まで保たれて居たかは問題であるが、遺傳の望まれない身僣の特徴に由つて、或特權を世襲せんとすれぱ、世俗的必要からでも或はその儀式を甘受したかも知れぬ。若くは景淸の物語のやうに、目の復活の芝居を演じて居たか。兎に角に人の生牲といふことは放生會などよりも逢か前から、單に前半分だけを保存して後の半分は省略して居たから、一層古代の言ひ傳へが誇張せられたものと思ふ。「若宮部と雷神」の一章にも述ベた如く(二) 御靈の猛惡を怖るゝ風が強くなつて、若宮の思想は一變してしまひ、其上に實在の貴人を以て祭神と解する世になると、かの童貞受胎の教義も片隅に押遣られたが、幸ひにして御靈は本來神の子又は眷屬となつた人間の靈魂を 意味したといふことが、目一箇神の一片の舊話から窺ひ知られるのである。加藤博士の如く粗末に此資料を取扱ふのはよくないと思ふ。

[やぶちゃん注:「加藤博士」既注であるが、再掲する。宗教学者で文学博士の加藤玄智(げんち 明治六(一八七三)年~昭和四〇(一九六五)年)。陸軍士官学校教授を経て、母校東京帝国大学助教授。後に国学院大教授などを歴任し、宗教学・神道学を講義した。これ彼の、金属神の天津麻羅(あまつまら:「古事記」にのみ登場する鍛冶神)を念頭に置いて物を生み出す男性器(マラ)から天目一箇神を一つ目(片目)と見る説を述べた「天目一箇神に関する研究」での当該資料の扱い方を指すか。]

 話が長くなつたがもう一言だけ述べて結末をつける。後代化物の「目一つ五郎」とまで零落した御靈の一つ目と、魚の片目との閥係があることを證するのは、源五郎といふ鮒の名である。近江の湖岸にも魚を生牲とする祭式は多く殘つてゐるが、遠く離れて奧州の登米郡などにも、錦織源五郎鮒を近江より持つて來た口碑があつて(三) しかも方々の神池の鮒は紗目である。其中でも上沼村八幡山の麓の的沼といふ沼の鮒は、八幡太郎の流鏑馬の箭が水に落ちて、目を傷けてから今以て皆片目になつたといふ。日向の都萬神社で神の帶びたる玉の紐落ちて鮒の目を貫くといひ、加賀の橫山村の賀茂神社では汀の桃墜ちて鮒の目に當るとつたことは、曾て片目魚考の中に述べたから細説せぬ(四)其他各地の神社佛閣に武士獵人の箭に射られた、或は雞に蹴られたなどゝいつて、現に尊像の眼の傷ついたものが多いのは、到底一つ一つの偶然の口碑で無いことも明らかである。世相が一變すると僅かな傾向の差によつて、これが逆賊退治惡鬼征服の別腫の傳説にもなり得たことは、則ち亦御靈信仰の千年の歷史であつた、時代の推移を思はない人々には、古史の解説を托すべきで無いと思ふ。

[やぶちゃん注:「登米郡」「とめぐん」は現在の宮城県登米市の大部分に相当する。文庫版全集は古称である「とよま」と当てるが、明治一一(一八七八)年の郡区町村編制法の宮城県での施行の際に郡名の読みを「とよま」から「とめ」に改めており、執筆時期よりもさらにこれは遡る改名であるから正しいルビではない。口碑が伝わった頃は確かに「とよま」ではあったとしても、学術論文としては誤り或いは不適切なルビである。

「錦織源五郎」「にしこりげんごろう」は近江琵琶湖の源五郎鮒の名称由来説の一つに出る人物の名。ただの漁師とも、佐々木家或いは六角家家家臣ともする。

「上沼村八幡山の麓の的沼」現在の宮城県登米市中田町上沼字八幡山に義家所縁の八幡神社が現存し、地図で見ると、比較的近くに池(二箇所)はあるが、それがこの「的沼」かどうかは不明。

「日向の都萬神社」一目小僧(十六)に既注。

「加賀の橫山村の賀茂神社」同じく一目小僧(十六)に既注。]

(一) 故栗田博士の古謠集に、豐前志から採錄して居る。尚同じ集には玉勝間から、肥後の神樂歌として次の一章を引いて居る。

    一目のよとみの池に舟うけて のぼるはやまもくだるはやまも

此「一目」亦目一つ神であらう。

[やぶちゃん注:「故栗田博士」歴史学者で元東京帝国大学教授の栗田寛(天保六(一八三五)年~明治三二(一八九九)年)であろう。書誌に彼の編に成る「古謠集」の書名を見出せる。

「豐前志」幕末から明治期の国学者渡邊重春の著。

「玉勝間」国学者本居宣長が寛政五 (一七九三) 年から没年の享和元(一八〇一)年にかけて執筆した考証随筆。

「よとみの池」「世止命の池」。現在の熊本県山鹿(やまが)市久原(くばる)字薄野(すすきの)にある薄野一目神社境内後方に現存する。個人サイト「玄松子の記憶」の薄野一目神社を参照のこと(当該サイトでは神社名を「うすのひとつめ」と訓じているが、別サイトでは「すすきの」と地名と同じ読みをしている。孰れが正しいかは不祥)。]

(二) 「民族」二卷四號。

[やぶちゃん注:この「若宮部と雷神」なる論文は、柳田が主要論文「妹の力」や「桃太郎の誕生」でも言及する自分の論文であるが、筑摩文庫版全集には所収しない。]

(三) 登米郡史に依る。

[やぶちゃん注:藤原相之助等編「登米郡史」「とめぐんし」(大正一二(一九二三)年登米郡刊)。]

(四) 郷土研究四卷六四七頁。

[やぶちゃん注:「片目魚考」という名の論文はないが、これは大正六(一九一七)年二月の『郷土研究』の載せた「片目の魚」のことであろう。それならば、向後に電子化する予定でいる。]

        (昭和二年十一月、民族)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは底本では下一字上げインデント。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 大人國(2) 見世物にされた私

 

<二章> 見世物にされた私

 

 〔この〕家には九つになる娘がいました。年のわりには〔、〕とても器用な子で、針仕事も上手だし、赤ん坊に着物を着せたりすることも、うまいものでした。この娘と母親の二人が〔相談して、〕赤ん坊の搖籃を私の寢床に作りなほしてくれました。〔私を入れる〕搖籃を簞笥の小さな抽斗に入れ、鼠に食はれないやうに、その抽斗をつるし棚の上においてくれました。

[やぶちゃん注:章題は有意にインクが濃い。現行の改行指示に従う。現行版は改行がない。]

 私がこの家で暮してゐる間は、いつもこれが私の寢床でした。もつとも、私がみんなの〔ここの〕言葉がわかるやうになり、ものが云へやうになると、〔私は〕いろいろ〔と〕賴んで、もつと便利な寢床に〔なほ〕してもらひました。

 この家の娘は大へん器用で、私が一二度その前で洋服を脱いでみせると、すぐに私に着せたり脱がせたりすることができるやうになりました。もつとも、彼女私は娘〕に手傳つてもらはなくても〔いで、時は、私は〕自分ひとりで、着たり脱いだりすることもありました。〔していました。〕〔彼女は〕私にシヤツを七枚と、それから下着などを拵へてくれました。手にのる〔一番柔〕柔らかい布地で拵へてくれたのですが、〔そ〕れでも、ズツクよりもつとゴツゴツしてゐました。〔そして、その〕洗濯も彼女がしてくれるのでした。

 彼女は〔私の〕先生になつて、私へ言葉を教へてくれました。何でも私が指さすものを、この國の言葉で言つてくれます。そんな風にして教へられたので、二三日もすると、私はもう欲しいものを口で云えるやうになりました。

 彼女は大へん氣だてのいい娘で、年のわりに小柄で、四十呎しかなかつたのです。彼女は私に〔、〕グリルドリツグといふ名前をつけてくれました。やがて家の人人も、〔こ〕の名を使ふやうになるし、後には國中の人がみな私のことをさういつて呼びました。このグリルドリツグといふ言葉名は言葉〕は、イギリスの言葉云へば〔なら〕マニキン(小人)といふ言葉と同じ意味でした。

[やぶちゃん注:最後の「た。」は左罫紙外上部に書かれ、次の110の原稿用紙の冒頭は字空けがないが、私の判断で、一マス空け、改行と採った(現行版もここで改行している)。

「四十呎」十二メートル十九センチ。

「グリルドリツグ」原文Grildrig

「マニキン」mannikin。但し原文は“The word imports what the Latins call nanunculus, the Italians homunceletino, and the English mannikin. ”である。英語のそれは「マネキン」であるが、この英語には別に「とても小さい人、但し、他の点では歪んでいて異常な姿の人」の意がある。ここは、それ。]

 私がこの國で無事に生きてゐられたのは、一つには、この娘のお蔭でした。私たちはここにゐる間ぢう、決して離れなかつたものです。私は彼女のことを、グラムダルクリツチ(即ち、可愛いお乳母さん)と呼びました。彼女が私につくしてくれた、親切のかずかずは〔、〕特に〔、〕ここに書いておきたいと思ひます。私は是非〔、〕〔折があつたら、〕彼女に恩返ししたいと〔、〕〔心から〕 願つてゐるのです。

[やぶちゃん注:「グラムダルクリツチ」原文Glumdalclitch

「可愛いお乳母さん」「おうばさん」は妙だから「お乳母(ば)さん」と読ませているのであろうが、実は原文は“little nurse”で「小さなナース(看護婦さん)」である。]

 さて、私の主人が畑で不思議な動物を見つけたといふ噂は〔、〕だんだんひろがつてゆきました。

 その動物の大きさは、スプラクナク(この國の綺麗な動物で、長さはおよそ六呎ほど)ぐらゐで、形はまるで人間と同じ形だし、動作も人間とそつくり、何だか可愛い言葉を喋るし、それにこの國の言葉も今は少し覺えたやうだし、二本足でまつすぐ立つて步けば、〔くし、〕〔それに、この動物は〕すなほで、すなほで、呼べば來るし、言ひつけたことは何でもするし、とても、きやしやな手足をもつてゐて、顏色は三つになる貴族の娘よりもつと綺麗だ、などと〔、〕〔この〕なは口から口へ傳はつてゆきました。〔〔私の〕噂は〔ひようばんは〕だんだん拡まつてゐました。〕

[やぶちゃん注:「スプラクナク」原文“splacnuck”。原文でも訳文でも具体的にどのような生き物なのかは描出されていない。事実、後で国王がガリヴァーをこれと誤認するところから考えるなら、ヒト同様に直立二足歩行性を有している生物と推定は出来るように思われる。

「六呎」一メートル八十三センチ弱。]

 〔〔すいすぐ〕近所に住んでゐる、〕主人の親友の農夫が、この〔こと〕を聞くと、私を〔ほん〕とかどうか見にやつてせてくれと云にやつて〕來ました。私はすぐ〔早速〕〔連〕れだされて、テーブルの上に〔の〕せられました。私は云はれる〔ひつけ〕どほりに、步いて見せたり、短劍を拔ゐたり〔、〕〔おさ〕めたりしてみせました。それから、お客に向つて、うやうやしく、お辞〔じ〕ぎをして、「よくいらつしやいました。御機嫌(キゲン)はいかがですか」と、可愛い乳母さんから教へられたとほりの言葉で云つてやりました。

[やぶちゃん注:細部が現行版とかなり異なる。

   *

 ところで、主人の親友の農夫が、このことを聞くと、ほんとかどうか、見にやって来ました。私はさっそくつれ出されて、テーブルの上に乗せられました。私は言いつけどおりに、歩いて見せたり、短剣を抜いたり、おさめたりして見せました。それから、お客に向って、うやうやしく、おじぎをして、

「よくいらっしゃいました。御機嫌はいかゞですか。」

 と、可愛い乳母さんから教えられたとおりの言葉で言ってやりました。

   *]

 そのお客は年より〔寄〕で目があまり〔よく〕見えないので、もつとよく見ようと眼鏡をかけました。それを見ると〔、〕私は腹を抱へて笑はないではゐられなくなりました。といふのは、彼の目が〔、〕二つの窓から射し込む満月のやうに見えたからです。みんなは〔、〕私のをかしがるわけがわかると〔、〕一緒になつて笑ひだしました。すると〔、〕老人はムツとして顏色をかへました。

 この老人は、けちんぼうだと〔の〕評判でしたが、やはりさうでした。それで〔のため〕私はとんだ災難〔目に〕あふことになりました。ここから二十二哩ばかり、馬でなら半時間かかる、隣りの町の市日に私をつれて行つて一つ見世物にするがいい、と〔彼は〕主人にすすめたのです。

[やぶちゃん注:「二十二哩」三十五キロ四百五メートル。これはガリヴァーにとっての実測。

「市日」「いちび」と訓じておく。定期に市の立つ日の謂いである。]

 主人とその男は、時時、私の方を指して、長い間ひそひそと囁きあつてゐました。私はそれを見て、これは何か惡いことを〔相談〕し合つてるなと思ひました。さう思つて〔じつと〕〔氣〕をつけ〔てゐ〕ると、時時、もれて聞える彼等〔二人〕の言葉は〕、なんだか私にもわかるやうな氣がしました。しかし〔しかし、ほんとのことは〕、次の朝、グラムダムリツチが〔私に〕話してくれたので、それで、すつかり私にわかつたのでした。

[やぶちゃん注:「グラムダムリツチ」はママ。今までのそれを見ても、どうも原民喜は外来語の固有名詞の短期記憶がすこぶる苦手だったように思われる。]

 私が見世物にされるといふことを、グラムダムリツチは、母親から聞き出したのでした。彼女このことを知つて、彼女〕はたいへん悲しがつて〔私と別れることを〕たいへん悲しがつて〔がり〕、私を胸に抱きしめて泣きだしました。

 「見物人たちは、どんな亂暴なことをするかわかりません。あなたを押しつぶしてしまふかもしれないし、もしかすると手を取つて、あなたの手足を一本ぐらゐ折つてしまふかもわからない〔りませ〕ん。」と、彼女は私のことを心配してくれるのでした。

 「あなたは遠慮ぶかい〔、〕おとなしい〔、〕人だし〔そし〕て、氣位の高い人でせう、それなのに、見世物なんかにされて、お金のために卑しい連中の前でなぐさみにされる〔な〕んて、ほんとうに口悔しい〔こと〕でせう。お父さんもお母さんも、私にグリルドリッグはあげると〔云つて〕約束したくせに、今になつて〔、〕こんなことをするのです。去年も仔羊をあげると言つておきながら、その羊が肥えてくると、〔その〕羊が肥えてくるとすぐ肉屋に賣拂つてしまつた、あれと同じやうなことをしようとしてるのです」と、彼女は私のことを嘆くのでした。

 しかし、私は、この乳母さんほどには〔、〕心配してゐなかつたのです。いつかは〔、〕きつと自由の身になつてみせる、と私は強い希望を持つてゐました。それに、私が怪物として、あちこちで見世物にされても、私はこの國には知人一人あるわけではなし、私がイギリスに帰つてからも、なにもこのことは非難されるはずがないと思ひます。イギリスの國王でも、今の私と同じやうなことになつたら、やはり〔、〕これくらいの苦勞はするだらう〔、〕と〔私は〕思ひました。

 主人は友達の意見に從つて、私を箱に入れて、次の市日に隣りの町まで運んで行きました。私の乳母さんの、あの娘も、父親の後に乘つて一緒について來ました。〔この〕私〔の〕入れられた箱は〔、〕四方〔とも〕塞がれてゐて、ただ出入口の〔小さな〕戸口→→の〕、空氣拔きのために〔そのほかには、〕錐の穴が二つ三つあけてあるだけでした。〔空気拔きのためにつけてゐました。つけてあり〕娘は私が寢られるやうに、〔その〕箱の中に赤ん坊の蒲團を敷いてくれました。

[やぶちゃん注:現行版は以下の通り。

   *

 主人は友達の意見にしたがって、私を箱に入れて、次の市日に隣りの町まで運んで行きました。私の可愛い乳母さん(娘)も、父親の後に乗って、一しょについて来ました。私の入れられた箱は、四方とも塞ふさがれていて、たゞ、出入口の小さな戸口のほかには、空気抜きのため錐きりの穴が二つ三つつけてありました。娘は私が寝られるように、箱の中に赤ん坊の蒲団を敷いてくれました。

   *]

 この〔箱の〕旅は、たつた半時間の旅〔行〕でしたが、私は〔身躰が〕ひどく搖られたので、私はくたくたになつてしまひました。なにしろ、馬は一步に四十呎も飛んで、しかも非常に高く跳ねるので、私の箱は、まるで大暴風雨の中を、船が上つたり下つたりするやうなものでした。

[やぶちゃん注:「四十呎」一二・二メートル弱。]

 〔さて、町に着くと、〕主人は行きつけの宿屋の前で馬を降り、しばらく宿の亭主と相談してゐました。それから、いろんな準備が出來上ると、ひろめ東西広告〕屋を傭つて、町中に觸れ步か〔まはら〕しました。

[やぶちゃん注:現行版は「東西屋」(とうざいや:街頭や店頭で広告の口上を述べる宣伝業者の古い呼称。口上の初めに「東西東西」と発したことに由る。「ひろめ屋」も同じい)、併存する末尾は「觸れ步かしました」である。]

 「さあ、いらつしやい、いらつしやい、世にも不思議な生きもの、身の丈はスプラクナック(この國のきれいな動物で長さ六呎ほどのもの)ほどもないのに、頭のてつぺんから足の先まで、身躰は人間にそつくりそのまま、言葉が話せて面白い藝〔當〕を致します。さあ、いらつしやい、靑鷲亭で御覽に入れます〔いらつしやい、靑鷲亭の見世物〕」

[やぶちゃん注:現行版口上は以下。

   *

「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい、世にも不思議な生物、身の丈はスプラクナク(この国の綺麗な動物)ほどもないのに、頭のてっぺんから足の先まで、身体は人間にそっくりそのまゝ、言葉が話せて面白い芸当をいたします。」

   *]

 と、こんなふうなことをしやべらせたのです。

 私は〔宿屋で、〕三百呎四方もありさうな、大廣間につれて行かれ、テイブルの上に載せられました。私の乳母は〔、〕テーブルのそばの腰掛の上に立つて、私の面倒をみたり、〔いろいろと〕指圖をしてくれるのでした。そのうちに見物人がぞろぞろと押しかけて來ましたが、〔あまり混雜するので、〕主人は一〔回〕に三十人だけ見せることに決めました。

[やぶちゃん注:「三百呎」九十一メートル四十四センチ。]

 私は乳母の云ひつけどほりに〔、〕テイブルの上を步き𢌞つたり、私にものを云はさうとして〔、〕彼女がいろいろ質問をすると、私は力一ぱいの声で〔、〕それに答へるのでした。それから〔、〕何度も見物人の方を振り向いて、うやうやしく〔叮嚀に〕お〔じ〕ぎをして、「よくいらつしやいました」と云つたり、その他教はつたとほりの挨拶をします。そしてグラムダルクリッチが、指貫(ゆびぬき)に酒を注いで渡してくれると、〔私は〕みんなのために乾盃をしてやります。かと思へば〔、〕短劍を拔いて、イギリスの劍術使ひの眞似をして、振り𢌞します。私の乳母が藁の切れつぱしを渡してくれると、私はそれを槍のつもりにして、若い頃習つた槍の術をして見せます。

 その日の見物人は〔、〕十二組あつたので、私は十二回も、こんなくだらない眞似を繰返さねばならなかつたのです。とうとう私は疲れて腹が立つて、すつかり、へばつてしまひました。

[やぶちゃん注:現行版は最後の一文が、『そうそう、私は疲れて腹が立って、すっかり、へばってしまいました。』となっているが、原文を見ても、この「そうそう」は、この通りの「とうとう」の誤り(校正工か植字工の誤り)ではなかろうか?

 私を見た連中が、これは素晴しいといふ評判を立てたものですから、見物人はどつと押しかけて、戸もやぶれさうになりました。〔大入滿員でした。〕主人は〔、〕私の乳母以外には〔、〕誰にも私に指一本觸らせません。その上、危險を防ぐために、テーブルの周りをぐるりとベンチで取り囲んで、誰の手〔に〕も屆〔〕かないやうにしました。

[やぶちゃん注:現行版では『大入滿員でした。』と生きている。]

 それでも、いたずらの小學生が、私の頭をねらつて榛の實を投げつけたものです。あたらなかつたので助かりましたが、〔もし〕あたつてゐたら、〔私の〕頭は滅茶苦茶にされたでせう。なにしろ榛の実といつても、南瓜ぐらゐの大きさだし、〔それに〕猛烈な勢で飛んで來たのですから。しかし、このゐたずら小僧は撲られて部屋から追出されて〔しまひ〕ました。

[やぶちゃん注:「榛の實」「榛」は「はしばみ」と訓ずる。原文は“a hazel nut”であるから、これは我々が食用の「ヘーゼルナッツ」(Hazelnut)として知っているところの正真正銘のブナ目カバノキ科ハシバミ属セイヨウハシバミ Corylus avellana の実である。因みに、中国(漢文にはしばしば出る)や本邦で「榛」というと、ハシバミ属ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii(やはり実が食用にはなる)を指すが、ご覧の通り、「ヘーゼルナッツ」のそれとは同属異種であるので、注意されたい。]

 〔市日がすんで、私たちは家に戾りましたが、〕主人はこの次の市日にも、またこの見世物をやると〔いふ〕廣告をしておきました。〔出しました。〕そして、その間〔それまで〕に、私のためにもつと便利な乘り物を用意してくれました。だがそれはあたりまへのことで、なにぶんこの前の旅行で〔、〕私は非常に疲れ、八時間もぶつとほしに見世物にされたの〕で、ヘトヘトになつてしまつたので〔ひま〕した。〔私が〕元氣をとりかへすには〔少くとも〕三日はかかりました。

[やぶちゃん注:「しておきました。〔出しました。〕」の併存はママ。現行版は『出しました。』の方である。]

 ところが、私の評判を聞い〔て〕〔、〕近所〔あちこち〕の紳士たちが〔、〕百哩も先から〔、〕今度は主人の家に押しかけて來ました。私は家でも休めなくなつたのです〔りました。〕〔この〕〔家に〕やつてくる紳士たちは家族ともで三十人よりはありました。少ないことはところで主人は、家で見せる時には、相手が一家族〔毎日毎日、私は殆ど身躰の休まる暇がありませんでした。〔はなかつたのです。〕〕

[やぶちゃん注:「百哩」百六十一キロメートル弱。]

 〔これは儲かりさうだと〔、〕考へた〕主人は、今度は〔〕私を、街から街へ、連〔つ〕れ步いて見世物にすることしようと、すること〕〕〔を〕思ひつきました。長い旅行に必要な支度をとろのへ、家の始末をつけると、細君に別れを告げて、一七〇三年の八月十七日(これは私がこの國へ着いてから〔丁度〕二ケ月目でした)に主人は出發しました。主人は〔、〕この國のほぼまんなかにある〔、〕首都をめざして行くのでしたが〔、〕家からそこまで〔は、〕三千哩の道のりでした。

[やぶちゃん注:「一七〇三年」因みに、本邦では元禄十六年(グレゴリオ暦一七〇三年二月十六日から)で、前年元禄十五年十二月十四日(グレゴリオ暦では一七〇三年一月三十日)には赤穂義士の吉良屋敷夜討が発生している。

「三千哩」四千八百二十八キロメートル。]

 主人は娘のグラムダルクリッチを自分の後に乘せました。私は箱に入られ〔れら〕れ〔たのですが〕、その箱は娘の腰に結びつけて膝の上に〔ありまし〕た。彼女は箱の内側を一番柔らかい布地ですつかり張つてくれ、下には厚い敷物を入れて、その上に赤ん坊の寢台をおいてくれました。私の下着や〔シヤツ〕なにかの身の𢌞りのものも〔んかも 何不自由なく〕、みんな〔彼女が〕ととのへてくれ、何〔〕不自由なくしてくれました。私たちの後から、家の小僧が〔一人〕荷物を持つてついて來ました。

 〔この旅行は〕主人の考へでは、〔この旅は〕途中の町で見世物を開き〔、〕客のありさうな村や、貴人の家には、五十哩や百哩は寄り道するつもりだつたらしいのです。私たちは毎日〔わづかに〕百四五十哩ぐらゐづつ進み、大へん樂な旅をしました。グラムダルクリッチが私を庇ふために、馬の搖れですぐ自分の方が疲れてしまふと云つてくれたからです。私が賴むと、彼女は度々箱から出しては、外の空気を吸はせてくれたり、景色を見せてくれました。そのさうそんな〕時には〔、〕彼女はアンヨ紐でしつかり私を引張つてゐてくれるのでした。

[やぶちゃん注:「五十哩」八十一キロ弱。

「百哩」百六十一キロ弱。

「百四五十哩」二百二十六~二百四十一キロほど。]

 私たちはナイル河やガンヂス河よりも〔、〕何倍も大きな河を〔、〕五つ六つ〔も〕越したのですました。たのです〕。〔ロンドンの〕テムズ河みたいな、小さな川は一つもないのです。〔この〕旅行は十週間かかりました。その間、〔たちは〕十八の大都市〔に立ち寄り〕、〔いろそれから、澤山の〕村村や、貴人の家で、〔何十回となく〕見世物になりました。

 十月二十六日に、〔いよいよ〕私たちは國都に着きました。〔その〕國都の名はローブラルグラットとい〔はれ〕、これは「世界の誇」といふ意味でした。主人は〔、〕宮殿から程遠くない〔、〕目ぬきの大通りに〔、〕宿をとりました。そして、〔この〕私のことを〔、〕委しく書いたビラを〔、〕あちこちに貼り出しました。それから、方三四百呎もある、大きな部屋を借りて、〔そこに〕私の舞臺として、直徑六十呎ばかりのテイブルを置きました。〔そして私が〕落つこちないやうに、〔テーブルの〕緣から三呎入つたところに、高さ〔、〕三呎の柵をめぐらしました。

[やぶちゃん注:「ローブラルグラット」原文Lorbrulgrud

「三四百呎」九十二メートルから百二十二メートル弱。

「六十呎」十八メートル強。

「三呎」九十一センチメートル強。]

 私は毎日、十回づつ見世物にされましたが、人人はすつかり感心して、大満足のやうでした。私はこの頃、もう〔、〕かなりうまく言葉が使へるし〔て〕、話しかけられること〔言葉〕なら〔、〕何でもわかるやうになつてゐました。その上、家にゐる時も、旅行中も、いつもグラムダルクリッチが私の先生になつてくれたので、この國の文字もおぼえ、どころどころちよつとした文章なら〔私に〕説明することが出來るやうになつてゐ〔り〕ました。彼女はポケットに小さな本を入れてゐました。それは若い娘たちによく讀まれる本で、宗教のことが簡單に書いてあります。〔その本から、を使つて、〕彼女は私に字を教へたり、言葉を説明してくれました。

2016/06/27

甲子夜話卷之二 4 評定所庫中に有ㇾ之律條に有德廟御加筆有之事

2-4 評定所庫中に有ㇾ之律條に有德廟御加筆有之事

予中年の頃、萬年三左衞門と云し人に邂逅せしが、この人は以前評定所の留役を勤たりし者なり。其話に云、評定所の庫中には、德廟御時の律條の册あり。松平越中守【樂翁】加判勤役のとき、何かに手を入れ、諸事改正ありし頃、或時云々のことにより、誰某この御律条のこと申出たるに、越中守さらば見んと云はれて、御庫より此册を出したるに、數箇の付札あり。松平左近將監大岡越前守の輩、各存意を記して奉りしに、德廟御自筆を以て加書し給ひ、所存にはかく思候など記せられたるに、又下よりはかくかく奉存候など書たるもあり又各申所尤に存る抔の御親筆もありて、越中守も始て拜見せられて、詞もなかりしと云。

■やぶちゃんの呟き

「萬年三左衞門」同名の者は複数見られるが、不詳。

「評定所の留役」評定所書記官。

「庫中」「くらなか」と訓じておく。

「德廟」徳川吉宗。

「律條の册」法度集。

「松平越中守【樂翁】」松平定信。

「加判勤役」「くわはんつとめやく」。ここは老中のこと。

「何かに手を入れ、諸事改正ありし頃、或時云々のことにより」ここは恐らく挿入文で「或時云々のことにより諸事改正ありし頃」で、「ある時なんらかの必要から、諸事につき、改正をせねばならなくなり、具体なとある法度に手を加えることとなった際」の謂いであろう。

「誰某」「だれそれ」。ある者。

「この御律条のこと申出たるに」「このおんりつでふのことまふしいでたるに」。それについての法度細則ならば、確か、書庫にある吉宗公の定められたものの中に既に定められたものがあるはずであると申し出たので。

「數箇の付札あり」数ヶ所の附箋(後述の記載から吉宗自身がメモして貼付したもの)が附けてあった。

「松平左近將監」既注であるが、再掲しておく。老中松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。肥前唐津藩第三代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。享保八(一七二三)年に老中となり、以後、足掛け二十年余りに『わたり徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。後に財政をあずかる勝手掛老中水野忠之が享保一五(一七三〇)年に辞した後、『老中首座となり、後期の享保の改革をリードし』、元文二(一七三七)年には『勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭が老中に就くと、老中首座から次席に外れ』た。『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が』第九代『将軍となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年、『家重が将軍に就任すると直後に老中を解任され』、加増一万石を『没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた』(以上はウィキの「松平乗邑」を参照した)。「酒井忠恭」は「ただずみ」と読む。

「大岡越前守」江戸南町奉行(後に寺社奉行兼奏者番)大岡忠相。

「各」「おのおの」。

「存意」自分の見解や意見。

「所存にはかく思候」「思候」は「おもひさふらふ」で、各人の主張や進言に対しては、それぞれ私(吉宗)はこのように思うておる。

「下よりはかくかく奉存候」「下」は「しも」、「奉存候」は「たてまつりぞんじさふらう」で、老中松平乗邑や奉行大岡忠相よりも下位の実務役人らを指すのであろう。

「各申所尤に存る」「おのおのまうすところもつともにぞんずる」。

「抔」「など」。

譚海 卷之一 明和七年夏秋旱幷嵯峨釋迦如來開帳の事

明和七年夏枯旱(なつがれひでり)に付、閏六月中三(ちゆうさん)より麥(むぎ)稗(ひえ)等ぶじき被ㇾ下(くだされ)、江戶近在家七歲已下と五十已上のものを除き、人數ごとに賜りぬ。年賦にて上納被仰付候(おほせつけられさふらふ)よし。今年梅雨(つゆ)中(うち)一切雨降(ふる)事なし。わづかに降(ふり)たる事五六日なるべし。それも日をへだてて時々降(ふり)たる計(ばかり)にて、六月閏月七月迄打(うち)つゞき日でりにて、七月十八日初(はじめ)て雨ふる。されどもおもふやうにはふらず、其後冷氣つよく段々雨降(ふる)事に成(なり)たり。夏の中(なか)夕立少し計りづつあれども、やがて晴(はれ)て旱氣(かんき)甚しき故、近鄕の田(た)ひわれ、畑物(はたもの)などは一向に枯(かれ)うせたるゆへ、肴(さかな)の價(あたひ)野菜ものより却(かへつ)て賤(やす)し。近江(あふみ)湖水近き田地は、有年來(いうねんらい)未曾有(みぞう)の豐作なるよし、京都及(および)勢州東海道筋都(すべ)て旱損(かんそん)のよし、雨乞(あまごひ)度々(たびたび)あれども絶(たえ)て雨ふらざるよし飛脚の物語也。閏月の末武州神奈川いけすの鯛三千枚ほど死(しに)たりと納屋(なや)より注進に付(つき)鯛一切拂底(ふつてい)也。其外江戶近き海にが鹽(しほ)と云もの出(いで)て、魚悉く死し内川(うちかは)へうかび來(きた)る、半死の魚もおほくあり。海うなぎ・こちなどの類ひ、うかみいでて人々おびたゞしくとり得たり。されども毒あるよし、喰(く)たる人食傷せしものおほしといふ。江戶の町に鬻(ひさ)ぐ白米鳥目(てうもく)百文に九合づつに及べり。菊・山椒・未央柳(びやうやなぎ)などの類、庭にあるみな旱死(ひでりじに)たり。八月十八日はじめて大雨珍しき事といへり。今年冬に至て狗(いぬ)おほく病死せり。今年嵯峨釋迦如來兩國囘向院(ゑかうゐん)にて、六月十五日より七月十五日まで開帳、又三十日の日延(ひのべ)ありて八月十五日まで開帳、同時下總(かづさ)布施辨才天本所壹(ひと)つ目八幡御旅所(おたびしよ)にて開帳、又京都伏見東福寺塔中(たつちゆう)海藏院の毘沙門天、囘向院にて八月十一日より開帳、後水尾院東福門院兩宮の御調度袞龍(こんりよう)の御衣(ぎよい)大嘗會(だいじやうゑ)御衣冠(ぎよいかん)等をはじめ、あこめ・扇子(せんす)・ゆするつき、御持念彿等種々の物披露あり。

[やぶちゃん注:調べてみると、明和七(一七七〇)年六月から八月にかけて、全国的な旱魃被害があった。この年の旧暦六月は大の月でグレゴリオ暦では六月一日が六月二十三日、しかもこの年は本文に出るように閏六月(小の月。新暦では一日は七月二十三日)があったから、七月は小の月で一日が新暦では八月二十一日、旧暦八月三十日は十月十八日に相当し、六月から八月というのは四ヶ月になることに注意されたい。

「閏六月中三(ちゆうさん)」中旬の三旬(週目)という謂いであろう。旧暦の当月の三旬目(十五日から二十一日)は新暦では八月六日から十二日に相当するから、平年でも暑い時期に相当する。

「ぶじき被ㇾ下」「ぶじく」という動詞は見当たらないが、これは前後から「扶持(ふち)おく」の訛りで、糧食の援助のために現物を下賜下され、の意ではあるまいか? 

「年賦にて上納被仰付候(おほせつけられさふらふ)」下賜した分は、平時に戻った際の年貢で、当該分を上納(返納)すればよいという意味か。

「六月閏月七月迄打(うち)つゞき日でりにて、七月十八日初(はじめ)て雨ふる」旧暦六月一日なら新暦六月二十三日で、旧暦七月十八日は新暦の九月七日になる。実に四十六日もの間、江戸近郊では降雨がなかったことになる。

「夏の中(なか)」夏の中旬。閏月が入るので旧暦の暦上は意味がないので(叙述が時系列通りとすると、現在の九月中旬頃を夏中旬と称していることになり、幾ら異常気象であってもそういう風には言うまいと考えたことによる)、ここまでの叙述から新暦で考えると、この前の叙述期間の半ばを指すと考える方が自然で、閏六月が新暦の七月二十三日から八月二十日に相当するので、まさにこの時期を指していると考えてよかろう。

「肴(さかな)」魚介類。

「近江(あふみ)湖水近き田地は、有年來(いうねんらい)未曾有(みぞう)の豐作なるよし」現行の不作でも見られることであるが、局地的に琵琶湖沿岸では何十年この方、記憶にないほど極めて珍しい、米の豊作であったことを例外的特異点として記載している。

「閏月の末」閏六月末日二十九日は新暦の八月二十日に相当する。

「枚」一応「まい」で読んでおくが、「ひら」と読んでいるかも知れぬ。平たいものを数える数詞。

「納屋(なや)」これは限定的に河岸(かし)に建てられた商品保管用倉庫を指し、この場合は、そうしたものを所有する大手の海産物を扱う商人らのことを指すのであろう。

「注進」急に発生した事件を急いで支配の者に報告すること。

「一切拂底(ふつてい)」物が完全にすっかりなくなってしまうこと。

「にが鹽(しほ)」「苦潮」で、現行の赤潮のこと。極端に酸素の少ない貧酸素水塊が海面に浮上して起こる現象。貧酸素水塊は水流の遅滞や多量の生活排水などの流入によって富栄養化した海で、海水面近くにプランクトン(鞭毛虫類・ケイ藻・ヤコウチュウなど)が短期間に爆発的に増殖し、水中の酸素が徹底的に消費されることにより、海面が赤褐色等に変わる現象。東京湾のような河川の注ぐ内湾で起こり易い。時に魚介類に大被害が発生する。魚介類の死滅は溶存酸素濃度の低下や鰓にプランクトンが詰まることによる物理的な窒息などの他、その原因プランクトン(特に有毒藻である渦鞭毛藻類などの藻類)が産生する毒素によっても起り、これらの産生する毒素は主に魚貝類(主に貝類)の体内に蓄積され、強力な魚貝毒となってそれを食べた人にも健康被害を及ぼすことがあり、ここでもそうした現象が後述されている。

「内川(うちかは)」固有名詞としての河川名「内川」(東京の南部現在の大田区に位置し、大森地区の東海道本線付近からほぼ直線的に東流し、東京湾に注ぐ二級河川)があるが、ここは所謂、河口部の潮汐に応じて川の殆んど全域が有意に水位変動を起こす東京湾(当時の江戸湾)の感潮河川群全体を指す一般名詞であろう。赤潮が発生すればこうした河川域では魚介類の大量死滅が容易に起こる。

「海うなぎ」この場合は、江戸前で知られる条鰭綱新鰭亜綱カライワシ上目ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科クロアナゴ亜科アナゴ属マアナゴ Conger myriaster のことであろう。

「こち」新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目コチ亜目コチ科コチ属マゴチ Platycephalus sp. でとっておくが、分類学上は全くの別種の、形状のよく似たものも総称する語ではある。

「鳥目」元は穴のあいた銭を指したが、ここは金銭の意。

「百文に九合づつに及べり」明和年間の平均値は米一升が百文であるから、一割増しである。思ったよりは高値(こうじき)ではない。

「未央柳(びやうやなぎ)」現代仮名遣では「びようやなぎ」。キントラノオ目オトギリソウ科オトギリソウ属ビヨウヤナギ Hypericum monogynum 。中国原産で庭木として好まれる。高さは約一メートルで、よく分枝し、葉が柳のそれに似る。夏に茎頂に径約五センチメートルの黄色の五弁花をつける。多数の長い雄蕊が五群に分かれて附属し、目立って美しい。ウィキの「ビヨウヤナギ」によれば、『中国では金糸桃と呼ばれている。ビヨウヤナギに未央柳を当てるのは日本の通称名。由来は、白居易の「長恨歌」に』、

太液芙蓉未央柳  太液の芙蓉 未央の柳

芙蓉如面柳如眉  芙蓉は面のごとく 柳は眉のごとし

對此如何不淚垂  此れに對(むか)ひて 如何(いかん)ぞ淚(なみだ)垂れざらむ

『と、玄宗皇帝が楊貴妃と過ごした地を訪れて、太液の池の蓮花を楊貴妃の顔に、未央宮殿の柳を楊貴妃の眉に喩えて 未央柳の情景を詠んだ一節があり、美しい花と柳に似た葉を持つ木を、この故事になぞらえて未央柳と呼ぶようになったといわれている』。『「美容柳」などを当てることもあるが、語源は不明、単に未央を美容と置き換えたものであろう』とある。

「八月十八日」新暦では十月六日で、既に仲秋である。

「今年冬」同年の十月(旧暦ではここから冬)一日は新暦の十一月七日に当たり、十月十五日が新暦十二月一日に当たった。

「嵯峨釋迦如來」現在の京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗五台山清凉寺は「嵯峨釈迦堂」の名で知られ、中世以来、「融通念仏の道場」としても知られるが、ここの本尊釈迦如来、ウィキの「清凉寺によれば、十世紀に『中国で制作されたものであるが、中世頃からはこの像は模刻像ではなく、インドから将来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようにな』り、『こうした信仰を受け』て、本文時制の七〇年前の元禄一三(一七〇〇)年から『本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始ま』っていた。

「兩國囘向院」現在の東京都墨田区両国二丁目にある浄土宗諸宗山(しょしゅうざん)無縁寺回向院。

「六月十五日より七月十五日」同年のそれは新暦七月七日より閏六月を挟んだ九月四日までの六十日間。

「三十日の日延(ひのべ)ありて八月十五日まで」同年の八月十五日は新暦十月三日。旱魃の民草の苦しみを考慮しての日延べか。

「下總(かづさ)布施辨才天本所壹(ひと)つ目八幡」現在の東京都墨田区千歳にある江島杉山神社。ウィキの「杉山和一によれば、杉山検校の称号で知られる鍼灸師杉山和一(わいち 慶長一五(一六一〇)年~元禄七(一六九四)年:伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身。管鍼(かんしん)法の創始者として知られ、鍼・按摩技術の取得教育を主とした世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した)の『献身的な施術に感心した徳川綱吉から「和一の欲しい物は何か」と問われた時、「一つでよいから目が欲しい」と答え、その代わりに同地(本所一つ目)の方』一町(約一万二千平方メートル)を『拝領し、同地屋敷内に修業した江の島の弁天岩窟を模して祠を建て』、江島神社としたことに由来する神社である。杉山和一と江の島については、私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之六」の「福石(ふくいし)」の私の注を参照されたい。

「御旅所(おたびしよ)」神仏の祭礼(神幸祭)やこうした出開帳に於いて、神仏が巡幸の途中、休憩又は宿泊滞在する場所(或いはその目的地)を指す。

「京都伏見東福寺塔中海藏院の毘沙門天」現在の京都市東山区本町十五丁目(ここは同東山区の東南端で現在の伏見区と境を接する)にある臨済宗慧日山(えにちさん)東福寺塔頭海蔵院で本尊は聖観音菩薩であり、毘沙門天はない。調べてみると、東福寺の別の塔頭に勝林寺が現存するが、サイト「京都観光ナビ」の「勝林寺」によれば、この寺は海蔵院の鬼門に当たったことからその鎮守とされ、ここには現在も仏法と北方を守護する毘沙門天を祀り、「東福寺の毘沙門天」として知られていることが判った。ここの『毘沙門天立像は高さ百四十五・七センチメートルの等身大に近い一木造の像で、左手に宝塔、右手に三叉戟をもった憤怒相、作は平安時代十世紀後半頃に遡ると言われている。長く東福寺仏殿の天井裏にひそかに安置されていたが、江戸時代に開山・高岳令松の霊告により発見され、勝林寺の本尊として祀られたという』とあるから、この像のことを指すか?

「八月十一日」新暦では九月二十九日。

「後水尾院東福門院兩宮」後水尾天皇(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年 在位:慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)と、その中宮で徳川秀忠と正室江の五女であった東福門院徳川和子(まさこ/かずこ 慶長一二(一六〇七)年~延宝六(一六七八)年:明正天皇の生母)。

「袞龍(こんりよう)の御衣(ぎよい)」現代仮名遣「こんりょうのぎょい」。昔、天皇が着用した中国風の礼服で、上衣と裳(も)とからなり、上衣は赤地に日・月・星・龍・山・火・雉子などの縫い取りをした綾織物。即位式や大嘗会・朝賀などの儀式に用いた。直後の「大嘗會御衣」は同じことを指すか(衍字?)、或いはその「大嘗會御衣」と併せて被る専用の「冠(かん)」(かんむり)の謂いか。

「あこめ」「衵」「袙」などと書き、束帯の際に下襲 (したがさね)と単(ひとえ) との間に着用したもの。打ち衣(ぎぬ)とも称した。

「ゆするつき」「泔坏」と書き、泔(ゆする:頭髪を洗って梳(くしけず)るのに用いる湯水。古くは米の研ぎ汁などを用いた)の水を入れる器。古くは土器であったが、この頃のものは漆器や銀器である。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(8) 三月十八日

     三月十八日

 

 人麿が柿本大明神の神號を贈られたのは、享保八年即ち江戸の八代將軍吉宗の時であつた。その年の三月十八日には人麿千年忌の祭が處々に營まれて居る。即ち當時二種あつた人麿歿年説の、養老七年の方を採用したので、他の一説の大同二年では餘に長命なるべきを氣遣つたのである(一) 月日に就ても異説があり、些しも確かなることでは無かつた。「續日本記を見れば光仁天皇の御宇三月十八日失せたまふと見えたり」と、載恩記に言つて居るのは虛妄であるが、「まことや其日失せたまふよしを數箇國より内裏へ、同じ樣に奏聞したりといへり」とあるのは、筆者の作り事では無いと思ふ。即ち何れの世かは知らず、相應に古い頃から此日を人丸忌として公けに歌の會をお催し、又之に件なうて北野天神に類似した神祕化が流行したらしいのである(二)

[やぶちゃん注:「享保八年」一七二三年。

「當時二種あつた人麿歿年説」多くが生没年不詳とする。「ブリタニカ国際大百科事典」は生年は不詳とし、没年を和銅元(七〇八)年頃とする。ウィキの「柿本人麻呂」では斉明天皇六(六六〇)年頃 を生年とし、「日光山常行三昧大過去帳」により、神亀元(七二四)年三月十八日を没年月日とする。諸説では生年は大化元(六四五)年前後と見るものが多い。

「養老七年」七二三年。試みに大化元年生年説によるならば享年七十九歳となる。

「大同二年」八〇七年。試みに大化元年生年説によるならば享年百六十三歳の化け物となる。

「光仁天皇の御宇」光仁天皇の在位は宝亀元(七七〇)年十月~天応元(七八一)年四月である。試みに大化元年生年説によるならば享年百十一~百三十七歳のやはり化け物となる。

「戴恩記」「たいおんき」と読む。前章で注したが、再掲して置おくと、松永貞徳著の歌学書。全二巻。正保元(一六四四)年頃に成り、天和二(一六八二)年に刊行された。著者の師事した細川幽斎・里村紹巴らの故事やその歌学思想を平易に述べたもの。]

 そこで自分が問題にして見たいのは、假に人丸忌日は本來不明だつたとして、誰が又どうして之を想像し若くは發明したかといふことである。誰がといふことは結局我々の祖先がといふ以上に、具體的には分らぬかも知らぬが、如何にしてといふ方は、今少し進んだことが言ひ得る見込がある。我邦の傳説界に於ては、三月十八日は決して普通の日の一日ではなかつた。例へぱ江戸に於ては推古女帝の三十六年に、三人の兄弟が宮戸川の沖から、一寸八分の觀世音を網曳いた日であつた。だから又三社樣の祭の日であつた。といふよりも全國を通じて、是が觀音の御緣日であつた(三) 一方には又洛外市原野に於て、此日が小野小町の忌日であつた。九州のどこかでは和泉式部も、三月十八日に歿したと傳ふるものがある。舞の本の築島に於て、最初安部泰氏の占兆に吉日と出たのも此日であり、さうかと思ふと現在和泉の樽井信達地方で、春事(はるごと)と稱して餅を搗き、遊山舟遊をするのも此日である(四) 曆で日を算へて十八日と定めたのは佛教としても、何か其以前に暮春の滿月の後三日を、精靈の季節とする慣行は無かつたのであらうか。

[やぶちゃん注:「推古女帝の三十六年」推古天皇の没年。単純比定ではユリウス暦六二八年。

「宮戸川」「みやとがは(みやとがわ)」は浅草周辺流域の現在の隅田川の旧称。

「一寸八分」約五センチ五ミリ。

「三社樣」江戸時代までの現在の浅草神社と金龍山浅草寺(せんそうじ)の習合した祭り。前の兄弟の引き上げた観音像が浅草寺本尊(聖観音像)となったとされる。

「市原野」「いちはらの」は現在の京都市左京区中西部の一地区名。「櫟原野」とも書く。鞍馬寺参詣の鞍馬街道に沿い、早くから開けた。小野小町終焉の地と伝えられる小野寺(補陀洛(ふだらく)寺)が現存する。

「舞の本の築島」中世室町期の芸能の一種であった幸若舞曲(現在、五十曲余りが伝わる)の中から歌謡的部分を抜き出したいわゆる幸若歌謡集の一種に載る「築島(つきしま)」。現在の神戸市兵庫区南部の兵庫津に清盛が日宋貿易の拠点として大輪田泊を築港するが、その前面の防波堤とするための島を築き、船を風から守ろうとし、その人工島を「経(きょう)ヶ島」と呼ぶ(当時、築かれたとする詳しい場所は不明で、実際には源平争乱によって着手されなかったというのが定説)が、この「島」を「築」く当たって生まれた人柱伝承に基づく曲である。捕らえられた人柱の一人国春とそれを助けようとする娘名月女(めいげつにょ)、三十人の人柱の身代わりとなって経とともに海へ沈む松王という少年などが登場するという(神戸市の公式サイト何内の神戸市立中央図書館総務課作製になる「平清盛と神戸 経ヶ島(きょうがしま)」に拠った)。

「安部泰氏」「あべのやすうぢ」(あべのやすうじ)。先の幸若舞「築島」で清盛に人柱の投入を進言する陰陽師の名。

「占兆」「せんて(せんちょう)」或いはこれで「うらかた」とも読む。占いに表れた徴(しる)しのこと。

「和泉の樽井信達地方」現在の大阪府南部の泉南市樽井(たるい)及び信達(しんだ)地区。

「春事」「はるごと」。地方によっては「事祭(ことまつり」「事追い祭り」「十日坊」などとも称し、関西・中国地方で三~四月頃に行われる春の民間の祭り。餅を搗いて各家庭で御馳走を食べ、軒に箸 の簾(すだれ)を吊るしたりする。]

 此間も偶然に謠の八島を見て居ると、義經の亡靈が昔の合戰日を敍して元曆元年三月十八日の事なりしにと言つて居る。是は明かに事實で無く、又觀音の因緣でも無い。そこで立戾つて人丸の忌日が、どうして三月十八日になつたかを考へると、意外にも我々が最も信じ難しとする景淸の娘、或は黍畑で目を突いたといふ類の話に、却つて或程度までの脈絡を見出すのである。舞の本の景淸が淸水の遊女の家で捕はれたのは三月十八日の賽日の前夜であつたが、是は一つの趣向とも見られる。併し謠の人丸が訪ねて來たといふ日向の生目八幡社の祭禮が、三月と九月の十七日であつたゞけは(五) 多分偶合では無からうと思ふ。それから鎌倉の御靈社の祭禮は、九月十八日であつた(六) 上州白井の御靈宮緣起には、權五郎景政は康治二年の九月十八日に、六十八歳を以て歿すと謂つて居る。

[やぶちゃん注:「八島」世阿弥作の「平家物語」に取材した謡曲で複式夢幻能・修羅能の名作とされる。ウィキの「八島」によれば、旅の僧が讃岐八島(現在の高松市の東北に位置する南北に長い台地)の浦で『漁師にであう前段、漁師がきえた後、僧がその不思議を土地の住人にたずねる間狂言部分、主人公義経が生前の姿であらわれる後段の三部構成をとる』とある。より詳しい梗概はリンク先を参照されたい。

「義經の亡靈が昔の合戰日を敍して元曆元年三月十八日の事なりしにと言つて居る」元曆元年はユリウス暦一一八四年であるが、実際の屋島の戦いは翌元暦二年/寿永四年の二月十九日(一一八五年三月二十二日)に行われている。

「舞の本の景淸が淸水の遊女の家で捕はれた」平家の遺臣藤原悪七兵衛景清が信仰していたのが京の清水寺の観音菩薩であったが、清水坂近くの馴染みの遊女阿古王(あこおう)に密告されて捕縛されてしまう。

「賽日」「さいにち」。ここは広く神仏に御礼参りをする日のこと。

「日向の生目八幡社」現在の宮崎県宮崎市大字生目小字亀井山にある生目(いきめ)神社。景清公を主祭神とする。詳しくはウィキの「生目神社」を参照されたい。

「鎌倉の御靈社の祭禮は、九月十八日」現在も奇祭面掛行列を含む例祭は九月十八日に行われている。

「上州白井の御靈宮」「神片目」で推定した群馬県伊勢崎市太田町にある五郎神社のことか。

「權五郎景政は康治二年の九月十八日に、六十八歳を以て歿す」康治二年は一一四三年。逆算すると承保三(一〇七六)年生まれとなる。「奥州後三年記」で十六歳の頃、後三年の役(一〇八三年 ~一〇八七年)に従軍したことになっているのからはズレが生ずる。]

 私は今少しく此例を集めて見ようとして居る。若し影政影淸以外の諸國の眼を傷けた神神に、春と秋との終の月の缺け始めを、祭の日とする例が尚幾つかあつたならば、歌聖忌日の三月十八日も、やはり眼の怪我といふ怪しい口碑に、胚胎して居たことを推測してよからうと思ふ、丹後中郡五箇村大字鱒留に藤社(ふじこその)神社がある、境内四社の内に天目一社があり、祭一は天目一箇命といふ。さうして此本社の祭日は三月十八日である(七) 今まで人は顧みなかつたが、祭の期日は選定が自由であるだけに、古い慣行を守ることも容易であり、之を改めるには何かよくよくの事由を必要とし、且つそんな事由は度々は起らなかつた。故に社傳が學問によつて變更せられた場合にも、是だけは偶然に殘つた事實として、或は何物かを語り得るのである。

[やぶちゃん注:「後中郡五箇村大字鱒留に藤社(ふじこその)神社がある」現在の京都府京丹後市峰山町鱒留に現存する。名前は勿論、非常な古社である点など、かなり興味深い神社である。Kiichi Saito氏のサイト「丹後の地名・資料編」の鱒留ますどめ) 京丹後市峰山町鱒留の考証が非常に興味深い。]

(一) 大同二年八月二十四日卒すといふ説は、何の書にあるかを知らぬが、滑稽雜談と閉窓一得とに之を引用して居る。共に一千年忌より少し前に出來た本である。鹽尻卷四七には此年七月十日、竹生島に人丸の靈を崇むとある。大同二年は寺社の緣起や昔話に最も人望のある年であつたことは誰でも知つて居る。

[やぶちゃん注:「鹽尻」「しほじり(しおじり)」は江戸中期の随筆。国学者天野信景の著を、天明二(一七八二)年に尾張藩士で国学者・俳人でもあった堀田方旧(ほったまさひさ)が編んだもの。 全百巻。元禄から宝永頃に著者が和漢古今の書を引用して史伝・神仏の由来・地理・言語・風俗などについて広汎に渉猟・考証したもの。

「大同二年は寺社の緣起や昔話に最も人望のある年」ウィキの「807に、『円仁や空海、坂上田村麻呂に関連した伝承で、この年号がよく使われる。空海が日本に帰国した年がこの年と言われることも多いが、史実としてはっきりとしない』とあり、また、『東北各地の神社の創建に関する年号はこの年とされる。茨城県の雨引千勝神社の創建はこの年である。早池峰神社、赤城神社なども同様である。また福島県いわき市の湯の嶽観音も、この年の』三月二十一日に『開基されたとある。清水寺、長谷寺などの寺院までこの年に建てられたとされ、富士山本宮浅間大社も、大鳥居の前に堂々と大同元年縁起が記載されている。香川県の善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上がこの年である。各地の小さい神社仏閣にいたるまで枚挙にいとまがないほど』、大同二年『及び大同年間はそれらの創建にかかわる年号である』とある。]

(二) 日次記事三月十八日の條には、古いへ官家御影供を修す、今に於て和歌を好む人々、多く斯日歌會を修すとある。徹書記物語はまだ讀む折を得ないが、更に三百年前の書であるのに、やはり昔は此日和歌所にて歌會があつたと記して居るさうだ。

[やぶちゃん注:「日次記事」「ひなみきじ」と読む。江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書。十二巻。儒学者で医師であった黒川道祐(くろかわどうゆう)の編で、延宝四(一六七六)年の林鵞峰(はやしがほう)の序がある。月ごとに日を追って、節序・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立て、行事の由来や現況を解説してある。

「御影供」「みえく」「みえいく」などと読む。一般には仏教での儀式名で、祖師の命日にその図像 (御影) を掲げて供養する法会(ほうえ)。代表的なものに真言宗祖弘法大師御影供があり、毎月二十一日に行う法会を「月並御影供」、三月 二十一日の法会を「正(しょう)御影供」というが、ここは明らかに歌聖柿本人麻呂の図像を掲げて行う歌道のそれである。

「斯日」「そのひ」文庫全集版に準じて、かく訓じておく。

「徹書記物語」「てつしよきものがたり」は歌論書「正徹物語(しょうてつものがたり)」のこと。二巻。前半(「徹書記物語」とも)は室町中期の臨済僧で歌人としても知られた正徹自身が、後半は弟子の聞書と考えられている。文安五(一四四八)年頃又は宝徳二(一四五〇年)頃の成立。歌論と歌話を集成したもので、藤原定家に対する傾倒が著しく、その幽玄論は重要な影響力を持った(ウィキの「正徹物語に拠った)。]

(三) 但し何故に三月の十八日が、觀音にさゝげてあるかは私にはまだ明白でない。

(四) 郷土研究四卷三〇二頁。

(五) 太宰管内誌に依る、但し和漢三才圖會には此地に景淸の墓あり、水鑑景淸大居士建保二年八月十五日と記すとある。八月十五日は八幡社放生會の日である、熱田の景淸社も例祭は九月十七日である。

[やぶちゃん注:「太宰管内誌」福岡の鞍手郡古門村古物神社の神主伊藤常足が天保九(一八三八)年に完成させた、九州及び壱岐・対馬の地誌。全八十二冊。

「建保二年」一二一四年。これはお話にならない。]

(六) 但し景政で無い京都の上下御靈も、有名なる御靈會の日は昔から八月十八日であつた。大阪の新御靈は鎌倉から迎へたといふが、祭禮は九月二十八日であつた。

(七) 丹後國中郡誌稿。

[やぶちゃん注:「丹後國中郡誌稿」大正三(一九一四)年京都府丹後国中郡役所編。]

2016/06/26

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 目録 / 蠐螬 乳蟲

 

和漢三才圖會卷會第五十三之四目録

  卷之五十三

   化生蟲類

[やぶちゃん注:以下、底本は罫附きの三段で、縦一列の項目の次が次行に続く形となっているが、ここでは一段で示す。和名はルビ風に扱い、下にポイント落ちでつくそれは同ポイントで示した。]

 

蠐螬(すくもむし) きりうじ

蝎(きくいむし)

蠋(はくひむし) 芋虫(イモムシ)

蚇蠖(しやくとりむし)

螟蛉(あをむし)

腹蜟(にしどち)

蟬(せみ)

蚱蟬(むませみ)

蟬獺蛻(せんぜい)

蟪蛄(くつくつはうし)

茅蜩(ひぐらし)

田鼈(たがめ) かうやひじりむし

蜣蜋(せんちむし)

蜉蝣(せんちばち)

天漿子(くそむし)

天牛(かみきりむし)

螻蛄(けら)

螢(ほたる) 蠲(ツチボタル)

衣魚(しみ)

(よなむし) こくうそう

(おめむし)

鼠婦(とびむし)

蜚蠊(あぶらむし) 五噐嚙(ゴキカフリ)

行夜(へひりむし)

竈馬(いとど)

莎雞(きりきりす)

蟋蟀(こほろぎ)

螽斯(はたをり)

蠜螽(ねぎ)

𧒂螽(いなご)

蝗(おほねむし)

蟿螽(はたはた)

松蟲(まつむし)

金鐘蟲(すゞむし)

鑣蟲(くつはむし)

吉丁蟲(たまむし)

金龜子(こがねむし)

叩頭蟲(こめふみむし) こめつきむし

蚉蚉(ぶんぶん)

(あぶ)

蚊(か) 蟭螟(セウメイ)

孑孑(ぼうふりむし)

[やぶちゃん注:正確には下の「孑」は最後の一画が左下から右下へのだんだん太くなる(はらい)である。]

蚋子(ぶと)

竹蝨(やふじらみ)

蠛蠓(かつをむし)

蚤(のみ)

蓑衣蟲(みのむし)

守瓜(うりはへ)

菊虎(きくすひ)

 

  卷之五十四

   濕生蟲類

蟾蜍(ひきかへる) 蟾酥(センソ)

蝦蟇(かへる)

蛙(あまかへる)

蝌斗(かへるのこ)

田父(へびくいかへる)

蜈蚣(むかて)

百足(をさむし)

度古(とこ)

蚰蜒(げぢげぢ)

蠼螋(はさみむし)

蚯蚓(みゝず)

蝸牛(かたつむり)

蛞蝓(なめくぢ)

蜮(いさごむし) 鬼彈(きだん)

沙虱(すなしらみ)

水馬(かつをむし)

鼓蟲(まひまひむし)

(みから)

[やぶちゃん注:「」=「虫」+「魯」。]

砂挼子(ねむりむし)

蚘(人のむし)

唼臘蟲(しびとくらいむし)

(しびとくらいむし)

 

 

 

和漢三才圖會卷五十三

     攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

  化生類

Sukumomusi

すくもむし  1蠐 2蠐

きりうじ   乳齋  應條

蠐螬    地蠶

       【和名 須久毛無之】

【唐音】

 ツイツア

[やぶちゃん注:「1」=「虫」+「賁」。「2」=(上)「肥」+(下)「虫」。]

 

本綱蠐螬狀如蠶而大身短節促足長背有毛筋以背滾

行乃駛於脚生樹根及糞土中者外黃内黒生舊茅屋上

者外白内黯皆濕熱之氣熏蒸而化生復從夏入秋蛻而

爲蟬

按蠐蝤今俗呼名賀登者也栗根及薯蕷下多有之大

 抵寸半許似蠶而腰畧細足畧長背有皺筋以背滾行

 蛻而爲蟬但不有毛耳

一種生田園糞土中食斷草木根多爲害者俗呼名木里

 宇之其形似蠶而肥皀色或灰白或赤褐色短足大小

 不一常圓屈而如猫蟠臥狀

 

[やぶちゃん注:ここに縦罫。]
 
 

   【一名土蛹】

乳蟲

 

本綱掘地成2以粳米粉鋪入2中蓋之以草壅之以糞

[やぶちゃん注:「2」=(あなかんむり)+「告」。]

候雨過氣蒸則發開而米粉皆化成蛹如蠐螬狀取蛹作

汁和粳粉蒸成乳食味甘美補虛益胃氣明目又置黍溝

中即生蠐螬亦此類也

 

 

すくもむし  1蠐〔(ひせい)〕   2蠐〔(ひせい)〕

きりうじ   乳齋〔(にゆうせい)〕  應條〔(わうじやう)〕

蠐螬    地蠶〔(ちさん)〕

       【和名、「須久毛無之〔(すくもむし)〕」。】

【唐音】

 ツイツア

[やぶちゃん注:「1」=「虫」+「賁」。「2」=(上)「肥」+(下)「虫」。]

 

「本綱」、蠐螬は狀〔(かたち)〕、蠶のごとくして大きく、身、短く、節、促(つま)り、足、長く、背に毛筋、有り。背を以て滾(まろ)び行(ある)く。乃ち、脚より駛(はや)し。樹の根及び糞土の中に生ずる者は、外、黃にて、内、黒し。舊(ふる)き茅(かや)の屋の上に生ずる者は、外、白く、内、黯(うる)む。皆濕熱の氣、熏蒸して化生す。復た、夏より秋に入り、蛻(もむけ)して蟬(せみ)と爲る。

按ずるに、「蠐蝤〔(すくもむし)〕」、今、俗に呼んで「賀登〔がと〕」と名づくる者なり。栗の根及び薯蕷(やまいも)の下に多く之れ有り。大抵、寸半許〔り〕、蠶に似て、腰、畧(ち)と細く、足、畧〔(ち)と〕長し。背に皺(しは)筋、有り、背を以て滾(まろば)し行〔(ある)〕く。蛻〔(もむけ)〕して蟬と爲る。但し、毛、有るに〔あら〕ざらるのみ。

一種、田園・糞土の中に生じ、草木の根を食ひ斷(き)り、多く害を爲す者、俗に呼んで「木里宇之(きりうじ)」と名づく。其の形、蠶に似て肥へ、皀〔(くろ)〕色、或いは灰白、或いは赤褐色にして、短き足。大小、一つならず。常に圓屈して、猫蟠(わだまま)り臥(ふ)す狀〔(かたち)〕のごとし。

 

[やぶちゃん注:ここに縦罫。]

 

  【一名、「土蛹〔(どよう〕」。】

乳蟲〔(にゆうちゆう)〕

 

「本綱」、地を掘りて窖(あなぐら)を成す。粳米〔(うるちまい)〕の粉〔(こ)〕を以て窖の中に鋪〔(し)き〕入〔れ〕、之れを蓋〔(おほ)〕ふに草を以てし、之れを壅(ふさ)ぐに糞(あくた)を以〔てし〕、雨、過〔ぎ〕、氣、蒸(む)せるを候〔(ま)ち〕て、則ち、發-開〔ひら〕けば、米〔(こめ)〕の粉、皆、化して蛹〔(さなぎ)〕と成り、蠐螬(すくもむし)の狀〔(かたち)〕のごとし。蛹を取りて汁と作し、粳粉〔(うるちこ)〕に和(ま)ぜて蒸して乳食〔(にゆうしよく)〕と成す。味、甘美。虛を補し、胃の氣を益す。目を明にす。又、黍〔(きび)〕を溝の中に置けば、即ち、蠐螬を生ずるも亦、此の類ひなり。

 

[やぶちゃん注:良安の附言の冒頭は「蠐螬」ではなく、「蠐蝤」であるが、実はどちらも少なくとも現在の中国語では同一の生物を指していることが判ったのでママとした(東洋文庫版現代語訳は読者の困惑を考慮してか、「蠐螬」に変えてあるけれども、注もなく、褒められた仕儀ではない)。これは所謂、「地虫」、本邦では主に、

鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属 Mimela に属するコガネムシ類の幼虫

を指す。和名「すくもむし」の「すくも」とは、古くから、葦や萱(かや)などの枯れたものや、藻屑、葦の根などを指したようだが、語源は不明である。

 

・「黯(うる)む」黒ずんでいる。

・「濕熱の氣、熏蒸して化生す」トンデモ化生説であるが、そもそもこの種以降は「本草綱目」では化生(かせい:ある物質や生物が形を変えて全く別個な生物として生まれ出ること。「けしやう(けしょう)」と読む場合は厳密には仏教用語となり、自分の超自然的な力によって忽然と生ずることを意味し、天人や物怪の誕生、死者が地獄に生まれ変わることなどを指すが、中国本草ではそれらがやや混淆しており、本邦ではそれがまた一段と甚だしく、ここでも良安は「けしょう」と読んでいる可能性もあるのであるが、私個人は仏教用語と本草学用語を区別するため、本書のそれは仏教用語と限定出来る用法以外は、卵生・湿生・胎生と併せて「かせい」と読むことにしている)類なのである。

・「蛻(もむけ)して蟬(せみ)と爲る」半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科 Cicadoidea の蟬類の幼虫は、太く鎌状に発達した前脚で木の根に沿って穴を掘り進み、長い口吻を木の根に差し込んで根の道管から樹液を吸って成長するが、このヒトが「根切り虫」と称して俄然、害虫とする類いとは異なり、甚大な樹木被害を起こすとは思われない。そもそもが蟬ではない上に、こういう冤罪を書かれては、蟬も立つ瀬がなく、小便の一つもひりたくなるではないか!

・「賀登〔がと〕」「日本国語大辞典」に『昆虫「じむし(地虫)」の異名』とし、「丹波通辞」に『蠐螬(すくもむし) がと』と出るという記載がある。同書は作者不詳で明治三七(一九〇四)年刊の方言語彙集らしい。しかし、本書完成の正徳二(一七一二)年にはかく呼ばれていた事実があるのだから、この引用例よりも本篇部分を出すべきであろう。

・「薯蕷(やまいも)」単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica の自生種。

・「寸半」四・五センチメートル。

・「毛、有るに〔あら〕ざらるのみ。」要するに、毛が生えていない、というのであるが、これは何を説明しているのかと言えば、当然、蟬(普通のどんな種でも外骨格のセミにはぼうぼうと毛なんぞ生えてはおらぬ)ではなくて、幼虫のことである。毛虫とちゃう、ということか。にしてもこんな最後に突然それを言うのは、はっきり言って「ヘン」。この訓点(送り仮名)も何だかひどく「ヘン」なので迂遠にも括弧の部分を補わざるを得なかった。

・「木里宇之(きりうじ)」「根切り蛆」の謂いであろう。

・「常に圓屈して、猫蟠(わだまま)り臥(ふ)す狀〔(かたち)〕のごとし」この観察、気に入りました、良安先生。

・「乳蟲〔(にゆうちゆう)〕」実際にある歳時記に「乳虫(にゅうちゅう)」を挙げて、地虫の類いを言うらしいとあったから、相応に古くから本邦でもこういう別名で呼ばれていたらしいことが、この記載からも判る。以下の解説とは別に、白い幼虫のそれはかく呼ぶんで自然な気はする。

・「粳米〔(うるちまい)〕」米飯用として用いられる普通の米。「粳(うるち)」とは米・粟・黍などの穀類の中でも、その種子を炊いた際、粘り気の少ない品種を広く指す語である。

・「糞(あくた)」「糞」は排泄物以外に広く、「垢(あか)」とか「滓(かす)」の意味(「目糞」「鼻糞」の類い)があるので、こうした訓を振り、腐葉土などの意味で用いても、なんらおかしくはない。

・「雨、過〔ぎ〕、氣、蒸(む)せる」雨期(本邦の梅雨)終了の直後。

・「候〔(ま)ち〕て」待って。「候(うかが)ひて」と訓じることも出来る。

・「米〔(こめ)〕の粉、皆、化して蛹〔(さなぎ)〕と成り」ここもまた、トンデモ化生説。

・「乳食」ミルク状の食物の意。

・「虛」漢方で広く健全なる気力や精気が消耗している状態を指す。]

サイト「鬼火」開設11周年記念 芥川龍之介「奉教人の死」自筆原稿やぶちゃん注 附・岩波旧全集版との比較

芥川龍之介「奉教人の死」自筆原稿やぶちゃん注 附・岩波旧全集版との比較

 

[やぶちゃん注:本日公開した『芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)』(底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像)について私のオリジナルな注である。当該自筆原稿は朱の校正記号が入った決定稿(一頁目の右上罫外に朱で『二』とあるから、二校目であろう)であり、大正七(一九一八)年九月一日発行『三田文学』初出版の原稿と推定されるが、岩波旧全集の「後記」の初出についての異同記載とかなりよく一致はするものの、このままならば、その岩波旧全集の異同記載に出るべき箇所が出ていないものもあることから、ゲラ刷りで手が加えられている可能性が高い。それも踏まえて、岩波旧全集版との比較も一部で行った(細かな表記違いや読点・ルビの有無などは、よほど読み違えたり内容に関わらぬ限り、問題としなかった。私が注するのは私の気になるところであって、退屈な書誌学的校合ではないので悪しからず)。

 【 】の番号は電子化した自筆原稿の頁番号で、以下の行頭の裸のアラビア数字は当該原稿用紙(一枚十行)の各行数を示す。

 歴史的仮名遣の誤りなどは煩瑣なので、一切、挙げてない。

 この注では本格的な語注をする積りは基本的にはなかったが、朗読上の便宜としての注や、聴き慣れぬ切支丹用語の原語など、また、若い読者に誤読或いは誤植と誤認されそうな語句や箇所には煩を厭わず注することとした結果、語注とほぼ同じものとなった。

 なお、本電子テクストはブログ版『芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)』と併せて、私のサイト「鬼火」開設の11周年記念としてブログにアップすることとした。【2016年6月26日 藪野直史】]

 

【1】

右上罫外 朱で「二」。決定稿二校目の謂いであろう。

1 右罫部に朱校正(筆跡が異なり、校正工による記入と思われ、芥川龍之介のものではない)で「二行アキ」。

2 標題は有意に大きく書かれてある。朱校正で「3」ポイントの指示。言わずもがなであるが、「奉教人」(ほうけうにん(ほうきょうにん))とは広くキリスト教徒の意。

4 右罫部に朱校正で「二行アキ」。署名はマスからはみ出すやや大きめのサインであるが、よく見ると、下に一度、署名したものを削ったような跡があるのがやや不思議である。

6 「齡」「よはひ」(よわい)と読む。以下、読みのみ示す場合はこの附言は略す。なお、私が読みを附すのは私の朗読の便のためである。――私はかく読む――という表明のためである。

8 「夢幻」「ゆめまぼろし」。

8 「慶長訳 Guia do Pecador」の前後に朱校正で丸括弧。「ギヤ・ド・ペカドル」は「罪人を善に導く」の意。スペインのドミニコ会司祭ルイス・デ・グラナダ(Luis de Granada 一五〇四年~一五八八年)著のキリシタン版日本語抄訳本で二巻。漢字ひらがな交りで、救霊や修徳を説く。慶長四(一五九九)年刊。「ぎやどぺかどる」「勧善抄」など呼ばれて日本の切支丹に広く読まれた。

9 朱校正で「一行アキ」。

10 「御教」は「みをしへ」(みおしえ)、「甘味」は「かんみ」であろう。

 

【2】

1~2 「慶長訳 Imitatione Christi」の前後に朱校正で丸括弧。“De imitatione Christi”は「キリストに倣(なら)いて」と訳される。原著は中世ドイツの神秘思想家トマス・ア・ケンピス(Thomas à Kempis 一三八〇年~一四七一年)の著わした信仰の書で、クリスチャンの霊性の本として聖書に次いで最も読まれた本であるとも言われる。筑摩全集類聚版の脚注によれば、『コンテンス・ムンヂ(Contenpus Mundi 厭世経)と題し、抄訳された。現在知られているのは、慶長元』(一五九六)年『天草(?)学林刊のローマ字本と、慶長』一五(一六一〇)年の『京都原田アントニヨ印刷所刊の漢字』ひらがな交りの二書である、とする。

3 「一」の下に朱校正で「五ゴシツク三行中央」。

4 「去んぬる」筑摩書房全集類聚版など、多くは「さんぬる」と読み、辞書でもその読みが先行するが、私は断然、「いんぬる」と朗読する。

4 『或「えけれしや」』は、岩波旧全集版(以下、「現行版」と称する。私は新字体採用の岩波新全集版を「現行版」としては認めない謂いでもある)では『「さんた・るちや」と申す「えけれしや」』という教会の固有名が附加されている。これは岩波旧全集後記によれば、『改造』初出でも本原稿と同じく、「さんた・るちや」は全篇一貫して教会の一般名詞である「えけれしや」で通されている、とある。ポルトガル語“ecelesiaで「教会」「聖堂」の意。因みに「さんた・るちや」の方は筑摩全集類聚版の脚注によれば、“Santa Lucia で『イタリアのナポリ市の守護神の名。ここでは教会の名』とある。

5 ここに初出する本原稿での主人公の名(クリスチャン・ネーム)「ろおらん」は、現行では全篇一貫して「ろうれんぞ」である。これは岩波旧全集後記によれば、『改造』初出でも本原稿と同じく、「ろおらん」で通されているとある。綴りは“Laurent”か。

5~6 「伴天連」「ばてれん」。ポルトガル語“padre”で「父」「神父」「司祭」。日本に渡来したカトリックの宣教師の称。パードレ。

6 「御降誕」「ごかうたん」(ごこうたん)。

9~10 「なつたげでござる」まさにそのようになったのだそうで御座いますが。「げ」は如何にもそうした様子や状態になる、の意の接尾語。

 

【3】

1 実は原稿では、冒頭に「何時(いつ)も」とあるのであるが、これは丸く囲まれて(芥川龍之介の指示。本部と同色のインクである)二行目の「事もなげな」の頭に移すように矢印で指示されてある。電子化ではその指示に従ったもので示してある。なお、このルビ「いつ」は現行版には振られていない。作者が附したルビの有無はここでは原則、問題にしないが、作家の著作物のルビはこの当時、殆んど校正工が勝手に振っていたのが実情で、泉鏡花のような特異な作家以外は総ルビを原稿で附ける作家はまず極めて少ない。逆に、この「いつ」などもそうだろうと思われるが、後の全集などでは不要と思われるルビを編者が勝手に取捨選択してしまう。実は我々はこうした自筆原稿に対峙するという稀な経験のみに於いて、原作者が実はここだけはどうしてもかく読んで欲しい、ルビを振りたい、と考えていたものに触れることが可能となるという驚くべき現実を知るべきであると思う。

1 『「はらいそ」(天國)』ポルトガル語“paraiso”。

1~2 『「でうす」(天主)』ポルトガル語“Deus”。元はラテン語の男性単数主格であるから厳密には広汎に一人の男神を指すが、切支丹用語ではキリスト教の唯一神を指す。

2 「紛らいて」「まぎらいて」。

4 『「ぜんちよ」(異教徒)』ポルトガル語“genntio”。キリスト教から見たの意の、限定義であるので注意!

4 「輩」「やから」。

5 「靑玉(あをだま)」サファイア或いはそれに似た青色の装飾用の玉石。

5~6 『「こんたつ」(念珠)』ポルトガル語“contas”。ポルトガル語で「数える」の意。カトリック教会に於いて聖母マリアへの祈りを繰り返し唱える際に用いる、十字架やメダイ・キリスト像などのついた数珠状の祈りの用具である、ロザリオ(ポルトガル語:rosário・ラテン語:rosarium)のこと。本邦では十六世紀にイエズス会宣教師によって伝えられたが、以後の隠れ切支丹の時代まで永く「こんたつ」(マリア賛礼の「アヴェ・マリア」(ラテン語:Ave Maria)の祈禱を口にした数を数えるもの)と呼ばれてきた。「念珠」は「ねんじゆ」(ねんじゅ)でよかろうが、朗読では本文を聴者に持たせている場合は、この本文同ポイント内の割注丸括弧は総て省略して読むのがよい。

7 『「いるまん」衆(法兄弟)』ポルトガル語“irmão”。イエズス会の修道者の中で司祭職パードレを補佐する者を指す。

8 「扶持」「ふち」。助けること。生活を扶助すること。

9~10 『「すぺりおれす」(長老衆)』ポルトガル語“superiores”。教会内での名誉職(複数形)。

 

【4】

1~2 「あらうず」意味は「~であるのだろうよ」ですんなり腑に落ちるが、この「ず」は文法的に何かと考え出すと、私のような文法嫌いははたと困ってしまう。まず考えるのは推量・意志の助動詞「ず」(「むとす」推量の助動詞「む」の終止形+格助詞「と」+サ変動詞「す」)の短縮した助動詞「むず」の「む」の撥音便「ん」無表記となったもの)であるが、とすると「あらう」とダブることになり文法構造上ではおかしく、中止法のように「~であるし」の意で用いる接続助詞「ず」もピンとこない。前者の正統な用法(「今にも~となりそうな感じである」(推量)「敢えて~しようとする」(意志))は以下の文中でもしばしば見られることから、私はこれは、芥川龍之介がこの作品のために、前者のダブりを厭わずに創成した特殊な言語ではなかろうかとも考えている。国語学の識者の御意見を乞うものではある。

5~6 本作の大きなポイントである「ろおらん」の最初の具体な顔の描出に龍之介が念を入れているのがよく判る、有意な改稿部である。初案の「天童の生れかはりと云はれても僞ない程」という如何にもな朧化をやめて、「顏かたちも玉のやうに淸らかであつたに」としたが、累加の係助詞「も」は伏線のバレが気になったかと思しく、「顏かたちが」と平素な格助詞に替え、改めてその累加分を「声ざまも女のやうに優しかつたれば」の「も」で順序立てて、しかも伏線を匂わせたのである。しかしその匂わせは九行目の「弟のやうに」で強く抑止されるようにも仕組んであるのである。

8~9 「しめおん」“Simeon”。

10 「必」「かならず」。

 

【5】

3 「性得」「しやうとく」(しょうとく)。

3~4 「剛力」「がうりき」(ごうりき)。

5 「石瓦」「いしがはら」(いしがわら)。

7~8 初案の「荒鷲になづむ鳩」と決定稿の「鳩になづむ荒鷲」を比べてみると、私は面白いと思う。そもそも次に並置される「檜」と「葡萄(えび)かづら」の比喩関係の対表現を考えるならば逆であって、寧ろ「荒鷲になづむ鳩」の方が自然と言える。ところがそれを敢えてかくしたところに上手さがある。それは表現上の捻りといよりも、ここの後者は主体を「しめおん」にずらしてあって読者の視線は男らしい彼に向かい、それに寄り添う弟のような少年性が高まる。ところが前者では「鳩」に読者の意識が向かって、その「鳩」のシンボライズする女性性の方が遙かに露わになってしまい、伏線のバレが気になってくるからである。「檜」と「葡萄(えび)かづら」(バラ亜綱クロウメモドキ目ブドウ科ブドウ属エビヅル Vitis ficifolia 。通称は山葡萄(やまぶどう))は植物比喩で「花」の女性性はあるものの、動物よりはるかに性シンボルとしては弱くなるから問題ない。「花」はまた、若衆道のステロタイプでもあるから、却って安心でさえあるとも言える。

8 「ればのん」は現行版では『「ればのん」山』である。この異同は岩波旧全集には、示されていない。この後のゲラ校正で追加されたものか? “Lubnān”で、聖書に出るパレスチナの山脈名。

 

【6】

1 「三年」「みとせ」。筑摩全集類聚版に従う。

2 「年月」「としつき」。同前。

5 「ろおらん」に懸想する娘は初案では「鍛冶の娘」だったものが「傘張」(かさはり)屋の娘に変えられたことがここで判明する。原稿【19】では修正なしで「傘張」が出るところを見ると、この決定稿執筆の途中(原稿【7】が同修正の最後であるが、【8】から【18】までは彼ら(娘・翁)の記載や登場シーンがない)、全48枚の原稿の三分の一ぐらいまで書いたところで、意図は不明乍ら、「傘張」に変更したことが窺われる。

6 「翁」「おきな」。

10 「出入り」「ではひり」(ではいり。)筑摩全集類聚版に従う。

 

【7】

9 「白ひげ」「しらひげ」。筑摩全集類聚版に従う。

 

【8】

3 「頭(かしら)」は現行版にはルビがない。向後、「あたま」と読み継がれてしまうであろう。

5 冒頭に述べた通り、この注では語注をする積りは基本的にはない。ないが、しかし、この「年配」は書き加えでもあり、気になる。この場合はこれは「ある範囲内に含まれる年頃」の謂いであって、後が「信心」なのであるから、およそ女にうつつを抜かすといった色気を持つような年齢には未だ届いていないということを意味していると私は採る。この時代で、一般に少年が強い色気を持たぬように見える年齢の上限とすれば、満で十一、二歳が限度であろうか(中世・近世初期までの元服年齢を一つの基準値としてである)。ただそれでは傘張りの娘が懸想するにはやや若過ぎるし、子を孕ませたと周囲が信ずるのももちとおかしい。今少し挙げて、満十四、五か。既に【6】で『「ろおらん」はやがて元服もすべき時節となつた』とあった。概ね、この時代の男子の元服年齢は数えの十五であったのと一致する。では「ろおらん」は事実、それくらいだったかというと、それは分からぬ。「ろおらん」は見た目は実年齢より幼く見えた可能性が高い。そもそも最後に胸が露わになって老伴天連がはっとするというシーンを考えれば、当時の第二次性徴と栄養状況などから勘案しても、今少し一,二歳年齢が上であってもよいかも知れぬ。孰れにせよ、「ろおらん」は年高く見積もっても(「ろおらん」の「えけれしや」追放からコーダの死までは凡そ一年とある)満十七、八歳になるかならぬかで、天に召されたものと読んでよかろうと思う。

8 この改行は原稿にある朱校正で「行ヲ新ニセヨ」によってかく改行したもので、実際には七行目に繋がっている。これは芥川龍之介の直接の指示したものかも知れない(赤い色が他の朱校正と異なり、改行指示記号も如何にも素人っぽいからである)。

9 「とかうの沙汰」とやかく、やかましい噂。

 

【9】

2 「淫な」「みだらな」。

4 「まさかとは」これも語釈になるが、若い人のために敢えて注する。これは呼応の副詞で下に打消を伴って、打消推量・打消意志の強調形(取り立ての係助詞「は」も含めて)で、「よもや」「とてものことに」「どうしても」の謂いである。

5 「後」「うしろ」。

6 抹消の「が薔薇」はこの場面を具体に描こうとした雰囲気が匂う。薔薇の鼻の庭の「ろおらん」と「しめおん」の印象的な「えけれしや」の薔薇の植わった裏庭のシークエンスを、もう少しだけ覗いて見たかった気がする。

8 「嚇しつ賺しつ」「おどしつすかしつ」。

10 「私」は本篇ではすべて「わたし」と読みたい。

 

【10】

4 「問ひ詰つた」「とひなじつた」。詰問した。

7 「部屋を出つて行つて」は何と読むのか、ちょっと困る。現行版は「部屋を出て行つて」であるが、これについて岩波旧全集後記には、後の作品集「沙羅の花」(大正一一(一九二二)年八月改造社刊では、ここが『部屋を出(た)つて行つて』とルビされているとあり、後の作品集「報恩記」(大正一三(一九二四)年十月而立社刊・歴史物語傑作選集)及び「芥川龍之介集」(大正一四(一九二五)年四月新潮社刊・現代小説全集第一巻)によって「部屋を出て行つて」を採用した旨の記載がある。ルビもないし、「つ」は衍字の可能性もありそうではあるが、暫くは「たつていつて」(たっていって)を採用したい。

 

【11】

3 『「しめおん」の頸を抱くと』現行版の、

  『「しめおん」の頭を抱くと』

(「頭」は先例に徴せば「かしら」と訓じる)ではかなり奇異な感じを受ける。というか、

おかしいだろ?!

岩波旧全集後記には、後の作品集「戯作三昧」(大正一〇(一九二一)年九月春陽堂刊・ヴェストポケット傑作叢書)は、

  『「しめおん」の顏』

とし、死後の刊行になる岩波の普及版全集では、

  『「しめおん」の「頸(うなじ)』

となっている、とある。それ以外、初出を始めとして、総て「頭」なのである!

「顏」はやばいぞ!

感覚的に最もしっくりくるのは「頸(うなじ)」以外には、ない!

ここは「ろおらん」と「しめおん」二人が肉体的に強く接触するただ一度の大事なシーンなだけにずっと「頭」が気になっていたのである。

今回、自筆当該原稿同字を拡大してよく見てみると、

(つくり)は「頁」であるが、(へん)は「豆」ではなく、明らかに上部に三本の縦線様の筆致が見られ、芥川龍之介自身ちゃんと「頸」と書いていたことが判明した

のである!

要は初出『改造』の誤植に過ぎなかったのだ!

それがずっとこの気持ちの悪いままに底本本文化されてきてしまったのだ!

加えて、初出で龍之介自身も誤植に気づかなかったことが、さらに状況の悪化に拍車をかけた。なお、普及版はこの自筆原稿を見てまさに正しく直したのであった(しかしその経緯を細かに記載して残さなかったのが不運)が、それを次の岩波の全集(私の言う旧全集)の編者は元に戻してしまった。これがまたまた新たな不幸の繁殖の始まりとなったのであった(私は新字採用の新全集は三冊しか所持しないのでここがどうなっているかは知らない。当然、「頸」に正されて「うなじ」と振っているであろう)。目から鱗、頭から頸が落ちたわ!

4 「喘ぐ」「あへぐ」(あえぐ)。

 

【12】

1~2 「一円」ここは呼応の副詞で下に打ち消しの語を伴って、「全然~(ない)」「一向に~(せぬ)」の意。

2 「合點」「がてん」。

4 「後」「ご」。「のち」では間延びして、よくない。筑摩全集類聚版も「ご」と振る。以下も原則、そう読む。

10 「かつふつ」呼応の副詞で、後に打消の語を伴い、「まったく~(ない)」「まるで~(しない)」。

 

【13】

3~4 「伴天連の手もとをも追ひ拂はれる」は、現行では「伴天連の手もとを追ひ拂はれる」と「も」がない。これは作品集『傀儡師』(大正八(一九一八)年一月新潮社刊・芥川龍之介第三作品集。リンク先は私の作成したバーチャル・ウェブ復刻版)を底本としたためである。

4 「糊口のよすが」生きるために食い物を手に入れるよりどころ。

6~7 『「ぐろおりや」(榮光)』ポルトガル語“Gloria”。

 

【14】

4 「凩」「こがらし」。

5 「傍」「かたはら」(かたわら)。

6 「拳」「こぶし」。

9~10 ここは数少ない、「ろおらん」の台詞で、しかも神に向かって願う祈請であるから、現行の、

『御主も許させ給へ。「しめおん」は、己が仕業(しわざ)もわきまへぬものでござる』

(「己」は「おの」と読む)もよいけれど初案、

『御主も許させ給へ。兄なる「しめおん」は、なす所を知らざれば。』

も捨てがたい。初案はまるで聖書のイエスの言葉のように私には聴こえるからである。

 

【15】

2 「挫けた」「くじけた」。

3 「空」「くう」。

4~5 「とりないたれば」とりなしたので。なかに入って「しめおん」をなだめ、仲裁したので。

5 「束ねて」「つかねて」腕組みをして。

 

【16】

1 「頭」これは前例に徴せば、「かしら」であるが(筑摩全集類聚版はそう振っている)、どうもしっくりこぬ。個人的な感覚からここは私は「かうべ」(こうべ)と訓ずる。

9 「穢多(えとり)」の歴史的仮名遣は「ゑとり」が正しい。現行版は作品集「傀儡師」に基づいているので(以後、この前振りは略す)、「ゑとり」と漢字を排除して平仮名表記となっている。「餌取り」で元来は鷹・猟犬などの餌にするために牛馬などを屠殺し、またその牛馬の皮革や肉を売ることを生業とした者を指す古語で、被差別階級を指した「穢多」にそれをルビするのは当て字である。

9 「さげしまるる」の「さげしむ」は「蔑(さげす)む」に同じい古語である。

 

【17】

1~2 「刀杖瓦石」「とうじやうぐわせき」(とうじょうがせき)。

4 「七日七夜」「なぬかななよ」。筑摩全集類聚版に従う。

7 「御愛憐」ここの尊敬の接頭語は「ご」と読んでおく。

8 「施物」「せもつ」。

9 「木の実」「このみ」。

 

【18】

4 「闌〔た〕けて」「かうたけて」(こうたけて)と読む。現行版は「更闌(かうた)けて」。「更(こう)闌(た)く」はカ行下二段活用で「夜が更(ふ)ける」の意。「更」は一夜を五等分した夜時間の単位で初更・二更・三更・四更・五更とし、「闌く」は本来は太陽が高く昇る謂いで、それが、ある状態の盛りが過ぎるの意となり、夜のすっかり更けてしまうことを指す。

5 「人音」「ひとおと」。

8 「御加護」ここも尊敬の接頭語は「ご」と読んでおく。

10 「疎んじ」「うとんじ」。

 

【19】

2 「所行無慚」「しよぎやうむざん」(しょぎょうむざん)とは元来は仏教用語で、その生きざまや行動に於いて、戒や律を破り尽くして、しかも心に些かも恥じるところがないことを指す。

5 「千万無量」「せんばんむりやう」(せんばんむりょう)。濁音の方で読みたい。

 

【20】

1 「男の子」【22】で「女の子」と出るのと齟齬する。岩波旧全集の後記によれば初出以下、総て「男の子」であるが、現行版は龍之介の死後に刊行された岩波普及版全集に従って「女の子」と変えている。これは仕方がない仕儀ではある。まさか龍之介がどんでん返しで男女の「とりかへばや」を暗に示した確信犯などととるのは苦しい。寧ろ、龍之介は初期設定では傘張の娘の産んだ子は「男の子」としていたこと、それを忘れて最後に「女の子」と変え、しかもここを直すのを忘れていたこと自体を精神分析的に解釈すべきであろう。にしても、生前、誰もこの誤りを龍之介にしなかったのだろうか? していながら、それを生前の作品集で直さなかったとするならば、誤りを意識的に放置して、「とりかへばや」を後の読者に残したとするならどうか? 本作自体の典拠問題で大嘘を二重についた龍之介なら、強ちあり得ぬ話ではない気もしてはくる。

1~2 「かたくなしい」初案は「かたくなな」であるから、確信犯の古語「かたくなし」に、口語の形容詞活用をカップリングしたもので、多分に造語っぽいのであるが、龍之介は本作で試みている作品内限定の独特の創作的時代言語の中では少しも違和感がないのが不思議である。

2 「初孫」「うひまご」(ういまご)。

4 「抱き」「いだき」。

9 「暇」「いとま」。【6】での書き変えの読みに従う。

 

【21】

2 初案の「恋ひ偲」んで「居つた」を書き換えたのは、判る。「恋」では(「恋」でよく、事実「恋」なのであるが)若衆道の匂いがあまりにむんむんしてきてしまい、ちとまずかろう。

5 「気色」「けしき」。

7 『「じやぼ」(悪魔)』ポルトガル語“Diabo”。

8 「一年」「ひととせ」。

 

【22】

3 「末期」「まつご」。

3 「喇叭」「らつぱ」(らっぱ)。

3 「音」「おと」と読む。筑摩全集類聚版は「ね」とするが従えない。最後の審判の天使の吹くそれは耳を劈(つんざ)く大音響でなくてはならぬ。

8 「眷族」召使や下男。

10 「一定」「いちぢやう」(いちじょう)。これは副詞。きっと。但し、係っているかに見える「置いた」にではなく、後の「逃げのびた」に係るとしないと理屈上、おかしく、やや配置としてはおかしい。それを避けるには「忘れて」の前にこの語を置くべきであった。

 

【23】

4 「助け出さう」「たすけいださう」(たすけいだそう)。

 

【24】

8 「御計らひ」「おんはからひ」。

 

【25】

7 「眉目」「みめ」。筑摩全集類聚版に従う。

 

【26】

1 「煽つて」「あふつて」(あおって)。

7~10 後半部の最初に現われるクライマックスのプレ・ピークである。

『「しめおん」は思はず遍身に汗を流いて、空髙く「くるす」(十字)を描きながら、己も「御主、助け給へ」と叫んだが、何故かその時心の眼には、凩に落ちる日輪の光を浴びて、「えけれしや」の門に立ちきはまつた、美しく悲しげな、「ろおらん」の姿が浮んだと申す。』

現行版では(下線は私が引いた厳密な意味での異同部分。なお、「くるす」(十字)はポルトガル語“Curuz描き」は「えがき」と訓じたい。「己」は「おのれ」)、

『「しめおん」は思はず遍身に汗を流いて、空く「くるす」(十字)を描きながら、己も「御主、助け給へ」と叫んだが、何故かその時心の眼には、凩に搖るゝ日輪の光を浴びて、「さんた・るちや」の門に立ちきはまつた、美しく悲しげな、「ろおれんぞ」の姿が浮んだと申す。』

問題は「凩に落ちる日輪の光を浴びて」が「凩に搖るゝ日輪の光を浴びて」と改稿されてあるところである。私は個人的には龍之介の改稿を改悪と断ずるものである。このフラッシュ・バックは風雅で実景には即している「凩に搖るゝ日輪」というリアリズムの表現ではなく、あくまで「凩に落ちる日輪」でなくてはならないと感じている。敢えて言うなら「凩に堕ちる日輪」がよりよいとまで不遜(芥川龍之介に対して)にも思っているのである。

8 「門」【15】で「かど」と読んでいるので以下、総てかく読む。

 

【27】

2 「健気」「けなげ」。

3 「忽」「たちまち」。

6 「己が」「おのが」。

 

【28】

3 「声髙」「こはだか」(こわだか)。

5 「跪いて」「ひざまづいて」。

9 「默然」「もくねん」。清音で読みたい。筑摩全集類聚版も同じ。

 

【29】

1 「再」「ふたたび」。

4 「天くだる」「あまくだる」。

6 「俄」「にはかに」(にわかに)。

7 「煙焔」「えんえん」であるが、私は朗読する際には「けむりとほのお」と訓読した。

7~8 「迸つた」「ほとばしつた」(ほとばしった)。

9 「珊瑚」「さんご」。

 

【30】

1~2 「眩む」「くらむ」。

4 「脛」「はぎ」。

6~7 「さもあらばあれ」少し変わった用法に見える。傘張りの娘の内表現とすれば、『妾はどうなっても構わぬ! 何とでもなってもよい! あの子の命だけは!……』というニュアンスであるが、作者の語り口のそれとすると、ずっと冷静で、「そういう状況になっていた、それはそれで、ところが、その折りから」という状況転換の謂いともとれる。両方を含んでよろしい、と私は思う。

8 「生死不定」「しやうじふぢやう」(しょうじふじょう)。

10 「御知慧、御力」孰れの尊敬の接頭語も「おん」で読む。

 

【31】

6 「咽んだ」「むせんだ」。

8 「自ら」「おのづから」(おのずから)。

 

【32】

8 「びるぜん・まりや」ポルトガル語“Virgen Maria”。聖処女マリア。

8 「御子」「みこ」。

10 「ぜす・きりしと」ポルトガル語“Jesu Christo”。イエス・キリスト。

 

【33】

5 「大変」「たいへん」。一大事。大事件。

7 「舁かれて」「かかれて」。運ばれて。

 

【34】

4 『「こひさん」(懴悔)』ポルトガル語“Confissão”。

5~6 「声ざま」「こはざま」。筑摩全集類聚版に従う。

6 「眼(まなこ)」ここは龍之介がルビの「まなこ」をわざわざ抹消していることに注意しなくてはならぬ。これは実に龍之介自身が最終的にこれを「め」と読ませることを企図したからに他ならないからである。

7 「道理」【19】の読みに従い、「ことわり」と読む。

 

【35】

9 『「いんへる」(地獄)』はママ。現行は総て「いんへるの」であるからゲラ稿で直したか。ポルトガル語“Inferno”。

10 「辱くも」「かたじめなくも」。

 

【36】

8~9 『「まるちり」(殉教)』ポルトガル語“Martyrio”。

 

【37】

2 「御行跡」「ごぎやうせき」(ごぎょうせき)と読んでおく。筑摩全集類聚版も同じい。

 

【38】

1 「蹲つて」「うづくまつて」(うずくまって)。

8 「後」「うしろ」。

 

【38~41】

老伴天連の台詞から引く。後半一段落分は抹消部を削らずに示した

   *

『悔い改むるものは、幸ぢや。何しにその幸なものを、人間の手に罰しようぞ。これより益、「でうす」の御戒を身にしめて、心靜に末期の御裁判の日を待つたがよい。又「ろおらん」がわが身の行儀を、御主「ぜす・きりしと」とひとしく奉らうづ志は、この国の奉教人衆の中にあつても、類(たぐひ)稀なる德行でござる。別して少年の身とは云ひ――』ああ、これは又何とした事でござらうぞ。ここまで申された伴天連は、俄にはたと口を噤んで、あたかも「はらいそ」の光を望んだやうに、ぢつと足もとの「ろおらん」の姿を見守られた。その恭しげな容子は、どうぢや。その両の手のふるへざまも、尋常の事ではござるまい。おう、伴天連のからびた頰の上には、とめどなく淚が溢れ流れるぞよ。

 見られい。「しめおん」〔。〕見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、〕火光を一身に浴びて、声もなく橫はつ〔「えけれ〕た、■〔しや」〕の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、ふく〔清〕らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。されば〔今は〕燒けただれた面輪(おもわ)にも、自らなやさしさは、隱れようすべ〔も〕ござない〔あるまじい〕。おう、「ろおらん」は女ぢや。「ろおらん」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、ろおらん邪淫の戒を破つたに由つて 「えけれしや」を逐はれた「ろおらん」は 傘張の娘のやうな〔と同じ〕、 気髙くつつましく→眼なざしの〕あでやかなこの国の女ぢや。

   *

ここは現行版では以下のようになっている(下線及び下線太字は私が引いた厳密な意味での異同部分。なお、「御戒」は「おんいましめ」、「德行」は「とくかう(とくこう)」と読んでおく。因みに筑摩全集類聚版では「尋常」に「よのつね」とルビするが、従えない。そう読むなら、原稿や初稿以降にそれが現われていなくてはならないからである。ここはまさに尋常に「じんじやう(じんじょう)」と読めばよい。「からびた」とは「年老いて脂気を失って削げた」の意。「猛火を後にして」の「後」は「うしろ」、「戒」は「いましめ」と訓じたい)。

   *

『悔い改むるものは、幸ぢや。何しにその幸なものを、人間の手に罰しようぞ。これより益、「でうす」の御戒を身にしめて、心靜に末期の御裁判の日を待つたがよい。又「ろおれんぞ」がわが身の行儀を、御主「ぜす・きりしと」とひとしく奉らうず志はこのの奉教人衆の中にあつても、類(たぐひ)稀なる德行でござる。別して少年の身とは云ひ――』あゝ、これは又何とした事でござらうぞ。こゝまで申された伴天連は、俄にはたと口を噤んで、あたかも「はらいそ」の光を望んだやうに、ぢつと足もとの「ろおれんぞ」の姿を見守られた。その恭しげな容子は、どうぢや。その兩の手のふるへざまも、尋常の事ではござるまい。おう、伴天連のからびた頰の上には、とめどなく淚が溢れ流れるぞよ。見られい。「しめおん」。見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、もなく「さんた・るちや」の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、淸らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。今は燒けたゞれた面輪(おもわ)にも、自らなやさしさは、隱れようすべもあるまじい。おう、「ろおれんぞ」は女ぢや。「ろおれんぞ」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、邪淫の戒を破つたに由つて 「さんた・るちや」を逐はれた「ろおれんぞ」は、傘張の娘と同じ、眼なざしのあでやかなこのの女ぢや。

   *

このうち、自筆原稿の、

猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、ろおらん邪淫の戒を破つたに由つて 「えけれしや」を逐はれた「ろおらん」は 傘張の娘のやうな〔と同じ〕、 気髙くつつましく→眼なざしの〕あでやかなこの国の女ぢや。

の二箇所の空欄は龍之介の読点の打ち忘れと思われる。その証拠に後者には読点が打たれている。ところが前者は『由つて、「えけれしや」』ではなく、『「由つて「えけれしや」』である。私はここは文章の勢いから言っても、朗読のリズムから言っても、読点があるべき箇所だ、と考えている。

 まず――改行を施していない(太字下線部)現行版は――全く以ってだめ――と断じておく。芥川龍之介が、ゲラでそう指示したとしても私は採れない

 ここはどうあっても改行すべきである。私はあくまでこの自筆稿版を支持するものである。

 そうして私はこの自筆稿を判読しながら、現行の、本作最大のクライマックスのクロース・アップの画像(下線やぶちゃん)、

   *

御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、聲もなく「えけれしや」の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、淸らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。

   *

は初案を適応するなら実は、

   *

御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、声もなく「さんた・るちや」の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、燒焦げ破れた衣のひまから、ふくらかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。

   *

であったことを知って、私は異様なデジャ・ヴュを覚え、思わず、涙を流したことをどうしても告白しておきたいのである。

 

【41】

5 「邪淫の戒」モーゼ十戒の一つ、姦淫をしてはならないこと。

10 「御声」「おんこえ」と訓じておく。筑摩全集類聚版も同じい。

 

【42】

8 「自ら」「みづから」(みずから)。

 

【43】

2 「誦せられる」「ずせられる」。

3~7 『してその御経の声がやんだ時、「ろおらん」と呼ばれた、この国のうら若い女は、まだ暗い夜のあなたに、「はらいそ」の「ぐろおりや」を仰ぎ見て、安らかなほゝ笑みを唇に止めたまま、靜に息が絶えたのでござる。‥‥‥‥』岩波旧全集後記には、この最後のリーダが初出以下には、ない、とあり、死後刊行の普及版全集に拠って『………』――九点リーダ――を打っているのである。しかし、自筆原稿にはリーダがあるのである(但し、残ったマス目四マスに二点で打たれているので――八点リーダ――である)。普及版全集がこのリーダを打ったのは、『芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)』の私の冒頭に記した通り、まさに当時、南部修太郎氏所蔵であった、この「奉教人の死」の原稿を参考にしたからに他ならないのである。さらに言えば、芥川龍之介自身がゲラ刷でこのリーダを最終的に除去したか、或いは初出の編集者(校正工)がこれを意識的に外してしまったものを龍之介はよしとしたか、の孰れかである。私は、個人的にはリーダが欲しい。或いは、龍之介は架空(実は実在)の「れげんだ・おうれあ」っぽくするために、当時はなかったリーダを除去したとも考え得る。最早、「藪の中」ではある‥‥‥‥

5 「夜」「よ」と読んでおく。筑摩全集類聚版は「よる」と振るが、朗読時のリズムが悪いので採らない。

6~7 「止めたまま」「とどめたまま」。

7 「靜に」「しづかに」(しずかに)。

 

【44】

3 「一波」「いつぱ」(いっぱ)。

3 「水沫(みなは)」は歴史的仮名遣としては「みなわ」が正しく、現行版も「みなわ」となっている。

4 「最期を知るものは」は現行版では「最後を知るもの」である。初出も作品集「沙羅の花」も「最期」である。「最後」ではなくて、やはり、この「最期」が、よい。

8 「二」の下に朱校正で「五ゴシツク三行中央」とある。

9 「関る」「かかる」。

9 「耶蘇會」「やそかい」。一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio López de Loyola 一四九一年~一五五六年)や、日本に初めてキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier 一五〇六年頃~一五五二年)らによって創設された、カトリック教会の男子修道会イエズス会(ラテン語: Societas Iesu)のこと。

10 「れげんだ・おれあ」はママ。現行は総て「れげんだ・おうれあ」。次注参照。

 

【45】

1 「LEGENDA AUREA」はラテン語で「黄金の伝説」。キリスト教の聖者の伝記集成としてジェノバの大司教であったヤコブス=デ=ウォラギネ(Jacobus de Voragine 一二二八年頃~一二九八年)が筆録したものが濫觴。信仰上の貴さだけでなく、文学的にも価値の高いものとして、「黄金」の名をもって呼称されるところの、広汎な意味でのキリスト教の聖人聖者の列伝を広く指す。「AUREA」はラテン語を音写しても「オーレア」とも表記出来るし、英語読みすると、「オゥレア」より「オーレア」の方が近いから、前の「れげんだ・おれあ」は決して音写としておかしくない。

2~3 この原稿は面白い。二行目の「黃金」の三行目の「彼土」(かのど:向こうの地・大陸の謂い)の「彼」を紫色のインクで囲んであり、その上部罫外に赤で「?」が三つ並べて書かれているのである(三つあるのは「黃」「金」「彼」の計漢字三つ分を指すと思われる)。これは校正工がこの字を判読出来なかったことを意味するものである。キリスト教徒でないと「黃金傳説」という語はよく判らないし、「彼」がかなり崩れた字体なので、下と併せても一般的な熟語としては判読出来にくかったのである。少し、校正工が気の毒な気はする。

4 「西教徒」「せいけうと(せいきょうと)」キリスト教教徒。

5 「福音傳道の一助たらしめん」何ら問題ないが、実は岩波旧全集後記によると、初出以下は総て「福音傳道の一たらしめん」となっている由。普及版全集に従ったとあるが、ご覧の通り、原稿はちゃんとなっている! これは『改造』植字工が落したものを校正工が見落とし、それを芥川龍之介も見落として、ずっとそれできてしまった可能性が考えられる(ゲラ刷で龍之介が削った可能性は寧ろ、低い気がする)。

6 「美濃紙摺草体交り」「みのがみずりさうたいまじり」(みのがみずりそうたいまじり)。「草体」は草書体。

8 「明」「めい」と音読みしておく。筑摩全集類聚版は「あきらか」と訓じているが、擬古文の本章の体裁にはそぐわぬ。

8~9 「羅甸字」「らてんじ」でラテン語の文字のこと。

10 「慶長→元〕年鏤刻」「鏤刻」は「るこく」と読み、本来は彫り刻むの謂いだが、広く板行(出版)の意。この訂正通りなら、前の「御出世以來千五百九十→六〕年」の一五九六年で西暦は間違っていないように見える。ところが現行版は「慶長二年三月上旬」である。慶長二年三月上旬はグレゴリオ暦(一五八二年に開始)でもユリウス暦でも一五九七年(四月上旬)である。ただ、「御出世以來」と言っているから、別に日本に数えに準ずるわけでないなら(準じた方が自然ではあるが)絶対的におかしいとは言わずともよい。ところが、この自筆稿の年号にはとんでもないおかしな部分があるのである。即ち、慶長元年には三月はないのである。この年は文禄五年だったが、旧暦十月二十七日(グレゴリオ暦一五九六年十二月十六日)に慶長に改元しているので、もし、この「れげんだ・お(う)れあ」なるものにそう書かれているとなると、これはとんでもない偽書の可能性が高いということになるのである。但し、改元の前に翻刻したが、その後に改元があったので、それを書き換えることがないというと、ないは言えない。日本の歴史書で目録を作る場合には、往々にして年中改元の場合に改元した元号の方で纏めることは普通に行われはする。しかし、改元前の翻刻のクレジットを後から書き替えるというのは如何にも不自然である。初出だけがこう(慶長元年)なっているらしいから、芥川龍之介は或いはその改元の日付を知って、それ以降を慶長二年に書き換えて辻褄を併せようとしたのかも知れない。そもそも目の前に原本を置いて実際のクレジットを見て書いている書き振りでありながら、西暦も元号も二回も書き直すなんていうのは考えられないわけで、或いは、やはり偽書であることを初めから狙った確信犯の誤記ともとれなくはない。

 

【46】

2 その上部罫外に赤で「?」が一つ書かれている。何故だろうと、この二行目をよく見てみると「頗」(すこぶる)のマスの左側に褪色した本文とは異なる色(紫?)の奇妙な記号(「!」を反転させた感じのもの)が打たれているのが分かった。この字もかなり崩れており、送り仮名もないから判読出来なかったのである。これも校正工が可哀想。

3 「掬す」「きくす」手にとって味わう。愛好・愛玩する。

7 「黃金」【45】と同じく、紫色のインクで囲んであり、その上部罫外に赤で「?」がが書かれている。

9 「雅馴」「がじゆん」(がじゅん)。文章が上品で穏やかなこと。筆づかいが正しく、文章も練れていること。

10 「間々」「まま」。副詞。それほど頻度は多くないものの、少なくもないさま。時に。

 

【47】

3 「れげんだ・おれあ」はママ。既注通り、現行は総て「れげんだ・おうれあ」。

5~7 「但し、記事中の大火」岩波旧全集後記には、初出以下総て、「記事の大火」とあるのを普及版全集で「記事中の大火」としたとあるが、おかしい。これも初出の『改造』の脱字が、そのまま底本となってしまった可能性が頗る高い。

7 この上部罫外に赤で「?」が一つ書かれている。これは何の意味かちょっと分からない。可能性としては、この五行目から七行目にかけては抹消・改稿がごちゃごちゃしているため、このままでよいのか? という確認のための「?」か、或いは、この行にある実在する書物「長崎港草」(ながさきみなとぐさ:郷土史家熊野正紹(せいしょう ?~寛政九(一七九七)年)が書いた長崎地誌。寛政四(一七九二)年成立。全十五巻)という書名の「港」の字が校正工には読めなかったからかも知れない。私自身、この「港」は(へん)が(さんずい)にはとても読めないし、「長崎港草」などという地誌もこの本作で初めて知った地誌だからである。

 

【48】

2 「云爾」「しかいふ(しかいう)」と読む。漢文(調)に於いて文章の終わりに用い、「以上にほかならない・上記の通り」という意味を表す語。この二字で「のみ」と訓じ得る。

3 「(七・八・十二)」大正七(一九一八)年八月十二日のクレジット。朱校正で前の行の末に直接六ポイントで附す指示がある。海軍機関学校勤務期であるが、この頃は既に嫌気がさしていた。新全集宮坂年譜によれば、この脱稿翌日八月十三日には「枯野抄」を起筆、とある(リンク先は私の電子テクスト)。恐るべきパワーである。

4 朱校正で右罫に「二行アキ」と指示。

5 「芥川龍之介」の左に全体を五ポイントとする朱校正の指示。

サイト「鬼火」開設11周年記念 芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)

芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認した。これは朱の校正記号が入った決定稿であり、岩波旧全集の「後記」の初出についての異同記載とかなりよく一致することから、大正七(一九一八)年九月一日発行『三田文学』初出版の原稿(決定稿であるが、ゲラ刷りで手が加えられている可能性が高い)と考えてよく、旧全集が引用する過去の普及版全集の「月報」第四号所収の「第二卷校正覺書」に『南部修太郎氏所藏の「奉教人の死」の原稿を拜借させていただけましたので、大いに參考えになりました。』とある『南部修太郎氏所藏の「奉教人の死」の原稿』と同一のものではないかと推定される。使用原稿用紙は一行字数二十字十行で、左方罫外下部に『十ノ廿 松屋製』とあるもので、全四十八枚。欠損部はない。

 なお、旧全集後記は初出との校合は行っているが、この決定稿との校合をしているわけではない

 私は既に、

岩波旧全集版準拠   「奉教人の死」

作品集『傀儡師』版準拠「奉教人の死」(上記との私の校異注記を附記)

及び、芥川龍之介が典拠とした(龍之介は実は、『『奉教人の死』の方は、日本の聖教徒の逸事を仕組んだものであるが、全然自分の想像の作品である』と明言し、『『奉教人の死』を發表した時には面白い話があつた。あれを發表したところ、隨分いろいろな批評をかいた手紙が舞ひ込んで來た。中には、その種本にした、切支丹宗徒の手になつた、ほんものゝ原本を藏してゐると感違ひをした人が、五百圓の手附金を送つて、買入れ方を申込んだ人があつた。氣毒でもあつたが可笑しくもあつた』などと書き(「風變りな作品二點に就て」(大正一五(一九二六)年一月『文章往來』)。リンク先も私の電子テクスト)、書簡(昭和二(一九二七)年二月二十六日附秦豐吉宛書簡(岩波旧全集書簡番号一五七七)の二伸では『日本版「れげんだ・あうれあ」は今から七八年前に出てゐる。但し僕の頭でね、一笑』などと平然と嘘をついているが)、

斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」

を電子化している。

 復元に際しては、当該原稿用紙の一行字数二十字に合わせて基本、改行とした。但し、芥川龍之介は鈎括弧を一マスに書かずにマスの角に打つ癖があり、また以下に示す通り、抹消と書き換えを再現しているため、結果、実際の復元テキストでは一行字数は一定しない。

 原稿用紙改頁に【 】で原稿左上罫外に書かれたアラビア数字の原稿頁番号を打って改行した。

 ルビはブログ版では( )同ポイントで示した。なお、龍之介自身が割注として本文同ポイントで示した部分がやはり( )で存在するが、特に判読に迷う箇所はないと思われる。これによって当時の芥川龍之介が原稿にどれほどのルビを振っていたかがよく判る。実はそれ以外の殆どのルビは校正工が自分勝手に振っていたのである。これはあまりよく知られているとは思われないので、特に明記しておく。最初の全集編集の際、堀辰雄が原則、ルビなしとするべきだと主張した(結局、通らなかった)のはそうした当時の出版事情があったからである。

 抹消は抹消線で示し、脇への書き換え及び吹き出し等によるマス外からの挿入は〔 〕で示した。添えの書き換えが二度(或いはそれ以上)に亙るものは、『〔がかり→ずり〕』のように示した。

 抹消し忘れと思われるものは龍之介に好意的に取消線を延ばしたが、衍字(「こひささん」など)はそのままに復元した。歴史的仮名遣の誤りもママである。

 判読不能字(龍之介の抹消は一字の場合にはぐるぐると執拗に潰すことが多いために判読が出来ないものが多い)は「■」で示した。私がほぼ確実と推定し得たもののみを示し、判読候補が複数あり、確定し辛いと判断したものは概ね判読不能で示した。なお「」としたのは空白を入れる指示を取り消したものと推定している箇所である。

 朱で入っている校正記号は原則、無視した。

 漢字は龍之介が使用しているものに近いものを選んだので略字と正字が混在している。判断に迷った字は正字で示した。

 なお、現行との重大な異同点は主人公「ろおれんぞ」が一貫して「ろおらん」である点で、これは読んでいて相当に印象が異なる。他にも、現行では『「さんた・るちや」と申す「えけれしや」』という教会の固有名がなく、一貫して教会の一般名詞「えけれしや」で通されている点、主人公に懸想する娘の当初の設定を鍛冶屋としていたことが抹消・書き換えで判明する(執筆途中で変更を行ったらしく、原稿ナンバー【19】ではそのまま「傘張」と出る)。また、龍之介が仮想的に再現しようとした当時の独特の語り口の表現に、かなり苦労している様子が抹消や書き換え・挿入ではよく伝わってくるように私には思われる。この私の原稿復元版はそうした箇所を見るだけでもかなり興味深いものと思う。これらについては、別立ての『芥川龍之介「奉教人の死」自筆原稿やぶちゃん注 附・岩波旧全集版との比較』(本テクストと同時公開)で細述した。

 なお、本電子テクストは私のサイト「鬼火」開設の11周年記念としてブログにアップすることとした。【2016年6月26日 藪野直史】]

 

 

【1】

 

 奉教人の死

 

 芥川 龍之介

 

 たとひ三百才の齡を保ち、樂〔し〕み身に余る

と云ふとも、未來永々の果しなき樂〔し〕みに比ぶ

れば、夢幻の如し。 慶長訳 Guia do Pecador

 

 善の道に立ち入りたらん人は、御教にこも

【2】

る不可思議の甘味■〔味を〕覺ゆべし。 慶長訳 Imita-

tione Christi

     一

 去んぬる頃〔去んぬる頃〕、日本長崎の〔或〕「えけれしや」(寺院)

に、「ろおらん」と申すこの国の少年がござつた。

これは或年御降誕の祭の夜、その「えけれしや」

の戸口→に〕、餓〔え〕 〔疲〕れてうち伏して居つた

を参詣の奉教人衆が介抱し、それより伴

天連の憐みにて、寺中に養はれる事となつ

たげ〔で〕ござるが、何故か〔何故か〕その身の素性〔を問へ〕ば、ひ〔たと〕包んで

【3】

故郷は「はらいそ」(天國)父の名は「でうす」

(天主)などと、何時(いつ)も事もなげな笑に紛ら〔い〕て、とん

とまことを〔は〕明した事もござ〔〕ない。なれど親の

より〔から〕「ぜんちよ」(異教徒)の輩でござら〔あら〕なんだ事

だけは、手くびにかけた靑玉(あをだま)の「こんたつ」(

珠)を見ても、知れたと申す。されば伴天連は

じめ、多くの「いるまん」衆(法兄弟)も、よも怪し

いものではござるまいと〔、〕〔おぼ〕されて、〔ねんごろに〕扶〔持〕して

く程に〔かれたが〕、その信心の堅固なは、幼いにも似ず「すぺ

りおれす」(長老衆)が舌を捲くばかりであつたに由つて〔れば〕、

【4】

一同も「ろおらん」は天童の生れがはりであらう

ずなど申し、いづくの〔生〕れ、たれの子と

も知れぬものを〔、無下に〕めでいつくしんで居つたげで

ござる。

 〔し〕て〔又〕この「〔ろ〕おらん」〔は〕、天童の生れかはりと

云はれても僞ない程〔顏かたち〔が〕玉のやうに淸らかであつたに〕、声ざまも女のやうに優

しかつたれば、一し〔ほ〕人々のあはれ〔み〕を惹いた

のでござらう。中でもこの国の「いるまん」に「し

めおん」と申したは、「ろおらん」を弟のやうにも

てなし、「えけれしや」の出入りにも、必仲よう

【5】

手を組み合せて居つた。この「しめおん」は、元

さる大名に仕へた、槍一すぢの家がらなもの

ぢや。されば身のたけも拔群なに、性得の剛

力〔であ〕つたに由つて、伴天連が「ぜんちよ」ばらの

石瓦にうたるるを■助け申し〔、防いで進ぜ〕た事も、一度二

度の沙汰ではごさない。それが「ろおらん」と睦

じうするさまは、とんと荒鷲に〔鳩に〕なづむ荒鷲の

やうであつたとも申さうか。或は「ればのん」の

檜に、葡萄(えび)かづらが纏ひついて、花咲いたや

うででもござつた〔あつたとも申〕さうず。

【6】

 さる程〔に〕三年あまりの年月は、流るるやう

にすぎたに〔由〕つて、「ろおらん」はやがて元服も

すべき時節となつた。したがその頃怪しげな

噂が傳〔は〕つたと申すは「えけれしや」から遠か

らぬ町方の鍛冶〔傘張〕の娘が、「ろおらん」と親しうす

ると云ふ事ぢや。この鍛冶〔傘張の翁〕も天主の御教を奉

ずる人故、娘ともども「えけれしや」へは參る慣で

あつたに、御祈(おんいのり)の暇(ひま〔いとま〕)にも〔、〕娘は爐をさ

た「ろおらん」の姿から、眼を離したと申す事

がござない。まして「えけれしや」〔への〕出入り

【7】

は、必髮かたちを美しうして、「ろおらん」のゐ

る方へ眼づかひをするが定(じやう)であつた。されば

〔お〕のづと〔奉〕教人衆の人目にも止り、娘が行き

ずりがかり→ずり〕に「ろおらん」の足を踏んだと云ひ出すも

のもあれば、二人が艷書をとりかはすをしか

と見とどけたと申すものも〔、〕「いるまん」衆の中

出て來たげでござる。

 由つて伴天連にも、すて置かれず思(おぼ)された

のでござらう。或日「ろおらん」を召されて、〔白ひげを嚙みながら、

「その方、 鍛冶〔傘張〕の娘と兎角の噂ある由を聞い

【8】

たが、よも〔や〕まことではあるまい。どうぢや」と

もの優しう尋ねられた。したが「ろおらん」は、

唯憂はしげに頭(かしら)を振つて、「そのやうな事は一

向に存じませやう〔に→も〕ござら→よう筈もござら〕ぬ」と、涙聲に繰返すばかり故、

伴天達もさすがに我を折られて、日頃の信心〔年配と云ひ、〕

と云ひ、日頃〕の信心と云ひ、かうまで申すものに

偽はあるまいと思(おぼ)されたげでござる。

 さて一應伴天連の疑は晴れてぢやが、「えけれしや」へ

參る人々の間では、容易にとかうの沙汰が絶

えさうもござない。されば兄弟同樣にして居

【9】

つた「しめおん」の気がかりは、〔又〕人一倍ぢや。

始はかやうな淫な事を〔、ものものしう〕詮義立てするが、お

のれにも恥しうて、「ろおらん」の顏さへ〔うちつけに尋ねよ〕うは元

より、「ろおらん」の顏さへまともには〔さかとは〕見ら

ぬ程であつたが、或時「えけれしや」の後〔の〕庭

で、「ろおらん」が薔薇〔へ宛て〕た娘の艷書を拾うたに由

つて、〔人〕氣ない部屋にゐたを幸、「ろおらん」の

前にその文をつきつけて、嚇しつ賺しつ、さ

まざまに問ひただ〔い〕た。なれど「ろおらん」は〔唯、〕美

しい顏を赤〔ら〕めたまでで、〔て、〕「娘は私に心を寄せま

【10】

したげでござれど、私は文を貰うたばか〔り〕

、とんと口を利(き)いた事もござらぬ」と申す。

したが〔なれど〕世間のそしりもある事でござれば、「し

めおん」は猶も押して、問ひ詰つたに、「ろおら

ん」はわびしげな眼で、ぢつと相手を見つめた

と思へば、「私〔は〕お主(ぬし)にさへ、譃をつきさう〔な〕

人間に見えるさうな」と、咎めるやうに云ひ

放つて、〔燕(つばくら)のやうに〔その儘〕→とんと燕(つばくら)か何ぞのやうに、その儘〕つと部屋〔を〕出つて行つてしまうた〔。〕

云ふ事ぢや。かう云はれて見れば、「しめおん」も

自分〔己〕の疑深かつたのが恥しうもなつたに

【11】

由つて、悄々(すごすご)その塲を去らうとしたに、いき

なり駈け〔こん〕で來たは、少年の「ろおらん」ぢや。

それが飛びつくやうに「しめおん」の頸を抱いて

くと、喘ぐやうに「私が悪かつた。許して下

されい」と〔、〕囁いて、こなたが一言も答へぬ間(ま)

に、淚に濡れた顏を隱さう為か、一散に元〔相手をつ〕

た方へ一散に〔きのけるやうに〕〔身を開い〕て、一散に又元來た方へ、

走つて往(い)んでしまうたげな〔と申す〕。されば〔そ〕の「私が

悪かつた」と云ふ〔囁いた〕のも、娘とのいたづらを隱し〔密通したの〕

ことが、悪かつたと云ふ〔の〕やら、或は「しめおん」に

【12】

〔つ〕れなうしたのが悪かつたと云ふのやら、〔一〕

んと〔円合〕點の致さ〔う〕やう〔が〕りない〔なかつた〕との事でござ

る。

 するとその後間もなう起つたのは、その〔傘〕

〔張〕の娘が孕(みごも)つたと云ふ騷ぎぢや。しかも腹の

子の父親は、「えけれしや」の「ろおらん」ぢやと、

正しう〔父〕の前で申したげでござる。されば〔傘〕

〔張〕〔の翁〕は火のやうに怒〔憤〕つて、〔早速→即刻〕伴天連のもとへ委細

を訴へに参つた。かうなるから〔上〕は「ろおらん」

も、〔かつふつ〕云ひ譯の致しやう〔が〕ござない。その日の

【13】

中に〔伴天連を始め、「えけれしや」の信徒〔「いるまん」衆〕一同の談合に由つて、

破門を申し渡される事になつた。元より破門

の沙汰がある上は、伴天連の手もと〔を〕も追ひ

拂はれる事でござれば、明日の生計(たつき)〔糊口のよすが〕に〔〕困るの

〔も〕目前 に見えて〔ぢや。〕したがかやうな罪人を、この儘

「えけれしや」に止めて置いては、御主(おんあるじ)の「ぐろ〔お〕り

や」(榮光)にも關る事ゆゑ、日頃親しう致し〔い〕た

人々も、 〔淚〕をのんで「ろおらん」を追ひ拂つた

と申す事でござる。

 その中でも哀れをとゞめたは、兄弟のやう

【14】

にして居つた「しめおん」の身の上ぢや。■■〔これ〕は

「ろおらん」が追ひ出されると云ふ悲しさより

も、「ろおらん」に欺かれたと云ふ腹立〔た〕しさが

一倍故、あのいたいけな少年が、折からの〔凩〕

空に、し〔が吹く中へ、〕しほしほと戸口を出かかつたに、〔傍から〕拳を

ふるうて、したたか〔その〕美しい顏を打つた。「ろお

らん」は〔〕剛力に打〔た〕れたに由つて、思はずそ

こへ倒れたが、やがて起〔き〕あがると、淚ぐん

だ眼で、空を仰ぎながら、『御主も許させ

へ。兄なる「しめおん」は、なす所を知ら れば〔己が仕業もわきまへぬものでござる〕』と、

【15】

わなゝく聲で祈つたげにござる〔と申す事ぢや〕。「しめおん」

もこれには気が挫けたのでござらう。暫くは

唯戸口に立つて、拳を空にふるうて居つた

〔が〕、その外の「いるまん」衆も、いろいろ〔と〕とり

〔い〕たれば、それを機会(しほ)に手を束ねて、嵐〔も〕

吹き出でようづ空のやうに、〔如く、〕凄じく顏を曇ら

せながら、悄(すごすご)「えけれしや」の門(かど)を出〔る〕「ろおら

ん」の後姿を、貪る〔やう〕に見送〔きつ〕と見送つて居つた。

その時居合はせた奉教人衆の話を〔傳へ〕聞けば、

からの〔時しも〕凩にゆらぐ日輪が、うなだれて步む

【16】

はてたなりはてたとの事ぢや。まし〔て步む「ろおらん」の頭のかなた、〕長崎の西の空に

沈まうず景色であつたに由つて、あの少年

のやさしい姿は、とんと〔一天の〕火焔の中に、立〔ち〕き

はまつたやうに見えたと申す。

 ま 〔その〕後の「ろおらん」は、「えけれしや」の内〔陣〕

に香爐をかざした昔とは打つて變つて、町は

づれの非人小屋に起き伏しする、世にも哀れ

な乞食(こつじき)であつた。ましてその前身は、「ぜんち

よ」の輩(ともがら)には穢多(えとり)のやうにさげしまるる、天

主の御教を奉ずるものぢや。されば町を行

【17】

けば、心ない童部に嘲らるるは元より、刀杖

瓦石の難にあはうづ遭うた〕事も、度々(どど)ござるげに聞

き及んだ、いや、嘗つては、長崎の町にはび

こつた、恐しい熱病にとりつかれて、七日

七夜の間、道ばたに伏しまろんでは、〔苦〕み

悶えたと申す事でござる。したが、「でうす」

無量無辺の御愛憐は、その都度「ろおらん」が一

命を救〔はせ〕給うたのみか、施物の米錢のない折

々には、山の木の実、海の魚貝など〔、〕を惠めその〕

給うて〔日の糧(かて)〕を惠ませ給ふのが常であつた。されば〔由つて〕

【18】

「ろおらん」も、朝夕の祈は「えけれしや」に在つた

昔を忘れず、手くびにかけた「こんたつ」も、靑

玉の色を變〔へ〕なかつたと申す事ぢや。いや〔なんの〕、

それのみか、夜毎に闌〔た〕けて人音も靜まる頃

となれば、この少年はひとり〔ひそかに〕町はづれの非人

小屋を脱け出(いだ)いて、月を踏んで住み馴れた「え

けれしや」へ、御主「ぜす・きりしと」の御加護を祈

りまゐらせに詣でて居つた。

 なれど同じ「えけれしや」に詣づる奉教人

も、その頃はとんと、「ろおらん」を疎んじはて

【19】

て、〔伴天連はじめ、〕誰一人憐みをかくるものもござらなん

だ。道理〔ことわり〕かな、破門の折から所行無慚の少年

と思けれ〔ひこん〕で居つたに由つて、何として夜ふけ〔毎に、〕

て、たつた独り「えけれしや」へ参るな〔程の〕、信心があ〔もの〕

らう〔ぢや〕とは知られうぞ。これも「でうす」〔千万無量の〕御計ら

なれば、→の一つ故、〕よしない儀とは申しながら、「ろおらん」

が身にとつて〔は〕、〔まことに〕いみじくも〔亦〕哀れな事でござ

つた。

 さる程に、こなたはあの傘張の娘ぢや。「ろ

おらん」が破門される間もなく、月も滿た

【20】

ず男の子を産み落いたが、さすがにかたくな

〔しい〕父の翁も、初孫の顏は憎からず思うたので

ござらう、娘ともども大切に介抱して、自ら

抱きもしかかへもし、時にはもてあそびの人

形などをとらせたと申す事でござる。〔翁〕は元

よりさもあらうずなれど、ことに稀有なは「い

るまん」の「しめおん」ぢや。あの「じやぼ」(悪魔)をも

挫がうず大男が、娘に子が産まれるや否や、

暇ある毎に傘張の翁を訪れて、かたくなし〔無骨な腕(かひな)に幼〕

子を抱き上げては、にがにがしげな顏に淚を

【21】

浮べて、弟と愛(いつく)しんだ、あえかな「ろおらん」の

優姿(やさすがた)を偲んで〔、〕〔思〕ひ慕つて居つたと申す。

唯、娘のみは、「えけれしや」を出〔で〕てこの方、絶

えて「ろおらん」が姿を見せぬのを、怨めしう歎

きわびた気色であつたれば、「しめおん」の訪れ

るのさへ、何かと快からず思ふげに見えた。

 この国の諺にも、光陰に関守なしと申す通

り、とかうする程に、一年あまりの年月は、

 やうに〔瞬くひまに〕過ぎたと思召されい。ここに思

ひもよらぬ大変が起つたと申すは、長崎の町〔一夜の中〕

【22】

に長崎の町のあらましを〔半ばを〕燒き拂つた、あの

大火事のあつた事ぢや。まことにその折の景

色の凄じさは、末期の御裁判(おんさばき)の喇叭の音が、

〔一天の〕火の光をつんざいて、鳴り渡つたかと思は

れるばかり、世にも身の毛のよだつた〔つ〕もので

あつた。〔ござつ〕た。その時、あの傘張の翁の家は、〔運〕

いにくの〔悪う〕風下だつ〔にあつ〕たに由つて、見る見る焔

に包れたが、さて親子眷族、慌てふため

て、逃げ出(いだ)いて見れば、娘が産んだ女の子の

姿が見えぬと云ふ始末ぢや。一定、一間(ひとま)どこ

【23】

ろに〔寢〕かいて置いたを、忘れてここまで逃

げのびたのであらうず。されば娘〔翁〕は狂気のや〔足ずりを〕

うに〔して〕罵りわめく。娘も亦、人に遮られずば、

火の中へも馳せ入つて、探し〔助け〕出さう氣色に見

えた。なれど風は益〻加はつて、焔の舌は天上

の星をも焦さうずたけ〔吼(たけ)〕りやうぢや。それ故火

を救ひに集つた町方の人々も、唯、あれよあ

れよと立ち騷いで、狂気のやうな娘をとり鎭

めるより外に、せん方も亦あるまじい。所へ

ひとり、多くの人を押しわけて、馳けつけ〔て〕

【24】

参つたは、「しめお〔あの「い〕るまん」の「しめおん」でござ

る。これは矢玉の下もくぐつたげな、逞しい

大丈夫でござれば、ありやうを見るより早

く、火の中火〔勇んで〕焔の中へ向うたが、あまりの火勢

に辟易致いたのでござらう。二三度煙をくぐ

つたと見る間に、背(そびら)をめぐらして、〔一散に〕逃げ出(いだ)い

た。して翁〔と〕娘と〔が〕佇んだ前へ來て、『これも

「でうす」万事にかなはせたもう〔まふ〕御計らひの一つ

ぢや。つつりと〔詮ない事と〕あきら〔めら〕れい』と申す。その時

翁の傍から、誰とも知らず、髙らかに「御主、

【25】

助け給へ」と叫ぶものがござつた。声ざまに聞

き覺えもござれば、「しめおん」忙しう〔〔首(かうべ)→頭(かうべ)〕をめぐらして〕、そ

の声の主をきつと見れば、如何〔いか〕な事、これは

紛ひもない「ろおらん」ぢや。淸らかに瘦せ細つ

た顏は、火の光に赤うかがやいて、風に乱れ

る黑髮も、肩に余るげに思うけ〔思はれ〕たが、哀れに

も美しい眉目のかたちは、一目見てそれと知

〔られ〕た。その「ろおらん」が、乞食の姿のまま、群

る人々の前に立つて、目もはなたず燃え

〔さか〕る家を眺めて居(を)る。と思〔う〕たのは、まことに

【26】

瞬く間〔もない程〕ぢや。一しきり焔を煽つて、恐しい風

が吹き渡つたと見れば、「ろおらん」の姿はまつ

しぐらに、早くも火の柱、火の壁、火の梁(うつばり)の

〔に〕はひつて居つた。「しめおん」は思はず遍身

に汗を流いて、空髙く十字「くるす」(十字)を描

きながら、〔己も〕「御主、助け給へ」と叫んだが、何故か

その時心の眼には、凩に落ちる日輪の光を浴

びて、「えけれしや」の門に立ちきはまつた、美

く悲しげな、「ろおらん」の姿が浮んだと

申す。

【27】

 なれどあたりに居つた奉教人衆は、「ろおら

ん」が健気な振舞に驚きながらも、破戒の昔を

忘れかねたので〔も〕ござらう。人どよめきの〔忽〕〔兎角の批判は〕風

〔に〕乘つて、人どよめ〔き〕の上を渡つて參つた。と

申すは、『さすが親子の情〔あ〕ひは爭はれぬもの

と見えた。己が身の罪を恥ぢて、このあたり

へは影も見せなんだ「ろおらん」が、今こそ一

人子の命を救はうとて、火の中へいつたぞ

よ』と、誰と〔も〕なく罵りかはしたのでござる。こ

れには翁さへ同心と覺えて、「ろおらん」の〔姿を〕眺め

【28】

てからは、心の騷ぐ怪しい心の騷ぎを隱さう

ず為か、立ちつ居つ身を悶えて、何やら愚

しい事のみを、声髙に〔ひと〕りわめいて居つ

た。ところがひとり〔なれど当の娘〕ばかりは、狂ほしく大地に

跪いて、両の手で顏をうづめながら、一心不

乱に声をしぼつて、〔祈誓を凝らして〕、身動きをする気色さへ

もござない。その空には火の粉も〔が〕、雨のやう

に降りかかる。煙も地を掃つて、面(おもて)を打つた。

したが、娘は默然と頭(かうべ)を垂れて、身も世も忘れ

た祈り三昧ぢや。

【29】

 とかうする程〔に〕、再火の前に群つた人々が、

一度にどつとどよめくかと見れば、髮をふ

り乱いた「ろおらん」が、もろ手に幼子をかい抱

いて、乱れとぶ焔の中から、天くだるやうに

姿を現〔い〕た。なれどその時、燃え盡きた梁(うつばり)の

一つが、俄に半ばから折れたのでござらう。

凄じい音と共に、一なだれの煙焔が半空(なかぞら)に迸

つたと思ふ間もなく、「ろおらん」の姿ははたと

見えずなつて、跡には唯火の柱が、珊瑚の如

くそば立つたばかりでござる。 

【30】

 あまりの凶事に心〔も〕消えて、〔「しめおん」〕をはじめ→翁〕

まで、居あはせた程の奉教人衆は、皆目の眩

む思ひがござつた。中にも娘はけたたましう

泣き叫んで、一度は〔脛〕もあらはに躍り■立つ〔立つた〕

が、やがて雷(いかづち)に打たれた人かと見えて〔のやうに〕、そ

〔まま〕大地にひれふしたと申す。さもあらばあ

れ、ひれふした娘の手には、何時かあの幼い

女の子が、半ば〔生死〕不定の姿ながら、ひしと抱か

れて居つたをいかにしようぞ。ああ、廣大無

邊なる「でうす」の御知慧、御力は、何とたたへ

【31】

奉る〔〔言(ことば)→詞(ことば)〕だに〕ござない。燃え崩れる梁(うつばり)に打たれなが

ら、「ろおらん」が必死の力をしぼつて、こなた

へ投げた幼子は、折よく娘の足もとへ、怪我

もなくまろび落ちたのでござる。

 されば娘が大地にひれ伏して、嬉し淚

に咽〔んだ〕声と共に、もろ手をさしあげて立つ

た翁の口から〔は〕、「でうす」の御慈悲をほめ奉る声

が、自らおごそかに溢れて參つた。いや、〔まさに〕溢

れようづけはひであつ〔た〕とも申さうか。それ

より先に「しめおん」は、さかまく火の嵐の

【32】

へ、「ろおらん」を救はうづ一念から、真一文字

に躍りこんだに由つて、翁の声は再気づか

はしげな、いたましい祈りの言(ことば)となつて、夜

空に髙くあがつたのでござる。これは元より

翁のみではござない。その親子を圍んだ奉教

人衆は、皆一同に声を揃へて、「御主、助

け給へ」と、泣く泣く祈りを捧げたのぢや。し

て「びるぜん・まりや」の御子、なべての人の苦し

みと悲しみとを己(おの)がものの如くに見そな

す、われらが御主「ぜす・きりしと」は、遂にこの

【33】

祈りを聞き入れ給うた。見られい。むごたら

しう燒けただれた「ろおらん」は、「しめおん」が腕(かひな)

に抱かれて、早くも奉教人衆の〔火と煙との〕ただ中に、〔から、〕救

ひ出されて参つたではないか。

 なれどその夜の大変は、これのみではござ

なんだ。息も絶え絶えな「ろおらん」が、〔とりあへず〕奉教人

衆の手に舁かれて、稍離れ〔風上にあつ〕た町の廣塲辻〔あの「えけれしや」の門へ〕橫へられた時の事ぢや。それまで幼子を胸〔に〕抱

きしめて、淚にくれてゐた傘張の娘は、折か

「えけれしや」門へ出(い)でられた伴天連の〔足もと〕に跪

【34】

くと、並み居る人々の目前で、『この女子(おなご)は「ろ

おらん」樣の種ではござな〔おじや〕らぬ。まことは〔妾(わらは)が〕

なみ隣の家隣(いへどなり)の「ぜんちよ」の子との間に、妾と→密通して、〕設〔まう〕

けた娘で〔お〕じやるわいの』と、思ひもよらぬ「こ

ひさん」(懴悔)を申し出〔仕つ〕た。その思ひつめた声

ざまの震へと申し、その泣きぬれはらいた→ぬれ〕た〔双の〕眼(まなこ)のかがやきと申し、露ばかりも偽を〔この「こひさん」に〕は、露ばかりの

僞さへ、あらうとは思はれ申さぬ。道理か

な、肩を並べた奉教人衆は、天を焦がす猛火

も忘れて、息さへつかぬやうに声を呑んだ。

【35】

 娘〔が〕泣く泣く〔淚ををさめて〕、言(ことば)で申し次いだは、『妾は日

頃「ろおらん」樣を恋ひ慕うて居つたなれど、御

信心の堅固さからあまりにつれなくもてなさ

れる故、つい怨む心も出て、腹の子を「ろおら

ん」樣の種と申し偽り、妾につらかつた口惜し

さを思ひ知らさうと致いたのでお〔じ〕やる。な

れど「ろおらん」樣の御心の気高さは、妾が大罪

をも憎ませ給はいで、今宵は御身の危さをも

うち忘れ、「いんへる」(地獄)にもましてした火焔

の中から、妾娘の一命を辱くも救はせ〔給〕うた。

【36】

その御憐み、御計らひ、まことに御主「ぜす・き

りしと」の再來かとも申し■■→お〕がまれ申す。さるに

ても妾が重々の極悪を思へば、この五体は忽

「ぢやぼ」の爪にかかつて、寸々に裂かれようと

も、中々怨む所はおじやるまい。』娘は「こひさ

さん」を致いも果てず、大地に身を投げて泣き

伏した。

 ああ、〔二重(へ)三重(へ)に〕群〔つた〕奉教人衆の間から、「まるちり」(殉

教)ぢや、「まるちり」ぢやと云ふ声が〔、波のやうに〕起つたの

は、丁度この時の事でござる。「ろおらん」は

【37】

勝にも「ろおらん」は、罪人を憐む心から、御主

「ぜす・きりしと」の御行跡を踏んで、乞食にまで

身を落〔い〕た。して父とこの〔仰ぐ〕伴天連も、兄と

たのむ「しめおん」も、皆そ〔の心〕を知らなんだ。こ

れが「まるちり」でなうて、何でござらう。

 したが、當の「ろおらん」は、娘の「こひさん」を

聞きながらも、僅に二三度頷いて見せたばか

り、髮は燒け肌は焦げて、手も足も動か〔ぬ〕上

に、口をきかう気色さへも今は全く盡き〔たげ〕でござる。

娘の「こひさん」に胸を破つた翁と「しめおん」とは、その枕が

【38】

みに蹲つて、何くれ〔か〕と介抱〔を〕致〔い〕て〔置〕つたが、

「ろおらん」の息は、刻々に細〔短〕うなるばかりでご〔つて、最期も〕

ざる。〔もは〕や遠くはあるまじい。唯、眼のみは〔日頃と変〕らぬ

のは、遙に天上を仰いで居る、星のやうな

瞳〔の色〕ばかりぢや。

 〔やがて〕娘の「こひさん」を聞き■終〔ると→■〕〔に耳をすまされ〕た伴天連は、

やがて〔吹き荒ぶ〕夜風に白ひげをなびかせながら、「えけ

れしや」の門を後にして、おごそかに申された

は、「人を判裁判くもの『悔い改むるものは、幸

ぢや。何しにその幸なものを、人間の手に罰

【39】

しようぞ。これより益、「でうす」の御戒を身に

しめて、心靜に末期の御裁判の日を待つたが

よい。又「ろおらん」がわが身の行儀を〔、〕御主

ぜす・きりしと」とひとしく奉らんと嘆く人〔うづ志は、

〔こ〕の国の奉教人衆の中にあつて〔も〕、類(たぐひ)まれ〔稀〕なる

德行ぢや〔でござる〕。別して少年の身とは云ひ――』あ

あ、これは〔又〕何とした事でござらうぞ。ここま

で申された伴天連は、俄にはたと口を噤

で、あたかも「はらいそ」の光を望んだ〔やう〕に、

ぢつと足もとの「ろおらん」の姿を見守られた。

【40】

その恭しげな容子は、どうぢや。その両の手

のふるへ〕ざまも、尋常の事ではござるまい。

おう、伴天連の〔からびた〕頰の上には、とめどなく淚

が溢れ流れるぞよ。

 見られい。「しめおん」〔。〕見られい。傘張の

翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、

光を一身に浴びて、声もなく橫はつ〔「えけれ〕

た、■〔しや」〕の門に橫はつた、いみじくも美しい少年

の胸には、焦げ破れた衣のひまから、ふく〔清〕

らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居る

【41】

ではないか。されば〔今は〕燒けただれた面輪(おもわ)にも、

自らなやさしさは、隱れようすべ〔も〕ござない〔あるまじ〕

い。おう、「ろおらん」は女ぢや。「ろおらん」は女

ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやう

に佇んでゐる奉教人衆、ろおらん邪淫の戒を

破つたに由つて 「えけれしや」を逐はれた「ろお

らん」は 傘張の娘のやうな〔と同じ〕、 気髙くつつましく→眼なざしの〕あでや

かなこの国の女ぢや。

 まことにその刹那の尊い恐しさは、あたか

も「でうす」の御声が、星の光も見えぬ遠い空か

【42】

ら、傳はつて來るやうであつたと申す。〔されば〕「えけ

れしや」の前に居並んだ奉教人衆は、風に吹か

れる穗麥のやうに、誰からともなく頭を垂れ

て、悉「ろおらん」のまはりに跪いた。その中で

聞えるものは、唯、空をどよもして燃えしき

る、万丈の焔の響ばかりでござる。いや、誰

やらの啜り泣く声も聞えたが、それは傘張の

娘でござらうか。或は又自ら兄とも思うた、

あの「いるまん」の「しめおん」でござらうか。やが

てその寂寞(じやくまく)たるあたりをふるはせて、「ろおら

【43】

ん」の上に髙く手をかざしながら、伴天連の御(おん)

経(きやう)を誦せられる声が、おごそかに悲しく耳に

はひつた。してその御経の声がやんだ時、「ろ

おらん」と呼ばれた、この国のうら若い女は、

まだ暗い夜のあなたに、「はらいそ」の「ぐろおり

や」を仰ぎ見て、安らかなほゝ笑みを唇に止め

たまま、靜に息が絶えたのでござる。‥‥‥‥

 その女の一生は、この外に何一つ、知られ

なんだ申う〔げに〕聞き及んだ。したが〔なれど〕それが、何〔事〕で

ござらうぞ。なべて人の世〔の尊さ〕は、百年も一刻刹那の尊さ

【44】

何ものにも換え難い、刹那の感動に極るもの

ぢや。暗夜(やみよ)の海にも譬へようづ煩惱心の空に

一波をあげて、未出ぬ月の光を、水沫(みなわ→みなは)の中

に捕へてこそ、生きて甲斐ある命とも申さ

うづ。されば「ろおらん」が最期を知るものは、

「ろおらん」の一生を知るものでござる。ござるまいか。はござ

はござるまいか。

     二

 予が所藏に関る、長崎耶蘇會出版の一

書、題して「れげんだ・おれあ」と云ふ。

【45】

蓋し、 LEGENDA AUREA の意なり。され

ど内容は必しも、西歐の所謂「黃金傳説」ならず。

彼土の使徒聖人が言行を録すると共に、併せ

て本邦西教徒が勇猛精進の事蹟をも採録し、

以て、福音傳道の一助たらしめ〔んとせし〕ものの如し。

 体裁は上下二巻にして、美濃紙摺草体交り

平假名文にして、印刷甚しく鮮明を缺き、活

字なりや否やを明にせず。上巻の扉には、羅

〔甸〕字にて書名を橫書し、その下に漢字にて「御

出世以來千五百九十→六〕年、慶長→元〕年三月上旬

【46】

鏤刻」■也」の二行を縱書す。年代の左右には喇叭

を吹ける天使の畫像あり。技巧頗幼稚なれど

も、亦掬す可き趣致なしとせず。下巻も扉に

「五月中旬鏤刻也」の句あるを除いては、全く上

巻と異同なし。

 兩巻とも紙數は約六十頁にして、載する所

の黃金傳説は、上巻八章、下巻十章を數ふ。

その他各巻の巻首に著者不明の序文及羅甸字

を加へたる目次あり。序文は文章雅馴なら

ずして、間々欧文を直訳せる如き語法を交

【47】

へ、一見その伴天連たる西人の手になりしや

を疑はしむ。

 以上採録したる「奉教人の死」は、該「れげんだ・

おうれあ」下巻第二章に依るものにしてなり。→にして〕、恐ら

くは当時長崎の一〔西教〕寺院に起りし、事実を〔の〕、比較

的忠実なる記録〔事実の忠実なる〕記録ならんるべしと信ず。→ならんか。〕但、〔記〕

〔事〕中の大火〔なるもの〕は、「長崎港草」以下諸書に徴するも、

その年代〔有無〕を〔すら〕明にせざるを以て、事実の正確

なる年代〔に至つて〕は、全くこれを〔決〕定するを得ず。

 予は「奉教人の死」に於て、発表の必要上、多

【48】

少の筆〔文〕飾を敢てしたり。もし原文の素朴尚古〔平易雅馴〕

なる筆致にして、甚しく毀損せらるる事ある〔な〕

〔か〕らんか、予の幸甚とする所なりと云爾。

            (七・八・十二)

 

 

          芥 川 龍 之 介

2016/06/25

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 牛蝨

Usijirami

うしのしらみ

牛蝨

ニウ スエツ

 

按牛虱與螕畧似而不同也形狀似陰虱而大也遺卵

 遍身無所不至故毛悉1脱不可療急用草烏頭汁或

[やぶちゃん注:「1」=「亢」-(頂点の第一画)。]

 烟草汁頻注之可愈

たつのしらみ

龍蝨

[やぶちゃん注:以下は、底本では「龍蝨」の下に一字下げで二行で入る。]

 三才圖會云有龍虱似2蜋而小黒色兩翅

[やぶちゃん注:「2」=「虫」+「倉」。]

   六足秋月暴風起從海上飛來落水靣或池塘

 

 

うしのしらみ

牛蝨

ニウ スエツ

 

按ずるに、牛虱と螕〔(だに)とは〕畧〔(ほぼ)〕似而て同じからず。形狀、陰虱〔(つびじらみ)〕に似て、大なり。卵を遺して、遍身、至らざる所無し。故に、毛、悉く1〔(は)〕げ脱(ぬ)けて、療すべからず。急に草烏頭(とりかぶと)の汁、或いは烟草の汁を用ひて頻りに之れを注ぐ。愈〔(い)〕ゆべし。

[やぶちゃん注:「1」=「亢」-(頂点の第一画)。]

 

たつのしらみ

龍蝨 「三才圖會」云ふ、『龍の虱、有り。「2蜋〔(さうらう)〕」に似て小さく、黒色。兩の翅。六足。秋月に暴風(はやて)起(た)つとき、海上より飛來、水靣或いは池塘に落つ。』〔と。〕

[やぶちゃん注:「2」=「虫」+「倉」。]

 

[やぶちゃん注:私はこの「牛蝨」とは非常に高い確率で、シラミでもダニでもない、先の狗蠅の注で示したウマ・ウシ・イヌ・ウサギに寄生する、

双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目シラミバエ上科シラミバエ科 Hippoboscidae Hippoboscinae亜科Hippobosca属ウマシラミバエHippobosca equina

ではないかと思われる。そこでも述べた通り、かなり強烈なのでリンクは控えるが、画像検索で見ると、彼等は寄生生活に特化しているため、体がダニかシラミのような扁平な(しかし成虫は翅があって確かに蠅)形状に変化していて、それが牛の頸部などにおぞましいほどびっしりと吸着している状態を現認出来たからである。いや、もの凄い、わ。

 

・「草烏頭(とりかぶと)」前項にも出たが、今回は三文字に分かり易い現在の和名と同じものをルビする(底本のそれはカタカナだからより和名っぽい)。モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitumの塊根を乾燥させたもので、狂言の「附子(ぶす)」(但し、生薬名では「ぶし」、毒物として使う際に「ぶす」と呼んだ)で知られる強毒性漢方薬。

・「愈〔(い)〕ゆべし」「愈」は「癒」と通じ、同義がある。

・「1〔(は)〕げ脱(ぬ)けて」(「1」=「亢」-(頂点の第一画)「禿」と同字らしい。

・「龍蝨」中文ウィキで一瞬にして氷解! 昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目食肉(オサムシ)亜目オサムシ上科 Caraboidea の数科に跨る水生昆虫ゲンゴロウ(源五郎)類のことだ(正統に和名として名にし負うのは、ゲンゴロウ科ゲンゴロウ亜科 Cybistrini 族ゲンゴロウ属ゲンゴロウ(オオゲンゴロウ)Cybister japonicus であるが、絶滅危惧類(VU)。大きな個体は四センチメートルを越える)。確かに! 「水」を掌る巨大爬虫類の龍につくシラミなら水棲で、しかもこれっくらいデッカくなくっちゃ、ね!

・『「三才圖會」云ふ』中文サイトの「三才圖會」の全文検索でいろいろやってみたが、見当たらない。良安先生、これ、本当に「三才図会」からの引用ですか?

・「2蜋〔(さうらう)〕」(「2」=「虫」+「倉」)陸生甲虫類の一種を指していることは分かる。

・「水靣」水面。東洋文庫版現代語訳は「水面」とし、「面」にママ注記を附し、割注で『田』としている。他の箇所には見られない妙な拘りが訳に感じられて面白い。

・「池塘」小さな池や沼。]

眼から鱗ならぬ頭から頸

「奉教人の死」自筆原稿への注附けを続行中――

遂に永年の咽喉に刺さった骨――疑問の箇所の不審――が抜けた!

多分、岩波新全集(私は新字採用のあれを決定版と認めないので三冊しか所持しない)ではとっくに直っているのであろうが、それを私は、今回、芥川龍之介の自筆原稿とのみ、にらめっこして、オリジナルに、遂に解明し得たのであった。

これは今回のこの作業の最大の喜びである。

ありがとう! 文春! じゃねえや、国立国会図書館!

自筆原稿復元版と注(別立て)の公開は明日のサイト「鬼火」開設十周年を予定している。乞う、御期待!

2016/06/24

未明の覚醒

実は昨日、「奉教人の死」自筆原稿の復元作業は終えた。
 
しかし、今日の未明二時過ぎに眼が覚めたとたんに、それに無性に注を附けたくなって、やおら、起き出して始めてしまった。
 
そもそも「奉教人の死」は僕の教師生活最晩年の朗読のキモだったのだ。
 
結局、翠嵐で三度やったきりであったが、僕は無性に、この朗読が好きだ。
 
朗読するうちに涙が出て来るのだ。
 
未明の「覚醒」は何だったのか?……
 
――「奉教人の死」――これは実は漱石の「こゝろ」に並ぶ、僕の秘かなライフ・ワークだったことに気づいたのだった……

2016/06/23

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 陰蝨

Tubijirami

つびしらみ

陰蝨

インスエツ

 

本綱今人陰毛中多生陰蝨痒不可當肉中挑出皆八足

而扁或白或紅古方不載醫以銀杏擦之或銀朱熏之皆

愈也

按陰蝨即陰汁濕熱氣化而生復有傳染之者噉入皮

 毛間而色與膚相同故不可見其痒也不常不速治則

 緣上腋下及眉毛遺卵急剃去陰毛用熱醋傅之草烏

 頭汁塗亦可也醫學入門方搗桃仁泥塗之

 

 

つびしらみ

陰蝨

インスエツ

 

「本綱」、今の人、陰毛の中に多く陰蝨を生ず。痒さ、當〔(た)ふ〕るべからず。肉中より挑〔(は)ね〕出せば、皆、八足にして扁たく、或いは白く、或いは紅なり。古方に醫を載せず。銀杏を以て之れを擦(す)り、或いは銀朱、之を熏ず。皆、愈ゆ。

按ずるに、陰蝨は、即ち陰汁の濕熱の氣化して生じ、復た、之れを傳染(うつ)る者、有り。皮毛の間に噉〔(く)ひ〕入りて、色、膚(はだへ)と相ひ同じき。故、見るべからず。其の痒さや、常ならず、速かに治せざれば、則ち、緣(は)い上(あ)がり、腋の下及び眉の毛に卵を遺す。急に陰毛を剃(そ)り去つて、熱〔き〕醋〔(す)〕を用ひて之れに傅〔(つ)〕け、草烏頭(うず)の汁を塗(ぬ)るも亦、可〔(よ)〕し。「醫學入門」の方に、桃仁〔(たうにん)〕を搗き、泥にて之れを塗るとあり。

 

[やぶちゃん注:「つび」とは、一般には女性生殖器及びその周縁部を含む陰部(陰門・玉門)を差す古語であるが、時には男性のそれにも用いた。ここもその広義の用法で、他にも「陰虱」「鳶虱」(「つび」を「とび」と誤認したか或いは訛りか)などとも書き、ほぼヒトの陰部に特異的に寄生する、

昆虫綱咀顎目シラミ亜目ケジラミ科ケジラミ属ケジラミ Pthirus pubis

のことを指す。ウィキの「ケジラミ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『形は左右に幅広く、カニにも似て』おり、ヒトの『陰部を生息域とする』。前項に出た同じくヒトに特異的に寄生吸血するヒトジラミ科 Pediculidaeの亜種アタマジラミ Pediculus humanus humanus と、同じく亜種コロモジラミ Pediculus humanus corporisとは科のタクサで異にし(ケジラミ科 Ptheridae)、『外形も遙かに横幅が広く、左右に張った歩脚に爪がよく発達しており、カニに似て見える。英名も Crab louse と言うが、他にPubic louse(陰部のシラミ)も使われる』。『寄生部位は陰毛の生えている部分にほぼ限定され、発達した爪で陰毛をしっかり掴んであまり移動はしない。他者への感染は、性行為の際に行われる。吸血性であり、噛まれると大変に痒い』。但し、前二種とは異なり、『病原体を運ぶといった、これ以上の害を及ぼすことは知られていない』。『体長は一・五~二ミリメートルまで、全体に淡褐色で半透明。これはヒトジラミより一回り小さい。体型としては胸部で幅広く、また歩脚を左右に張り出しているので横幅が広くなっている』。『頭部は小さくて先端は丸くなっており、成虫では触角は五節、その基部後方に一対の眼がある。胸部は前・中・後の三節が融合しており、中央部でもっとも幅広い。三対の歩脚のうち中・後脚が太く大きく発達する。三脚とも先端の附節の先端が尖って腹部側に大きく曲がり、鎌状になっている。特に中・後脚ではこれと向かい合う位置で脛節の基部に突起を生じ、この間に毛を挟み込むことで強力に把握することが出来るようになっている。腹部前方の第一節から第四節までは互いに癒合し、この部分は胸部とも癒合している。後半部の五~八節では、縁から円錐形の突起が出て、その上に数本の毛がある』。『卵長楕円形では陰毛に透明な膠状物質で貼り付けられるが、先端部に蓋があり、ここに気孔突起が十~十六個ある。この部分はヒトジラミのそれより大きくて突出している』。『幼虫から成虫まで、全て陰部で生活する。中・後脚の爪で強固に陰毛を掴み、あまり移動せず、口器を皮膚に付けて吸血する。運動は緩慢で、移動はごくゆっくりと行われる。卵も陰毛の、特に付け根付近にくっつけて産卵される。他者への感染は性行為の際に行われる』。『感染部位については陰毛以外に臑毛、胸毛、眉毛、睫毛、時に頭髪から発見された例も知られている。なお、女性では頭髪などに発生することが比較的多い。これについて、ケジラミが陰毛を住処とするのがアポクリン腺があるからとの説があったが、これを否定するものである。また、女性の髪に発生が見られるのが比較的最近に多いとのことから、性行為の方法が変化したためではないかとの観測がある』。『成虫は体温付近では九~十四時間の絶食に耐え』、摂氏十五度では『二十四~四十四時間ほど耐えられる。移動能力としては一日で最大十センチメートルという記録があり、また絶食に関してもヒトジラミよりかなり弱く、人から離れるとより早く餓死する』。『卵の期間は約七日、一齢幼虫は五日、二齢が四日、三齢が五日、その後』、『成虫になる。雌成虫は一日に数個を産卵し、生涯では四十個ほどを産卵する。成虫の寿命は二十日ほどで、世代期間はヒトジラミより短い』。『吸血されると強い痒みを生じる。特にあまり移動せずに同じ場所から繰り返し吸血するため、その痒みが強烈に感じられる。痒みのために掻いて傷を付け、そこから二次感染症を起こす例はあるが、病原体を運ぶ、いわゆるベクターとして働くことは知られていない』。但し、『ケジラミを移されるような人は淋病など他の性感染症に感染することも多いとの声もある』。『医学的にはケジラミの寄生とそれによる症状を指してケジラミ症と呼び、性感染症の一つと認める』。但し、『これが性感染症であるとの認識は普及しておらず、その分野の教科書等でも取り上げられることは少ない。これはその症例が主要な性感染症に比べて少なく、また、その予後が悪くないことが原因であろうとの声がある』。『本種の被害については精確な調査は行われていない』。但し、『数は少ないものの現在でも発生が知られ、わずかながら増加しているともいう』。『寄生箇所が陰部であるため、その被害が明らかにされることが少ない。ただ、一九七一年頃より増加に転じ、一九七八年からは増加が早くなったとの報告がある。成人男女間で発生し、家庭内感染もあると』される。『具体的な数として、オーストラリアでは性感染症の一~二%を占めるという。また、例えば東京女子医科大学の皮膚科において、一九八三年の報告では過去十年間の初診患者五万人、そのうち』、『性感染症患者は四百人で、このうちケジラミ症は七件あったという』。「逸話」の項の記載が面白い。『北杜夫はその著作「どくとるマンボウ昆虫記」に『変ちくりんな虫』という章を設け、その真打ちとして本種について触れている。この虫を『世の古き人には周知のことだが、世のいとけなき人は仰天してしまうムシ』と記し、文語調で若い頃にこれに感染したこと、その姿が『微細なる蟹に似し』『すさまじげなる気配漂ひ』と述べ、感染が主として『いかがはしきまじはり』によると文献にあることに触れて『世に例外なき法則』はないと述べている』とある。

 

・「痒さ、當〔(た)ふ〕るべからず」この「當」の訓読は力技である。実際にはこの字には「任(た)ふる」(務める)の意はあるが、「耐ふ」(耐える)の意はない。

・「八足」ケジラミの歩脚は三対であるから、頭部に有意に突き出る触角を余分に数えたものであろう。

・「古方に醫を載せず」古い医学書には駆除法や治療法を載せない。

・「銀朱」赤色顔料の「朱」のこと。水銀を焼いて作り、主に朱墨(しゅずみ)として使用する。

・「陰汁の濕熱の氣化して生じ」また変なことを言っている。卵生なのに湿気からも生ずるというのである。また先のウィキの記載からも、「陰汁の濕熱」即ち、陰部臭や腋臭のもととなるアポクリン腺(apocrine gland)にケジラミが誘引されるという見解も今は疑わしい。

・「之れを傳染(うつ)る者、有り」性感染症の観点からこれは頗る正しい。私の偏愛する「病草紙(やまいのそうし)」(平安末期から鎌倉初期に描かれた人の疾患を描いた絵巻物)には陰虱(つびじらみ)を染された男が、陰部を丸出しにして仕方なく毛を剃っており、女(この女が一夜を共にしたところの感染源であろう)が背後で笑いながら見ている図が出るから、この感染形態は非常に古くから認知されていたことがよぅく判る。

・「速かに治せざれば、則ち、緣(は)い上(あ)がり、腋の下及び眉の毛に卵を遺す」これは現行の生態からも首肯出来る、正しい記載と言える。

・「醋〔(す)〕」「酢」に同じい。

・「草烏頭(うず)」ルビは「烏頭」にのみ附されている。有毒植物の一つとして知られる、モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitumの塊根を乾燥させたもので、狂言の「附子(ぶす)」(但し、生薬名では「ぶし」、毒物として使う際に「ぶす」と呼んだ)で知られる漢方薬(但し、強毒性)である。

・「醫學入門」明の李梃(りてい)撰の医学書。全七巻・首一巻。参照した東洋文庫版の書名注に、『古今の医学を統合し、医学知識全般について述べた書』とある。ネット検索では一五七五年刊とする。

・「桃仁〔(たうにん)〕」バラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica及びスモモ亜属Amygdalus Prunus節ノモモ(野桃)Prunus davidiana の成熟した種子を乾燥した漢方薬。]

感動!!! 「奉教人の死」自筆原稿!!!

作業中の「奉教人の死」自筆原稿復元版のクライマックス!――





 見られい。「しめおん」〔。〕見られい。傘張の

翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、

光を一身に浴びて、声もなく橫はつ〔「えけれ〕

た、■〔しや」〕の門に橫はつた、いみじくも美しい少年

の胸には、焦げ破れた衣のひまから、ふく〔清〕

らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居る

 

ではないか。されば〔今は〕燒けただれた面輪(おもわ)にも、

自らなやさしさは、隱れようすべ〔も〕ござない〔あるまじい〕。おう、「ろおらん」は女ぢや。「ろおらん」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやう

に佇んでゐる奉教人衆、ろおらん邪淫の戒を

破つたに由つて 「えけれしや」を逐はれた「ろお

らん」は 傘張の娘のやうな〔と同じ〕、 気髙くつつましく→眼なざしの〕あでや

かなこの国の女ぢや。



ここは現行では前の文章からだらだら続いていて、

   *

見られい。「しめおん」。見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、聲もなく「さんた・るちや」の門に横はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、淸らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。

   *

ところが、芥川龍之介の自筆原稿ではここでちゃんと改行されており(現在は改行がない。ここは誰がどう考えても改行すべきところだろ!)、しかも――

「淸らかな二つの乳房」

は抹消改稿前は、

「ふくらかな二つの乳房」

と判読出来た!!! デジャ・ヴュだ!!! 涙が出た!!!

現在進行中

現在進行中の芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)の冒頭注をちょっと紹介する――

芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認した。これは朱の校正記号が入った決定稿であり、岩波旧全集の「後記」の初出についての異同記載とよく一致することから、大正七(一九一八)年九月一日発行『三田文学』初出版の原稿と考えてよく、旧全集が引用する過去の普及版全集の「月報」第四号所収の「第二卷校正覺書」に『南部修太郎氏所藏の「奉教人の死」の原稿を拜借させていただけましたので、大いに參考えになりました。』とある『南部修太郎氏所藏の「奉教人の死」の原稿』と同一のものではないかと推定される。なお、旧全集後記は初出との校合は行っているが、この決定稿との校合をしているわけではない

 私は既に、

岩波旧全集版準拠   「奉教人の死」

作品集『傀儡師』版準拠「奉教人の死」(上記との私の校異注記を附記)

及び、芥川龍之介が典拠とした(龍之介は実は、『『奉教人の死』の方は、日本の聖教徒の逸事を仕組んだものであるが、全然自分の想像の作品である』と明言し、『『奉教人の死』を發表した時には面白い話があつた。あれを發表したところ、隨分いろいろな批評をかいた手紙が舞ひ込んで來た。中には、その種本にした、切支丹宗徒の手になつた、ほんものゝ原本を藏してゐると感違ひをした人が、五百圓の手附金を送つて、買入れ方を申込んだ人があつた。氣毒でもあつたが可笑しくもあつた』などと書き(「風變りな作品二點に就て」(大正一五(一九二六)年一月『文章往來』)。リンク先も私の電子テクスト)、書簡(昭和二(一九二七)年二月二十六日附秦豐吉宛書簡(岩波旧全集書簡番号一五七七)の二伸では『日本版「れげんだ・あうれあ」は今から七八年前に出てゐる。但し僕の頭でね、一笑』などと平然と嘘をついているが)、

斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」

を電子化している。

 復元に際しては、当該原稿用紙の一行字数二十字に合わせて基本、改行とした。但し、芥川龍之介は鈎括弧を一マスに書かずにマスの角に打つ癖があり、また以下に示す通り、抹消と書き換えを再現しているため、結果、実際の復元テキストでは一行字数は一定しない。

 原稿用紙改頁(一行字数二十字十行・左方罫外下部に『十ノ廿 松屋製』とある)を一行空けで示した。

 ルビはブログ版では( )同ポイントで示した。これによって当時の芥川龍之介が原稿にどれほどのルビを振っていたかがよく判る。実はそれ以外の殆どのルビは校正工が自分勝手に振っていたのである。これはあまりよく知られているとは思われないので、特に明記しておく。最初の全集編集の際、堀辰雄が原則、ルビなしとするべきだと主張した(結局、通らなかった)のはそうした当時の出版事情があったからである。

 抹消は抹消線で示し、脇への書き換え及び吹き出し等によるマス外からの挿入は〔 〕で示した。

 判読不能字(龍之介の抹消は一字の場合にはぐるぐると執拗に潰すことが多いために判読が出来ないものが多い)は「」で示した。

 朱で入っている校正記号は原則、無視した。

 漢字は龍之介が使用しているものに近いものを選んだので略字と正字が混在している。判断に迷った字は正字で示した。

 なお、現行との重大な異同点は主人公「ろおれんぞ」が一貫して「ろおらん」である点で、これは読んでいて相当に印象が異なる。他にも、現行では『「さんた・るちや」と申す「えけれしや」』という教会の固有名がなく、一貫して教会の一般名詞「えけれしや」で通されている点、主人公に懸想する娘の当初の設定を鍛冶屋としていたことが抹消・書き換えで判明する。また、龍之介が仮想的に再現しようとした当時の独特の語り口の表現に、かなり苦労している様子が抹消や書き換え・挿入ではよく伝わってくるように私には思われる。この私の原稿復元版はそうした箇所を見るだけでもかなり興味深いものと思う。]

2016/06/22

ヤバシヴィッチ!

やばい!……国立国会図書館デジタルコレクションの画像にとんでもないものを見つけてしまった!……芥川龍之介の「奉教人の死」の自筆原稿(全)だ!……ほんとにヤバイ!……これは無視していられない!……
 
 
やっぱ! ヤバシヴィッチや!! これ! 冒頭から現行のものとちゃうでえ!!! 主人公は「ろうれんぞ」でない!! 「ろうらん」やで!!!


確かに、旧全集の後記には「ろうらん」となっているという記載があるけれど、これは印象大分、ちゃうなあ!
 

ブログ830000アクセス突破記念 火野葦平 水紋

[やぶちゃん注:従来通り、火野葦平(明治四〇(一九〇七)年~昭和三五(一九六〇)年)がライフ・ワークとした河童を主人公とした原稿用紙千枚を越える四十三篇からなる四季社より昭和三二(一九五七)年に刊行されたものを昭和五九(一九八四)年に国書刊行會が復刻し、平成一一(一九九九)年に新装版として再刊された正字正仮名版を底本として用いた。明らかに戦中を舞台としていることは分かるが、調べてみると、実際の執筆自体が昭和一七(一九四二)年であることが判明した。この時に、これを書いた火野葦平を、何か今、私は、内心忸怩たる思い出、しみじみ読んだ。

 「小倉にある陸軍橋からすこし上流の紫川」と出るので、ロケーションは実在する。紫川(むらさきがわ)は現在の福岡県北九州市小倉南区及び北九州市小倉北区を流れる二級河川であるが、ここに出るのは小倉駅南西一キロほどの地点に架かる「鉄の橋」、正式名を河川名を持った「紫川橋」の旧通称「陸軍橋」である。

 「遊弋」(ゆうよく)は、一般には艦船が水上をあちこち動き回って敵に備えることであるが、それに喩えて鳥魚などがあちこち動き泳ぎ回ることを言う。

 「山田の曾富騰(そほと)」大国主の国造り神話に登場する神の名で、一般には「山田の案山子」の濫觴とされる神、久延毘古(くえびこ)である。ウィキの「久延毘古によれば、「古事記」によると、『大国主の元に海の向こうから小さな神がやって来たが、名を尋ねても答えず、誰もこの神の名を知らなかった。するとヒキガエルの多邇具久』(たにぐく)『が「久延毘古なら、きっと知っているだろう」と言うので、久延毘古を呼び尋ねると「その神は神産巣日神の子の少彦名神である」と答えた』とある神である。さらに「古事記」ではこの「久延毘古とは『山田のそほど』のことである」と説明されており、『「山田のそほど」とはかかしの古名であり、久延毘古はかかしを神格化したもの、すなわち田の神、農業の神、土地の神である。かかしはその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった』とある。「くえびこ」と河童を結びつける説は必ずしもポピュラーなものとは思われないが、「くえびこ」は「崩え彦」「朽ち腐り果てた男」であり、水死体を思わせる生臭い河童のしれとは親和性があるように思われてならない。

 本テクストは本日、2016年6月23日に2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログが830000アクセスを突破した記念として公開する。 藪野直史]

 

 

   水紋

 

 曇つた日にはよくわからないが、晴れた日に、川の水面を透(す)かしてみると、恰度(ちやうど)、一錢白銅を浮かべたやうに、そこだけ丸く光つてゐる部分のあることに氣づくことがある。それはひとつの場合もあり、數個のときもあり、また、あられ模樣のやうに數をかぞへることのできない折もある。また、さめ小紋に似てあまり密集してゐるので、かへつて、それと氣づかないことも珍しくない。なほ、よく氣をつけてみると、それは小さい渦のやうに、つねに𢌞つてゐる。さういふものを、水面に認めた場合には、その下に河童が居るものと考へてよい。しかし、河童が水中に居れば、そのまうへの水面にさういふ標識があらはれるといふことは、河童自身は知らないのである。もつともすべての河童がさうであるといふのではなく、種族によつてその標識をあらはさないものもある。河童は種族によつてその出生の歷史を異にしてゐることは周知の事實であるが、その水紋をあらはすものは、概して出のよい種族の場合が多い。壇の浦に沈んで亡びた平家の末裔(まつえい)が、男は蟹となり女は河童となつたことは有名な話であるが、われわれは關門海峽の水面にこの水紋を發見することはたびたびである。

 ところで、あるとき、小倉にある陸軍橋からすこし上流の紫川の水面に、二十よりは少くない水紋がゆるやかに舞ひながら、冬には珍しく晴れわたつた太陽の光を受けて、鈍(にぶ)銀色に光つてゐた。しかしながら、橋を通る人も、岸を通る人も、たれひとりそれに注意する者はなく、そればかりではなく、さつきから傳馬船や、筏(いかだ)などがその水紋のうへを何度も往き來した。そこは川がすこし曲つてゐるところで、水流のあたる部分が深く底を掘り、淵のやうになつてゐる個所だ。そこへ、さつきから水紋と同じ數の河童たちが集つて、熱心になにか語り、とがつた嘴を鳴らしては悲しんだり、怒つたり、笑つたりしてゐた。

 まづ、彼等は自分たちの望みのかなはないことがなによりも遺憾に耐へぬ風であつた。彼等は地上で起つてゐることに對して、じつとしてゐることができず、自分たちもその鬪(たたか)ひに參加したいことを念願したのであるが實現きれなかつた。彼等は傳説による祖先の光榮を自負して、いささかの疑義もなく、現在の戰(いくさ)に參畫できることを信じたのであつたが、その希望は達せられなかつたのである。

 何日か前に、彼等のうらの思慮と勇氣とを有するものが提議した。

「いま、地上では壯大な戰爭が始まつてゐる。どんな意味の戰爭かは知らないが、われわれもこの國に棲む河童として、是が非でもこの戰に參加したい。きつと役に立つことができるに相違ない。われわれは傷を癒す術はもちろん、手足の落ちたのをつぐこともできる。またもつとも得意とする水中遊弋(いうよく)によつて、敵の部隊や艦隊の動靜をさぐり、また、そのほかのいかなる情報をも手に入れることができる。日淸、日露の兩役には、屋島に棲む九十六匹の狸が出陣して、功をあらはしたことも聞いてゐる。下賤なる狸ですらさうであるから、われわれがじつとしてゐるわけにはゆかない。われわれは落ちぶれたりとはいへ、祖先の名はあきらかに古事記にその名をとどめられてゐるのだ。山田の曾富騰(そほと)といへば、もとは山や田や水を治(をさ)める神であつた。殘念にも、子孫に心がけのよくないものが居つたために、山中では山わろになり、水中では河童になつたが、それはわれわれとはまつたく關係のないことだ。われわれは、心のなかではすこしも古事記の尊嚴を失つてゐないと確信してゐる。出陣しよう。そして、大いに鬪はう」

 ところが、彼等の希望はさかんなる意氣込みにもかかはらず實現しなかつた。彼等の代表が軍に申し出たところ、その志は壯とし協力の意は謝すも、日本軍は力が足りなくて、河童の應授まで受けたと思はれたくない、といふ理由で拒絶されたのである。それが、河童たちが悲しんでゐたわけである。

 怒つてゐたのは、このごろ、怪しい形のものが水中を徘徊して、水をにごすといふのである。それはごく最近氣づいたことであるが、このごろ、嘗て知らなかつた異樣の鳴き聲をときどき聞く。河童の聲はふたつの皿をたたくときに出る音に似てゐるのであるが、その間きなれぬ聲は、恰度、二本の木の板をゆるくかち合はしたときの音に似てゐて、鈍重で、卑屈に聞える。その正體をはじめは見たものがなかつたが、やがて、あるとき、勇敢なる河童がしきりに異樣な調子で鳴いてゐる聲をたよりに近づいていつてそれを捕へた。

 水面から光の透して來ない水底に、岩や木屑や竹片などの堆積(たいせき)した場所がある。さういふところに好んでその怪しい形のものは潛(ひそ)んでゐる。彼等はひつそりと靜まりかへつてはゐるのであるが、どうしたものか、しきりににぶい聲で鳴く。いくら隱れてゐても、聲を立てればそのありかがわかるのに、生まれつき暗愚なのか、また鳴かずに居られないのか、鳴く。そして、たれかが近づく氣配がすると、あわてて逃げだす。さういふ風に、暗いところばかりにゐて、臆病に逃げ𢌞ることを仕事にしてゐるので、その姿を明瞭に見たものがない。ただ、咄嗟(とつさ)に見た印象で、變てこな形のものであることだけはわかる。紫川の河童たらの間では、この怪しい闖入(ちんにふ)者が問題になり、時節柄、棄ておけないといふことになつた。

 そのとき、つひに捕へられたものははげしい聲で鳴きわめいた。彼のながす涙は水中に二本の靑い帶をながしたやうに、下流の方へのびていつた。龜にも似た身體に、棕櫚(しゆろ)のやうに長い毛をはやし、蛙のやうに臍のない褐色の腹をあふむけにして、短い手足をばたばたきせた。嘴は信天翁(あはうどり)に似、眼は深い毛にかくれて、どこにあるかわからなかつた。しかし、それがやはり河童にちがひないことだけは、頭に皿のあることによつて理解できたのである。

 やがて、謎がとけた。これらの怪しい恰好の河童たちは、どこか、遠い南の方から移住して來たのであつた。それは、南の方ではげしい戰爭が始まつて、身邊が危險になつて來たからである。彼等は安全地帶をもとめて右往左往し、つひに、この邊の川や沼に落ちついた。移住の途中でも、あるものは彈丸や爆彈にあたつて死に、あるものはあわてふためいて戰車に衝突してたふれた。長い恐しい旅であつた。彼等はまつたく一身の安全のために平穩の地を求めてやつて來たのであつて、なんら他意はなかつたのである。

 紫川の河童たらはこの寄るべない南方の河童たちを輕蔑した。同情するやうになつたのは、ずつと後のことである。輕蔑したのはその勇氣のなさと、自分のことより外にはなにも考へない態度に對してである。彼等も南方に棲んでゐたものであれば、何故、南方の國のために鬪はないのか。その土地と運命をともにしないか。さう考へたのだ。しかし、よく考へてみると、彼等が鬪つて殉ずべき國を持つてゐなかつたことがわかつた。彼等が生まれ育つたところは、彼等が祖先となんの關係もない者によつて犯されてゐる。遠くから來た皮膚の白い人間たちが、暴力と金力とをもつて、南方の島々を自由にしてゐたのだ。いかに河童が暗愚とはいへ、それらの者のために鬪ふことができようか。さう聞けばさうである。輕蔑した紫川の河童たちも、のちにはさう思ふやうになつた。

 ところが、この氣の毒な遠來の河童たちの態度は、紫川の河童たちの考へが變つてからも、すこしも變ることがなかつた。相かはらず陽の透さぬ場所にひそみ、癖になつたやうに鈍い聲で鳴き、ちよつとの物音にも逃げだしてゆく。これが紫川の河童たちが笑つてゐたわけである。

 やがて、話しつかれた河童たちが淀みの淵から出て、別れてゆくと、陽のあかるい水面を多くの鈍銀色の水紋が、風にふき散らされる花びらのやうに、散つていつた。

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北條九代記 卷第九 日蓮上人宗門を開く

 

      ○日蓮上人宗門を開く

去ぬる正嘉元年八月より、天變地妖樣々にて風雨、洪水、飢饉、疾疫、打續きければ諸寺諸社に仰せて、國家安鎭の大法を修し、祈禱の懇誠(こんぜい)を致さるれども、變災愈(いよいよ)重りて、餓莩(がへう)、野に盈(み)ちて、鳥犬(てうけん)、尸(かばね)を爭ひ、臭氣、風に乘つて、行人(かうじん)、鼻を蔽ふ。「是(これ)只事にあらず、如何樣(いかさま)、政道の邪(よこしま)なる歟(か)、理世(りせい)に私ある歟。天怒り、地怨むる所あらば、罪を一人に示し給へ。民、何の科(とが)に依(よつ)て、かゝる災禍(さいくわ)に逢ふ事ぞ」と、時賴入道、深く歎き給ひけれども、時運(じうん)の環(めぐ)る所、力及ばざる折節なり。去ぬる四月十三日に改元ありて、正嘉二年を引替て文應元年とぞ號せられける。同十八日に改元の詔書、鎌倉に到來す。同二十二日政所において、改元の吉書、行はれ、松殿(まつどのの)法印に仰せて、御祈禱の爲、千手陀羅尼(だらに)の法を修(しゆ)せらる。爰に、法華經の持者(じしや)沙門、釋(しやく)の日蓮法師とて、學智の上人あり。本姓(ほんしやう)は三國氏、安房國長狹郡(ながさのこほり)東條鄕(とうでふのがう)市川村小湊(こみなと)の浦の人なり。父は貫名(ぬきなの)左衞門尉重忠、母は淸原氏、日天耀きて胸を照すと夢みて孕(はら)めり。後堀河院貞應元年二月十六日に誕生あり。十二歲にして淸澄山(きよすみさん)の道善房(だうぜんばう)の上人の弟子となり、十八歲にして出家受戒し、日蓮房とぞ號しける。虛空藏求問持(こくうざうぐもんぢ)の法を修し、其より台嶺寺門(たいれいじもん)の間に、學行修道し、三十二歲にして大道(だいだう)利生の志を起し、建長五年三月二十八日、七字の題目を唱へて、宗門を開かれし所に、淸澄の追善房、是を妬(ねた)みて、地頭(ぢとう)東條左衞門尉景信と心を合せて、寺中を追放す。力なく寺を出でて、相州鎌倉に來り、名越の松葉谷(まつばがやつ)に草菴を構へ、日每に出でて巷に立ちつゝ、七字の題目を稱揚す。是を聞く人、或は信をおこし、或は毀(そしり)を致し、其(その)名、漸く鎌倉中に隱(かくれ)なし。去ぬる正嘉元年より、今文應の初に及びて、天變妖災、暇(ひま)なく行はれて、人民、飢疫(きえき)の愁(うれへ)に罹る。日蓮卽ち立正安國論一卷を作り、文應元年七月十六日に、鎌倉の奉行宿谷(しゆくやの)左衞門入道最信(さいしん)を以て、時賴入道に參せたり。時賴入道、是(これ)を聞き、見給ふ所に、「日蓮の志、我執輕慢(がしうきやうまん)の中より、宗門建立(こんりふ)の爲(ため)、書記せられ、天下この宗門を用ひざる事を憤り、世を呪咀する思(おもひ)あり。文章の趣(おもむき)、穩(おだし)からず」と讒(さかしら)申す人ありければ、打捨てられて侍りけり。又、傍(かたはら)には「日蓮法師、珍しき宗門を立てゝ、諸宗を誹謗し、鎌倉の執權、奉行、頭人(とうにん)を惡口(あくこう)し、我慢自大(がまんじだい)なる事、世の爲(ため)、人の爲、災害の根(ね)なり」と申し沙汰しければ、「かゝる惡僧ならば、鎌倉中に許し置く事然るべからず」とて、弘長元年五月十二日行年四十歲にして、日蓮法師を伊豆國伊東の浦へ流され、伊東八郞左衞門尉朝高(ともたか)にぞ預けられける。同三年五月に召返(めしかへ)さる。文永年中に、日蓮法師、名越(なごや)の草菴にありながら、諸宗を誹謗し、行德(ぎやうとく)の碩學(せきがく)を惡口し、將軍家を呪詛せらるゝ由、伊和瀨(いわせの)大輔、申し行(おこな)ふ旨、有りて、弟子檀那六人と共に宿谷(やどや)の土牢に入れたりけり。然れども、猶諸人の怒(いかり)を宥(なだ)めん爲(ため)、龍口(たつのくち)の海邊(かいへん)に引出し、斬罪(ざんざい)に行はんとす。相州、深く憐(あはれ)みて、俄(にはか)にせられけり。この法師、鎌倉近く叶ふべからず、遠島(ゑんたう)に移すべしとて、武藏〔の〕前司に仰せて、佐渡島にこそ流されけれ。同十年二月に、相州時宗、大赦(たいしや)行はれ、鎌倉に歸り入り、其より甲州に赴き、身延(みのぶ)と云ふ所に一宇を構へて、移住せらる。弘安五年九月に、武藏國に打越(うちこえ)て、池上といふ所に行致(ゆきいた)り、同年十月十三日に遷化(せんげ)あり。其弟子日朗(らう)、日昭(せう)以下、上足の弟子等(ら)諸方に𢌞(めぐ)りて、法華經を讀誦(どくじゆ)し、題目を唱へ、不惜身命(ひしやくしんみやう)の行を勤め、漸く宗門、世に弘通(ぐつう)し、持經修道(じきやうしゆだう)の男女貴賤、諸國に今、盛(さかり)なり。

[やぶちゃん注:湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この部分は、「吾妻鏡」巻四十九の文応元(一二六〇)年四月十八日・二十二日の他、日蓮関連記載の方は「日蓮聖人註画讃」(五巻一冊・日澄著・寛永九(一六三二)年板他)に拠っており、『冒頭に天変地妖が続き、時頼の憂いとなっていたと述べ、救済者日蓮登場の前話とする』とある。

「正嘉元年」西暦一二五七年。

「懇誠(こんぜい)」真心を込めて行うこと。

「餓莩(がへう)」現代仮名遣は「がひょう」と読む。「莩」はこれだけで「飢え死に」の意。

「理世(りせい)」「治世」に同じい。

「罪を一人に示し給へ」その罪と罰は、為政者たるこの私時頼一人にお示し下されよ。

「去ぬる四月十三日に改元ありて、正嘉二年を引替て文應元年とぞ號せられける」誤り。正嘉二(一二五八)年には改元はなく、翌正嘉三年の三月二十六日に正元に改元され、正元二年「四月十三日」(ユリウス暦一二六〇年五月二十四日)に文応に改元されている。

「同十八日に改元の詔書、鎌倉に到來す」こkは正しい。「吾妻鏡」巻四十九の文応元(一二六〇)年四月十八日の条に、「今日。改元詔書到來。去十三日。改正元二年爲文應元年。」(今日、改元の詔書到來す。去ねる十三日、
正元二年を改め、文應元年と爲す。)とある。

「松殿(まつどのの)法印」(?~文永三(一二六六)年)関白藤原忠通の次男基房の孫で真言僧であった良基(りょうき)の通称。定豪(じょうごう)に学び、鎌倉で祈禱に従事した。この後の文永三年には第六代将軍宗尊親王の護身験者(げんざ)に昇ったが、親王の謀反の疑いに関係して高野山に遁れ、食を断って同年中に死去した。

「千手陀羅尼(だらに)の法」千手観音を本尊とした除災を祈請する修法(ずほう)。

「持者(じしや)沙門」一般には経典を常に持って拝読することや、寺に参って経典を読誦することを指すが、特に法華経を信読する者を「持経者」と称した。

「釋(しやく)の」ここは広く仏教者が釈迦の宗教的一族であるとして法名の上に宗教的な姓として附した語。

「本姓は三國氏」日蓮(貞応元(一二二二)年~弘安五(一二八二)年)の父は三国大夫(貫名(ぬきな)次郎(現在の静岡県袋井市の藤原北家支流の武家貫名一族を出自とする)重忠、母は梅菊とされる。日蓮は「本尊問答抄」に『海人(あま)が子なり』、「佐渡御勘気抄」に『海邊の施陀羅が子なり』(旃陀羅(せんだら)は中世の被差別民に対する呼称であるが、或いは殺生を生業とする漁師の子の謂いかも知れぬ)、「善無畏三蔵抄」には『片海(かたうみ)の石中(いそなか)の賤民が子なり』(「片海」は地名で「石中」は「磯辺」の謂いであろう)、「種種御振舞御書」では『日蓮貧道の身と生まれて』等と記している(ここは一部でウィキの「日蓮」の記載を参考にした)。

「安房國長狹郡(ながさのこほり)東條鄕(とうでふのがう)市川村小湊」現在の千葉県鴨川市安房小湊。

「母は淸原氏」ウィキの「日蓮」の注に、「百家系図稿」(江戸末期から明治にかけての系図家である鈴木真年の著)『では、幼名を薬王丸、母を清原兼良の娘とする』とある。

「淸澄山(きよすみさん)」現在の千葉県鴨川市清澄にある寺で、今は日蓮が出家得度及び立教開宗した寺とされて、日蓮宗大本山千光山清澄寺(せいちょうじ)として、久遠寺・池上本門寺・誕生寺とともに日蓮宗四霊場と呼ばれているが、元は凡そ千二百年前の宝亀二(七七一)年に「不思議法師」なる僧が訪れて虚空蔵菩薩を祀って開山し、承和三(八三六)年に天台宗比叡山延暦寺の中興の祖慈覚大師円仁がこの地を訪れて修行を成して以来、天台宗の寺として栄えていた。

「道善房」日蓮の出家得度の師であり、薬王丸という名も彼から貰ったともされる。詳細な事蹟は不詳であるが、清澄寺で強い発言力を持つ僧であったらしい。日蓮は後に彼の死去の報に接した際、「報恩抄」を執筆し、その中でその真摯な感謝と追悼の思いを吐露している。

「虛空藏求問持(こくうざうぐもんぢ)の法」虚空蔵菩薩を本尊とした修法で、虚空蔵菩薩の真真言(マントラ)を「ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」を百万遍唱えつつ行うという。

「台嶺寺門(たいれいじもん)」「台嶺」は「台岳」とも称し、比叡山を中国浙江省にある仏教の聖山天台山に模して唐風に呼んだ称。「寺門」とあるから、日蓮の遊学した天台寺門宗の三井寺(園城寺)などをも含む。

「三十二歲にして大道(だいだう)利生の志を起し」ウィキの「日蓮」に、建長五(一二五三)年(年)四月八日(他に五月二十六日、六月二日説があり、本文の「三月二十八日」もその一説か)のこと、『朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める』とある。

「東條左衞門尉景信」(生没不詳)は、鎌倉前期の武将。ウィキの「東条景信」より引く。『安房国長狭郡東条郷の地頭を務めて』おり、念仏宗徒であったらしい(但し、未確認)。この時、日蓮が法華経信仰を説いた際、『景信の信仰している念仏も住生極楽の教えどころか』、『無間地獄に落ちはいる教えであると述べ、法華経のみが成仏の法であると述べたことに怒り、日蓮を殺害しようとしたが』、『清澄寺の道善坊の取り計らいで事なきを得た』(本文は道前坊を日蓮追放の首魁の如く語っているが、前に記した後の日蓮の追悼文などから見ると、この記載の方が真実味がある)。『日蓮は念仏宗を批判することをやめず、その後も他宗教排撃を弘通活動の中で盛んに行っている。景信はこの信仰上の恨みとともに、日蓮やその両親が恩顧を受けた領家の尼の所領を景信が侵略した時、日蓮が領家の尼の味方をして領家側を勝訴に導いたことなどから、一層の恨みが募ったのではないかと思われている。景信は』文永元(一二六四)年に『日蓮が天津の領主工藤吉隆のもとへ招かれた帰途を待ち伏せ』て襲撃したが』、討ちもらしている(小松原法難。これはかなり有名な法難で日蓮は額を斬られて左腕を骨折、信徒の工藤吉隆と弟子の鏡忍房日暁が殺害されている)。『景信のその後の消息に関しては現在のところ正確にはわからないが』、『一説によると』正応四(一二九一)年八月、享年六十三で『病死したとされる。法号は宝昌寺殿道悟景信大禅門と伝えている。この説によれば小松原で日蓮を襲撃してから』二十七年後に『没したことになる』とある(法名に「禅門」とあるが、融通念仏宗ではよく見られる戒名である)。

「名越の松葉谷(まつばがやつ)」現在の鎌倉市大町の名越(なごえ:現行はこちらであるが、鎌倉時代は「なごや」の訓が一般的であった)に含まれる一地域名として現存。

「日每に出でて巷に立ち」知られた辻説法である(但し、現行の小町大路の二箇所に「辻説法跡」とする記念碑が建てられてあるが、当時の幕府の位置や鎌倉市街の路線などから推理しても、特にそこでという限定は却っておかしく信ずるに足らないと私は思っている。各所で行ったとすればよろしい)。

「正嘉元年より、今文應の初」正元を挟んで凡そ三年。

「立正安國論」文応元(一二六〇)年七月十六日に得宗北条時頼(彼は執権をこの四年前の康元元(一二五六)年十一月に義兄の北条長時に譲って出家していた。嫡子時宗が未だ六歳と幼少であったことによる中押さえの代役(眼代(がんだい):代理人)であって、以前、実権は時頼にあった)に上呈している。題名は正しい正法(しょうぼう:彼の場合は法華経に基づく唯一無二の真の仏法理)を建立し、国土を安穏にするという意。日蓮は他宗を邪宗として排撃する際に「四箇格言(しかかくげん)」(念仏無間 (念仏宗徒は無間地獄に落ちる) ・禅天魔 (禅宗は天魔の行い)・真言亡国 (真言宗は国を滅ぼす元)・律国賊 (律宗は国賊そのもの) )が知られるが、同書では特に法然の念仏をやり玉に挙げ、現世を厭離(おんり)して来世に於ける極楽往生をただ冀(こいねが)うという末法思想的解釈こそが邪法であることを訴え、穢土(えど)たる現実をこそ仏国土化するという発菩提心(ほつぼだいしん)を起こすことこそ正法とする姿勢が読みとれる。

「宿谷(しゆくやの)左衞門入道最信(さいしん)」北条氏得宗家被官の御内人で当時、寺社奉行であった宿屋光則(やどやみつのり 生没年未詳」読み方は孰れもあった。本文でも後で「やどや」と読んでいる)。「吾妻鏡」では後の弘長三(一二六三)年の時頼の臨終の場で、最後の看病を許された得宗被官七名の中の一人に含まれている。ウィキの「宿屋光則」によれば、『光則は日蓮との関わりが深く』、『日蓮が「立正安国論」を時頼に提出した際、寺社奉行として日蓮の手から時頼に渡す取次ぎを担当している。また、日蓮の書状』を見ると、文永五(一二六八)年八月二十一日及び十月十一日にも『北条時宗への取次ぎを依頼する書状を送るなど、宿屋入道の名前で度々登場している』。本文に出る文永八(一二七一)年の日蓮とその一党の捕縛の際には、『日朗、日真、四条頼基の身柄を預かり』、鎌倉の長谷にある『自身の屋敷の裏山にある土牢に幽閉した。日蓮との関わりのなかで光則はその思想に感化され、日蓮が助命されると深く彼に帰依するようになり、自邸を寄進し、日朗を開山として』現存する日蓮宗行時山(ぎょうじさん)光則寺(こうそくじ)を建立している(山号は光則の父の名)。

「我執輕慢(がしうきやうまん)」自身の執心にのみとらわれており、それに慢心し、他者を一切軽んずる心に満ちていることを指す。

「書記せられ」書き記された(もので)。「られ」は受身であって尊敬ではないので、注意。

「穩(おだし)からず」「おだし」は形容詞で「穏やかだ」の意。

「讒(さかしら)」如何にも解っているという風に振る舞うこと。或いは、差し出口(でぐち)をきくこと、でしゃばること。

「頭人(とうにん)」引付衆のこと。評定衆(執権・連署とともに幕府最高意思決定機関を構成したが、鎌倉後期には有名無実化した)を輔弼して政務一般及び訴訟審理の実務に当たった中間管理職。

「我慢自大(がまんじだい)」我儘放題で、慢心し、おごり高ぶること極まりないことを指す。

「弘長元年」一二六一年。

「伊豆國伊東の浦へ流され」所謂、伊豆法難。現在の静岡県伊東市に流罪となったが、実際には伊豆到着前に伊東沖にある「俎岩(まないたいわ)」という小さな岩礁に置き去りにされている(後二漁師の弥三郎という者に助けられたという)。

「伊東八郞左衞門尉朝高(ともたか)」監視役であった伊東の地頭。幾つかのネット記載を見ると、理屈上、繋げるなら、弥三郎(或いは伴左衛門とも)に助けられた日蓮は、形式上で幕府から指示されていたのであろう伊東朝高に預けられ(俎岩放置事件を知らなかったなんてことはあり得ない。或いはそんな事件は実はなかったのかも知れぬ)、日蓮は川奈の岩屋に幽閉したというコンセプトらしい。ところが、朝高が原因不明の重病に罹って危篤となり、家臣綾部正清が幽閉された日蓮を訪ねて平癒祈願を懇願、当初は断ったものの、正清に信仰の兆しを見、祈禱を行い、目出度く快癒したというオチがあるようである。

「同三年五月に召返さる」調べた限りでは時頼の措置によって赦免状が発せられ、日蓮が鎌倉の草庵に帰ったのは弘長三(一二六三)年二月二十二日(配流から一年九ヶ月後)とある。

「文永年中」文永元(一二六四)年に先に記した「小松原法難」があったが、文永五(一二六八)年には蒙古から幕府へ国書が届き、日蓮が主張していた他国からの侵略の危機が現実となった。ウィキの「日蓮」の年譜には、この時、日蓮は執権北条時宗(時頼から継いだ第六代執権の北条長時は文永元(一二六四)年七月に第二代執権北条義時五男北条政村に執権を譲り、まさにこの文永五年三月に十八歳になっていた時宗に、やっと第八代執権職が回ってきたのであった)、内管領(うちかんれい)『平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観』(忍性の通称)『などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫』っている。文永八(一二七一)年七月には極楽寺忍性との祈雨対決での忍性の敗北を指弾、九月には、歯に物着せず盛んに、批難を浴びせてくる(宗旨だけではなく、彼らが幕府から受けていた経済活動に対しても敢然と物申した)のに業を煮やした忍性や『念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴え』、『平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れ』た(知られた「龍ノ口の法難」。時宗が死一等を減じたのは、この時に正妻(後の覚山尼)が懐妊していた(十二月に嫡男貞時を出産)ことが理由(比丘殺しは仏者には祟りが怖い)と私は踏んでいる)。翌十月に佐渡へ流罪となった。

「伊和瀨(いわせの)大輔」不詳。ある記載によれば、忍性一派による謀略上の傀儡ともする。確かに、この法難の前後は怪しいことだらけではある。

「相州」北条時宗。

「武藏〔の〕前司」恐らくは北条宣時(暦仁元(一二三八)年~元亨三(一三二三)年)のことであろう。大仏(おさらぎ)宣時とも称した。父は大仏流北条氏の祖である北条朝直。建治元(一二七七)年引付頭人になり、後の弘安一〇(一二八七)年には第九代執権北条貞時の連署を務めた。因みにかの「徒然草」の第二百十五段に現れる最明寺入道時頼が自邸でサシでかわらけに残った味噌を肴に酒を酌みをかわした相手は、実に若き日のこの宣時である。

「同十年二月に、相州時宗、大赦(たいしや)行はれ、鎌倉に歸り入り」文永十年は文永十一年の誤り。文永一一(一二七四)年二月十四日に時宗の大赦によって赦免となった。ウィキの「日蓮」の年譜には、『幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する』三度目の諌暁(かんぎょう:諌(いさ)め諭(さと)すの謂いであるが、主に信仰上の誤りについての場合に用いる)をしている。以下、記されるように、『その後、身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて身延入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山』している。因みに、この直後に蒙古が襲来(文永の役)、五年後の弘安四(一二八一)年には再襲来(弘安の役)している。

「弘安五年」一二八二年。

「日朗」(にちらう(にちろう) 寛元三(一二四五)年~元応二(一三二〇)年)は日蓮六老僧の一人(日蓮より二十三歳年下)。下総国出身。文応二(一二六一)年に日蓮を師として法を学び、文永八(一二七一)年の日蓮の佐渡流罪の際には土牢に押込めとなっている。文永一一(一二七四)年には佐渡に日蓮を八回にも亙って訪ね、最後は赦免状を携えて佐渡に渡っている。師の遷化直前(弘安五(一二八二)年)には池上宗仲の協力のもとに池上本門寺の基礎を築いた。元応二(一三二〇)年に鎌倉の安国論寺にて荼毘にふされ、逗子の法性寺に葬られた。

「日昭」(「につせう(にっしょう) 嘉禎二(一二三六)年?~元亨三(一三二三)年)は下総国の出身。日蓮六老僧の一人。ウィキの「日昭によれば、生年については師の日蓮より年長で承久三(一二二一)年とする説もあるとし、池上本門寺の土地を寄進した『池上宗仲とは親戚関係にある』。『初め天台宗の僧であったが、のちに日蓮に師事して改宗し、日蓮が配流となっている間も鎌倉を離れず』、『師日蓮の説を広めた。天台宗的な色彩を残しながらも、鎌倉浜土の法華寺を拠点として布教を行った。鎌倉幕府の弾圧に対しては自らは天台沙門徒と称するなど臨機応変に対応している』。徳治元(一三〇六)年には『越後国風間氏の庇護により相模国鎌倉に妙法寺(その後越後国に移転)を建立している。晩年比叡山戒壇と関係を持っていたことから、この派にはその影響が残された』とある。なお、「日蓮六老僧」とは日蓮が臨終に際して後継者として指名した六人の高弟を指し、この日昭と日朗の他に、日興(にっこう)・日向(にこう)・日頂(にっちょう)・日持(にちじ)がいる。

「上足」「じやうそく(じょうそく)」で弟子の中で特に優れた者を指す語。高弟。

「弘通(ぐつう)」仏教や経典が広まること。

「持經修道(じきやうしゆだう)」先に注した通り、法華宗の仏道修行を特に限定して指す語である。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第五章 野生の動植物の變異(1) 序

 

    第五章 野生の動植物の變異

 

 前章に於て述べた通り、人間の飼養する動植物には遺傳の性と變異の性とが備はつてある所へ、人間が干渉して一種の淘汰を行つた結果、終に今日見る如き著しい變種を生ずるに至つたことは疑ふべからざる事實であるが、さて野生の動植物は如何と考へると、之にもやはり同樣な事情がある。

[やぶちゃん注:「遺傳の性と變異の性」孰れも「性」は性質の意であるが、では丘先生はこれを「しやう(しょう)」と読んでいるかというと、私は甚だ疑問に思う。であれば、今までの経験から推して、先生ならルビを振られると思うからである。次のの段の冒頭で即座に正確な「遺傳性と變異性」という表現を出されている点からもここは「せい」と読んでおく。]

 先づ遺傳性と變異性とに就いて考へて見るに、野生の動植物では前にも言つた通り、親子兄弟の關係が明瞭に解らぬから、一個づゝを取つて、何れだけの性質が遺傳により親から傳はつたか、また何れだけの點は變異によつて親兄弟と違ふか、直接に調べることは出來ぬが、長い間絶えず採集しまたは同時に多數を採集して比較すれば、こゝにも遺傳及び變異の性質が備はつてあることを明に證明することが出來る。その中、遺傳の方は昔から人の少しも疑はなかつた所で、從來人の信じ來つた生物種屬不變の説も、畢竟今年採集した標本も昨年採集した標本も五年前のも十年前のも、同一種に屬するものは皆形狀が殆ど同一である所から、親の性質は悉く遺傳によつて子に傳はり、子の性質は悉く遺傳によつて孫に傳はり、何代經ても形狀・性質に少しの變化も起らぬものと考へ、之より推して天地開闢より今日まで生物の各種類は一定不變のものであると論結した次第故、野生の動植物に遺傳の性の備はつてあることは他人の證明を待つまでもなく、誰も初めより信じて居る。語を換へていへば、進化論以前の博物家は、子は寸分も親に相違せぬもの、孫は寸分も子に相違せぬものと、初めより思ひ込んで居たので、生物の變異性に氣が附かず、偶々少し變つた標本を獲ても、たゞ偶然に出來たものと輕く考へ、變異性の重大なる意味に思ひ及ばなかつたのである。

 元來野生の動植物の變異性を認めることは自然淘汰説の一要件で、若し生物に變異性がないものとしたらば、無論如何なる淘汰も行はれよう筈がない。斯く生物學上肝要な問題なるにも拘らず、野生の動植物の變異性に注意し、廣く事實を集めて確實に之を研究しようと試みたのは、殆どダーウィンが初めてである故、かのダーウィンの著した「種の起源」といふ本の中にはこの點に關する事項が割合に少い。併しその後にはこの問題は追々丁寧に研究せられ、研究の積むに隨ひて生物の變異性の著しいことが明瞭になり、今日の所では大勢の學者が力を盡して之を研究して居たので、變異性を調べる學科は生物測定學といふ名が附いて生物學中の獨立なる一分科の如き有樣となり、この學のみに關した專門の雜誌まで發行せられて居る。生物の變異性に關する知識はダーウィン時代と今日とでは殆ど雲泥の相違があると言つて宜しい。

[やぶちゃん注:「生物測定學」(バイオメトリー:biometry)は現行では生物統計学(バイオスタティクス:biostatistics)とも呼ばれる。ウィキの「生物統計学によれば、『統計学の生物学に対する応用領域で、様々な生物学領域を含む。特に医学と農学への応用が重要である。医学では生物統計学、農学では生物測定学の名を用いることが多い。古くは』「バイオメトリクス」(biometrics)の名が使用されたが、現在、これは所謂、生体認証(「バイオメトリック(biometric)認証」「バイオメトリクス認証:ヒトの身体的(生体器官上――指紋・虹彩・手の血管(静脈パターン)・音声等――)の特徴や行動特徴(所謂、癖)の情報に基づいて用いて行う個人認証システムや技術分野を意味する語に変わってしまっている。但し、これら『バイオメトリクスの基本的な理念や方法論(例えば指紋による個人識別)は古典的な生物統計学にルーツを求めることができる。また理論生物学とも密接な関係がある』。『生物統計学的な研究は、現代の生物学および統計学の成立に重要な役割を果たし』ており、『チャールズ・ダーウィンのいとこに当たる』フランシス・ゴルトン(Sir Francis Galton 一八二二年~一九一一年:イギリスの統計学者で人類学者・優生学者(「優生学」という語は彼が濫觴)。彼の母ビオレッタはエラズマス・ダーウィンの娘で、チャールズ・ダーウィンの父ロバート・ウォーリングとは異母兄妹に当たった)『や、その後継者の数学者カール・ピアソン』(Karl Pearson 一八五七年~一九三六年:イギリスの数理統計学者・優生学者。記述統計学の大成者とされる)は、十九世紀から二十世紀にかけて、『進化を数量的に研究することを試み、その過程で統計学を進歩させた』。二十世紀初頭に『メンデルの法則が再発見され、一見矛盾する進化と遺伝とをどう整合的に理解するかが、ピアソンら生物統計学者と』ウィリアム・ベイトソン(William Bateson 一八六一年~一九二六年:イギリスの遺伝学者。メンデルの法則を英語圏の研究者に広く紹介した人物で、英語で遺伝学を意味する「ジェネティクス:genetics」という語の考案者でもある。但し、彼はダーウィンの自然選択説に反対し、染色体説にさえも晩年までは懐疑的であった)『ら遺伝学者との間で重大問題として議論された。その後』、一九三〇年代までに『統一的モデルが作られ、ネオダーウィニズムが成立した。これを主導したのも統計学的研究であり、これによって統計学が生物学における重要な方法論として確立した』。ロナルド・フィッシャー(Ronald Aylmer Fisher 一八九〇年~一九六二年:イギリスの統計学者・進化生物学者・遺伝学者・優生学者)が生物学研究の過程で基本的な統計学的方法を確立し、シューアル・ライト(Sewall Green Wright 一八八九年~一九八八年):アメリカの遺伝学者)とJBS・ホールデン(John Burdon Sanderson Haldane 一八九二年~一九六四年:イギリスの生物学者)『も統計学的方法により集団遺伝学を確立した。統計学と進化生物学は一体のものとして発展したわけである』。『またこれと平行して、ダーシー・トムソン』(D'Arcy Wentworth Thompson 一八六〇年~一九四八年:イギリスの生物学者・数学者)『の行った生物の形態の数学的研究』(著書On Growth and Form(「成長と形態」一九一七年公刊)に纏められた)も、『生物学の量的研究における先駆けとなった』。但し、これらの記載から概ね想像されることと思うが、彼らの多くはヒトの優生学の発展にも大きく関与し、何人かは明白な差別主義者であったことを忘れてはいけない。名著とされる「攻撃」(Das sogenannte Böse 一九六三年)で誰もが知る、オーストリアの動物行動学者コンラート・ローレンツ(Konrad Zacharias Lorenz 一九〇三年~一九八九年)でさえ、ナチス政権下で大学教授の職を得、ナチスの「人種衛生学」を支持したことを忘れてはいけない。私は今も普通に読まれているかの「攻撃」の中にさえ、凡そ差別意識に基づく、とんでもない非生物学的な誤った考察がまことしやかに書かれていると強く感じているくらいである。]

 「種の起源」の發行後尚暫くの間は、有名な動植物學者の中にも自然淘汰の説に反對した人が澤山あつたが、その理由は孰れも生物の變異に關する知識が頗る乏しく、野生の動植物が如何程まで變異するものであるかを知らなかつたからである。今日の如くに變異性の研究の進んだ以上は最早苟も生物學を修めた者には生物進化の事實を認めぬことは到底出來ぬ。かやうに大切な事項故、本書に於ても野生の動植物の變異の有樣を成るベく十分に述べたいが、一々實例を擧げて具體的に説明しようとすると、勢ひ無味乾燥な數字ばかりの表や、弧線などを澤山に掲げなければならぬから、ここにはたゞ若干の例を引いて、大體のことを述べるだけに止める。

[やぶちゃん注:「苟も」「いやしくも」。仮にも。相応にかくも~したとならば。]

2016/06/21

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蝨

Sirami

しらみ   蝨 虱【俗】

【音瑟】【和名之良美】

      蟣

スヱツ   【和名木左佐】

 

本綱其人物皆有蟲但形各不同虱始由氣化而生後乃

遺卵出蟣也蝨六足行必向北人頭虱黒色着身變白身

虱白着頭變黒也

人將死虱離身或云取病人虱於床前可卜病如虱行向

病者必死也

虱味鹹微毒誤食之在腹中生長爲癥能斃人用敗箆敗

梳各以一半燒末一半煮湯調服即從下部出也

蝨能治脚指間肉刺瘡及脚指雞眼傅之

除蝨法【卲氏錄云呂晋伯曰】 吸北方之氣噴筆端書欽深淵默漆

五字置之於牀帳之間即盡除呂公正直非妄者

按蝨字俗作虱故稱半風初生於人身垢遺卵故毎日

 沐浴梳髮人不虱生也避頭虱以大風子油塗髮則虱

 蟣死所謂治脚指雞眼俗云惠岐禮【指裏橫文裂如皹者】

 

 

しらみ   蝨 虱【俗。】

【音、瑟〔(シツ)〕】 【和名、「之良美」。】

      蟣〔き〕

スヱツ   【和名、「木左佐〔(きささ)〕」。】

 

「本綱」、其れ、人・物、皆、蟲、有り。但し、形、各々同じからず。虱、始め、氣化に由りて生じ、後には乃ち、卵を遺し、蟣(きささ)を出だす。蝨、六足あり、行けば必ず北に向ふ。人の頭の虱は黒色なり。身に着けば、白に變ず。身の虱は白し。頭に着けば、黒に變ず。

人、將に死せんと〔すれば〕、虱、身を離る。或る人の云く、病人の虱を床(とこ)の前で取りて病ひを卜〔(うらな)〕ふべし。如〔(も)〕し、虱、行きて病者に向へば、必ず死すなり〔と〕。

虱の味、鹹〔(しほから)〕く、微毒あり。誤りて之れを食へば、腹中に在りて生長し、癥〔(ちよう)〕と爲り、能く人を斃〔(た)〕ふす。敗(ふ)る箆(たうぐし)・敗(ふ)る梳(すきぐし)を用ひて、各々一半を以て燒末し、一半を湯に煮て、調服すれば、即ち下部より出づ。

蝨、能く、脚の指の間の肉刺瘡及び脚指の雞眼を治す。之れを傅〔(つ)〕く。

蝨を除く法【「卲氏錄〔しようしろく〕」に呂晋伯〔(りよしんぱく)〕が云ひて曰く、】『北方の氣を吸ひ、筆端を噴きて「欽深淵默漆」の五字を書きて、之れを牀帳〔(しやうちやう)〕の間に置けば、即ち、盡〔(ことごと)〕く除くと云ふ。呂公は正直にして妄者に非ず。』〔と〕。

按ずるに「蝨」の字、俗に「虱」に作る。故に「半風」と稱す。人身の垢より初生して、卵を遺す。故に毎日、沐浴(ゆあ)び、髮を梳く人は、虱、生ぜず。頭虱〔(あたまじらみ)〕を避くるには、大風子の油を以て髮に塗れば、則ち、虱・蟣〔(きささ)〕、死す。謂ふ所の、脚指・雞眼を治すとは、俗に云ふ、「惠岐禮(ゑきれ)」〔なり〕。【指の裏の橫文〔(わうもん)〕の裂け皹〔(ひび)〕のごとくなる者なり。】

 

[やぶちゃん注:昆虫綱咀顎目シラミ亜目 Anoplura のうちで、ヒトに寄生して吸血するのは、

ヒトジラミ科 PediculidaeのヒトジラミPediculus humanusの、

亜種アタマジラミ Pediculus humanus humanus

亜種コロモジラミ Pediculus humanus corporis

の二亜種と、ケジラミ科 Pthiridae の、

ケジラミ Phthirus pubis

の三種類であるが、ケジラミ Phthirus pubis は既に述べた通り、次項に「陰蝨」として独立項となっているから、ここには上記ヒトジラミ二亜種に同定するのがよい。ウィキの「ヒトジラミ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『ヒトジラミはヒトだけを宿主とする外部寄生虫である。アタマジラミは頭髪、コロモジラミは衣類にいて、皮膚より吸血する。歩脚の先端は挟状になり、これで毛髪や繊維を掴み、素早く移動する。不完全変態であり、幼虫も成虫に似た形態と生態を持つ。卵も頭髪ないし衣類の繊維に張り付いた形で産み付けられ、その生涯を生息域から離れない。他者への感染は接触による。そのために集団生活する場合には広がる場合がある。成虫は条件にもよるが、数日程度は人体から離れても生存出来る』。『ヒトジラミは吸血することで痒みを与えるが、それだけでなく』、『病原体を運ぶベクターでもあり、特に発疹チフス』(真正細菌プロテオバクテリア門 Proteobacteria アルファプロテオバクテリア綱 Alphaproteobacteria リケッチア目リケッチア科リケッチア属リケッチア・プロワツェキイ(発疹チフスリケッチア)Rickettsia prowazekiiの感染による感染症。「アンネの日記」アンネ・フランク(Annelies Marie Frank 一九二九年六月十二日~一九四五年三月上旬)も強制収容所で発疹チフスによって死亡したとされている)『は伝染病として恐れられた』。『ヒトジラミの宿主はヒトに限られる。他の動物の血を吸うことが出来ても、それで生育は出来ない』。『アタマジラミは常に頭髪にいるが、コロモジラミは下着の縫い目にいて、吸血時のみ肌に移動する。成虫が一日に吸血する回数は、実験では二回とされるが、現実には四回かそれ以上と考えられる』。『人体から離れ、吸血できない状態では、コロモジラミは条件にもよるが一週間程度まで生存できる場合がある。この点でアタマジラミの方が弱く、せいぜい二日程度で死亡』してしまう。『体長は成虫で二~四ミリメートル程度、アタマジラミのほうがやや小型である。体は全体として腹背に扁平で、体表に弾力があり、全体に半透明で淡い灰白色だが、アタマジラミの方が黒みが強く、特に体の側縁に沿って黒い斑紋が入る。頭部は丸みを帯びた三角形で、口器は普段は頭部に引き込まれており、吸血する際には突出する。その上唇には歯状の突起があり、吸血する際に口器が皮膚に固着するのを助ける。触角は五節、その基部の後方に目がある』。『胸部の三体節は互いに癒合しており、三対の歩脚があるが、翅は完全に退化している。歩脚はよく発達し、先端ははっきりと爪状になる。脛節末端にある突起と先端の爪とが向き合って鋏状となっており、この間に毛や繊維を掴むことが出来る』。『腹部は九節からなり、各節の両端に側板があり、この部分は褐色をしており、またここに気門が開く。気門があるのは』第三節から『第八節である。腹部末端の節には内部に生殖器があり、雄では先端に向けて細くなるが、雌では先端が軽く二裂する』。『卵は楕円形で乳白色を呈し、先端に平らな蓋があってその中央に』一五個から二〇個の『気孔突起がある。卵は毛髪(アタマジラミ)や繊維(コロモジラミ)にセメント様の物質で貼り付けられ、産卵直後は透明で、後に黄色っぽく色づき、孵化直前には褐色になる。卵の孵化には約一週間を要する。孵化時には蓋が外れ、これが幼虫の脱出口となる』。『孵化直後の幼虫は成虫の形に似ているが、触角は三節で体が軟らかい。側板は二令から見られる。幼虫は成虫と同様に吸血しながら成長し』、七日から十六日の間に『三令を経て成虫になる。成虫の寿命は』三十二日から三十五日で、『雌成虫は約四週間の間、一日に八個、生涯で約二百個の卵を産む』。『シラミ類は動物の体表に常在するものであり、衣服のようにその外を住処とするのは異例である。衣服は人類のみが持つものであり、そこを住処とするシラミの存在、その発祥には興味の持たれるところである。コロモジラミが体毛に生息するアタマジラミとごく近縁であることは古くより認められた。分子系統の発達により、これらの近縁性が絶対的な時間を含めて論じられるようになった。それによると、本種に近縁な同属の種がチンパンジーに寄生するが、それと本種が分岐したのは五百五十万年前である。これは、宿主の種分化の時期、つまり人類の起源にほぼ相当する。ただ、問題なのは、ヒトジラミが遺伝的にはっきりした二タイプがあり、一つは凡世界的なもの、もう一つは新世界のものである。それらが分化したのが、この方法では百十八万年前となることである。これは、明らかに現生のヒト Homo sapiens の起源を大幅に上回る。ここから推察されるのは、この種分化が、現生のヒトの祖先がホモ・エレクタス H. erectus から分化してきた頃に起こったと言うことである。それから約百万年、ヒト属の二種が共存し、彼等は交雑はしなかったかも知れないが、外部寄生虫の行き来はあったであろう。この様な中でシラミの二系統が生じ、それが共存するに至ったと考えられる』。『アタマジラミとコロモジラミが分化したのは十万年前と推定されている。これは人類が衣類を身につけ始めてすぐのことであったと考えられている。アタマジラミは髪の毛に住み着いてその部位の肌から血を吸うが、毛の少ない身体の皮膚では繁殖できない。だが、衣類に生息の場を得て、コロモジラミはそれ以外の皮膚での生息が可能になった。さらに、分子系統によると、コロモジラミはアタマジラミの』汎『世界系統から複数回にわたって発生したと考えられる』とある。人類発生と文化史の中のヒトとシラミの密接な関係性と進化は非常に興味深いではないか。しかも、『ホームレスや独居老人といったシラミの温床になりやすい場が新たに生じ』たことも挙げられ、『コロモジラミではこの様な高齢化を舞台にした増殖が、アタマジラミでは幼稚園や小学校などの集団での感染拡大が見られている』のは御承知の通り。シラミを侮ってはならぬ。

 

・「木左佐〔(きささ)〕」小学館の「日本国語大辞典」に、「きささ」漢字「蟣」として、『虱(しらみ)の卵。きさし』とし、「和名類聚抄」を例文として引く古語である。語源説には、『背にギザギザ(刻々)があることから。ギザギザの略〔大言海〕』、『「風土記」に「沙虱」の訓を「耆少神」と注しているところから、キサシン(耆少神)の転か〔塵袋〕』、また、『髪に蟣が産みつけられるとカミ(髪)がシラゲル(白)ところから、カミシラシラの反〔名語記〕』とあるが、私は孰れも信じ難い。

・「氣化に由りて生じ」こういう化生的叙述は、既に議論として成立しない。時珍に失望するところである。叙述で卵生としているくせに、「化生」的叙述をする博物学者として許し難いバカ叙述だからである。

・「行けば必ず北に向ふ」敗者の方角、即ち、根源的にシラミを陰気の生物とする認識に基づく。

・「如〔(も)〕し、虱、行きて病者に向へば、必ず死すなり」これは明らかに誤った逆叙述である。「酉陽雑俎」の続集巻二の「支諾皋中」にも、

   *

相傳人將死、虱離身。或雲取病者虱於床前、可以蔔病。將差、虱行向病者、背則死。

   *

とあり、快方に向かうならシラミは病人に向かい、反対の方へ向かう(「背」)時は、死ぬとある。当然である。

・「癥〔(ちよう)〕」腹の中に出来るしこりの意。

・「敗(ふ)る箆(たうぐし)・敗(ふ)る梳(すきぐし)」原文のルビを少し改変した。「箆」は竹製の単体(一本の)簪状のものと読み、「梳」は所謂、櫛と区別した。大方の御批判を俟つ。

・「各々一半を以て燒末し、一半を湯に煮て」これは一本の簪状のものを半分に折り、櫛の方も同様に半分に折り、それをそれぞれ半分は焼いてその灰を粉末にし、残ったそれぞれを別に熱湯で煮沸せよ、と言っていると読む。

・「下部」というのは、現象的にはよく分らないが、消化器官を通してシラミが体外へ排泄されるという風にしか読めない。

・「脚の指の間の肉刺瘡及び脚指の雞眼」足の指の股に生ずる肉刺(まめ)や魚の目。

・「傅〔(つ)〕く」塗りつける。シラミ自体を擂り潰して貼付するという意。

・「卲氏錄〔しようしろく〕」東洋文庫版の「書名注」に「卲氏聞見後録」三十巻。宋の卲博撰になる随筆集とある。

・「呂晋伯〔(りよしんぱく)〕」伊川の令であることしか分からぬ。

・「北方の氣を吸ひ、筆端を噴きて」北に向かってその空気(気)を十全に吸った上で、それを一気に筆の先に吹き付けて。北の陰気を込めて筆に移す意。

・「欽深淵默漆」呪言なれば意味不詳。

・「牀帳〔(しやうちやう)〕」寝室の帳(とばり)寝台の内。

・「呂公は正直にして妄者に非ず」よう知らんが、卲博曰く、呂晋伯なる男は正直一途な人だからいい加減なことは言わぬ、これは絶大な効果があると太鼓判を押しているのである。

・『故に「半風」と稱す』「風」の字を包むはずの大事な第一画を欠字するからである。

・「大風子の油」大風子油はキントラノオ目アカリア科(最新説の分類)イイギリ属ダイフウシノキ Hydnocarpus wightiana の種子から作った油脂。、飽和環状脂肪酸であるヒドノカルピン酸(hydnocarpic acid)・チャウルムーグリン酸(chaulmoogric acid)・ゴーリック酸(gorlic acid)と、少量のパルミチン酸などを含む混合物のグリセリンエステル。古くはハンセン病治療に使われた(ここは概ねウィキの「大風子油に拠った)。

・「惠岐禮(ゑきれ)」不詳(「日本国語大辞典」の見出しにも出ない)。割注からはシラミとは無縁な水虫の症状のように私には見える。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(7) 人丸大明神

 

      人丸大明神 

 

 神職目を傷くといふ古い口碑には、更に一種の變化があつた。下野芳賀郡南高岡の鹿島神社傳に、垂仁天皇第九の皇子池速別、東國に下つて病の爲に一目を損じたまひ、之に由つて都に還ることを得ず、此地に留まつて若田と謂ふ。十八代の孫若田高麿、鹿島の神に禱つて一子を得たり。後に勝道上人となる云々とある(一)此話と前に擧げた信夫の土湯の太子堂の太子像の、胡麻の稈で眼を突かれたといふ傳説とは、完全に脈絡を辿ることが出來る。野州は元來彦狹島王の古傳を始めとして、皇族淹留の物語を頻りに説く國であつた。さうして一方には又神の目を傷けた話も多いのである。例へば安蘇郡では足利中宮亮有綱、山烏の羽の箭を以て左の眼を射られ、山崎の池で其目の疵を洗ひ、後に自害をして神に祭られたといふ、京と鎌倉と二種の御靈を總括したやうな傳説がある外に、別に村々には人丸大明神を祭る社多く、其由來として俗間に傳ふるものは、此上も無く奇異である。一つの例を擧げるならぱ、旗川村大字小中(こなか)の人丸神社に於ては、柿本人丸手負となつて遁げ來り、小中の黍畑に逃げ込んで敵を遣り過して危難を免れたが、其折に黍稈の尖りで片眼を潰し、暫く此地に滯在した。そこで村民其靈を神に祀り、且つ其爲に今に至るまで、黍を作ることを禁じて居るといふ(二)

[やぶちゃん注:「下野芳賀郡南高岡の鹿島神社」栃木県真岡市南高岡の鹿島神社。個人サイト「kyonsight」のこちらに詳しい縁起が書かれてある。

「池速別」「いけはやわけ」と読む。以下に書かれた事蹟は、前注のリンク先に、後の注に掲げられてある「下野神社沿革誌」(風山広雄編・明治三六(一九〇三)年刊)の巻六からの引用があり、『社傳に曰く人皇十一代垂仁天皇第九皇子池速別命を勅使として天照大御神を伊勢の五十鈴の川上に崇め奉る 命事の縁に依り東國に下向す 後○病を煩ひ一目を損し還洛する事能はす 遂に下野の高岡の里に止まり住し若田と改め郷人となる 池速別命十八代の裔孫に若田高藤麿と云いふあり 夫婦の間に子なきを憂ひ如何にして一子を得んと朝夕神佛に祈願せしも其効なきを憂ひ大に落膽し神も佛も靈なきかとあしきなき世をかこち居たり 而るに或夜高藤麿の枕邊に白髪の翁現はれ吾は此里の名もなき神なるか汝の常に子無きを憂苦するを視るに忍ひす今汝に告く汝子を得んと欲せは常陸なる鹿島の神に祈り見よ必すその験あらんと云へ終れは忽ち夢覺めぬ 高藤麿暫し茫然たりしか手を打ちて朝夕祈りし神の我を哀み給へて今宵來りて夢に教へ給ひしかな有難しと拜伏し翌朝直に旅装を整ひて出發し幾日を重ねて漸くに常陸の鹿島に着きけれは三十七日の其間御社に齋み籠り一心に祈願しけれは結願の夜夢に妻吉田氏の懐胎するを見て大に喜ひ急き歸郷し其由を妻に告けれは果して其月より子を宿り妊月満ちて』天平七(七三五)年四月二十一日『正午出生せしは玉の如きの男子にて(幼名藤糸丸と稱し後佛門に歸し勝道上人と號す)健康無病にて生長しけれは夫婦の嬉ひ一方ならす』『鹿島に詣てつゝ御分霊を乞請けて』大同元(八〇六)年『正月七日を以て小高き岡の清地を撰みて宮殿を造営し鹿島大神を鎭祭して長へに一村の鎭守産土神と崇敬崇祭す』とある。本文にも出る「勝道上人」(天平七(七三五)年~弘仁八(八一七)年)は天台宗や華厳宗などの教団の流れを汲むと思われる名僧で、日光山の開山で知られる。

「信夫の土湯の太子堂の太子像の、胡麻の稈で眼を突かれたといふ傳説」先の「神片目」の本文及び私の注を参照。

「彦狹島王」「ひこさしまわう(おう)」と読む。崇神天皇皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の孫で、御諸別王(みもろわけのおう[)の父。ウィキの「彦狭島王」に、「日本書紀」景行天皇五十五年二月の条によれば、『彦狭島王は東山道十五国都督に任じられたが、春日の穴咋邑に至り病死した。東国の百姓はこれを悲しみ、その遺骸を盗み上野国に葬ったという。同書景行天皇』五十六年八月の『条には、子の御諸別王が彦狭島王に代わって東国を治め、その子孫が東国にいるとある』。「先代旧事本紀」の「国造本紀」『上毛野国造条では、崇神天皇年間に豊城入彦命孫の彦狭島命が初めて東方十二国を平定した時、国造に封ぜられたとしている』とある。

「淹留」「えんりう(えんりゅう)」と読み、長く同じ場所に留まるの意。

「安蘇郡では足利中宮亮有綱、山烏の羽の箭を以て左の眼を射られ、山崎の池で其目の疵を洗ひ、後に自害をして神に祭られた」「一目小僧(八)」の本文及び私の注を参照。

「旗川村大字小中(こなか)の人丸神社に於ては、柿本人丸手負となつて遁げ來り、小中の黍畑に逃げ込んで敵を遣り過して危難を免れたが、其折に黍稈の尖りで片眼を潰し、暫く此地に滯在した。そこで村民其靈を神に祀り、且つ其爲に今に至るまで、黍を作ることを禁じて居る」同じく「一目小僧(八)」の本文及び私の注を参照。]

 

 神が植物によつて眼を突いたといふ話は多い。其二三をいふと山城伏見の三栖神社では昔大水で御香宮の神輿が流れたとき、此社の神之を拾はうとして葦で目を突いて片目になられた。それ故に十月十二日の御出祭には、大小二本の葺の松明をともして道を明るくする(三)江州栗太郡笠縫村大字川原の天神枇社では、二柱の神が麻の畑へ天降りたまふとき、麻で御目を突いて御目痛ませたまふ故に、行末我氏人たらん者は永く麻を栽ゑるなかれといふ託宜があつた(四)同國蒲生郡櫻川村川合では、河井右近太夫麻畑の中で打死した政に、麻の栽培を忌むと謂つて居た(五)阿波の板野郡北灘の葛城大明神では、天智天皇此地に御船繫りして、池の鮒を釣らんとて上陸なされた時、藤の蔓が御馬の脚にからんで落馬したまひ、男竹で眼を突いて御痛みなされた。それ故に此村の籔には今も男竹が育たぬ(六)美濃の太田の加茂縣主神社でも、大昔加茂樣馬に騎つて戰に行かるゝ時に馬から落ちて薄の葉で日を御突きなされた。それ故に以前は五月五日に粽を作ることを忌んだ(七)信州では小谷の神城村を始め、此神樣が眼を突きたまふと稱して、胡麻の栽培を忌む例が多い(八)或は又栗のいが、松葉などを説くものもある、例のアルプス順禮路の橋場稻核(いねこき)では、晴明樣といふ易者此地に滯在の間、門松で眼を突いて大に難澁をなされ、今後若し松を立てるたらば村に火事があるぞと戒められたので、それから一般に柳を立てることになつた(九)

[やぶちゃん注:「山城伏見の三栖神社では昔大水で御香宮の神輿が流れたとき、此社の神之を拾はうとして葦で目を突いて片目になられた。それ故に十月十二日の御出祭には、大小二本の葺の松明をともして道を明るくする」「一目小僧(十)」の本文及び私の注を参照。

江州栗太郡笠縫村大字川原の天神枇社では、二柱の神が麻の畑へ天降りたまふとき、麻で御目を突いて御目痛ませたまふ故に、行末我氏人たらん者は永く麻を栽ゑるなかれといふ託宜があつた」「一目小僧(七)」の本文及び私の注を参照。

「同國蒲生郡櫻川村川合」現在の滋賀県東近江市の南西部。

「河井右近太夫麻畑の中で打死した政に、麻の栽培を忌むと謂つて居た」柳田國男「日本の伝説」にも引く。

阿波の板野郡北灘の葛城大明神」現在の徳島県鳴門市鳴門市北灘町桑田字池谷。個人サイト「神奈備」の「一言主神を祀る神社一覧」の同神社の由緒には、『天智天皇が九州に御巡幸された時、天皇に随行され阿波の沖を御通過の折、粟田に停泊、この浜より上陸され渓谷にて鯉鮒の釣りをなされる為、 御乗馬にて登られる途中、藤葛にて馬がつまづき神は落馬され呉竹の切株にて御目を傷つけ眼病になられ、その為天皇のお伴が出来ず、永く粟田の地にて御養生された後、御自身も眼病の苦しみを忘れる事なく、 この地の守護神として眼病の者を特に憐みお救いされるという眼病平癒の御誓いにより粟田、大浦、宿毛谷、鳥ケ丸の四ケ村では馬を飼わず、呉竹と藤葛の生える事なく、鯉鮒の育つことのないという不思議な霊験と、その煌々とした御霊徳のおかげをうける人々限りなく、 神を信じ仰ぎ奉る善男善女は願望成就すること広く周知の如くであります』とあり、ここでは眼を突いたのは柳田が以下に言うような天智天皇自身ではなく、それに従っていた一言主神というコンセプトになっている。この方がおかしくない。

「美濃の太田の加茂縣主神社でも、大昔加茂樣馬に騎つて戰に行かるゝ時に馬から落ちて薄の葉で日を御突きなされた。それ故に以前は五月五日に粽を作ることを忌んだ」「一目小僧(七)」の本文及び私の注を参照。

「小谷の神城村」現在の長野県北安曇郡白馬村大字神城(かみしろ)。

「橋場稻核(いねこき)」現在の長野県松本市安曇の集落の一つ。ウィキの「稲核によれば、『稲核は交通の要衝であり、物資輸送の中継地であった。上流には大野川や奈川の集落しかなく、島々までは』四キロメートル『あったので宿泊する者もいた。また大野川や奈川から炭などを積み下ろす際は稲核まで運び、ここを中継地として』『運送を専門にする者に預けることが多かった。しかし』大正一一(一九二二)年に『竜島発電所が建設された際には、奈川渡』(ながわど)『ダムを用水の取入口にしたので、その資材運搬のために道路の大改修が行われ』、二年後に『発電所の工事が始まると、奈川渡まで自動車が通るようになった。このため大野川や奈川などからの荷は奈川渡まで下ろしてトラックに積めばよいことになり、物資輸送の中継地になっていた稲核はその機能を失』い、宿駅機能も同様に絶えた。『近世には、稲核を本村とする枝郷』(えだごう:中世・近世日本に於ける新田開発によって元の村(本郷・元郷)から分出した集落を指す語)『「橋場」があった。橋場は距離的には島々に近いが、稲核の枝郷とされた』。『橋場は梓川の右岸にあり、左岸との間に常時通行可能な雑炊橋があった。このため、近世以前には現在の安曇野市・大町市方面と、松本市・塩尻市方面をいつでも確実につなぐことのできる橋であり、橋場は交通上の要衝であった。このため、松本藩の番所が置かれ、旅人宿や牛宿があった』。『また、橋場の男性の多くが、曲輪(がわ)杣の仕事に従事していた。曲輪杣は、良質な板材を曲物に加工する仕事である』。明治二(一八六八)年に、『下流に新淵橋という橋が架けられたので、交通上の要衝としての地位を失い、集落の繁栄に終止符が打たれた』。二〇一二年一月現在で世帯数は十九、人口四十七人とある。

「晴明樣」以下は無論、全国に散在する怪しげな安倍晴明伝説の一つに過ぎない。]

 

 忌むといふことの意味が不明になつて、神嫌ひたまふといふ説明が起つたことは、もう誰でも認めて居る(一〇)多くの植物栽培の忌は、單に神用であつた故に常人の手を著けるを戒めたといふだけで、神の粗忽がさう頻繁にあつたことを意味しない。兎に角に是だけの一致は或法則又は慣行を推定せしめる。即ち足利有綱に在つては山鳥の羽の箭、景政に於ては烏海彌三郎の矢が、之に該當したことは略疑が無いのである。それよりも玆に問題となるのは、神の名が野州に於て特に柿本人丸であつた一事である。其原因として想像せられることは、、自分の知る限に於ては今の宇都宮二荒神社の、古い祭式の訛傳といふ以外に一つも無い。此社の祭神を人丸と謂つたのは、勿論誤りではあるが新しいことで無い(一一)或は宇都宮初代の座主宗圓此國へ下向の時、播州明石より分靈勸請すとも傳へたさうだがそれでは延喜式の名神大は何れの社かといふことになるから、斷じて此家の主張では無いと思ふ(一二)下野國誌には此社の神寶に夙く人麿の畫像のあつたのが誤解の原因だらうと説いて居るが、それのみでは到底説明の出來ぬ信仰がある。此地方の同社は恐らく數十を算へると思ふが安蘇郡出流原(いづるはら)の人丸社は水の神である。境内に神池あり、舊六月十五日の祭禮の前夜に、神官一人出でゝ水下安全の祈禱を行へば、其夜に限つて髣髴として神靈の出現を見ると謂つた、さういふ奇瑞は弘く認められたものか、特に社の名を示現神社と稱し、又所謂示現太郎の神話を傳へたものが多い。近世の示現神社には本社同樣に、大己貴事代主御父子の神、或は豐城入彦を配祀すとも謂つて居るが、那須郡小木須(こぎす)の同名の社などは、文治四年に二荒山神社を奉還すと傳へて、しかも公簿の祭神は柿本人麿朝臣、社の名も元は柿本慈眼大明神と唱へて居た(一三)さうして此神の勢力の奧州の地にも及んだことは、恰かも此人の末なる佐藤一族と同じであつた(一四)例へば信夫郡淺川村の自現太郎社の如きは、海道の東、阿武隈川の岸に鎭座して、神此地に誕生なされ後に宇都宮に移し奉るとさへ謂つて居る(一五)神を助けて神敵を射たといふ小野猿丸太夫が、會津人は會津に生まれたといひ、信夫では信夫の英雄とし、しかも日光でもその神偉を固守したのと、軌道を一にした分立現象であつて、獨り此二種の口碑は相關聯するのみならず、自分などは諏訪の甲賀三郎さへ、尚一目神の成長したものと考へて居るのである。

[やぶちゃん注:「宇都宮二荒神社」「うつのみやふたあらやまじんじや(じゃ)/ふたらやまじんじや(じゃ)」と読む。現在の栃木県宇都宮市馬場通りにある。東国を鎮めたとする崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祭神として古くより崇敬され、宇都宮は当社の門前町として発展してきた。また、社家から武家となった宇都宮氏がも知られる。

「宇都宮初代の座主宗圓」藤原宗円(そうえん 長元六(一〇三三)年又は長久四(一〇四三)年~天永二(一一一一)年)のこと。ウィキの「藤原宗円」によれば、「尊卑分脈」や「宇都宮系図」などの各種系図上では藤原氏北家の関白藤原道兼の流れを汲み、道兼の孫である兼房の次男とされる人物。『前九年の役の際に河内源氏の源頼義、義家父子に与力し、凶徒調伏などで功績を認められ』、康平六(一〇六三)年に『下野国守護職および下野国一宮別当職、宇都宮座主となるが、もともと石山寺(現在の大谷寺との説もある)の座主であったとも言われ、仏法を背景に勢力を拡大したと考えられている』。またウィキの「宇都宮二荒山神社」の方には、『宇都宮氏の初代当主であり、宇都宮城を築いたとされる摂関家藤原北家道兼流藤原宗円が、当社の宮司を務めたという説もある』とあり、『宇都宮氏は、藤原宗円が、この地の豪族で当時の当社の座主であった下毛野氏ないし中原氏と姻戚関係となり土着したのが始まりであり、当時の毛野川(当時の鬼怒川)流域一帯を支配し、平安時代末期から約』五百年の長きに亙って、『関東地方の治安維持に寄与した名家であ』ったとある。

「名神大」「みやうじんだい」と読む。神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号に由来する名神大社(みょうじんたいしゃ)のこと。ウィキの「名神大社」によれば、『日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の』一つと『され、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる』。「延喜式」巻三の『「臨時祭」の「名神祭」の条下』及び同巻九・十の『「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている』神社を指す。同書には「河内郡」に「二荒山神社」(神名帳)・「二荒神社」(名神祭)と記されてあり、現在の宇都宮二荒山神社に比定されている。

「夙く」「はやく」。

「安蘇郡出流原(いづるはら)の人丸社」現在の栃木県佐野市出流原町の湧水池である弁天池の隣りに建つ涌釜神社(わっかまじんじゃ)神社。祭神は「人丸様」とされ、この池には、人麻呂がこの地に訪れ、杖で岩をついたら水が湧いたという伝説があるという。

「示現」「じげん」と読む。神仏が霊験を示し現すこと。神仏のお告げ。現在も実際に栃木県内にこの名を冠する神社は複数確認出来る。

「示現太郎の神話」祭神としては「古事記」に出る、大国主命と宗像三女神の多紀理毘売(たきりびめ)の間の子である農業神・雷神とされる味租高比古根命(あぢすきたかひこね/あぢしきたかひこね)の異名とする記載があるが、現行では寧ろ、後に柳田が挙げる甲賀三郎の兄ともされる甲賀太郎の神格示現説話としての記載が多い。

「大己貴」「おほなむち(おおなむち)」。大国主。

「豐城入彦」(とよきいりひこ)は前にも出したが、崇神天皇皇子。東国の治定に当たったとされる。

「那須郡小木須(こぎす)の同名の社」現在の栃木県那須烏山市小木須であるが、示現神社は見当たらない。現在の那須烏山市谷浅見にはあるがかなり離れている。社名が変わったか。同地区には熊野・湯殿・浅間・稲積神社を確認出来るが、不明。「文治四年」一一八八年に「二荒山神社を奉還すと傳へて」、「公簿の祭神は柿本人麿朝臣、社の名も元は柿本慈眼大明神と唱へて居た」とあるのだから、ネット検索にかかっても不思議ではないのだが、分らぬ。識者の御教授を乞う。

佐藤一族」柳田の後注(一四)で示される彼の「神を助けた話」(大正九(一九二〇)年玄文社刊)の「五 阿津賀志山」の章で、『夙(はや)く衰えた鎮守府将軍の嫡流、後に北方に移住して無数の佐藤氏を分布した家』系が、宇都宮氏繁栄の宗教上経済上の一勢力ではなかったか、という推定をしている。その神官家系として広く栄えた『佐藤氏』なる一族を指すもののようである。

「信夫郡淺川村の自現太郎社」ロケーションと名から、現在の福島県福島市松川町浅川(あさかわ)にある磁現太郎神社と思われる。

「小野猿丸太夫」かの三十六歌仙の一人。ウィキの「猿丸太夫」に、彼には日光山にまつわる伝説があり、「日光山縁起」に拠れば、『小野(陸奥国小野郷』『のことだといわれる)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫であり、下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が互いに接する神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧めにより、女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利したという話がある』。(ここで柳田の言う「神を助けて神敵を射た」を指す)これにより、『猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったという。下野国都賀郡日光二荒山神社の神職であった小野氏はこの「猿丸」を祖とすると伝わる。また宇都宮明神(下野国河内郡二荒山神社)はかつて猿丸社とも呼ばれ奥州に二荒信仰を浸透させたといわれている』。「二荒山神伝」(江戸初期の儒学者林道春が日光二荒山神社の歴史について漢文で記したもの)にも「日光山縁起」と同様の伝承が記されてある。また、この柳田の考察と関わるものとして、柿本人麻呂と猿丸太夫についての梅原猛の「水底の歌―柿本人麻呂論」が挙げられており、知られるように彼がそこで『二人を同一人物との論を発表して以来、少なからず同調する者もいる』。『梅原説は、過去に日本で神と崇められた者に尋常な死をとげたものはいないという柳田國男の主張に着目し、人麻呂が和歌の神・水難の神として祀られたことから、持統天皇や藤原不比等から政治的に粛清されたものとし、人麻呂が』「古今和歌集」真名序では「柿本大夫」と『記されている点も取り上げ、猿丸大夫が三十六歌仙の一人と言われながら』、『猿丸大夫作と断定出来る歌が一つもないことから(「おくやまに」の和歌も猿丸大夫作ではないとする説も多い)、彼を死に至らしめた権力側をはばかり彼の名を猿丸大夫と別名で呼んだ説である』。『しかしながら』、『この説が主張するように、政治的な粛清に人麻呂があったのなら、当然ある程度の官位(正史に残る五位以上の位階)を人麻呂が有していたと考えるのが必然であるが、正史に人麻呂の記述が無い点を指摘し、無理があると考える識者の数が圧倒的に多い』とある。

「甲賀三郎」ウィキの「甲賀三郎(伝説)」より引く。『長野県諏訪地方の伝説の主人公の名前。地底の国に迷いこみ彷徨い、後に地上に戻るも蛇体(または竜)となり諏訪の神になったなど、さまざまな伝説が残されている。近江を舞台にした伝説もある』。『甲賀三郎にまつわる伝説は膨大な数にのぼる。以下はそのうちのひとつである』。『醍醐天皇の時代、信濃国望月に住む源頼重に、武勇に優れた三人の息子がいた。朝廷の命で若狭国の高懸山の賊退治に駆り出され、三男の三郎がことのほか活躍した。功が弟一人に行くことを妬んだ兄たちは三郎を深い穴に突き落として、帰国してしまった。三郎は気絶したが、息を吹き返し、なんとか生還した。驚いた兄たちは逃げ出し、三郎は兄たちの領地を引き継いで治めた。その後、承平の乱で軍功を上げたことで江州の半分を賜り、甲賀郡に移って甲賀近江守となった』。また、『神道集の「諏訪縁起事」では』、『安寧天皇の子孫に繋がる甲賀権守諏胤は東三十三国を治めていたが、三人の子(太郎・二郎・三郎)があった。三男の甲賀三郎諏方(よりかた)が三笠山明神に参詣したとき、春日権守の孫娘、春日姫と契りを結び、ともに甲賀へ帰った。ある日春日姫は伊吹山で天にさらわれて行方不明になったため、三郎は兄たちに頼んで国中を探し、信濃国蓼科の人穴の底に姫を見つけ、助け出した。しかし姫が忘れた鏡を取りに三郎が穴に戻ると、二郎が綱を切ったため、穴に取り残された。三郎は仕方なく人穴を彷徨い、数十という地底の国を訪ね歩く。最後の国の主の計らいで、鹿の生肝で作った餅を一日一枚ずつ千枚を食べ終えると、信濃国浅間に無事帰ることができた。三郎は甲賀に戻ったが、体が蛇になっていた。僧たちの協力で、三郎は春日姫と再会した。甲賀三郎は諏訪大社の上宮、春日姫が下宮と顕れ、その他の登場人物のそれぞれもさまざまな神になって物語は終了する』。]

 

 併し一方人丸神の信仰が、歌の德以外のものに源を登した例は、既に近畿地方にも幾つと無く認められた。山城大和の人丸寺人丸塚は、數百歳を隔てゝ始めて俗衆に示現したものであつた。有名なる明石の盲杖櫻の如きも(一六)由來を談る歌は至極の腰折れで、寧ろ野州小中の黍畑の悲劇と、聯想せられるべき點がある。防長風土記を通覽すると、山ロ縣下の小祠には殊に人丸さまが多かつた。或は「火止まる」と解して防火の神德を慕ひ、或は「人生まる」とこじつけて安産の悦びを禱つた。又さうでなければ農村に祀るわけもなかつたのである。人は之を以て文學の退化とし、乃ち石見の隣國なるが故に、先づ流風に浴したものと速斷するか知らぬが、歌聖は其生時一介の詞人である。果して高角山下の民が千年の昔に、之を神と祭るだけの理由があつたらうか。若し記錄に明瞭は無くとも、人がさう説くから信ずるに足るといふならぱ、石見では四十餘代の血脈を傳ふと稱する綾部氏(一に語合(かたらひ)氏)の家には、人丸は柿の木の下に出現した神童だといふ口碑もあつた(一六)或は柿の樹の股が裂けて、其中から生れたといふ者もあり(一七)若くは二十四五歳の靑年であつて姓名を問へば知らず、住所を問へば言ひ難し、只歌道をこそ嗜み候へと答へたとも謂ふ(一八)是では井澤長秀の考證した如く、前後十五人の人麿があつたとしても、是は又十六人目以上に算へなければならぬのである。

[やぶちゃん注:「人丸寺人丸塚」かつて奈良県吉野町吉野山子守に存在した世尊寺を指すか。明治の神仏分離により荒廃して廃寺となったが、世尊寺跡には人丸塚と呼ばれる石造物が今も残る。人丸塚はウィキの「世尊寺跡」によれば、『正体不明の仏像石で、かつてあった五輪塔か何かの一部だろうと考えられている。人丸塚の名称の由来も不明で、この石に願をかけると子供に恵まれるので「人生まる塚(ひとうまるつか)」とか、火を防ぐ呪力を秘めているので「火止まる塚(ひとまるつか)」とも伝えられている』とある。

「盲杖櫻」「まうじやうざくら(もうじょざくら)」と読む。人麻呂を祭神とする兵庫県明石市人丸町の柿本神社にある桜に纏わる伝説。ウィキの「柿本神社(明石市)」によれば、『筑紫国から参拝した盲人が、社頭で「ほのぼのとまこと明石の神ならば我にも見せよ人丸の塚」と詠じると、神験によって眼が開いたためにそれまで突いていた杖が不要となり、これを地に刺したところ、それが根付いたという桜の木』とある。

「石見の隣國なるが故に」人麻呂の出自である柿本氏は孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たるが、一説に人麻呂以降、その子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降は益田氏を称して、石見の国人となったされる。人麻呂は官人となって各地を転々としたが、最後には石見国で亡くなったともされる。

「高角」「たかつの」と読む。石見国の高角山のこと。現在の島根県江津市島の星町の中心に位置する島の星山(別名、高角山。標高四百七十メートル)に比定されている。「万葉集」巻二の人麻呂の知られた一首(第一三二番歌)、

石見のや高角山の木(こ)の間より我が振る袖を妹(いも)見つらむか

で知られる。「山下」は「さんか」と読んでおく。

「綾部氏(一に語合(かたらひ)氏)」石見国美濃郡益田にある歌聖柿本人麿を祀る柿本神社の社司は代々彼の子孫とされる綾部氏である。ブログ「神社と古事記」のこちらの同神社の記事によれば、『同名の神社が同市の高津町にもあり、当社が生誕地であるのに対して、高津柿本神社は人麻呂の終焉地にゆかりのある神社。もともとこの辺一帯は、柿本家となじみ深い小野氏が治めた小野郷』とあって、『当社には、江戸中期以後に書かれた』「柿本人丸旧記」及び「柿本従三位人麻呂記」という『二つの縁起が伝えられている。それらによれば、人麻呂は』孝徳天皇九(六五三)年九月十四日、『当地に住むカタライという夫婦のもとに突然現れたという』。『そのときの年齢は』七歳、『美童だったと伝わる。カタライ夫婦はこの少年を引き取って大切に育てた。少年は歌の天才で、その名は宮中まで聞こえた。持統天皇に召されて高位に昇り、柿本人麻呂という名を賜った。晩年、故郷に戻り』、『この地で死んだという』。『カタライ家はその遺髪を貰い受けて墓を築いたものが、今に伝わる遺髪塚だと思われる。同時に、人麻呂の像を作って社に祀った、それが当社の創祀と考えられる。社殿は神亀年間』(七二四年~七二九年)に『創建されたと伝わる』。神体は老体の人麻呂像であるが、それとは別に七体の像が存在し、一体は童子姿の人麻呂像、二体は「カタライ」夫婦像、四体は従者像であったというが、文化一四(一八一七)年の火災で焼失、現在のものは津和野藩藩命によって文政年間(一八一八年~一八三一年)に再造されたものとある。『現在ではカタライは、語らい、語家と考えられており、かのカタライ夫婦は宮司家綾部氏に連なる』とある。また、『綾部氏には、上記の縁起とは違う言い伝えが残されている。それによれば、柿本氏は語り部(かたりべ)の綾部氏を伴って大和国から石見国に下り、のち綾部氏の娘を愛して人麻呂が生まれた、とする。こちらの方が、柿本氏が大和国ゆかりと言われる通説に符合する』ともある。

「井澤長秀」(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)は神道家・国学者。号は蟠龍。肥後熊本藩士井沢勘兵衛の子で、山崎闇斎の門人に神道を学んだ。宝永三(一七〇六)年の「本朝俗説弁」の出版以後、旺盛な著述活動に入り、「神道天瓊矛記」などの神道書、「菊池佐々軍記」などの軍記物、「武士訓」などの教訓書、「本朝俚諺」などの辞書、「肥後地志略」などの地誌と、幅広く活躍した。なかでも考証随筆「広益俗説弁」(全四十五巻・正徳五(一七一五)年~享保一二(一七二七)年)はよく読まれ、後の読本の素材源ともなった。また、「今昔物語」を出版しており、校訂の杜撰さが非難されるものの、それまで極めて狭い範囲でしか流布していなかった本書を読書界に提供した功績は小さくない(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」の白井良夫氏の解説に拠った)。ここに出る、「広益俗説弁」の「巻八 公卿」の「柿本人麻呂、柿木より生ずる説、附同人、上総国にながさるゝ説」を管見したが、人麻呂「十五人」の数字は見えない。柳田の引用元を御存じの方、御教授を乞う。]

 

 播磨の舊記峯相記の中には、明石の人丸神寶は女體といふ一説を錄して居る。因幡の某地にあつた人丸の社も、領主龜井豐前守の實見談に、内陣を見れば女體であつたといふ(一九)さうすると芝居の惡七兵衞景淸の娘の名が、人丸であつたといふ話も亦考へ合される。景淸の女を人丸といふことは、謠曲にはあつて舞の本には無い。盲目になつて親と子の再會する悲壯たるローマンスも、さう古くからのもので無いことが知れる上に、景淸目を拔くといふ物語すらも、資は至りて賴もしからぬ根據の上に立つのである。それにも拘らず日向には儼たる遺迹があつて神に眼病を禱り、又遠近の諸國には屢々其後裔と稱する者が、連綿として其社に奉仕して居る。卯ち是も亦一個後期の權五郎神であつたのである(二〇)その一つの證據は別に又發見せられて居る。

[やぶちゃん注:「峯相記」「みねあひき(みねあひき)」(但し、音読みして「ほうそうき」「ぶしょうき」とも読むらしい)は鎌倉末から南北朝期の播磨国地誌。作者不詳であるが、正平三/貞和四(一三四八)年に播磨国の峯相山(ほうそうざん)鶏足(けいそく)寺(現在の兵庫県姫路市)に参詣した旅僧が同寺の僧から聞書したという形式で記述されている。

「舞の本」は中世芸能の一種であった幸若舞(こうわかまい)の詞章を記したもの。曲舞(くせまい)の一流派の後裔。室町期に流行した。] 

 

(一) 下野神社沿革誌卷六。

[やぶちゃん注:本文中に既注。]

(二) 此二件とも安蘇史に依る。

[やぶちゃん注:明治四二(一九〇九)年安蘇郡役所刊荒川宗四郎著か。]

(三) 日本奇風俗に依る。

[やぶちゃん注:明四一(一九〇八)年大畑匡山編。国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像で読める。]

(四) 北野誌首卷附錄。たゞ御目痛ませたまふといふのは、現在片目では無いからであらう。しかも二柱の神といふを見れぱ明かに菅原天神では無かつた。

[やぶちゃん注:北野神社社務所編明四三(一九一〇)年刊。現在の京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町にある北野天満宮の社史。「北野神社」は同神社の旧称(同社は明治四(一八七一)年に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名、「宮」を名乗れなかったのは、当時のその条件が、祭神が基本的に皇族であること(同社の祭神は菅原道真)、尚且つ、勅許が必要であったことによる。古くより親しまれた旧称「北野天満宮」の呼称が復活したのは、実は戦後の神道国家管理を脱した後のことであった。この部分はウィキの「北野天満宮」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら当該箇所リンク)の画像で視認出来る。]

(五) 蒲生郡誌卷八。是は目を突いた例で無いが、必ず同じ話である。神輿を麻畠に迎へ申す例は方々にある。

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年滋賀県蒲生郡編「近江蒲生郡誌」であろう。]

(六)傅説叢書阿波の卷。出處を言はざるも「粟の落穗」であらう。池の鮒といふのは此社の池の魚であつて、やはり片目を説いたものらしい。

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年日本傅説叢書刊行藤澤衛彦編著「日本伝説叢書阿波の巻」。「粟の落穗」というのは、野口直道の手になる江戸末期の阿波国の地誌と思われる。]

(七) 郷土糾究四卷三〇六頁、林魁一君。

[やぶちゃん注:「林魁一」(はやし かいち 明治八(一八七五)年~昭和三六(一九六一)年)。既注であるが、再掲しておく。岐阜出身の考古学者。岐阜中学卒。坪井正五郎の指導で研究を始め、明治三十年代の初め頃から郷里の美濃東部や飛騨地方を調査して論文を発表、有孔石器・御物石器(ぎょぶつせっき/ごぶつせっき:繩文時代の磨製石器であるが、宮中に献上されたためにこの名を持つ。太い棒状であるが中央よりやや片方寄りに縊れた部分があってそこから細くなっており、全体は鉈のような形状を成す。また、文様も施されている)を発見したことで知られる。著作に「美濃国弥生式土器図集」。]

(八) 小谷口碑集一〇三頁。

[やぶちゃん注:小池直太郎編。]

(九) 南安曇郡誌。

[やぶちゃん注:長野県の旧南安曇郡(現在の安曇野市の大部分と松本市の一部)の地誌。長野県南安曇郡編纂で発行所は南安曇郡教育会。発行は大正一二(一九二三)年。]

(一〇) 始めて之を説いたのは十三年前の小著「山島民譚集」葦毛馬の條であつた。

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年刊の現在「山島民譚集(一)」とされるものの、「馬蹄石」の冒頭の「葦毛ノ駒」の中ほどであるが、実に鎌倉権五郎の名がまさに例として語られる前後に書かれている。国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(当該箇所リンク)の画像で視認出来る。]

(一一) 和漢三才圖會の地理部にも、當然のやうにしてさう書いてある。、

[やぶちゃん注:「卷ノ六十六」には、

   *

宇都(ウツノ)宮大明神 在宇都宮城艮 社領千七百五十石

祭神 柿本人麻呂靈  神主  社僧【杉本坊 田中坊】

  神傳詳于播州明石下

   *

とあって「卷ノ七十七」の播州の「人丸社」には凡そ二頁分を費やして人麻呂についての記載がある。]

(一二) 下野西南部の人丸社では、今日はもう宇都宮との關係を忘れて、藤原定家此地方に來遊して、此神を祀り始めたといふ一説が行はれて居る。定家流寓の傳説は又群馬縣にも多い。無論事實では無い故に、旅の語部の移動の跡として、我々には興味が多いのである。

[やぶちゃん注:私は定家嫌いなので触手は動かぬ。悪しからず。]

(一三) 以上すべて下野神社沿革誌に依る。

(一四) 拙著「神を助けた話」には、宇都宮の信仰の福島縣の大部分を支配して居たことを述べてある。

[やぶちゃん注:本文注で既注。]

(一五) 民族一卷五六頁及び其註參照。

(一六) 百人一首一夕話に依る。上田秋成の説らしから小説かも知れぬ。菅公が梅の本に現れたといふ、と一對の話で、我々は便宜の爲に之を樹下童子譚と呼んで居る。

[やぶちゃん注:「百人一首一夕話」(ひゃくにんいっしゅひとよがたり)は江戸後期の学者尾崎雅嘉(まさよし 一七五五年~一八二七年)が著わした異色の「百人一首」注釈書。但し、私の所持する岩波文庫版の「柿本人麻呂」の条には盲目桜についての記載はない。不審である。]

(一七) 本朝通紀前篇上。

[やぶちゃん注: 元禄一一(一六九八)年長井定宗編になる日本通史。]

(一八) 滑稽雜談卷五(國書刊行會本)にさう書いてある。

[やぶちゃん注:俳諧歳時記。京都円山正阿弥の住職四時堂其諺(しじどうきげん)著。正徳三(一七一三)年成立。類書中でも飛び抜けて詳説なもので、広く和漢の書を典拠としつつ、著者の見聞を加えて考証している。]

(一九) 戴恩紀上卷、存採叢書本。

[やぶちゃん注:「戴恩記」「たいおんき」と読む。松永貞徳著の歌学書。全二巻。正保元(一六四四)年頃に成り、天和二(一六八二)年に刊行された。著者の師事した細川幽斎・里村紹巴らの故事やその歌学思想を平易に述べたもの。]

(二〇) 景淸と景政と、同一の古談の變化であらうと説いた人はあつた。自分は必ずしも之を主張せんとせぬが、少なくともカゲもマサもキヨも、共に示現神即ち依女依童と、緣のある語であることだけは注意して置かねばならぬ。

[やぶちゃん注:「依女依童」「よりめ・よりわらは(よりわらわ)」と読む。所謂、神霊や物の怪など憑依させる「依巫(よりまし)」「依代(よりしろ)」である。これは、言霊信仰から見ても非常に肯んじ得る謂いと言える。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 大人國(1) つまみあげられた私

   大人國

    つまみあげられた私

 

 私はイギリスに戾つて二ケ月もすると、また故國をあとに〔、〕ダウンスを船出しました。一七〇二年六月二十日、〔私の乘つた〕船は、「アドベンチュア號」でした。翌年、三月、 〔船〕がマダガスカル海峽を過ぎる〔頃〕までは、無事な航海でしたが、その〔島の北の〕あたり〔から、〕海が荒れだしました。〔そして〕二十日あまりは〔、〕難儀な航海をつづけました〔。〕が、そのうち風もやむし、波もおだやかになつたので、私たちは大へん喜んでゐました。ところが、船長は、この辺の海のことをよく知つてゐる男でした。暴風雨が來るから、すぐ、その用意をするやう〔一同に〕〔にと〕命令しました。はたして、次の日から暴風雨がやつて來ました。

[やぶちゃん注:現行版では『「アドベンチュア號」でした。』で改行されている。また「〔にと〕」は、ない。]

 帆は私たちの〕船は荒れ狂ふ風と波にもまれ、私たちは一生懸命、奮鬪しましたが、〔が、〕なにしろ、恐ろしい嵐で、海はまるで気狂のやうでした。〔海はまるで氣狂のやうでした。〕船はずんずん押し流されて〔ゆきました。 やがて暴風雨がやんだ時には、〕、どこに自分たちがゐるのやら、もう見當がつかなくなりました。〔私たち〔の船は〕どこともしれない海の上を〔漂つて〔陸を求めて〕進んでゐました。〕しかし船にはまだ、〔船には〕〕食べもの〕糧も充分あ〕るし、船員はみんな元気でしたが、たゞ困るのは水でした。

 すると、ある日、マストに上つてゐた少年が陸を陸を見つけました。

 「陸が見える」

 と叫びました。それが〕一七〇三年六月十六日のことでした。した。〕翌日になると、何か大きな島か陸地らしいものが、みんなの目の前に見えて来ました。その南側に小さい岬が海に突き出てゐて、淺い入江が一つできていゐました。

[やぶちゃん注:現行版は以下。異同箇所に下線を引いた。

   *

 船は荒れ狂う風と波にもまれ、私たちは一生懸命、奮闘しましたが、なにしろ、恐ろしい嵐で、海はまるで気狂のようでした。船はずんずん押し流されて、どこに自分たちがいるのやら、もう見当がつかなくなりました。[やぶちゃん注:自筆稿改行なし。]

 私たちの船は、どこともしれない海の上を、陸を求めて進んでいました。まだ、船には食糧も充分あるし、船員はみんな元気でしたが、たゞ困るのは水でした。[やぶちゃん注:自筆稿はここで改行。]ある日、マストに上っていた少年が

「陸が見える

 と叫びました。

 それが一七〇三年六月十六日のことでした。翌日になると、何か大きな島か陸地らしいものが、みんなの目の前に見えてました。その南側に小さ岬が海に突き出ていて、浅い入江が一つ出来ていました。

   *]

 私たちは、その入江から一リーグばかり手前で〔、〕錨をおろしました。もしか水が見つかりはせぬだらうかといふので、とにかく、水がほしかつたので、みんな水を欲しがつてゐたので、〕船長は船員を十二人の船員に、武裝させて〔水桶を持たせて〕、ボートに乘せて、水さがしに出しました。私もその陸が見〔の國が見〕たいのと、何か發見でもありはしないかと思つたので、〔賴んで〕一緒にそのボートに乘せてもらひました。

[やぶちゃん注:「一リーグ」既注であるが再掲する。ヤード・ポンド法の単位であるが、時代によって一定しないが、凡そ、一リーグ(league)は三・八~七・四キロメートルの範囲内にある。本書公刊よりもずっと後であるが、イギリスで十九世紀頃に定められた現在の「一リーグ」は「三マイル」で「約四・八二八キロメートル」である。但し、海上では「一リーグ」を「三海里(nautical mile:ノーティカル・マイル:現在の国際海里では一八五二メートルに規定)」として使うこともあるので、前者ならば十四・五キロメートル弱、後者の海里換算なら五・五キロメートル強となる。ここは海里換算の方が自然な距離である。]

 ところが、上陸してみると、川もなければ、泉もなく、〔ここには〕人一人住んでゐさうな樣子〔る樣子も〕〕ないのでした。船員たちは〔、〕どこか〔淸〕水がないかと、海岸〔を〕あてもなく步き𢌞〔ま〕はつてゐましたが、私は別の方角へ一哩ばかり一人で步いて行きみました。だが、あたりは石ころばかりの荒れ地でした。面白さうなものも別に見つからないし、そろそろ疲れて來たので、私は入江の方へブラブラ引返して〔ゐ〕ました。海が一目に見わたせるところまで來てみると、今、船員たちは、もう〔ちやんと〕ボートに乘込んで、一生懸命に本船めがけて漕いでゐるのです。

 私はとても駄目とは思ひましたが、〔おい待つてくれ、と私は〕大声で呼びかけようとして、ふと氣がつきました。恐ろしく大きな怪物動物怪物大きな人間〕がグングン海をわたつて、ボートを追つかけてゐるのです。水は膝〔の〕あたりしかないのですが〔海のなかを〕、〔その男は〕〔恐〕ろしい大跨で步いてゆきます。だが、ボートは半リーグばかりも先に進んでゐたし、あたりは〔、〕鋭い岩だらけの海だつたので〔、〕この怪物も〔、〕ボートに追いつくことはできなかつたのです。

[やぶちゃん注:「大跨」「おほまた(おおまた)」と訓ずる。「大股」に同じい。

「半リーグ」前注の海里換算なら、二・七五メートル。]

 もつとも、これは後から聞いた話〔なの〕です。そのとき〔は〕、私はそんなものを見てゐるどころではありません。なかつたのです〔か、ではありません〕。〔もと來た道を〕夢中で駈けだしました。すと、し、〕〔それから私は、〕かにか〔とにかく〕嶮しい山のなかを攀ぢのぼりました。山の上にのぼつてみると、あたりの樣子がいくらかわかりました。土地はみごとに耕されてゐますが、何より私を驚かしたのは〔、〕草の長さでした。高さ大きさ大きいことです。〕そこらに生えてゐる草といふの長の高さ〕のが、〔さ〔が〕〕二十呎からあるのです。〔以上ありました。〕

[やぶちゃん注:「草といふの長の高さ〕のが、〔ささが〕」の「さ」のダブりはママ。現行版は無論、『草の高さが』となっている。

「二十呎」約六メートル十センチ弱。]

 やがて、私は國道へ出ました。〔國道〕といつても、その〔實は〔、〕〕麥畑の中の小徑なのでしたが、私には〔、〕まるで國道のやうに思へたのです。しばらく、この道を步いてみましたが、兩側とも〔、〕殆ど何も見えないのでした。とりいれも近づゐた麥が〔、〕四十呎からの高さに〔、〕伸びてゐるのです〔ます〕。一時間ばかりもかかつて、この畑の端へ出てみると、〔高さ〕百二十呎もある〔垣〕で、この畑が圍まれてゐるのがわかりました。だが、樹木などは〔、〕あんまり高いのでどれ位なのか〔私には〕見當がつきませんでした。

[やぶちゃん注:「四十呎」十二メートル二十センチ弱。

「百二十呎」三十六メートル五十八センチ弱。]

 この畑から隣りの畑へ行くのに〔通じる〕段々があり、それが四段になつてゐて、一番上の段まで行くと、一つの石を越える〔またぐ〕やうになつてゐました。一段の高さが六呎もあつて、上の石は二十呎以上もあるので、とても私には〔、〕そこは通れませんでした。

[やぶちゃん注:「六呎」一メートル八十三センチ弱。

「二十呎」約六メートル十センチ弱。]

 どこか垣に破れ目でもないか〔しら〕と探してゐると、隣りの畑にゐた〔から〔、〕一人〕の人間が一人こちらの段々の方へやつて來ました。人間といつても、〔こ〕れは、さつきボートを追かけてゐたのと同じ位の大きなもの〔怪物〕です。背の丈は〔、〕塔の高さ位はあり、一步〕あるく幅が〔、〕十ヤードからありそうでした〔す〕。私は膽をつぶして、麥畑のなかに逃げ込んで〔、身を〕隱〔し〕てました。

[やぶちゃん注:「十ヤード」三メートル強。]

 そこから見てゐると、〔その男〕は段々の上に立ち上つて、右隣りの畑の方を振向いて、何か大声で叫びました。その〔声〕のもの凄いこと、私ははじめ雷かと思つたくらゐでした。

 すると、手に手に鎌を持つた〔、〕同じやうな〔、〕七人の怪物が、ぞろぞろと集つてくるではありませんか。鎌といつても、普通の大鎌の六倍からあるのを持つてゐるのですが、が、〕この七人は、あまり身なりもよくないので、召使らしく思へました。はじめの男が何か云ひつけると、彼等は私の隱れてゐる畑を刈りだしました。

 私はできるだけ遠くへ逃げようとしましたが、この逃げ路が〔、〕なかなか難儀でした。なにしろ〔時には〕株と株との間が一呎しかないところもあります。これでは〔、〕私の身躰でも〔なかなか〕、通り〔にく〕いのでした。どうにかこうにか進んでゐるうちに、麥が風雨で倒れてしまつてゐるところへ出ました。もう、〔私は〕一步も前進できません。莖がいくつも絡みあつてゐて、潜り拔けることも出來ないし、倒れた麥の穗さきは、ナイフのやうに尖つてゐて、それが〔、〕私の洋服ごしに〔、〕私の身躰を〔、〕突き刺しさうなのです。

[やぶちゃん注:「一呎」三十センチ四十八ミリ。何故か、現行版は他では『一フート』とあるのに(単数形だからというのであろう)、ここだけ『一フィート』である。不審というより子供向けなのにこんな辛気臭い正確な英語単位の区別は混乱するだけであろう。全部、「フィート」すりゃ、いいに!]

 さうかうしてゐるうちに、鎌の音は、百ヤードとない後から〔、〕近づいて來ます。私はすつかり、へたばつて、〔もう〕立つてゐる元気力〕もなくなりました。畝と畝との間に橫になると、いつそ〔、〕このまま死んでしまひたいと思ひました。私は殘してきた〔、〕妻や子〔供〕のたちのことを〔が、〕眼に浮んできました。みんながとめるのもきかないで、航海に出たのが〔、〕今になつて 無念〔無念〕でした。ふと、私はリリハットのことも思ひ出しました。あの國の住民たちは、〔この〕私を、驚くべき怪物として、尊敬してくれましたし、あの國でなら、一艦隊をそつくり引きずつてかへることだつて出來たのです。だが、こここのここ〕では〔、〕私はこんな〔とてつもない〕大きな連中のなかでは〔にあつては〕、この私はまるで芥子粒みたいなもの〔なの〕です。今に誰かこの大きな怪物の一人に捕まへられ〔つ〕たら、私は一口に〔パクリと〕喰はれてしまうでせう。しかし、この世界の果てには、リリパットよりもつと小さな人間(画像外で不明)〕ゐるかもしれないし、今〔こ〕こ〔にゐる〕大きな人間よりもつともつと大きな人間だつてゐるかもしれないと、私は恐怖で氣が遠くなつてゐながら、まだ、ここ〕んなことを思ひつづけてゐました。

[やぶちゃん注:「しかし、この世界の果てには、リリパットよりもつと小さな人間(画像外で不明)〕ゐるかもしれないし、今こ〔こ〕この〔にゐる〕大きな人間よりもつともつと大きな人間だつてゐるかもしれないと、」の部分は、右上部罫外に左を上にして縦書されてあり、「」の訂正箇所は底本ブラウザの画像外で不明である(なお、以下の現行版を参照のこと)。

   *

 そうこうしているうちに、鎌の音は、百ヤードとない後から、近づいて来ます。私はすっかり、へたばって、もう立っている力もなくなりました。畝うねと畝との間に横になると、いっそ、このまゝ死んでしまいたい、と思いました。私は、残してきた妻や子供たちのことが、眼に浮んできました。みんながとめるのもきかないで、航海に出たのが、今になって無念でした。ふと、私はリリパットのことも思い出しました。あの国の住民たちは、この私を、驚くべき怪物として、尊敬してくれたし、あの国でなら、一艦隊をそっくり引きずって帰ることだってできたのです。

 だが、こゝでは、こんな、とてつもない、大きな連中に会っては、この私はまるで芥子粒けしつぶみたいなものです。今に誰かこの大きな怪物の一人につかまったら、私は一口にパクリと食われてしまうでしょう。しかし、この世界の果てには、リリパットより、もっと小さな人間だっているかもしれないし、その世界の果てには、今こゝにいる大きな人間より、もっともっと大きな人間だっているかもしれないと、私は恐怖で気が遠くなっていながら、こんなことを思いつゞけていました。

   *

「百ヤードとない」九十一メートルもない。]

 そのうちに、刈手の一人が〔、〕私の寢てゐる畝から〔、〕十ヤードのところまで〔、〕近づいて來ました。もう〔、〕この次には〔、〕〔私は〕足で踏み潰されるか、鎌で眞二つに切られるかと生きた気持はしませんでした。思ひました。するにちがひありません。さうでした。るかもわかりません。〕その男が動きかけると、私は思はず大声で叫びました。〔喚きちらし救けを〕求めました。

[やぶちゃん注:改稿併存はママ。現行版では、

   *

 そのうちに、刈手の一人が、私の寝ている畝うねから、十ヤードのところまで、近づいて来ました。もう、この次には、足で踏みつぶされるか、鎌で真二つに切られるかもわかりません。その男が動きかけると、私は大声でわめきちらし、助けを求めました。

   *

となっている。

「十ヤード」九メートル十四センチ強。]

 巨人(おうおとこ)は思はふと〕〔立ち〕どまつて、しばらく〔、〕あたりを見𢌞してゐましたが、ふと、私が私がふと〔、〕〕地面にひれ伏してゐる〔私〕を〔、〕見つけ〔出し〕ました。この小さな〔、〕危險な〔、〕動物を〔、〕騷がれないやうに、嚙まれないやうに〔、〕つかまへるには、どうしたらいゝのかしら、といつた顏つきで、彼はしばらく考へてゐました。私もイギリスで〔、〕いたちや鼠をつかまへるときには、ちよつとこんなふうにしたものです。

[やぶちゃん注:「巨人(おうおとこ)」現行版にはこのルビは存在しない。原民喜がかく読ませようとしていたことを知る貴重な部分である。]

 〔と〕うとう、彼は思ひきつて、人差指と拇指で、私の腰の後の方をつまみあげると、私の形をもつとよく見るために、目から三ヤードのところへ、持つて行きました。私は〔、〕彼のしてゐることがよくわかつたので、安心して落着いてゐました。かうして、地上から六十呎の高さにつまみ上げられてゐる間は、じつとしてゐようと思ひました。ただ〔、〕苦しかつたのは、私を指からすべり落すまいとして、ひどく〔、〕脇腹をしめつけられてゐることでした。

[やぶちゃん注:「六十呎」十八メートル二十九センチ弱。]

 私は〔ただ〕天を仰ぎ兩手を合せながら、〔助けてもらひたひたやうにお願いするやうに〕情ない哀れつぽい調子で〔、〕何かと言つてみました。といふのは、私たちが厭な小動蟲など殺さうとする時に〕〔す場合〕、〔それをよく〕地面にパッとたたきつけますが、〔るものですが、〕それをやられはしないかとそれを〔、〕今やられはすまいかとあんな風にあはされるのか、〕と心配でならなかつた〔から〕の〔から〕です。

[やぶちゃん注:現行版は、

   *

 私はたゞ、天を仰ぎ両手を合せながら、お願いするように、哀れっぽい調子で、何かと言ってみました。というのは、私たちが厭な虫など殺す場合、よく地面にパッとたゝきつけるものですが、あれを今やられはすまいかと、心配でならなかったのです。

   *

で、最後の一文が推敲前の形に戻っていることが分かる。]

 だが、幸いなことに、彼〔に〕は私の聲や身振りが氣に入つたやうでした。私がはつきり言葉を話すので、その意味は彼にはわからなかつたのですが、ものが云へるのに驚いて、つくづくつくづく〕〔ホウ、ものが云へるのか、と驚いたやうな顏つきで、目をみはつて〔彼は珍しげに〕私を眺めるのでした。私はさうされてゐても〔その間にも、〕〔私は、彼の指で、脇腹を〕しめつけられてゐるのが〔、〕苦しかつたくなつた〕ので、呻いたり泣いたりして、一生懸命、そのことを〔身振りで〔〕〕知らせました。

 〔すると、〕彼にもその意味がわかつたらしく、上衣の垂れをつまみ上げて、その中に〔、〕そつと私を入れました。それから大急ぎで〔、〕主人のところへ駈け〔つけ〕て行きました。主人といふのは、私が最初に畑で見た男でした。

 その主人は〔その主人は、〕召使が〔私のことを〕話すのを〔默つて〕聞〔きおはると、〕いてゐましたがから話を聞くと、が話すのを、じっと聞いてゐました〕が、杖ほどもある藁すべをとつて、それで〔、〕私の上衣の垂れを〔、〕めくつて見ました。〔りあげました。〕〔何か〕〔彼は〕この私の洋服〔は〕〔、〕私の身躰に〔、〕生れつき〔、〕くつついてゐる皮〔ものやうにのと〕か何か〕と思つたのでせう。つぎには私の〔私の〕髮〔の毛〕にフーと息をふきかけて〔それから、私にフーと息をふきかけて、髮をわけると私の髮の毛をフーと息ではらひながら〕、〔私の〕顏をしげしげ眺めました。それから、(これはあとになつてわかつたのですが)作男たちを呼びあつめると、これまでこんな小さな動物を畑で見たことがあるか〔〕と〔、〕みんなに〔、〕たづねました。それから〔、〕私を〔、〕そつと〔、〕四つ這ひのまま〔の恰好で〔、〕〕地面におろしてくれました。

[やぶちゃん注:「つぎには私の〔私の〕髮〔の毛〕にフーと息をふきかけて〔それから、私にフーと息をふきかけて、髮をわけると私の髮の毛をフーと息ではらひながら〕、〔私の〕顏をしげしげ眺めました。」の箇所の書き換えの併存はママ。現行版では、

   *

 その主人は、召使が話すのを、じっと聞いていましたが、杖ほどもある藁(わら)すべを取って、それで、私の上衣の垂れを、めくりあげました。この洋服は、私の身体に、生れつきくっついているものと思ったのでしょう。それから、私の髪の毛に、フーと息を吹きかけて、髪を分けると、顔をしげしげ眺めました。それから、(これはあとになって、わかったのですが)召使たちを呼び集めると、これまでこんな小さな動物を畑で見たことがあるかと、みんなに、尋ねました。それから、私を、そっと、四つ這いのまゝの恰好で、地面におろしてくれました。

   *

となっている。]

 私はすぐに立ち上つて、〔逃げ出すつもりのないことを見せるために〕ゆるゆるとあたりを步きまはつてみせ〔り〕ました。すると〔、〕みんなは〔、〕私の動きぶりを〔、〕よく見ようとして〔、〕私のまは〔をかこ〕んで〔、〕坐りこんでしまひました。私は帽子を取つて、百姓にていねいに〔、〕おじぎをしました。それから、ひざまづいて、兩手を高く差し上げ、天を仰いで大声で、二こと三こと話しかけました。そして、ポケットから〔、〕金貨の入つた財布を取り出して、うやうやしく彼のところへ持つてゆきました。

 彼はそれを掌で受取つてくれましたが、目のそばへ持つて行つて、何だらうかとしらべて〔、ながめて〕ゐました。〔そして、〕袖口からピンを一本拔きとつて、その先で何度も〔、〕掌の上の財布をひつくりかへしてゐましたが〔、〕〔やはり〕〔、〕何だかわからないやうでした。

 そこで、私は手眞似で、その〔掌の〕財布を下に置いてくれ、と言ひました。財布が下に置かれると私はそれを手に取つて、中を開いて、金貨をみんな彼の掌の上にこぼし〔ばらまき〕ました。四ピストルのスペイン金貨が六枚と、ほかに小さな〔錢〕が二三十枚ありました。見ると〔、〕彼は小指の尖を舌で濡しては、大きい〔方〕の金貨を一枚一枚つまみ上げてゐましたが、やはり、それがなにだか〔、〕さつぱりわからないらしいのです。

[やぶちゃん注:「四ピストルのスペイン金貨」原文は“six Spanish pieces of four pistoles”で、“pistole”(ピストーレ:スペイン語“pstols”が語源で「金属板」の意)は十七~十八世紀に西欧で流通したスペイン金貨のこと。イギリスでは何度かピストーレ金貨が鋳造されているようであるが、ここは「スペイン」と限定しているので、真正のスペイン古金貨のそれ。英和辞典には価値は2エスクード相当とあるが、当時の価値はよくわからない。しかし、ネット上の記載を見る限りでは明治初期の一円以上の価値はらくにありそうな感じである。識者の御教授を乞う。

「尖」「さき」と読ませている。現行版は『先』である。]

 彼は手まねで私に、もう一度これを財布におさめて、ポツトに入れておけ〔、〕と云ふのでした。私は何度もそのお金を彼に差出してみましたが、結局やはり彼の云ふとほりにおさめておきました。

 その時には〔そのうちに、〕もう百姓〔に〕は〔、その時には〕私が理性的な生き物〔(人間)〕だ、といふことが〔、〕わかつてゐました〔たのです〕。彼は何度も〔、〕私に話しかけましたが、その声は〔、〕まるで水車の響のよう〔で、〕私の耳は破れさうでした。私も〔、〕知つてゐるかぎりの〔いろんな〕外國語を使つて〔、〕力一ぱいの〔大〕声で〔、〕話しかけてみました。すると向は〔、〕耳をすぐ私のそばに持つて來て、〔しきりに熱心に〕きかうとする〔きいてくれる〕のですが、駄目でした。私たちの話し〔云ひ〕合つてゐる言葉は〔、〕お互に意味が通じません〔ないの〕でした。

 召使たちはまた麥刈にとりかかりましたが、主人はポケツトから、ハンカチをとりだし、二つ折りにして〔、〕左手の上にひろげ、その掌を地面の上に差しだして、この中に入つてこいと、手眞で〔手眞似で〔、〕〕私に合圖をし〔ま〕す。その掌の厚さは一呎ぐらゐでしたから、私〕もらくに〔のぼ〕れさうでした〔るのです〕。〔今は〕とにかく主人の云ふとおりにし〔てゐ〕ようと思ひました。

[やぶちゃん注:「一呎」三〇・四八センチメートル。]

 〔それで、〕私は落つこちない〔や〕うに用心しながら〔、〕ハンカチの上に長くなつて寢ころびました。すると〔、〕彼はハンカチの端で〔、〕大切私の頭のところを大切そうにくるんでしまひ、そのまま家に持つて行きました。

 家に歸ると〔、〕彼は早速、細君を呼んで〔、〕ハンカチの中の〔もの〕を見せました。〔丁度イギリスの女が〔、〕ひきかへるや、くもを見たときのやうに、〕きやあ!と細君は叫んで〔叫んで、細君は〕飛びのきました。しかし、暫く私の樣子を見てゐるうちに、〔そばで見てゐるうちに、〕私が主人の手眞似がよくわかるの〔で私がいろんな〕ことをするの〔を見て〕、細君は〔、〕すつかり感心して〔しまひました。そして〕今度は、だんだんと私にやさしくしてくれるやうになりました。

[やぶちゃん注:現行版では、

   *

 家に帰ると、彼はさっそく、細君を呼んで、ハンカチの中のものを見せました。ちょうど、イギリスの女が、ひきがえるくもを見たときのように、「きゃあ……」と叫んで、細君は跳びのきました。しかし、しばらくそばで見ているうちに、主人の手まねで私がいろんなことをするのを見て、細君はすっかり感心してしまいました。そして今度は、だんだんと私にやさしくしてくれるようになりました。

   *

である(太字の『ひきがえる』『くも』は底本では傍点「ヽ」)。私はこの現行版の『……』は実は「!」の誤植ではないかと疑っている。原文は間接話法になっており、自筆稿(鍵括弧はない)の「!」は一見、二点リーダ(「」)のように見えてしまうからである。]

 正午頃になると〔、〕一人の召使が〔、〕食事を持つて來ました。それは〔、〕〔いかにも〕お百姓の食事らしく、肉をたつぶり盛つた皿が、ただ一つだけ運ばれた〔出された〕のでした。しかし〔しかし〕、それは直徑〔が〕二十四呎もある〔大きなお皿〕でした。

[やぶちゃん注:「二十四呎」七メートル三十一センチ五ミリ。]

 ここの家族はテイブル食堂〕には主人と細君と、子供が三人、それに、年よりの祖母が一人でしたが、集まりました。やつて來ました。〕みんながテーブルにつくと、主人は私をテーブルの上の、〔にあげて、〕少し彼の〔彼から離れ〕たところにおきました。〔その〕テーブルは〔、〕床から〔高さ〕三十呎もある〔の〕ですから、私は怖くてたまらないのです。落つこちないやうに、できるだけ、まんなかの方へ〔よ〕つて行きました。

[やぶちゃん注:「三十呎」九メートル十四センチ強。]

 細君は肉を少し、小さく刻んで〔、〕くれ〔そ〕れから、パンを粉〔粉〕に碎いて〔くと〕、それを私の前に置いてくれました。そこで、私は細君にむかつて、丁寧に〔、〕おじぎをして、それから〔ポケツト〕から、ナイフとフオークを取出〔とり出し〕して食べはじめました。みんなは〔、〕私の有樣が面白くてたまらないやうでした。

 細君は女中を呼んで〔、〕小さなコツプを持つてこさせました。それでも〔小さいといつても〕三ガロン(〔約〕五升)は入りさうなコツプですが、それに飮みものをついでくれました。〔それを〕私はやつと兩手でかかへあげると、〔まづ、〕英語で、できるだけ大きな声を張り上げて〔、〕細君の健康を祝しました。そして〔れから〕、うやうやしくコツプを頂だいしました。するとこれがまたみんな〔〔は、お〕腹をかかへて〕笑ひだしましたが、私はその笑ひ聲の騷騷し〔もの凄〕さ〔、〕私は〕私は耳がつんぼになりさうでした〔るばかりでした〕。

[やぶちゃん注:「三ガロン」十三・六三リットル。「(〔約〕五升)」は約九リットルだから民喜の換算はおかしい。]

 この飮みものはサイダーのやうな味〔なの〕で、飮みいいものでした。〔私はおいしく、いただきました。〕しばらくすると、主人は〔私を〕手眞似で、彼の皿のところへ來い〔、〕と招きました。しかし、なにしろ私はテイブルの上を絶えずビクビクしながら步いてゐるのでしたから、めをパンの皮に躓くと、うつ伏せに〔、〕ペたんと倒れてしまひました。けれども〔、〕怪我はなかつたのです。すぐに起きあがりましたが、みんな〔が〕ひどく心配してくれるので、私は小脇にかかへてゐた帽子を手に取り、頭の上で振りながら、「万才」を叫んでみせで〕ました。つまり〔これは〕〔私は轉んでも〕怪我はなかつたをい〔い〕ふことを、みんなに〔よくわからせる〔しつてもらふ〕ためでした。

 しかし、その時、主人の隣りに坐つてゐた、一番下の息子で、まだ十ばかりのいたづら兒が、〔私の方へ手をのばしたかとおもふと、〕いきなり〔、〕私の兩足をもつて〔つかまへ〕、宙に高くぶらさげました。私は手も足も〔、〕ブルブルふるへつづけました。しかし〔、〕主人は〔、〕息子の手から〔、〕私を取り上げ、同時に〔、〕彼の左の耳を〔、〕ピシヤリと毆りつけました。〔それは〕ヨーロッパの騎兵なら〔、〕六十人ぐらゐ〔叩〕きつけてしまふや〔ひさ〕うな毆り方でした。〔それから〕主人は息子〔に、〕向ふへ行つてしまへ、と命令するのでした。

 しかし〔、〕私は〔、〕この子供に怨まれはしないか〔、〕と〔、〕心配でした。〔それに〕私はイギリスの子供たちも、雀や、兎や、小猫や、小犬に〔、〕よくいたづらをするのを知つてゐます。そこで、私は主人の前にひざまづいて〔、〕その息子を指ざしながら、どうか〔、〕ゆるしてあげてください、と手眞似で、私の氣持をつたへました。〔すると、父〕親は承知して、息子はまた席につきました。私は息子のところへ行き、その手に接吻しました。主人はその〔息子の〕手を取つて、〔息子に〕私をやさしく撫でさせました。

[やぶちゃん注:現行版では、

   *

 しかし私は、この子供に怨まれはしないかと、心配でした。私はイギリスの子供たちも、雀や、兎や、小猫や、小犬に、よくいたずらをするのを知っています。そこで、私は主人の前にひざまずいてその息子を指さしながら、どうか、許してあげてください、と手まねで、私の気持を伝えました。私は息子のところへ行き、その手にキスしました。主人はその息子の手を取って、私をやさしくなでさせました。

   *

で、この自筆稿の「すると、父親は承知して、息子はまた席につきました。」の部分がごっそり抜け落ちている。このシーンを配さないと不自然であるのに、である。]

 〔ちようどこの〕食事の最中〔に〕、細君の飼つてゐる猫が〔やつて來て〕、細君の膝の上にとび上りました。私は〔すぐ〕後の方で、何か〔十人あまりの〕靴下職人が十人あまりも〕〔が仕事でも〕はじめたやうな物音を聞きました。振りかへてみると、この猫が咽喉をゴロゴロ鳴らしてゐるのです。細君が食物をやつたり、頭〕を撫でてゐる間に私はそつと、その猫〔の大き〕を眺めてみましたが、〔その大きさは〕まづ〔、〕牡牛の三倍はありさうでした。私は五十呎もはなれたテイブルの一番遠いところに立つてゐたのですが、〔私は五十呎もはなれ〔たて、〕テーブルの猫から一番遠いところに、立つてゐたのですが、そして、〕それはおまけに〕細君〔は、〕私に跳びかかつたり、爪を立てたりしないやうにしてくれたのですが、猫をしつかり猫を押へてゐてくれたのですが、それでも〔、〕私はその物凄い顏にビクビクしてゐました〔が恐ろしくてならなかつたのです〕。しかし危險なことは起りませんでした〔らなかつたのです〕。

[やぶちゃん注:この自筆稿はかなり錯綜しているが、現行版を参考に整序してみた結果が以上である。

靴下職人」原文には確かに“a dozen stocking-weavers”とある。繊維を叩いて伸ばす音か? 識者の御教授を乞う。

「五十呎」十五メートル二十四センチ。]

 主人は〔わざと、〕私を猫の鼻の先三ヤードもないところにおきました。しかし〔、〕猫は見向きもしませんでした。私は猛獸といふものは、こちらが逃げ出したり、怖がると、却つてて追つかけて來て跳びかかる〔ものだ〕、といふことを〔私は〕前から〔に〕人〔から〕聞いて〔知つて〕ゐました。それで〔、〕私は〔私は〕今〔いくらこれはいくら〕恐ろしくても〔、〕知らん顏をしてゐる方がいいと私は思ひました〔よう、と決心しました〕。

[やぶちゃん注:「三ヤード」二メートル七十四センチ強。]

 私は〔、〕猫の鼻先を、わざと〔〕五六回〔、〕步きました行つたり來たりし〔てやり〕ました。それから、〔して〕半ヤードになるまで〔ずつと側まで〕近づいて行つてみました。すると、〔かへつて〕猫の方が怖さうに後〔し〕ざりしました。〔するのでした。〕その時から、私はもう〔、〕猫や犬を怖がらなくなりました。犬も〔、〕この家には〔、〕三四頭ばかりゐたのです。〔それが、〕部屋のなかに入つて來ても〔、〕私は平気でした。一匹はマステイフで、大きさは象の四倍ぐらゐありました。それから〔もう一匹〕は、グレイハウンドで、これはとても背の高い犬でした。

[やぶちゃん注:「半ヤード」四十五・七二センチメートル。

「マステイフ」イングリッシュ・マスティフ(English Mastiff)。イギリス原産の警備用犬種で、最も著名なマスティフ種。グーグル画像検索「English Mastiffをリンクしておく。

「グレイハウンド」イングリッシュ・グレイハウンド(English Greyhound)。イギリスのイングランド原産の獣猟犬サイトハウンド(SighthoundHoundのうち、視覚に優れたハウンドを指す。他に嗅覚ハウンド(セントハウンド:Scenthound)がいる。Houndはドイツ語の“Hund”や、オランダ語の“hond”と同語源で「犬」全般を意味する)。イングリッシュ・グレイハウンドは世界中で最も有名なグレイハウンド犬種である。]

 食事がしまひ頃になると、乳母が赤ん坊を抱いてやつて來ました。赤ん坊は〔、〕私を見〔つけ〕ると、玩具に欲しがつて〔、〕泣きだしました。その赤ん坊の泣声〔何とも〕は、ロンドン楼からチエルシーまで聞えさうな驚くばかりのもの凄い〕声でした。〔すると〕母親は赤〔ん〕坊 がほしがるのを〔私をつまみ上げて、赤ん〕坊の〔か〕たはらにおきました。赤ん坊は〔、〕いきなり〔、〕私の腰のあたりを引つ摑んで〔、〕頭を口のなかに持つてゆきました。私はわつ〔が、ワツ〕と大声でうめきま〔くと〕、赤ん坊はびつくりして〔、〕手を離します。ちようど落こちるのを〕〔そのとき〕細君が前掛をひろげておつこちるのを〔うまく〕受けてくれたので、私は頸の骨を折らないで助かりました〔私は助かりました。〔もし〕でなかつたら、頸の骨ぐらゐ折れたでせう。〕

[やぶちゃん注:「その赤ん坊の泣声〔何とも〕は、ロンドン楼からチエルシーまで聞えさうな驚くばかりのもの凄い〕声でした。〔すると〕母親は赤〔ん〕坊 がほしがるのを〔私をつまみ上げて、赤ん〕坊の〔か〕たはらにおきました。」この箇所の上部罫外には巨大な「?」マーク或いは「2・」(縦書)にしたような記号が書かれてある。或いは、後の訳を再考することを期したマーキングかも知れない。

ロンドン楼」テムズ川の岸辺、イースト・エンドに築かれた中世の城塞ロンドン塔(Tower of London)。

「チエルシー」ロンドンの南西に位置するチェルシー(Chelsea)地区(現在は高級住宅街)。ロンドン塔からは西南西に七キロメートル強ある。。]

 乳母は〔ガラガラをもつて來て、〕赤ん坊を泣きや〔めま〕せようとおもつての機嫌をとらうとしました。そのガラガラといふ物は〔、〕空鑵に大きな石をつめたやうなもので、〔それを〕綱で子供の腰に結びつけるのでした。でも、赤ん坊はまだ泣きつづけてゐました。〔それで、〕たうとう乳母は胸をひろげて〔、〕乳房を出しました。赤ん坊〔の口〕に飮ましました。〔持つてゆきました。〕私はその乳房を見てびつくりしました。

 大きさといひ、形といひ、色あいといひ、とても氣味の惡いものでした。なにしろ、六呎も突出てゐるので、まはりは十六呎ぐらゐあるでせう。乳首だつて〔、〕私の頭の半分ぐらゐ〔あるの〕です。それに〔、〕乳房ぜんたいが、あざやら、そばかすやら、おできやらで、ブツブツ〔しみだらけ〕なので〔、〕す。てはゐられ〔ゐると、氣持が惡くなるく〕な〔る〕ぐらゐでした。乳母は乳を飮ましいいやうな姿勢で、赤〔ん〕坊を抱いてゐますが〔、〕その〔私は〕テーブルの上にゐるので、〔その乳房は〕すぐ目の前にはつきりと見えるのでした。

[やぶちゃん注:「六呎」一・八メートル強。

「十六呎」四・九メートル弱。]

 それで私はふと、こんなことを考へました〔がわかりました〕。イギリスの女が美しく見えるのは、それは私たちと身躰の大きさが同じだからだらうであらうなのでせう〕。もし蟲目鏡でのぞいてみれば、どんな美しい顏にも凸凹やしみが見えるにちがひありません。

 さういへば、リリバットに私がゐた頃、あの小人達の〔肌の〕色は〔、〕とても美しかつたの〔を、〔私はよく〕おぼえていま〕す。リリバットの友達も〔この〕私にこんなこことを言つてくれたことがあるのです。私の顏ことをが、小人の目から見〔ると〕どんなに見えるか教へてくれたことがあります。私の顏は〔、〕地上からはるかに見上げてゐる方が、美しいさうです。私の掌に乘せられて、近くで見ると、〔私の〕顏は大きな孔だらけで、髯の根はいのししの毛の十倍ぐらゐも堅さうで、顏〔の〕色の氣味のわるいことといつたらなかつた〔い〕さうです。

[やぶちゃん注:改稿併存が錯雑するが、現行版では、

   *

 そういえば、リリパットに私がいた頃、あの小人たちの肌の色は、とても美しかったのを、私はよくおぼえています。リリパットの友達も、この私の顔が、小人の目から見ると、どんなに見えるか、教えてくれたことがあります。私の顔は、地上からはるかに見上げている方が、美しいそうです。私の掌に乗せられて、近くで見ると、私の顔は大きな孔だらけで、髯の根はいのしゝの毛の十倍ぐらいも堅そうで、顔の色の気味の悪いことゝいったらないそうです。

   *

となっている。]

 しかし〔ところで〕、いまこのテイブルに坐つてゐる巨人たちは、なにも片輪〔など〕ではないのです。顏たちはみんなよく整つてゐました。ことに主人など、私が六十呎の高さから眺めてみると、なかなか立派な顏つきでした。

[やぶちゃん注:「六十呎」十八メートル二十九センチ弱。]

 食事がすむと、主人は仕事に出かけて行きました。彼は細君に〔、〕よく私の面倒をみてやれ〔、〕と命令してゐるやうでした。その声や身振りで、私にはそれがわかつたのです。私は大へん疲れて、眠むくてしかたがなかつた〔なりました〔。〕すると、細君〕は〔、〕私の眠むさうな顏に〔、〕氣がついて、〔き、〕自分のベツドに寢かしてくれました。そして〕綺麗な白いハンカチを〔、〕私の上にかけてくれました。ハンカチといつても〔、〕軍艦の帆より〔、〕まだ大きいぐらゐで、ゴツゴツてゐました。

 私は二時間ばかりも眠りました。夢のなかで眠りながら〕私は國へ帰つて妻子と一緒に暮してゐる夢をみてゐました。〔ふと〕目がさめて、あたりを見まはすと、私は〔、〕廣さ二三百呎、高さ二百呎以上もある〔、〕〔がらんとした〕大きな部屋に、たつた一人、幅二十ヤードもある〔、〕大きなベツドで〔、〕臥てゐるのに〔〕氣がつきました。すると〔、〕私はなんだか悲しくてたまらなくなりました。

[やぶちゃん注:現行版は最後が有意に異なる。

   *

 私は二時間ばかりも眠りました。私は国へ帰って妻子と一しょに暮している夢をみていました。ふと目がさめて、あたりを見まわすと、私は、広さ二三百フィート、高さ二百フィート以上もある、がらんとした、大きな部屋に、たった一人、幅二十ヤードもある大きなベッドで、寝ているのに気がつきました。すると、私はなんだか悲しくなってしまいました。

   *

「二三百呎」六十・九六メートルから九十一・四四メートル。

「二十ヤード」十八メートル二十九センチ弱。]

 細君は家事の用をたすため〔で〔外へ〕出て行〔つ〕たらしく、〕私を 〔その部屋の〕姿〔が〕見えません。私は錠をおろした部屋に〔、〕〔ひとり、〕とぢこめられてゐるのです。このベツドは床から八ヤードもあります。私は下へ降りたかつたのですが、声を出して叫ぶ気もしませんしなかつたのありません〔元気もなくな〕つてゐました。しかし〔、〕たとへ呼んでみても、〔とても〕私の声では、この部屋から〔、〕家族のゐる臺所まで〔は、〕屆かなかつたでせう。

 ところが、その時、鼠が二匹、ベツドの〔帷〕とばりを登つて來ると、ベツドの上をあちこち嗅ぎまはりましたつて走つていましたつて這ひちよろちよろ走り出しました。〕一匹などは殆ど〔、も少しで、〕私の顏の側、あでやつて來ました。〔顏に這はひのぼらうとし〕たのです。私はびつくりして跳び起きると、短劍を拔いて、身構へました。だが、この恐ろしい獸どもは、左右からどろどろとどたどたとドタドタと〕〔おそ〕ひかかつて來て、たうとう一匹は〔、〕私の襟頸に足をかけました。しかし、私は〔幸〕運よく〔にも、〕彼に嚙みつかれる前に、彼の腹に〔、〕プスリと短劍をつきしてゐました。

 鼠は〔たち〕まち〔、〕彼は私の足もとに倒れてしまひました。もう一匹の〔方〕は、仲間が殺されたのを見ると、あはてて逃げ出しました。逃げようとするところを、私は肩に一刀切りつ〔浴せかけ〕けました。〔たので、〕タラタラ血を流しながら行つてしまひました。この大格鬪のあとで、私はベツドの上をあちこち步きながら、〔息〕をしづめ、氣持をしやんとさ〔元気を取りもど〕しました。鼠といつても、大きさはマステイフ種の犬ぐらいあるのです。〔つて、〕それに〔、〕とても、すばしこくて、獰猛な〔奴〕でした。もし私が裸で寢てゐたら、〔きつと〕八つ裂きにされて食べられたでせう。

 死んだ鼠の尻尾を測つてみると、二ヤードぐらゐありました。まだ血を流して橫になつてゐる死骸を、ベッドから引きずり下すのは、〔實に〕厭〔なこと〕でした。それに〔、〕まだ少し息が殘つてゐるやうでしたが、〔これは〕頸のところへ深く劍をつきさして、息の根をとめてしまひました。

[やぶちゃん注:「二ヤード」一メートル八十三センチメートル弱。]

 そのうちに〔れから間もなく、〕細君が部屋に入つて來ました。私が血まみれになつてゐるのを見て、細君は駈けよつて〔、〕抱き上げてくれました。私は鼠の死骸を指ざし、そして〔、〕笑ひながら、怪我はなかつたと〔、〕手眞似で教へました。細君は大喜びでした。女中を呼ぶと、死骸を火箸ではさんで、窓から捨てさせました。それから、彼女は私をテイブルの上にのせてくれました。私は血だらけの短劍を〔細君に〕見せ、上衣の垂れで拭いて鞘におさめました。

2016/06/20

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「侏儒の言葉」草稿(全) ~ 全注釈完遂

  「侏儒の言葉」草稿

 

[やぶちゃん注:以下は岩波新全集二十一巻「草稿」の『「侏儒の言葉」草稿』を底本としつつも、漢字を旧字体に恣意的に変えたものである。底本では、頭に『〔侏儒の言葉〕』と標題し、それぞれの章に「Ⅰ」から「Ⅵ」の記号が新全集編者による推定排列で打たれてあるが、この注釈版では削除し、注に組み入れて解説した。但し、底本後記によれば、『「侏儒の言葉」と見られるものからまとまりのあるものを選んだ。但し、前後の切れたものは除外した』とあり、現存する総てではないことが分かる。]

 

 

 

奴隷

 

 奴隷廢止と云ふことは唯奴隷たる自意識を廢止すると云ふことである。我々の社會は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオンの共和國さへ、奴隷の存在を豫想してゐるのは必しも偶然ではないのである。

 

       又

 

 暴君を暴君と呼んだ爲に鼎鑊爐火の苦を受けたのは我々の知らぬ昔であ[やぶちゃん注:底本新全集ではここで切れていることを示す鉤記号がある。続きは存在しない。]

 

[やぶちゃん注:底本で『Ⅰ』とする連続する草稿。第一章は現行の「侏儒の言葉」の中の大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』発表分、

 

       奴隷

 

 奴隷廢止と云ふことは唯奴隷たる自意識を廢止すると云ふことである。我我の社會は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオンの共和國さへ、奴隷の存在を豫想してゐるのは必ずしも偶然ではないのである。

 

と完全に相同である。ところが続く、「又」は現行のそれ、

 

       又

 

 暴君を暴君と呼ぶことは危險だつたのに違ひない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危險である。

 

とは冒頭の「暴君を暴君と呼」の七文字が一致するだけで、以下の不完全部分は異なっている。なお、次の「悲劇」の冒頭に附した私の注も参照されたい。

 

・「鼎鑊爐火」「ていくわくろくわ(ていかくろか)」。「鼎鑊」は原義は、肉を煮るのに用いた三本足の鼎(かなえ)と脚のないそれ又は大きな鼎を指すが、中国の戦国時代に重罪人を煮殺すのに用いた道具或いは煮殺す刑罰を言う。「爐火」は通常は囲炉裏の火を指すが、これは前から見て、炮烙(ほうらく)の刑(殷の紂王のそれに倣えば、猛火の上に多量の油を塗った銅製の丸太を渡して熱し、その丸太の上を罪人に裸足で渡らせる火刑)の謂いである。似たような、刑罰を指す四字熟語に「刀鋸鼎鑊(とうきょていかく)」などがある。]

 

 

 

       悲劇

 

 悲劇とはみづから羞づる所業を敢てしなければならぬことである。この故に萬人に共有する悲劇は排泄作用を行ふことである。

 

[やぶちゃん注:底本で『Ⅱ』とする草稿。底本後記には、この次の『ラツサレの言葉』と一緒で一枚の原稿用紙に書かれたものであるが、この原稿用紙の冒頭には、前原稿(現存せず)からの続きと思われる、

 

呼ぶこともやはり甚だ危險である。

 

とあるが、それは採用しなかった旨の記載がある。この『呼ぶこともやはり甚だ危險である。』というのは現行の「侏儒の言葉」の中の大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』発表分「侏儒の言葉」の中の、「奴隷」の第二章、

 

 暴君を暴君と呼ぶことは危險だつたのに違ひない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危險である。

 

の十六字(句点含む)分と全く相同である。これは一つの可能性として、草稿の「奴隷」は前の草稿にある後部不全のそれに続いて甚だ長い一章(二百字詰め原稿用紙一枚分)があったか、或いは「奴隷」の「又」が今一つあって現行の第二章に続いていたかの孰れかと考え得る。

 なお、現行でも「奴隷」(二章)の次は「悲劇」であり、それは、

 

       悲劇

 

 悲劇とはみづから羞ずる所業を敢てしなければならぬことである。この故に萬人に共通する悲劇は排泄作用を行ふことである。

 

で完全に相同である。]

 

 

 

     ラツサレの言葉

 

 「未來は聰明の不足を咎めない。咎めるのは情熱の不足だけである。」

 これはラツサレの言葉である。が、この言葉の當嵌まるのは必しもひとり未來ばかりではな[やぶちゃん注:底本新全集ではここで切れていることを示す鉤記号があり、以下は存在しない。]

 

[やぶちゃん注:底本で『』とする草稿で、前の「悲劇」と連続するが、この不完全な「ラツサレの言葉」と相同或いは相似の章句は「侏儒の言葉」(遺稿をその他を含む)の中には存在しない。「ラツサレ」は恐らく、プロイセン(ドイツ)の政治学者・社会主義者で、後の「ドイツ社会民主党」(Sozialdemokratische Partei DeutschlandsSPD)の母体となる「全ドイツ労働者同盟」(Allgemeiner Deutscher ArbeitervereinADAV)の創設者であったフェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle 一八二五年~一八六四年)であろう。ウィキの「フェルディナント・ラッサール」には、『社会主義共和政の統一ドイツを目指しつつも、ヘーゲル哲学の国家観に強い影響を受けていたため、過渡的に既存のプロイセン王政(特に宰相オットー・フォン・ビスマルク)に社会政策やドイツ統一政策を取らせることも目指した。その部分を強調して国家社会主義者に分類されることもある』とある。小学館「日本大百科全書」の松俊夫氏の解説によれば、『ドイツの社会主義者。ユダヤ人絹商人の子としてブレスラウ(現ポーランド、ブロツワフ)に生まれる。ブレスラウ、ベルリン両大学に学び、ヘーゲル哲学の影響を受けたが、ローレンツ・フォン・シュタインの著作やシュレージエン織工の蜂起』『をもたらした社会情勢に刺激されて社会主義的思想を抱いた』。一八四五年、『研究のためパリに赴き、そこでハイネと交わり、また』一八四八年の革命(同年のフランスの二月革命の影響を受けて翌三月にドイツ各地に起った市民革命)では、『新ライン新聞』に『寄稿してマルクスとも知り、彼の影響を受けた』。一八四九年、『革命の際の活動を理由に禁錮刑の判決を受けたが、出獄後は革命前から手がけていたハッツフェルト伯爵夫人』ゾフィー(Sophie Grfin von Hatzfeldt 一八〇五年~一八八一年)の離婚訴訟を勝利に導き、以後、夫人から多大の経済援助を受ける身となった』(ウィキの「フェルディナント・ラッサール」によると、『夫であるエドムント・フォン・ハッツフェルト(Edmund von Hatzfeldt)伯爵は放蕩者なうえ、妻ゾフィーに様々な迫害を加えていた。ゾフィーは伯爵との離婚を希望していたが許してもらえずにいた。そのことをラッサールに相談したところ、彼はこれを「封建主義の横暴に対する闘争」と看做し、彼女に代わって伯爵と闘う決意を固めた』。『ラッサールははじめ伯爵に決闘を申し込んだが、「バカなユダヤの小僧」と相手にしてもらえなかった』。『結局離婚訴訟で闘うことになり、ラッサールは』一八四六年から一八五四年までの『長きにわたってこの訴訟に尽力することにな』り、八年にも及んだ『訴訟に疲れたハッツフェルト伯爵が夫人に対して彼女が持つべき財産を返還すると和解を申し出た結果』、『離婚訴訟は終了』、『これにより』、『伯爵夫人は巨額の財産を獲得し、ラッサールも伯爵夫人からかなりの年金を受けるようになり、裕福な生活を送れるようになった』。『この年金はラッサールにとって執筆業や政治活動に専念する上で重要な収入源となった』という解説がある)、一八六二年、『ベルリン郊外の手工業者組合で講演し、官憲の忌諱(きき)に触れて起訴されたが、』それを同年六月に「労働者綱領」(Zur Arbeiterfrage)として公刊、さらに翌一八六三年三月に「公開答状」(Offenes Antwortschreiben)によって(ここはウィキの「フェルディナント・ラッサール」の著作データに拠った)『彼の所見を具体化した。そのなかで彼は、賃金鉄則の考え方を基礎に、国家の補助による生産者協同組合の設立、普通選挙権の獲得などを強調したため、マルクスから強い批判を受けたが、労働者には大きな影響を与えた。その結果』、一八六三年、『彼の起草した綱領草案に基づいて設立された全ドイツ労働者協会の会長となり、目的の達成を図ってビスマルクにも接近した』。しかし一八六四年八月、『スイス滞在中に女性問題をめぐってルーマニアの貴族と決闘、その際』に『受けた負傷によって同月』三十一日、『急死した』とある(決闘の経緯はウィキに詳しい)。なお、ウィキの「フェルディナント・ラッサール」には、『日本におけるラッサール』の項があり、『日本における社会主義草創期である明治時代末にはラッサールは日本社会主義者たちのスターだった』。『幸徳秋水にとってもラッサールは憧れの人であり』、明治三七(一九〇四)年には『ラッサールの伝記を著している。その著作の中で幸徳は「想ふに日本今日の時勢は、当時の独逸と極めて相似て居るのである。(略)今日の日本は第二のラッサールを呼ぶの必要が有るのではないか」と書いている。また吉田松陰とラッサールの類似性を主張して「若し松陰をして当時の独逸に生まれしめば、矢張ラッサールと同一の事業を為したかも知れぬ」と述べる』。『社会主義的詩人児玉花外もラッサールの死を悼む詩を作っている』。『後にコミンテルン執行委員となる片山潜もこの時期にはラッサールの国家社会主義に深く傾倒し、ラッサールについて「前の総理大臣ビスマルク侯に尊重せられし人なり。然り、彼は曹てビスマルクに独乙一統の経営策を与え、又た進んでビスマルクをして後日社会主義の労働者制度を執らしめたる偉人物」と評した』。『しかしロシア革命後には社会主義の本流はマルクス=レーニン主義との認識が日本社会主義者の間でも強まり、ラッサールは異端視されて社会主義者たちの間で語られることはなくなっていった』。『逆に反マルクス主義者の小泉信三や河合栄治郎はマルクスの対立者であるラッサールに深い関心を寄せるようになり、彼に関する評伝を書くようになった』。『小泉は「マルクスは国家と自由は相いれないと考えていたが、逆にラッサールは自由は真正の国家のもとでのみ達成されると考えていた」とし、マルクスの欠陥を補ったのがラッサールであると主張した』。『河合はビスマルク、マルクス、ラッサールを』「十九世紀『ドイツ社会思想の三巨頭」と定義し、ラッサールが他の二人と違う点として「社会思想家なだけではなく社会運動家」だった点を指摘する』。『この二人と二人の研究を引き継いだ林健太郎が戦前の主なラッサール研究者であった』とある。こうした当時の本邦でのコンセプトのラッサール受容の文脈の中で、芥川龍之介がここで彼の言葉を引こうとしたこと、さらにその引用されたラッサールの言葉の意味、それに添えて述べようとした龍之介の見解を推理する必要があろう。

 

・「未來は聰明の不足を咎めない。咎めるのは情熱の不足だけである。」引用元のラッサールの著作は不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 

 

       強弱

 

 強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一擊に敵を打ち殺すことには何の痛痒も感じない代りに、知らず識らず友人を傷けることには兒女に似た恐怖を感ずるものである。

 弱者とは友人を恐れぬ代りに敵を恐れるものである。この故に又至る處に架空の敵ばかり發見するものである。[やぶちゃん注:底本新全集ではここで切れていることを示す鉤記号がある。]

 

[やぶちゃん注:底本で『Ⅲ』(単独)とする草稿。大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』発表分、

 

       強弱

 

 強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一擊に敵を打ち倒すことには何の痛痒も感じない代りに、知らず識らず友人を傷けることには兒女に似た恐怖を感ずるものである。

 弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る處に架空の敵ばかり發見するものである。

 

とは、ご覧の通り、「弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである」の読点が読点が除去されている以外は同じであり、底本新全集で原稿の切れを示す鉤記号があるものの、公開分でもこの後に文は続いておらず、完結した一章を成している。因みに公開分でも同一号に続いて「S・Mの知慧」が載る。]

 

 

 

       S・Mの知慧

 

 これは友人のS・Mの僕に話した言葉である。

 辯證法の功績――所詮何ものも莫迦げてゐると云ふ結論に到達せしめたこと。

 少女――どこまで行つても淸冽な淺瀨。

 早教育――ふむ、知慧の悲しみを知ることにも責任を持つには當らないからね。

 自己――結局は自己にかへることかね。その醜い裸體の自己と向かひ合ふのも一興だらうさ。[やぶちゃん注:底本新全集ではここで切れていることを示す鉤記号があり、以下は存在しない。]

 

[やぶちゃん注:底本で『Ⅳ』(単独)とする草稿。以下に示す、大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』発表分とはかなりの箇所に異同があり(異同部に下線を引いた)、「自己――結局は自己にかへることかね。その醜い裸體の自己と向かひ合ふのも一興だらうさ。」に相当するものは現行分には全く存在しない。

 

       S・Mの智慧

 

 これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。

 辨證法の功績――所詮何ものも莫迦げてゐると云ふ結論に到達せしめたこと。

 少女――どこまで行つても淸冽な淺瀨。

 早教育――ふむ、それも結構だ。まだ幼稚園にゐるうちに智慧の悲しみを知ることに責任を持つことにも當らないからね。

 追憶。――地平線の遠い風景畫。ちやんと仕上げもかゝつてゐる。

 女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出來てゐるものらしい。

 年少時代。――年少時代の憂欝は全宇宙に對する驕慢である。

 艱難汝を玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男は到底玉になれない筈である。

 我等如何に生くべき乎。――未知の世界を少し殘して置くこと。

 

この「自己――結局は自己にかへることかね。その醜い裸體の自己と向かひ合ふのも一興だらうさ。」という一条の謂いとは、これ、じっくりと対峙してみる価値がある。但し、くれぐれも注意しなくてはならないのは、これは芥川龍之介の言葉ではなく、「S・Mの智慧」、室生犀星の言葉という形をとっていることではある。但し、彼に仮託した芥川龍之介の言葉ととっても無論、構わないわけではあるが。]

 

 

 

 武者修業と云ふことは修業の爲ばかりの旅だつたであらうか? 僕は寧ろ己自身以外に餘り名人のゐないことを確める爲だつたと思つてゐる。少くとも武者修業の甲斐があつたとすれば、それはたとひ偶然にもせよ、餘り名人のゐないことを發見した爲だつたと思つてゐる。

 

 

[やぶちゃん注:底本では、表題なく、この前の稿の次行の頭に『Ⅴ』のローマ数字が配されて以上が示されてある。但し、これは遺存するこの草稿原稿の前が欠損しているために標題がないだけである。これは以下に掲げる大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』に発表された、「武者修業」の内容と相似する。

 

       武者修業

 

 わたしは從來武者修業とは四方の劍客と手合せをし、武技を磨くものだと思つてゐた。が、今になつて見ると、實は己ほど強いものの餘り天下にゐないことを發見する爲にするものだつた。――宮本武藏傳讀後。

 

決定稿の方が、遙かに無駄が殺がれ、引き締まったアフォリズムとなっている。]

 

 

 

       天才

 

 天才は羽根の生へた蜥蜴に似てゐる。必しも空ばかり飛ぶものではない。が、四つん這ひになつた時さへ、不思議に步みの疾いものである。

 

[やぶちゃん注:底本『Ⅴ』で前の不完全なものに続いて載る草稿。大正一四(一九二五)年三月号『文藝春秋』に五章から成る「天才」があるが、これと類似する章句は存在しない。]

 

 

 

       飜譯

 

 偉大なる作品はたとひ外國語に飜譯したにしろ、原作の光彩を失はないさうである。僕は勿論かう云ふ放言に餘り信用を置いたことはない。[やぶちゃん注:底本新全集ではここで切れていることを示す鉤記号がある。]

 

[やぶちゃん注:底本『Ⅴ』で前の「天才」に続いて載る草稿。これと類似する標題も章句も存在しない。]

 

 

 

 は炒豆を嚙んで古人を罵るを快とせし由、炒豆を嚙めるは儉約の爲か、さもなければ好物の爲なりしなるべし。然れども古人を罵れるは何の爲なるかを明らかにせず。若し強いて解すべしとせば、妄りに今人を罵るよりはうるさからざりし爲ならん乎。我等も罵殺に快を取らんとせば、古人を罵るに若くはなかるべし。幸ひなるかな、死人に口なきことや。

 

[やぶちゃん注:底本では、表題なく、この前の稿の次行の頭に『Ⅵ』のローマ数字が配されて以上が示されてある。但し、これは遺存するこの草稿原稿の前が欠損しているために標題がないだけである。「萩生徂徠」の「萩」は底本の岩波新全集のママ。このアフォリズムは大正一四(一九二五)年九月号『文藝春秋』発表分の「荻生徂徠」、

 

       荻生徂徠

 

 荻生徂徠は煎り豆を嚙んで古人を罵るのを快としてゐる。わたしは彼の煎り豆を嚙んだのは儉約の爲と信じてゐたものの、彼の古人を罵つたのは何の爲か一向わからなかつた。しかし今日考へて見れば、それは今人を罵るよりも確かに當り障りのなかつた爲である。

 

と内容的には同じであるが、擬古文である(これは対象が徂徠であることや「古人を罵る」ということからの色附けのための仕儀であったろう)以外に、言い回しが草稿は如何にも、くどい。決定稿の方が遙かによい。]

2016/06/19

店仕舞

今日は教員になった最初に教えた学年の同期会に招待されているによつてこれにて失礼仕り候 心朽窩主人 敬白

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) (「侏儒の言葉」続篇 草稿 「一 ある鞭」及び「二 唾」)

 

(「侏儒の言葉」続篇 草稿 「一 ある鞭」及び「二 唾」)

 

[やぶちゃん注:以下は、岩波旧全集第十二巻に編者の表題『(斷片)』として所収するものである。私はその風合いから、明白な「侏儒の言葉」の続篇の断片草稿と断ずる。但し、現存する「侏儒の言葉」には、この「二 唾」のような、先行するアフォリズムを引用しての補正的アフォリズムは見当たらず、極めて特異なものとは思われる。底本には後記記載も一切なく、出所等も一切不明。文末に(大正十五年?)の編者記載があるのみである。私は、本稿は小穴隆一に自殺の決意を告げたとされる大正一五(一九二六)年四月十五日から遡る三箇月前の一月から、自死の直前までが執筆範囲であろうと推定している。そこで仮に『(「侏儒の言葉」続篇 草稿 「一 ある鞭」及び「二 唾」)』と標題しておいた。]

 

 

 

       一 ある鞭

 

 僕は年少の時、硝子畫の窓や振り香爐やコンタスの爲に基督教を愛した。その後僕の心を捉へたものは聖人や福者の傳記だつた。僕は彼等の捨命の事蹟に心理的或は戲曲的興味を感じ、その爲に又基督教を愛した。即ち僕は基督教を愛しながら、基督教的信仰には徹頭徹尾冷淡だつた。しかしそれはまだ好かつた。僕は千九百二十二年来、基督教的信仰或は基督教徒を嘲る爲に屢短篇やアフォリズムを艸した。しかもそれ等の短篇はやはりいつも基督教の藝術的莊嚴を道具にしてゐた。即ち僕は基督教を輕んずる爲に反つて基督教を愛したのだつた。僕の罰を受けたのは必しもその爲ばかりではあるまい。けれども僕はその爲にも罰を受けたことを信じてゐる。

 

[やぶちゃん注:・「硝子畫」(「ガラスぐわ(が)」。ステンド・グラス。

・「コンタス」contas。ポルトガル語で「数える」の意。カトリック教会に於いて聖母マリアへの祈りを繰り返し唱える際に用いる、十字架やメダイ・キリスト像などのついた数珠状の祈りの用具である、ロザリオ(ポルトガル語:rosário・ラテン語:rosarium)のこと。本邦では十六世紀にイエズス会宣教師によって伝えられたが、以後の隠れ切支丹の時代まで永く「こんたつ」(マリア賛礼の「アヴェ・マリア」(ラテン語:Ave Maria)の祈禱を口にした数を数えるもの)と呼ばれてきた経緯があり、龍之介はそれを踏まえた。

・「福者」「ふくしや(ふくしゃ)」(ラテン語:Beatus(ベアトゥス)・英語:Blessed(ブレッセッド)はカトリック教会に於いて、死後、その活動や殉教などの聖なる生涯から信徒の崇敬の対象となることを教会法に従って認められた者を指す。福者の列に加えられる手続きを「列福」と呼び、更に教会が二つ以上の奇跡に相当する行為や優れた宗教生活等が加えて認定された時、「列聖」の手続きを経て、「聖人」(聖者)とされる(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

・「捨命」「しやみやう(しゃみょう)」と読み、本来は仏教用語で、悟りのために命を捨てること。

・「千九百二十二年」西暦一九二二年は大正十一年で、この年の一月一日には私の偏愛する怪作、南蛮寺の神父オルガンティノの面前に神道の祖霊の老人が出現して論争する「神神の微笑」を発表、同年九月には実の父母が亡くなって地獄に堕ちている以上、自分独りが天国に行くわけにはゆかないと敢然と棄教する「おぎん」、翌年の四月にはキリストを臆病者と喝破する「おしの」、大正十三年一月には聖女をネガティヴに反転させる「糸女覺え書」。昭和二(一九二七)年の〈聖アントニウスの誘惑〉をインスパイアしたレーゼ・ドラマ「誘惑――或るシナリオ――のなどの切支丹物の作品群があり、また当然、「基督教的信仰或は基督教徒を嘲る爲」の「アフォリズムを艸した」とするところの、この大正一二(一九二三)年一月に始まった「侏儒の言葉」それにも含まれる。しかし「神神の微笑」と「誘惑――或るシナリオ――」を除くと、後期の龍之介の切支丹物はキリスト教批判を皮肉な形で確かに顕在化させながらも、どうも小手先の屁理屈を捏ね回している感があって切れ味が鈍いように思う。「僕は基督教を輕んずる爲に反つて基督教を愛した」という謂いはそういう意味に於いてアイロニカルには私には腑に落ちる。

・「藝術的莊嚴」この「莊嚴」「しやうごん(しょうごん)」と訓じておく。本来は浄土などの仏国土及び仏・菩薩などの徳を示す美しい姿や飾り、また、寺院仏閣の仏堂・仏像などを美しく飾ることやその装飾具を指すが、ここは「捨命」と同じく援用して読むべきである。

・「即ち僕は基督教を輕んずる爲に反つて基督教を愛したのだつた。僕の罰を受けたのは必しもその爲ばかりではあるまい。けれども僕はその爲にも罰を受けたことを信じてゐる」この「罰」とは具体にこの後の自裁を指すと考えてよいが、私は寧ろ、イエス・キリストを一人のジャーナリストとし、その人間として彼に真摯に真っ向から対峙した「西方の人」は、芥川龍之介が真に「基督教を愛した」証しであり、それだけで私は彼は「罰」から免れてよい/免れていると思う。さらには芥川龍之介は〈復権するユダ〉であってよい/であるべきだ、とまで大真面目に思っているのである。]

 

 

 

       二 唾

 

 僕は嘗かう書いた。――「全智全能の神の悲劇は神自身には自殺の出來ないことである。」恰も自殺の出來ることは僕等の幸福であるかのやうに! 僕はこの苦しい三箇月の間に屢自殺に想到した。その度に又僕の言葉の冷かに僕を嘲るのを感じた。天に向つて吐いた唾は必ず面上に落ちなければならぬ。僕はこの一章を艸する時も、一心に神に念じてゐる。――「神の求め給ふ供物は碎けたる靈魂なり。神よ。汝は碎けたる悔いし心を輕しめ給はざるべし。」

 

[やぶちゃん注:・「嘗」「かつて」。

・「全智全能の神の悲劇は神自身には自殺の出來ないことである。」これは大正一三(一九二四)年七月号『文藝春秋』巻頭に載せた「侏儒の言葉」の「神」の第一章を指すが、微妙に表現上の異なりがある。以下に並べておく。

 

(先行「神」版)

 あらゆる神の屬性中、最も神の爲に同情するのは神には自殺の出來ないことである。

(本稿「唾」版)

 全智全能の神の悲劇は自身には自殺の出來ないことである。

 

・「僕はこの苦しい三箇月の間に屢自殺に想到した」これが冒頭注で私が『本稿は小穴隆一に自殺の決意を告げたとされる大正一五(一九二六)年四月十五日から遡る三箇月前の一月から、自死の直前までが執筆範囲であろうと推定している』根拠である。

・「神の求め給ふ供物は碎けたる靈魂なり。神よ。汝は碎けたる悔いし心を輕しめ給はざるべし。」これは「旧約聖書」詩篇の第五十一章第十七節、

   *

神のもとめたまふ祭物(そなへもの)はくだけたる靈魂(たましひ)なり。神よ、なんぢは碎けたる悔(くい)しこころを藐(かろ)しめたまふまじ。

   *

の引用である(引用は明治元訳)。]

2016/06/18

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或問答

 

       或問答

 

 「君は破壞しに來たのか?」

 「いいえ。」

 「建設しに來たのか?」

 「いいえ。」

 「では君は何をしに來たのだ?」

 「どちらにすれば好いか考へる爲に。」

 

[やぶちゃん注:「君は何をしに来たのだ?」――「破壊か建設か……そのどちらにすればよいか、考えるために来たのだ。』――「では、聞こう。……クォ・ヴァディス?」――Quo Vadis ?(「あなたはどこに行くのか?」新約聖書「ヨハネによる福音書」第十三章第三十六節)…………





Nbrquovadis





芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 強盜

 

       強盜

 

 社會は金を出さない限り、我我の生存を保護しない。これは強盜の「有り金を渡せ、渡さなければ命をとる」と脅迫するのも同じことである。すると強盜とは何かと云へば、つまり社會の行ふことを個人の行ふことと云はれるであらう。ではなぜ強盜は罰せられるか? 社會は夙に團體的強盜のパテントを取つてゐるからである。

 

[やぶちゃん注:先の暴力よりも、よりはっきりと権力社会批判を明確に出してある。しかしその分、当たり前になってしまっていて面白くない。

 

・「パテント」patent。特許(権)・特許品・特許証。この場合は、合法的に刑罰と言う暴力殺人を行使することを独占的に使用することを許可された権利という皮肉である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 愛國心

 

       愛國心

 

 我我日本國民に最も缺けてゐるものは國を愛する心である。藝術的精神を論ずれば、日本は列強に劣らぬかも知れぬ。又科學的精神を論ずるにしても、必しも下位にあるとは信ぜられまい。しかし愛國心を問題にすれば、英佛獨露の國國に一儔を輸することは事實である。

 愛國心の發達は國家的意識に根ざすものである。その又國家的意識の發達は國境の觀念に根ざすものである。けれども我我日本國民は神武天皇の昔から、未だ嘗痛切に國境の觀念を抱いたことはない。少くとも歐羅巴の國國のやうに、骨に徹するほど抱いたことはない。その爲に我我の愛國心は今日もなほ石器時代の蒙昧の底に沈んでゐる。

 ルウル地方の獨逸國民はあらゆる悲劇に面してゐる。しかも彼等の愛國心は輕擧に出づることを許さぬらしい。我我日本國民は李鴻章を殺さんとし、更に又皇太子時代のニコライ二世を殺さんとした。もしルウルの民のやうに、たとへば鄰邦たる支那の爲に食糧等を途絶されたとすれば、日本に在留する支那人などは忽ち刺客に襲はれるであらう。同時に日本はとり返しのつかぬ國家的危機に陷るであらう。

 けれども我我日本國民は愛國心に富んでゐると信じてゐる。――いや、或は富んでゐるかも知れぬ。あらゆる未開の民族のやうに。

 

[やぶちゃん注:実は芥川龍之介は驚くべきことに(いや、当然の如く、と言うべきか)ここまでの「侏儒の言葉」の中で、ただ一ヶ所、戀は死よりも強しでしか、「愛國心」という語を用いていない。それも「食慾の外にも數へ擧げれば、愛國心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名譽心とか、犯罪的本能とか――まだ死よりも強いものは澤山あるのに相違ない」という、クソ並列の中の一つに過ぎないのである。末尾の「けれども我我日本國民は愛國心に富んでゐると信じてゐる。――いや、或は富んでゐるかも知れぬ。あらゆる未開の民族のやうに。」という毒が心地よい。

 

・「一儔を輸する」虛僞に出た「一籌を輸する」(いつちうをゆする(いっちゅうをゆする))とが正しい。「一段階、劣る」「一歩、譲る」の意。「籌」は実務や占術に於いて数を数えるのに用いた木の串(くし)で「輸する」の「輸」には「致す・運ぶ・移す」以外に「負ける・負け」の意があり、ここはそれ。もともとは宋の陸游の詩「九月六夜夢中作笑詩覺而忘之明日戲追補一首」の最終句「道得老夫輸一籌」に基づくという。

・「ルウル地方」ルール川下流域に広がるルール地方(ドイツ語:Ruhrgebiet)はドイツ屈指の大都市圏で、嘗ては重工業地帯としてドイツの産業を牽引したが、第一次世界大戦に敗北したドイツは多額の賠償金の支払いを求められたが、その履行が十分でないという口実を以って、一九二三年にフランスとベルギーがここに進駐、占領してしまった。当時ルール地方は実にドイツが生産する石炭の七十三%、鉄鋼の八十三%を産出していた。翌年には撤退したが、ドイツ経済はこの占領によって激しい打撃を受けた。

・「李鴻章」(りこうしょう/リ・ホゥォンチャン 一八二三年~一九〇一年)は清代の政治家。一八五〇年に翰林院翰編集(皇帝直属官で詔勅の作成等を行う)となる。一八五三年には軍を率いて太平天国の軍と戦い、上海をよく防御して江蘇巡撫となり、その後も昇進を重ねて北洋大臣を兼ねた直隷総督(官職名。直隷省・河南省・山東省の地方長官。長官クラスの筆頭)の地位に登り、以後、二十五年間、その地位にあって清の外交・軍事・経済に権力を振るった。洋務派(ヨーロッパ近代文明の科学技術を積極的に取り入れて中国の近代化と国力強化を図ろうとしたグループ。中国で十九世紀後半に起った上からの近代化運動の一翼を担った)の首魁として近代化にも貢献したが、日清戦争(明治二七(一八九四)年~明治二八(一八九五)年)の敗北による日本進出や義和団事件(一九〇〇年~一九〇一年)での露清密約によるロシアの満州進出等を許した結果、中国国外にあっては傑出した政治家「プレジデント・リー」として尊敬されたが、国内では生前から売国奴・漢奸と分が悪い(以上はウィキの「李鴻章」及び中国国際放送局の「李鴻章清の末期の政治家」の記載を主に参照した)。

・「ニコライ二世を殺さんとした」ロマノフ朝第十四代にして最後のロシア皇帝ニコライ二世(Николай II 一八六八年~一九一八年/在位は一八九四年十一月一日~一九一七年三月十五日)は、皇太子時代の明治二四(一八九一)年五月十一日、訪問中の日本の滋賀県滋賀郡大津町(現在の大津市)で警備に当たっていた警察官津田三蔵に斬りつけられて負傷した(暗殺未遂。詳しくはウィキの「大津事件を参照されたい)。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 今昔

 

       今昔

 

 昔帝國文庫本の「三國志」や「水滸傳」を讀んだ時、十何才かの僕は「三國志」よりも「水滸傳」を好んだものである。これは年の長じた後もやはり昔と變らなかつた。少くとも變らないと信じてゐた。が、この頃何かの拍子に「三國志」や「水滸傳」を讀んで見ると、「水滸傳」は前よりも面白みを減じ、「三國志」はその代りに前よりもはるかに面白みを加へてゐる。

 「水滸傳」は及時雨宋江だの、智多星呉用だのと云ふ、特色のある性格を描いてゐる。けれどもそれらの性格はスコツトの作中の性格と大差あるものとは思はれない。それだけに面白みを減じたのであらう。「三國志」は三國の策士の施した種種の謀計を描いてゐる。その又謀計は人間と云ふものを洞察した知慧の上に築かれてゐる。殊に少時神算とも鬼謀とも更に思はなかつたものほど、一層惡辣無雙なる策士の眼光を語つてゐる。これは或は「三國志」の作者の手柄と云ふよりも、寧ろ史上の事實そのものの興味に富んでゐる爲かも知れない。が、兎に角「三國志」の今の僕に面白いのはかう云ふ面白みの出來た爲である。僕は昔政治家などの所業に少しでも興味を感ずることは永久にないものと信じてゐた。しかし今の調子ではもうそろそろ久米正雄の所謂床屋政治家の域にはひりさうである。

 

[やぶちゃん注:・「帝國文庫本」最初期の文庫の名を持つ叢書。明治二六(一八九三)年に博文館が創刊した。但し、これは四六判クロス装全冊千頁を越えるという豪華本で、現在の廉価本としての文庫本のイメージからは遠いものであるので注意されたい(ここはウィキの「文庫本に拠った)。

・「及時雨宋江」「きふじう そうこう(きゅうじう そうこう)」と読む。生没年不詳で北宋末の一一二一年に現在の山東省附近で反乱を起こした人物であるが、その反乱事件を題材としたのが「水滸伝」で彼はその主人公、即ち、かの梁山泊百八人の豪傑の統領となっている。

・「智多星呉用」「ちたせい ごよう」と読むウィキの「によれば、『天機星の生まれ変わりで、序列は梁山泊第三位の好漢』。『天下に並びない智謀の持ち主で、軍師として神算鬼謀の限りを尽くした』。但し、「三国志演義」の『諸葛亮のような神懸り的な人物ではなく、失敗もすれば冗談も飛ばす人間的な人物である。戦略や謀略の才には長けているが、実践の戦術や兵法に関する造詣は次席の軍師・朱武に多少劣る。また、鎖分銅の使い手でもある』とある。

・「スコツト」スコットランドの詩人で、歴史小説で名声を博した作家ウォルター・スコット(Walter Scott, 一七七一年~一八三二年)のことか。

・「少時」芥川龍之介の癖からは「しばらく」と訓じていよう。

・「神算」「しんさん」で神がかったような人知の及ばぬ謀(はかりごと)の意。次の「鬼謀」(きぼう)も、常人の思いも及ばぬような、鬼神の計らいででもあるかのような優れた謀の意であって悪い意味はない。「神算鬼謀」の四字熟語で使われることが殆んどである。こうして分解した方が、しかし、確かに読み易く、すんなり腑に落ちる。上手い手法である。

・「久米正雄の所謂床屋政治家の域」「床屋政治家」は既出で、床屋政談をする国民。髪結い床に来た客が髪を当たって貰いながら、店主と噂話でもするかの如く政談を展開することから、ろくな根拠もなしに、感情的で無責任な政治談議をすることを指す。因みに、久米正雄は昭和七(一九三二)年に石橋湛山の後を継いで鎌倉の町議に立候補してトップ当選したが、翌昭和八年に川口松太郎や里見弴とともに花札賭博で警察に検挙されているのだが、いや! 惜しいかな! 芥川龍之介自死の後であった……

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 評家病

 

       評家病

 

 リアリズムを高唱するものは今の世の批評家先生である。しかし何等かの意味に於ては、ロマン的傾向の作家と雖も、リアリズムを奉じてゐぬものはない。これに反して批評家先生は悉稀代のロマン派である。

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の文学史上の思潮は「新現実主義」である。あの世で龍之介はこの彼に冠されたそれを、如何にも痛い荊冠とは思うているに違いあるまい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 修身

 

       修身

 

 辯難攻擊が盛だつた古雜誌を一册保存するが好い。さうして氣の屈した時にはその中の論文を讀んでみるが好い。如何に淺はかな主義主張は速かに亡んでしまふものか、それをしみじみと知る事は何人にも大切な修身である。

 

[やぶちゃん注:同題の「修身」が生前の公開分の三章目にごっそりとある。そこで言っている皮肉とコンセプトは同じである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 信條

 

       信條

 

 作家は誰も信條通り、小説を書いてゐるのではない。その外に書きやうを知らないのである。それをまづ信條があり、その次に創作があるやうに云ふ。云ふものは畢竟人が惡いか、蟲が好いかどちらかである。

 

[やぶちゃん注:「云ふものは」の「ものは」は、古語の名詞「もの」+係助詞「は」の用法で、「~する。ところが、それは思いの外、……である。」という謂いである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 善い藝術家

 

       善い藝術家

 

 善い藝術家以上の人間でなければ、善い藝術を作ることは出來ない。このパラドツクスを呑込まない限り、「藝術の爲の藝術」は永久に袋露路を出られないであらう。

 

[やぶちゃん注:・「袋露路」「ふくろろぢ(ふくろろじ)」と訓じておく。袋小路。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或幻

 

       或幻

 

 われ夢にトルストイを見たり。躓き倒れたるトルストイを見たり。われは立ち、トルストイは匍匐す。憐むべきかな、トルストイ! われトルストイを嘲笑ふ。しかも見よ、這へるトルストイは步めるわれよりも速かなるを。われは疾驅し、トルストイは蛇行す。されどわれトルストイに及ぶ能はず。トルストイは天外に匍匐し去れり。トルストイよ! 偉いなる芋蟲よ!

 

[やぶちゃん注:「天才」で私が想起した「ゼノン(Zeno)のパラドックス」の「アキレスと亀」だっ!!!]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 井原西鶴

 

       井原西鶴

 

 西鶴に自然主義者を見るのは自然主義的批評家の色眼鏡である。西鶴に滑稽本の作家を見るのも大學の先生連の色眼鏡である。

 西鶴は恐るべき現實を見てゐた。しかもその現實を笑殺してゐた。西鶴の作品に漲るものはこの圖太い笑聲である。天才のみが持つ笑聲である。かのラブレエを持たない事は必しも我我の不幸ではない。我我は西鶴を持つてゐる。堂堂と娑婆苦を蹂躙した阿蘭陀西鶴を持つてゐる。

 

[やぶちゃん注:・「ラブレエ」フランス・ルネサンスを代表する作家で医師でもあったフランソワ・ラブレー(François Rabelais 一四八三年?~一五五三年)。古代ギリシャの医聖ヒポクラテス(ラテン文字転写:Hippocrates)の医書を研究したことで著名となったが、その後、中世巨人伝説に題材を採った騎士道物語のパロディー「ガルガンチュワ物語」(La vie très horrifique du grand Gargantua, père de Pantagruel:パンタグリュエルの父、ガルガンチュワの怖ろしき生涯:出版は一五三四年或いは一五三五年か)と「パンタグリュエル物語」(Horribles et épouvantables Faits et Prouesses du très renommé Pantagruel:その名も高きパンタグリュエルの超弩級の恐ろしき武勇伝:一五三二年)からなる物語で知られる。ウィキの「フランソワ・ラブレー」によれば、『これらは糞尿譚から古典の膨大な知識までを散りばめ、ソルボンヌや教会など既成の権威を風刺した内容を含んでいたため禁書とされた』とある。

・「阿蘭陀西鶴」戯作者井原西鶴(寛永一九(一六四二)年~元禄六(一六九三)年)は、一昼夜の間に発句を作る数を競う矢数(やかず)俳諧を誇り、またそれを得意としたことから、「二万翁」の俳号の俳諧師としても知られ(最高作句記録は二万三千五百句とされる)。その奇矯な句風から「阿蘭陀流(オランダりゅう)」と蔑称されたが、ウィキの「井原西鶴」によれば、「生玉万句」(延宝元(一六七三)年の『自序に「世人阿蘭陀流などさみして」とあり、貞門俳人・中島随流は』「誹諧破邪顕正」(延宝七(一六七九)年)の中で、『西山宗因を「紅毛(ヲランダ)流の張本」、西鶴を「阿蘭陀西鶴」と難じ、同じ談林の岡西惟中は』「誹諧破邪顕正返答」(延宝八(一六八〇)年)で『「師伝を背」いていると批難、松江維舟は』「俳諧熊坂」(延宝七(一六七九)年)で『「ばされ句の大将」と謗ったように西鶴は多く批判されたが、それはむしろ当時の談林派で』『の西鶴の存在の大きさを証する』ものであり、西鶴自身、『阿蘭陀流という言葉が気に入ったのか』、「俳諧胴骨」(延宝六(一六七八)年)の『序に「爰にあらんだ流のはやふねをうかめ」』、「三鉄輪」(延宝六(一六七八)年)の序では、『「阿蘭陀流といへる俳諧は、其姿すぐれてけだかく、心ふかく詞新しく」などと言って』おり、また、俳句を西鶴に学んだ中村西国の撰になる「見花数寄(けんかずき)」(延宝七(一六七九)年)に『載る西国と西鶴の両吟では、西国の「桜は花阿蘭陀流とは何を以て」という発句に西鶴が「日本に梅翁その枝の梅」とつけ、阿蘭陀流の幹に宗因(梅翁)を位置づける』とあって、西鶴の強烈な自信と反骨の凄さを感じさせる。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 理解

 

       理解

 

 會得するのは樂しい事である。僕に一番會得し易いのは、小説や戲曲の可否である。その次は俳句の内容である。その次は、――何とも云ふ事は出來ない。詩歌、書畫、陶磁器、蒔畫等、理解し足らぬものはまだ澤山ある。そんな事を思へばいやが上にも樂しい。淸少納言は樂しい事の中に、「まだ見ぬ草紙の多かる」を數へた。草紙は讀めば盡きるかも知れぬ。理解する樂しさは盡きる時があるまい。

 

[やぶちゃん注:・「蒔畫」「まきゑ(まきえ)」は、漆で文様を描き、金・銀・錫(すず)・色粉(いろふん:各種の素材から精製した粉状顔料)などを附着させた漆工芸。技法上から「研ぎ出し蒔絵」・「平蒔絵」・「高蒔絵」に大別され、絵以外の地の装飾としては「梨子地(なしじ)」・「塵地(ちりじ)」・「平目地」・「沃懸(いかけ)地」などがある。奈良時代に始まり、平安時代に盛んになった漆工芸の代表である。

・「まだ見ぬ草紙の多かる」「枕草子」の物尽くしの章段の一つ、「うれしきもの」の冒頭の、ある流布本の一本に、「まだ見ぬ物語の多かる、又一つを見て、いみじうゆかしう覺ゆる物語の、二つ見つけたる」とあるのに基づくか。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 所謂内容的價値

 

       所謂内容的價値

 

 藝術は表現であるとは近來何人も云ふ所である。それならば表現のある所には藝術的な何ものかもある筈ではないか?

 藝術はその使命を果たす爲には哲學をも宗教をも要せぬであろう。しかし表現の伴ふ限り、哲學や宗教は知らず識らず藝術的な何ものかに縋るのである。シヨウペンハウエルの哲學の如き、藝術的敍述を除き去つたとすれば、(事實上それは困難にしても)我我の心に訴へる所は減じ去ることを免れまい。

 いや、藝術的な何ものかは救世軍の演説にもあり得る。共産主義者のプロパガンダにもあり得る。況や薄暮の汽車の窓に蜜柑を投げる少女の如き、藝術的なのも當然ではないか?

 是等の例の示す通り、他にあり得ると云ふことは必しも藝術の本質と矛盾しない。わが友菊池寛の内容的價値を求めるのは魚の水を求めるのと共に、頗る自然な要求である。しかしその内容的價値を藝術的價値の外にありとするのには不贊成の意を表せざるを得ない。わたしの所見を以てすれば、菊池寛は餘りに内氣であり、餘りに藝術至上主義者である。もつと人生に忠でなければいかん。

 

[やぶちゃん注:・「薄暮の汽車の窓に蜜柑を投げる少女の如き、藝術的なのも當然ではないか?」芥川龍之介自身の珠玉の小品にして私の愛する「蜜柑」(大正八(一九一九)五月『新潮』)のエンディングを指す(リンク先は私の最初期の電子テクスト)。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  風流――久米正雄、佐藤春夫の兩君に――

[やぶちゃん注:以下は岩波旧全集第十二巻の「雑纂」に所収する「〔アフオリズム〕」である。これは「侏儒の言葉」と名指していないし、未定稿でもあるが、底本の稿の最後にある、先行する元版全集の編者によるものであろう『(大正十二年――大正十四年)』という記載は、「侏儒の言葉」の連載と完全に一致しており、その内容も「侏儒の言葉」の未定稿の一種と見なし得るものである。]

 

〔アフオリズム〕

 

       風流

        ――久米正雄、佐藤春夫の兩君に――

 

        *

 

 「風流」とは淸淨なるデカダンスである。

 

        *

 

 「風流」とは藝術的涅槃である。涅槃とはあらゆる煩惱を、――意志を掃蕩した世界である。

 

        *

 

 「風流」もあらゆる神聖なるものと多少の莫迦莫迦しさを共有してゐる。

 

        *

 

 「風流」は意志か感覺か? ――兎に角甚だ困ることは感覺とか官能とか云ふと同時に、忽ちアムプレシオニストの油畫のありありと目の前に見えることである。

 

        *

 

 「風流」の享樂的傾向、――黃老に發した道教は王摩詰の藝術を與へた外にも、猥褻なる房術をも與へたのである。

 

        *

 

 「風流」の一つの傳統は釋迦に發する釋風流である。「風流」のもう一つの傳統は老聃に發する老風流である。この二つの傳統は必ずしもはつきりとは分かれてゐない。しかし釋風流は老風流より大抵は憂鬱に傾いてゐる。たとへば沙羅木の花に似た良寛上人歌のやうに。

 

        *

 

 「風流」を宗とする藝術とはそれ自身にパラドツクスである。あらゆる藝術の創作は當然意志を待たなければならぬ。

 

        *

 

 百年の塵は「風流」の上に骨董の古色を加へてゐる。塵を拂へ。塵を拂へ。

 

[やぶちゃん注:全八章からなる「風流」と題したアフォリズムで、ポイントは「久米正雄、佐藤春夫の兩君に」捧げるという形態をとっている点であろう。これは明らかに両盟友(佐藤は晩年の)の作風を意識してのことであろう。佐藤に献呈されるのは、彼の諸作とここで語られる内容が個人的には腑に落ちるが、久米は私自身、殆んど読んだことがないのでよくわからない。識者の御教授を乞うものである。なお、ここで「風流」の辞書的意味を示すのは無効であるように思われる。それは以下で、芥川龍之介によって示されるものはすこぶる解剖学的で、芥川龍之介という不思議な顕微鏡によって拡大された異様な細部の表象だからである。

 

・「掃蕩」「さうたう(そうとう)」は「掃討」に同じい。敵などの対象を平らげること・完全に除き去ることの意。

・「アムプレシオニスト」Impressionnist。英語音写なら「インプレェシャニィスト」であるが、語の元であるフランス語(impressionnistes)ならば、「アンプレッショォンニィスト」となろうから、芥川龍之介の音写はこの語の本家であるフランス語に近いと言える。印象派の画家。十九世紀後半のフランスに発した絵画分野を濫觴とする芸術思潮。ウィキの「印象派によれば、『印象派の絵画の特徴としては、小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク、戸外制作、空間と時間による光りの質の変化の正確な描写、描く対象の日常性、人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂、斬新な描画アングル、などがあげられる』とある。この派の名称は「光の画家」として知られるクロード・モネ(Claude Monet 一八四〇年~一九二六年)が一八七二年に描いた「印象・日の出」(Impression, soleil levant)に基づく。

・「黃老」「こうらう(こうろう)」。「地上樂園」で既注であるが、再掲する。中国の神話伝説上五帝の最初とされる理想的神仙皇帝である黄帝と、道家思想の祖とされる老子のことで、ここは「荘子(そうじ)」内篇の「逍遙遊篇」や「応帝王篇」に出る、道家(老荘思想)の「無何有郷」(むかいうきやう(むかうきょう)、無為自然(自然のあるがままの、愚かな人為のない、何ものもなく広々とした永久不変の)理想郷のことを指す。

・「王摩詰」「わうまきつ(おうまきつ)」と読む。深く仏教を愛したことから「詩仏」と称された盛唐の名詩人王維の字(あざな)。

・「房術」「ばうじゆつ(ぼうじゅつ)」は房中術のこと。房事(性生活)、男女和合に於ける様々な技法に関わる中国古来の養生術の重要な一分野を指す語。

・「釋風流」意味は分かるが、こういう熟語は私は未だ嘗て聴いたことがない。

である。

・「老聃」「らうたん(ろうたん)」と読む。道家思想の祖とされる老子の字(あざな)。

・「老風流」こういう意味でこの単語を聴いたことも私はない。

・「沙羅木の花に似た良寛上人歌のやうに」「沙羅木」は「さらぼく」と読み、釈迦の涅槃の場にあったとされる「沙羅双樹」(さらそうじゅ:アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta)のこと。本邦でしばしば「沙羅双樹」の木として寺院に植えられているものは、ツバキ目ツバキ科ナツツバキ属ナツツバキ Stewartia pseudocamellia で全くの別種である。真正のサラソウジュ Shorea robusta は熱帯性で、本邦では通常、温室の中か、温暖な地域でないと育たない。……さてしかし……私はこの龍之介の謂いに、実は良寛さんの詠歌などは想起しない。……寧ろ、龍之介自身の詩歌を想起する。……既に示した晩年、片山廣子への切ない思いを詠んだ、あの「相聞」の一つ、

   *

 

また立ちかへる水無月の

歎きを誰にかたるべき。

沙羅のみづ枝に花さけば、

かなしき人の目ぞ見ゆる。

 

   *

を、である。……

・『「風流」を宗とする藝術とはそれ自身にパラドツクスである。あらゆる藝術の創作は當然意志を待たなければならぬ。』「宗」は「むね」。これは非常に興味深い謂いである。即ち、龍之介は「風流」とは創作者の「意志」を排除したところに生ずる現象であるというのである。だからこそその風流を第一とする「藝術とはそれ自身」の芸術的存立に於いて「パラドツクス」、逆説の存在「である」と言明するのである。何故なら、「あらゆる藝術の創作は當然」、「意志を待たなければならぬ」からであると言うのである。これは私には確かに腑に落ちるような気は私には、する。

・『百年の塵は「風流」の上に骨董の古色を加へてゐる。塵を拂へ。塵を拂へ。』この最後の一章に至って、我々は気づく。ここで龍之介が示そうとしたのは、実は「風流」ではなく、その濫觴にあるところの「芸術」なるものの本源的な属性への認識であり、それを我々現代の芸術家(芥川龍之介自身を含めてである)は見失っている或いは見損なっているという強烈な警告なのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或夜の感想

 

       或夜の感想

 

 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違ひあるまい。 (昭和改元の第二日)

 

[やぶちゃん注:遺稿の、そして狭義の「侏儒の言葉」の擱筆である。私には芥川龍之介の苦悶の背中がはっきりと見える…………

 

・「昭和改元の第二日」前条に注した通り、昭和改元第一日は西暦一九二六年十二月二十五日であるから、これは昭和元(一九二六)年十二月二十六日である。この日、芥川龍之介は鵠沼にいた。前日二十五日附で瀧井孝作に宛てた書簡(葉書)が残るが、そこには(岩波旧全集を底本とし、全文を掲げる。下線やぶちゃん)、

   *

御手紙拜見。僕は多事、多病、多憂で弱つてゐる。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばつてしまへと思ふ事がある。新年號の君の力作を樂しみにしてゐる。頓首

    十二月二十五日   鵠沼イの四号   芥川龍之介

   *

とある。翌二十七日に妻文は正月準備のために田端の自宅に戻るが(代わりに甥葛巻義敏が鵠沼に来るが、これは自殺願望の露わな龍之介を見張るためである。この辺りの詳細は新全集の宮坂年譜に拠る)、これも以前に注したように、この五日後の昭和元年十二月三十一日には鎌倉小町園の野々口豊のもとへ〈小さな家出〉をしているが、私は龍之介はこの時、彼女野々口豊に心中を求めた可能性を密かに疑っている。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 民衆(三章)

 

       民衆

 

 シエクスピイアも、ゲエテも、李太白も、近松門左衞門も滅びるであらう。しかし藝術は民衆の中に必ず種子を殘してゐる。わたしは大正十二年に「たとひ玉は碎けても、瓦は碎けない」と云ふことを書いた。この確信は今日(こんにち)でも未だに少しも搖がずにゐる。

 

       又

 

 打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、藝術は永遠に滅びないであらう。 (昭和改元の第一日)

 

       又

 

 わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。 (同上)

 

[やぶちゃん注:「民衆」「ハンマアのリズム」には確かに革命や、プロレタリア文学運動への芥川龍之介の関心や後代への期待の一部は認められる。しかし所詮、革命のための文学、革命に奉仕する文学は龍之介には到底、肯んぜられるものではなかった(同時に文学報国会の如き、国粋主義に奉仕する体制翼賛文学も当然に、である)。数年後のスターリン体制下のルースキイ・アヴァンガールト(Русский авангардRussian avant-garde/ロシア・アヴァンギャルド)の衰退を見るまでもなく、一人のトルストイもドストエフスキイも生まれなかったソヴィエトを見るがよい(私はただ一人、アンドレイ・タルコフスキイ(Андрей Арсеньевич ТарковскийAndrei Arsenyevich Tarkovsky 一九三二年~一九八六年)を生んだことに於いてのみソヴィエトの芸術を認める)。

 龍之介の遠い射程は権威や正義を振りかざす「思想」や、しゃっちょこばった「文芸思潮」などの作り出すクソ小説には、ない。――広く民衆が親しみ楽しみ――民衆の中の少しそうした智恵と技を持った者によって永遠に生み出され続けるところの――珠玉の小品の夢――なのである(以下の引用を参照のこと)。

 

・『わたしは大正十二年に「たとひ玉は碎けても、瓦は碎けない」と云ふことを書いた』大正一二(一九二三)年十一月一日発行の『改造』に芥川龍之介が震災後、逸早く発表した震災関連レーゼ・ドラマ風随想妄問妄答もうもうとう)の以下の箇所(リンク先はこの注のために私がこれを書きながら急遽、同時に電子化したもの)。

   *

 客 ぢや藝術は人生にさ程痛切なものぢやないと云ふのかね?

 主人 莫迦を云ひ給へ。藝術的衝動は無意識の裡にも我我を動かしてゐると云つたぢやないか? さうすりや藝術は人生の底へ一面に深い根を張つてゐるんだ。──と云ふよりも寧ろ人生は藝術の芽に滿ちた苗床なんだ。

 客 すると「玉は碎けず」かね?

 主人 玉は──さうさね。玉は或は碎けるかも知れない。しかし石は碎けないね。藝術家は或は亡びるかも知れない。しかしいつか知らず識らず藝術的衝動に支配される熊さんや八さんは亡びないね。

   *

因みに、遺稿中問答」(昭和二(一九二七)年九月号『文藝春秋』――芥川龍之介追悼号――)の中にも、

   *

或聲 お前は詩人だ。藝術家だ。お前には何ごとも許されてゐる。

僕  僕は詩人だ。藝術家だ。けれども又社會の一分子だ。僕の十字架を負ふのは不思議ではない。それでもまだ輕過ぎるだらう。

或聲 お前はお前のエゴを忘れてゐる。お前の個性を尊重し、俗惡な民衆を輕蔑しろ。

僕  僕はお前に言はれずとも僕の個性を尊重してゐる。しかし民衆を輕蔑しない。僕はいつかかう言つた。――「玉は碎けても、瓦は碎けない。」シエクスピイアや、ゲエテや近松門左衞門はいつか一度は滅びるであらう。しかれ彼等を生んだ胎は、――大いなる民衆は滅びない。あらゆる藝術は形を變へても、必ずそのうちから生まれるであらう。

或聲 お前の書いたものは獨創的だ。

僕  いや、決して獨創的ではない。第一誰が獨創的だつたのだ? 古今の天才の書いたものでもプロトタイプは至る所にある。就中僕は度たび盜んだ。

   *

とも出る。

・「打ち下ろすハンマアのリズムを聞け」お分かりか? この心地よい「リズム」を奏でるかのように「ハンマア」を「打ち下ろす」のは〈労働者=プロレタリアート(ドイツ語:Proletariat)〉なんてへんてこりんなもんじゃあ、ござんせんぜ! 横丁の儂ら、『熊さんや八さん』(前注の引用を見よ)でござんすよ!

・「昭和改元の第一日」昭和改元第一日は西暦一九二六年十二月二十五日。改元日は元号が重なるため、昭和改元第一日は同時に大正最後の日、大正十五年十二月二十五日と同日である。

・「區々たる」「くくたる」。小さくて取り上げるに足らぬさま。些末で有意な価値を持たないさま。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 人生

 

       人生

 

 革命に革命を重ねたとしても、我我人間の生活は「選ばれたる少數」を除きさへすれば、いつも暗澹としてゐる筈である。しかも「選ばれたる少數」とは「阿呆と惡黨と」の異名に過ぎない。

 

[やぶちゃん注:先の「革命」の「革命の上に革命を加へよ。然らば我等は今日よりも合理的に娑婆苦を嘗むることを得べし。」の注で私が解釈した内容が正しかったことが立証されている。彼はやはり、現代の腐った官僚主義を遙か八十九年前にとうに見通していた。]

「妄問妄答」   芥川龍之介 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年十一月一日発行の『改造』に初出。後に随筆集「百艸」に収録された。底本は岩波旧全集を用いた。]

 

 

 妄問妄答

 

 客 菊池寛氏の説によると、我我は今度の大地震のやうに命も危いと云ふ場合は藝術も何もあつたものぢやない。まづ命あつての物種と尻端折りをするのに忙しいさうだ。しかし實際さう云ふものだらうか?

 主人 そりや實際さう云ふものだよ。

 客 藝術上の玄人もかね? たとへば小説家とか、畫家とか云ふ、──

 主人 玄人はまあ素人より藝術のことを考へさうだね。しかしそれも考へて見れば、實は五十歩百歩なんだらう。現在頭に火がついてゐるのに、この火焰をどう描寫しようなどと考へる豪傑はゐまいからね。

 客 しかし昔の侍などは橫腹を槍に貫かれながら、辭世の歌を咏んでゐるからね。

 主人 あれは唯名譽の爲だね。意識した藝術的衝動などとは別のものだね。

 客 ぢや我我の藝術的衝動はああ云ふ大變に出合つたが最後、全部なくなつてしまふと云ふのかね?

 主人 そりや全部はなくならないね。現に遭難民の話を聞いて見給へ。思ひの外藝術的なものも澤山あるから。──元來藝術的に表現される爲にはまづ一應藝術的に印象されてゐなければならない筈だらう。するとさう云ふ連中は知らず識らず藝術的に心を働かせて來た譯だね。

 客 (反語的に)しかしさう云ふ連中も頭に火でもついた日にや、やつぱり藝術的衝動を失ふことになるだらうね?

 主人 さあ、さうとも限らないね。無意識の藝術的衝動だけは案外生死の瀨戸際にも最後の飛躍をするものだからね? 辭世の歌で思ひ出したが、昔の侍の討死などは大抵戲曲的或は俳優的衝動の──つまり俗に云ふ芝居氣の表はれたものとも見られさうぢやないか?

 客 ぢや藝術的衝動はどう云ふ時にもあり得ると云ふんだね?

 主人 無意識の藝術的衝動はね。しかし意識した藝術的衝動はどうもあり得るとは思はれないね。現在頭に火がついてゐるのに、…………

 客 それはもう前にも聞かされたよ。ぢや君も菊池寛氏に全然贊成してゐるのかね?

 主人 あり得ないと云ふことだけはね。しかし菊池氏はあり得ないのを寂しいと云つてゐるのだらう? 僕は寂しいとも思はないね、當り前だとしか思はないね。

 客 なぜ?

 主人 なぜも何もありやしないさ。命あつての物種と云ふ時にや、何も彼も忘れてゐるんだからね。藝術も勿論忘れる筈ぢやないか? 僕などは大地震どころぢやないね。小便のつまつた時にさへレムブラントもゲエテも忘れてしまふがね。格別その爲に藝術を輕んずる氣などは起らないね。

 客 ぢや藝術は人生にさ程痛切なものぢやないと云ふのかね?

 主人 莫迦を云ひ給へ。藝術的衝動は無意識の裡にも我我を動かしてゐると云つたぢやないか? さうすりや藝術は人生の底へ一面に深い根を張つてゐるんだ。──と云ふよりも寧ろ人生は藝術の芽に滿ちた苗床なんだ。

 客 すると「玉は碎けず」かね?

 主人 玉は──さうさね。玉は或は碎けるかも知れない。しかし石は碎けないね。藝術家は或は亡びるかも知れない。しかしいつか知らず識らず藝術的衝動に支配される熊さんや八さんは亡びないね。

 客 ぢや君は問題になつた里見氏の説にも菊池氏の説にも部分的には反對だと云ふのかね?

 主人 部分的には贊成だと云ふことにしたいね。何しろ兩雄の挾み打ちを受けるのはいくら僕でも難澁だからね。ああ、それからまだ菊池氏の説には信用の出來ぬ部分もあるね。

 客 信用の出來ぬ部分がある?

 主人 菊池氏は今度大向うからやんやと喝采される爲には譃が必要だと云ふことを痛感したと云つてゐるだらう。あれは餘り信用出來ないね。恐らくはちよつと感じた位だね。まあ、もう少し見てゐ給へ。今に又何かほんたうのことをむきになつて云ひ出すから。

2016/06/17

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

 

       わたし

 

 わたしは二三の友だちにはたとひ眞實を言はないにもせよ、譃をついたことは一度もなかつた。彼等も亦譃をつかなかつたから。

 

[やぶちゃん注: 「眞實を言はな」かった「譃をついたことは一度もなかつた」とは芥川龍之介という男の病的な気遣いを感じさせる謂いである。私は「眞實を言は」ずに「譃を」もつかなかったなどという詭弁は口が裂けても言えない。これはまさに人を食った謂いであると思う。また寧ろ、「彼等も亦譃をつかなかつた」というのは逆に龍之介の信頼者へのお目出度い一面を示すとも読める。

・「二三の友だち」画家小穴隆一の他、盟友久米正雄・菊池寛といったところか。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

 

       わたし

 

 わたしは兩親には孝行だつた。兩親はいづれも年をとつてゐたから。

 

[やぶちゃん注:この場合の「兩親」とは養父母を指す。芥川家の実母フクの兄芥川道章(どうしょう 嘉永二(一八四九)年~昭和三(一九二八)年)と養母芥川トモ(儔)(安政四(一八五七)年~昭和一二(一九三七)年)で、龍之介自裁の時で道章は満七十八歳、トモが満七十歳であった。因みに、実母新原(にいはら:旧姓芥川)フク(万延元(一八六〇)年~明治三五(一九〇二)年)は享年四十二歳、龍之介満十歳の時に、実父新原敏三(嘉永三(一八五〇)年~大正八(一九一九)年)は享年六十八歳、龍之介満二十七歳の時に孰れも亡くなっている。

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

 

       わたし

 

 わたしは金錢には冷淡だつた。勿論食ふだけには困らなかつたから。

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介は実は「金錢には冷淡」ではなかった。頗る巧妙で計算高かった(但し、金に細かかっただけで、金に汚かったわけではないので、注意されたい)。それについてはやや場違いな形であったが、既に言葉」の注でそれについては述べているので、未読の方はそちらをお読み戴きたい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

 

       わたし

 

 わたしは三十にならぬ前に或女を愛してゐた。その女は或時わたしに言つた。――「あなたの奧さんにすまない。」わたしは格別わたしの妻に濟まないと思つてゐた訣ではなかつた。が、妙にこの言葉はわたしの心に滲み渡つた。わたしは正直にかう思つた。――「或はこの女にもすまないのかも知れない。」わたしは未だにこの女にだけは優しい心もちを感じてゐる。

 

[やぶちゃん注:「わたしは三十にならぬ前に」「愛してゐた」「或」る「女」で、「あなたの奧さんにすまない」と殊勝なことを素直に厭味なくつい呟いてしまうような女、しかも自死を前にした芥川龍之介が「わたしは未だにこの女にだけは優しい心もちを感じてゐる」と告解する女。……文との結婚後(芥川龍之介が塚本文と結婚したのは大正七(一九一八)年二月二日で龍之介は満二十五歳)で、数えで三十なら、そこから満二十九歳になる前となると、

 

大正七年から大正十年の間

 

ということになる。その時期にかくまで龍之介が深入りした女性となると、まずは先(せん)から述べてきた秀しげ子が最も知られる、というか、一般的には彼女ぐらいしか知られていない。

 ところが既に見てきたように、これらと同時期に書かれた遺稿「或阿呆の一生」では秀しげ子はテツテ的にそれと判るように書かれ、しかもおぞましい嫌悪忌避の対象としてしか描かれていないから(他にも車」の「三 夜」に、「僕」が見る奇怪な夢に、『或寢臺の上にミイラに近い裸體(らたい)の女が一人(ひとり)こちらを向いて橫になつてゐた。それは又僕の復讐の神、――或狂人の娘に違ひなかつた』等と出たりするのである)、この「わたしは未だにこの女にだけは優しい心もちを感じてゐる」という謂いは絶対に秀しげ子ではないと断言出来る。

 ところが実は、この条件に適合する女性が一人だけ、いるのである。

 それは、「或阿呆の一生」の中で四度ほど登場する、謎の

 

〈月光の女〉

 

である。特に「二十三 彼女」の章に描出される女性は、このアフォリズムの女性との親和性を強く感じさせるものである。

   *

 

       二十三 彼女

 

 或廣場の前は暮れかかつてゐた。彼はやや熱のある體(からだ)にこの廣場を歩いて行つた。大きいビルデイングは幾棟もかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。

 彼は道ばたに足を止め、彼女の來るのを待つことにした。五分ばかりたつた後(のち)、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄つた。が、彼の顏を見ると、「疲れたわ」と言つて頰笑んだりした。彼等は肩を並べながら、薄明い廣場を歩いて行つた。それは彼等には始めてだつた。彼は彼女と一しよにゐる爲には何を捨てても善(よ)い氣もちだつた。

 彼等の自動車に乘つた後、彼女はぢつと彼の顏を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言つた。彼はきつぱり「後悔しない」と答へた。彼女は彼の手を抑へ、「あたしは後悔しないけれども」と言つた。彼女の顏はかう云ふ時にも月の光の中にゐるやうだつた。

 

   *

而して、この龍之介の愛人の有力な候補者は誰かと言えば、鎌倉の料亭鎌倉小町園(東京小町園支店)の女将野々口豊(ののぐちとよ 明治二四(一八九一)年~昭和五一(一九七五)年:龍之介より一歳年上)である。

 彼女は鎌倉小町園を営む野々口光之助と大正七(一九一八)年九月に結婚している。この鎌倉小町園は現在の横須賀線下りが鎌倉を出てすぐの若宮大路を跨ぐガードの進行方向左手にかつて存在し、龍之介が文との新婚生活をした借家ともごく近い(因みに、この小町園と龍之介の新婚時代の住居との間に私藪野家の実家がある)のであるが、そこから簡単に邪推出来るほどには話は単純ではない。この龍之介と豊のめぐり逢いの経緯については、松本清張張りの手法で、先に挙げた秀しげ子及び豊との龍之介のランデ・ブヴを鮮やかに論理的に解明した、二〇〇六年彩流社刊高宮檀『芥川龍之介を愛した女性――「藪の中」と「或阿呆の一生」に見る』をお読みになられんことを強くお薦めするが、ともかくも高宮氏は、何と、龍之介とこの野々口豊がわりない仲になったのを、

 

大正八(一九一九)年十二月二十五日

 

と日にちまで比定されておられるのである。

 この日付なら条件に適合する。野々口豊は現在の芥川龍之介研究者の間でも必ずしもよく知られているとは言えない女性であるが、龍之介と非常に深い関係にあったことは間違いなく、自死の前年末(昭和元年十二月三十一日)にも鎌倉小町園の彼女のもとへと一種の〈小さな家出〉をし、彼女を訪れている(滞在していることが知られ、田端から電話で帰宅を促されるも、翌年正月二日の夜にやっと田端へ戻っている)。

 高宮氏は〈月光の女〉を野々口豊であると断定され、その考証は論理的にもすこぶる首肯出来るものであはる。しかしそれでも私は、「或阿呆の一生」に登場する女性たちは、同一人物のように見えてもそうではなく、違った複数の女性を、時系列さえも無視して組み換え操作して書いている(私は勝手に芥川龍之介の〈愛人の遺伝子操作〉と呼んでいる)と踏んでいる。特に彼がそこで一貫して〈月光の女〉と呼んでいる女性の濫觴は、龍之介が結婚する直前に知り合っていた海軍機関学校の同僚(物理学教授)で親しくしていた佐野慶造の妻佐野花子(彼女についても私は複数の考証をして来た。特に芥川龍之介幻の小説「佐野さん」についての芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察は未読の方には是非読んで戴きたい)にまで遡ることが出来、しかも、その後に遍歴した女性たちの美しい一場面の切片をそれぞれ切り取ってきてはパッチ・ワークにした実在しない理想的女性像としての〈月光の女〉であろうと私は思っている(例えば、それに関わる最近の私の考察の一つには、『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』などがある)。最晩年(当然、「わたしは三十にならぬ前に」の条件が満たされない)の龍之介は片山廣子と深い関係に陥る前に彼の方から引いた(既に自死を決してしていた)のであるが、しかし、この最後の「わたしは未だにこの女にだけは優しい心もちを感じてゐる」という言葉は、私は感覚的には、芥川龍之介が最後に愛した片山廣子にこそ相応しい台詞である、とは強く感じていると附言しておきたい。

 私はこのアフォリズムも「或阿呆の一生」と同じく、登場人物に『インデキスをつけ』(「或阿呆の一生」の冒頭の久米正雄宛の芥川龍之介の前置きを参照のこと)られないようにするために事実と異なる操作がなされていると断ずる。きっと、「あなたの奧さんにすまない。」と言う言葉を呟いた〈彼女〉だけにそれが分かるように仕掛けて。……]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

 

       わたし

 

 わたしを感傷的にするものは唯無邪氣な子供だけである。

 

[やぶちゃん注:既に「幼兒」で「我我は一體何の爲に幼い子供を愛するのか? その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない爲である。」と述べ、その二章目でも、「我我の恬然と我我の愚を公にすることを恥ぢないのは幼い子供に對する時か、――或は、犬猫に對する時だけである。」と言っていた。無論、これは理智派などと呼ばれることになる芥川龍之介が、真にセンチメンタルなることがあるとすれば(感性的に有意に動かされることあるとすれば)、それはただ「無邪氣な子供」たちに対した時だけだ、と語るのは、ダンディであるよりも先に、如何にも人間的、人の子、人の父の感懐ではないか! だからさっきから私は言っているのである! 龍之介は比呂志・多加志・也寸志の三人の子息の〈良き父〉としてあり続けるために死を選んだのだと!]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

 

       わたし

 

 わたしは第三者を愛する爲に夫の目を偸んでゐる女にはやはり戀愛を感じないことはない。しかし第三者を愛する爲に子供を顧みない女には滿身の憎惡を感じてゐる。

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の大正八(一九一九)年当時に不倫相手であった秀しげ子にはその時既に夫文逸との間に五歳になる長男がいた(因みに、龍之介の長男比呂志は翌大正九年生まれである)。

 しかし私は、このアフォリズムを字面通りには読まない。

 以前に述べた通り、芥川龍之介遺書の「わが子等に」の遺書の記載から、私は龍之介は、比呂志・多加志・也寸志の三人の子息の〈良き父〉としてあり続けるために死を選んだと真面目に考えている。

 さすれば、一行目は不倫アフォリズムの中に埋もれさせるための隠れ蓑でしかなく、肝心なのは第二文で、しかもそれは、

 

……しかし第三者を愛する爲に子供を顧みないには滿身の憎惡を感じてゐる。

 

或いは

 

……しかし第三者を愛する爲に子供を顧みないには滿身の憎惡を感じてゐる。

 

が正しい構文であると信じて疑わないのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし(二章)

 

       わたし

 

 わたしは第三者と一人の女を共有することに不平を持たない。しかし第三者が幸か不幸かかう云ふ事實を知らずにゐる時、何か急にその女に憎惡を感ずるのを常としてゐる。

 

       又

 

 わたしは第三者と一人の女を共有することに不平を持たない。しかしそれは第三者と全然見ず知らずの間がらであるか、或は極く疎遠の間がらであるか、どちらかであることを條件としてゐる。

  

[やぶちゃん注:以下の内容は既に一部で注しているのであるが、派生的に記したものなので再掲しておく。これは芥川龍之介が「愁人」と呼んだ、歌人秀しげ子(明治二三(一八九〇)年~?:芥川龍之介より二歳年上。夫は帝国劇場の電気部主任技師秀文逸(ひでぶんいつ 明治一六(一八八六)年~?)との不倫関係に基づくものである。龍之介としげ子が初めて逢ったのは大正八(一九一九)年六月十日の神田の西洋料理店ミカドで開かれた岩野泡鳴を中止とした文学サロン『木曜会』での席上で、この直後から龍之介の方から積極的に接近、同年九月には肉体関係を持ったと考えられているが、どうもその直後辺りから、龍之介の方に激しい失望感(以下に引用する『動物的本能ばかり強い彼女に或憎惡を感じてゐた』などがヒントとなろう)が生じ、彼の恋愛感情は急速に冷めてしまったように思われる。真相は不明ながら、夫に不倫関係を知られて告訴(当時の旧刑法では姦通罪があった)されそうなったことから龍之介が離れたと見る向きもあるようだ(例えば、遺稿「闇中問答」(昭和二(一九二七)年九月号『文藝春秋』――芥川龍之介追悼号――)の中に、『或聲 お前の家庭生活は不幸だつた。/僕 しかし僕の細君はいつも僕に忠實だつた。/或聲 お前の悲劇は他の人々よりも逞しい理智を持つてゐることだ。/僕 譃をつけ。僕の喜劇は他の人々よりも乏しい世間智を持つてゐることだ。/或聲 しかしお前は正直だ。お前は何ごとも露れないうちにお前の愛してゐる女の夫へ一切の事情を打ち明けてしまつた。/僕 それも譃だ。僕は打ち明けずにはゐられない氣もちになるまでは打ち明けなかつた。』といったシーンが登場する。但し、これが秀しげ子絡みの事実を指すと断定は出来ない)。さともかくも後には龍之介自身が彼女自体を激しく忌避するようになったことは事実で、「或阿呆の一生」の中でも、

   *

 

       二十一 狂人の娘

 

 二台の人力車は人氣のない曇天の田舍道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の來るのでも明らかだつた。後(うしろ)の人力車に乘つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して戀愛ではなかつた。若し戀愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける爲に「兎に角我等は對等だ」と考へない譯には行かなかつた。

 前の人力車に乘つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の爲に自殺してゐた。

 「もうどうにも仕かたはない。」

 彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎惡を感じてゐた。

 二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蛎殼(かきがら)のついた粗朶垣(そだがき)の中には石塔が幾つも黑んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を輕蔑し出した。………

 

    *

と書き(「狂人の娘」とは当の不倫相手の秀しげ子のことであるので注意されたい。また、このシチュエーションは肉体関係を持ったその折りかその直後の体験に基づくものと考えられる)、さらに、

    *

 

       三十八 復讐

 

 それは木の芽の中にある或ホテルの露台(ろだい)だつた。彼はそこに畫を描きながら、一人の少年を遊ばせてゐた。七年前に絶緣した狂人の娘の一人息子と。

 狂人の娘は卷煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めてゐた。彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。少年は幸ひにも彼の子ではなかつた。が、彼を「をぢさん」と呼ぶのは彼には何よりも苦しかつた。

 少年のどこかへ行つた後(のち)、狂人の娘は卷煙草を吸ひながら、媚びるやうに彼に話しかけた。

 「あの子はあなたに似てゐやしない?」

 「似てゐません。第一………」

 「だつて胎教と云ふこともあるでせう。」

 彼は默つて目を反らした。が、彼の心の底にはかう云ふ彼女を絞め殺したい、殘虐な欲望さへない譯ではなかつた。

 

   *

この慄っとする言葉を吐くのも秀しげ子と考えてよい。

 ただ、この二章「第三者」というのがやや曲者(くせもの)で、そもそもが「共有」という謂いからは「第三者」というのを「夫」と読み換えるのには甚だ無理がある。それでも一章目は、これが秀しげ子との不倫行為を指している場合に彼女夫文逸を指すと読んでも、必ずしもおかしくはない。こちらから不倫を仕掛けておきながら、その一緒に不倫をしている当の相手の女性が夫に隠れて自分と不倫をしていることに『何か急にその女に憎惡を感ずるのを常としてゐる』というのは、如何にも論理的に妙ではあるが、私はよく理解出来る。そういうことは確かに、ある。

 しかし、実はこの「第三者」(特に第二章目の「第三者と全然見ず知らずの間がらであるか、或は極く疎遠の間がらであるか、どちらかであることを條件としてゐる」の箇所)にもっとしっくりくる人物が、実はいるのである。

 「龍門の四天王」(但し、彼は龍之介と同年(六ヶ月ほど下)であり、「師」という認識は私は実は南部にはなかったと考えている)の一人である南部修太郎(明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)である。龍之介は大正一〇(一九二一)年の九月(推定)に、かつての不倫相手であった秀しげ子が、こともあろうにこの南部修太郎と一緒に密会していた場面にたまたま遭遇、激しいショックを受けているのである。二章目は明らかにその衝撃に基づく謂いと考えてよい。而してそこからフィード・バックするなら、第一章の「第三者」も南部と考えた方が、ずっと自然なものとして合わせて読めることになる。因みに、このショッキングな出来事が翌年一月に発表される「藪の中」に強い影響を与えていることは間違いない。但し、この時点では私は龍之介としげ子の方の不倫関係は一応、終わっていたと考えている(前に引いた「或阿呆の一生」の「三十八 復讐にある『七年前に絶緣した狂人の娘』というのが数字的にはよく合うのがお分かり戴けるものと思う)。なお、秀しげ子は龍之介の自死する晩年まで田端の龍之介を平気な顔で訪ねているのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

       わたし

 

 わたしは度たび譃をついた。が、文字にする時は兎に角、わたしの口ずから話した譃はいづれも拙劣を極めたものだつた。

 

[やぶちゃん注:「わたしは度たび譃をついた。が、」「わたしの口ずから話した譃はいづれも拙劣を極めたものだつた」というのは本当である。日記や書簡等を読み込んでみると、火遊びをしている龍之介が、弟子たちや作家仲間に、しきりに妻を誤魔化すための算段を尽くしたり、依頼したりするさまが見てとれるのであるが、そのザマは私のような愚鈍な人間にも見え見えの、まっこと、拙劣な噓であることがバレバレなのである。しかし実はこのアフォリズムの問題は、「文字にする時は兎に角」というところにこそ、ある。我々が読んで感動する芥川龍之介の小説にこそ、彼の仕組んだ、未だ知られぬ巧妙な噓が無数に鏤められているということなのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

 

       わたし

 

 わたしはどんなに愛してゐた女とでも一時間以上話してゐるのは退窟だつた。

 

[やぶちゃん注:このアフォリズムに対し、相手の女にしてみてもそうであったのに違いない、鏡返しだ、などと注釈する似非フェミニストにだけは私はなるつもりは、ない(高校教師時代、このアフォリズムを仕込んで、「侏儒の言葉」(抄)を読ませ、各人にアフォリズムを書かせると、必ず、女生徒の何人かはこれを逆手に執ったものを書いてきた。そういう女生徒の他のアフォリズムは決まって憎悪に満ちた捩じれたものであることが多かったのもまた事実である)。私は寧ろ、これは芥川龍之介が愛した多くの女たち(事実、多い)に、自死に際し、均等に決別するするための、優しき(或いは淋しい)辞であると解釈する方が、遙かに真に芥川世界の体系であると考える部類の人間である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

 

       わたし

 

 わたしは三十歳を越した後、いつでも戀愛を感ずるが早いか、一生懸命に抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必しも道德的にわたしの進步したのではない。唯ちよつと肚の中に算盤をとることを覺えたからである。

 

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年満三十二歳だった芥川龍之介は、この年の七月二十二日に初めて軽井沢の鶴屋旅館に避暑に赴いた(一ヶ月後の滞在で同年八月二十三日に田端帰着)。その七月二十七日、同じく避暑に来ていた山本有三を同地のグリーン・ホテルに訪ねて一泊した際、歌人でアイルランド文学の翻訳家であった片山廣子(明治一一(一八七八)年二月十日~昭和三二(一九五七)年三月十九日:翻訳家としてのペン・ネームは「松村みね子」。芥川龍之介より十四歳年上で当時四十六歳)と再会した。

 なお、これははっきりしておきたいのであるが、多くの資料は彼女とこの時に初めて接触したかのように記しているものが多いが、それは全くの誤りである。歌人片山廣子の第一歌集「翡翠(かわせみ)」は大正五(一九一六)年三月二十五日に佐佐木信綱主宰の結社『心の花』の出版部門である竹柏会出版部から『心の花叢書』の一冊として刊行されたが、この歌集が何らかの関係で芥川龍之介に献本されている(大正六(一九一七)年六月十日附芥川龍之介片山廣子宛礼状有り。「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡」の「書簡1」を参照されたい)。ともかくも龍之介は大正五(一九一六)年六月発行の雑誌『新思潮』の「紹介」欄に「翡翠 片山廣子氏著」という歌集「翡翠」評を書いている。この時廣子は三十九歳で夫の日本銀行重役片山貞次郎も健在、既に二人の子持ちであった。龍之介の方は二十五歳独身(但し、既に文とは婚約しており、翌年二月二日に挙式している)で、横須賀海軍機関学校英語学教授嘱託として、鎌倉和田塚(現在の鎌倉市由比ヶ浜)にあった海浜ホテル隣の野間クリーニング店の離れに下宿していた。翌七月二十四日にも龍之介は廣子に手紙を認めている(同前「書簡2」)。また、それから二年後の大正八(一九一九)年二月十七日に龍之介はインフルエンザに罹患して発熱、鎌倉(妻文との借新居)から田端の実家に移って療養、海軍機関学校も翌月初旬まで休んでいる(実はこの二日前の二月十五日に大坂毎日新聞社入社が内定していた)が、その間の大正八(一九一九)年二月二十八日(推定)、廣子は田端に龍之介の病気見舞に訪れている(その礼状が同前「書簡3」)。ただ、廣子がこの時に芥川に実際に対面したかどうかは不明。病気見舞であるから玄関先での挨拶で逢わなかった可能性もある。しかし、この「書簡1」から「書簡3」の内容を見る限り、その間に『心の花』などの公的な会の場で龍之介と廣子は直接逢っている可能性がすこぶる高いと私は踏んでいる。即ち、芥川龍之介と片山廣子はこの頃(大正八(一九一九)年時点)、既に面識はあったと考えるのが自然である。さらに廣子はこの時四十一歳であったが、この翌年大正九(一九二〇)年三月十四日に夫貞次郎が病死している。

 話を大正一三(一九二四)年夏に戻す。

 これ以降、芥川龍之介は十四年上の未亡人の才媛片山廣子に強く惹かれてゆくのである。その経緯などは私のブログ・カテゴリ「片山廣子」や私の小攷山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲をなどを参照されたいが、苦悩の末、龍之介は廣子への思いを無理矢理截ち切って、従容と自裁へと向かったのであった。それは、遺稿「或阿呆の一生にも、

   *

 

       三十七 越し人

 

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

 

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。

 

   *

と記されてある(この「越し人」が片山廣子のことを指すことに異論を挟む研究者はいない。ただ、この呼び名の由来は不明である。私の考証はやぶちゃんの片山廣子の「越し人」考を)。

 なお、このアフォリズムで「一生懸命に」作った「抒情詩」とは上記だけではなく、膨大な量に及ぶ。例えば、越びと 旋頭歌二十五首(大正十四(一九二五)年三月『明星』所載。リンク先は私の電子テクスト)、

   *

 

   一

 

あぶら火のひかりに見つつこころ悲しも、

み雪ふる越路のひとの年ほぎのふみ

 

むらぎものわがこころ知る人の戀しも。

み雪ふる越路のひとはわがこころ知る。

 

現(うつ)し身を歎けるふみの稀になりつつ、

み雪ふる越路のひとも老いむとすあはれ。

 

   二

 

うち日さす都を出でていく夜ねにけむ。

この山の硫黃の湯にもなれそめにけり。

 

みづからの體温守(も)るははかなかりけり、

靜かなる朝の小床(をどこ)に目をつむりつつ。

 

何しかも寂しからむと庭をあゆみつ、

ひつそりと羊齒(しだ)の卷葉(まきば)にさす朝日はや。

 

ゑましげに君と語らふ君がまな子(ご)を

ことわりにあらそひかねてわが目守(まも)りをり。

 

寂しさのきはまりけめやこころ搖(ゆ)らがず、

この宿の石菖(せきしやう)の鉢に水やりにけり。

 

朝曇りすずしき店(みせ)に來よや君が子、

玉くしげ箱根細工をわが買ふらくに。

 

池のべに立てる楓(かへで)ぞいのちかなしき。

幹に手をさやるすなはち秀(ほ)をふるひけり。

 

腹立たし身と語れる醫者の笑顏(ゑがほ)は。

馬じもの嘶(いば)ひわらへる醫者の齒ぐきは。

 

うつけたるこころをもちて街(まち)ながめをり。

日ざかりの馬糞(ばふん)にひかる蝶のしづけさ。

 

うしろより立ち來る人を身に感じつつ、

電燈の暗き二階をつつしみくだる。

 

たまきはるわが現(うつ)し身ぞおのづからなる。

赤らひく肌(はだへ)をわれの思(も)はずと言はめや。

 

君をあとに君がまな子(ご)は出でて行きぬ。

たはやすく少女(をとめ)ごころとわれは見がたし。

 

言(こと)にいふにたへめやこころ下(した)に息づき、

君が瞳(め)をまともに見たり、鳶いろの瞳(め)を。

 

   三

 

秋づける夜を赤赤(あかあか)と天(あま)づたふ星、

東京にわが見る星のまうら寂しも。

 

わがあたま少し鈍(にぶ)りぬとひとり言(ごと)いひ、

薄じめる蚊遣線香(かやりせんこ)に火をつけてをり。

 

ひたぶるに昔くやしも、わがまかずして、

垂乳根(たらちね)の母となりけむ、昔くやしも。

 

たそがるる土手の下(した)べをか行きかく行き、

寂しさにわが摘みむしる曼珠沙華(まんじゆしやげ)はや。

 

曇り夜のたどきも知らず歩みてや來(こ)し。

火ともれる自動電話に人こもる見ゆ。

 

寢も足らぬ朝日に見つついく日(ひ)經にけむ。

風きほふ狹庭(さには)のもみぢ黑みけらずや。

 

小夜(さよ)ふくる炬燵の上に顋(あご)をのせつつ、

つくづくと大書棚(おほしよだな)見るわれを思へよ。

 

今日(けふ)もまたこころ落ちゐず黃昏(たそが)るるらむ。

向うなる大き冬樹(ふゆき)は梢(うら)ゆらぎをり。

 

門(かど)のべの笹吹きすぐる夕風の音(おと)、

み雪ふる越路(こしぢ)のひともあはれとは聞け。

 

   *

詩「相聞」でも(引用はやぶちゃん版芥川龍之介詩集より。異同のある別稿(?)もあるのでリンク先を参照されたい)、

   *

 

あひ見ざりせばなかなかに

空に忘れてすぎむとや。

野べのけむりもひとすぢに

命を守(も)るはかなしとよ。

 

   *

や、芥川龍之介の絶唱とも言える、

   *

 

また立ちかへる水無月の

歎きを誰にかたるべき。

沙羅のみづ枝に花さけば、

かなしき人の目ぞ見ゆる。

 

   *

がある。さらには芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.の半分近くも、実際には片山廣子を想って詠んだものと私は考えている。

 

・「肚」「はら」。

・「算盤」「そろばん」。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

 

       わたし

 

 わたしは度たびかう思つた。――「俺があの女に惚れた時にあの女も俺に惚れた通り、俺があの女を嫌ひになつた時にはあの女も俺を嫌ひになれば善いのに。」

 

[やぶちゃん注:私もそう思ったことがなかったかと言えば、噓になる。しかし、こう、正面切って真正直にアフォリズムにする芥川龍之介には私は「滿身の憎惡を感じてゐる」。「滿身の憎惡を感じてゐる」?――そう感じている私自身にこそ、そうだと言わねばならぬのに。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

 

       わたし

 

 わたしは度たび他人のことを「死ねば善い」と思つたものである。しかもその又他人の中には肉親さへ交つてゐなかつたことはない。

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の肉親、特に実母と実父に対する複雑した愛憎の念は、余人の測り難いものがある。それは私が龍之介の作品の中でも特に偏愛する點鬼簿を読むに若くはない。実父のそれはリンク先の私のテクストを読んで戴くとして、実母(新原(にいはら:旧姓芥川)フク(万延元(一八六〇)年~明治三五(一九〇二)年:享年四十二歳/龍之介満十歳)について書かれた「一」の全文を引く。但し、龍之介は父を「死ねば善い」と思ったことはあったかも知れない(あったと断言してもよい。それは私には點鬼簿の「三」から感じ取れるのである)。しかし、龍之介僅か十歳で世を去った実母フクのことを、龍之介が「死ねば善い」と思ったことはないとは断言出来る。

    *

 僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた横顏を思ひ出した。

 かう云ふ僕は僕の母に全然面倒を見て貰つたことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覺えてゐる。しかし大體僕の母は如何にももの靜かな狂人だつた。僕や僕の姉などに畫を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に畫を描いてくれる。畫は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水繪の具を行樂の子女の衣服だの草木の花だのになすつてくれる。唯それ等の畫中の人物はいづれも狐の顏をしてゐた。

 僕の母の死んだのは僕の十一の秋である。それは病の爲よりも衰弱の爲に死んだのであらう。その死の前後の記憶だけは割り合にはつきりと殘つてゐる。

 危篤の電報でも來た爲であらう。僕は或風のない深夜、僕の養母と人力車に乘り、本所から芝まで駈けつけて行つた。僕はまだ今日(こんにち)でも襟卷と云ふものを用ひたことはない。が、特にこの夜だけは南畫の山水か何かを描いた、薄い絹の手巾をまきつけてゐたことを覺えてゐる。それからその手巾には「アヤメ香水」と云ふ香水の匂のしてゐたことも覺えてゐる。

 僕の母は二階の眞下の八疊の座敷に橫たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人とも絶えず聲を立てて泣いた。殊に誰か僕の後ろで「御臨終々々々」と言つた時には一層切なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小聲でくすくす笑ひ出した。

 僕はその次の晩も僕の母の枕もとに夜明近くまで坐つてゐた。が、なぜかゆうべのやうに少しも淚は流れなかつた。僕は殆ど泣き聲を絶たない僕の姉の手前を恥ぢ、一生懸命に泣く眞似をしてゐた。同時に又僕の泣かれない以上、僕の母の死ぬことは必ずないと信じてゐた。

 僕の母は三日目の晩に殆ど苦しまずに死んで行つた。死ぬ前には正氣に返つたと見え、僕等の顏を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ淚を落した。が、やはりふだんのやうに何とも口は利かなかつた。

 僕は納棺を終つた後にも時々泣かずにはゐられなかつた。すると「王子の叔母さん」と云ふ或遠緣のお婆さんが一人「ほんたうに御感心でございますね」と言つた。しかし僕は妙なことに感心する人だと思つただけだつた。

 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌を持ち、僕はその後ろに香爐を持ち二人とも人力車に乘つて行つた。僕は時々居睡りをし、はつと思つて目を醒ます拍子に危く香爐を落しさうにする。けれども谷中へは中々來ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。

 僕の母の命日は十一月二十八日である。又戒名は歸命院妙乘日進大姉である。僕はその癖僕の實父の命日や戒名を覺えてゐない。それは多分十一の僕には命日や戒名を覺えることも誇りの一つだつた爲であらう。

   *

 以下は、このアフォリズムの注ではない。私の独り言である。……

……かつて私の同僚が老いた母を失った折り、「天地が裂けたような感じがします。」と述懐したのを耳にした際、私は内心、『私は母を失ってもそうは感じない。』と思ったのを確かに覚えている。

 しかし、それから数年の後のこと、私の母は突然、歩けなくなった。二〇一一年三月十九日、凡そ一ヶ月前にALS筋萎縮性側索硬化症宣告母は、あっという間に、天に召されてしまった。

 献体していたことから葬儀も行わずに(これは私も同じ仕儀となる)母と別れた私は、涙一つ流れなかった。しかし悲しくなかったわけではなかった。巨大な虚空が心の中に突如出現したのであった。

 半年ばかり経った夏のことであった。妻は変形股関節症のリハビリ入院で甲府に入院していて、私は家に独りだった。

――『私は母を失ってもそうは感じない』

あの、そう感じた瞬間の記憶が突如、私の中に痛烈に甦った。母に何もしてやれなかった自分を思って、涙が滂沱としてとめどなく流れ出た。…………]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたし

 

       わたし

 

 わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神經ばかりである。

 

[やぶちゃん注:以下、「又」で繰り返され、全十四章を並べるが、ここでは原則(一部を除く)、特異的に、今までのようにそれらを一括させずに単独で注し、表題も「わたし」と正規に立てることとする。何故か?――それは「わたし」の秘そやかな趣味だから――である。

 私が「侏儒の言葉」のアフォリズムを一篇だけを挙げよと言われれば、迷うことなく、これを挙げる。何故なら、これが「侏儒の言葉」を貫く仙骨、いやさ、脳脊髄神経そのものだからである。

 さてもここまでやって来ても、私は或物質主義者の信條(「わたしは神を信じてゐない。しかし神經を信じてゐる。」)の注で提出した疑義が払拭出来ずにいる。

 何故か?

 だって、私藪野直史も芥川龍之介と同様に、「わたしは良心を持つていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。」と鮮やかに宣明して恥じないけれども、しかし、どんな限定的特異的意味解釈を施したとしても、私藪野直史は自らを「或」る種の「物質主義者」であるとは、絶対に自己規定しないからである。私は如何なる意味に於いても「物質主義者」ではない。私は、あの注で述べた、「齒車」の「僕の物質主義」なる表現に出た、芥川龍之介にのみ理解される孤独で特異な「物質主義」なるものの正体を未だ見極められずにいる。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 罪

 

       罪

 

 道德的並びに法律的範圍に於ける冐險的行爲、――罪は畢竟かう云ふことである。從つて又どう云ふ罪も傳奇的色彩を帶びないことはない。

 

[やぶちゃん注:前章の「罰」――「罰せられぬことほど苦しい罰はない。それも決して罰せられぬと神々でも保證すれば別問題である。」の黒いマントを跳ねらかすと、鮮やかな赤い裏地が翻った。遂に「罰」を受けないのなら……私はあらゆる快楽としての「罪」を犯すことも厭わぬ……何故なら、それこそが、私芥川龍之介がどっぷりと漬かり込んできた偏愛する中国古来の伝奇小説の、洋の東西を問わぬ悪漢小説、ピカレスク・ロマン、時代も人物も超越しきったパラレル・ワールドとしての浄瑠璃歌舞伎、おどろおどろしい何でもありの江戸戯作、心惹かれてきた泉鏡花先生の深き碧き淵底へと私をいざなって呉れるから…………

 

・「道德的並びに法律的範圍に於ける冐險的行爲」やや龍之介にしては不全な表現である。「範圍に於ける冐險的行爲」では「罪」とすることは出来ないからである。ここは「道德的並びに法律的範圍の外緣へと出でんとする冐險的行爲」であろう。それが故意であるか未必の故意であるか全くの過失或いは偶然に拠るものかは問わない。問わないものの、その罪に相当する行為を成す者自身(罰する側ではないで注意)がわくわくするように「冐險的」と感じ、「傳奇的色彩を帶び」た「行爲」である「罪」とは確信犯か故意でないと面白くない。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 罰

 

       罰

 

 罰せられぬことほど苦しい罰はない。それも決して罰せられぬと神々でも保證すれば別問題である。

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介は、二つ前の「外見」では「由來最大の臆病者ほど最大の勇者に見えるものはない。」と言った。

 「臆病者」とは常に漠然と何ものかに「罰せられ」るのではないか、と病的に感じ続ける者の謂いである。

 前の「人間的な」では「我我人間の特色は神の決して犯さない過失を犯すと云ふことである。」と言った。

 「過失を犯」した者はその軽重によって相応の「罰」を受けるのが当然である――はず――である。

 既に先に「神」の二章目で龍之介は「我我は神を罵殺する無數の理由を發見してゐる。が、不幸にも日本人は罵殺するのに價ひするほど、全能の神を信じてゐない。」とやらかしている。

 「罵殺するのに價ひするほど、全能の神を信じてゐない」「日本人」が、その程度の「神々」から「決して罰せられぬと」「保證」されたとしても「別問題」として安心など出来る筈はない。

 ここでは寧ろ、龍之介は、

「誰か私を罰して呉れ!」

と叫んでいるのである。「罰せられぬことほど苦しい罰はない」という冒頭こそが真意であり、二文はその悲痛な心底の叫喚を照れ隠しする龍之介得意の売文者の、誰も笑って呉れない一発芸の哀れなポーズに過ぎないのである。

「誰か私を罰して呉れ!……」

恐らくは龍之介の言葉は、こう続く……

「誰か私を罰して呉れ! そうすれば私は自死せずに済むかも知れぬから!…………」]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 人間的な

 

       人間的な

 

 我我人間の特色は神の決して犯さない過失を犯すと云ふことである。

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介は既に神」の第一章で「あらゆる神の屬性中、最も神の爲に同情するのは神には自殺の出來ないことである。」と述べた。そもそも「神」という存在は、それを不完全な人間が創ったのである以上、「神」なるものは、とんでもない不良品であることを生来的に不可避的絶対属性として持たざるを得ないことを意味している。だからこそ龍之介は神が自殺出来ないことを哀れに思いもし、我々が毎日のように繰り返し成し遂げている「過失を犯す」ことが出来ないことも同時に憐憫しているのである。「過失を犯す」ことが最も貴(とうと)い「人間的な」行為であり、それは不全な神などよりも遙かに全知全能存在であると言っているのである。過失を犯さない人間に我々は服従するかも知れぬ。しかし過失を犯さない人間を愛することは、ない。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 外見

 

       外見

 

 由來最大の臆病者ほど最大の勇者に見えるものはない。

 

[やぶちゃん注:世の勇者――ギリシャ・ローマや神代の古えからついこないだまで、勇者、即ち、英雄というものは、須らく軍人であり政治家であった――というものはとかく「外見」を大事にする。このアフォリズムを読むと私は陳腐極まりないが、かのフランスの画家ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David 一七四八年~一八二五年)の「グラン・サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」(Bonaparte franchissant le Grand-Saint-Bernard 一八〇一年~一八〇五年)を勇姿を思い出してしまう――かの馬上で田虫の痒みを必死にこらえている――臆病者の内心を想いながら。

 附記:但し、ダヴィッドなら「マラーの死(マラー暗殺)」(La Mort de Marat , Marat Assassiné 一七九三年)の方が遙かに好い。

 

・「由來」ここは副詞。もともと~。本来~。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自己嫌惡

 

       自己嫌惡

 

 最も著しい自己嫌惡の徴候はあらゆるものに譃を見つけることである。いや、必ずしもそればかりではない。その又譃を見つけることに少しも滿足を感じないことである。

 

[やぶちゃん注:これは今少し誤読する者を救うために、補助具を使用する必要がありそうだ。

   *

 

 (「)最も著しい自己嫌惡の徴候(」と)は(「外界の)あらゆるもの〔=對象〕に(對し、そこにあらゆる)譃を見つけること(」)である。いや、必ずしもそればかりではない。その又(、)(「)譃を見つけること(」)に(「見つけている自分自身が)少しも滿足を感じないこと(」)である。

 

   *

整序する。

   ☆

 

1 「最も著しい自己嫌惡の徴候」とは「外界のあらゆる對象に對し、そこにあらゆる譃を見つけること」である。

1・1 いや、必ずしも「外界のあらゆる對象に對し、そこにあらゆる譃を見つけること」が「最も著しい自己嫌惡の徴候」であるばかりではない。

2 それに加へて、「外界のあらゆる對象に對し、そこにあらゆる譃を見つけること」に「見つけている自分自身が少しも滿足を感じないこと」である。

 

   ☆

自己の置かれて「在(あ)る」ところの家庭・村落・集団・社会・世界・宇宙という、あらゆる外的対象(他者・生物・物質・現象総てを包含する対峙対象)の中に、あらゆる「噓」(=「偽(ぎ)」)を発見してしまう……

――そもそも外的状況は個我にとっては基本的に総てが虚偽であるのに――

そこに、今更に「嘘」を感じ、そればかりが神経症的に眼につき出す……

そうして、そのX線のように、総て「嘘」を見透かしている自分自身に少しも満足感を感じなくなってしまう……

――普通ならその聡明さやその解明するプロセスに満悦するところなのに――

それが「最も著しい」病的で致命的な「自己嫌惡の徴候」である。

 

 見え過ぎる眼――外界への強い嫌悪は自己への破壊的嫌悪の初期症状である。

 

と芥川龍之介は言っているのである。彼自身の貴重な一度限りしか出来ない体験に、基づいて。…………]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或仕合せ者

 

       或仕合せ者

 

 彼は誰よりも單純だつた。

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介のアフォリズムの毒は本文にのみあるのものではない好例がこれである。標題と本文を一緒に服用することによって毒性を発揮するケースである。「彼は誰よりも單純だつた。」という命題はそれだけならばフラットなものである。以下に述べる通り、「單純」であることが好い場合もあり、「誰よりも」という限定は話し方によっては、その「彼」を讃える謂いにさえなる。ところが多くの読者は標題の「或仕合せ者」を確認し、而して「彼は誰よりも單純だつた。」という文を読んだ瞬間、百人中九十八、九はそこに「毒」を感じ取るのである(「毒」を感じない一人二人はまさに龍之介が軽蔑を込めて言っている(かのような)「或」る、救いがたいほどに馬鹿げた、「單純」過ぎる「仕合せ者」だと謂い得るかも知れない)。まさにその二つのコンプレクス(心的複合)が毒となって我々に作用するのである。

 「君は頗る單純だね。」と「君は餘りに複雜だね。」という評言は孰れも向けられた人物には不快である。無論、「そうだ。私は渡世に於いて單純を旨としてゐる。」或いは「その通り。私は人生の複雜なればこそ面白いと思ふてゐる。」と応じることは出来るが、それも先方にフンと鼻でせせら笑われるのがオチではあろう。

 私は「單純」ではない。そうして「複雜」であることを〈ここ〉では「仕合せ」だと感じている。何故なら、「單純」であったとすれば、とうの昔に、この『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)』の仕儀に挫折してしまって、カテゴリごと削除しているに違いないからである。神経症的に「複雜」でなければ、この作業は続けられないからである。竹の根のようにひろごるところの関係妄想なしにはこの劇薬の処方箋への注釈は出来ぬし、また自分自身、その迂遠な迷路巡りそのものを楽しむことが出来ないのは幾分か淋しいと感ずるからである。

 しかも必ずしも「複雜」は「仕合せ」ではない。このアフォリズムの逆が真となって我々を襲ってもくるのである。

 それはまさに「單純」に虎になり切れない「山月記」の李徴そのものである。李徴は語る。『一日の中に必ず數時間は、人間の心が還つて來る。さういふ時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雜な思考にも堪へ得るし、經書の章句をも誦ずることも出來る』のであるが、しかし同時に、『己の中の人間の心がすつかり消えて了へば、恐らく、その方が、己はしあはせになれるだらう。だのに、己の中の人間は、その事を、此の上なく恐しく感じてゐるのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思つてゐるだらう! 己が人間だつた記憶のなくなることを。この氣持は誰にも分らない。誰にも分らない』(太字「しあはせ」は原文では傍点「ヽ」。下線はやぶちゃん)と告解するではないか。

 李徴には失礼乍ら、こうした痙攣的な苦悩のディレンマを私はしばしば他者との関係に於いて感ずる。そんな時、私は、いっそ「單純」な人間、いやさ、虎に生まれてくればよかったと思うのを常としている。]

2016/06/16

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 天國の民

 

       天國の民

 

 天國の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持つてゐない筈である。

 

[やぶちゃん注:真面(まとも)に馬鹿正直にこのアフォリズムに対峙してみよう。

 まずは「民」(たみ)とは何かを問題にしないと話にならぬ。

 「民」とは国家・社会を構成する人の内、官や位などの身分を持たない人間たちを指し、要は国家・社会の支配者・権力者によって治められる者たち、「一般の人民」を言う。ここで実は「民」は象形文字であって、〈一つの目を針で刺した形〉に象(かたど)り、自由な独立した自立した自立的生活を別に営む人と区別するために、片目を突いて目を潰されてその印とされた、奴隷や被支配民族を表わすなどという漢和辞典の解字であるとか、同じくそこから派生したところの、目の見えない人のように物事に冥(くら)く愚かで理(ことわ)りを理解しせず、その結果として支配者の配下とされてしまう愚かな人々の意までは問題にせずとも好い。

 従って「天國の民」だろうが「地獄の民」だろうが「一般の人民」は「一般の動物たる人間」、Homo sapiens に他ならない。

 「天國」と言っているからキリスト教を先に例にとるなら、神はアダムをその神の御姿似せて創ったと最初に言ってしまっているわけだから「神の国」の「民」はまさに姿形まで〈人間そっくり〉なわけだ。ともかくもキリスト教だろうが仏教だろうが聖霊だろうが霊魂だろうが「天國」或いは極楽浄土の民草は〈人間そっくり〉であるということである。仏教ではあまり極楽の絵を見ないけれど、地獄絵図は腐るほどあり、そこにいる亡者、即ち、地獄の「民」は概ね、経帷子に三角頭巾の「人間」である。切り刻まれても陰風(いんぷう)が吹けば元に戻るとか特異性を言ったって、戻るのはやっぱり〈人間そっくり〉の形である。とすれば極楽浄土の「民」も推して知るまでもなく、地獄の亡者同様に〈人間そっくり〉なのである。

 さて、私の第一の疑義は以下である。

 だとすると、彼らは〈人間そっくり〉の外観を持ちながら、「何よりも先に胃袋や生殖器を持つてゐない筈である」とは言われない筈である。

 「何よりも先に胃袋や生殖器を持つてゐない」とすれば、彼らは〈人間そっくり〉の形をしている必要がないからである。

 にも拘らず、芥川龍之介のこの命題が成立するとすれば、「天國の民は」〈人間そっくり〉であるにも拘らず、〈人間そのまま〉ではなくて、「何よりも先に胃袋や生殖器を持つてゐない」現世の人間の食欲と性欲から解き放たれた、いや、食欲と性欲がないとすれば同時に物欲もないので、完全に人間の生存悪の根源たるあらゆる欲から解放された「民」だ、ということになる。

 百歩譲ってそうだと仮定してみると、「胃袋」を持っていないということは食物を摂取せずに生きられるヒト型生物(ヒト型であるということは動物とする以外にはないから)、ヒト型動物だということになるがそうすると、口及び口蓋部は著しく退化している可能性が極めて高い(呼吸は鼻腔があるので口でわざわざする必要はない)。歯もいらないから、ただ発声の器官としてだけの反響或いは共鳴空洞として口はごく小さなものとなると考え得る。

 さらに生殖器を持たないのだから、かれらを裸にしてみても、股間はつるんとしたノッペラボウである。それ以前に、生殖器官を持たないということは男女の差が不要であるから、彼等は性的二型を持たないことになる。人間の原型はXX)であり、XY)のY染色体はX染色体の欠損奇形とも理解出来、環境悪化などによる種生存の危機状況ではだけで生殖が可能となるという実例を考えるならば、「天國の民」は皆、「人間の女そっくり」であると推定出来る。

 口のすぼまって退化した人間の女ばかりしかいない、物も食わない、性交渉も行わない世界――それが神仏によって支配された「天國」の社会の姿である。

 因みに、物を食わない動物や生殖器を持たない動物はいるかというと、私はいないと断言出来るように思う。

 生物学好きの誰彼なら、深海の熱水噴出孔や冷水湧出帯周辺でチューブ状の棲管に棲息し、移動することのない、動物界環形動物門多毛綱 Canalipalpata 亜綱ケヤリムシ目シボグリヌム科 Siboglinidae Lamellibrachiチューブワームtubeworm)/ハオリムシ(羽織虫/本邦産種の例としてはサツマハオリムシ属サツマハオリムシ Lamellibrachia satsuma Miura, Tsukahara & Hashimoto, 1997 )類なんぞを挙げる輩がいるかも知れぬ。彼らは確かに口・消化管・肛門などの消化管等を持たないで、バクテリアである硫黄酸化細菌と細胞内共生し、十数センチメートルの棲管の先から出した紅色のハオリ状の器官から硫化水素などを取り込んで、その共生細菌に供給し、細菌の方はそれによって合成した有機物をハオリムシに供給して生きている。しかしだ、これも所詮、ハオリという口から餌を摂餌し、共生バクテリアを含む体のほぼ全体という「胃袋」に於いて作られた有機物を食って生きていると言える。それに異義を唱えるなら、それよりもずっと下等なアルベオラータ界Alveolata繊毛虫門貧膜口綱ゾウリムシ目ゾウリムシ科ゾウリムシ属 Parameciumのゾウリムシやもっと原始的な原生動物界 Protistaのアメーバamoeba類の「食胞」は立派に「胃袋」だろ? 顕微鏡で見りゃ、確かに立派に「胃袋」だ。メカニズムが異なるだけで隠喩としてハオリムシだって胃袋があると言えるわけだ(因みに言っておくとサツマハオリムシの場合は雌雄異体で体内受精することが判明している。彼らは♂♀の性差があり、広義の生殖器官である精巣と卵巣を持つ。ゾウリムシは二形ではない複数の性差がある(現在、アメーバは分裂のみで有性生殖はしないとされている。但し、実際に有性生殖しないかどうかは実はまだ完全には立証されていない)。以上のリンク先はそれぞれのウィキペディアである。以下も同じ)。

 或いは、生殖器がない動物としてバルト海や太平洋の海底に棲息するプラナリア(Planaria:扁形動物門渦虫(ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目 Tricladidaのウズムシ(渦虫))に形の似た(勘違いして貰っては困るが、形が似ているだけで、ごく近年になって新たに門のタクサが新設された、分類学上は極めて新しい生物である。但し、生物としては、驚くべきことに、ミトコンドリアのゲノム解析から動物の進化の初期段階に位置する単純な生物という説も出ている文字通り「珍」生物なのである)、動物界左右相称動物亜界Bilateralia 珍無腸動物門 Xenacoelomorpha 珍渦虫(チンウズムシ)科 Xenoturbellidae珍渦虫属 Xenoturbella チンウズムシなんぞを挙げる異形生物フリークもいるやも知れぬ。確かに現在の時点では生殖法は不明とされている。しかし、海外の生物学サイトを見るに、彼らの構造を見るに、何らかの微細な生殖器官がありそうな感じもするし、チンウズムシは実際に産卵が確認されているのである(因みに、下向きの口とそれに続く腸(「胃袋」と考えてよい)がある。肛門はない)。

 ともかくも「胃袋」も「生殖器」もない「ヒト型動物」どころか、そんな「動物」いないのである。だから、「何よりも先に胃袋や生殖器を持つてゐない」「天國の民」は、「民」でなく、即ち、人間でなく、即ち、動物でさえない、奇体な怪物に他ならないのである。

 私は怪物にはなりたくない。

 寧ろ、「もし地獄に墮ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である」(地獄)という先の龍之介の見解にこそ激しく共感するものである。

 女になってしまい、美味いものも食えず、マスターベーションさえ出来ない、渺茫たる果てしなき平安以外には空っぽの永遠の国、或いは蓮の上の退屈な瞑想の永劫の時間たる「天國」のモンストロムたる「民」には、少なくとも私はなりたくない。龍之介もまた然り、であろう。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 偶像(二章)

 

       偶像

 

 何びとも偶像を破壞することに異存を持つてゐるものはない。同時に又彼自身を偶像にすることに異存を持つてゐるものもない。

 

       又

 

 しかし又泰然と偶像になり了せることは何びとにも出來ることではない。勿論天運を除外例としても。

 

[やぶちゃん注:私はこれを読むと、芥川龍之介の久米正雄に宛てた形をとる公的遺書或舊友へ送る手記には最後に書かれた次の「附記」を思い出すことを常としている。

   *

 附記。僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人(ひとり)だつた。

   *

ここに出る「エンペドクレス」(Empedocles 紀元前四九〇年頃~紀元前四三〇年頃)とは古代ギリシャの自然哲学者で、彼の死についてはエトナ山(Etna:イタリアのシチリア島東部にある活火山)の火口に飛び込んで神となったという伝承がある(因みに、かのドイツの詩人ヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・ヘルダーリン(Johann Christian Friedrich Hölderlin 一七七〇年~一八四三年)はこの伝説に基づき、戯曲「エンペドクレスの死」(Der Tod des Empedokles)を創作している(但し、未完))。

・「了せる」「おほせる(おおせる)」。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  矜誇

 

       矜誇

 

 我我の最も誇りたいのは我我の持つてゐないものだけである。實例。――Tは獨逸語に堪能だつた。が、彼の机上にあるのはいつも英語の本ばかりだつた。

 

[やぶちゃん注:「矜誇」「きょうこ(きょうこ)」と読み、「矜持(矜恃)」(きょうじ)「誇示」と同義で、自己の才能を優れたものとして誇る気持ち。ネット上にはまことしやかに「きんこ」と読むなどと出るが、「矜」は「コン」音読みした場合、「哀れむ」「恵む」の意しかない(大修館書店「廣漢和辭典」に拠る)。騙されてはいけない! なお、筑摩全集類聚版はこれに『きようくう』とルビする。これも採らない(実は「誇」の字の正しい音は「クワ(カ)」「ケ」であり、「コ」は慣用音である。しかし古文書や仏典以外に「クワ」「ケ」と読むことは現在はなく、だとしても、筑摩版のように歴史的仮名遣は「クウ」とはならない)。ともかくも「きょうこ(きょうこ)」である!

 もう一つ、騙されてはいけないことが、ある。

 それはこのアフォリズムはアイロニカルな一般論を述べたものでは、ない、ということである。

 このアフォリズムには芥川龍之介の作家としての絶望的にして痙攣的な叫びが吐露されていると読まねばならないからである。どういう意味か、だって?!

 

 我我の最も誇りたいのは我我の持つてゐないものだけである。實例。――私は小説に堪能だつた。が、私の机上にあるのはいつも他の小説家の本ばかりだつた。

 

――龍之介が真に自分の理想とする小説、自分自身が自信を持って誇りたかった小説は、実は龍之介には書けない小説だったということになるからである。じゃあ、芥川龍之介の机の上にある本は誰のか、だって?! 例えば、志賀直哉さ!]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 無意識

 

       無意識

 

 我我の性格上の特色は、――少くとも最も著しい特色は我我の意識を超越してゐる。

 

[やぶちゃん注:この「無意識」は、まずはオーストリアの精神科医で精神分析学者のジークムント・フロイト(Sigmund Freud 一八五六年~一九三九年)の提唱した精神分析学に於ける、無意識に抑圧の構造を仮定、そのような構造の中で神経症が発症するとした(治療)理論に於ける「無意識」のそれと考えてよいであろう。芥川龍之介には、夢記述の体裁をとった異作「死後」(大正一四(一九二五)年九月『改造』)があるが(リンク先は私の古い電子テクスト)、そのエンディング(夢の覚醒後のシークエンス)は、

   *

 僕はおのづから目を覺ました。妻や赤子は不相變靜かに寢入つてゐるらしかつた。けれども夜はもう白みかけたと見え、妙にしんみりした蟬の聲がどこか遠い木に澄み渡つてゐた。僕はその聲を聞きながら、あした(實はけふ)頭の疲れるのを惧れ、もう一度早く眠らうとした。が、容易に眠られないばかりか、はつきり今の夢を思ひ出した。夢の中の妻は氣の毒にもうまらない役まわりを勤めてゐる。Sは實際でもああかも知れない。僕も、――僕は妻に對しては恐しい利己主義者になつてゐる。殊に僕自身を夢の中の僕と同一人格と考へれば、一層恐しい利己主義者になつてゐる。しかも僕自身は夢の中の僕と必しも同じでないことはない。フロイドは――僕は一つには睡眠を得る爲に、又一つには病的に良心の昂進するのを避けるために〇・五瓦のアダリン錠を嚥み、昏々とした眠りに沈んでしまつた。………

   *

と、このアフォリズム同様に截ち切られた不完全構文で出現している(宮坂覺「芥川龍之介全集総索引 付年譜」(岩波書店一九九三年刊)によれば、これ以外に龍之介のフロイトへの言及は現資料中には見出せない)。但し、「夢判断」(Die Traumdeutung)の出版は一九〇〇年(明治三十三年)、「精神分析入門」(Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse)は一九一七年(大正六年)であるものの、それらの著作の全翻訳は芥川龍之介の死後のことであり、スイスの精神科医で心理学者であったカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung 一八七五年~一九六一年)がフロイトと袂を分かったのは一九一四年(大正三年)のことであるが、日本で最初のユング紹介は小熊虎之助(おぐまとらのすけ 一八八八年~一九七八年)によるユングの論文の全訳「精神病学における人本主義運動」(『心理研究』大正七(一九一八)年)があるものの、これは学術雑誌であり、ユングの著作の本格的翻訳は中村古峡と小熊虎之助の共訳による大正一五(一九二六)年の「連想実験法」が最初だと考えられており、分析心理学(ユング心理学)理論の日本への本格的な導入は第二次世界大戦後のことである(以上は日本における臨床心理学の導入と受容過程2」(PDFファイル)の小泉晋一氏の解説に拠った)。龍之介がどの程度までフロイトやユングの無意識理論を知っていたかは判然としないが、作家寮美千子氏のサイト「ハルモニア」の「祖父の書斎/科学ライター寮佐吉」内にある『日本の精神分析黎明期の啓蒙書/寮佐吉訳「精神分析學」』によって、科学ライターであった寮佐吉(りょう さきち 明治二四(一八九一)年~昭和二〇(一九四五)年)の翻訳本「精神分析學」(ヒングレー著・大正一二(一九二三)年東京聚英閣刊)が紹介されており、『目次には「精神分析學の起源と発達/夢/無意識/ユングの説」などの言葉が見受けられる。ひもとけば、フロイトの理論の紹介などが詳細にあり、精神分析学の入門・啓蒙書のようだ』とあって、『国会図書館のネット検索で精神分析・フロイト・ユング関係の本を検索してみた』結果として以下の著作を掲げておられる。

大正 九(一九二〇)年「愛の幻」(ウィルヘルム・ジェンセン/フロイド他著/良書普及会刊)

大正一一(一九二二)年「精神分析法」(久保良英著/中央館書店刊)

大正一二(一九二三)年「精神分析學」(上記書)

大正一五(一九二六)年「精神分析入門」(フロイト著/安田徳太郎訳/アルス刊)

昭和 二(一九二七)年「聯想實驗法」(チェ・ゲー・ユング著 /日本精神医学会刊)

私が見る限り、最後のものは先に記した中村古峡と小熊虎之助の共訳による大正一五(一九二六)年のものの後の中村の単独訳版かのようにも見える。龍之介の自死より前か後かを知りたかったが、調べて見ても残念ながら、発行月は分らなかった。以下、『「愛の幻」が、精神分析関係ではいちばん古い本のようだ』とされ、『「精神分析法」を翻訳した久保良英は、大正期に米国に留学、日本に精神分析を持ちこんだ最初の人物だという。その翌年に祖父は「精神分析學」を翻訳。ユングの著作が翻訳されるまでには』、「聯想實驗法」の出を『待たなければならなかった。ということは、ひょっとすると、祖父が翻訳した「精神分析學」が、ユングに関しては、日本で初めての紹介の書であった可能性もある』と述べておられる。一般書では、という条件付きならば、寮美千子氏の謂いはほぼ正しいと言えよう。なお、厳密なユングの邦訳目録と原典との対比は、礒前順一氏と和田光俊氏の共著論文・ユング著作邦訳文献目録(1918-1989) : C. G. Jung Bibliographie (Die Gesammelten Werke von C. G. Jung, 19. Bd.), Japanische Ubersetzungenへの補遺Bibliography of the Japanese Translations of the Works of C. G. Jung(PDFファイル)に詳しいので、原著名などはそちらを参照されたい。

 龍之介の著作にはユングへの言及はないが(宮坂覺「芥川龍之介全集総索引 付年譜」(岩波書店一九九三年刊)に拠る)、これ以外に、果たしてユングのそれと関係するかどうか不詳乍ら、芥川龍之介の遺した手帳のうち、旧岩波全集「手帳㈡」(岩波新全集で「手帳2」)とされるものの中(旧岩波全集第十二巻四七三頁上段九行目/新全集第二十三巻二八六頁十六行目)になんと(引用は旧全集に拠った)、

   *

聯想實驗法の衝突する例。

   *

という驚くべきメモが見える。この「手帳2」は新全集同巻の「後記」によれば、大正七~八年(一九一八年~一九一九年)に書かれたものと推定されるから、もしこれが正しくユングの言う連想実験法であるとするならば(あくまで仮定であるので注意)、英訳書辺りからの龍之介の知見ということになろうか?

 ともかくも龍之介はフロイトの汎性論的な無意識だけではなく、集団的無意識やポジティヴな自己実現の無意識をも知っていた可能性は否定出来ない。

 ただ、このアフォリズム、「無意識」と題し、「我我の性格上の特色は、――少くとも最も著しい特色は我我の意識を超越してゐる。」という龍之介らしからぬ構文の不全性から見ても、彼の言わんとする「我我の意識を超越してゐる」「無意識」、即ち、「我我の性格上の」「無意識」下の「特色」、その「最も著しい」「無意識」下の「特色」というのは、明らかに、フロイトの提唱した「リビドー」(ラテン語:Libido:性的衝動を発動させる力)を濃厚に匂わせるものではある。

2016/06/15

 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或左傾主義者

 

       或左傾主義者

 

 彼は最左翼の更に左翼に位してゐた。從つて最左翼をも輕蔑してゐた。

 

[やぶちゃん注:「或左傾主義者」不詳。誰彼を想起することは出来るが、やはり、不詳。不詳乍ら、是非、知りたい。識者の御教授を乞う。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或自殺者

 

       或自殺者

 

 彼は或瑣末なことの爲に自殺しようと決心した。が、その位のことの爲に自殺するのは彼の自尊心には痛手だつた。彼はピストルを手にしたまま、傲然とかう獨り語を言つた。――「ナポレオンでも蚤に食はれた時は痒いと思つたのに違ひないのだ。」

 

[やぶちゃん注:「或自殺者」とあるが、これは「或自殺未遂者」が正しい標題ではあるまいか? もし、この後に目出度く自殺を完遂していたとすれば(その手段はピストルに拘らぬ)、このアフォリズムを彼の名誉のために芥川龍之介は記さずにおいたはずだから。自らの意志で自殺しそこなったこの男が「傲然と」(偉そうに人を見下すように)、みじめな自分自身をナポレオンに比すとは、まっこと、この男、「蚤」以下の最下劣な男であることは言を俟たぬ。

 

 附記:個人的な趣味としてはナポレオンなら蚤よりは股間の田虫ときたいが、白癬菌では「食はれる」と相性が悪いから仕方がない。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或惡魔主義者

 

       或惡魔主義者

 

 彼は惡魔主義の詩人だつた。が、勿論實生活の上では安全地帶の外に出ることはたつた一度だけで懲り懲りしてしまつた。

 

[やぶちゃん注:標題「或惡魔主義者」本文で「詩人」と出るので、これは文芸思潮の「惡魔主義」diabolism/フランス語:satanismeで、主に十九世紀末のヨーロッパで起こった、耽美主義が極端に進んだ、悪魔的なものの中に美を求める文芸上の主張を指す。小学館「日本大百科全書」の船戸英夫氏の解説によれば、『至高善である神のアンチテーゼである悪の権化、悪魔を神のように崇拝し、人生または思想のよりどころにする考え』で、十九世紀末、『反道徳的退廃主義や耽美(たんび)主義が横溢(おういつ)し、人生の裏に潜む暗黒面をひたすらに凝視する作家が悪魔主義的というレッテルをはられ、ボードレール、ホフマン、ユイスマンスらが登場し、日本でも谷崎潤一郎の初期の作品がこの系譜に連なる』とある。このアフォリズム、「詩人」(芥川龍之介は自らを詩人と認識していた)、「實生活の上では安全地帶の外に出ることはたつた一度だけで懲り懲りしてしまつた」という謂いから、秀しげ子との不倫、更には悪魔主義的な内容を持つ「地獄變」辺りを連動させて、芥川龍之介自身を言っていると読む方もあるやも知れぬが、芥川龍之介は「侏儒の言葉」を髣髴させる悪魔的対話劇である遺稿「闇中問答」(昭和二(一九二七)年九月号『文藝春秋』――芥川龍之介追悼号――)の中で(リンク先は私の電子テクスト。下線はやぶちゃん)、

   *

或聲 お前は戀愛を輕蔑してゐた。しかし今になつて見れば、畢竟戀愛至上主義者だつた。

僕  いや、僕は今日(こんにち)でも斷じて戀愛至上主義者ではない。僕は詩人だ。藝術家だ。

或聲 しかしお前は戀愛の爲に父母妻子を抛つたではないか?

僕  譃をつけ。僕は唯僕自身の爲に父母妻子を抛つたのだ。

或聲 ではお前はエゴイストだ。

僕  僕は生憎エゴイストではない。しかしエゴイストになりたいのだ。

或聲 お前は不幸にも近代のエゴ崇拜にかぶれてゐる。

僕  それでこそ僕は近代人だ。

或聲 近代人は古人に若かない。

僕  古人も亦一度は近代人だつたのだ。

或聲 お前は妻子を憐まないのか?

僕  誰か憐まずにゐられたものがあるか? ゴオギヤアンの手紙を讀んで見ろ。

或聲 お前はお前のしたことをどこまでも是認するつもりだな。

僕  どこまでも是認してゐるとすれば、何もお前と問答などはしない。

或聲 ではやはり是認しずにゐるか?

僕  僕は唯あきらめてゐる。

或聲 しかしお前の責任はどうする?

僕  四分の一は僕の遺傳、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、――僕の責任は四分の一だけだ。

或聲 お前は何と云ふ下等な奴だ!

僕  誰でも僕位は下等だらう。

或聲 ではお前は惡魔主義者だ。

僕  僕は生憎惡魔主義者ではない。殊に安全地帶の惡魔主義者には常に輕蔑を感じてゐる。

   *

とあって、これは芥川龍之介のことではないことは明らかである。

 とすれば――これはもう大正元(一九一二)年に読むもおぞましい「悪魔」を書き、当時、世間一般でも「惡魔主義」(大正一三(一九二四)年の「痴人の愛」をその代表作とする)の作家と言い囃された谷崎潤一郎(明治一九(一八八六)年~昭和四〇(一九六五)年:龍之介より六歳年上)を指すと考えてよい。では、「實生活の上では安全地帶の外に出ることはたつた一度だけで懲り懲りしてしまつた」というのは何かと言えば、言わずもがな、例の妻千代子を佐藤春夫へ譲渡した事件の出来事のプレ状況(譲渡は龍之介の死後)を指すと考えてよかろう。ウィキの「谷崎潤一郎」によれば、大正四(一九一五)年、『谷崎は石川千代子と結婚したが』、六年後の大正一〇(一九二一)年頃、『谷崎は千代子の』実妹石川せい子(『痴人の愛』(大正一四(一九二五)年)のモデル)『に惹かれ、千代子夫人とは不仲となった。谷崎の友人佐藤春夫は千代子の境遇に同情し、好意を寄せ、三角関係に陥った(佐藤の代表作の一つ『秋刀魚の歌』は千代子に寄せる心情を歌ったもの。また、佐藤は『この三つのもの』を、谷崎は『神と人との間』を書いている)。結局』、大正一五(一九二六)年に『二人は和解』、昭和五(一九三〇)年、『千代子は谷崎と離婚し、佐藤と再婚した。このとき』、三人連名の「……我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、……素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候……」『との声明文を発表したことで「細君譲渡事件」として世の話題になった』。確かに、妻の譲渡というスキャンダルな事件性は龍之介の死後のことであるが、佐藤春夫は龍之介とは大正六(一九一七)年以降の盟友の一人で(芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.は彼の成した龍之介への優れたオマージュである。リンク先は私渾身の電子テクスト)、谷崎は「文藝的な、餘りに文藝的な」で知られる通り(リンク先は私の恣意的時系列補正完全版)、全く小説観の異なった、龍之介の相手になろうはずのなかった論争相手であり、当のスキャンダルの片割れである谷崎の妻千代子の妹小林せい子(因みに、同時期に彼女は女優となり、芸名を「葉山三千子」と称した)はと言えば、当時の文士連中と派手な交流をし、龍之介とも顔見知りで親しかったのである。これだけの条件が揃えば、これは谷崎以外には考えられないと私は思う。

 但し、この仮定には一つ、大きな難点がある。

 それは、逆立ちしても谷崎潤一郎は「詩人」ではないからである。比喩としても龍之介が彼を「詩人」と呼ぶとは思えないからである。

 そうなると――「詩人」で「惡魔主義」――これは、初期の永井荷風(明治一二(一八七九)年~昭和三四(一九五九)年:龍之介より十三歳年上)がしっくりとはくる。文人趣味を軽蔑した龍之介は大の荷風嫌いであった(佐藤春夫によれば、荷風は「西遊日記抄」の外は一切認めないといふのをやつと「葡萄棚」だけは承認させたが、多分荷風のあの纏綿たる情緒と江戸趣味とが芥川の気に食はなかつたのであらう芥川の文学はどこまでも情緒と市井を排撃する文学である」とある(「芥川龍之介論」昭和二四(一九四九)年)。但し、この引用は二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の中村良衛氏の「永井荷風」の項の解説からの孫引き)。同時代に作家として生きながら、交流も全くなく、「断腸亭日乗」の芥川龍之介の自死を新聞で知った昭和二(一九二七)年七月二十四日の記載が正しければ、『震災前新富座の桟敷で偶然席を同じうせしことあるのみ』であった。ただ、龍之介のアフォリズムの「實生活の上では安全地帶の外に出ることはたつた一度だけで懲り懲りしてしまつた」というのはピンと来ない。明治四二(一九〇九)年の「ふらんす物語」と「歓楽」が「風俗ヲ壞亂スモノ」と見做されて発禁となっており、一度どころではない複数の芸妓や娼婦らとの華やかな女性遍歴はそれ以前から後まで永くずっとあったから、「實生活の上では」という条件がしっくりこないのである。ただ、彼は明治四三(一九一〇)年から大正五(一九一六)年三月まで慶應義塾大学文学部主任教授を務めており、それは「安全地帶」の中にいたとは言い得るようには見える。但し、龍之介自死の頃は既に辞任して偏奇館に籠っていた。どうもやっぱり、この「惡魔主義者」を荷風とするには、私はピンとこないのである。

 或いはやはり、これは谷崎潤一郎を揶揄しているものであって、それをぼかす目的で(或いは詩性がないという強烈な皮肉として)「詩人」としたものか? 大方の御批判を俟つ。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或孝行者

 

       或孝行者

 

 彼は彼の母に孝行した、勿論愛撫や接吻が未亡人だつた彼の母を性的に慰めるのを承知しながら。

 

[やぶちゃん注:これは具体に穿鑿をする以前に、「齒車」の「四 まだ?」の中に、正答が出ている。「僕」は「アナトオル・フランスの對話集」と「メリメエの書簡集」を買うと、

   *

 僕は二册の本を抱(かか)へ、或カッフェへはひつて行つた。それから一番奧のテエブルの前に珈琲の來るのを待つことにした。僕の向うには親子(おやこ)らしい男女が二人坐つてゐた。その息子は僕よりも若かつたものの、殆ど僕にそつくりだつた。のみならず彼等(ら)は戀人同志(こひびとどうし)のやうに顏を近づけて話し合つてゐた。僕は彼等(ら)を見てゐるうちに少くとも息子は性的(せいてき)にも母親に慰めを與へてゐることを意識してゐるのに氣づき出した。それは僕にも覺えのある親和力(しんわりよく)の一例に違ひなかつた。同時に又現世を地獄にする或意志の一例(れい)にも違ひなかつた。しかし、――僕は又苦しみに陷るのを恐れ、丁度珈琲の來たのを幸ひ、「メリメエの書簡集」を讀みはじめた。彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のやうに鋭いアフォリズムを閃かせてゐた。それ等(ら)のアフォリズムは僕の氣もちをいつか鐵のやうに巖疊(がんじやう)にし出した。(この影響を受け易いことも僕の弱點の一つだつた。)僕は一杯の珈琲を飮み了つた後(のち)、「何でも來い」と云ふ氣になり、さつさとこのカッフェを後ろにして行つた。

   *

但し、私はこの疑似相姦的な近親愛への生理的な龍之介の嫌悪は島崎藤村の「新生」のモデル事件である姪と藤村との近親相姦のそれから、ずっと尾を曳き続けているもののように感じている。

 なお、論文「芥川龍之介とフロベールの動物Ⅰ 芥川の犬から(PDFファイル)の中で、芥川龍之介に潜在するエディプス・コンプレクスを指摘し、「Ⅴ エディプス」で、龍之介の「じゆりあの・吉助」(大正八(一九一九)年)で聖母マリアに恋するイエスが言及される下り(引用は独自に岩波旧全集に拠った。下線は底本のママ)、

   *

奉行「そのものどもが宗門神となつたは、如何なる謂れがあるぞ。」

吉助「えす・きりすと樣、さんた・まりや姫に戀をなされ、焦れ死に果てさせ給うたによつて、われと同じ苦しみに惱むものを、救うてとらせうと思召し、宗門神となられたげでござる。」

   *

を芥川龍之介の、母への男子の対象愛形象として挙げられた後、さらにこの「侏儒の言葉」のアフォリズムと、先に引用した「齒車」の部分を引いた上、

   《引用開始》

 「侏儒の言葉」とは違い、主人公である<僕>は息子に自分を投影している。これは芥川のエディプスの、母への対象関係を推測させる。また、屈折した形での陽性エディプスの表出が、「老いたる素戔嗚尊」に見出せる。素戔嗚は夢で道端の鏡に自分を映す―「大岩の上に〔略〕白銅鏡が一面のせてあった。彼はその岩の前に足をとめると、何気なく鏡へ眼を落した。鏡は〔略〕年若な顔を映した。が、それは〔略〕彼が何度も殺そうとした、葦原醜男の顔であった」。

 ここには娘の恋人と成り代わる欲求がうかがえる。そして父と娘の愛が許されるなら、当然母と息子のそれも許されるとみなす狡智が潜んでいる。

   *

と述べておられる。この評論は人によっては受け入れられない部分もあるかも知れないが、精神分析好きの私(因みに私は、大学では心理学を学びたかったが、それで受験した大学は皆、落ちた。どこかに合格していれば、私は高校の国語教師にはなっていなかった。されば多くの教え子たちとも出逢うことはなかった。これも「偶然」のなせる業(わざ)であった)にはすこぶる興味深く面白い。是非、お薦めするものである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 聖書

 

       聖書

 

 一人の知慧は民族の知慧に若かない。唯もう少し簡潔であれば、……

 

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年七月二十四日午前二時頃、書斎から階下に降り、妻文と三人の子息が寝る部屋で床に入った芥川龍之介は、二階から持って来た聖書を読みながら、最後の眠りについた(この時、既に薬物を飲んでいたものと推定されている)。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の関口安義氏の「聖書」の項のコラム解説によれば、この末期の枕頭にあった聖書は明治訳聖書或いは元訳(もとやく)聖書と呼称される「舊新約聖書 HOLY BIBLE」で発行者はアメリカ人「エツチ・ダブルユー・スワールツ」(カタカナ表記)で、発行所は神奈川県横浜市山下町五十三番地の「米国聖書協会」、初版大正三(一九一四)年のものを大正五年に増刷したものの一冊であった。『この聖書は、現在、』『日本近代文学館に保管され、閲覧可能となって』おり、『巻末見返しに葛巻義敏の署名のある一文があり、「彼は新しき訳書を所持せるも、この訳の古調を愛し、――数年前にもらひたる、この訳書は、つねに彼の枕辺に在り」と記されている。芥川の』西方人」「西方人」『は、この聖書を用いて書かれたのである』とある(リンク先は私の「正續完全版」電子テクスト。甥の葛巻の記載に「数年前にもらひたる」とあるが、当時、彼は龍之介の家に同居していた)。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 希臘人(二章)

 

       希臘人

 

 復讐の神をジユピタアの上に置いた希臘人よ。君たちは何も彼も知り悉してゐた。

 

       又

 

 しかしこれは同時に又如何に我我人間の進步の遲いかと云ふことを示すものである。

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介は「齒車」の「二 復讐」のコーダに、この第一章と通ずるシーンを配している。

   *

 僕の銀座通りへ出た時には彼是日の暮も近づいてゐた。僕は兩側に並んだ店や目まぐるしい人通りに一層憂欝にならずにはゐられなかつた。殊に往來の人々の罪などと云ふものを知らないやうに輕快に歩いてゐるのは不快だつた。僕は薄明るい外光(ぐわいくわう)に電燈の光のまじつた中をどこまでも北へ步いて行つた。そのうちに僕の目を捉へたのは雜誌などを積み上げた本屋だつた。僕はこの本屋の店へはひり、ぼんやりと何段かの書棚を見上げた。それから「希臘神話」と云ふ一册の本へ目を通すことにした。黃いろい表紙をした「希臘神話」は子供の爲に書かれたものらしかつた。けれども偶然僕の讀んだ一行は忽ち僕を打ちのめした。

 「一番偉(えら)いツオイスの神でも復讐の神にはかなひません。………

 僕はこの本屋の店を後ろに人ごみの中(なか)を歩いて行つた。いつか曲り出した僕の背中に絶えず僕をつけ狙つてゐる復讐の神を感じながら。………

   *

文中の「ツオイス」はギリシャ神話の全知全能の主神「Zeus」、ゼウスのこと。ゼウスはオリュンポスの神々に先行する古の神々であるティーターン神族(Tītān)の大地と農耕の神クロノス(Kronos)と大地の女神レアー(Rheā)の末子(長男の説も有り)で、冥界の神ハーデース(Hādēs)と海と地震の神ポセイドーン(Poseidōn)の弟。正妻は姉妹である神々の女王ヘーラー(Hērā)であるが、レートー(Lētō:光明の神アポローン(Apollōn)と狩猟・貞潔の女神アルテミス(Artemis:後に月の女神ともなる)の母)や姉の豊穣の神デーメーテール(Dēmētēr)等の女神をはじめ、多くの人間の女性とも交わり、子をもうけたとされる。

 この二つのアフォリズム、「君たちは何も彼も知り悉してゐた」と言い、「如何に我我人間の進步の遲いかと云ふことを示す」ものだ、即ち、復讐の神を何と、現代人も相変わらず、最も恐れている、と龍之介は溜息交じりに呟いていることに注視せねばならぬ。ここにはかのかつての愛人、「或阿呆の一生」で「狂人の娘」とさえ呼んだ、秀しげ子の翳が、私には濃密に感ぜられるのである。

 

・「復讐の神」ギリシア神話の女神ネメシス(ラテン文字転写(注しないものは以下同じ):Nemesis:「配分する者」とも「守られるべき法」の意ともする)。ウィキの「ネメシスより引く。『人間が神に働く無礼(ヒュブリス)』(Hubris:神に対する侮辱や無礼な行為などに繋がる極度の自尊心や自信を意味する語)『に対する、神の憤りと罰の擬人化である。ネメシスの語は元来は「義憤」の意であるが、よく「復讐」と間違えられる(訳しにくい語である)。擬人化による成立のため、成立は比較的遅く、その神話は少ない。主に有翼の女性として表される』。古代ギリシア紀元前七〇〇年頃の叙事詩人ヘーシオドス(Hēsíodos)の「神統記」:(英語:Theogony)ではニュクス(Nýx:夜)の娘とされる。『ゼウスはネメシスと交わろうとしたが、ネメシスはいろいろに姿を変えて逃げ、ネメシスがガチョウに変じたところゼウスは白鳥となってついに交わり、女神は卵を生んだ。この卵を羊飼いが見つけてスパルタの王妃レーダー』(Lēdā:「レダ」とも音写)『に与え、これから』絶世の美女ヘレネー(Helen)とディオスクーロイ(Dioscuri:「ゼウスの息子」の意)が『生まれたとされる。ただしゼウスがこのとき白鳥となって交わったのはレーダーであるという伝承もある』。『ギリシア悲劇においては』『神罰の執行者としてしばしば言及される。アテーナイではネメシスの祭、ネメセイア(Nemeseia)が行われた。これは十分な祭祀を受けなかった死者の恨み(nemesis)が、生者に対して向かわぬよう、執り成しを乞うことを主な目的とした』とある。TOMITA Akio 氏のサイト「バルバロイ!」のネメシスについての解説によれば、ローマの詩人オウィディウス(紀元前四三~紀元後一七年?)は『ネメシスを、「自慢話をひどく嫌った女神」と呼んだ。王や英雄がいかに傲慢になろうとも、最後には彼らはみな、女神によって破滅させられたからである』。『ストア学派は、時がくればすべてをその構成要素に還元してしまう自然の世界支配原則として、女神を崇拝した。ゼウスさえ彼女を恐れた。彼女はかつてはゼウスの破壊者であり、ゼウスを貧り食った者であって、すべての神に生命と死を与える女神であった』。『女神はときにはアドラステイア(「逃れられない者」)』(Adrasteia)『と添え名された』とあり、これで、龍之介が「ジユピタアの上に置いた」と言った意味が分かった。

・「ジユピタア」(Jūpiter)ローマ神話の主神ジュピター。後にギリシア神話のゼウスと同一視され、多くの記載もゼウスのそれと混淆して区別がつかない。そのため、まえにゼウスについて既に述べておいた。無論、ここでも龍之介はゼウスと全く同義で使用している。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或才子

 

       或才子

 

 彼は惡黨になることは出來ても、阿呆になることは出來ないと信じてゐた。が、何年かたつて見ると、少しも惡黨になれなかつたばかりか、いつも唯阿呆に終始してゐた。

 

[やぶちゃん注:言わずもがな、「或」る「才子」(さいし:才人)即ち「彼」は無論、「或阿呆の一生」の作者である芥川龍之介自身である。「侏儒の言葉」は中盤以降、こうした自己韜晦を神経症的に繰り返し、夾雑させている。そこにこそ死に向う龍之介の苦悩や逡巡が見え隠れしていると言える。何故か?――龍之介流に言うなら、真の「阿呆」は自殺など決してしないからである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或日本人の言葉

 

       或日本人の言葉

 

 我にスウィツルを與へよ。然らずんば言論の自由を與へよ。

 

[やぶちゃん注:・「スウィツル」永世中立国スイス(公式の英語表記 Swiss Confederation 及び Switzerland であるが、ドイツ語・フランス語・イタリア語・ロマンシュ語の四種を公用語を有するスイスでは単独公式表記として、世界的に珍しいラテン語による Confoederatio Helvetica という国名表記がある)の英語名の音写。新潮文庫の神田由美子氏の注はここに、『当時の日本では共産主義が禁じられていたので、キリスト教徒もイエスの共産主義的要素を議論することに危険が伴った』と記されておられる。非常によろしい注とは思うものの、やや凡夫の私などには隔靴掻痒の感がある。芥川龍之介がかく叫ぶ意味を真に知らんとせば、私のやぶちゃん版芥川龍之介詩集の中の、彼の詩「僕の瑞威(スヰツツル)から」(昭和三(一九二八)年二月発行の雑誌『驢馬』に遺稿として公開されたもの)を読むに若かず!]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 嘲けるもの

 

       嘲けるもの

 

 他を嘲るものは同時に又他に嘲られることを恐れるものである。

 

[やぶちゃん注:「他を嘲るものは」、実は、その「嘲る」対象そのものに自分自身の全き賤しき写像を見るからこそ「嘲る」ことが出来る。だからこそ「同時に又」、自分の賤しきそれを「他に嘲られることを」極度に「恐れるもの」な「のである」と言える。だからこそ我々は誰しも、「尊大な羞恥心」(中島敦山月記」)を持つのである。羞恥心が人一倍強いために、羞恥心を抱く機会を持つまいと、わざと偉そうな態度をとって、殊更に他人を避けようとするのである。如何にも偉そうにして人をテッテ的に嘲っていれば、人は普通、嫌がって寄って来なくなる。だから恥をかくことも当然の如くなくなる。地球上に君一人しかいなければ、嘲られることもなく、素っ裸でいたって恥ずかしくないではないか!(以上の後半部は私の中島敦「山月記」授業ノートをもとに記した)]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 運命

 

       運命

 

 遺傳、境遇、偶然、――我我の運命を司るものは畢竟この三者である。自ら喜ぶものは喜んでも善い。しかし他を云々するのは僭越である。

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介は「侏儒の言葉」を髣髴させる悪魔的対話劇である遺稿「闇中問答」(昭和二(一九二七)年九月号『文藝春秋』――芥川龍之介追悼号――)の中で、これと酷似したことを述べている(リンク先は私の電子テクスト。下線はやぶちゃん)。

   *

或聲 お前は戀愛を輕蔑してゐた。しかし今になつて見れば、畢竟戀愛至上主義者だつた。

僕  いや、僕は今日(こんにち)でも斷じて戀愛至上主義者ではない。僕は詩人だ。藝術家だ。

或聲 しかしお前は戀愛の爲に父母妻子を抛つたではないか?

僕  譃をつけ。僕は唯僕自身の爲に父母妻子を抛つたのだ。

或聲 ではお前はエゴイストだ。

僕  僕は生憎エゴイストではない。しかしエゴイストになりたいのだ。

或聲 お前は不幸にも近代のエゴ崇拜にかぶれてゐる。

僕  それでこそ僕は近代人だ。

或聲 近代人は古人に若かない。

僕  古人も亦一度は近代人だつたのだ。

或聲 お前は妻子を憐まないのか?

僕  誰か憐まずにゐられたものがあるか? ゴオギヤアンの手紙を讀んで見ろ。

或聲 お前はお前のしたことをどこまでも是認するつもりだな。

僕  どこまでも是認してゐるとすれば、何もお前と問答などはしない。

或聲 ではやはり是認しずにゐるか?

僕  僕は唯あきらめてゐる。

或聲 しかしお前の責任はどうする?

僕  四分の一は僕の遺傳、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、――僕の責任は四分の一だけだ。

或聲 お前は何と云ふ下等な奴だ!

僕  誰でも僕位は下等だらう。

   *

 

・「遺傳」芥川龍之介が養子に出された原因でもある実母フクの精神異常は頓に知られ、芥川龍之介の自殺の原因の一つに遺伝による精神病発症(発狂)恐怖が挙げられるほどである。しかし、私は実は、フクの病状は遺伝が疑われるような精神病であったとは思われず(私は彼女のそれは少なくとも発症自体は心因性の重い強迫神経症ではなかったとも考えている)、芥川の精神変調の一因は所謂、精神病に対するフォビアに起因するノイローゼであったと考えている。

・「境遇」龍之介が新原敏三(にいはらとしぞう 嘉永三(一八五〇)年~大正八(一九一九)年)とフク(万延元(一八六〇)年~明治三五(一九〇二)年)の長男として生まれながら、フクの精神異常を理由に、実家である芥川家のフクの兄芥川道章(どうしょう 嘉永二(一八四九)年~昭和三(一九二八)年)の養子となり、しかも後に実父敏三が頻りに彼を取り戻そうとし、養父道章は取り戻すというなら腹を斬ると啖呵を切る事態とまでなった。後、東京地方裁判處民事部の裁判(龍之介は五月四日に被告として出廷している)を経て、明治三七(一九〇四)年八月三十日に漸く新原家から除籍され、道章の養嗣子と決した。当時、既に龍之介は十二歳になっていた。その後、妻子及び養父母、何かと口やかましかったものの、龍之介が信頼していた伯母(養子後は形式上は叔母となる)フキ(安政五(一八五六)年~昭和一三(一九三八)年は勿論、既に述べた通り、実の姉であるヒサ(明治二一(一八八八)年~昭和三一(一九五六)年)及び、その子葛巻義敏の面倒も、龍之介は一手に引き受けねばならなくなった。彼の実生活上の「境遇」は、幾多の彼が引き起こした女性問題を除いても)確かにこれ、数奇であった。

 

・「偶然」私はこの語に龍之介は、若き日からの幾多の女性遍歴の「偶然」の邂逅と、その地獄のような泥沼の「運命」を暗に示しているように思えてならぬ。……いやいや……「他を云々するのは僭越である」……これ以上、細かくは言うまい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「いろは」短歌

 

       「いろは」短歌

 

 我我の生活に缺くべからざる思想は或は「いろは」短歌に盡きてゐるかも知れない。

 

[やぶちゃん注:ここで芥川龍之介の言っている「いろは」短歌とは、「我我の生活に缺くべからざる思想」と言っている以上、知られた、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅爲樂」という仏法思想を詠んだとされる作者不詳の今様体の、

 

いろはにほへとちりぬるを(色は匂へど 散りぬるを)

わかよたれそつねならむ(我が世誰ぞ 常ならむ)

うゐのおくやまけふこえて(有爲の奥山 けふ越えて)

あさきゆめみしゑひもせす(淺き夢見じ 醉ひもせず)

 

を指すのではなく(前の「革命」の「娑婆苦」や「死」との連続性を考慮するならば、これもその一つに含まれると考えるのはよろしい)、寧ろ、「いろは」四十七文字と「京」の字をそれぞれ語頭に置いた、教訓的な歌や諺にした子供の教訓用喩え歌、江戸時代に盛んに行われて双六・カルタにつくられたそれ(例・「い」――「犬も歩けば棒に当たる」(江戸)・「一寸先は闇」(上方)・「一を聞いて十を知る」(尾張))を指すと読むべきである。筑摩全集類聚版脚注と新潮文庫の神田由美子氏は前者のみを指すとされるが、従えない。岩波新全集の奥野政元氏は私と同じものと注されておられる。実際、伊呂波歌留多のそれらを『「いろは」短歌』とも呼ぶのである。北村孝一氏のサイト内のいろはカルタのページの冒頭にある「芥川龍之介といろは短歌」を私の見解のよき援軍としてリンクさせておく。

 そもそもが、「いろはにほへとちりぬるを」というあの辛気臭いそれだけを、龍之介が限定的に「我我の生活に缺くべからざる思想」などと主張して、香を焚いている姿は、これ、慄っとしないではいられぬではないか?]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 死

 

       死

 

 マイレンデルは頗る正確に死の魅力を記述してゐる。實際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圈外に逃れることは出來ない。のみならず同心圓をめぐるやうにぢりぢり死の前へ步み寄るのである。

 

[やぶちゃん注:現行は編者によって総てより正確な音写である「マインレンデル」に「訂正」されてしまっているが、これは初出も単行本も孰れも上記の通り、「マイレンデル」である。今回は、それに従って示した。

 

・「マイレンデル」ドイツの詩人で哲学者フィリップ・マインレンダー(Philipp Mainländer 一八四一年~一八七六年:日本語音写は「マインレンデル」とも)。ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer 一七八八年~一八六〇年)の厭世哲学に心酔、後に精神に異常をきたし、満三十四歳で縊死自殺した。ウィキの「フィリップ・マインレンダー」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『もとはバッツ(Batz)という名であったが、彼の故郷であるオッフェンバッハ・アム・マイン(Offenbach am Main)への愛慕から、後にマインレンダーに改名した。 厭世主義者であり、主著「救済の哲学」(Die philosophie der Erlosung)において、人生は全く無価値であるとした』。『六人兄弟の末子としてオッフェンバッハに生まれる。一八五六年、父の教えにより、商人を志してドレスデンの商業学校に入学する。二年後、ナポリの貿易商社に入社する。この間にイタリア語を学び、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、ジャコモ・レオパルディの著作に精通した。マインレンダーは後に、ナポリでの五年間が人生で最も幸福な期間だったと述べている。この決定的な期間に、十九歳のマインレンダーはアルトゥル・ショーペンハウアーの主著「意志と表象としての世界」』(Die Welt als Wille und Vorstellung 一八一九年刊)『と出会う。彼は後に、一八六〇年の二月を「人生で最も重要な時期」と言い、この出来事を「貫くような新発見」と描写している。実際に、ショーペンハウアーはマインレンダーの晩年の哲学的著作に最も大きな影響を与えた』。『一八六三年、マインレンダーは父の事業を手伝うためにドイツへ帰国する。同年、「最後のホーエンシュタウフェン(Die letzten Hohenstaufen)」という三編の詩を作る。二年後の十月五日、マインレンダーの二十四歳の誕生日に母が亡くなる。母親の喪失に深く影響を受け、彼は詩から哲学へ転向していった。続く数年の間に、ショーペンハウアー、カント、エッシェンバッハ』、『そして哲学の古典を』学んだ。『一八六九年三月、マインレンダーはベルリンの金融会社 J. Mart Magnusに入社する。この時彼は、数年間』、『貯蓄し、その後利子収入で生活しようと考えていた。しかし、ウィーン証券取引所が一八七三年五月八日に崩壊したため、彼は破産して計画は突如潰えた。同年、マインレンダーは今後のあてもないまま辞職した』。『マインレンダーの富裕な』『親は一八六一年に彼の兵役を金で免除させたが、彼は自伝において、「全てにおいて完全に何かに服従すること、最低の仕事をすること、盲目的に服従せねばならぬこと」への願望があったことを記しており、また、軍務に服するための数多くの試みを周到に企てた。一八七四年四月六日、既に三十二歳となったマインレンダーはヴィルヘルム一世に直接懇願したが、これは認められ、ハルバーシュタット(Halberstadt)の胸甲騎兵として九月二十八日から働くことになった。徴兵までの四か月の間に、マインレンダーは取り付かれたように著作活動に打ち込み、彼の中心的著書「救済の哲学」の第一巻を完成させ』ている。『彼は完成した原稿を姉のミナに渡し、軍務に服している間に出版社を探してくれるよう頼んだ。原稿には未だ知らぬ出版社に対しての手紙を付し、その中において、匿名での出版を希望すること、そしてそれは「世界中の目に晒されること」を忌み嫌っているだけに過ぎないということを記した』。『一八七五年十一月一日、マインレンダーは、姉のミナへの手紙の中で述べているように、「疲れ果てた、本当に疲れた……完全に……健康な身体が、言葉では言い表せないほど疲れた」ため、本来は三年間の軍役のはずだったが、わずか一年で軍を辞め、故郷のオッフェンバッハに戻った。彼はそこで再び著作活動に取りつかれ、わずか二か月の内に未製本の「救済の哲学」を校正し、回想録や中編小説「Rupertine del Fino」』(固有名詞と思われる)『を書きあげ、そして六百五十ページにおよぶ「救済の哲学」第二巻を完成させた』。『一八七六年二月からマインレンダーの精神的衰弱が顕著になる。ついには誇大妄想狂になり、自身を社会民主制の救世主だと信じ込む。同年四月一日の夜、マインレンダーはオッフェンバッハの自宅で、前日に出版社から届いた「救済の哲学」を山積みにして壇にし、首を吊って自殺し』ている。今回、私は初めて知ったが、この死にざまはまっこと、強烈である!

 御承知の如く、彼の名は芥川龍之介の公的遺書と言える遺稿或舊友へ送る手記(昭和二(一九二七)年八月四日刊の雑誌『文藝時報』第四十二号に発表とされるが、既に死の当日である同年七月二十四日日曜日夜九時に自宅近くの貸席「竹むら」で久米正雄(「或旧友」とは彼を指す。リンク先は私の古い電子テクスト)によって報道機関に発表されており(これには彼の遺書が読後に焼却を厳命していることから、親族を中心にこの一篇の公表についても反対する意見が複数あった)、死の翌日の二十五日月曜日の『東京日日新聞』朝刊にも掲載されている)の第二段落に以下のように出る。

   *

 僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを讀んだのもこの間(あひだ)である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具體的に同じことを描きたいと思つてゐる。家族たちに對する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。これも亦君には、Inhuman の言葉を與へずには措かないであらう。けれども若し非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。

   *

なお、これもしばしば言われることであるが、「或舊友へ送る手記」が公表された際、この「マインレンデル」が何者であるか知る者は、弔問に訪れた龍之介の友人たちの中にさえ少なかったことは、菊池寛「芥川の事ども」(昭和二(一九二七)年九月号『文藝春秋』の以下の下りからも判る(引用は筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」別巻に拠ったが、恣意的に正字化した)。

   *

 彼は、文學上の讀書に於ては、當代その比がないと思ふ。あの手記の中にあるマインレンデルについて、火葬場からの歸途、恒藤君が僕に訊いた。

「君、マインレンデルと云ふのを知つてゐるか」

「知らない。君は」

「僕も知らないんだ、あれは人の名かしらん。」

 山本有三、井汲淸治、豐島與志雄の諸氏がゐたが、誰も知らなかつた。あの手記を讀んで、マインレンデルを知つてゐたもの果して幾人いただらう。二三日して恒藤君が來訪しての話では、獨逸の哲學者で、ショペンハウエルの影響を受け、厭世思想をいだき、結局自殺が最良の道であることを鼓吹(こすゐ)した學者だろらうとの事だつた。芥川は色々の方面で、多くのマインレンデルを讀んでゐる男に違ひなかつた。

   *

しかし、意地悪く言うなら、龍之介は「しみじみした心もちになつてマインレンデルを讀んだ」と記しているものの、龍之介はドイツ語には必ずしも堪能ではなく、私か過去に読んだ評論の記載ではマインレンデルの著書の英訳も当時は抄録訳が少し出ていただけだったとあったように記憶している。そして、実は彼の名は森鷗外晩年の知られた随想「妄想」(まうぞう(もうぞう):明治四四(一九一一)年『三田文學』)の後半に(引用は岩波版「鷗外選集」に拠ったが、恣意的に正字化した。「フイリツプ マインレンデル」「ハルトマン」はルビ)、

   *

 自分は此儘で人生の下り坂を下つて行く。そしてその下り果てた所が死だといふことを知つて居る。

 併しその死はこはくはない。人の説に、老年になるに從つて增長するといふ「死の恐怖」が、自分には無い。

 若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に橫はつてゐる謎を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなつた。次第に薄らいだ。解けずに橫はつてゐる謎が見えないのではない。見えてゐる謎を解くべきものだと思はないのでもない。それを解かうとしてあせらなくなつたのである。

 この頃自分は Philipp Mainlaender(フイリツプ マインレンデル)が事を聞いて、その男の書いた救拔の哲學を讀んで見た。

 此男は Hartmann(ハルトマン)の迷の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆迷だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面を背ける。次いで死の𢌞りに大きい圏を畫いて、震慄しながら步いてゐる。その圏が漸く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項(うなじ)に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。

 さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。

 自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬(しようけい)」も無い。

 死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。

   *

と出るのである。……「死の目の中に平和を見出す」(鷗外)――「死の魅力」(龍之介)……「死の廻りに大きい圏を畫いて」(鷗外)――「その圈外」(龍之介)……「その圏が漸く小くなつて」「死と目と目を見合はす」(鷗外)――「同心圓をめぐるやうにぢりぢり死の前へ步み寄る」(龍之介)……これ以上は、言うまい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  革命

 

       革命

 

 革命の上に革命を加へよ。然らば我等は今日よりも合理的に娑婆苦を嘗むることを得べし。

 

[やぶちゃん注:・「革命の上に革命を加へよ」これは恐らく、革命家レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキーЛев Давидович Троцкий ラテン文字転写:Lev Davidovich Trotsky 一八七九年~一九四〇年)が提唱した永続革命論(一九〇五年から一九〇六年頃に定式化)を念頭においた謂いとは読める。現在、直接にトロツキーの名を記した龍之介の文章はないが、例えば、芥川龍之介の盟友であった宇野浩二による渾身の大作「芥川龍之介」(昭和二十六(一九五一)年九月~同二十七(一九五二)年十一月『文学界』初出後、大幅に手を加えて同二十八年五月に文藝春秋新社から刊行)には(引用は私の電子テクスト『宇野浩二「芥川龍之介」下巻(十五)~(二十三) 附やぶちゃん注』より。下線やぶちゃん)、

   *

 私のような者でも、一方では、ボオドレエル、ヴェルレエヌ、ランボオ、その他のいわゆる頽廃派の詩人たちの詩を読みながら、他方では、いま述べたように、ウィリアム・モリスの小説(さきに書いた、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』のほかに、これも、社会主義の宣伝のために書いたような『ジョン・ボオルの夢』という小説など)や、クロボトキンの、『ロシア文学の理想と現実』[これは伊東整の名訳がある]は、もとより『一革命家の思い出』、その他や、芥川が読んだと云うリイプクネヒトの、『追憶録』と、『新世界への洞察』や、それに類する本を、無方針に、手当り次第に、読んだ。まったく『手当てあたり次第』であって、凡そ『好学心』などというものではなかった。

 つまり、私のような語学のできない者でもそうであるから、語学の方でも秀才であった芥川は、おなじ『手当り次第』でも、このはかに、レエニン、トロツキイ、カウツキイ、その他のものをも読んでいたにちがいないのである。私が、或る時、このような話が出た時、「君きみ、カウツキイの『トマス・モオアと彼のユウトピア』はおもしろいね、」と云うと、芥川は、言下に、「カウツキイが息子と共著で出した、マルクスの『資本論』の英訳があるが、ごれは、通俗に書いてあるから、僕らにもわかりいいよ、」と云いはなった。(余話であるが、私は、その時分よりずっと後に、いま名を上げた人の中では、レエニンの『トルストイ論』とトロツキイの『文学と革命』を読んで、拾い物をしたような喜びを感じた。)

   *

と記している。後者の部分は宇野自身の経験談であるが、彼もトロツキイの名著「文学と革命」に感銘しているのは興味深く、龍之介の旧蔵書には「文学と革命」は含まれていないものの、既に読んでいた可能性は高いと言える。実際、ここに注するのに参照した、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の志田昇氏の「トロツキー」の項の解説には、『晩年の文章には明らかにトロツキーを読んでいた形跡がうかがわれる』として、「文藝的な、餘りに文藝的な」の「二十七 プロレタリア文藝」の論展開を二例、挙げておられ(リンク先は私の芥川龍之介「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」)、また、同作の「十 厭世主義」の中の一節、『僕も亦、――僕は或は便宜上のコムミユニストか何かに變るかも知れない』という箇所を指摘され、『この「便宜上のコムミユニスト」とはトロツキーの言う「革命の芸術的同伴者」を芥川流に表現したものと思われる』と述べておられる。シュールレアリストらとも密接な関係を持った、革命家の中ではすこぶる芸術にシンパシーを持っていたトロツキーに、龍之介が関心を持っていたと考えることはごく自然である。

 但し、このアフォリズムは、革命の永続を讃美したアフォリズムなんぞでは、無論、ない

 

――革命の上に革命を加へよ。然らば我等は今日よりも合理的に娑婆苦を嘗むることを得べし。

 

私の解釈は、こうだ。

 

――『革命の上にさらに革命を!』と革命家は言ふ。さても革命の上にさらに革命を加へるが好(よ)い。さうすれば革命は燎原の火の如くなつて地球上を總て蔽ひ盡すであらう。然らば我我は今日よりも遙かに合理的な娑婆苦――それは或いは「權利」と稱され「義務」とも呼ばはるるであらう――としてそれらを有難くも拜して嘗めねばならぬことを得ることになるであらう。

 

不条理で訳の分からぬ或いは不当で許し難い旧来の「娑婆苦」を嘗めることを諦めてい生きること、それを不満に思って生きること――よりも――「今日よりも合理的」な「娑婆苦を嘗」める「こと」は遙かに堪え難く、苦痛である。しかもそれは論理的に正当化された「娑婆苦」であり、死以外にそこから脱する道はないのだから。おや? さすればこそまさにそれは、極楽往生せぬ限り、消え失せることのない仏道上の「娑婆苦」そのものではないか?]

2016/06/14

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自殺(三章)

 

       自殺

 

 萬人に共通した唯一の感情は死に對する恐怖である。道德的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。

 

       又

 

 自殺に對するモンテェエヌの辯護は幾多の眞理を含んでゐる。自殺しないものはしないのではない。自殺することの出來ないのである。

 

       又

 

 死にたければいつでも死ねるからね。

 ではためしにやつて見給へ。

 

[やぶちゃん注:二章目の太字下線「しない」及び「出來ない」は原文では傍点「丶」。

 

・「自殺に對するモンテェエヌの辯護」「モンテェエヌ」は「エセー」(Les Essais:随想録)で知られる、ルネサンス期のフランスを代表する哲学者でモラリストのミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne 一五三三年~一五九二年)のこと。岩波新全集の奥田政元氏の注に、モンテーニュが『自殺を積極的に勧めることはないが、「エセー」第一巻巻二〇や第五巻一三なふぉに、死に対する自然な人間のあり方などが説かれている』とある。芥川龍之介は「河童」の「十五」で自死した詩人トツクの霊が降霊会で語るシークエンスの台詞に、冥界での交友関係を問われたトツクが友人の一人として彼を挙げるシーンを用意して、

   *

 問 君の交友は自殺者のみなりや?

 答 必しも然りとせず。自殺を辯護せるモンテエニユの如きは予が畏友の一人なり。唯予は自殺せざりし厭世主義者、――シヨオペンハウエルの輩(はい)とは交際せず。

   *

とここに通ずる台詞を言わせている。私は「エセー」を読んだことがなく、所持もしないので、ネット検索をかけてみると、「エセー」には、自殺についての思索として、「死はすべての苦痛に対して用いられる万能薬である。」という見解、「アンブラキアのクレオンブロトスはプラトンの『パイドン』」を読んで大いに来世にあこがれ、ほかにこれという理由もないのに、海に身を投げた。このことから、自殺を絶望と呼ぶのがいかに不適当であるかは明らかである。」とか、「小カトーについて」で例外的なこととしながら、「場合によっては自殺も徳からの行為であり得る」と考えたということが記されてある。ウィキの「エセによれば、『モンテーニュの目的は人間、特に彼自身を、完全に率直に記述することであると『随想録』の中で述べている。モンテーニュは人間性の大きな多様性と移り変わりやすさこそがその最大の特徴であると認識していた。「私自身というものよりも大きな怪物や驚異は見たことがない。」』『というのが典型的な引用句である』。『モンテーニュは自身の貧弱な記憶力や、本当に感情的にはならずに問題を解決し争いを仲裁する能力や、後世にまで残る名声を欲しがる人間への嫌悪感や、死に備え世俗から離れようとする試みのことなどを書いている』。『当時のカトリックとプロテスタントの間の暴力的で(モンテーニュの意見によれば)野蛮な紛争をモンテーニュは嫌悪しており、その書き物にはルネサンスらしからぬ悲観主義と懐疑主義が覗いている』。『総じて、モンテーニュはユマニスム』(humanisme:人文主義)『の強力な支持者であった。モンテーニュは神を信じ、カトリック教会を受け入れていたが、神の摂理がどのような意味で個々の歴史上の出来事に影響していたかを述べることは拒否していた』。『新世界の征服に反対しており、それが原住民にもたらした苦しみを嘆いていた』。『モンテーニュは人間が確実さを獲得できないと考えて』おり、『その懐疑主義は』、『我々は自身の推論を信用できない、なぜなら思考は我々に起こるものであるから。我々は本当の意味ではそれらをコントロールできない。我々が動物よりも優れていると考える相応の理由はない』といった見解に現われているとし、通常、『「知識は人を善良にはできない」と題されている節において、モンテーニュは自身のモットーが「私は何を知っているのか?」(Que sçay-je?)であると書いて』おり、『表面的にはキリスト教を弁護している』箇所もあるものの、『キリスト教徒ではない古代ギリシア・ローマの著述家たちに言及し』、『引用して』いる。『モンテーニュは結婚を子供を育てるためには必要だと考えていたが、恋愛による激しい感情は自由にとって有害なものとして嫌った。「結婚は鳥籠のようなものである。その外にいる鳥は必死になって入ろうとするが、中にいる鳥は必死になって出ようとする。」という言葉がある』。『教育に関しては、抽象的な知識を無批判で受け入れさせることよりも具体的な例や経験の方を好んでいた』。『モンテーニュのエセーに明白に現れている思考の現代性は、今日でも人気を保っており、啓蒙時代までのフランス哲学で最も傑出した作品となっている。フランスの教育と文化に及ぼす影響は依然として大きい』とある。

・「自殺しないものはしないのではない。自殺することの出來ないのである。」ここは次の三章目の台詞と併せ、やはり、前に掲げた萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」の「9」の最後の龍之介が朔太郎に言った言葉、『「だが自殺しない厭世論者の言ふことなんか、皆ウソにきまつてゐるよ。」/それから笑つて言つた。/「君も僕も、どうせニセモノの厭世論者さ。」』を直ちに想起させる。しかし、芥川龍之介が「ニセモノの厭世論者」でないことを〈演じるために死んだ〉とすれば、しかしこれはやはり救いがたい阿呆ということになる。というより、有象無象の明確な複数の自殺要因を抱えながら、自らのダンディズムから、その一つをも示し得ずに「ぼんやりとした不安」と一括して曖昧に表現して厭世主義者として自殺を完遂したのだとしたら、これはやはり想像しがたい悲惨な自裁であったと言わざるを得ない。なお、一見、モンテーニュがこれと同じことをどこかに書いているように見せているが、私はこれは龍之介得意のやらせではないか、と考えている。諸注は特に引用元を示していない。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 戀愛 / 或老練家

 

       戀愛

 

 戀愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性慾は戀愛と呼ぶに價ひしない。

 

[やぶちゃん注:この一章は私は次の「或老練家」の「彼はさすがに老練家だつた。醜聞を起さぬ時でなければ、戀愛さへ滅多にしたことはない。」のための先駆けであると思う。次章の私の注を参照のこと。]

 

 

 

       或老練家

 

 彼はさすがに老練家だつた。醜聞を起さぬ時でなければ、戀愛さへ滅多にしたことはない。

 

[やぶちゃん注:この「老練家」とは島崎藤村であり、「醜聞」とは「新生」に描かれた姪島崎こま子との近親姦を指す。先の新生で引いた通り、遺稿「或阿呆の一生」の第四十六章の「譃」の中で、

   *

……ルツソオの懺悔錄さへ英雄的な譃に充ち滿ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な僞善者に出會つたことはなかつた。が、フランソア・ヴィヨンだけは彼の心にしみ透つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡(をす)」を發見した。……

   *

と述べている。「老獪」はこの「老練」に照応し、フランスの淫蕩のピカレスクで、近代詩の先駆者とも讃えられるフランソワ・ヴィヨン(François Villon 一四三一年?~一四六三年以降)の響きはこの章の「戀愛」という語句から前の章の「戀愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性慾は戀愛と呼ぶに價ひしない」と遠く、しかし確かに響き合うように私には感ぜられる。而して「少くとも詩的表現を受けない性慾は戀愛と呼ぶに價ひしない」という文々は、龍之介がかの詩美に富んだ「若菜集」の詩人が、詩的表現を失った自己弁護近親相姦小説「新生」を書いたことへの強い生理的嫌悪の表現と読む。私が嘗て藤村に同様の感を抱いて決別したように、である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 我我

 

       我我

 

 我我は皆我我自身を恥じ、同時に又彼等を恐れてゐる。が、誰も卒直にかう云ふ事實を語るものはない。

 

[やぶちゃん注:これは「我我」と「彼等」を如何なる対象と解するかという一点のみが謎めいて見える。しかしこれは「侏儒の言葉」の持つ、前の条々との有機的連続性の中で氷解するように、私には思われる。この前章は「恐怖」で「我我に武器を執らしめるものはいつも敵に對する恐怖である。しかも屢實在しない架空の敵に對する恐怖である。」であった。「我我」とは文字通り、我々であり、日本国民でよい。そうして「彼等」とは、その「我我」の「敵」、しばしば「實在しない架空の」存在であるところの「敵」である。言い換えて見よう。

――大陸に進出し、朝鮮人や中国人を虫けらの如くに凌辱殺戮する獣に等しい「我我自身を恥じ、同時に又」、そうしたおぞましい行為を成している「我我」に対して「彼等」――それは実在する「敵」でもあり、同時に欲望放恣の限りを尽くしていることから生ずるところの疑心暗鬼の産み出した「實在しない架空の敵」――「を恐れてゐる」。が、しかし、今の日本社会に於いては、これ、「誰」(たれ)一人として、かく「も卒直にかう云ふ」まことのゆゆしき「事實を語るものは」いないのである。――]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 恐怖

 

       恐怖

 

 我我に武器を執らしめるものはいつも敵に對する恐怖である。しかも屢實在しない架空の敵に對する恐怖である。

 

[やぶちゃん注:破綻した論理をゴリ押しして安保法制を通し、憲法九条をも削除しようとする今、このアフォリズムは、

 

       信賴

 

 我我に武器を執らしめるものはいつも味方に對する信賴である。しかも屢實在しない架空の味方に對する信賴である。

 

と書き換えても好い。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  或理想主義者

 

       或理想主義者

 

 彼は彼自身の現實主義者であることに少しも疑惑を抱いたことはなかつた。しかしかう云ふ彼自身は畢竟理想化した彼自身だつた。

 

[やぶちゃん注:まず、本文中の「彼」とは芥川龍之介自身であることに異論を挟む方はあるまい。従ってこれは彼自身の自己同一性認識の齟齬を語っていると判断してよい。

 では、次は標題である。「或」はお得意の自己韜晦(及び、彼に類似したタイプの読者への敷衍を確信犯で意味するが、そこはここでは問題としない)としての接頭語であるから、「理想主義者」が問題となる。

 「理想主義者」とは「idealism」の訳語で、辞書的(ここでの龍之介の言いを限定した哲学的政治的芸術的なそれとわざわざ採る必要性は私は全く感じない)に記すなら、「現実の状況に充足したり、満足したしてそこに留まることを潔しとせず、自己(或いはそれを同じゅうする集団)の理想の実現を目指そうと不断に努力し続ける生き方」を絶対信条とする人間である。

 それに対するところの「現実主義者」は「realism」の訳語で、「理想や建前に拘ることなく、現実に柔軟自在に即応し、対象を出来得る限り望ましい方途を以って処理し、その結果として生じた結果や状況を有意には不満に思うことなく、受け入れてゆくことをよしとする生き方」をぶれのない規範信条とする人間である。

 芥川龍之介の、売文業者としての生活者、〈人〉としての立ち位置が、基本的にリアリストであることを規範とし、龍之介自身、自分がそうした「現實主義者であることに少しも疑惑を抱いたこと」が晩年になるまでは「なかつた」ことは、すこぶる納得出来る謂いと言える。しかし芥川龍之介が「現實主義者」であることと、彼の産み出した全作品が徹底した「現實主義」に貫かれた、「現實主義」こそが人生そのもの実体であることを表明するものでなければならない必要はないのである。これは我々自身、胸に手を当てて半生を顧みれば、即応に理解出来る〈事実〉である。我々はどこかで現実に折り合いをつけねば、生まれ落ちて大した時間差もなく、命を絶たれる〈事実〉を考えてみれば判る。即ち、我々は人間である以上、人間として生きる以上、核心的には「現實主義者」であることが必要条件だと言える。

 しかしそれはあまりに、等身大のちっぽけな惨めで淋しい、虫けらの如き人間存在の実相に自らを追い込んでしまうことにもなりかねない(ならないかも知れない。可能性の問題である)。さすれば、人間は多かれ少なかれ誰しもが、同時に「理想主義者」であることによって、人生を波乱万丈に生きられる〈仮想〉をすることを可能にしているとも言える(そう出来るだけでしなくともよい。同じく自己選択の問題である)。

 しかしそうなると、龍之介がそうした「理想主義者」と「現實主義者」のヤヌスであったとしても、それは彼の特異性ではなく、万民に共通する人間の属性であると言えてしまうことになる。さればここで題名が「或理想主義者」であるのに、「彼は彼自身の現實主義者であることに少しも疑惑を抱いたことはなかつた」が、「しかし」現にこう言っている「彼自身」が結局は「理想化した彼自身だつた」ということが驚くべきことに分かってしまった、と言っているのだということになり、これは、読者の後から走ってきて読者が皆分かり切っていることを鬼の首を獲ったように言上げしている、実につまらんアフォリズムということに成り下がってしまう。

 かくも「理想主義者であると同時に現實主義者」であることは可能である。但し、その場合、孰れが役者であり、孰れが役かは問わずともよい。問う必要がない、問うことそれ自体が無意味である、と言ってもよい。

 だから、龍之介がここで、大上段に振りかぶって(というより、インキ臭く)、

――私は私自身を現実主義者だと微塵も疑わずに生きて来たが、結局それは私自身が理想化し、思い込んできたところの理想的似非現実主義者だった。

と告解されても、「ふ~ん、だから、何?!」という言葉しか出ないことになる――ように見える。

 しかし、当然、それは違う。翻って考えてみよう。

 問題はこれを記している芥川龍之介が自殺を目前に控えていた事実である。

 「現實主義者」であろうが、「理想主義者」であろうが、彼らはそれを生物学的な生の間中、不断に連続させるからこそ「理想主義者」であり、「現實主義者」であり続けられる、自己同一性を保つことが出来る。さればこそ、「理想主義者」も「現實主義者」も自殺は出来ない。自殺した瞬間に、自らの人生の信条に反逆することになるからである。「理想主義者であると同時に現實主義者」であってもことは同じである。立っている場所は所詮、同じ土の上だからである。

 ところが、「理想主義者であると同時に厭世主義者」であるという人間は自らを言明した途端に、「疑惑」どころか、とんでもない嘘つきであることになる。「厭世主義者」(ここでは、物事を悲観的に考える傾向を意味する「pessimism」の訳語としてではなく、「厭世」という熟語そのものの指し示すところはショーペンハウアーばり(あくまで「ばり」である。何故なら私は若き弟子たちを自死に追い込んでおいて、自らは自死どころかコレラをさえ恐れて田舎へ引っ込んだ彼を嘘つきだと思うからである)の人生や歴史は不合理で無意味であって、その〈事実〉も〈現実〉も本質的に変えることは不可能だとする意味で私は使っている)は理想主義とは相容れないとこは言を俟たぬ。では「現實主義者であると同時に厭世主義者」はあり得るかと言えば、これもあり得ぬ。人生や歴史は不合理で無意味であって、その〈事実〉も〈現実〉も本質的に変えることは不可能であるという大前提の後に、その不合理で無意味な属性しか持たない〈現実〉に即応して出来得る限り、望ましい方途を以って処理し、その結果として生じた結果や状況を有意には不満に思うことなく受け入れていった時、それはその瞬間に「厭世主義」的自己存在と致命的な矛盾を生ずることになるからである。

 芥川龍之介は、この「或理想主義者」で、実際には、こう言いたかったのではないか?

 

 私は私自身の現實主義者であることに少しも疑惑を抱いたことはなかつた。しかしかう云ふ彼自身は畢竟理想化した彼自身だつた。さうして私は最後に厭世主義者となつた。しかしかう云ふ彼自身も又畢竟理想化した彼自身に過ぎなかつた。

 

 以前に或自警團員の言葉で私が引いた、萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」(リンク先は私の古い電子テキスト)の「9」の最後の龍之介が朔太郎に言った言葉を思い出すがよい。

 

「だが自殺しない厭世論者の言ふことなんか、皆ウソにきまつてゐるよ。」

 それから笑つて言つた。

「君も僕も、どうせニセモノの厭世論者さ。」]

「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版) 本文ミス補正完了

の本文のミス・タイプを補正完了した。既に保存されている方は、これと差し替えて下るよう、お願い申し上げる。

2016/06/13

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) ストリントベリイ(二章)

 

       ストリントベリイ

 

 彼は何でも知つてゐた。しかも彼の知つてゐたことを何でも無遠慮にさらけ出した。何でも無遠慮に、――いや、彼も亦我我のやうに多少の打算はしてゐたであらう。

 

       又

 

 ストリントベリイは「傳説」の中に死は苦痛か否かと云ふ實驗をしたことを語つてゐる。しかしかう云ふ實驗は遊戲的に出來るものではない。彼も亦「死にたいと思ひながら、しかも死ねなかつた」一人である。

 

[やぶちゃん注:前章「二つの悲劇」の注も参照のこと。芥川龍之介は「河童」の大寺院のシークエンスで、近代教の第一の聖徒として、ストリンドベリを挙げている。以下はそれを説明する長老の台詞である。

   *

 「これは我々の聖徒(せいと)の一人、――あらゆるものに反逆した聖徒ストリントベリイです。この聖徒はさんざん苦しんだ揚句、スウエデンボルグの哲學の爲に救はれたやうに言はれてゐます。が、實は救はれなかつたのです。この聖徒は唯我々のやうに生活教を信じてゐました。――と云ふよりも信じる外はなかつたのでせう。この聖徒の我々に殘した『傳説』と云ふ本を讀んで御覽なさい。この聖徒も自殺未遂者だつたことは聖徒自身告白してゐます。」

 僕はちよつと憂欝(いううつ)になり、次の龕へ目をやりました。

   *

因みに、二番目の聖徒はニーチェ、三番目が先に出した通り、トルストイである。なお、河童の国の聖人となるには自殺してはいけないという絶対原理(自殺未遂は問題なく、寧ろ、自殺願望を持ちながら死ねなかった人間、龍之介に言わせれば、似非厭世主義者の群れなのである。言い添えておくと、第四聖徒は国木田独歩、五番目がワーグナー、六番目はゴーギャンである。その後もまだ有象無象並んでいるのだが、以下は語られないのは「後のこと知りたや」である……

 時に、龍之介よ! お前(めえ)さん、江戸っ子だろ? 「彼も亦我我のやうに多少の打算はしてゐたであらう」なんて、まどろっこしい謂い方は、しなさんなぃ! 「彼も亦私のやうに多少の打算はしてゐた」で、げしょう!

 

・「傳説」(Legender)について新潮文庫の神田由美子氏の注は、ストリンドベリが『妻子と別れ』、凄まじい『貧困と孤独の中で狂気の』淵を『さまよい、地獄に堕(お)ちていた自身の姿を、主にパリの街頭を舞台として日記風に書いた自伝体小説。一八九〇年から九七年にかけて発表された』とある。芥川龍之介のストリンドベリへの熱狂的(言わせて貰おうなら多分に病的とも言える)な偏愛は、「愛讀書の印象」(大正九(一九二〇)年八月『文章倶樂部』)の中で(底本は岩波旧全集。下線は底本では傍点「ヽ」、下線太字は「」傍点)、

   *

中學を卒業してから色んな本を讀んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。それは僕の気氣質からも來てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。ところが、高等學校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。その時分の僕の心持からいふと、ミケエロアンヂエロ風な力を持つてゐない藝術はすべて瓦礫のやうに感じられた。これは當時讀んだ「ジヤンクリストフ」などの影響であつたらうと思ふ。

   *

と述べているから、二十前後に憑りつかれたものと見える。

 より詳しい叙述は、前にも注したものであるが、「あの頃の自分の事」の初出(大正八(一九一九)年一月『中央公論』。但し、これを含む第二章(第六章とともに)は何故か、翌年一月に刊行された第四作品集「影燈籠」では丸ごと削除されている)にも出ている。そこでは(以下、岩波旧全集より引く)龍之介は感服した作家としては「何よりも先ストリントベルグだつた」とし、彼には、

   *

まるで近代精神のプリズムを見るやうない心もちがした。彼の作品には人間のあらゆる心理が、あらゆる微妙な色調の變化を含んだ七色に分解されてゐた。いや、「インフエルノ」や「レゲンデン」になると、怪しげな紫外光線さへ歷々としてそこに捕へられてゐた。「令孃ジュリア」「グスタフス・アドルフス」「白鳥姫」「ダマスクスへ」――かう並べて見ただけでも、これが皆同一人の手になつたとは思はれない程、極端に懸け離れたものばかりである。[やぶちゃん注:中略。]「マイステル・オラアフ」が現れて以來、我々は世界の至る所にストリントベルグの影がさすのを見た。しかもそれは獨り人間の上ばかりじぢやない。彼は獸も書いた。鳥も書いた。魚も書いた。昆蟲も書いた。更に一步を進めては、日の光を吸つてゐる草花や風に吹かれてゐる樹木も書いた。實際彼は当時の自分にとつて、丁度魂のあるノアの箱船が蜃氣樓よりも大仕掛に空を塞いで漂つているやうな感があつた。さうしてかう云ふ以上に彼の作品を喋々するのは、僭越のやうな氣が今でもする。又喋々した所で、到底あの素ばらしい箱船が髣髴出來るものぢやあない。出來たと思つたら、それは僅に船腹の板をとめてゐる釘の一本位なものだらう(序に云ふが、ストリンドベルグの「靑い本」の中に、彼は内村鑑三氏の「余は何にして基督教徒たりしか」を讀んだと云ふ事が書いてある。はつきりは覺えてゐないが、そこには何でもあの樂天的な日本人でさへ、神を求めるのにはこれ程苦しんでゐるかとか何とか註がついてゐた。尤も彼に比べれば、樂天的なのは獨り日本人に限つた事ぢやない。)

   *

と絶賛している。「レゲンデン」が「伝説」である。さらにまた、龍之介の「齒車」の「三 夜」の冒頭にも、この小説は登場している(下線やぶちゃん。なお、本文に出る「黃」色は「齒車」の中の不吉にして狂的な主調色である)。

   *

 僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「傳説」を見つけ、二三頁づつ目を通した。それは僕の經驗と大差のないことを書いたものだつた。のみならず黃いろい表紙をしてゐた。僕は「傳説」を書棚へ戾し、今度は殆ど手當り次第に厚い本を一册引きずり出した。しかしこの本も插し畫の一枚に僕等人間と變りのない、目鼻のある齒車ばかり並べてゐた。(それは或獨逸人の集めた精神病者の畫集だつた。)僕はいつか憂欝の中に反抗的精神の起るのを感じ、やぶれかぶれになつた賭博狂(とばくきやう)のやうにいろいろの本を開いて行つた。が、なぜかどの本も必ず文章か插し畫かの中に多少の針(はり)を隱してゐた。どの本も?――僕は何度も讀み返した「マダム・ボヴァリイ」を手にとつた時さへ、畢竟僕自身も中産階級のムツシウ・ボヴァリイに外ならないのを感じた。………

   *

 さて、ここにストックホルム大学助教授であるマッツ・アーネ・カールソンMats Arne KARLSSON僕はこの暗号を不気味に思ひ 芥川龍之介『歯車』、ストリンドベリ、そして狂気“I Felt Something Ominous about This Coincidence...” Ryunosuke Akutagawa’s “Cogwheels,” Strindberg and Insanity という非常興味深日本語論文がある。そこでは主に芥川龍之介のストリンドベリ受容の中でも「伝説」に先行する自伝的小説「地獄」(Inferno  一八九七年)(なお、「地獄」という言葉はやはり「齒車」の通奏低音であり、それは可聴域を越えて作品全体を包み込んでいると言ってよい)を問題とされたものであり、この「傳説」の注としてその概要を語ることはやや憚られるものの、第「5」章で、『芥川の場合においては、彼がストリンドベリを読む場合に多少とも、そこに書かれていることをそのままストリンドベリ自身の体験と信じこみ、フィクションの主人公とその作家その人を混同していたであろうと信じる理由があります』と前置きされた上で、前の「二つの悲劇」とこの「ストリントベリイ」二章を纏めて引かれ(注記号を省略した)、

   《引用開始》

 芥川はここで明らかにストリンドベリの自叙伝的小説、すなわち『伝説』の外に『痴人の懺悔』、『女中の子』、『地獄』を引き合いに出しています。もちろんこれらの作品はある程度までストリンドベリの人生の出来事に基づいています。そしてもちろん芥川はストリンドベリの告白に打算の要素も混ざっていると注意を払っているのです。しかしそれにもかかわらず、芥川は基本的に、虚構として書かれた叙述を実際の体験というふうに読んでいるようです。例えば、ストリンドベリが「死の実験」を実際行なったかどうかは、知る由もないはずです。

  芥川自身はこういったことについてあまり気にしてはいなかったのではないかということを述べておくべきかと思います。そのことは「『私』小説論小見」に示されています。その中で芥川はつぎのように断言します。作者は結局、自分の心の中に既に存在していたことだけを表現できると。例えばもし、ある作家が私小説の主人公について自分自身は持っていない(親)孝行の美徳の性格を与えれば、道徳的にいえば、作家は嘘をついていると言うのは当たっているかもしれません。しかし、「こう言う主人公を具えた或『私』小説はまだ表現されない前に既に彼の心の中に存在していたのでありますから、彼は嘘つきどころではない」ということになります。「唯、内部にあったものを外部へ出して見せただけであります」と。この意味において芥川は私小説家にカルトブランシュ(白紙委任状)を与えたと言えるでしょう。それでも、芥川も含めて当時の読者は、ストリンドベリという作家は「冷酷な懺悔」を自分のトレードマークにしたり、自分の生活や危機を小説の材料を得るために演出したりした作家だと認めていなかったのは事実なのです。つまり彼は計画的に狂気を装うことによって自分の周囲を操ったわけです。という訳で、芥川が私小説家にカルトブランシュを与えたときに、かれはおそらくストリンドベリのような、狂気を装いそれを材料に作品を書くといったような作家を想定してはいなかったはずです。これはあくまでも、私小説と誠実さとの関係の議論に関する私の分析にすぎないのですが。いうまでもなく、何を書くかは作家のみに委ねられているのですから。

   《引用終了》

と述べておられるのだけは引いておきたい。カールソン氏は同論文で最後に、「歯車」は『ストリンドベリ風に書かれた芥川の自画像に外』ならないと断言され、龍之介がストリンドベリの諸作を一方的に自伝的なるものとして理解し読み下し、それと自己写像を照らし合わせた結果として、激しく共感し感動するという読書体験を経、それを自家薬籠中のものとして生み出したのが「齒車」であった、ストリンドベリなしに「齒車」は生まれなかった、とで断じておられる。私は非常に強く惹かれた。是非、お読みあれかし!]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 二つの悲劇

 

       二つの悲劇

 

 ストリントベリイの生涯の悲劇は「觀覽隨意」だつた悲劇である。が、トルストイの生涯の悲劇は不幸にも「觀覽隨意」ではなかつた。從つて後者は前者よりも一層悲劇的に終つたのである。

 

[やぶちゃん注:龍之介よ、君の生涯の悲劇は「觀覽隨意」と看板で謳いながら、その実、誰にも真相は分からぬという、まさに「藪の中」「だつた悲劇であ」った点に於いて「ストリントベリイ」や「トルストイの生涯の悲劇」よりも遙かに「一層悲劇的に終つた」と言えるのではないか? それこそが君が仕掛けた「三つ」め「の悲劇」だったというわけか……

 

・「ストリントベリイ」スウェーデンの作家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg 一八四九年~一九一二年)。ウィキ「ストリンドベリ」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『ストックホルムに生まれる。ウプサラ大学に入り自然科学を修めたが、中途で退学し』、『一八七四年に王立図書館助手となり、その間』、『一八七〇年に王立劇場へ』「ローマにて」(I Rom)という『一幕物を提出して採用され上演。一八七二年に史劇』「メステル・ウーロフ師」(Mäster Olof)を『発表したが』、『それは認められず、憤懣のはけ口として一八七九年に諷刺小説』「赤い部屋」(Röda rummet)を『発表して名声を得た。一八七七年に男爵夫人であったシリ・フォン・エッセン(Siri von Essen)と結婚する。史劇、童話劇、ロマン的史劇等を発表』、後の『一八八三年にフランスに行き、一八八五年に社会主義的傾向の短篇集』「スイス小説集」(Utopier i verkligheten)及び「結婚」(Giftas 一八八四年~一八八五年)を『書き、後者は一八八四年に宗教を冒涜するものとして告訴され、フランスから国外退去を命ぜられた』。『自伝的小説』「女中の子」(Tjänstekvinnans son 一八八六年)、「ある魂の成長」(En själs utvecklingshistoria  一八八六年)、「痴人の告白」(Die Beichte eines Thoren 一八九三年)を発表、『この最後のものはフランス語で書かれ、ドイツ語ではじめて発表された。のちゲーオア・ブランデスとニーチェの影響のもとに精神的貴族主義に転じ、小説』「チャンダラ」(Tschandala 一八八九年)、「大海のほとり」(I hafsbandet 一八九〇年)を書いた。『一八九一年に離婚し、一八九三年』、『オーストリアの女流作家フリーダ・ウール(Frida Uhl)と結婚したが』、『二年後に不幸な結果に終った。一八九四年』、『パリに移り、自然科学、特に錬金術に没頭する。またスヴェーデンボリ』(Emanuel Swedenborg  エマヌエル・スヴェーデンボリ 一六八八年~一七七二年:先行する神祕主義の私の注を参照されたい)『の影響をうけて神秘主義に接近し、不幸な結婚生活を回顧して自伝的小説』「地獄」(Inferno  一八九七年)、「伝説」(Legender 一八九八年)を書き、また、戯曲「ダマスクスヘ」(Till Damaskus  一八九八年~一九〇四年)によって『自然主義から離れた』。『一八九九年からストックホルムに定住』「グスタフ・ヴァーサ」(Gustaf Vasa 一八九九年)をはじめとした『多くのスウェーデン史劇、ルターを主人公とした』「ヴィッテンベルクの夜鶯」(Näktergalen i Wittenberg 一九〇三年)を『書いた。一九〇一年に女優ボッセ(Harriet Bosse)と結婚したが』、一九〇四年に離婚、長篇小説「ゴシックの部屋」(Götiska rummen 一九〇四年)、「黒い旗」(Svarta fanor 一九〇七年)は、この頃の『混乱した精神から生れた。一九〇七年に〈親和劇場〉を設立』、その劇場のために「室内劇」(Kammarspel)を書いたが、経営困難のため、三年後に閉鎖、晩年の随筆集「青書」(En blå bok  一九〇七年~一九一二年)には、『ふたたび社会主義的な関心が示されている』。彼は『オカルト研究でも知られ』、『金の製造の研究をしていた。若い頃から科学ファンであったし』、「アンチバルバルス」(Antibarbarus 一八九四年)を『書いた時は大科学者としての名声を期待したが』、結局、「詐欺師」「馬鹿」呼ばわりされた、とある。ここで芥川龍之介が、彼『の生涯の悲劇は「觀覽隨意」だつた悲劇』とは(「觀覽隨意」は「くわんらんずいい(かんらんずいい)」でご覧はお好み次第、何でもかんでもお客さまの見放題、赤裸々に晒しましょうぞ! の意)、彼の作品群が常に狂気と紙一重(彼は病跡学的に統合失調症の罹患がほぼ確定的である)で、強烈な女性嫌悪の表明や、あらゆる対象への反逆と呪詛に満ちている点で、ストリンドベリ自身の人生をかなり明確に作品がトレースし、美事に体現していることから、まさに彼の作品を読むことがイコール、ストリンドベリ自身の悲劇的人生を自由に観賞することに他ならないことを述べていると考えてよいであろう。次の「ストリントベリイ」二章もそれに基づくと読める。なお、以前に述べたが、私もストリンドベリがすこぶる好きである。少なくとも、彼の戯曲は一般の方々よりは狂的に偏愛している。

・『トルストイの生涯の悲劇は不幸にも「觀覽隨意」ではなかつた』前のトルストイ」の私の不全注を参照されたい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  トルストイ

 

       トルストイ 

 

 ビユルコフのトルストイ傳を讀めば、トルストイの「わが懺悔」や「わが宗教」の譃だつたことは明らかである。しかしこの譃を話しつづけたトルストイの心ほど傷ましいものはない。彼の譃は餘人の眞實よりもはるかに紅血を滴らしてゐる。

 

[やぶちゃん注:底本の後記によれば、底本の岩波旧全集の後記によれば、この「トルストイ」という題名は初出の『文藝春秋』には、ない、とし、普及版全集の「月報」第三号の「第六卷編纂・校正覺書」に『「「侏儒の言葉」』『にトルストイといふ項があります。これは原稿ではトルストイといふ題だけが、作者によつて抹殺されて居ります。そして他の題を附けようとして附け忘れられたままであるのか、それとも他の理由からか、抹殺されたままでありますが、無題にするよりもと思ひ、消された題を便宜上再び附けて置いた次第であります」とある。』と記す。抹消を再現しておく。

 芥川龍之介は小説・随想その他で数多く、レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой:ラテン文字転写:Lev Nikolayevich Tolstoy 一八二八年~一九一〇年)に言及しており、彼にとってトルストイは非常に大きな存在であったと考えてよい。但し、それは未だ研究者の間でも語られているとは言えないように思われる。このアフォリズムに近い感懐を述べたものとしては、「河童」(昭和二(一九二七)年三月)の河童の国の大寺院でトルストイが第三の聖人として祀られていることを説明する長老の台詞であろう。

   *

 「三番目にあるのはトルストイです。この聖徒は誰(たれ)よりも苦行をしました。それは元來貴族だつた爲に好奇心の多い公衆に苦しみを見せることを嫌つたからです。この聖徒は事實上信ぜられない基督(キリスト)を信じようと努力しました。いや、信じてゐるやうにさへ公言したこともあつたのです。しかしとうとう晩年には悲壯な譃つきだつたことに堪へられないやうになりました。この聖徒も時々書齋の梁(はり)に恐怖を感じたのは有名です。けれども聖徒の數にははひつてゐる位(くらゐ)ですから、勿論自殺したのではありません。」

   *

また「齒車」(死後の昭和二(一九二七)年十月に全篇公開)の「二 復讐」の前半部も妙に印象的である。

   *

……――僕は努めて妄想を押しのけ、もう一度ペンを動かさうとした。が、ペンはどうしても一行とは樂に動かなかつた。僕はとうとう机の前を離れ、ベツドの上に轉がつたまま、トルストイの  Polikouchka を讀みはじめた。この小説の主人公は虛榮心や病的傾向や名譽心の入り交(まじ)つた、複雜な性格の持ち主だつた。しかも彼の一生の悲喜劇は多少の修正(しうせい)を加へさへすれば、僕の一生のカリカテュアだつた。殊に彼の悲喜劇の中(うち)に運命の冷笑を感じるのは次第に僕を無氣味にし出した。僕は一時間とたたないうちにベツドの上から飛び起きるが早いか、窓かけの垂れた部屋の隅へ力一ぱい本を抛りつけた。

 「くたばつてしまへ!」

 すると大きい鼠が一匹窓かけの下からバスの部屋へ斜めに床(ゆか)の上を走つて行つた。僕は一足(そく)飛びにバスの部屋へ行き、戸をあけて中(なか)を探しまはつた。が、白いタツブのかげにも鼠らしいものは見えなかつた。僕は急に無氣味になり、慌ててスリツパアを靴に換へると、人氣のない廊下を歩いて行つた。

   *

 トルストイの生涯については、ウィキの「レフ・トルストイ」などを参照されたい。家族との対立や妻との永年に及ぶ不和、複数回に及ぶ家出とその末の肺炎による野垂れ死になど、龍之介の言わんとする「譃」はそれなりに透けて見えてくるはずである。龍之介が「譃」と指弾するのは、トルストイがその小説や評論で宣明している人間とキリスト教の理想的合一が、彼自身の実人生とあまりにも乖離していることに由来するものであろうとは思う。しかし実は、私は個人的にこの龍之介の言う〈トルストイの噓〉について語るのは、どうも生理的に抵抗があるのである。私は幼少の頃から「イワンのばか」(Сказка об Иване-дураке и его двух братьях  一八八五年)を愛読し、中学一年の時に「復活」(Воскресение  一八八九~一八九九年)に感動し、机の前に彼の肖像写真を張っていたほどに好きだったからである。たまには、こうした拒否も許されたい。

 

・「ビユルコフのトルストイ傳」ロシアの海軍将校で文学者でトルストイの崇拝者でもあったパーヴェル・イヴァノヴィッチ・ビュルコフ(Павел Иванович Бирюков:ラテン文字転写:Pavel Ivanovich 一八六〇年~一九三一年:新潮文庫の神田由美子氏の注によれば『大衆文学の分野で活躍し、トルストイ創設の雑誌『仲裁者』の経営に従事』したとある)が、一九〇五年(ロシア語の彼のウィキによる。神田氏は一九〇四年十月とする)に出したトルストイの伝記「トルストイ伝」(иография Л. Н. Толстого)のこと。

・「わが懺悔」(Исповедь)は一八七八年から一八八二年にかけて書かれたもの。神田氏注によれば、『五十歳前後からの宗教的煩悶(はんもん)を経て得た悪に対する無抵抗主義と、善と愛による世界の救済を説いている』とある。

・「わが宗教」神田氏注によれば、『既成宗教を批判し、人格を自己完成による人間の救済を信条とするトルストイの宗教観を述べたもの。一八八五年作』とある。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「新生」讀後

 

       「新生」讀後

 

 果して「新生」はあつたであらうか?

 

[やぶちゃん注:「新生」大正七(一九一八)年五月から翌年十月にかけて『東京朝日新聞』に連載し、大正八(一九一九)年に分冊刊行された島崎藤村(明治五(一八七二)年~昭和一八(一九四三)年:芥川龍之介より二十歳年上)の、実際に自身の姪(次兄広助の次女)島崎こま子(明治二六(一八九三)年~昭和五三(一九七八)年:龍之介より一つ年下に当たる)との実際の恋愛スキャンダルに基づく自伝的小説。最も細かな注を附しておられる、新潮文庫の神田由美子氏の注を引くと、『妻に死なれ』、『四人の子をかかた中年男岸本と、家事手伝いに来ていた姪(めい)節子との不倫な恋愛』(姪と叔父の近親姦を言ったもの。現行民法でも三等親であるから許されない)『を赤裸々に告白し、罪からの〈新生〉を描いた作品。姪とのくされ縁と兄である姪の父への経済的援助から自由になろうとする功利的目的と、姪の運命への配慮がほとんど見られない藤村のエゴイズムに対し、芥川は「或阿呆(あるあほう)の一生」で「老獪(ろうかい)な偽善者という批判を下した』(後に掲げる)とある。

 ウィキの「島崎こま子」に、このモデルたる彼女の子細な事蹟が載るので、以下に引用しておく。

 『結婚後の氏名は長谷川こま子』で、『長野県吾妻村の高等小学校』四年を終えて後に上京し、『三輪田高等女学校の』三年に『編入、根岸の親類(藤村の長兄の家族)の家から通っていた。卒業後に妻を亡くした藤村の家に住み込んだ。最初は姉ひさと一緒だったが、姉は結婚して家を出た』。十九歳の一九一二年(この年は七月三十日を以って明治四十五年から大正元年となった)の『半ば、藤村と関係を結び、藤村との子を妊娠する』。藤村は大正二(一九一三)年四月にパリに留学してしまい、同年八月に『藤村との子を出産するも養子に出された。この養子は』後の大正一二(一九二三)年九月の『関東大震災で行方不明とな』ってしまう。藤村は大正五(一九一六)年に帰国するが、こま子との関係が再燃した。その時にこま子が読んだ歌が「二人していとも靜かに燃え居れば世のものみなはなべて眼を過ぐ」として残る。その後、藤村は「新生」『を発表し、この関係を清算しようとした』。大正七(一九一八)年七月、『こま子は家族会の決定により、台湾の伯父秀雄(藤村の長兄)のもとに身を寄せることになった。それ以来、藤村とは疎遠とな』った。藤村はその十九年後の昭和一二(一九三七)年に『「こま子とは二十年前東と西に別れ、私は新生の途を歩いて来ました。当時の二人の関係は『新生』に書いていることでつきていますから今更何も申し上げられません、それ以来二人の関係はふっつりと切れ途は全く断たれてゐたのです。」『とコメントしている』。『一方、こま子は後の手記で「(小説「新生」は)殆んど真実を記述している。けれども叔父に都合の悪い場所は可及的に抹殺されている」と述べている』とある。大正八(一九一九)年十二月、『こま子は秀雄とともに帰京し、自由学園の羽仁もと子(西丸哲三とも)宅に賄婦として住み込んだ』。『その後、こま子はキリスト教に入信。その縁で京都大学の社会研究会の賄婦となり、無産運動に参加する。河上肇門弟の学生だった長谷川博と』三十五歳で『結婚して、長谷川こま子となる。しかし、夫の博は』昭和三(一九二八)年に三・一五事件で検挙・投獄されてしまうが、『こま子は解放運動犠牲者救援会(現在の日本国民救援会)を通じて救援活動に奔走した』。昭和四(一九二九)年に『夫が尊敬していた山本宣治が右翼に暗殺された』際には、『こま子は宣治の葬儀に参列している。夫が出獄後』、昭和八(一九三三)年に『娘の紅子(こうこ)をもうけるが』、その後、長谷川とは離婚している。『上京して運動を続けるが、警察に追われ、また赤貧のため子どもを抱えたまま肋膜炎を患い、東京都板橋区の養育院に』昭和一二(一九三七)年三月に『収容された。このことは、同月』六日及び七日附『東京日日新聞』記事で――『島崎藤村の「新生」のモデルの』二十年後――『として報じられた。また林芙美子も、同月』七日には『婦人公論』記者として『インタビューをしている。林は皮肉を込めて「センエツながら、日本ペン倶楽部の会長さん(注:島崎藤村)は、『償ひ』をして、どうぞこま子さんを幸福にしてあげて下さい」という趣旨の記事を書いた。この記事を受けてのことか分からないが、藤村は、当時の妻静子に』五十円を『持たせて病院を訪問させている(当時、銭湯の料金が』六銭。郵便料金は葉書Ⅱ銭、封書四銭。米六十キログラム(一俵)が約十三円の時代であった)。『静子はこま子に会うことなく、守衛室に金を預けて帰った。藤村は息子に「今頃になって、古疵に触られるのも嫌なものだが、よほど俺に困ってもらわなくちゃならないものかねえ」とぼやいた』。この後、『こま子は「悲劇の自伝」を』『中央公論』五月~六月号に発表しているとある。『戦後は、妻籠(当時は長野県西筑摩郡吾妻村。現・木曽郡南木曽町)に住んだこま子は「いつも和服で、言葉が美しく、静かな気品」があったと報じられている。作家の松田解子は「ひそやかさの中にまっとうさと輝かしさのある人でした」、「人間の幸せとは、美しいものを美しいといえる、嬉しいことを嬉しいといえることでしょうねぇ」とこま子が語っていたと述べている』。こま子は妻籠に二十年、その後、東京で二十二年を過ごし、八十五歳で病没した、とある。

 神田氏の挙げる、龍之介の遺稿「或阿呆の一生」のそれは、第四十六章の「譃」で、以下の通り。

   *

 

       四十六 譃

 

 彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の將來は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の惡德や弱點は一つ殘らず彼にはわかつてゐた。)不相變いろいろの本を讀みつづけた。しかしルツソオの懺悔錄さへ英雄的な譃に充ち滿ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な僞善者に出會つたことはなかつた。が、フランソア・ヴィヨンだけは彼の心にしみ透つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡(をす)」を發見した。

 絞罪を待つてゐるヴィヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴィヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉體的エネルギイはかう云ふことを許す譯はなかつた。彼はだんだん衰へて行つた。丁度昔スウイフトの見た、木末(こずゑ)から枯れて來る立ち木のやうに。………

 

   *

 なお、私は幸い――というか――忌まわしくも――島崎藤村の「芥川龍之介君のこと(昭和二(一九二七)年十一月発行の雑誌『文藝春秋』」に掲載)の全文を十八年も前にブログで電子化している(リンク先はそれ)。そこで藤村は前に掲げた遺稿「或阿呆の一生」の部分を引き、次のように述べている。

   *

 一體にあの遺稿は心象のみを記すにとゞめたやうなもので、その他を省いたやうな書き振りであるが、こゝに引いた『新生』とは私の『新生』であるらしく思はれる。私はこれを讀んで、あの作の主人公がそんな風に芥川君の眼に映つたかと思つた。

 知己は逢ひがたい。『ある阿呆の一生』を讀んで私の胸に殘ることは、私があの『新生』で書かうとしたことも、その自分の意圖も、おそらく芥川君には讀んで貰へなかつたらうといふことである。私の『新生』は最早十年の前の作ではあるが、芥川君ほどの同時代の作者の眼にも無用の著作としか映らなかつたであらうかと思ふ。しかし私がここで何を言つて見たところで、芥川君は最早答へることのない人だ。唯私としてはこんなさみしい心持を書きつけて見るにとゞまる。でも、あゝいふ遺稿の中の言葉が氣に掛つて、もつと芥川君をよく知らうと思ふやうになつた。そして『ある阿呆の一生』ばかりでなく、『侏儒の言葉』なども讀み返して見る氣になつた。

   *

この間に「侏儒の言葉」の藤村なりの読み方が示される(それはそれでまあ、面白くはある)。そして末尾に再び、龍之介の「新生」批判を取り上げ、

   *

 『果して「新生」はあつたであらうか。』

 斯う芥川君は『侏儒の言葉』の中で『新生』の主人公に、つゞいては作者としての私に問ひかけてゐる。芥川君は懺悔とか告白とかに重きを於いてあの『新生』を讀んだやうであるが、私としては懺悔といふことにそれほど重きを置いてあの作を書いたのではない。人間生活の眞實がいくらも私達の言葉で盡せるものでもなく又書きあらはせるものでもないことに心を潛めた上での人で、猶且つ私の書いたものが譃だと言はれるならば、私は進んでどんな非難に當りもしようが、もともと私は自分を僞るほどの餘裕があつてあゝいふ作を書いたものでもない。当時私は心に激することがあつてあゝいふ作を書いたものの、私達の時代に濃いデカダンスをめがけて鶴嘴を打込んで見るつもりであつた。荒れすさんだ自分等の心を掘り起して見たら生きながらの地獄から、そのまゝ、あんな世界に活き返る日も來たと言って見たいつもりであつた。あれを芥川君に讀み返して貰へる日の二度と來ないことを思ふとさみしい。

 それは兎もあれ、芥川君の惱んだ懷疑は私達と同じ時代の人の懷疑だ。その苦悶も私達と同じ時代の人の苦悶だ。あれほどの惱みを惱んで行つた人に對して、私達は哀惜のこゝろを寄せずにはゐられない。

   *

 私はこのアフォリズムを吐いた芥川龍之介に全面的に賛同する。私は大学一年の頃、「藤村詩集」を愛読し、「破戒」「春」「家」「桜の実の熟する時」と立て続けに読んで共感し、「千曲川のスケッチ」に打たれた。しかし、「新生」を読むに及んで激しく彼に嫌悪を感じ、その後は「夜明け前」も中途で投げ、多分、「嵐」を読んだのを最後に、彼の作品は二十代以降、全く読んでいない。それはまた、好きな芥川龍之介の最後の嫌悪に強く共鳴したためでもある。これ以上、注をすると、私は卒中を起こしそうなのでやめることとする。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 懺悔(二章)

 

       懺悔

 

 古人は神の前に懺悔した。今人は社會の前に懺悔してゐる。すると阿呆や惡黨を除けば、何びとも何かに懺悔せずには娑婆苦に堪へることは出來ないのかも知れない。

 

       又

 

 しかしどちらの懺悔にしても、どの位信用出來るかと云ふことはおのづから又別問題である。

 

[やぶちゃん注:ここまで私と「侏儒の言葉」世界を探検してくると、流石に、このアフォリズムも一般論の字背に毒槍が潜ませてあることに既にお気づきになられるであろう。「阿呆や惡黨を除けば」と龍之介は言っている。彼の遺稿は「或阿呆の一生」である。彼は即ち、例外の「阿呆」なのである。だから龍之介は「古人」ではないし、信じてもいないから「神の前に懺悔し」ないし、「今人は社會の前に懺悔してゐる」が、私はその例外の「阿呆」だから「懺悔」などしない。尋常な人間という生き物は「何びとも何かに懺悔せずには娑婆苦に堪へることは出來ないのかも知れない」が、私は生憎、そうではない。第一からして、古人の神への懺悔にしても、現代人の社会への法律的・道義的。ヒューマニスティクな「懺悔にしても、どの位信用出來るかと云ふことはおのづから又別問題であ」り、実際には信用など出来ぬシロモノと考える方が無難である、と龍之介は言っているのである。即ち、これは、恰も自死の後に遺稿として公開されている懺悔風の言葉の鏤められた当のこの「侏儒の言葉」のあらかたも、また私の懺悔を含んだ遺書めいた或舊友へ送る手記も、はたまたかの謎めいた懺悔のような私の自伝風アフォリズム集である遺稿「或阿呆の一生」なんぞも、これ、皆、信ずるに足らぬものだ、と芥川龍之介は言っていることに気づかねばならぬのである(龍之介の遺書はどうなるかって? 遺書を御覧な。彼は基本、それらを読後に焼却するように厳命している。以上のリンク先は総て私の電子テクストである)。

・「懺悔」ここは無論、「ざんげ」でよいが、この語はもともと仏教用語で、梵語の「ksama」クサマの漢字音写が「懺」でそれが「懺摩」となり、「悔」はその漢語意訳として付随したもの。本来は濁らない「さんげ」が正しく、江戸中頃までは実際に「さんげ」と清音で読んでいたし、仏教用語としては現在でも「さんげ」である。「慚愧懺悔(ざんぎさんげ:「慚」は自己に対して恥じること、「愧」は外に向かってその気持ちを示すこととされた。「慚」は「慙」と同字)」という熟語で用いることが多かったことから前の「ざんぎ」の濁音に引かれて影響で江戸中期以降に「ざんげ」となったのではないかともいわれている。自分の犯した罪悪を自覚し、それを神仏や他者に告白することで、悔い改めることを誓うことをいう。

・「娑婆苦」「しやばく(しゃばく)」。仏教的な因果応報理論を感じさせる言い回しとして、この世(仏教的には現世(げんせ))で生きてゆく上で受けなければならない(仏教的には前世の業(ごう)に因る報い)あらゆる苦しみを指す。これは芥川龍之介の好んで用いた語であるが、私は龍之介の造語のように感じる。その証拠になるかどうか、小学館「日本国語大辞典」を引くと、その例文はまさにこの「侏儒の言葉」の一文がまるまる引かれてあるのである。因みに「娑婆」は梵語の「sahā」で漢訳では「堪忍」「忍土」「忍界」となどと訳し、仏教用語として他の諸仏が教化(きょうげ)する仏国土(ぶっこくど:浄土のこと)に対して、釈迦が教化する穢れたこの世界を指し、そこから、広義に「人間の世界・この世・俗世間」、更には「軍隊・刑務所・遊郭といった自由が束縛されている環境空間に対して、その外の、束縛のない自由な世界をも指す語となった。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 處世的才能

 

       處世的才能

 

 何と言つても「憎惡する」ことは處世的才能の一つである。

 

[やぶちゃん注:何故に、そうなのか? まず、ここで言う「憎惡」には自己に対する嫌悪を含まないことを条件とするであろう。でなくては「處世」、社会での生き様の必須アイテムたりえないからである。真の自己嫌悪は自己抹殺以外に法はないからである。さらに「憎惡」の反対の「偏愛」を考えてみるがよい。ひたすらに愛する者は必ず裏切られるのである。さすれば、「偏愛」は「憎惡」によって贖われると言える。とすれば、愛したが故に裏切られた末にやっとこ「憎惡」に至るという迂路を通ることは人生にとっては無駄足となる。さればこそ上手く巧妙に世渡りをしてゆくためには常に他者を「憎惡する」に若くはなく、「何と言つても」何事にも自己以外の外的対象を悉く内心では『「憎惡する」こと』こそが最も有効な「處世的才能の一つ」なの「である」。言っておくが、私は芥川龍之介の言説を解釈したに過ぎない。私がそうだと思っているわけではない。念のため。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 阿呆

 

       阿呆

 

 阿呆はいつも彼以外の人人を悉く阿呆と考へてゐる。

 

[やぶちゃん注:「阿呆」「あほう」。これはありきたりな一般論を述べているのでは、ない。この遺稿とともに公開されることが分かっている同じく遺稿の「或阿呆の一生」(リンク先は私の電子テクスト)のための〈強毒の棘を持った仕掛け〉であることに気づかねばならぬ、]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或物質主義者の信條

 

       或物質主義者の信條

 

 「わたしは神を信じてゐない。しかし神經を信じてゐる。」

 

[やぶちゃん注:これは後出る、複数の「私」の中の知られた一章、

   *

       わたし

 わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神經ばかりである。

   *

を想起させるものの、どうもしっくりこない。確かに、芥川龍之介は同時期の執筆になる「齒車」の中でかく語ってはいる。

   *

……先生、A先生、――それは僕にはこの頃では最も不快な言葉だつた。僕はあらゆる罪惡を犯してゐることを信じてゐた。しかも彼等(ら)は何かの機會に僕を先生と呼びつづけてゐた。僕はそこに僕を嘲る何ものかを感じずにはゐられなかつた。何ものかを?――しかし僕の物質主義は神祕主義を拒絶せずにはゐられなかつた。僕はつひ二三箇月前にも或小さい同人雜誌にかう云ふ言葉を發表してゐた。――「僕は藝術的良心を始め、どう云ふ良心も持つてゐない。僕の持つてゐるのは神經だけである。」………

   *

 

問題は「僕の物質主義」という謂いである。そもそもこれは唯物主義と同義では、実はない。辞書を引いても、「物質・金銭の充足を第一として、精神面を軽視する考え方」とある。しかし、我々は芥川龍之介の作品群や彼の人生にそのような決定的属性を見出だし得るであろうか? 私は「ノー」と鮮やかに答える。そうして、芥川龍之介は遂に「神を信じ」ることはなかったが、しかし、では、この「わたし」のアフォリズムと直流に繋げ、芥川龍之介は冷徹無比な「物質主義者」であったかと言われると、私は首を傾げざるを得ないからである。物質主義者は確かに十分条件としては「良心」を持たないという十分条件の属性があると規定することは肯んじよう。だが、物質主義者に対して――あなた「は良心を持つてゐない。」あなた「の持つてゐるのは神經ばかりである。」――であると断じた時、どれだけの「物質主義者」がそれにイエスと答えるかを考えてみるならば、私の疑問は納得戴けるものと思うのである。私はこの二つのアフォリズムは酷似しなからも、全然別なことを表明しているように思えてならないのである。正直、「齒車」の「僕の物質主義」なる表現は一種自己韜晦のポーズ、或いは「僕」にのみ理解される孤独で特異な「物質主義」なるものが、龍之介のなかにあったのではないかと強く感じるのである。だからこそこのアフォリズムでも標題を「物質主義者の信條」と限定したのではなかったか? 但し、現時点では、これ以上、その問題を掘り下げるだけの中身を、貧しく疲弊した私は持ち合わせていないようにも感じている。また、何かが私の挫滅した脳に閃くことのあれば、追記したいとは思っている。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 言葉

 

       言葉

 

 あらゆる言葉は錢のやうに必ず兩面を具へてゐる。例へば「敏感な」と云ふ言葉の一面は畢竟「臆病な」と云ふことに過ぎない。

 

[やぶちゃん注:このアフォリズムは、私は、表裏のあるものとして「錢」(ぜに)、コインを挙げていることに着目する。確かに、それは別段、突飛ではない。分かり易い喩えではある。しかし、コインの裏表とは「賭け」である(芥川龍之介は花札やトランプの賭け事が好きだった)。龍之介にとって小説を書くことは、この謂いを穿って読むなら、「言葉による賭けごとをすること」と同義であったと言ってよいように思われる。そうしてその「賭け」とは、実はここで例として挙げているかのように見える、表面上の鋭利にして対象を切り裂く冷徹にして「敏感な」感性の裏に、人に知られたくない、彼自身の恐ろしくびくついた「臆病な」心が潜んでいたことを意味するのではあるまいか? それはまさに、後に中島敦が山月記」(リンク先は私の電子テクスト。教師時代授業ノートも電子化してある)の中で李徴に告白させた「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」に他ならぬ心性だったのではあるまいか? さらに言えば、芥川龍之介が金銭に対して、強い執着を持っていたことも指摘しておきたい(これは必ずしもよく知られていることとは思われない)。我々は龍之介と金というと、決まって遺稿の「或阿呆の一生」の、

   *

       二十 械(かせ)

 彼等夫妻は彼の養父母と一つ家(いへ)に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた爲だつた。彼は黃いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後(あと)になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。

   *

を想起される方が多いであろう。ところが、実際には中国特派の際の龍之介の新聞社への要望(書簡)などを読むと、表現は慇懃乍ら、その実相当に巧妙な計算高さで金銭の要望を出していることが分かる。この「或阿呆の一生」の一条も、事実とは相当に異なるものとして唾をつけて読む必要はあると言える。但し、彼が養父母及び血族親族のために、孤軍奮闘しなければならなかったことも事実ではある。河童」(リンク先は私の電子テクスト)の「五」に出る知られた、『トツクは或時窓の外を指さし、「見給へ。あの莫迦げさ加減を!」と吐き出すやうに言ひました。窓の外の往來にはまだ年の若い河童が一匹、兩親らしい河童を始め、七八匹の雌雄の河童を頸のまはりへぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いてゐました。しかし僕は年の若い河童の犧牲的精神に感心しましたから、反つてその健氣(けなげ)さを褒め立てました』というシーンの中の「息も絶え絶え」の「若い河童」の姿は、芥川龍之介自身のカリカチャアであることは言を俟たぬ。私が言いたいのは、彼の「賭博好き」と「金銭への執着」という部分である。程度の差こそあれ、これはまさに彼の愛したドストエフスキーの病的なそれを想起させはしまいか? 私は――芥川龍之介と賭博と金――という部分にこそ、一つの新たな龍之介研究(多分に病跡学的な)の地平が開けるように思っているのである。但し、龍之介の名誉のために言っておくと、龍之介は金に執着はしたが、金に汚くはなかった。寧ろ、そうした守銭奴的連中には強い嫌悪感を持っていた。だからこそ、かの龍之介が相当な自信を以って編集した「近代日本文芸読本」(全五集・興文社・大正一四(一九二五)年一挙刊行)が種々の事情から、売り上げが上がらず、『芥川の手元に入った印税は微々たるもので、それも編集の手伝いをした蒲原春夫に渡してなくなってしま』(引用は二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新事典」の「『近代日本文芸読本』事件」の関口安義氏の解説)ったにもかかわらず、その後、芥川はこの出版で儲けて書斎を建てた、貧乏作家の作品を集めて一人で儲けた、という噂が文壇に広がり、間の悪いことに、第五集に収録された「感傷的な事」という徳田秋声の作品の使用許諾依頼が、当の徳田に届いていなかったため、徳田が発行元である興文社に抗議をするという事態に発展、芥川は文壇仲間と考えていた徳田の激しい抗議に狼狽し、結果として同読本所収の全百十九名(所収作品の総数は百四十八編であるが、複数作を掲載する作家が含まれている)の作家(若しくは遺族)に『薄謝』を以って謝罪するという後処理に追われることとなった(これに纏わる三木露風宛書簡や徳田秋声宛謝罪書簡は平成になってから新たに発見されている)。芥川は『そのために興文社から借金までして』いたとあり、これは芥川の自死に至る神経症的症状を増悪させた外的な大きな一因として挙げられる出来事でもあったのである。これは龍之介と金を廻る、犯人はこれといって名指せない最も不幸な事件であった。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 小説家

 

       小説家

 

 最も善い小説家は「世故に通じた詩人」である。

 

[やぶちゃん注:このアフォリズムは、萩原朔太郎が断じた、

 

芥川龍之介――彼は詩を熱情してゐる小説家である。

 

という言葉を直ちに想起させる。朔太郎が遂にこの見解に到達し、それに芥川龍之介が渾身の怒りを以って臨んだシークエンスは、萩原朔太郎の「芥川龍之介死」の、特にその第七章から第十二章に詳しい。未読の方は、必読である。序でに、私の最も忘れ難い、朔太郎と龍之介の最後の別れの続く第十三章も忘れずにお読みあれかし(リンク先は私の古い電子テクストである)。

 

・「世故」「せこ」(「せいこ」とも読むが、私は採らない)とは、世の中の習慣や実情、世間の種々の俗事のこと。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 彼の幸福

 

       彼の幸福

 

 彼の幸福は彼自身の教養のないことに存してゐる。同時に又彼の不幸も、――ああ、何と云ふ退屈さ加減!

 

[やぶちゃん注:これはごく当たり前の捻りのないつまらぬアフォリズムに見える。実際、洋の東西を問わず、どこかの自称哲人・思想家が宣うていておかしくない見かけ上、陳腐な箴言である。ところが一つ気がつくことがある。この末尾に配された、特異点の龍之介の肉声の嘆息「――ああ、何と云ふ退屈さ加減!」である。これはもうお分かりの通り、先の「結婚」の二章目で、

   *

 彼は二十代に結婚した後、一度も戀愛關係に陷らなかつた。何と言ふ俗惡さ加減!

   *

と、酷似した形で既出しているのである。そこで考える。本章は「教養のない」「彼」とは芥川龍之介以外の誰彼(「過半の大衆」と言い換えてもよいと思う。これは大いに大衆に遠慮して、である)である。とすれば、我々は「結婚」のようにこの「彼」を芥川龍之介に読み換えることで、このアフォリズムを次のように容易に書き換えることが出来る。

   《言換版開始》

 

       彼の幸福

 

 彼の幸福は彼自身の教養の頗る富んでゐることに存してゐる。同時に又彼の不幸も、――ああ、何と云ふ退屈さ加減!

 

   《言換版終了》

芥川龍之介がここで本当に言いたかったのは、衆愚の幸福/不幸の真の属性などではなかった。彼自身の智故(ゆえ)の地獄のような孤高であり続けることの幸福めいた地獄と、不幸にして幸福なな愚衆らと、遂に繋がることのない不幸なる孤独地獄の醜状をこそ述べたかったのではあるまいか?]

散步詩集 (全)   立原道造

[やぶちゃん注:一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)の「未刊詩集」の「散歩詩集」に拠り、恣意的に正字化した。底本の杉浦氏の解説によれば、原本は手書きで昭和七(一九三二)年から翌年の、第一高等学校時代(満十七から十九歳)にかけて詠まれた詩篇で、『発行所人魚書房と記して、友人に贈ったもの』とある。「魚の話」と「食後」の冒頭は、洋書によく見られる書き出しの印字法で、実際には第一行と第二行の頭に大きな活字のそれが配されてある。ブログでは仕方なく、かく、した。散文詩部の一行字数は底本のママ。ブログで読まれる方は、ブラウザのフォントの大きさを「中」にされて読まれたい。]

 

 

散步詩集

 

 

   魚の話

 

る魚はよいことをしたのでその天使がひとつの

  願をかなへさせて貰ふやうに神樣と約束してゐ

たのである。

かはいさうに! その天使はずゐぶんのんきだつた。

魚が死ぬまでそのことを忘れてゐたのである。魚は

最後の望に光を食べたいと思つた、ずつと海の底に

ばかり生れてから住んでゐたし光といふ言葉だけ沈

んだ帆前船や錨★からきいてそれをひどく欲しがつ

てゐたから。が、それは果されなかつたのである。

天使は見た、魚が倒れて水の面の方へゆるゆると、

のぼりはじめるのを。彼はあわてた。早速神樣に自

分の過ちをお詫びした。すると神樣はその魚を星に

變へて下さつたのである。魚は海のなかに一すぢの

光をひいた、そのおかげでしなやかな海藻やいつも

眠つてゐる岩が見えた。他の大勢の魚たちはその光

について後を追はうとしたのである。

やがてその魚の星は空に入り空の遙かへ沈んで行つ

た。

 

[やぶちゃん注:「散步詩集」の第一篇。八行目の「錨」の直下の★の位置には所謂、「錨」のマーク(現在の地図記号の「地方港」の頭の丸い部分を除去したもの)が入る。ブログでは当該位置に上手く挿入出来ないので。底本からスキャンしたものを以下に示す。

Ikari_7

悪しからず。]

 

 

 

  村の話 朝・晝・夕

 

村の入口で太陽は目ざまし時計

百姓たちは顏を洗ひに出かける

泉はとくべつ上きげん

よい天氣がつづきます

 

 

 

郵便配達がやつて來る

ポオルは咳をしてゐる

ヸルジニイは花を摘んでます

きつと大きな花束になるでせう

この景色は僕の手箱にしまひませう

 

 

 

虹を見てゐる娘たちよ

もう洗濯はすみました

眞白い雲はおとなしく

船よりもゆつくりと

村の水たまりにさよならをする

 

[やぶちゃん注:第二連の「ポオル」と「ヸルジニイ」はフランスの植物学者で作家でもあったジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエールJacques-Henri Bernardin de Saint-Pierre 一七三七年~一八一四年)が一七八七年に発表した悲恋小説「ポールとヴィルジニー」(Paul et Virginieの愛し合う男女の主人公の名。立原道造の「鮎の歌の「Ⅳ」でも言及される(リンク先は私の電子テクスト)。嘗てはよく読まれた恋愛小説で、私も十代の終りに読んだが、最早、その内容もうすっかり忘れてしまっていた。個人ブログ「マルジナリア」の「サン・ピエエル作・ポオルとヴィルジニイ」をお読みあれ。]

 

 

 

  食後

 

そこはよい見晴らしであつたから靑空の一とこ

    ろをくり拔いて人たちは皿をつくり雲のフ

ライなどを料理し麺麭(パン)・果物の類を食べたのしい食

欲をみたした日かげに大きな百合の花が咲いてゐて

その花粉と蜜は人たちの調味料だつたさてこのささ

やかな食事の後できれいな草原に寢ころぶと人の切

り拔いたあとの空には白く晝間の月があつた

 

 

 

  日課

 

葉書にひとの營みを筆で染めては互に知らせあつた

そして僕はかう書くのがおきまりだつた 僕はたの

しい故もなく僕はたのしいと

空の下にきれいな草原があつて明るい日かげに浸さ

れ小鳥たちの囀(さへず)りの枝葉模樣をとほしてとほい靑く

澄んだ色が覗かれる 僕はたびたびそこへ行つて短

い夢を見たりものの本を讀んだりして毎日の午後を

くらした 僕の寢そべつてゐる頭のあたりに百合が

咲いてゐる時刻である

郵便〒配達のこの村に來る時刻である

きつとこの空の色や雲の形がうつつて それでかう

書くのがおきまりだつた 僕はたのしい故もなしに

僕はたのしいと

日曜日 (全)   立原道造

[やぶちゃん注:一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)の「未刊詩集」の「日曜日」に拠り、恣意的に正字化した。底本の杉浦氏の解説によれば、原本は手書きで昭和七(一九三二)年から翌年の、第一高等学校時代(満十七から十九歳)にかけて詠まれた詩篇で、『発行所人魚書房と記して、友人に贈ったもの』とある。]

 

 

日曜日

 

 

  風が‥‥

 

《郵便局で 日が暮れる

《果物屋の店で 燈がともる

 

風が時間を知らせて步く 方々に

 

 

 

  唄

 

裸の小鳥と月あかり

郵便切手とうろこ雲

引出しの中にかたつむり

影の上にはふうりんさう

 

太陽と彼の帆前船

黑ん坊と彼の洋燈(ランプ)

昔の繪の中に薔薇の花

 

僕は ひとりで

夜が ひろがる

 

 

 

  春

 

街道の外れで

僕の村と

隣の村と

世間話をしてゐる

《もうぢき鷄が鳴くでせう

《これからねむい季節です

 

その上に

晝の月が煙を吐いてゐる

 

 

 

  日記

 

季節のなかで

太陽が 僕を染めかへる

ちやうど健康さうに見えるまで

 

……雨の日

埃だらけの本から

僕は言葉をさがし出す――

黑つぐみ 紫陽花(あじさゐ) 墜落

ダイヤの女王(クヰーン)……

 

(僕は僕の言葉を見つけない!)

 

夜が下手にうたつてきかせた

眠られないと 僕はいつも

夜汽車に乘つてゐると思ひだす

 

[やぶちゃん注:「黑つぐみ」鳥綱スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis鳴き声はで。]

 

 

 

  旅行

 

この小さな驛で 鐵道の柵のまはりに

 夕方がゐる 着いて僕はたそがれる

 だらう

 

……路の上にしづかな煙のにほひ

 

僕の一步がそれをつきやぶる 森が見

 える 畑に人がゐる

この村では鴉(からす)が鳴いてゐる

 

やがて僕は疲れた僕を固い平な黑い寢

 床に眠らせるだらう 洋燈(ランプ)の明りに

 すぎた今日を思ひながら

 

[やぶちゃん注:字配は底本に従った「洋燈」の「ランプ」はルビであるので、本来の下インデントは同じである。]

 

 

 

  田園詩

 

小徑が、林のなかを行つたり來たりしてゐる、

落葉を踏みながら、暮れやすい一日を。

 

 

 

  僕は

 

僕は 背が高い 頭の上にすぐ空がある

そのせゐか 夕方が早い!

 

 

 

  曆

 

貧乏な天使が 小鳥に變裝する

枝に來て それはうたふ

わざとたのしい唄を

すると庭がだまされて小さい薔薇の花をつける

 

名前のかげで曆は時々ずるをする

けれど 人はそれを信用する

 

 

 

  愛情

 

郵便切手を しやれたものに考へだす

 

 

 

   帽子

 

學校の帽子をかぶつた僕と黑いソフトをかぶ

つた友だちが步いてゐると、それを見たもう

一人の友だちが後になつてあのときかぶつて

ゐたソフトは君に似あふといひだす。僕はソ

フトなんかかぶつてゐなかつたのに、何度い

つても、あのとき黑いソフトをかぶつてゐた

といふ。

 

[やぶちゃん注:字配は底本のママ。]

 

 

  跋(ばつ)‥‥

 

      チユウリツプは咲いたが

      彼女は笑つてゐない

      風俗のをかしみ

      《花笑ふ》と

      僕は紙に書きつける

             ……畢(をはり)

 

[やぶちゃん注:字配とポイント落ちは底本とほぼ同じ(ブログ表示の不具合を考えて本文全体を上げてはある)。]

さふらん (全)   立原道造

[やぶちゃん注:一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)の「未刊詩集」の「さふらん」に拠り、恣意的に正字化した。底本の杉浦氏の解説によれば、原本は手書きで昭和七(一九三二)年から翌年の、第一高等学校時代(満十七から十九歳)にかけて詠まれた詩篇で、『発行所人魚書房と記して、友人に贈ったもの』とある。] 

 

   さふらん

 

  ガラス窓の向うで

ガラス窓の向うで

朝が

小鳥とダンスしてます

お天氣のよい靑い空

 

 

  腦髓のモーターのなかに 

 

腦髓のモーターのなかに

鳴きしきる小鳥たちよ

君らの羽音はしづかに

今朝僕はひとりで齒を磨く

 

 

  コツプに一ぱいの海がある

 

コツプに一ぱいの海がある

娘さんたちが 泳いでゐる

潮風だの 雲だの 扇子

驚くことは止ることである

 

 

  忘れてゐた

 

忘れてゐた

いろいろな單語

ホウレン草だのポンポンだの

思ひ出すと樂しくなる

 

[やぶちゃん注:「ポンポン」キク目キク科キク亜科ハルシャギク連ダリア属 Dahlia の品種の一つで、管状の花弁が球状に万重咲(まんじゅさ)き(チアー・ガールの持つポンポン状)になったもので、大きさ五センチメートルほどの、筒状に内側に巻いた小さな花弁が重なりあった球状の花が沢山咲く、ポンポン・ダリアのことであろう。色は各種ある。]

 

 

  庭に干瓢(かんぺう)が乾してある

 

庭に干瓢が乾してある

白い蝶が越えて來る

そのかげたちが土にもつれる

うつとりと明るい陽ざしに

 

 

  高い籬(まがき)に沿つて

 

高い籬に沿つて

夢を運んで行く

白い蝶よ

少女のやうに

 

 

  胸にゐる 

 

胸にゐる

擽(くすぐ)つたい僕のこほろぎよ

冬が來たのに まだ

おまへは翅を震はす

 

 

  長いまつげのかげ 

 

長いまつげのかげ

をんなは泣いてゐた

影法師のやうな

汽笛は とほく

 

 

  昔の夢と思ひ出を

 

昔の夢と思ひ出を

頭のなかの

靑いランプが照してゐる

ひとりぼつちの夜更け

 

 

  ゆくての道 

 

ゆくての道

ばらばらとなり

月 しののめに

靑いばかり

 

 

  月夜のかげは大きい

 

月夜のかげは大きい

僕の尖つた肩の邊に

まつばぼたんが

くらく咲いてゐる

 

 

  小さな穴のめぐりを

 

小さな穴のめぐりを

蟻は 今日の營み

籬(まがき)を越えて 雀が

揚羽蝶がやつて來る

 

 

一日は‥‥   立原道造

 

   一日は‥‥

 

 

   

 

搖られながら あかりが消えて行くと

鷗(かもめ)のやうに眼をさます

朝 眞珠色の空氣から

よい詩が生れる

 

   

 

天氣のよい日 機嫌よく笑つてゐる

机の上を片づけてものを書いたり

ときどき眼をあげ うつとりと

窓のところに 空を見てゐる

壁によりかかつて いつまでも

おまへを考へることがある

そらまめのにほひのする田舍など

 

   

 

貧乏な天使が小鳥に變裝する

枝に來て それはうたふ

わざとたのしい唄を

すると庭がだまされて小さな薔薇(ばら)の花をつける

 

   

 

ちつぽけな一日 失はれた子たち

あて名のない手紙 ひとりぼつちのマドリガル

虹にのぼれない海の鳥 消えた土曜日

 

   

 

北向きの窓に 午(ひる)すぎて

ものがなしい光のなかで

僕の詩は 凋れてしまふ

すると あかりにそれを焚き

夜 その下で本をよむ

 

   

 

しづかに靄(もや)がおりたといひ

眼を見あつてゐる――

花がにほつてゐるやうだ

時計がうたつてゐるやうだ

 

きつと誰かが歸つて來る

誰かが旅から歸つて來る

 

   

 

もしもおまへが そのとき

なにかばかげたことをしたら

僕はどうしたらいいだらう

 

もしもおまへが……

そんなことをぼんやり考へてゐたら

僕はどうしたばかだらう

 

   

 

あかりを消してそつと眼をとぢてゐた

お聞き――

僕の身體の奧で羽ばたいてゐるものがゐた

或る夜 それは窓に月を目あてに

たうとう長い旅に出た……

いま羽ばたいてゐるのは

あれは あれはうそなのだよ

 

   

 

眠りのなかで迷はぬやうに 僕よ

眠りにすぢをつけ 小徑を だれと行かう

 

[やぶちゃん注:底本の一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)の、風信子(ヒヤシンス)叢書第三篇の「田舎歌」群の掉尾の詩篇。但し、これは生前の立原道造が出したものではなく、彼の遺したメモによって角川書店第三次「立原道造全集」上梓の際に、同題賛辞全集委員会によって編成されたものである。しかし、杉浦氏の解説によれば、この「田舎歌」ⅠからⅢ(Ⅰ・Ⅱは後述するように私は電子化済み)を纏めた『これを第三篇とするプランは立原』自身『によって破棄された疑いがあり、内容は一九三四年』(昭和九年)『の作品から成る』とある(下線やぶちゃん)。

の「マドリガル」は(英語:madrigal)イタリアのマドリガーレ(madrigale古くは、十四世紀のイタリアで栄えた詩形式及びこれに基づく多声楽曲であるが、これは直に廃れ、後にそれらとは全く無関係に同名称で十五世紀から十六世紀にかけてイタリアで発展した、主として無伴奏の重唱による芸術的な多声歌曲をも指すようになった。後者は「ルネサンス・マドリガーレ」とも呼ぶ)、及び、その影響を受けてエリザベス朝(一五五八年~一六〇三年)のイギリスその他の国で成立した歌曲の総称。ここはルネサンス・マドリガーレ及び最後のものを指すと考えてよい。ウィキの「マドリガーレ」によれば、『詩節が無く』、『リフレインも無い自由詩を用い、テキストの抑揚に併せてメロディーが作られた。感情表現を豊かにするためにポリフォニーやモテットの様式、模倣対位法、半音階法、二重合唱法などあらゆる音楽形式が採られ、多くの作曲家が作品を作った』。十七世紀に入ると、『カンタータに取って代わられたが、その後も幾人かの作曲家がこの形式の作品を残している』とし、「イングリッシュ・マドリガル」は『エリザベス朝イングランドの宮廷作曲家達によって、イタリアの形式を真似て作られたが、イタリア』のそれほどには『複雑で無く』、『和声を主体にした曲が多い』とある。

の「凋れて」は老婆心乍ら、「しほれる(しおれる)」と読む。

 なお、私は既にここに示された「田舎歌」群のⅠとⅡに相当するものは、

 

村ぐらし(ここでの底本では『Ⅰ』とローマ数字が頭に振られてあるものとほぼ相同)

【字配りとルビの有無を除くと、有意な異同は以下の二箇所。

●第六パート一行目

『晝だからよく見えた 街道が』(昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」)

   ↓(助詞「が」が「を」)

『晝だからよく見えた 街道を』(一九八八年岩波文庫刊杉浦明平編「立原道造詩集」)

●第七パート第二文(これは編者による読みの異なりと思われ、これは杉浦明平氏の読みを私は支持したい)

『遠眼鏡(えんがんきやう)』(中村版)

   ↓(ルビ違い)

『遠眼鏡(とほめがね)』(杉浦版)】

 

   *

 

詩は  (ここでの底本では『Ⅱ』とローマ数字が頭に振られてあるものとほぼ相同)

【字配りと踊り字とルビの有無を除くと、有意な異同は以下の二箇所。

●第十パート二行目

『落葉を踏みながら、暮れやすい一日を。』(中村版)

   ↓(読点なし。このパートは二行構成で一行目には読点が使用されている)

『落葉を踏みながら 暮れやすい一日を。』(杉浦版)

●最終第十二パート内の最後の二行に出る二箇所出るところの、

『背中』(中村版)

   ↓(字体違い。これは杉浦版が正しいのではないかと推定される)

『脊中』(杉浦版)

 

は本ブログで電子化注してある。私は冒頭で太字及び下線で示した部分に鑑み、これらを纏めて一括して示すこと(岩波文庫版のように)にはやや疑義を感ずる。読者が現行の番号に従ってⅠ・Ⅱ・Ⅲと順に読むことは無論、あってよく、そこでは確かに相応な一つの道造の意識の流れを感じ取ることは出来、それについて違和感は感じないものの、道造自身がこの構成企画を破棄した可能性がある以上、底本のように連作として読まれることを道造は実は望んでいない可能性があることを意味すると考えるからである。]

啞蟬の歌――三好達治氏に   立原道造

 

  啞蟬(おしぜみ)の歌

           ――三好達治氏に

 

僕は もう歌はなくなつてゐた

夕雲に靑い山を眺めてゐた

物のよろこびととかなしみを見わけることがなくなつてから

明るい空ばかりを美しい色で描いて

ああして 幾日が經つたらう

 

僕は もう歌はなくなつてゐた

杉の梢も 楡(にれ)の木も 學校歸りの子供らも 消えてばかりゐる雲も

たつた一つのいのちのためには

どれだけのかげが投げられたのだらう

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。これで底本とした一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)の「エチユード」は総てである。既に述べた通り、この「エチユード」は底本の親本である角川書店第三次版「立原道造全集」に「前記草稿詩篇」(推定昭和七(一九三二)年から昭和一〇(一九三五)年)として収められた二百三十六篇から編者杉浦明平氏が『気のままに選び出したもの』である。『気のままに選び出した』という編集権を侵害しないように(私は恣意的に正字化しているので、そのまま纏めて出しても編集権を侵害しないと考えてはいるが)、公開順列を意識的に変更してある。

詩   立原道造

 

  詩

 

紙を裏返すと白かつた――

 

僕の頭のなかでは 幾行かの詩が

こせこせした積木細工であつた

とりどりに色がまはり 滑り

四角な旗がとほくまであるのだ

それが言葉かどうかわからないうちに

何か怒つたやうな聲がきこえた

幾行かの詩が 僕を捨てたらしい

紙を裏返すと 白かつた

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

春が來たなら   立原道造

 

  春が來たなら

 

春が來たなら 花が咲いたら

本のかげに小さな椅子に腰かけて

ずつと遠くを見てくらさう

そしてとしよりになるだらう

僕は何もかもわかつたやうに

灰の色をした靄(もや)のしめりの向うの方に

小さなやさしい笑顏を送らう

僕は餘計な歌はもう歌はない

手をのばしたらそつと花に觸れるだらう

 

春が來たなら ひとりだつたら

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。私は今も軽井沢の山深い別荘のテラスに道造がこうしているような気がする。]

昨日   立原道造

 

  昨日

 

消えた言葉は追ふのはよさう

消えた言葉は私のものだ

どこに どこに やさしい言葉

 

消えた言葉は空にゐる

一日 雲とうたつてゐるのは

どこに どこに 私の言葉

 

さがしに行つた人たちと

耳をすますなら 私は行かう

消えた言葉は私のものだ

また 朝から日暮れまで

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

風の話   立原道造

 

  風の話

 

そんなことを言ふのはをかしかつた

僕らは まじめな顏で言ひあつてゐた

風が見えないことを

 

最初の子供は 風が埃のそばにばかり見えることを言つた

誰にもその考へは氣にいらなかつた

 

次の子供は 風が枝のそばにばかり見えることを言つた

その子は木のぼりを考へた 葉がそよいだ

 

僕らはみんなで言ひあつた

そしてたうとう最後の子供が言つた

あれは見えなくてよいことを

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。私はこの一篇を限りなく偏愛する。]

かなしいまでに   立原道造

 

  かなしいまでに

 

かなしいまでにとほくを見て

眼よ おまへは泪(なみだ)をひたかくしてゐた

 

明るい雲の流れる街に

ボロの軒下を拾つて步き

おまへはひとをさがしあぐんだ

つれなかつたひとを

 

耳よ おまへのなかに老いたかなしみが

潮騷(しほさゐ)をうたひ とほい靄(もや)の夜をささやいた

 

夕暮れて 夕暮れは汚れた城のやう

荒れた草生(くさふ)にひとを待つてゐた

おまへは 來ないひとを

足音を

 

ながいこと さうして私はさまよつた

驢馬の步みよりまだ愚かしく

私は さうして ほほゑむだ

 

耳よ 眼よ

私は さうして ほほゑむだ

かつて愛したものの形は消えるまで

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

鉛筆のマドリガル   立原道造

 

  鉛筆のマドリガル

 

夕方くらくて町で人かげを見た 僕はまちがへた

長いこと お前がここで待つてゐたと ほんとだらうか。

 

   ☆

 

僕の口ぐせによると

僕はいつでも困つてゐた

そんな筈はないんだが

(からつぽの帽子を机にのせて

僕はしばらくぼんやりしてゐる)

窓はすばらしい天氣だつたが

もし僕がそこへ出て行くなら

あの靑空はきれいすぎるだらう

(出かける仕度をしたつきり

机の上に頰杖をついてゐる)

どうしていつもかうなんだらう

 

   ☆

 

幾日も會はないままに 或る日は思ひ 思はぬままに

僕は裏切つた 僕を お前を それから僕を

どうしたらよいか知らないくせに ぢつとしてゐた

ずるかつた――お前は待つてゐた きつと

 

   ☆

 

昨夜は おそく

歩いて 町を歸つたが

ひとつの窓はとぢられて

誰も顏を出してゐなかつた

僕に歌をうたはせないために

だけれど僕はすこしうたつてみた

それはたいへんまづかつた

僕はあわてて歸つて行つた

昨夜はおそく 歩いたが

あれはたしかにわるかつた

あかりは僕からとほかつた

僕の脊中はくらかつた

 

   ☆

 

ねむがりの僕が或る晩おそく散步に出かけたら

それつきりなのさ 僕は橋の上でぼんやり水を見てゐた

それから水の上に長いかげを搖らしてあかりがゐた――それつきりなのさ

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。

「マドリガル」(英語madrigal)イタリアのマドリガーレ(madrigale古くは、十四世紀のイタリアで栄えた詩形式及びこれに基づく多声楽曲であるが、これは直に廃れ、後にそれらとは全く無関係に同名称で十五世紀から十六世紀にかけてイタリアで発展した、主として無伴奏の重唱による芸術的な多声歌曲をも指すようになった。後者は「ルネサンス・マドリガーレ」とも呼ぶ)、及び、その影響を受けてエリザベス朝(一五五八年~一六〇三年)のイギリスその他の国で成立した歌曲の総称。ここはルネサンス・マドリガーレ及び最後のものを指すと考えてよい。ウィキの「マドリガーレによれば、『詩節が無く』、『リフレインも無い自由詩を用い、テキストの抑揚に併せてメロディーが作られた。感情表現を豊かにするためにポリフォニーやモテットの様式、模倣対位法、半音階法、二重合唱法などあらゆる音楽形式が採られ、多くの作曲家が作品を作った』。十七世紀に入ると、『カンタータに取って代わられたが、その後も幾人かの作曲家がこの形式の作品を残している』とし、「イングリッシュ・マドリガル」は『エリザベス朝イングランドの宮廷作曲家達によって、イタリアの形式を真似て作られたが、イタリア』のそれほどには『複雑で無く』、『和声を主体にした曲が多い』とある。]

鏡   立原道造

 

  鏡

 

床屋は

頭の上に

シヤボンで

駝鳥(だてう)や塔を作つてくれる

不意に輕くなつた僕よ

僕にはもうまづしげなひげがない

だから步きにくい

きれいな顏は

似あはない

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

もつとたのしくて   立原道造

 

   もつとたのしくて

 

 もつとたのしくてよいでせう

 明るい色に塗りませう

 わるい筆だがかまはずに

 もつとたのしく描きませう

 これはお前の似顏です

 似てない姿がとりえです

 

    ☆

 

 二十一歳の下手な繪描きは

 木曜日毎に水彩畫をこしらへ

 そのあとですつかり困つた あまり下手であつたから 彼は何かを諦めてしまつたやうなかなしみであつた 雨が降つても繪を描いて

 木曜日の晩毎くらい町を步いてゐた

 

    ☆

 

 お祭がをはつた

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

2016/06/12

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 宿命

 

       宿命

 

 宿命は後悔の子かも知れない。――或は後悔は宿命の子かも知れない。

 

[やぶちゃん注:――命は人力人智の及ぶ所に非ず。故に是れを天に歸し、「天命」と云ふ。天命なる上は天に任せ置きて人は只管(ひたすら)道義をのみ守りさへすれば、死生窮達(しせいきうたつ)、順受素行(じゆんじゆそかう)、驚くにも恐るるにも及ばず。――吉田松陰(文政一三(一八三〇)年~安政六(一八五九)年)安政二(一八八五)年十月十八日久保清太郎宛書翰。「順受素行」とはごく普通に受け入れられ、素直に行いをなすことが出来る、の意)

――宿命論が後悔を追い払うのは、人が出来ることを総てし尽くした場合に限る。――(フランスの哲学者アランAlain:ペン・ネーム:本名エミール=オーギュスト・シャルティエ Emile-Auguste Chartier 一八六八年~一九五一年)の「幸福論」(Propos sur le Bonheur 一九二八年)より)

 因みに私は「後悔」ばかりの人生であったが、一度として「宿命」を感じたことは、ない。残る僅かな人生に於いても「宿命」を感ずることは、ない。従って、私の「後悔」は「宿命」の親ではなく、しかも「宿命の子」でもない。されば私は「後悔」の単為生殖であり、テロメアによって終結するまで、死に至るまで続けられる「後悔」の分裂の群体に過ぎない/である。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自由思想家

 

       自由思想家

 

 自由思想家の弱點は自由思想家であることである。彼は到底狂信者のやうに獰猛に戰ふことは出來ない。

 

[やぶちゃん注:「自由思想家」は古代ギリシャ・ローマの哲人の誰彼、バラモン教や釈迦と同時代のそれら、西洋近世の神学者のそれらではなく、広義の、権威や教条に拘束されず、自由に対象を考え、思想を展開する人間を指している。正直、私は時々、狂信者の群れの呆けた恍惚の表情や関係妄想の最たる宗教的愉悦の表明を見聴していると、私も一度は自由思想を捨てて、「狂信者のやうに獰猛に戰」って虫ケラのように死に瀕してみる(「瀕してみる」である。「死ぬ」のは願い下げである)のも悪くはないと思うのを常としている。そうして未だ嘗て「獰猛に戰」って死を厭わぬほど「狂信」してみたいと思い得る対象に、これ、一度として出逢ったことがないことをも、少しばかり哀しく思うことをも常としている。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 藝術

 

       藝術

 

 最も困難な藝術は自由に人生を送ることである。尤も「自由に」と云ふ意味は必ずしも厚顏にと云ふ意味ではない。

 

[やぶちゃん注:このアフォリズムは芥川龍之介が、「人生」はそれ自体が芸術の一つであり得るという見解を持っていた、ことを示唆している。条件文であるから、「最も困難な」完全な真に「自由な人生を送る」という目的を達し得る人間がいたとすれば、その人間は、たとえ市井の無名人にして、社会的に芸術家として誰にも認められておらず、何ら芸術的作物の一つも残し得なかったとしても、その真に自由な人生を送ったという一点に於いて、有象無象の愚昧な他者の遠く及びもつかぬ、「困難な藝術」としての、まことに「自由な人生を送る」という「藝術」を、成し遂げた稀有の存在となる、と言っていることになる。第二文はそれを限定する毒であるが、これは寧ろ、「自由な人生を送」ったと満足している人間どもの殆んどは、自分が厚顔無恥に生きた結果、自分だけが「自由に生きた」と思い込んでいるに過ぎない救いがたい下劣漢であるという哀れな無数の事実の方にこそ、毒は利いているように思われる。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  知德合一

 

       知德合一

 

 我我は我我自身さへ知らない。況や我我の知つたことを行に移すのは困難である。「知慧と運命」を書いたメエテルリンクも知慧や運命を知らなかつた。

 

[やぶちゃん注:・「行」「おこなひ(おこない)」。

・『「知慧と運命」を書いたメエテルリンク』「メエテルリンク」は誰もが知っている童話劇「青い鳥」(フランス語:L'Oiseau bleu 一九〇八年刊:メーテルリンクはベルギー生まれであるが、フランス語を話す裕福なフラマン人カトリック教徒の家庭に生まれた)で知られるベルギーの詩人で作家モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)。ウィキの「モーリス・メーテルリンク」によれば、『学校を卒業後、パリで数ヵ月を過ごした。そこで当時流行していた象徴主義運動の活動家達と知り合う。その経験は後の作品に大きな影響を与えた』。一八八九年、最初の戯曲「マレーヌ姫 」(La princesse Maleine)で『評価を得て有名になる。続いて宿命論と神秘主義に基づいた、』「三人の盲いた娘たち」(Les Aveugles 一八九〇年)、「ペレアスとメリザンド」(Pelléas et Mélisande 一八九二年)といった『一連の象徴主義的作品を書き表した』が、最も大きな成功作は「青い鳥 」であった。その後の一九一一年にはノーベル文学賞を受賞している。一時期をアメリカで過ごした後、フランスはニースに城を買い取って住んでいたが、『母国滞在中に欧州で第二次世界大戦が勃発すると、彼はナチス・ドイツのベルギー・フランス両国に対する侵攻を避け』、『リスボンへ逃れ、更にリスボンからギリシャ船籍の貨客船でアメリカに渡っ』ている。同ウィキのこの後の記載によると、彼は(一部を略して繋げた)『私は自著』『の中で、一九一八年のドイツによるベルギー占領を批判的に書いたが、これでドイツ軍は私のことを仇敵と見なすようになった。私がもし彼らに捕らえられたら即座に射殺されたかもしれない』」と語っており、『また、ドイツとその同盟国であった日本には決して版権を渡さないよう、遺言で書き記している』とある。戦後はニースへ戻って、同地で死去した。一九四七年から一九四九年まで「国際ペンクラブ」の第四代会長も務めている。日本はメーテルリンクから実は「青い鳥」、まことの幸福の恩恵を実は受けていないということになる。この最後のウィキの引用の最後部分は、なかなかクるものがあるではないか。いやいや、閑話休題。新潮文庫の神田由美子氏の注によれば、『芥川は彼の夢幻的な童話劇「青い鳥」』『を三中、一高時代に何度も読み』、『影響を受けた。「知慧と運命」』(一八九六年)『は、知性と意志とに従って運命に直面しようとする随想録』とあり、岩波新全集の奥野政元氏の注では、『本能的生活を知恵によって脱し、霊的な「内的生命」に生きることを説く随想集』とあるから、この龍之介の後半の一文は、メーテルリンクの顔面への強烈な一撃と言える。しかも、龍之介は周到にも、この三つ前に「智慧」の致命的無効性を語った「理性」を配し、万一、我々の人生が「理性に終始するとすれば、我我は我我の存在に滿腔の呪咀を加へなければならぬ」と喝破し、その直後には、「運命」の一条で「運命は偶然よりも必然である」と言い放っている。実はその時点で既にして――青い鳥の毛はテツテ的に毟られて、焼き鳥に変わっている――のであった。]

 

序曲   立原道造

 

  序曲

 

林檎(りんご)の木の詩人がゐた

旅で消える鐘の音を聞きそれをうたつた

頰をほてらせた少女がたのしい氣持できいてゐた

 

詩人はそれきり歸らなかつた

村の入口で少女は木に凭(もた)れ

夕雲に靑い山を眺めてゐた

 

いつも夜ふけて 眠りのきれぎはに

林檎の花が咲いてゐた――

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

ある人は   立原道造

 

  ある人は

 

ある人はうつくしい窓を持ち

椅子に凭(もた)れて眺めるといふが

僕の窓には黑ずんだ埃ばかり

 

高い空を流れる雲の せめてあのあたりの

靑い色をと思ふのだが

いつかの日にはそれさへ曇天の灰色だつた

 

いつそ潮風でも吹いて來て

海がひろがつてくれればいい

この窓から ヨツトに乘るんだ

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

うつりかはり   立原道造

 

  うつりかはり

 

僕は季節をまだよく知らないと ほんたうに時時さう思ふ

その向うに春がある 花が咲き 樹の下に人が立ちどまる

さうかしら これはまちがひだと 僕はすこし考へこむ

 

手にとつてよく眺めると 僕の知つてゐる冬の終りの日に

しづかな風が吹いてゐる それが何と昨日に似てゐるのだ

秋かしら またその風が枝を吹いて葉を枯らす

僕は重いマントを脱ぎすてる また明日から着るやうに

それから僕はかう思ふ 早くものがわかりたいと

秋は秋 春は春 冬の向うにあるものはたつたひとつ

僕はしれがほんたうにはつきりと知りたいと

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。一行字数を二十六字とし、分かち書き(少なくとも文はいずこもダイレクトに繋がっているようには読めないように創られてある)になっている特殊形態をそのまま写した。(大きめのフォントで表示されている場合は、中位のフォントまで下げて読まれんことを望む)。]

僕は三文詩人に   立原道造

 

  僕は三文詩人に

 

僕は三文詩人になりたくないのだ

あらゆる感傷と言ひまはしを捨て

誰でもの胸へ ほんたうのことを叩きこみたい

それが千人のほんたうでなく

僕だけのほんたうであつたら

結局 三文詩人の一人にすぎないのだ

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

驢馬の歌   立原道造

 

  驢馬の歌

 

悲しいまでに遠くを見てうるんだ眼をお前は人からひた隱しにしてゐた

 

町の夜に降る間近かな靄(もや)の息づかひを

その果てにうらがなしい潮鳴を二人して聞いてゐた

 

 

 

あれはいぶかしい朝であつた

明るい空に蔽(おほ)はれたボロの町並で

お前と僕とが驢馬の營みをした

二人は熱心に待ちうけてゐた

或るときは幸福と呼ばれたものを

 

眠る前 僕はお前の眼を見た

それから夢に

あの朝にお前と僕とは失はれたと

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。「*」は。底本では*を正三角形の頂点に配した記号。]

しあはせな一日は   立原道造

 

  しあはせな一日は

 

しあはせな一日は幾つあつたらう

日の終り 疲れた橋に身を凭(もた)れ

かぞへてゐれば

 

靄(もや)のなかにともる燈は煌(きら)めいて

人の數の千倍のしあはせが

一人のためにあるのだと

 

やさしい調べで繰返してゐた

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

僕のなかを掠めるものは   立原道造

 

  僕のなかを掠(かす)めるものは

 

僕のなかを掠めるものは、いつもとどまれ。おまへはうたへ。骨よ、頰よ、散り挫け、いのちを飾れ。僕の歌よ、おまへは息をつまらせて、明るい時の下で死ね。

 空より花は振るがよい。くやしみは僕を燃やすがよい。だが、歌、おまへはうたへ。瘠せた心は乾枯(ひか)らびた。言葉よ、立ち去れ。僕の歌よ、のこれ。おまへは僕を嚙みつくし、腦天の上でへどを吐け。

 昔、みれんは船に乘り、湖水にランプを浮べたが、あれは僕ではないだらう、僕よ、傷よ。おまへは船につながれて、藻草をわけて沈んだが。かたちよ、立ち去れ。おまへを捨てろ。

 落ちる日、飛べ。輝かしい愚かな小鳥、おまへの千のいのちのために。星へ、骨へ、後悔よ、羽ばたけ。僕を掠めて飛ぶものはいつもかがやけ。おまへはうたえ。明るい時の下で死ね。

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。圧倒的な命令形が怒濤の如く押し寄せ、そこに見え隠れする「骨」「挫け」「息をつまらせ」「瘠せた心」「乾枯(ひか)らび」「嚙みつくし」「腦天」「へど」「みれん」「藻草」の破片は悉くが読む胸に突き刺さってくる。道造の詩篇の中では、奇体な鋭いエッジを感じさせる特異点と言えるように私には感ぜられる。]

巣立ち――堀辰雄氏に   立原道造

 

  巣立ち

    ――堀辰雄氏に

 

誰と私は似てゐるのだらう

そしてそれは何の知らせだらう

私はいつかよく知つてゐた そのことを

だがもし思ひ出すならば……

 

私は持つことの出來ただけの不幸を

そのかはりに かがやきとあの平和を

そして あかりの消える夜の一ときに

しづかにあれに捧げよう あれを立ち去らう

 

もう私はすつかりひとりだ

私みづから私は風に濡れてゐる

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

折立   立原道造

 

  折立(をりたち)

    S・Mに――

 

 喜ぶことが出來た一ときの夜のあかりに、お前の搖れた顏は白く消えて行つた。そのあとまた躊(ため)らつて歸つて來たが、あれは何であつたろう。

 

 ときどき深い所から聞馴れた音樂が耳に幾度もつぶやいた。僕は身をやさしく任せ、諦めた。おそらくいちばん美しかつた日々のために。僕の長い行末のやめに。

 

 嘗(かつ)て、夏へ、それからの思ひ出へ、あの靜かな海の上のたそがれを捧げた。あの日にお前と僕は失はれたと。

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。「折立(をりたち)」地名と思われるが不詳。「S・M」不詳。]

黃昏   立原道造

 

  黃昏(たそがれ)

 

町の空を空が包んで

 

末はあかりを胸からともす

 

くつきりときらめいて

 

小さいが たしかに

 

滲まない旗が搖れてゐる

 

旗はあかりより暗いのだ

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

もし鳥だつたら   立原道造

 

  もし鳥だつたら

 

 もし鳥だつたなら、ギリシヤの柱のてつぺんで、朝日の歌をうたはう。橄欖(オリーブ)に包まれた神殿に隅まで明るい朝日、そのなかで、死ぬまで心をはりつめて。

 もし鳥だつたなら、そのとき靑空に落ちて行くだらう。言葉にだけたよつてそんな一生の終りにさへ自分は近くゐるのだと、考へられるから。さうして鳥の形した雲になり、またあたらしい歌をうたはう。

 もし鳥だつたなら。ああ、日毎に千の歌をかへてうたはう。朝日の歌を。朝日は翼を磨いてゐる、もう僕は後悔の鳥でない。ギリシヤの柱に、きらきらする歌をうたはう。

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

鏡の歌  立原道造

 

  鏡の歌

 

はやい速さできれぎれの光に襲はれ

僕は風のやうにおし流される

ほんたうの近くに僕は僕にも捕へられず

僕は捕へられてゐる 光と一しよに

線をみだした闇の向うに

 

何もかもはてしなく終わりを知らず

選ぶことなく疲れは疲れを 花は花を

やがてしづかに一刻に支へられ

光の奥に光よりもかがやき

僕はすべてを見つめはじめる

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

それは雨の   立原道造

 

  それは雨の

 

それは雨のはげしい夜だつた

私たちは火鉢のそばでその物音に

もう話のなくなつた耳を借してゐた

一つも聞き洩らすことのないやうに

 

雨が何を語つたか 私たちが何を語つたか

誰もがそれを忘れてゐた ふだんのやうに

長い長いしづかさだつた

 

おそらく あの夜 空に消えた千の雨粒

私たちは光りながら死ぬのだらうと

誰が誰に小聲で語つたのだらうか

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

かつてひとりが   立原道造

 

  かつてひとりが

 

かつてひとりがいはなかつたか

お前はもうゆるされてゐないと。

それは冬のうすい日のさす午後だつた

いつまでもそのやうにひとりは

水に映つたかげをたのしんでゐた

それから顏をあげていはなかつたか

お前には歌ふすべはなからうと。

それは突然に來た不思議であつたか

もう知る者はないだらうか――。

私は池のほとりに歸つて來る

それから尋ねる 答を貰ふために

私は空を眺めたり水を眺めたりする

それから呟く 何事もなかつたと

自分でもうそだと知りながら それだけのことを。

 

[やぶちゃん注:すでに述べた底本の「エチユード」より。]

林空   立原道造

 

  林空(はやしぞら)

    ゆふすげの花はせつない眼ばたきのやうに

                ――丸山薰

 

 せつない眼ばたきといはれた花を、その黃いろな一輪をともした叢(くさむら)の靑空に、僕はたたずんで聞く。梢を移る鳥たちの聲を、風に似た汽車のとほい笛を。……ああ、明るい晝間。埃のする冬の日向(ひなた)に、もう一度聞く。それらの物音から氣位高く。見馴れないものたちはすぐに立ち去り、その黃色な一輪を手に持つたまま。僕はもう一度聞く。……ふと掠(かす)めた栗鼠(りす)のかげり。そのまま過ぎた日日のうたを。

 

[やぶちゃん注:底本の一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編)の「エチユード」の末尾に配された一篇。この「エチユード」は底本の親本である角川書店第三次版「立原道造全集」に「前記草稿詩篇」(推定昭和七(一九三二)年から昭和一〇(一九三五)年)として収められた二百三十六篇から編者杉浦明平氏が『気のままに選び出したもの』であり、この一篇が同時に、底本「立原道造詩集」の詩篇の掉尾でもある。添書引用の詩人「丸山薰」(明治三二(一八九九)年昭和四九(一九七四)年)は『四季』の先輩(十五年上。処女詩集で彼の代表作である「帆・ランプ・鷗」昭和七(一九三二)年の刊行である)。引用は、彼の『四季』時代の作で、昭和一〇(一九三五)年五月に刊行された詩集『鶴の葬式』に所収された、詩「峠」からの引用である。本詩篇の解読に益すると考え、著作権は有効であるが、以下に示す(昭和五一(一九七六)年(五版)彌生書房刊「丸山薫詩集」を底本としたが、本詩篇との関係上、恣意的に歴史的仮名遣及び漢字の正字化を施した。なお私は、若い頃は丸山の詩を愛読した。この詩集もその名残である。「ゆふすげ」(底本は「ゆうすげ」)の太字部分は底本では傍点「ヽ」である)。

   《引用開始》

 

  峠

 

機關車は警笛鳴らし

齒ぐるまの喘ぐ軋りに嚙まれて

あの高原への九十九(つづら)折を登るとき

佇み見送る勾配標のかげから

ゆふすげの花はせつない眼ばたきのやうに

トンネルのアーチのむかふに小さくなり

近より迫る嶺々の尖りは

夕ぐれの陰翳(かげり)を濃く喚(よ)び交はす

車窓のぼくの顏も淡いランプの影の一つになつて

さびしく遠い谿の斜面を步いてゐる

 

   《引用終了》

なお、ネット検索をかけてみると、どうも微妙に表現の異なる同詩篇の電子データがあり(道造の引用箇所には傍点を除けば、変更はない)、それはどうも誤植とは思われないところから、丸山薫は旧作を弄るくせがあったらしい。上に電子化した本詩篇も創作時のもの(道造が読んだもの)とは微妙に異なる可能性があるようにも思われる。]

南國の空靑けれど   立原道造

 

  南國の空靑けれど

 

南國の空靑けれど

涙あふれて やまず

道なかばにして 道を失ひしとき

ふるさと とほく あらはれぬ

 

辿り行きしは 雲よりも

はかなくて すべては夢にまぎれぬ

老いたる母の微笑のみ

わがすべての過失を償ひぬ

 

花なれと ねがひしや

鳥なれと ねがひしや

ひとりのみ なになすべきか

 

わが渇き 海飮み干しぬ

かなたには 帆前船 たそがれて

星ひとつ 空にかかる

 

[やぶちゃん注:既に記した底本(一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編))の「後期草稿詩篇」の最後に配されてある一篇。同底本解説に、この「後期草稿詩篇」は昭和九(一九三四)年から没する前年昭和一三(一九三八)年の末までの詩篇を推定年代順に並べたとある。堀内達夫氏の底本年譜によれば、道造は昭和一二(一九二七)年十一月二十四日に『南方の豊穣を夢見て長崎旅行に出発』、『途中、奈良、京都』、『舞鶴、松江、島根半島日ノ御碕、下関、若松と巡り』、『福岡、柳河』から『佐賀を経て、十二月四日、長崎』『に旅装を解くが』、二日後の『六日に結核喀血』を起こし、『十四日、帰京』している。本篇はまさに短かった長崎での最後の旅の思い出に基づくものであろう。同年十二月『二十四日、中野区江古田の東京市立症状所に入所、水戸部アサイが献身的に看護に当たった』が、翌昭和一四(一九三九)年『三月二十九日午前二時二十分、病態急変』、誰にも看取られることなく立原道造は永眠した。満二十四歳と八ヶ月であった(道造の生年は大正三(一九一四)年七月三十日)。]

 

朝に   立原道造

 

  朝に

 

きのふのやうに 僕たちは

たそがれの水路のほとりに

暮れやらない 空のあかりを

長い嘆かひに 時をうつしてはならない

 

陽の見えない空のあたりを

赤く染めながら 今夜が明けようとしてゐる

風は つめたく 身體を打つが 僕たちは

あたらしいものの訪れを感じてゐる

 

それが何か それがどこからか――

けふ 私たちは 岬に立つて

眼をあちらの方へ 投げ與へよう

ひろいひろい 水平線のあちらへ

 

》昨日は をはつた!《

すべては 不確かに 僕たちを待つ

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。最終第四連初行の「》昨日は をはつた!《」反転した山形二重鍵括弧の用法は立原道造の詩篇類の中でも特異点である。]

灼ける熱情となつて   立原道造

 

  灼ける熱情となつて

 

灼ける熱情となつて

自分をきたへよ

ためらつて 夕ぐれに

靑い水のほとりにたたずむな

 

白く光る雲を 風に吹かれる空を

ちひさく飛んでゆく鳥の道を ながめて

自分のなげかひを 語りかけようと

ねがふな!

 

ほとばしれ

千人の胸へ

しつかりと摑む胸へ

 

愛と 正しいものとの

よつて來るところのものと

きづくものとを 確かに知れ

 

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。「摑む」の「摑」の用字は底本のママ。

・「なげかひ」は名詞「嘆」(なげかひ(なげかい))で、溜息をつくこと・歎き・嘆息の謂い。近代以降の用語と思われる。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 教授

 

       教授

 

 若し醫家の用語を借りれば、苟くも文藝を講ずるには臨床的でなければならぬ筈である。しかも彼等は未だ嘗て人生の脈搏に觸れたことはない。殊に彼等の或るものは英佛の文藝には通じても彼等を生んだ祖國の文藝には通じてゐないと稱してゐる。

 

[やぶちゃん注:既に述べた通り、海軍機関学校が嫌で嫌で仕方なくなった芥川龍之介は、「龍門の四天王」の一人で慶応大学予科の教員であった小島政二郎から慶応大学英文科教授招聘の話が持ち込まれ、龍之介自身も相当に乗り気であった(結局、その交渉(慶応教授会での賛同)がやや遅滞する中、大阪毎日新聞社特別社員の慫慂の方を選ぶ)。が、もし芥川龍之介が慶應義塾大学英文科教授となっていたら、「彼等を生んだ祖國の文藝には通じてゐない」ことを寧ろ誇りとし、古文はおろか、漢詩文の訓読さえもよう出来ぬような新時代の若き大学生を前に、龍之介はさらにさらに憂鬱を深くしていたであろうと考えると、なにとなく慄っとしてくるのである。

・「臨床的」対象(医学上は患者)に直接対峙し(病床に臨み)、個別に実地に患者の診療に当たること。或いは、そこから得られた理論や旧来の主張からは得難い現実に即した知見をも指す。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 運命

 

       運命

 

 運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」と云ふ言葉は決して等閑に生まれたものではない。

 

[やぶちゃん注:・「等閑」「なほざり(なおざり)」と訓じておく(筑摩全集類聚版は音「とうかん」でルビする)。真剣でないこと。中途半端にやらしたままに放っておくこと。

・「運命は性格の中にある」多くのネット記載がこれを芥川龍之介の名言としているが、解せない。この叙述から見てもこれは鈎括弧で括られ、「決して等閑に生まれたものではない」と断定するのは、これが既に先人によって語られていることを示す。自由意志論の論議から見ても、これは古代ギリシャのものであろう。ネット検索からはアリストテレスの格言と称して「運命は性格なり。」「その人の性格は、その人の行動の結果である。」といった言葉を見出せる。但し、出典が分からない(私はアリストテレスの著作は生物学・動物学しか所持しない)。識者の御教授を乞うものである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 理性

 

       理性

 

 理性のわたしに教へたものは畢竟理性の無力だつた。

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介は「侏儒の言葉」の中で、しばしば「理性」については語ってきている。しかし思ったより、ここまででの「理性」という語の使用回数は実は少ない。全部数え上げても、たった八項目で十回である。そうして、「又」で連射するのが好きな龍之介が、この遺稿では敢えて、前に三章を挟んで、別な理性」の独立項を立てている。これは「侏儒の言葉」中の特異点である。その先行する理性」をここに再掲しておく(因みに、この標題の「理性」も数えて十であるから、これ以外には八回の使用となる)。

 

       理性

 

 わたしはヴォルテェルを輕蔑してゐる。若し理性に終始するとすれば、我我は我我の存在に滿腔の呪咀を加へなければならぬ。しかし世界の賞讃に醉つたCandideの作者の幸福さは!

 

しかも、先行する「理性」を語った条々、「鼻」「神祕主義」「自由意志と宿命と」「兵卒(第一章)・「多忙」「女人」理性」(前掲項)・「女人崇拜」を見るに、「理性」という語が「無力」でなく肯定的積極的にプラグマティクなものとして語られているのは「兵卒」の第一章のみである。文学史に於いて理智派などと自分が呼ばれていると知ったなら、芥川龍之介は草葉の蔭でも卒塔婆で喉を突いて再度、自死しそうである。]

2016/06/11

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 女人崇拜

 

       女人崇拜

 

 「永遠に女性なるもの」を崇拜したゲエテは確かに仕合せものの一人だつた。が、Yahooの牝を輕蔑したスウィフトは狂死せずにはゐなかつたのである。これは女性の呪ひであらうか? 或は又理性の呪ひであらうか?

 

[やぶちゃん注:・「永遠に女性なるもの」岩波新全集の奥野政元氏の注に、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の「ファウスト」(Faust 第一部は一八〇八年、第二部はゲーテの死の翌年の一八三三年に発表)の『結末で、ゲーテが讃美した聖母のイメージとして表現されたもの「永遠の女性が、高い空へ われわれを導く』(大山定一訳)という言葉で「ファウスト」は終る。芥川は「西方の人」で(リンク先は私の作成した「西方の人」(正續完全版))、これを「永遠に守らんとする者」と言いかえている』とあり、筑摩全集類聚版では、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」(Wilhelm Meisters Wanderjahre 一八二一年)などに『その崇拝の念を強く窺うことができる』と注する。奥野氏のいうのは、死の直前に脱稿した「西方の人」の第二章「マリア」で、

   *

       2 マリア

 

 マリアは唯の女人だつた。が、或夜(よ)聖靈に感じて忽ちクリストを生み落した。我々はあらゆる女人の中に多少のマリアを感じるであらう。同時に又あらゆる男子の中(うち)にも――。いや、我々は爐に燃える火や畠の野菜や素燒きの瓶(かめ)や巖疊(がんでふ)に出來た腰かけの中にも多少のマリアを感じるであらう。マリアは「永遠に女性なるもの」ではない。唯「永遠に守らんとするもの」である。クリストの母、マリアの一生もやはり「涙の谷」の中(なか)に通(かよ)つてゐた。が、マリアは忍耐を重ねてこの一生を歩いて行つた。世間智と愚と美德とは彼女の一生の中(うち)に一つに住んでゐる。ニイチエの叛逆はクリストに對するよりもマリアに對する叛逆だつた。

   *

と述べているのを指す。

・「Yahoo」イングランド系アイルランド人の司祭にして痛烈な諷刺作家であったジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift 一六六七年~一七四五年)が書いた「ガリヴァー旅行記」(Gulliver's travels:原書初版は世論の批判をかわすために決定稿を改変して一七二六年に出版、一七三五年には本来の決定稿完全版が出版されている。なお、この作品の正式な題名は「Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of several Ships」(「船医から始まり、後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーに拠る、四篇から成る、世界の僻遠の国々への旅行記」)である)の最終篇である、馬の国来訪記「第四篇 フウイヌム国渡航記」(Part IV: A Voyage to the Country of the Houyhnhnms)に登場する、馬の姿をした種族フウイヌムが家畜として登場する、毛深く、不潔で、醜悪にして狡猾強欲な人間型生物。ウィキの「ガリヴァー旅行記によれば、『ヤフーは』、『人類を否定的に歪曲した野蛮な種族であり、ヤフーの中には退化した人間性がある。ヤフーは、酩酊性のある植物の根によるアルコール中毒に似た習慣を持っており、絶え間なく争い、無益な輝く石を切に求めている。ガリヴァーと友人のフウイヌムは、人間とヤフーについての記録を比較し、二匹のヤフーが輝く石を巡って争っている隙に三匹目が石を奪い取るというヤフーの行為と訴訟や、特に理由も無いのに同種族で争い合うヤフーの習性と戦争のような、二種族の類似性を発見する。ガリヴァーが自国の人間の文明や社会について戦争や貧富の差も含めて語った友人のフウイヌムからは「ヤフーはまだ武器や貨幣を作るような知恵が無いから争いは小規模で済むが、お前達のように知恵をつけたらより凄惨な事態を招くのだろうな」と苦々しげに評された。ガリヴァーの国における馬が、飼い馬はもちろん野生のものまで荒々しくも誇り高く、ヤフーのように粗野で卑しい存在ではないことも決定打となった』。『ヤフーは毛深い体と鈎爪により人間と肉体的に異なっているが、雌のヤフーに性交を挑み掛かられた後に、ガリヴァーは自分はヤフーであると信じるようになる。それ以来、ガリヴァーはフウイヌムであることを切望するようになった。しかしながら、ガリヴァーがフウイヌム達の議会において「知恵や理性はあるが結局はヤフーと同一の存在」と判決を受け、常日頃からフウイヌム達がヤフーを害獣として淘汰していく方針を進めていたため、処刑されるかフウイヌム国を出ていくよう言い渡され、ガリヴァーは打ちのめされながらも』、『友人のフウイヌムに申し訳なさそうに見送られ』、『国を旅立った。故国に帰り着いた後も、ガリヴァーは自分のできる限り人間性(彼からすれば人間ヤフーである)から遠ざかろうと考え、自分の妻よりも厩舎の臭気を好んだ。フウイヌムから習った言語で厩舎の馬達と会話をしている時だけ心が落ち着いたという』とある。私が現在、自筆原稿復元版を作成中(ブログ・カテゴリ「原民喜にて)の原民喜訳の「バリヴァー旅行記」の現行版のラスト・シーンは「家に入ると、妻は私を両腕に抱いてキスしました。だが、なにしろこの数年間というものは、人間に触られたことがなかったので、一時間ばかり、私は気絶してしまいました。」で終っているが、自筆稿ではその後に、「家へ戾つてから、初めの一年間は私は妻子と一緒にゐるだけでも堪らなかつたのです。臭が我慢できなかつたし、一つ部屋で一緒に食事などする氣にはなれませんでした。」という文が続いている。

・「スウィフトは狂死せずにはゐなかつた」「人間らしさ」の項と私の注を参照されたい。

・「これは女性の呪ひであらうか? 或は又理性の呪ひであらうか?」この部分の解釈は少なくとも私にはやや難しい感じがする。「Yahooの牝を輕蔑したスウィフト」が「狂死」という選択肢しかなかったのは、「女性の呪」いに因るものなのか? それとも「理性の呪」いに因るものなのか? 孰れとも判じがたい、と芥川龍之介は言うのである。まず前者は、ガリヴァーはヤフーのに性交を挑まれかけた時に、自分が下等な彼らと同等の野蛮人であると認識しながらも、それから逃げた。然も、帰国して妻にキスされた途端に失神し、その妻の体臭に堪えられずなって、食事も妻と寝る(性交)ことをも嫌悪するようになり、遂には厩に馬と一緒に住むことだけが至福となるに至る。そんな強烈なあらゆる女性への生理的嫌悪で作品を終わらせたスウィフトに、全人類の「女性の呪」いがかかって、作者である彼が狂死したのか? という疑問である。一方、後者はどうであろう? 後に司祭となる彼は、二十一の時に出逢った少女ステラ(Stella:スウィフトがつけた愛称。本名はエスター・ジョンソン(Esther Johnson)。彼の使用人の一人娘で父は不詳)を愛し(ステラ二十歳の一七一六年頃には二人は密かに結婚していたと考えている)たが、一七二八年に彼女を病気で失い、一七三八年には病気の徴候が顕れ、一七四二年に発作を起こして『会話する能力を失うとともに精神障害になるという最大の恐怖が実現化した(「私はあの樹に似ている」と彼はかつて言った。「頭から先に参るのだ」)』とウィキの「ジョナサン・スウィフトにある。女性を蔑視しながら、その実、ステラとの愛欲に生きた彼に超自我たる「理性の呪」いがかかって狂死したのか?……分からない……しかし「人間らしさ」の注で私が記したものを再度、掲げておくなら、ウィキには記載がないが、彼の罹患していた疾患は実は梅毒性の神経障害であった。その罹患はダブリン大学トリニティ・カレッジ(Trinity College, University of Dublin)在学時代に買った売春婦からうつされたものであったが、スゥイフトは自分が梅毒に罹患していることを知っており、それが進行して発狂するのではないかということを非常に恐れていたことは事実である。これは芥川龍之介が母の精神病が自分に遺伝していて、自分もいつか発狂するのではないかと恐怖していたことと、ある意味、ごく相似的である点には着目しなければならぬ(また同じく龍之介には売春婦から梅毒をうつされたのではないかという恐怖が実際にあったこともほぼ確実であり、その点でも「相似」どころか「相同」でさえあると私は思う)。しかしここでどうして言っておかなくてはならないのは、一般に現在でもそう思われ(筑摩前主類聚版脚注も『政治問題にも関心を持ったが志を得ず、不満と絶望のうちに晩年発狂』とし、岩波新全集の山田俊治氏注も『狂死』、新潮文庫の神田由美子由氏も『恋人の死後、絶望のうちに発狂』とある)、龍之介も「發狂」と明記しているのであるが、実際にはスウィフトには最後まで「発狂」と表わすような顕在的な精神障害は全く起こっていないというのが、現在の最新の見解であるのでごくごく注意されたい小島弘一氏の論文「ジョナサン・スウィフト、悪疾と諷刺」(PDF)に非常に詳しい(但し、スゥイフトの梅毒による発狂恐怖の念慮が心因性精神疾患を惹起させた可能性は十分にあると私は思っている)。「狂死」ではないにしても、梅毒性の神経障害ならば、「理性の呪」いならざる、理性を掌る、物理的な――脳の呪い――ではあったと言えよう。]

優しき歌――旅のをはりに   立原道造

 

  優しき歌

    旅のをはりに

 

かへつて來たのが

いけなかつた?……私らは

曇り日の秋の眞晝に 池のほとりの

丘の上では いつかのやうな話が出來ない

 

黃ばんだあちらの森のあたりに

明るい陽ざしが あればいいのに!

……なぜ こんなに はやく 私らの

きづいたよろこびは 消えるのか

 

手にあまる 重い荷のやうに

昨日のしあはせは 役に立たない

 

私の見て來た 美しい風景らが

おまへの眼には とほくみなとざされた……

 

私らは 見知らない人たちのやうに お互ひの

足音に 耳をすませ 最初の言葉を待つてゐる

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。]

優しき歌   立原道造

 

  優しき歌

 

それを 私は おもひうかべる

暑いまでに あたたかかつた 六月の叢(くさむら)に 私たちの

はじめての會話が 用意されてゐたことと

白銀色に光つた 靑空の下のことを

 

そして

物音も絶えた しかし

にぎやかだつた あのひとときに

あのひとことが 不意に 私の唇にのぼつたことを

おまへは 拒まなかつた……

私は いま おまへを抱きながら

閉ぢられたおまへのうすい瞼に あの日を讀むやうにおもひうかべる

 

それはあやまちではなかつたらうか いまもなほ悔ゐではなかつたらうか

だが しかし ゆるやかに 私たちの眼(まな)ざしの底から

熱い夢のやうな しあはせが 舞ひのぼる 陽炎のやうに

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。「悔ゐ」はママ。]

くりひろげられた 廣い 野景に   立原道造

 

  くりひろげられた 廣い 野景に

 

くりひろげられた 廣い 野景に

私は 夜の明けてゆく おまへの故郷を見た

ゆるやかな起伏は あざやかな綠と

沈んだ土の色とに 色どられて 薄紗(はくさ)を一枚づつ剝(は)いで行つた

 

私は 立ちどまらなかつた 私は

片方の眼でそれを見たばかりで

いつの間にか 步みすぎてしまつてゐた……

いま とざされた 私の内に もどつてゐる

おまへは 私のかたはらに立つてゐる

私はおまへにたづねる――あの野を灌漑する

小川にかかつた石の橋や 咲きみだれてゐた紫の花のことを

 

私たちは いま たつたひとつの眼を持つてゐる

おまへの言葉は あの繪のなかで 川のほとりで

午前の光にみたされた 微風のやうにやはらかい

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。第一連「剝いで」の漢字は底本の用字。「薄紗」薄くて軽い織物で、言わずもがな、野の擬人法である。]

詩抄   立原道造

 

  詩抄

 

   1

 

鳥は高く空に飛び

夕陽は私らの眼を射る

この秋の最終の靑い葡萄は

私らの掌(てのひら)にある

 

それは

もう追憶となつた日々を

飾るだらうと 私らはおもふ そして

約束はつひに果されずに終つた と

 

やすらかに きらめいてゐる

私のけふの夕映えよ しづかな

おまへの 山の姿よ

 

ふたたび 美しく告げられた

この意味をみたす日はいつかへり來る?

――時だ! すべてが いまは やさしく をはつた!

 

 

 

   2

 

おそらくは これが 最后の

夕べとなるのだらう――

村は しづかに 夕靄(ゆうもや)に包まれ

鐘の音が野をみたしてゆく

幸福だつた 私らの日々よ

あの明るい花やかな夕映えは

決して 私らの幻影ではない

 

……すべてのとりいれのすんだあと

いまさびしい野のおもてに

風は渡り 乾いた土に描いてゆく

とうに ひとつの追憶となつたものを

 

この意味は いつ みたされる?

優しい問ひに こたへるすべもなく

私らの心は ただかすかに うなづきあふばかりだ

 

 

 

   3

 

だれがいま ここを 立ち去らうとして

ゐるのだらう? ――僕が だらうか?

明るい 花やかな夕映えよ この 短い時の間に なぜ

きのふ見たものを 僕はおもひ返すのだらうか?

 

さびしい野がひろがつてゐる

ふたたびは かへらない一切が 僕の窓に

この僕の最終に語りかける

かつて見なかつた美しい言葉で

 

出發だ――何のために? あの夕映えの赤が

澄みきつて ひびきわたる

この頰に つめたく風は ささやく

 

すべてが 夜にかはらうとするゆるやかさのなかに

ひとり あわただしく この心は急いでゐる

だが僕を 呼びつづけるのはだれだらう?

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。第「2」章第一連の「夕靄(ゆうもや)」の「ゆう」はママ。底本解説でで編者の杉浦明平氏は、振り仮名を増補したが、歴史的仮名遣で統一したと言っておられ、すこぶる不審である。]

どこの空だつたのだらう   立原道造

 

  どこの空だつたのだらう

 

     Ⅰ

 

 どこの空だつたのだらう。もうおぼえてゐない。美しい夕映えがかかつてゐてその下に董色(すみれいろ)の山の影繪がジグザグの線を切り拔いてゐた。そして、ひとりの靑年が靑い上衣を着て、みねの上に立ちつくしてゐるのがその風景のなかからはみだして見えた。この靑年は彫像のやうにしづかに步いた。氣温はつめたくなつてゐた。長いこと、その固い透明な時間がつづいた。鳥が一羽西の空から南の空へ大氣の磁器にひびいらせて飛んだ。それに耐へかねて夕闇が急に落ちた。家の内部に洋燈(ランプ)がともつた。靑い上衣の靑年がみねの上をゆるやかな足取りで降りて行くのが見えた。月がそれを照らしはじめたのだ。

 

     Ⅱ

 

 長い長い白い道だつた。石はすべて渇いてゐた。空靑く澄みとほつてゐた。脊の高いポプラの木が日にキラキラと光つてゐた。眞晝だ。

 どこへ行くのだらうか。海はないだらうか。海があつたら、どうするのだらうか。船はないだらうか。船があつたら、どうするのだらうか。どの問ひにも答へはなかつたから、くりかへしくりかへしたづねてゐた。どこへ行くのだらうか。……

 かぎりない曠野であつた。脊の高いポプラの木が日にキラキラと光つてゐた。地は靑い草に蔽(おほ)はれ、熱い草いきれに、風景は歪んでゐた。眞晝だ。

 太陽と光とだけがあつた。

 どこへ行くのだらうか。

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。「洋燈」の「燈」は底本の用字。]

靜物   立原道造

 

  靜物

 

夜更けて 燈火の下で

私のペン 私のインク壺

そして黑い布に蔽(おほ)はれた机

私は お祈りをするやうに これを書く

ことさらに白い紙の上に――

 

眠るがいい ちひさいいのちよ

睲(さ)めたとき 明日がもつととほく

きらきらと おまへの上に

溢れこぼれるだらう

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。「睲」の字はママ。「見る・瞳が輝く」の意はあるが、立原道造自身の「醒」の誤字ではなかろうか。]

快復   立原道造

 

  快復

 

私の心が傷ついたとて

それを私はいまはおそれない

ひとつの聲が正しく命じる

――地に忠であれ! と

 

私はここにふたたび歸つて來た

かなしみも にくしみもまた

ひとつに溶けた……昨日と今日とが

いりまじる深い淵に――

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。]

風詩   立原道造

 

  風詩

 

丘の南のちひさい家で

私は生きてゐた!

花のやうに 星のやうに 光のなかで

歌のやうに

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。題「風詩」は暫く「かざうた」と訓じておく。根拠はない。ただ私の好みである。]

アダジオ   立原道造

 

  アダジオ

 

光あれと ねがふとき

光はここにあつた!

鳥はすべてふたたび私の空にかへり

花はふたたび野にみちる

私はなほこの氣層にとどまることを好む

空は澄み 雲は白く 風は聖らかだ

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。「アダジオ」(イタリア語 adagio)音楽速度標語の一つ。「緩やかに」の意(原義は「寛(くつろ)ぐ」)。或いはその速さで演奏する曲や楽章をも指す。]

北   立原道造

 

  北

 

ちひさな耳の きき分けない

秋の歌は 空のあちらを

渡つてゐるやうだ――

山が 日に日に 色をかへはじめる

私の行けないあのあたりで

まだもつと向うに何かがある

靑い嘴を持つ小鳥らが

それを私に告げながら

枝に疲れをやすめてゐる

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。]

この闇のなかで   立原道造

 

  この闇のなかで

 

この闇のなかで 私に

うたへ と呼びかけるもの

この闇のなかで だれが

うたへ と呼びかけるのか

 

時はしづかだ 私らの

ちひさいささやきに耐へぬほど

時はみちてゐる 私らの

ひとつの聲で 溢れ出るほど

 

とほい涯のやうに闇が

私らを拒んでゐる つめたく

身體は 彫像のやうだ

 

しかし すでに この闇の底に

信じられない光が 信じられる

私らの聲を それは 待つてゐる!

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。]

 

昨日と今日とがいりまじる   立原道造

 

  昨日と今日とがいりまじる

 

昨日と今日とがいりまじる

僕のなかの 深い淵に

萎(な)えた僕のにくしみよ

身を投げるがいい 消えるがいい

 

おまへが眠れようが 眠れまいが

僕の知つたことではないのだ

この あはれな 恥も知らない魂よ

出て行くがいい くらい夜のなかへ

 

外に 秋は まだつづいてゐる

靑白くつめたい光が

蟲たちをうたはせてゐる

 

だれが ここに 耐へてゐて

明日を待ちわびてゐる?

聞くすべもない 大きな 夜の歌

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。]

それが どういふことか――夜の歌   立原道造

 

  それが どういふことか

     夜の歌

 

それが どういふことか

僕は とうに 知つてゐるのだ

おろかしいこととも あるひは

ひどいこととも しかし それを

僕は ふせがうとはしない

 

窓の外で 風が 雨をかきみだす

その叫びが 僕の内からのやうに

僕に 語りかける――あれは いま

 

歩きなやんでゐる

倒れかかるやうに 光のとぼしい道を

歩きなやんでゐると

 

ここはしつかだ 花やいだ

燈の下には紫の花が咲いてゐる

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。]

僕は おまへに――夜の歌   立原道造

 

  僕は おまへに

     夜の歌

 

僕は おまへに

何も ねがはなければ

何も 強(し)ひはしない(――おまへはふたたびかへらないだらう)

そして 拒むことなく おまへを

去らせる 夜のなかへ なほとほく

 

つめたい雨が降つてゐるのを

僕は おまへに をしへよう

おまへが そこで そのやうに

ためらつてゐるのは 何であるかを

僕は とうに 知つてゐるのだ

 

おまへの大きな聲が

犬たちの吠えるのを叱りながら

きこえなくなるときに

やうやく 僕は ひとりになつて

僕の内の言葉に耳をすます

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。]

優しき歌――光のなかで   立原道造   

 

  優しき歌

     光のなかで

 

風は あちらの梢で

僕を招いてゐるが 僕は

ここを離れずにゐる

裸の眼にうつる靑い空と白い雲と……

 

僕は いまからは 明るい

太陽と光とばかりを

とらへようとおもふ

影のなかに ながいこと ひとりでゐたが

 

おまへを おもふと 僕は

たしかに つよく 力にみちて來る

 

ここのせまい身のまはりが

こんなにひろく豐かになる

 

しかし それは飾られたのではない

僕らの心が 耐へて さうなるのだ

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 處世術

 

       處世術

 

 最も賢い處世術は社會的因襲を輕蔑しながら、しかも社會的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。

 

[やぶちゃん注:「處世術」巧みなという条件限定での世渡りの方法の意であり、そもそもが処世術という語感には、自分ではそれを正しいとも重要とも思ってなどいない、寧ろ、「輕蔑し」こていることをも、他者にそれを悟られぬように巧みに処理し、脳味噌がつんつるてんの相手を時には上手く馭すという「賢」さを以って、凡愚な連中と和気藹々として、「社會的因襲と矛盾せぬ生活を」しているように美事に他者には見せて、人生を狡猾に生き抜く方法という属性が既にして含意されていると私は思う。さすれば、このアフォリズムは至極全うな――当たり前田のクラッカー的――辞書的な意味として通用するように思われるのである。さればこそ「侏儒の言葉」の中では私には――格落チだ――という気がしないでもないのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自然

 

       自然

 

 我我の自然を愛する所以は、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のやうに妬んだり欺ゐたりしないからである。

 

[やぶちゃん注:既出の「幼兒」の第一章、「我我は一體何の爲に幼い子供を愛するのか? その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない爲である。」の相似形であるが、私は遙かに劣る気がする。もしかすると寧ろ、芥川龍之介はこのアフォリズムから導かれるもう一つの意味――自然の人智を超えた暴威――をこそ、示したかったのではあるまいか?

   《仮想版開始》

 我我の自然を愛する所以は、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のやうに妬んだり欺ゐたりした果てに、それを動機として相手を傷つけたり、死に至らしめたりはしないからである。即ち自然は頗る不条理に自分を含めた人を殺して呉れるからである。

   《仮想版終了》

・「所以」「ゆゑん(ゆえん)」。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 理性

 

       理性

 

 わたしはヴォルテェルを輕蔑してゐる。若し理性に終始するとすれば、我我は我我の存在に滿腔の呪咀を加へなければならぬ。しかし世界の賞讃に醉つたCandideの作者の幸福さは!

 

[やぶちゃん注:「ヴォルテェル」フランスの文学者・思想家として知られるヴォルテールは、本名をフランソワ=マリー・アルエ("Voltaire" François-Marie Arouet 一六九四年~一七七八年)という。ウィキの「ヴォルテール」によれば、『姓はアルーエとも表記され』、『 Voltaireという名はペンネームのようなもので、彼の名のArouetをラテン語表記した"AROVET LI" のアナグラムの一種、「ヴォロンテール」(意地っぱり)という小さい頃からの渾名(あだな)をもじった等、諸説ある』とある。以下、平凡社「世界大百科事典」の中川信氏の解説から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『啓蒙思想の代表的存在で、生前の影響力は全ヨーロッパに及び、十八世紀を〈ボルテールの世紀〉と呼ぶほどである。ことに文学者の社会参加の伝統を確立した、晩年の実践活動は特記されよう。パリの裕福なブルジョアの生れで、ルイ・ル・グラン学院で古典的教養を修得の後、一時は父親の希望で法律を学ぶが、まもなく文学を志す。早くから自由思想家の影響下にあった彼は、一七一七年』、『摂政オルレアン公を風刺した詩を書いたかどで、バスティーユに約一年投獄される。翌十八年処女作の悲劇「オイディプス」』(Oedipe 一七一八年)『の大成功で社交界の注目を集め,この頃よりボルテールの筆名を名のる。アンリ四世をたたえた叙事詩「アンリアッド」』(La Henriade 一七二三年)に『よって、その文名を確固たるものにする。名門貴族ロアンとの口論がもとで、無法な侮辱を受けたばかりか、不当にも再度バスティーユに投獄される』(一七二六年)。『海外亡命を条件に釈放され、イギリスに渡り、この国の政治・思想・言論の自由に深い感銘を受ける。また、シェークスピア劇のエネルギーに感嘆する反面、古典派作家として反発を覚える。帰国』(一七二九年)『後その影響のうかがえる悲劇数編を著したが、そのなかには代表作「ザイール」』(一七三二年)がある。『滞英中に構想された「シャルル十二世伝」』Histoire de Charles XII 一七三〇年)は『歴史分野の最初の著作であるが、偉人とは戦場での勝利者ではなく、人類の進歩と幸福に貢献した人物であるという彼の史観の基本的立場が表明されている。続く』「哲学書簡(Lettresphilosophiques 英語版一七三三年・フランス語版一七三四年)は『滞英見聞報告にことよせて、フランスの政治・宗教・哲学などをきびしく批判した、〈フランス旧政体に投ぜられた最初の爆弾〉である。本書は発禁処分となり,著者は投獄を免れるため,愛人シャトレ侯爵夫人の所領で』、ドイツ『国境に近いシレーに逃れ、以後約十年間は悲劇「マホメット」』(Mahomet, ou le Fanatisme 一七四一年:「マホメット、又は狂信)・「メロープ」(Mérope 一七四三年)などの『著述・研究・科学実験などに費やされる。一七四四年ころからルイ十五世の愛妾ポンパドゥール夫人や友人のとりなしで、ベルサイユに宮廷詩人として迎えられ、修史官』(一七四五年)、『アカデミー会員』(一七四六年)『となる。哲学小説「ザディーグ」』(Zadig ou la Destinée, Histoire Orientale 一七四七年:ザディーグ或いは運命、東洋の物語)に『その一端がみられるように、国王にうとんじられ、そのうえ愛人の急死による精神的打撃もあり、プロイセン王の招きに応じ、ベルリンに向か』い(一七五〇年)、『フリードリヒ二世に文芸の師として仕えるかたわら、史書の代表作「ルイ十四世の世紀」(Le Siècle de Louis XIV 一七五一年)を『書き終えたほか、哲学小説「ミクロメガス」』(Micromégas 一七五二年)などを公にする。国王との友情に破綻が生じ、啓蒙君主フリードリヒに失望』、一七五三年に『ベルリンを退去。一年半各地を転々の末』、一七五四年の暮れ、『ジュネーブに到着、翌』年に『郊外に求めた邸を〈レ・デリス(快楽荘)〉と命名する。ここで世界文明史「習俗論」』(Essai sur les Moeurs et l'esprit de nations 一七五六年;「諸国民の風俗と精神について」)や『哲学小説の代表作「カンディド」』(Candide ou l'optimisme 一七五九年:カンディド又は楽天主義)を『著す。宗教問題などの発言から、ジュネーブ市当局と気まずくなったのを機に、スイス国境のフランス領の寒村フェルネーに土地を買い求め』、一五六〇年に移住。『両国に足場をもち、身の安全と自由を確保した〈フェルネーの長老〉は、ヨーロッパの知識人の指導者として、〈恥知らずをひねりつぶせ〉のスローガンをかかげ、旧政体・教会批判のさまざまな形式の戦闘的匿名文書を』矢継ぎ早に『発表する。また地域の産業振興や免税運動に尽力するほか、カラス事件』(一七六二年十月にフランス南西部ラングドック地方の主要都市トゥールーズのカラス家で二十九歳の長男マルク=アントワーヌ・カラスが怪死したことに端を発するもので、改宗しようと悩む青年が狂信的な新教徒一家の共謀によって殺害されたという冤罪に仕立てられ、父親が死刑に処せられた事件。ヴォルテールらの尽力により一七六五年三月に再審無罪で名誉回復した。山野光正氏のブログ「Kousyoublog」の『「カラス事件」歴史を変えた18世紀フランスのある老人の冤罪死』に詳しい経緯が載る)やラ・バール事件(一七六五年にセーヌの名橋ポン・ヌフで、十字架が傷つけられ、偶像破壊の罪により逮捕された青年シュヴァリエ・ド・ラ・バールの持ち物から当時、禁書であったまさにヴォルテールの「哲学辞典」(Dictionnaire philosophique 一七六四年)が発見され、異端審問によって翌年に斬首された上、ヴォルテールの「哲学辞典」とともに火あぶりにされた冤罪事件。ボルテール没後のずっと後の一七九一年に名誉回復した。ここはネット上の複数の記載を参考にした)などの『狂信や偏見のために死刑判決を受けた人びとの名誉回復の再審活動に乗り出す。これらの実践活動の所産である「寛容論」』(Traité sur la Tolérance 一七六三年)、辛辣な『文明批評エッセー集「哲学辞典」『はこの時期の代表作である』。一七七八年、『自作の悲劇「イレーヌ」』(Irène 一七七八年)『の上演に立ち会うため、二十八年ぶりにパリに戻った彼は市民の熱狂的歓迎を受けたが、疲労から死去した』。『生前の悲劇詩人としての名声は今日色あせてしまったが、風刺に富んだ、明快な文体の哲学小説、合理的立場に立脚した歴史著作、啓蒙・批判を目的とする軽妙な文明批評などの散文の著書は、一万数千通にのぼる膨大な書簡(彼の最高傑作という評価もある)とともに、彼をフランス知性を代表する存在としている。そして彼の偉大さは、その思想的独創性よりは、人間の自由と幸福を阻むものへの激しい戦闘的精神活動にあるといえる。また。ディドロ・ルソーらとともに百科全書派(アンシクロペディスト)の一人として重要な役割を果たした』とある。

 芥川龍之介には二十六歳の時に、大正七(一九一八)年五月の『帝國文學』にヴォルテールの「Voltaire publie Lettre d'un Turc sur les fakirs à son ami Bababec」(一七五〇年:「ヴォルテールが公にする行者たちと彼の友人ババベックに就いてのトルコ人の手紙」)を翻訳した「ババベツクと婆羅門行者」があり、この頃には寧ろ、ヴォルテールの作品構造へ興味関心が強かったことが窺われる。また、龍之介はアフォリズム「才一巧亦不二」(「さいのいつこうなるもまたにならず」と訓ずる。大正一四(一九二五)年九月『新潮』)の冒頭では、

   *

 ヴオルテールが子供の時は神童だつた。

 處が、或る人が、

 『十で神童、十五で才子、二十過ぎれば並の人、といふこともあるから、子供の時に悧巧でも大人になつて馬鹿にならないとは限らない。だから神童と云はれるのも考へものだ』と云つた。

 すると、それを聞いたヴオルテールが、その人の顏を眺めながら、

 『おぢさんは子供の時に、さぞ悧巧だつたでせうね』

と云つたといふことがある。

   *

というエピソードを載せるが、怪作「河童」では、河童世界の哲学者マツグの書いた「阿呆の言葉」(リンク先は私の電子テクスト。後者は特にその部分を独立させたもの)の抄録の最後の条に、

   *

 若し理性に終始するとすれば、我々は當然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴオルテエルの幸福に一生を了(をは)つたのは即ち人間の河童よりも進化してゐないことを示すものである。

   *

とあきらかな揶揄が出、前に「自由」で全文を引いた「西方の人」の第二十章「エホバ」の中でも揶揄を込めて、

   *

ヴオルテエルは今日では滑稽なほど「神學」の神を殺す爲に彼の劍(つるぎ)を揮つてゐる。しかし「主なる神」は死ななかつた。同時に又クリストも死ななかつた。

   *

と記している。そうして芥川龍之介は「或阿呆の一生」では、自己の文学体験を総括する中で、

   *

 

       十九 人工の翼

 

 彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲學者たちに移つて行つた。が、ルツソオには近づかなかつた。それは或は彼自身の一面、――情熱に驅られ易い一面のルツソオに近い爲かも知れなかつた。彼は彼自身の他の一面、――冷かな理智に富んだ一面に近い「カンディイド」の哲學者に近づいて行つた。

 人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴォルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。

 彼はこの人工の翼をひろげ、易やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴びた人生の歡びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまつ直に太陽へ登つて行つた。丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに燒かれた爲にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘人(ギリシヤじん)も忘れたやうに。……

 

   *

という、彼への愛憎半ばする感懐を漏らしている。同じく「或阿呆の一生」の「三十三 英雄」は既に「レニン」の項の注で引いたが、冒頭のロケーションは。

   *

 彼はヴォルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。氷河の懸つた山の上には禿鷹の影さへ見えなかつた。が、背の低い露西亞人(ロシアじん)が一人、執拗に山道を登りゞけてゐた。

 ヴォルテエルの家も夜になつた後(のち)、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。あの山道を登つて行つた露西亞人の姿を思ひ出しながら。………

   *

昼間(若き日)の「彼はヴォルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた」。が、その「ヴォルテエルの家も」晩年には「夜になつた」と読める、読むように構造されていることが分かる。やはり、龍之介にとってヴォルテールは、ヴォルテールの楽天主義的構成主義は龍之介の人生に大きな影響力を与えてしまったことを語っていると言える。それは最早、取り返しのつかないところまで、である。

・「滿腔」「まんかう(まんこう)」は体中に満ち満ちていることで、体全体・満身の意であるが、同時に心の底からという強意ともなる。

 

・「Candide」ヴォルテールが一七五九年に発表した風刺小説「Candide, ou l'Optimisme」(カンディド、或いは楽天主義)。師であるパングロス(哲学者ライプニッツを揶揄した人物)の教え「この正しい可能な現実世界にあっては、あらゆる事象はすべて最善である」を馬鹿正直に受け入れ、信じて疑わない純真なカンディド青年は、従妹キュネゴンドを恋して追放される。その苦難の遍歴の途次、彼が体験するのは、戦争や地震という現実世界のあらゆる天災や人災であった。結末に至ってキュネゴンドやパングロスと再会し、労働の中に意義を見出して、ささやかな暮らしを立てることとなるが、結句、未だにライプニッツ流の楽天主義を口にするパングロスに対してカンディドは言う、「もっともなことです。しかし、私たちはまず私たちの庭を耕さなければなりません」と。子細な梗概はウィキの「カンディがよい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 女人(二章)

 

       女人

 

 健全なる理性は命令してゐる。――「爾、女人を近づくる勿れ。」

 しかし健全なる本能は全然反對に命令してゐる。――「爾、女人を避くる勿れ。」

 

       又

 

 女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸惡の根源である。

 

[やぶちゃん注:私の偏愛する「侏儒の言葉」の二章であり、高校教師時代の抄録にはいつも引いたがしかし、それを朗読する折りには、しばしば女生徒に対してある種の気兼ねを感じてしまい、何もコメントせずに次に移ることを常としていた。これは私の救いがたい愚かな一面であったと今でも内心、忸怩たるものを感じている。

 

・「爾」「なんぢ(なんじ)」。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 辯護

 

侏儒の言葉(遺稿)
(やぶちゃん合成完全版やぶちゃん注釈)

 

[やぶちゃん注:続けて、「侏儒の言葉(やぶちゃん合成完全版)」の「侏儒の言葉(遺稿)」パートの注釈の入る。これは芥川龍之介自裁(昭和二(一九二七)年七月二十四日)の凡そ二ヶ月強後の十月一日、及びその二ヶ月後の十二月一日発行の雑誌『文藝春秋』に「侏儒の言葉(遺稿)」の標題で掲載され、後に単行本「侏儒の言葉」に、生前の公開分の「侏儒の言葉」と併せて巻頭に載った(同単行本はそれに続いて、澄江堂日記――中雜記追憶文藝的な、餘りに文藝的な」を併載する)。これを同単行本に併載した意図(社主にして龍之介盟友の菊池寛の意図と考えてよい)は、前項、即ち、生前発表龍之介って「侏儒の言葉」最終条)作家」の私の注の最後の部分を読んで貰うと、概ね、御理解戴けるものと思う。

 なお、同単行本「侏儒の言葉」の最後に掲げられた編者注記らしきもの(標題なし)の冒頭には以下のように書かれてある。

   《引用開始》

一、「侏儒の言葉」の本文は他の著作集と同じく、雜誌「文藝春秋」の切り拔きに著者自身手を加へむものに據つた。その爲「神祕主義」他二、三のものが省かれることになつたのである。

但し、「辨護」以下の侏儒の言葉は「侏儒の言葉」の序文と共に著者が、特に書き加へた未曼

表原稿(これは此の本と同時に雜誌「文藝春秋」紙上に發表されるもの、)に據つた。

   《引用終了》

以上の『辨護』の「辨」はママ(単行本の本文は「辯」となっている)。また、『「神祕主義」他二、三のものが省かれることになつた』とあるが、実際に省かれたものは「神祕主義」「或自警團員の言葉」「森鷗外」「若楓」「蟇」「鴉」全六篇に及ぶ(この削除の龍之介の推定意志については省略された各項で既に考察した)。

 また、「侏儒の言葉(やぶちゃん合成完全版)」では、ここに「侏儒の言葉」を『文藝春秋』に連載時期に書かれたと推定される「侏儒の言葉」に酷似した未定稿一種と、二種の草稿を挟んであるが、この注釈版ではそれらはこの後に配することとした。]

 

 

 

       辯護

 

 他人を辯護するよりも自己を辯護するのは困難である。疑ふものは辯護士を見よ。

 

[やぶちゃん注:遺稿巻頭。芥川龍之介の晩年を考える時、これは強い実感に基づく、苦渋の言葉であることが分かる。この事実は既に注しているのであるが、龍之介の次姉ヒサは獣医葛巻義定と結婚し、義敏(既注。龍之介の甥で龍之介よく可愛がって面倒をみた。後に作家・評論家となる)をもうけるも、明治四三(一九一〇)年に両親は離婚した。ヒサはその後、弁護士西川豊と再婚するが、彼は偽証教唆で失権、昭和二(一九二七)一月には自宅の火事が彼の保険金目当ての放火と疑われ、その取調中に失踪、千葉で鉄道自殺を遂げた(この後、ヒサは元夫の義定と復縁している)。その後処理のために龍之介は奔走、疲弊した。この時の波状的な精神疲労は、微妙に彼の厭世傾向を加速させたように私は考えている。]

2016/06/10

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 作家(十一章)

 

       作家

 

 文を作るのに缺くべからざるものは何よりも創作的情熱である。その又創作的情熱を燃え立たせるのに缺くべからざるものは何よりも或程度の健康である。瑞典式體操、菜食主義、複方ヂアスタアゼ等を輕んずるのは文を作らんとするものの志ではない。

 

       又

 

 文を作らんとするものは如何なる都會人であるにしても、その魂の奧底には野蠻人を一人持つてゐなければならぬ。

 

       又

 

 文を作らんとするものの彼自身を恥づるのは罪惡である。彼自身を恥づる心の上には如何なる獨創の芽も生へたことはない。

 

       又

 

 百足 ちつとは足でも步いて見ろ。

 蝶 ふん、ちつとは羽根でも飛んで見ろ。

 

       又

 

 氣韻は作家の後頭部である。作家自身には見えるものではない。若し又無理に見やうとすれば、頸の骨を折るのに了るだけであらう。

 

       又

 

 批評家 君は勤め人の生活しか書けないね?

 作家 誰か何でも書けた人がゐたかね?

 

       又

 

 あらゆる古來の天才は、我我凡人の手のとどかない壁上の釘に帽子をかけてゐる。尤も踏み臺はなかつた訣ではない。

 

       又

 

 しかしああ言ふ踏み臺だけはどこの古道具屋にも轉がつてゐる。

 

       又

 

 あらゆる作家は一面には指物師の面目を具へてゐる。が、それは恥辱ではない。あらゆる指物師も一面には作家の面目を具へてゐる。

 

       又

 

 のみならず又あらゆる作家は一面には店を開いてゐる。何、わたしは作品は賣らない? それは君、買ひ手のない時にはね。或は賣らずとも好い時にはね。

 

       又

 

 俳優や歌手の幸福は彼等の作品ののこらぬことである。――と思ふこともない訣ではない。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年十一月号『文藝春秋』巻頭に(十月号には芥川龍之介「侏儒の言葉――病牀雜記――が掲載されているが、これは病中と名打つからには仕方がないとも言えるものの、本来の「侏儒の言葉」の属性とは異なり、ひどく弛緩した雑記録風のものである。芥川はこの前月初旬、静養先の軽井沢(八月二十日より滞在)で感冒のために四~五日病臥し、小穴隆一や堀辰雄らが看病をしたとあり、病態はかなり重いものであったらしい。九月七日に帰京するも、数日後の十二日前後にぶり返し、再び二十日迄、病臥している。これはその二十日前後の時期の執筆と推定される。リンク先は私の電子テクスト)、以上の全十一章で初出する。

 

・「瑞典式體操」筑摩全集類聚は「瑞典」に『スヱエデン』とルビする。採る。スウェーデン体操(Swedische Gymnastik)は十九世紀の初めにスウェーデンの近代体育の先駆者であったリング(Pehr Henrik Ling 一七七六年~一八三九年)が創始した体操。生理学・解剖学理論を基礎として構成されており、特に教育体操と医療体操に特色がある。スウェーデン体操の特質は、(一)科学的である。つまり指導が段階的に行われる。(二)年齢に応じて発展的に教材を配列でき、性別に関係なく実施できる。(三)身体各部分の運動を含み全身的である。(四)保健的、矯正的特色をもっている。(五)準備運動、整理運動としても優れている。しかしその反面、興味に乏しい、人為的、形式的で日常生活との関係が薄い、律動性に乏しい、運動が局部的などの欠点もあった。日本には明治三五(一九〇二)年に紹介され、学校体育の中心教材として取り入れられ(ここまでは小学館「日本大百科全書」の上迫忠夫氏の解説に拠った)永く日本の体操の根幹を成したが、個々には完成を見なかった。

・「複方ヂアスタアゼ」「diastase」ジアスターゼはデンプンを分解する酵素に用いられた名称で、一八三三年にフランスのパヤン(Anselm Payen 一七九五年~一八七一年)とペルソ(Jean François Persoz 一八〇五年~一八六八年)によって麦芽から分離された。主成分はアミロースを分解するアミラーゼである。よく名を聴く「タカジアスターゼ」は高峰譲吉博士が明治(一九〇九)年に創製した酵素剤の商標で、米麹菌から抽出されたもの。アミラーゼのほかにタンパク分解酵素をも含む。ジアスターゼ製剤には他に「ジアスターゼ重曹散」「複方ジアスターゼ重曹散」「複方ロートエキス・ジアスターゼ散」などがあり、ここはその「複方ジアスターゼ重曹散」のことで、現在の「日本薬局方」にも「複方ジアスターゼ・重曹散」(Compound Diastase and Sodium Bicarbonate Powder)として、ある。

・「文を作らんとするものは如何なる都會人であるにしても、その魂の奧底には野蠻人を一人持つてゐなければならぬ。」私は芥川龍之介の、このアフォリズム一篇を殊の外、秘かに偏愛し続けてきたことをここに告白する。何を今更?――いいや、何故なら私は遂に「文を作らんとするもの」にはなれなかったからである。

・「氣韻」「きゐん(きん)」とは限定的には東洋画の神髄とされる玄妙な趣き、画面に漂う精神的生命を指すが、ここは広義の優れた芸術作品に湛えられる品格や気品のこと。

・「あらゆる古來の天才は、我我凡人の手のとどかない壁上の釘に帽子をかけてゐる。尤も踏み臺はなかつた訣ではない。」/「しかしああ言ふ踏み臺だけはどこの古道具屋にも轉がつてゐる。」この二章は大変に面白いことを言っている。ありとあらゆる古来の天才たちの天才の秘訣は、「我我凡人の手のとどかない壁上の釘に」その天才となる鍵を我々に見えるようにさりげなく、「かけてゐる」のである。しかも、そこに手を届かせることの「踏み臺はなかつた訣ではない」、いやそれどころか寧ろ、それに適した手軽に天才の鍵を取れる「踏み臺だけはどこの古道具屋にも轉がつてゐる」のである。ただ、そうした「踏み臺だけは」まさに「どこの古道具屋」でも、売れることなく、「天才」の鍵を摘むことが出来る「踏み臺」なのに、その役に立てられることも一切なく、「轉がつて」埃を被って朽ち果てるのを待って「ゐる」ばかりである、と龍之介は言っているのである。さて?! その踏み台とは? それをここで明解に答えられるなら、私はここで、こんなことは、して、いない――

・「指物師」「さしものし」とは、板を細かに指し合わせて机・簞笥・障子・箱などを組み立てて作る職人のこと。私の妻の祖父は名古屋でも知られた指物師であった。

 最後に。

 これらが現在、岩波旧全集が「侏儒の言葉」と標題するところの、遺稿分を含まない狭義の「侏儒の言葉」の最後である。但し、このことはあまり理解されているとは思えないので注記しておきたいのであるが、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の鳥居邦朗氏の「侏儒の言葉」の解説によれば、『文藝春秋』は大正一二(一九二三)年一月の創刊号から、以後、『芥川自裁の翌月の』昭和二(一九二七)年八月『まで、芥川の文章が常に『文芸春秋』巻頭にあった』のである。即ち、現在の「侏儒の言葉」以外のものがその後、芥川龍之介が自死した翌月まで、『文藝春秋』には「侏儒の言葉」と同じような形で、龍之介の文章が巻頭に配され続けていたのである。しかも鳥居氏による同項のコラム記事「『文藝春秋』の目次」には以下のようにあるのである。

   《引用開始》

 創刊号から第4年(1926)の8月号まで[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年八月号まで。言わずもがな改元は同一九二六年の十二月二十五日(改元日は両元号併存)で、昭和元年は同年十二月二十五日から十二月三十一日までの七日間しかない。]は目次は表紙にあった。その間、最後の8月号[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年八月号。]を除いて、第1行[やぶちゃん注:目次の、である。]は常に「侏儒の言葉芥川龍之介」であった。そして8号[やぶちゃん注:この大正一五(一九二六)年八月号のこと。]から「追憶」に変わる。本文の標題は第3年の12月号[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年十二月号。]から変わるのだから、[やぶちゃん注:「追憶」に、である。]以後[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年十二月号からの謂い。]8回[やぶちゃん注:大正十四年十二月号と、翌年の一月号・二月号・三月号・四月号・五月号・六月号・七月号の八回分。]、目次と本文標題がくい違ったままだったのである[やぶちゃん注:「目次」は――「侏儒の言葉」芥川龍之介――でありあがら、本文の方は――「追憶」芥川龍之介――であったことを指す。]。そこには「侏儒の言葉」というタイトルにこだわる編集者菊池寛の意志が感じられる。芥川にもそれは分かっていながら、「侏儒の言葉」のスタイルで書きつづけられなかったのであろう。その事情を物語るのが変わったばかりの十二月号の本文標題である。「澄江堂雑記」に副題「「侏儒の言葉」の代わりに」がついているのである。菊池への友情を守りながらみずからの意志をとおそうとする芥川の姿が見える。

   《引用終了》

この事実からは、実は当時の読者の圧倒的多数は、本文表題が「追憶」に変えられ、芥川龍之介自身が「侏儒の言葉」と認識せず、しかも同じコンセプトでも実はない(龍之介が題名を変えたのはまさにそこにある。或いは、そうした『「侏儒の言葉」のスタイルで書きつづけられな』い感じが実はこの前号の「若楓」「蟇」「鴉」となって現われたのではなかったか?)、「侏儒の言葉」ならざる短文を依然として「侏儒の言葉」として大正一五(一九二六)年七月号まで読み続けた、ということを意味するのである。さらに言えば、読者の中には、目次が正しく「侏儒の言葉」に改められ、本文も「追憶」になっているのにもかかわらず、十年一日で、「侏儒の言葉」の正統にして一貫した「続・侏儒の言葉」として彼が自裁した翌月のそれまで、「侏儒の言葉」としてそれらを読み続けたのだ、とも言えるのである。

 そこで、可能な限り、書誌情報から、この大正一四(一九二五)年十一月号『文藝春秋』の翌月以降、自死翌月までの芥川龍之介の『文藝春秋』所載(鳥居氏は『芥川の文章が常に『文芸春秋』巻頭にあった』と記しておられるが、現物を今の私は見ることが出来ず、書誌情報にも必ずしも巻頭とは記されていないので、「所載」とする)の疑似「侏儒の言葉」と思われるものを順に拾い出して掲げることとする。幸い、二篇を除いて総て、私のオリジナル電子テクストがあるのでそれをリンクしておく。

 

『文藝春秋』

大正一四(一九二五)年十二月号『澄江堂日記――「侏儒の言葉」の代りに』

大正一五(一九二六)年 一月号『澄江堂日記――「侏儒の言葉」の代りに』

大正一五(一九二六)年 二月号『病中雜――「侏儒の言葉」の代りに

大正一五(一九二六)年 三月号『病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに』

大正一五(一九二六)年 四月号「追憶――病中雜記――(「一 埃」「二 位牌」「三 庭木」『四 「てつ」』四章)

大正一五(一九二六)年 五月号「追憶――病中雜記――(「猫の魂」「草双紙」「お狸樣」「蘭」四章)

大正一五(一九二六)年 六月号「追憶」(「夢中遊行」『「つうや」』「郵便箱」「灸」四章)

大正一五(一九二六)年 七月号「追憶」(「剝製の雉」「幽靈」「馬車」「水屋」四章)

大正一五(一九二六)年 八月号「追憶」「追憶」(「幼稚園」「相撲」「宇治紫山」「學問」四章)

大正一五(一九二六)年 九月号「追憶」(「活動寫眞」「川開き」「ダアク一座」「中洲」「壽座」五章)

大正一五(一九二六)年 十月号「追憶」(「いぢめつ子」「晝」「水泳」三篇)

大正一五(一九二六)年十一月号「追憶」(「體刑」「大水」「答案」「加藤淸正」「七不思議」五篇)

大正一五(一九二六)年十二月号「追憶」(「動員令」「久井田卯之助」「火花」三篇)

昭和 二(一九二七)年 一月号「追憶」(「日本海々戰」「柔術」「西川英次郎」三篇)

昭和 二(一九二七)年 二月号「追憶」(「勉強」「金」「虛榮心」「發火演習」「綽名」五篇)

昭和 二(一九二七)年 三月号「輕井澤で――「追憶」の代りに――

昭和 二(一九二七)年 四月号「續文藝的な、餘りに文藝的な」の前篇分(リンク先は私の「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」。なお、同号にはシナリオ「淺草公園」も載るが、流石にこれをアフォリズム集と勘違いする者は皆無であろう)

昭和 二(一九二七)年 五月号『「道芝」の序』・無題

昭和 二(一九二七)年 六月号二人の紅毛人(私のリンク先は私の「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」であるが、「二十八 國木田獨步」の後にこれが配してある)・『「我が日我が夢」の序』

昭和 二(一九二七)年 七月号「續文藝的な、餘りに文藝的な」の後篇分(リンク先は私の「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」)

   *

昭和 二(一九二七)年 八月号「續芭蕉

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  若楓/蟇/鴉

 

       若楓

 

 若楓は幹に手をやつただけでも、もう梢に簇つた芽を神經のやうに震はせてゐる。植物と言ふものゝ氣味の惡さ!

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年九月号『文藝春秋』巻頭に、前の「幼兒」(二章)「池大雅」「荻生徂徠」と、後の「蟇」「鴉」と合わせて全七章で初出するが、単行本「侏儒の言葉」からは後の二章「蟇」「鴉」とともに削られている。三章ともに既に述べた通り、ルナールの「博物誌」調(リンク先は私の岸田国士訳(ボナール挿絵附+附原文+やぶちゃん補注版)「博物誌」である)であるが、孰れもやや病的な観察に基づくブラッキーにして陰鬱なもので、その点では実はルナールのそれとは似ても似つかぬものである。しかも、これまでの概ね斜に構えた「侏儒の言葉」の毒や孤高な宣明があるわけでもなく、それこそ遺稿の「侏儒の言葉」で述べるように、神経だけで生きている彼の病的な部分がそのままに剔抉されてしまって丸出しにされている。冷徹に自己分析することと、丸裸に晒すことは、違う。後者は、芥川龍之介にとって最後の最後までなるべく避けたいものであった。少なくともこの頃まで(『文藝春秋』の、この「侏儒の言葉」の切り抜きまでして、単行本刊行を企図していた頃まで)は彼のダンディズムがこれらを削除させたのだろうと私は推測する。「若楓」は「わかかへで(わかかえで)」と読む。ムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer の類の若木。カエデ類は現生種で約百二十八種も存在する(多くはアジアに自生)。

 

・「簇つた」「むらがつた(むらがった)」。]

 

 

 

       蟇

 

 最も美しい石竹色は確かに蟇(ひきがへる)の舌の色である。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年九月号『文藝春秋』巻頭に、前の「幼兒」(二章)「池大雅」「荻生徂徠」「若楓」と、後の「鴉」と合わせて全七章で初出するが、単行本「侏儒の言葉」からは前の「若楓」と後の「鴉」とともに削られている。前の「若楓」の注も参照のこと。標題「蟇」は本文の特異点のルビによって「ひき」ではなく「ひきがへる」(ひきがえる)と訓じていることが分かる。本邦産ヒキガエルは現在では、両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus(鈴鹿山脈以西の近畿地方南部から山陽地方・四国・九州・屋久島に自然分布する固有亜種であるが、東京・仙台市などに移入している)及び、同属のアズマヒキガエル Bufo japonicus formosus(東北地方から近畿地方・島根県東部までの山陰地方北部に自然分布する固有亜種であるが、伊豆大島・佐渡島・北海道(函館市など)などに移入している)の二種とされる。両者の区別は眼と鼓膜間の距離が鼓膜の直径とほぼ同じであるのがニホンヒキガエルで、眼と鼓膜間の距離よりも鼓膜の直径の方が大きいのがアズマヒキガエルである(以上はウィキの「ニホンヒキガエルに拠った)。

 

・「石竹色」「せきちくいろ」と読む。ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensisの花のような淡い赤色、ピンク色を指すと辞書類にはあるが、現在のセキチクの品種類は紅色の強いものが多く、認識的には最早、一致しにくくなってように思われる。因みに、ヒキガエル類の長~い舌は確かになまなましい桃色である。]

 

 

 

       鴉

 

 わたしは或雪霽の薄暮、隣の屋根に止まつてゐた、まつ靑な鴉を見たことがある。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年九月号『文藝春秋』巻頭に、前の「幼兒」(二章)「池大雅」「荻生徂徠」「若楓」「蟇」と合わせて全七章で初出するが、単行本「侏儒の言葉」からは前の二篇「若楓」「蟇」とともに削られている。前の「若楓」の注も参照のこと。「鴉」は鳥綱スズメ目スズメ亜目カラス上科カラス科 Corvidae に近縁な数属の種群の総称。

 

・「雪霽」「ゆきばれ」と読む。

・「まつ靑な鴉」カラスの実際の羽の色は実は黒くない。古くからある色名で、女性の美しい黒髪の形容に使われることが多い「烏の濡羽色(ぬればいろ)」(これは「青みを帯びた黒」「やや緑がかった黒」「濃紫色」などを指す)のように、概ね、近くでよく観察するならば、深みのある艶のある濃紫色を呈し、見る角度や、彼らが羽を広げた際に特定の方向から陽光を受けたりした場合、強い紺や紫、或いは青の勝った色に見えることはままある。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 荻生徂徠

 

       荻生徂徠

 

 荻生徂徠は煎り豆を嚙んで古人を罵るのを快としてゐる。わたしは彼の煎り豆を嚙んだのは儉約の爲と信じてゐたものの、彼の古人を罵つたのは何の爲か一向わからなかつた。しかし今日考へて見れば、それは今人を罵るよりも確かに當り障りのなかつた爲である。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年九月号『文藝春秋』巻頭に、前の「幼兒」(二章)「池大雅」と、後の「若楓」「蟇」「鴉」と合わせて全七章で初出する。元禄・享保期の大儒で赤穂事件の厳罰主張で知られる荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)年)は歴史的仮名遣では「をぎふそらい」と書く。事蹟はウィキの「荻生徂徠などを参照されたい。

 

・「荻生徂徠は煎り豆を嚙んで古人を罵るのを快としてゐる」今回、x1wand 氏のブログ「DAS MANIFEST VOM ROMANTIKER「炒豆を噛む」(前編)」で、この徂徠の「煎り豆を嚙む」という元は、昌平黌の修史を担当した儒学者原念斎の著になる歴代の儒学者を扱った漢文伝記集「先哲叢談」(文化一三(一八一六)年刊)(原念斎著。但し、後に続編と後編は東条琴台)の「卷六」の徂徠伝の中に以下のように出るものであることが分かった(以下の原文は複数の資料に当たって一番、通りのよい形に私が整序したものである)。

   *

或(あるひと)、徂徠に問ふて曰く、「先生講學の外、何をか好む。」と。曰く、「他(た)の嗜玩(しぐわん)なし、唯(たさ)炒豆(さとう)を嚙んで宇宙間の人物を詆毀(ていき)するのみ。」と。

   *

この「詆毀」は謗(そし)ること・貶(けな)すことである。また、引用先の『「炒豆を噛む」(前編)』の冒頭では、「炒豆を囓着(けっちゃく)して、千古万古の英雄児を嘲殺罵殺す、亦た一の愉快なるか」という三宅雪嶺の「我観小景」の一節を引かれ、この『表現の典拠が分からなくてずっと困っていたのだが、思わぬところで似た表現を見つけた』として、奇しくも芥川龍之介の三男也寸志について書かれた「芥川也寸志―その芸術と行動」(一九九〇東京新聞出版局刊)から『伊福部昭が、芥川也寸志が自宅に押しかけてきて』『色々なことを語り合った際のことを「荻生徂徠の『炒豆を噛んで宇宙間の人物を評するのみ』と云った風な四日間であった」』『と回想している』と綴り、以上の「先哲叢談」を挙げられているのが、まことに興味深い。さらに x1wand 氏は続く『「炒豆を噛む」(後編)』では、『芥川が引用した徂徠のエピソードには誤りがある』として、このアフォリズムを取り上げられ、『前の記事で引用したように、徂徠が罵ったのは「古人」ではなくて「宇宙間の人物」であるから、これは芥川の誤解である※』(後にあるx1wand 氏の注を指す)。『この誤解が何に由来するのか定かではないが、彼がこのように読み込んだ文脈はある程度想像がつく』。(『※後記:しかし、雪嶺も「千古万古の……」と言っているから、「宇宙間の人物」は古人を指す、と解釈されていたのかも知れない。』)。とされ、「侏儒の言葉」連載中、本章掲載の五ヶ月前の大正一四(一九二五)年四月には『治安維持法が公布されており、徐々に息苦しい時代が迫りつつあった。引用した文章の他にも、「暴君を暴君と呼ぶことは危険だったに違いない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷を呼ぶこともやはり甚だ危険である」という文章が見られる』と記されておられる(これは先行する大正一三(一九二四)年六月号掲載の「奴隷」の第二章目であるが、正確には「暴君を暴君と呼ぶことは危險だつたのに違ひない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危險である。」と「危險だつたのに」が正しい)。以下、x1wand 氏は、『「炒豆を噛む」の由来が分かったのは伊福部が芥川を回想する文章においてであった。伊福部は、『侏儒の言葉』に出典があることまで踏まえてこの故事を引いたのだろうか。博覧強記の伊福部のことであるから、あながち有り得ない話ではない』と述べられている(因みに伊福部昭は特撮フリークの私には神様的存在の作曲家である)。まさにこの x1wand 氏の評言はこのアフォリズムを解析して美事である。

 

・「今人」「こんじん」。今の世の人。当代・同時代の人。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 池大雅

 

       池大雅

 

 「大雅は餘程呑氣な人で、世情に疎かつた事は、其室玉瀾を迎えた時に夫婦の交りを知らなかつたと云ふので略其人物が察せられる。」

 「大雅が妻を迎へて夫婦の道を知らなかつたと云ふ樣な話も、人間離れがしてゐて面白いと云へば、面白いと云へるが、丸で常識のない愚かな事だと云へば、さうも云へるだらう。」

 かう言ふ傳説を信ずる人はここに引いた文章の示すやうに今日もまだ藝術家や美術史家の間に殘つてゐる。大雅は玉瀾を娶つた時に交合のことを行はなかつたかも知れない。しかしその故に交合のことを知らずにゐたと信ずるならば、――勿論その人はその人自身烈しい性欲を持つてゐる餘り、苟くもちやんと知つてゐる以上、行はずにすませられる筈はないと確信してゐる爲であらう。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年九月号『文藝春秋』巻頭に、前の「幼兒」(二章)と、後の「荻生徂徠」「若楓」「蟇」「鴉」と合わせて全七章で初出する。

 

・「池大雅」(享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)は「いけのたいが」と読み、江戸中期の文人画家で日本の文人画を大成した画家の一人。以下、平凡社「世界大百科事典」の佐々木丞平(じょうへい)氏の解説より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)『京都西陣に生まれたと推定される。父池野嘉左衛門は京両替町の銀座役人中村氏の下役であったが、大雅四歳のとき死去、母と二人で住む。六歳の年、知恩院古門前袋町に移住、ここで香月茅庵に漢文の素読、七歳の年に川端檀王寺内の清光院一井に書道を学ぶ。また同年』、黄檗山萬福寺(現在の京都府宇治市内に現存)に『上り、第十二世山主であった杲堂(こうどう)禅師や丈持大梅和尚の前で大字を書し〈七歳の神童〉と賞される。母子家庭ではあったが環境に恵まれ、万福寺への参内では異国情緒に接するなど』(ウィキの「福寺」によれば、中国の『明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する』とある)、『若年のころから文人的教養が植え付けられた。十五歳の年にはすでに待賈堂、袖亀堂などと号して扇屋を構え、扇子に絵を描いて生計を立てていた。大雅の画家としての天賦の才を見いだしたのは』文人画家で漢詩人として知られる柳里恭(りゅうりきょう:柳沢淇園(きえん)の中国風呼称。彼はこれで名乗ることを好んだ)である。『二十歳代の前半には文人画家として「渭城柳色図」などの本格的な絵をのこし、二十歳代後半には真景図や中国画の学習において、前半生における一つの完成の域をみる。一方このころから富士・白山・立山から松島へさらには吉野・熊野などに、修験者を思わせるような旅をするが、こうした旅と、各地に居て幅広い文化の層の中心を形づくっていた素封家の存在が、大雅の人生と芸術を支えていたものと思われる。また高芙蓉・韓天寿の知己を得たことも彼が文人として成長する上に大きな影響を与えた』。『大雅の絵が当時の画壇にあって革新的な意味をもったのは、なんといっても絵画空間の活性化にあった。狩野派・土佐派といった当時の官画系絵画にあっては、表現の形骸化が顕著であったが、大雅の弟子桑山玉洲は、大雅の絵の生き生きとした空間感覚やリアリティに富む表現はなによりも実景をよく学んだことによると指摘している。当時の画家たちの多くがたどったように、官画系画家への入門、そして中国から舶載された版本類の研究や指頭画の試みなどによって獲得したものを統一ある活性化へと導いたのは』、『実景のもつリアリティへの志向であり、それは彼の旅と深くかかわっていたと思われる。四十歳代前半の制作と思われる高野山遍照光院の襖絵「人物山水図」は、堅固な構築的構図、しっかりとした遠近法の中に描出された深々たる空間、一点一画のゆるぎない筆致や統一ある色感によって大雅様式の完成を示している。そのほかにも「十便図」(川端康成記念会)、「楼閣山水図」(東京国立博物館)など主要作品は枚挙にいとまがないが、書家としての大雅もみのがすことはできない。流麗な中に堅牢な構築性を示す独特の書は、江戸書道史上有数のものである。また大雅の妻池玉瀾』(後注参照)『閨秀(けいしゆう)画家として著名で、大雅の教えを受けながらも、その感性豊かな女性特有の柔和な様式は大いに人気を得た』。芥川龍之介は彼の書画を殊の外、愛した。

・「玉瀾」(?~天明四(一七八四)年)は「ぎよくらん(ぎょくらん)」と読む。本文にある通り、池大雅の妻。「朝日日本歴史人物事典」の安村敏信氏の解説から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した。下線は私は引いた)。『京都祇園下河原通りの茶屋・松屋の女亭主百合の娘。本姓は徳山』(とくやま)『氏、名は町、号を松風・遊雅(可)、室号を葛覃居・海棠窩といった。歌人である母より和歌を学び、柳沢淇園より南画を学ぶ。淇園の号玉桂より玉の一字を与えられ』、『玉瀾と号した。のちに池大雅に南画を学び、真葛原』(まくずがはら:京都市東山区北部の円山公園の辺り一帯の称)で『大雅と同居し、徳山玉瀾の名で書画を描く。ふたりの仲むつまじい姿は頼山陽の「百合伝」ほかに記され、終日仲よく紙を並べて書画に親しむさまが伝えられている。玉瀾の画風は大雅のそれを祖述したものだが、やや構成力に欠けるためか大作が少なく、小品にすぐれた作品が多い。また、母百合の和歌を加えた合作も伝えられ、母と娘の強い結びつきが知られる。玉瀾の墓は百合の墓所である京都黒谷の西雲院にあり、大雅の墓のある浄光寺ではない。大雅との仲むつまじさを伝えられているのに別葬されていることは、書画において父方の姓徳山を称したことも含めて謎に包まれている。没年齢については過去帳には五十八歳、大雅堂五世定亮の談話では六十二歳、また五十七歳説もあって定かではないが、過去帳を信ずれば生年は享保一二(一七二七)年となる。作品に「滝山水図」(出光美術館蔵)ほかがある』。この下線部の謎の方が、ここで龍之介が挙げたことよりも遙かに興味深い。いや、寧ろ、この事実を解くことが、龍之介が掲げた流言飛語の真相に至る近道なのかも知れぬと私は思った。なお、今回初めて、ネット上で彼女の作品を幾つか見たが、構図といい、色彩といい、描線といい、ただ者ではない。

・「ここに引いた文章」岩波新全集の山田俊治氏注に引用元は『不詳』とする。引用の文章から見ても(龍之介が擬古文を現代語訳化したとは思われない)本章が書かれた時期よりもさほど前ではない著作と思われ、出典が未詳なのは解せない。

・「娶つた」「めとつた(めとった)」。]

徑の曲りで   立原道造

 

  徑の曲りで

 

ほてつた 私の耳に

もう秋! おだやかな 陽氣な 陽ざしが

林のなかに ささやいてゐる

蜂蜜のやうに 澄んで……

 

私らは 歩いて行く……風が

鳴つてゐる 木の葉が

光つてゐる――見おぼえのあるやうに

とほくの方で あちらの方で

 

花の名 鳥の名は 私らの

心のなかで またくりかへしては告げられる

もう見られないものまでも

 

昨日 ふたたびあたらしく はじまつた

しかし それが こんなにたよりないのだらうか

……

 

[やぶちゃん注:底本の「後期草稿詩篇」より。この詩篇の第一連は、生前の道造が最後に構想していた幻の詩集「優しき歌」の原稿(当時、中村真一郎が所蔵)をもとに推定された詩集「優しき歌」(「序」及び「Ⅰ」から「Ⅹ」のナンバーを持つ詩篇群)の第五曲の落葉の第一連(リンク先は私の電子テクスト)、

 

 いつの間に もう秋! 昨日は

 夏だつた‥‥おだやかな陽氣な

 陽ざしが 林のなかに ざはめいてゐる

 ひとところ 草の葉のゆれるあたりに

 

と非常によく似ている。]

窓邊に凭りて   立原道造

 

  窓邊に凭(よ)


     
 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
           
わが身ひとつはもとの身にして
                     
――在原業平

 

春の風は 窓のところに

かへつて來て

贈り物のことを ささやいてゐる

おしやべりな言葉で

 

僕らの心を そして 光らせ

あるひは とほく 冬にまで

すぎて來た 影のあちらにまで

なつかしい眼(まな)ざしを 向けさせる

 

そんなときなのだ 僕らの

心が ゆるされないほどの

あたたかい愛を 夢み

健康や 明るい旅をいふのは!

 

春の風は 希望のやうに

何といふ 單純な仕方で

それは 過ぎてゆくことか!

あちらへ あちらへ……

 

まつたく微笑が 少女の顏に

ふかい波を 皮膚の内からおこさせて

また消してゆくやうに――

それは ためいきにも似て

 

明るく にほひながら

ああ 花々や 空や羽毛や雲や

窓のところに きらきら 光らせる

おしやべりな身ぶりで

 

疲れも知らずに 優しく

すべての植物に 芽を與へ

すべての動物の 眼に 淚をうかばせる

かなしみや よろこびを忘れてしまつた心にまで

 

ほほゑんだ人びとの方から 吹いて來て

いつかのやうに どこかへ とほく

それはまた過ぎてゆく 光のなかで

忘れさせる追憶が みなさうであるかのやうに!

 

[やぶちゃん注:既に記した底本(一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦民平編))の「後期草稿詩篇」より。冒頭第一連のみを引いた個人ブログ「別所沼だより」の春の風に本篇の作詩時期を昭和一三(一九三八)年とする。満二十四、死の前年である。

 題に添えた業平の和歌は、知られた「伊勢物語」の第四段、

   *

 むかし、東(ひむがし)の五条に、大后(おほきさい)の宮おはしましける、西の對(たい)に、住む人ありけり。それを、本意(ほい)にはあらで、心ざし深かりける人、行きとぶらひけるを、睦月(むつき)の十日(とをか)ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。あり所は聞けど、人の行(い)き通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂(う)しと思ひつつなむありける。

 またの年の睦月に、梅(むめ)の花ざかりに、去年(こぞ)を戀ひて、行きて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷(いたじき)に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる、

 

  月やあらぬ春や昔の春ならぬ

    わが身ひとつはもとの身にして

 

と詠みて、夜(よ)のほのぼのと明くるに、泣く泣く歸りにけり。

   *

と載り、この一首はまた、「古今和歌集」「卷第十五」巻頭の「戀歌五」冒頭に以下の如く前書を以って配されてある(第七四七番歌)。

   *

 

   五条のきさいの宮の西の対にすみける

   人に、ほいにはあらでものいひわたり

   けるを、む月のとをかあまりになむ、

   ほかへかくれにける。あり所は聞きけ

   れどえものもいはで、又の年の春、梅

   の花ざかりに、月のおもしろかりける

   夜、去年をこひてかの西の對にいきて、

   月のかたぶくまで、あばらなる板敷に

   ふせりてよめる     在原業平朝臣

 

月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして

 

   *

立原道造には、同様に和歌を添書きした詩篇が他にもある。例えば、初期詩篇の「夜に詠める歌」の「反歌」で、そこには「かへるさのものとやひとのながむらん待つ夜ながらのありあけの月」という藤原定家の一首が添えられており、また、同じ初期詩篇の一つ、わがまどろみは覺めがちにで「夢のうちに逢ふと見えつる寢覺こそはかなきよりも袖はぬれけれ」という藤原(西園寺)実宗の一首を添えたものである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 幼兒

 

       幼兒

 

 我我は一體何の爲に幼い子供を愛するのか? その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない爲である。

 

       又

 

 我我の恬然と我我の愚を公にすることを恥ぢないのは幼い子供に對する時か、――或は、犬猫に對する時だけである。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年九月号『文藝春秋』巻頭に、後の「池大雅」「荻生徂徠」「若楓」「蟇」「鴉」と合わせて全七章で初出する。この号はアフォリズムは全体に毒とパワーが有意に落ちており、芥川龍之介が最も嫌った反復的自動作用も強く感じられる。実際、ルナールの「博物誌」調(リンク先は私の岸田国士訳(ボナール挿絵附+附原文+やぶちゃん補注版)「博物誌」である)の「若楓」「蟇」「鴉」の三章は単行本「侏儒の言葉」からはごっそり削られている。

 

・「恬然」(てんぜん)は、物事に拘(こだわ)らずに平気でいる様子。

・「公」「おほやけ」と訓じておく。筑摩全集類聚版も同じ。]

2016/06/09

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 作家所生の言葉

 

       作家所生の言葉

 

 「振つてゐる」「高等遊民」「露惡家」「月並み」等の言葉の文壇に行はれるやうになつたのは夏目先生から始まつてゐる。かう言ふ作家所生の言葉は夏目先生以後にもない訣ではない。久米正雄君所生の「微苦笑」「強氣弱氣」などはその最たるものであらう。なほ又「等、等、等」と書いたりするのも宇野浩二君所生のものである。我我は常に意識して帽子を脱いでゐるものではない。のみならず時には意識的には敵とし、怪物とし、犬となすものにもいつか帽子を脱いでゐるものである。或作家を罵る文章の中にもその作家の作つた言葉の出るのは必ずしも偶然ではないかも知れない。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に、前の「小説」「文章」(二章)「女の顏」「世間智」(二章)「恒産」「彼等」と合わせて全九章で初出する。「所生」は「しよしやう(しょしょう)」或いは「しよせい(しょせい)」と読むが、私は後者で読む。生みの親の意(出生地の意もある)。ここは近代小説家由来(新たな意味を纏わせることを含む)の新造語の濫觴の作家を並べているが、夏目漱石は彼の師であり、「久米正雄」「宇野浩二」や、以下の注で引く菊池寛など、殆んどが龍之介の作家仲間で親友であった。

 

・「振つてゐる」小学館「日本国語大辞典」の「ふるっている」(「ふるう」(振・奮・揮)内の小見出し)には、『ふつうはかなり変わっている。注意をひくほど、とっぴである。また、他人のしたことが自分に快く感じられる時それを肯定し、たたえる意をこめていう場合にも用いる』として、夏目漱石の「吾輩は猫である」(明治三八(一九〇五)年一月から翌年八月まで『ホトトギス』に連載)の三の『迷亭は大きな聲を出して「奥さん奥さん、月並の標本が來ましたぜ。月並もあの位になると中々振つて居ますなあ。さあ遠慮は入らんから、存分御笑ひなさい」』の当該箇所が引かれてあり(底本は岩波旧全集に拠ったが、踊り字「〱」は正字化し、ルビは除去した。同辞典の表記は異なる)、さらに森鷗外の「ヰタ・セクスアリス」(明治四二(一九〇九)年七月『昴』)の真ん中辺りに出る、『僕は憤然とした。人と始て話をして、おしまひに面白い小僧だは、結末が余り振つてゐ過ぎる。』の当該箇所が引かれてある(底本は岩波の「鷗外選集」に拠った)。

・「高等遊民」小学館「日本国語大辞典」は、『高等教育を受けていながら、職業につかないで遊んで暮らしている人。』とし、夏目漱石の「彼岸過迄」(明治四五(一九一二)年『朝日新聞』連載)の「報告」の第「十」章の冒頭のそれを引くが、既に前の「九」末尾で、『「餘裕つて君。――僕は昨日雨が降るから天気の好い日に來てくれつて、貴方を斷わつたでせう。其譯は今云ふ必要もないが、何しろそんな我儘な斷わり方が世間にあると思ひますか。田口だつたら左う云ふ斷り方は決して出來ない。田口が好んで人に會ふのは何故(なぜ)だと云つて御覧。田口は世の中に求める所のある人だからです。つまり僕のやうな高等遊民(かうとういうみん)でないからです。いくら他(ひと)の感情を害したつて、困りやしないといふ餘裕がないからです」』(底本は岩波旧全集に拠ったが、ルビは一部を除いて省略した)と先に出る。漱石の作品の登場人物には「それから」(明治四二(一九〇九)年『朝日新聞』連載)の主人公「代助」(そこでは父から単に「遊民」と揶揄される。但し、「遊民」単独では既に江戸時代、文人を職業として分類するに際して「遊民」の語を用いた例があるとウィキの「遊民」にある)や「こゝろ」(大正三(一九一四)年『朝日新聞』)の「先生」や「私」のように高等遊民が非常に多い。「日本国語大辞典」では次に高村光太郎の詩集「道程」(大正三(一九一四)年刊)の詩「夏の夜の食慾」の『淺草の洋食屋は暴利をむさぼつて/ビフテキの皿に馬肉(ばにく)を盛る/泡の浮いた馬肉(さくら)の繊維、シチユウ、ライスカレエ/癌腫の膿汁(うみ)をかけたトンカツのにほひ/醉つぱらつた高等遊民の群れは/田舍臭い議論を道聽途説し/獨乙派の批評家は/文壇デパアトメントストアを建設しようとする』(国立国会図書館デジタルコレクションの初版の画像を視認した。「/」は改行を示す)の箇所から『醉つぱらつた高等遊民の群れは、田舍臭い議論を道聽途説し』(読点はママ)を引いた上、驚くべきことに、芥川龍之介のこのアフォリズムの冒頭の一文全部を示して、「高等遊民」の使用例としている。

・「露惡家」小学館「日本国語大辞典」は、『自分の欠点などをわざとさらけ出したがる人。露悪趣味のある人。』とし、夏目漱石の「三四郎」の「七」の中の(下線はやぶちゃん)、

   *

 「御母(おつか)さんの云うふことは成(なる)べく聞いてあげるが可(よ)い。近ごろの靑年は我々時代の靑年と違って自我の意識が強すぎて不可(いけ)ない。吾々の書生をして居る頃には、する事爲す事一として他(ひと)を離れたこ事はなかつた。凡(すべ)てが、君とか、親とか、國とか、社會とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいふと教育を受けるものが悉(ことごと)く僞善家であつた。其僞善が社會の變化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行爲の上に輸入すると、今度は我意識が非常に發展仕過ぎてし舞つた。昔(むか)しの僞善家に對して、今は露惡家(ろあくか)許(ばか)りの狀態にある。――君、露惡家(ろあくか)といふ言葉を聞いた事がありますか」

「いゝえ」

「今ぼくが即席に作つた言葉だ。君も其露惡家(ろあくか)の一人(いちにん)――だかどうだか、まあ多分さうだらう。與次郎の如きに至ると其最(さい)たるものだ。あの君の知つてる里見といふ女があるでせう。あれも一種の露惡家(ろあくか)で、それから野々宮の妹(いもうと)ね、あれはまた、あれなりに露惡家だから面白い。昔は殿樣と親父(おやぢ)丈(だけ)が露惡家ですんでいたが、今日では各自(めいめい)同等の權利で露惡家になりたがる。尤も惡い事でも何でもない。臭いものゝ葢(ふた)を除(と)れば肥桶(こえたご)で、美事な形式を剝ぐと大抵は露惡になるのは知れ切つてゐる。形式丈(だけ)美事だつて面倒な許(ばかり)だから、みんな節約して木地(きぢ)丈(だけ)で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫(てんしうらんまん)としてゐる。所が此爛漫(らんまん)が度を越すと、露惡家同志が御互に不便を感じて來る。其不便が段々高(かう)じて極端に達した時利他主義が又復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に歸參する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮(くら)してゆくものと思へば差支(さしつかへ)ない。さうして行くうちに進步する。英國を見給へ。此兩主義が昔からうまく平衡(へいかう)が取れてゐる。だから動かない。だから進步しない。イブセンも出なければニイチエも出ない。氣の毒なものだ。自分だけは得意の樣だが、傍(はた)から見れば堅くなつて、化石しかゝつてゐる。……」

   *

の私が最初に下線を引いた箇所を引いて(引用底本は岩波旧全集に拠ったが、踊り字「〱」「〲」は正字化した)、ここでも次に龍之介のこのアフォリズムの冒頭の一文全部を示して、「高等遊民」の使用例としている。因みに同辞典のすぐ前項である「露悪」を見ると、『わるいことをすべてさらけ出すこと。』として、前の注で示した漱石の「三四郎」の「七」の後の方の下線部分を用例として提示し、その後には里見弴の「今年竹」(大正八(一九一九)年に『時事新報』に連載したが途絶、後年完成)の「昼の酒」の「二」から『さすが露悪と皮肉とに鍛へあげられた須田の心も』という使用例を出す。

・「月並み」この語自体は「月次」とも書いて古語としてもともとあり、小学館「日本国語大辞典」の「つきなみ」では、①毎月。月ごと。また、毎月決まって行うこと。月に一度あること。/②陰暦六月と十二月の十一日に宮中に於いて神祇官に百官を召集させて行った「月次(つきなみ)の祭り」の略。/③月例として催される和歌・連歌・俳諧の座(席)。/④女性の月経。メンス。/⑤江戸時代の避妊薬の隠語、といった意味を載せた後で、⑥「月並俳句」の略とし、正岡子規の「十たび歌よみに與ふる書」(末尾に明治三一(一八九八)年三月四日のクレジットを持つ)から『俳句の觀を改めたるも月並連に構はず思ふ通りを述べたる結果に外ならず候』を引く(国立国会図書館デジタルコレクションの旧字の版本を画像視認してオリジナルに旧字で示した)。この「月並俳句」とは正岡子規を中心とした明治の俳句革新運動に於いて、子規が自ら作句して示した俳句観「写生」を旨とする新派の俳句作品に対して、伝統的なそれまでの旧派の俳句観に基づいて作られた句を子規が排撃するために用いた卑称であるが、同辞典は「つきなみ」の⑦として、『(形動)(⑥から転じて)平凡で新鮮みのないこと。とりたてて変わった点のないこと。常套陳腐なこと。また、そうした物事や、さま。』という意味を挙げる。そうしてそこにはやはり夏目漱石の「吾輩は猫である」の「二」の、例の苦沙彌(くしゃみ)先生の友人の美学者迷亭(めいてい)が東京の西洋料理店でやらかす「トチメンボー」事件についての越智東風の語りの初めのシーン、

   *

「夫(それ)から首を捻捻つてボイの方を御覧になつて、どうも變つたものもない樣だなとおつしやるとボイは負けぬ氣で鴨のロースか小牛のチヤツプ抔(など)は如何(いかゞ)ですと云ふと、先生は、そんな月並(つきなみ)を食ひにわざわざこゝまで來やしないと仰しやるんで、ボイは月並といふ意味が分らんものですから妙な顏をして默つて居ましたよ」「さうでせう」「夫(それ)から私の方を御向きになつて、君佛蘭西(フランス)や英吉利(イギリス)へ行くと随分天明調(てんめいてう)や萬葉調(まんえふてう)が食へるんだが、日本ぢやどこへ行つたつて版で壓(お)した樣で、どうも西洋料理へ這入る氣がしないと云ふ樣な大氣燄で――全體あの方(かた)は洋行なすつた事があるのですかな」「何迷亭が洋行なんかするもんですか、そりや金もあり、時もあり、行かうと思へば何時(いつ)でも行かれるんですがね。大方是から行く積りの所を、過去に見立てた洒落(しやれ)なんでせう」と主人は自分ながらうまい事を言つた積りで誘い出し笑をする。

   *

の私の引いた傍線部を引用している(引用底本は岩波旧全集に拠ったが、踊り字「〱」は正字化した)。次の例は菊池寛の文壇出世作で半自伝的な小説「無名作家の日記」(大正七(一九一八)年『中央公論』)で『が、俺のペンから出て來る臺詞(せりふ)は月並の文句ばかりだ』(恣意的に漢字を正字化した)、そのつぎにまたしても龍之介の、このアフォリズムが挙がっている。

・「久米正雄」(明治二四(一八九一)年~昭和二七(一九五二)年)についてはウィキの「久米正雄より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)『長野県上田市生まれ。父・由太郎は江戸出身で町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)の校長として上田に赴任し、正雄が生まれた。父は一八九八年(明治三十一年)に小学校で起きた火災によって明治天皇の御真影を焼いてしまった責任を負って、自らの腹を切って自殺。このため、正雄は母の故郷である福島県安積郡桑野村で育つ。母方の祖父は中條政恒とともに安積原野開拓に携わった一人』。『旧制の福島県立安積中学校(現福島県立安積高等学校)では俳句に熱中し、俳壇で有望視された。無試験で第一高等学校文科に推薦入学。東京帝国大学文学部英文学科に在学中、成瀬正一、松岡譲らと第三次『新思潮』を創刊し、作品を発表。戯曲「牛乳屋の兄弟」(一九一四年)で認められる。『新思潮』廃刊後は、『帝国文学』同人』。『一九一五年(大正四年)、夏目漱石の門人となる。一九一六年(大正五年)、芥川龍之介、菊池寛らと第四次「新思潮」を創刊。同年大学卒業。このころ、中条百合子と恋愛関係にあった。百合子の父中条精一郎の父は、久米の母方の祖父とともに安積を開拓した仲で両家につきあいが深く、精一郎は久米が大学に入る時の保証人だった』。『しかし年末に漱石が急死し、夏目家へ出入りするうち、漱石の長女筆子に恋して、漱石夫人鏡子に結婚の許しを請うたところ、筆子が同意するなら許すとの言質を得たが、筆子は松岡譲を愛していた。それに加えて、筆子の学友の名を騙る何者かが、久米を女狂い・性的不能者・性病患者などと誹謗中傷する怪文書を夏目家に送りつける事件が発生した(関口安義『評伝松岡譲』によると、この怪文書の作者は久米と長年にわたり反目していた山本有三だったという)。筆子は久米があまり好きではなく松岡が好きであった。じきに自分が筆子と結婚する予定であるかのような小説を発表し、結婚は破断となり、筆子は松岡と結婚した』。『久米は失意のあまりいったん郷里に帰るが、一九一八年(大正七年)』、『四日ほどいただけで再上京し、「受験生の手記」などを発表する。これは大学受験の失敗と失恋の苦悩を綴ったもので、同年の短編集『学生時代』に収められ、長く読まれた。しかしその四月、松岡と筆子の結婚が報じられると、久米は恨みをこめた文章をあちこちに書いた。菊池が同情して、「時事新報」に「蛍草」を連載させ、この通俗小説は好評を博した。以後、数多くの通俗小説を書いた』。『一九二二年(大正十一年)になって、久米は筆子への失恋事件を描いた小説「破船」を『婦人之友』に連載、これによって、主に女性読者から同情を集めた。翌一九二三年(大正十二年)、奥野艶子と結婚』。『自らは通俗小説の大家となりながら、芸術小説への憧れが強く、評論「私小説と心境小説」』(大正一四(一九二五)年)で、『トルストイもドストエフスキーも所詮は高級な通俗小説で、私小説こそが真の純文学だと論じた。だが自身は、妻への遠慮などから、私小説が書けなくなっていく。通俗小説の多くは映画化された』。『一九二五年(大正十四年)から亡くなるまで鎌倉に居住した。一九三二年(昭和七年)、石橋湛山の後を継いで鎌倉の町議に立候補し』、『トップ当選したが、一九三三年(昭和八年)、川口松太郎や里見弴と共に花札賭博で警察に検挙された。一九三八年(昭和十三年)には東京日日新聞(のちの毎日新聞)の学芸部長に就任』、『第二次世界大戦中は、日本文学報国会の事務局長を務めた。一九四五年(昭和二十年)五月、鎌倉文士の蔵書を基に川端康成たちと開いた貸本屋(戦後に出版社となる)“鎌倉文庫”の社長も務め、文藝雑誌『人間』や大衆小説誌『文藝往来』を創刊した。鎌倉ペンクラブ初代会長としても活躍。菊池との友情は長く続いた。戦後松岡と和解し、桜菊書院『小説と読物』を舞台に、夏目漱石賞を創設して松岡とともに選考委員を務めたが、桜菊書院が倒産したため一回で終った』。『晩年は高血圧に悩み、脳溢血で急逝した。忌日は三汀忌、もしくは微苦笑忌と呼ばれる』とあり、冒頭梗概部にはわざわざ「微苦笑」『という語の発明者として有名』と記してある。

・「微苦笑」小学館「日本国語大辞典」にも、『微笑と苦笑との交じった複雑な笑い。かすかなにがわらい。』と意味を記した後、はっきりと、『久米正雄の造語。』と記す。例文は久米正雄の「微苦笑藝術」(大正一三(一九二四)年新潮社刊)の「私の社交ダンス」で、『『文化生活』と云ふものも、味って置いて損はない。そんな一種皮肉な氣持もあって、例の微苦笑を湛へながら』とあり、最後にまたまた龍之介のこのアフォリズムが引用されてある。

・「強氣弱氣」岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、久米正雄は「大人の喧嘩」(大正八(一九一九)年作)で、『「強気弱気」という小説を書いたSとのトランプ遊びの上での喧嘩と仲直りを描き、「弱気を弱気として肯定して、そこに安住しようと云ふ傾向」を記している「強気弱気」という言葉は、里見弴の作品名が先行しており、久米はむしろ「弱気」に徹しようとしていて、彼の造語とは言えない』と龍之介の主張を否定しておられる。孰れにせよ、「強気弱気」(弱気であることを相手に悟られないために逆に強気に振る舞う傾向という謂いか)という語は私自身使ったことも聴いたこともなく、小学館「日本国語大辞典」にも載らない。

・「宇野浩二」(明治二四(一八九一)年~昭和三六(一九六一)年)については平凡社「世界大百科事典」の紅野敏郎氏の解説を引く(コンマを読点に代え、記号の一部も変更した)。『福岡県に生まれ、大阪で育った。本名格次郎。天王寺中学より早大英文科に進』むも、中退している。彼は『育った大阪の南区宗右衛門町の花柳界近辺への追憶をもちつづけた』。大正二(一九一三)年刊の処女作品集「清二郎 夢見る子」には『すでに宇野文学特有の夢と詩の合奏が見られる。翌年。永瀬義郎、鍋井克之らのはじめた美術劇場にも協力』、大正八(一九一九)年には、終世の友であった『広津和郎の紹介で「蔵の中」を『文章世界』に発表し、さらに』同年の「苦の世界」、大正一二(一九二三)年「の子を貸し屋」『などにより大正文学の中心作家となる。饒舌体の文章で物語るユーモアとペーソスを基調とした作風であった。「軍港行進曲」(昭和二(一九二七」)年発表後、精神異常に陥る』(芥川龍之介の自死の前で、彼は盟友宇野の発狂状態に自分(の中の母からのその遺伝)のそれを見、大きな衝撃を受けている。龍之介の自殺の素因一つには、私は宇野の精神異常を目の当たりにしたことが含まれていると考えている。彼の精神病は脳梅毒による進行性麻痺と考えてよく、彼の復帰後の文体の著しい変化も脳の変質に拠るものである可能性が高い)『が、やがて回復、大阪の画家小出楢重とのかかわりを軸にした「枯木のある風景」』(昭和八(一九三三)年)『により文壇に復帰、作風も叙述体に変わり、「枯野の夢」「子の来歴」』(孰れも昭和八年)、「器用貧乏」(昭和一四(一九三九)年)『などを発表、戦後の代表作は「思ひ川」』(昭和二三(一九四八)年)である。随筆的評論も巧妙で「芥川龍之介」は力作である(私は同作を上」下」オリジナル注附きで電子化している。ブログ版。御笑覧あれかし)。「文学の三十年」(昭和一五(一九四〇)年)・「文学的散歩」(昭和一七(一九四二)年)『などの回想的文学も多い。松川事件にさいしては広津和郎に呼応して「世にも不思議な物語」』(昭和二八(一九五三)年)を『書いた。文学への執念を最後までもちつづけた文学の鬼的存在といえよう。その周辺より渋川驍(ぎょう)、水上勉らが育った』とある。因みに、先にリンクさせた私の電子テクスト、宇野浩二の「芥川龍之介」では「等、等、等」の三連投は全体で三度、登場している。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  彼等

 

       彼等

 

 わたしは實は彼等夫婦の戀愛もなしに相抱いて暮らしてゐることに驚嘆してゐた。が、彼等はどう云ふ訣か、戀人同志の相抱いて死んでしまつたことに驚嘆してゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に、前の「小説」「文章」(二章)「女の顏」「世間智」(二章)「恒産」と、後の「彼等」「作家所生の言葉」と合わせて全九章で初出する。この「彼等」「彼等夫婦」が誰かについて私にはやや心当たりがあるが、軽々には言えないのでやめておく。丁度、私の周囲にいる誰彼がそうであっても口が裂けても言えぬように。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 恒産

 

       恒産

 

 恒産のないものに恒心のなかつたのは二千年ばかり昔のことである。今日では恒産のあるものは寧ろ恒心のないものらしい。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に、前の「小説」「文章」(二章)「女の顏」「世間智」(二章)と、後の「恒産」「彼等」「作家所生の言葉」と合わせて全九章で初出する。標題「恒産」(こうさん)は「一定の資産或いはそれを生み出すところの安定した職業」のことで、ここは「恒心」(常に定まって変わることのない正しい心。ぐらつくことないしっかりとしたまことの心)とともに「孟子」の「梁惠王篇」の問答の以下の一節に基づく。

   *

○原文

王曰、「吾惛、不能進於是矣。願夫子輔吾志、明以教我、我雖不敏、請嘗試之。」曰、「無恆而有恆心者、惟士爲能。若民、則無恆、因無恆心。苟無恆心、放辟邪侈、無不爲已。及陷於罪、然後從而刑之、是罔民也。焉有仁人在位、罔民而可爲也。是故、明君制民之産、必使仰足以事父母、俯足以畜妻子、樂終身飽、凶年免於死亡、然後驅而之善。故民之從之也輕。今也、制民之産、仰不足以事父母、俯不足以畜妻子、樂終身苦、凶年不免於死亡。此惟救死而恐不贍。奚暇治禮義哉。」

○やぶちゃんの書き下し文

王曰く、

「吾惛(くら)くして、是れに進むこと能はず。願はくは夫子(ふうし)、吾が志を輔け、明らかに以つて我に敎へよ。我れ不敏なりと雖も、請ふ、之を嘗試(しやうし)せん。」

と。曰く、

「恒産無くして恒心有る者は、惟(た)だ士のみ能(よ)くするを爲す。民のごときは則ち、恒産無ければ、因(よ)つて恒心無し。苟(いや)しくも恒心無ければ、放辟邪侈(はうへきじやし)、爲さざること無し。罪に陷るに及んで、然(しか)る後に從つて之を刑(つみ)するは、是れ、民を罔(あみ)するなり。 焉(いづく)んぞ仁人(じんひと)、位(くらゐ)に在りて、民を罔するを爲すべきこと有るべけんや。是の故に、明君は民の産を制するに、必ず仰ぎては以つて父母(ぶも)に事(つか)ふるに足(た)り、俯(ふ)しては以つて妻子を畜(やしな)ふに足り、樂歳(らくさい)には身を終ふるまでの飽きありて、凶年にも死亡を免れしめて、然る後、駆(か)けりて善に之(ゆ)かしむ。故に民の之れに從ふや輕(やす)し。今や、民の産を制するに、仰ぎては以つて父母に事ふるに足らず、俯しては以つて妻子を畜ふに足らず、楽歳には身を終ふるまで苦しみ、凶年には死亡を免れず。此(こ)れ惟だ、死を救ふだにも贍(た)らざらんことを恐る。奚(なん)ぞ礼義を治むるに暇(いとま)あらんや。」

と。

   *

「嘗試」とは、嘗(な)めて食物の味を確かめる意から、試してみること・経験してみることを言う。「放辟邪侈」は勝手気儘に我儘放題に悪い行いをすること。「無不爲已」は一般には最後に「のみ」と訓ずるあ、どうもここはそうすると意味を誤認しかねない。ここは二重否定であって強い肯定(必ず放辟邪侈に及んでそうしない者は一人としていない)であるから、かく訓じておいた。「罪に陷るに及んで、然る後に從つて之を刑(つみ)するは、是れ、民を罔(あみ)するなり」全訳しておく。――かくも人民が罪を犯す原因を認知していながら、それに適切な対処もせずに捨ておいておきながら、いざ、人民が罪を犯したときにはこれを厳しく処罰するというのは、人民にかすみ網を張っておいて罠をにかけるのと同じことである。――「民の産を制する」人民のそれぞれの生業を定める。「樂歳」豊年の年。「贍(た)らざらん」不足している。

 ここで龍之介の言っていることは二十一世紀の今に於いてこそ、ますます致命的に正しい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 世間智

 

       世間智

 

 消火は放火ほど容易ではない。かう言ふ世間智の代表的所有者は確かに「ベル・アミ」の主人公であらう。彼は戀人をつくる時にもちやんともう絶緣することを考へてゐる。

 

       又

 

 單に世間に處するだけならば、情熱の不足などは患はずとも好い。それよりも寧ろ危險なのは明らかに冷淡さの不足である。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に、前の「小説」「文章」(二章)「女の顏」と、後の「恒産」「彼等」「作家所生の言葉」と合わせて全九章で初出する。

 

・『「ベル・アミ」の主人公』「ベル・アミ」はギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant  一八五〇年~一八九三年:彼については「戀は死よりも強し」以下、さんざん注してある)が一八八五年に『ジル・ブラス』(Gil Blas)紙に連載した(これが初版となる)長編小説「ベラミ」(Bel-Ami:「美しい男友達」の意)。天性の美貌の持ち主である主人公の青年ジョルジュ・デュロア(Georges Duroy)がさまざまな女性たちを徹底的に利用し、富と名声を得てゆくさまを描く。「女の一生」(Une vie  一八八三年)に次ぐ長編第二作目で、同作と同じく自然主義文学の代表的作品とされる。小学館「日本大百科全書」の宮原信氏の「ベラミ」の解説を引く。『ノルマンディー出身の青年ジョルジュ・デュロワは鉄道会社に勤める事務員で、月末の数日間はきまって持ち金がなくなり、食べるに事欠く状態。そのうち友人の勧めで新聞記者になると、持ち前の美貌』『(ベラミとは、「美男のおじさん」の意で彼のあだ名)と、厚かましさを武器に、友人やその夫人たちを利用して社交界に乗り出し、ついには大実業家の娘と結婚する。やがて舅(しゅうと)の経営する新聞社の実権を握って、パリの新聞界に君臨するようになる。名前もいつのまにか』デュ・ロワ(Georges Du Roy de Cantel)と貴族風の綴りに『変えている。作者はこの物語を通して、フランス』十九世紀の社会の『世相、とくにある種のジャーナリズムを、また政府の植民地政策とひそかに通じあった金融界の一部を辛辣(しんらつ)に皮肉っている』。

・「處する」「しよする(しょする)」。対処する・冷静沈着ある場所にいる・最も状況に応じた行動をとる。]

田中一三に   立原道造

 

  田中一三(かずみ)に

 



     1「抒情の手」に倣(なら)ひて

 

おそらく ただあの夕やけだけ

私たちの歷史のなかでひときは映えるであらう

それは「さいはひ」の日々のなかにひとこまの

美しいかがやかしい色どりとして

 

それは果敢(はか)ない私たちの冒險を誘ひ

きらびやかに また冴え冴えと

命なしに

いつまでも空にとどまるかのやうな……

 

高原の夏のをはり 日のをはり

 

私たちの若さ 私たちの哀歌――しかし

それはうつろふ束の間の激しい夢ではなかつたか

靜かに殘される時のなかにおそらくあの夕やけすら!

 

信じてはならない 美しい日和はこときれたとは

告げてはならない さらば われらの強き光よ! とは

――いつまでここに立ちつくしてゐる私たちだらうか?


 


     2

 

降るやうな光のなかで おまへと並んで

その日はぼんやりと步きつづけた

落葉する櫻並木のアーチの下を

ながれる靑い疏水のほとりを

 

若王子(にやくわうじ) 若王子 とほい都の町はづれ

だれを忘れようとて

來た旅だつたか――

心はかろく 步きつづけた

 

ああ その日! 私と並んで

⦅……口笛もやめゆつくりと

花を踏んで步いて行つた……⦆と

 

水に浮んで流れた日々を

とほい昔ではないやうに 私の耳に

優しい言葉でおまへはうたひ教へてくれた

 

 

 

     3「時雨ふる京の泊りは墓どなり」

 

秋雨や秋晴れやいろいろな氣候を

心のなかにこつそりと用意して

そしてそれをひとつづつためして

靑い空に鳶(とび)の輪を描かしてみたり

 

小竹(ささ)の搖れる東窓に手紙をしたためたり

小夜更けて降りはじめたしめやかな音に

思ひまうけないほどすなほに驚いたり

……曆と繪圖とをいつか心のなかに疊みこんで

 

そしていつの間にか おまへとも

その都とも 別れてもう歸つて來てゐる

ぢきに忘れるだらうとをりをりその日々を思ひ出しながら

 

それは不思議にうるほうてゐて

私の心の奧に遊び恍(ほ)うけた落着きが

私の場所できれいに汚れを洗つてさはやかにすぎるのだ

 

[やぶちゃん注:既に記した底本(一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦明平編))の「後期草稿詩篇」より。太字「夏のをはり 日のをはり」は底本では傍点「ヽ」。同底本解説に、この「後期草稿詩篇」は昭和九(一九三四)年から没する前年昭和一三(一九三八)年の末までの詩篇を推定年代順に並べたとあり、そのパートの二番目(一番目は既に電子化した「夜でない夜に」)に配されてある。諸データから推定するに、昭和一一(一九三六)年十月に友人田中一三(後注)を『転機を求めて』(底本の堀内達夫氏編の年譜の記載)訪ねており(八月に一度訪ねているが、その時は留守で逢えていない。これは後に注した神田氏のサイト「東京紅團」の「立原道造の世界」の「田中一三と京都 京都市内編」の記載に拠る)、この詩篇は同年末頃の作ではないかと推測出来るように思う。

・「田中一三(かずみ)」立原道造の一高時代からの友人。榛原守一氏のサイト「小さな資料室」の『資料22  立原道造の「友への手紙」(田中一三あて)』の注9に「立原道造全集」第五巻巻末の「宛名人註」からの引用が示されてある。これに、その他のネット上で知り得たデータを増補した彼の事蹟を以下に示す。なお、こちらのサイトは複数の電子テクスト・データの注で私のサイトへのリンクも多く張って下さっている。この場を借りて御礼申し上げる。

    *

田中一三(たなか・かずみ)

福山市生。雅号は香積(かずみ)。岡山・誠之中、一高文丙(同期)、京都大学仏文学科昭和一二(一九三七)年卒(卒論「シュリィ・プリュドム」(Sully Prudhomme 一八三九年~一九〇七年:フランスの詩人。一九〇一年の第一回ノーベル文学賞の受賞者)。『未成年』同人、『四季』に投稿。落合太郎教授に師事、堀辰雄に近づく。大学院から昭和一三(一九三八)年一月に姫路師団入隊、野砲連隊の将校としてソ満国境に出動、昭和一五(一九四〇)年十二月、自決した。

   *

・『「抒情の手」に倣(なら)ひて』「倣ひて」とある以上、「抒情の手」は別人の作物である。田中一三の手になるものか或いは別の誰かの書いたものかは不詳。恐らくは立原道造の研究者の間では自明のものなのだろうとは思う。

・「若王(にやくわうじ)」現代仮名遣では「にゃくおうじ」。京都府京都市左京区若王子町にある熊野若王子神社のこと。神田氏のサイト「東京紅團」の「立原道造の世界」の「田中一三と京都 京都市内編」(このページは本篇の鑑賞にすこぶる最適である。但し、トップ・ページへのリンクのみが許可されているので、そちらからお探し頂きたい)に、角川版「立原道造全集」の書簡集から昭和一一(一九三六)年に道造が一三を京都に訪ねた際に小場晴夫宛に送った書簡(十月二十八日附・京都市左京區浄土寺真如町迎稱寺田中香積気付)が引用されてあり、以下のようにある(当該ページの引用の前半部のみを引いた句の前後を空けた。同ページからそのままコピー・ペーストした。「うすやみほ」「とはり」はママ)。

   《引用開始》

 

   秋雨や 京のやどりは 墓どなり

 

 着いたよるは夜半から雨がしつかに降りそめ 次の日一日夕ぐれまで降りつづいた 夕映が空を染めたころ京都大学の構内をさまよひ そこですつかりうすやみほ夜になった 近くの獨逸文化研究所も見た 次の日 銀閣から疏水に沿うて若王子をとはり 南禅寺に行った。雨は降りみ降らずみ 雲の多い室と青空とは交代した 南禅寺の山門のところで遊んでゐる幼稚園の子供たちに見恍れ その言葉が京言葉なのに聞き恍れた

   《引用終了》

この『銀閣から疏水に沿うて若王子をと』ほり、とある箇所は、本詩篇の「降るやうな光のなかで おまへと並んで/その日はぼんやりと步きつづけた/落葉する櫻並木のアーチの下を/ながれる靑い疏水のほとりを//若王子 若王子 とほい都の町はづれ」という箇所と、よく一致する。

・「時雨ふる京の泊りは墓どなり」前で引いた神田氏のサイト「東京紅團」の「立原道造の世界」の「田中一三と京都 京都市内編」によれば一三の下宿は京都府京都市左京区浄土寺真如町(しんにょちょう)にある迎称寺(こうしょうじ)境内(或いはその裏手の墓地の隣り)にあったらしい。同ページには猪野謙二宛の同年十月二十六日附書簡があるが、そこで添えられた句は、

 

   秋雨や京の東の墓どなり。

 

となっている(同ページからそのままコピー・ペーストした。句点はママ)。この異形二句から察するに、「泊り」は「とまり」ではなく、「やどり」と読ませる可能性が高いか。初五を「時雨ふる」に変え、中七の継ぎ手を取り立ての係助詞「は」としたのは私はよいと思う。初五の切れのブレイクが失われたのはやや惜しい気もするが、「時雨ふる京の泊りは墓どなり」となって初めて、句全体にしっとりとした落ち着いた感じが満ち溢れており、道造の詩篇によくマッチしている。

・「小竹」二字に「ささ」のルビを振る。

・「東窓」「ひがしまど」と訓じたい。]

2016/06/08

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 女の顏

 

       女の顏

 

 女は情熱に驅られると、不思議にも少女らしい顏をするものである。尤もその情熱なるものはパラソルに對する情熱でも差支へない。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に、前の「小説」「文章」(二章)と、後の「世間智」(二章)「恒産」「彼等」「作家所生の言葉」と合わせて全九章で初出する。底本後記によれば、初出は(短いので題ごと示す)、末尾が異なり、

 

       女の顏

 

 女は情熱に驅られると、不思議にも少女らしい顏をするものである。尤もその情熱なるものはパラソルに對する情熱でも好い。

 

となっている、とある。私の「侏儒の言葉」抄録の定番の一章であり、最も激しく、「そうそう!」と首を縦に振りたくなるアフォリズムである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 文章

 

       文章

 

 文章の中にある言葉は辭書の中にある時よりも美しさを加へてゐなければならぬ。

 

       又

 

 彼等は皆樗牛のやうに「文は人なり」と稱してゐる。が、いづれも内心では「人は文なり」と思つてゐるらしい。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に、前の「小説」と、後の「女の顏」「世間智」(二章)「恒産」「彼等」「作家所生の言葉」と合わせて全九章で初出する。第一章のアフォリズムは「侏儒の言葉」の中で特異的に素直で優等生の模範解答的なそれである。而して毒だらけの中に配すると、実にその美しさが際立つということを龍之介はしっかり認識していたに違いない。私も癪だけれど、教師時代の抄録には必ずこれを入れぬ訳には行かなかった。

 

・「樗牛」「ちよぎう(ちょぎゅう)」と読む。私も偏愛する小説「滝口入道」の作者であるが、一般には評論家として紹介される高山樗牛(明治四(一八七一)年~明治三五(一九〇二)年)のことである。平凡社「世界大百科事典」の野山嘉正氏の解説を見てみよう(コンマを読点に代えた)。『明治期の美学者、倫理学者、文芸評論家。山形県鶴岡生れ。本名林次郎。旧姓斎藤、幼い』時に『高山家へ入籍。第二高等中学(後の第二高等学校)を経て』、明治二九(一八九六)年、『東京帝大文科大学哲学科を卒業』しているが、在学中の明治二七(一八九四)年に『読売新聞』の懸賞小説に「平家物語」に材を取った悲恋物語「滝口入道」が入選、『注目されたが、樗牛自身は学問の活性化をめざしてエッセイストの道を選んだ』(「滝口入道」の作者は樗牛の生前はずっと匿名のままあったとウィキの「高山樗牛」にはある)。大学卒業と同時に『第二高等学校教授となったが、翌年辞任して博文館に入社』、雑誌『太陽』主筆となって『鋭い批評文を精力的に書いた。日本主義から、ニーチェ賛美、〈美的生活〉の提唱、日蓮研究へとめまぐるしく主張は変化したが、本能に基づくロマン的な意志の確立という姿勢は一貫している』。「吾人(ごじん)は須(すべか)らく現代を超越せざるべからず」(「無題錄」)という『名文句で知られるが、留学直前に病で倒れ、美学・美術史の研究を緒に就かせたままで永眠』した。芥川龍之介には大正八(一九一九)年一月に、樗牛会が刊行した『人文』に載せた「樗牛の事」があるが(リンク先は青空文庫のそれ。但し、新字新仮名遣で、勝手な表記変更が施された角川文庫版を底本としている)、それを読むと、冒頭から中学の三年の学年末休暇の時(明治四〇(一九〇八)年三月で満十六歳。樗牛はそれより五年前に亡くなっている)、『始めて樗牛に接した自分は、あの名文から甚よくない印象を受けた。と云ふのは、中學生たる自分にとつて、どうも樗牛は噓つきだといふ氣がしたのである』と始まり、その後、作家になって間もなく、改めて樗牛全集を読み返してみたところ、『無論そこには』相変わらず、『厭味や淚があつた。いや、詠歎そのものさへも、すでに時代と交渉がなくなつてゐたと言っても差支へない。が、それにも關らず』、そ『の文章の中にはどこか樗牛と云ふ人間を彷彿させるものがあつた。さうしてその人間は、迂餘曲折を極めた七めんだうな辭句の間に、やはり人間らしく苦しんだりもがいたりしてゐた。だから樗牛は、噓つきだつた譯でも何でもない。唯中學生だつた自分の眼が、この樗牛の裸の姿をつかまへそくなつただけである。自分は樗牛の慟哭には微笑した。が、その最もかすかな吐息には、幾度も同情せずにゐられなかつた』と綴って、彼の強烈な日本主義にはほとんど触れずに、あくまで樗牛の持っていた人間性を愛惜し、『しかし怪しげな、國家主義の連中が、彼らの崇拜する日蓮上人の信仰を天下に宣傳した關係から、樗牛の銅像なぞを建設しないのは、まだしも彼にとつて幸福かもしれない――自分は今では、時々こんなことさへ考えるやうになつた』と擱筆している(引用は「青空文庫」のものではなく、総て岩波旧全集に拠った)。

・「彼等」芥川龍之介以外の作家、就中、「人」が「文」だと内心思っているとすれば、それはそれこそ唯物史観に立つ左派作家ということか。

・「文は人なり」岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、逝去の年、明治三五(一九〇二)年発表の「文は人也」で、そこで樗牛は『文字は符號のみ、そを註解するものは作者自らの生活ならざるべからず。文は是に至りて畢竟人也、命也、人生也』と言っているとある(引用部の漢字を一部、正字化した)。なお、筑摩全集類聚版の注はこれに注するに、『フランス十八世紀の博物学者ビュフォンの』『「文体論」中の“Le style est l’homme même”の訳語とされる』(実は底本では『ビュフォンの物「文体論」』なのであるが、意味がとれないので除去した)とある。前者が正統な注だが、後者も、悪くない。

・「人は文なり」前の「文は人なり」と並べる時、私は思わず、ウィトゲンシュタインの写像理論を想起する。ウィトゲンシュタイン風に言うなら、鏡に写った僕たちの像を僕たちの姿が説明するのである。文がそれを書いた人間を説明しているんじゃあ、ない。その人間こそが文を説明しているのである。しかしそれは私にとっては、ここで龍之介が鼻白んでいるような唯物的な「人は文なり」(人の思想が外化したものがと文である)と同義なのではない。小説家の場合なら、その作家が芸術家として実在せんとする必死の覚悟こそが小説そのものの実在性を保証し説明していなくてはならないという意味でである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 小説

 

       小説

 

 本當らしい小説とは單に事件の發展に偶然性の少ないばかりではない。恐らくは人生に於けるよりも偶然性の少ない小説である。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に、後の「文章」(二章)「女の顏」「世間智」(二章)「恒産」「彼等」「作家所生の言葉」と合わせて全九章で初出する。これは後の芥川龍之介の谷崎潤一郎との論争に端を発して書かれた、「文藝的な、餘りに文藝的な」(昭和二(一九二七)年)の『一 「話」らしい話のない小説』を読むに若くはない。私の「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」から引用する。二以降の谷崎への反論は結局、この二人の作家の立ち位置の強烈な違いから、相互に嚙み合わないのであって、私は余り面白いとは思わないので、お読みになりたい方はリンク先でお読みあれ。因みに、私は谷崎潤一郎がはなはだ嫌いである。

   *

       一 「話」らしい話のない小説

 

 僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。從つて「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言はない。第一僕の小説も大抵は「話」を持つてゐる。デツサンのない畫は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は「話」の上に立つものである。(僕の「話」と云ふ意味は單に「物語」と云ふ意味ではない。)若し嚴密に云ふとすれば、全然「話」のない所には如何なる小説も成り立たないであらう。從つて僕は「話」のある小説にも勿論尊敬を表するものである。「ダフニとクロオと」の物語以來、あらゆる小説或は叙事詩が「話」の上に立つてゐる以上、誰(たれ)か「話」のある小説に敬意を表せずにゐられるであらうか? 「マダム・ボヴアリイ」も「話」を持つてゐる。「戰爭と平和と」も「話」を持つてゐる。「赤と黒と」も「話」を持つてゐる。……

 しかし或小説の價値を定めるものは決して「話」の長短ではない。況や話の奇拔であるか奇拔でないかと云ふことは評價の埒外(らちぐわい)にある筈である。(谷崎潤一郎は人も知る通り、奇拔な「話」の上に立つた多數の小説の作者である。その又奇拔な「話」の上に立つた同氏の小説の何篇かは恐らくは百代(だい)の後にも殘るであらう。しかしそれは必しも「話」の奇拔であるかどうかに生命を託してゐるのではない。)更に進んで考へれば、「話」らしい話の有無さへもかう云ふ問題には沒交渉である。僕は前にも言つたやうに「話」のない小説を、――或は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。しかしかう云ふ小説も存在し得ると思ふのである。

 「話」らしい話のない小説は勿論唯(ただ)身邊雜事を描(ゑが)いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙かに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。が、若し「純粹な」と云ふ點から見れば、――通俗的興味のないと云ふ點から見れば、最も純粹な小説である。もう一度畫(ゑ)を例に引けば、デツサンのない畫は成り立たない。(カンディンスキイの「即興」などと題する數枚の畫は例外である。)しかしデツサンよりも色彩に生命を託した畫は成り立つてゐる。幸ひにも日本へ渡つて來た何枚かのセザンヌの畫は明らかにこの事實を證明するのであらう。僕はかう云ふ畫に近い小説に興味を持つてゐるのである。

 ではかう云ふ小説はあるかどうか? 獨逸(ドイツ)の初期自然主義の作家たちはかう云ふ小説に手をつけてゐる。しかし更に近代ではかう云ふ小説の作家としては何びともジユウル・ルナアルに若かない。(僕の見聞する限りでは)たとへばルナアルの「フィリツプ一家の家風」は(岸田國士氏の日本譯「葡萄畑の葡萄作り」の中(うち)にある)一見未完成かと疑はれる位である。が、實は「善く見る目」と「感じ易い心」とだけに仕上げることの出來る小説である。もう一度セザンヌを例に引けば、セザンヌは我々後代のものへ澤山の未完成の畫を殘した。丁度ミケル・アンヂエロが未完成の彫刻を殘したやうに。――しかし未完成と呼ばれてゐるセザンヌの畫さへ未完成かどうか多少の疑ひなきを得ない。現にロダンはミケル・アンヂエロの未完成の彫刻に完成の名を與へてゐる!……しかしルナアルの小説はミケル・アンヂエロの彫刻は勿論、セザンヌの畫の何枚かのやうに未完成の疑ひのあるものではない。僕は不幸にも寡聞の爲に佛蘭西(フランス)人はルナアルをどう評價してゐるかを知らずにゐる。けれども、わがルナアルの仕事の獨創的なものだつたことを十分には認めてゐないらしい。

 ではかう云ふ小説は紅毛人以外には書かなかつたか? 僕は僕等日本人の爲に志賀直哉氏の諸短篇を、――「焚火」以下の諸短篇を數へ上げたいと思つてゐる。

 僕はかう云ふ小説は「通俗的興味はない」と言つた。僕の通俗的興味と云ふ意味は事件そのものに對する興味である。僕はけふ往來に立ち、車夫と運轉手との喧嘩を眺めてゐた。のみならず或興味を感じた。この興味は何であらう? 僕はどう考へて見ても、芝居の喧嘩を見る時の興味と違ふとは考へられない。若し違つてゐるとすれば、芝居の喧嘩は僕の上へ危險を齎さないにも關らず、往來の喧嘩はいつ何時危險を齎らすかもわからないことである。僕はかう云ふ興味を與へる文藝を否定するものではない。しかしかう云ふ興味よりも高い興味のあることを信じてゐる。若しこの興味とは何かと言へば、――僕は特に谷崎潤一郎氏にはかう答へたいと思つてゐる。――「麒麟」の冐頭の數頁(すうページ)は直ちにこの興味を與へる好個の一例となるであらう。

 「話」らしい話のない小説は通俗的興味の乏しいものである。が、最も善い意味では決して通俗的興味に乏しくない。(それは唯「通俗的」と云ふ言葉をどう解釋するかと云ふ問題である。)ルナアルの書いたフィリツプが――詩人の目と心とを透して來たフィリツプが僕等に興味を與へるのは一半(ぱん)はその僕等に近い一凡人である爲である。それをも亦通俗的興味と呼ぶことは必しも不當ではないであらう。(尤も僕は僕の議論の力點を「一凡人である」と云ふことには加へたくない。「詩人の目と心とを透して來た一凡人である」と云ふことに加へたいのである。)現に僕はかう云ふ興味の爲に常に文藝に親しんでゐる大勢の人を知つてゐる。僕等は勿論動物園の麒麟に驚嘆の聲を吝(を)しむものではない。が、僕等の家にゐる猫にもやはり愛着(あいちやく)を感ずるのである。

 しかし或論者の言ふやうにセザンヌを畫の破壞者とすれば、ルナアルも亦小説の破壞者である。この意味ではルナアルは暫く問はず、振り香爐の香(か)を帶びたジツドにもせよ、町の匂ひのするフィリツプにもせよ、多少はこの人通りの少ない、陷穽(かんせい)に滿ちた道を歩いてゐるのであらう。僕はかう云ふ作家たちの仕事に――アナトオル・フランスやバレス以後の作家たちの仕事に興味を持つてゐる。僕の所謂「話」らしい話のない小説はどう云ふ小説を指してゐるか、なぜ又僕はかう云ふ小説に興味を持つてゐるか、――それ等は大體上に書いた數十行の文章に盡きてゐるであらう。

 

   *]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 支那(二章)

 

       支那

 

 螢の幼蟲は蝸牛を食ふ時に全然蝸牛を殺してはしまはぬ。いつも新らしい肉を食ふ爲に蝸牛を麻痺させてしまふだけである。我日本帝國を始め、列強の支那に對する態度は畢竟この蝸牛に對する螢の態度と選ぶ所はない。

 

       又

 

 今日の支那の最大の悲劇は無數の國家的羅曼主義者即ち「若き支那」の爲に鐵の如き訓練を與へるに足る一人のムツソリニもゐないことである。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年七月号『文藝春秋』巻頭に、前の「自由」(四章)「言行一致」「方便」「藝術至上主義者」「唯物史觀」と合わせて全十章で初出する。

 

・「螢の幼蟲は蝸牛を食ふ時に全然蝸牛を殺してはしまはぬ。いつも新らしい肉を食ふ爲に蝸牛を麻痺させてしまふだけである」「蝸牛」「かたつむり」。誰も注していないが、本当に何も注さないでこの文章は万人に十全に達意するのだろうか? そんなにホタルの生態に現代の読者は詳しいのだろうか? 「ここで芥川龍之介が言ってることは本当に正しいんだろうか?」とあなたは思いませんか? そう思われる方は、では御一緒に!
 

 日本の本土で一般大衆が普通に「螢」(ほたる)と呼んでいるのはゲンジボタル(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ホタル科ゲンジボタル属ゲンジボタル Luciola cruciata)とヘイケボタル(ゲンジボタル属ヘイケボタル Luciola lateralis)であるが(実際にはホタル科 Lampyridaeのホタル類は元来が熱帯域を主な棲息域とする種群で、日本国内には四十六種が棲息、しかも本土より南西諸島により多くの種がいる。ここはウィキの「ホタル」他に拠った)、彼らの幼虫は水中棲息であって、ゲンジボタルはカワニナ(腹足綱吸腔目カニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ(川螺) Semisulcospira libertina)、ヘイケボタルはカワニナの他、モノアラガイ(異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科モノアラガイ属イグチモノアラガイ亜種モノアラガイ(物洗貝)Radix auricularia japonica。この種は有肺目 Pulmonata である点ではカタツムリ類と仲間ではあるが、水棲のこれらを当時(一部の方言を除く)でも現在でも「蝸牛」とは呼ばない)や腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae の田螺(たにし)類等を摂餌するが、現行では腹足綱直腹足亜綱下綱異鰓上目有肺目真有肺亜目 Eupulmonataの内、柄眼下目マイマイ上科オナジマイマイ科 Bradybaenidae 及びニッポンマイマイ科Camaenidae に属する種群を代表種とする、陸生の巻貝のみを蝸牛(かたつむり)と呼ぶ(蝸牛(かたつむり)という一般的なこの呼称に相当する生物群を示すのは上のようにやや厄介であるが、民俗学上では遙かに厄介で、実は水棲のタニシなども地方によっては「かたつむり」或いは同義の「つぶ」「まいまい」と呼ぶ。私の柳田國男の「蝸牛考」を参照されたい。リンク先は(私のブログ・カテゴリ「柳田國男」)で私の注附きで全完結している)。従って、「螢」をゲンジボタルとヘイケボタルとしか読み換えることの出来ない日本人の一般大衆にとっては、芥川龍之介の「螢の幼蟲は蝸牛を食ふ時」という謂いはどうみても誤りとしか読めないことは言を俟たない。さらに言えば、本所生まれの龍之介が水中の巻貝類を以って十把一絡げに「蝸牛」と呼称したのだというのは無理があると思うのである。

 

 但し、この「蝸牛」を「まいまい」と読むというのなら、その可能性は出ては来る。いや、寧ろ、私はそれを深く疑っている。芥川龍之介は「蝸牛」と書いて「まいまい」と読み、それで水中の巻貝(腹足類)をも指しているのではないか? しかしだとすれば、向後は「侏儒の言葉」のここの「蝸牛」に「まいまい」というルビを振り、しかも、注して「ここでは水中の巻貝を指す」とでも注をしないとダメだと思う。今時、「蝸牛」を「まいまい」とは訓じないし、しかもそれを水生腹足類と読み換えて呉れる奇特な読者はいないか、或いは近い将来、いなくなるからである

 

 ただ、この龍之介の謂い――ホタルがカタツムリを食う――というのが誤っているかというと、実は誤っていないのである。

 

 何故なら、我々がホタルの代表のように思い込んでしまっているゲンジボタルやヘイケボタルはホタル類を代表する種でも何でもなく、寧ろ、上に示した通り、幼虫が水棲で淡水性巻貝類(水生腹足類)を摂餌するという種は『ホタル全体で見るとむしろ少数派』なのである(引用はウィキの「ホタル」。下線はやぶちゃん)。而して何故、龍之介の謂いが誤っていないかといえば、実はホタル科 Lampyridaeのホタル類の『多くの種類の幼虫は湿潤な森林の林床で生活し、種類によってマイマイやキセルガイなどの陸生巻貝類やミミズ、ヤスデなどといった土壌動物の捕食者として分化している』(下線やぶちゃん。特に『マイマイやキセルガイなどの陸生巻貝類』の箇所に注目)からである。この「マイマイ」はまさに陸生の「蝸牛(カタツムリ)類」のことであり、「キセルガイ」もカタツムリ類と極めて近縁の有肺目キセルガイ(煙管貝)科 Clausliidae細長い尖塔状の殻を持った陸生巻貝である(キセルガイは「蝸牛」の一種として認識されており、「蝸牛」と呼んでも何ら問題ない)。即ち、我々の知らない多くの他のホタル類は実は龍之介が言う通り、蝸牛を主な餌としているのである(なお、このキセルガイ類は腹足類(巻貝)としては珍しく、大部分が左巻きであり、しかも殻口の内奥部に「閉弁」(へいべん:Clausilium)と呼ぶ開閉式跳ね板のような特殊構造部を有する。これはウィキの「キセルガイによれば、『殻の一部が伸びて先端がスプーン状になった跳ね板扉状の構造で』、『閉弁は他に全く類を見ない極めて特殊なものである。その柄の付け根は殻口構造の中でも一番奥に位置しており、細い柄は螺旋状曲がりながら伸びて月状襞(もしくは下腔襞)の位置近くで急に下方に折れ曲がって閉弁を形成する。弁の形は丸みを帯びた平行四角形のことが多いが、これは殻の螺旋の断面がほぼそのような形になっているためである。ときに閉弁の先端部に切れ込みや刺状突起をもつ種類もある。螺旋状の柄には弾力があり、これをバネとして閉弁が跳ね板式の扉のように機能し、軟体部が殻の奥に引っ込むと自動的に閉まって外敵の侵入を阻み、貝が活動するために再び内部から出るときは、軟体に押されて殻の内壁にぴったりと押し付けられる。そのため弁は殻の内壁に沿った形に湾曲している』。科名の Clausiliidae や英名の「Door snail」もこの閉弁に因むものである)。

 

 しかし読者の中には、「芥川龍之介が、ゲンジボタルヤヘイケボタルの幼虫とは異なり、水棲でなく、陸にいて、その幼虫がカタツムリを捕食するところの、当時どころか現代でも一般大衆の知らないホタル類を知っていたはずがないだろ!」と反論される御仁があるやも知れぬ。

 

 だが――芥川龍之介がそうした種を知っていた可能性がある――のである。

 

 芥川龍之介は大阪毎日新聞社中国特派員として大正一〇(一九二一)年の五月二日から五日にかけて杭州(現在の浙江省の省都杭州市)を訪れている。それを綴った「江南游記」の、四 杭州の一夜(中)を読むと(リンク先は私の注釈附きブログ版)、彼はこの時、西湖湖畔で巨大なホタル火を見ている私はこれを推定同定して、「雌大螢火虫」(中文名)Lampyris noctiluca を候補として挙げた。今回、英文ウィキの「Lampyris noctilucaを見たところ、彼らの幼虫は陸棲でカタツムリ類を捕食することが判明した(同ウィキの画像でもそれが確認出来る。但し、言っておくが、彼らはかなりグロテスクであるので、上記リンク先のクリックは自己責任で。なお、私の全注釈附きの芥川龍之介「江南游記」全文HTML版はこちら)。

 或いはこの時、彼らの幼虫が陸生で蝸牛を食うという話を、泊まった新新旅館のホテル・マンか、或いは同宿の外国人、又は案内役として同行した村田烏江辺りから聴いた可能性があると私は思うのである。――中国の恐るべき巨大な火の蛍の、その幼虫が陸に棲み、しかも蝸牛を食う――という話を聴いたとしたら、それは龍之介ならずとも、強烈な印象として刻み込まれることは請け合いである(但し、ここは総て私の仮定ではある)。

 しかし、この龍之介の叙述には今一つ、別な問題がある。もう一度見よう(既に「蝸牛」問題は以上で私なりに片を付けたので以下のように書き換える)。

 

――「螢の幼蟲は」餌の巻貝「を食ふ時に全然」その貝「を殺してはしまはぬ。いつも新らしい肉を食ふ爲に」貝「を麻痺させてしまふだけである」――

 

 あなたはこんなことを知っていたか? 「え?! 麻酔!?」と不審に思わなかったか?

 私は凡そ救い難い馬鹿であるらしい。私は今日の今日までホタルの幼虫が巻貝に麻酔をかけて食っていたなんてさらさら知らなかったのだ! あのおどおどろしい頭を殼口から突っ込んでガリガリと貪り食らうのだとばかり思っていたのに!

 注を附さない芥川龍之介研究の国文学者というのは誰もが同時に昆虫学・ホタル学の専門家でもあるらしい! 凄い! いやさ、皮肉はこれぐらいにしとこう。本当にそうなんである!

 

――ホタルの幼虫は摂餌する際に摂餌対象の生物に麻酔をかけて食っている――

 

のである!

 まずは、お馴染みのゲンジボタルやヘイケボタルの幼虫(再度言う。彼らはかなりグロテスクである。以下のリンク先のクリックはくれぐれも自己責任で)を調べてみた。

 茨城県水戸市立国田中学校生物研究部の「ゲンジボタルの成育条件と生存率3 -上陸,羽化,産卵における光の影響 Part 2-」(PDF)によれば、ゲンジボタルの幼虫は口から出す消化液でカワニナを溶かしてそれを摂餌するとあるが、その記載中に(「6 結果」の「(1)ゲンジボタルの幼虫の飼育」の「幼虫の成長」の条)、『一頭のホタルがカワニナを食べる時間かなり長い。長いときで3日間も食べ続けている時もあった。ひとつのカワニナに何頭もの幼虫が頭をつっこみ食べているのをよく見かける』の前者の部分に眼が止まった。捕食時間が三日にも及ぶ場合、摂餌の最初にカワニナを殺してしまったら、二日目には内臓部からの腐敗が進行して食えなくなるかも知れぬと思ったからである。これは、その消化液の中にカワニナを殺さずに時間をかけてゆっくら食うための麻酔成分が含まれているとしても少しもおかしくない、と感じたからである。

 そこでさらに調べてみた。

 「ホタル 幼虫 麻酔」でネット検索をかけると、出るわ! 出るわ!

 小学館の「日本大百科全書」の「ホタル」の「生態」の項に『卵は一般に黄白色で球形、種類によっては雌の体内にあるときから発光しているのが認められる。幼虫は一部を除いて陸生で、昼間は林間の落葉下や石下などに隠れ、夜間活動する。おもにカタツムリなど貝類に鋭い大あごでかみつき、大あごの細溝を通じて消化液を注入し、液状にして吸い込むが、その際にカタツムリなどは麻酔される。種類によってはミミズやヤスデなどを襲うものもあるという。成虫が発光する種類は幼虫も発光し』、普通、第八腹節に一対の『発光器があるが、成虫がほとんど光らないクロマドボタルなど、昼間活動する種類でも幼虫が光るものが多い』とある(下線やぶちゃん)。

 レットさんのサイト「山の案内」の「ホタルの話」の「ホタルのあれこれ」(クリック同前自己責任)の記述の中に、『カワニナを食べるときは麻酔液を使うそうです』とある。カワニナとあるから、これはゲンジボタルの記載である。

 ヘイケボタルはどうか? あった。「ホタルの飼育について考える」という論文のこちらの記載に、『どうして冷凍した貝は食いや生育が悪くなるのか考えてみました。それはホタルの食性に関係があるように思えます。ゲンジボタルもヘイケボタルも獲物の(生きている)貝を見つけると、まず噛みついて麻酔液を注入します。カワニナもタニシも蓋を持った貝ですから、一旦は蓋を閉じて幼虫の攻撃から身を守りますが、再三の攻撃を受けるにつれて体がしびれ、ついには蓋を閉じることができなくなります。すると幼虫は消化液を分泌して貝の肉を溶かし、スープ状にして食べるのです。これを体外消化と言います。冷凍された貝の肉は組織が生きていませんので、生の肉に比べると消化液の働きが作用しにくいのかも知れません。またその結果として美味しく食べられないという一面も伴うのでしょう。これはあくまでも私の推測です』とある(下線やぶちゃん)。特にこの私が引いた後半部分は龍之介の「いつも新らしい肉を食ふ爲に」の部分と完全に一致しているではないか!

 

 いや! 凄い! 芥川龍之介の謂いは、以上によって、現在でも全く正確なホタルの幼虫の生態を記しているのであった!

 

・「我日本帝國を始め、列強の支那に對する態度」本章発表の大正一四(一九二五)年七月前後をウィキの「日中戦争」で見る(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。一九一〇年代後半から二〇年代前半、中国全土は分裂し、『軍閥割拠時代となった。一九一九年の五・四運動』(一九一九年のパリ講和会議のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱いた中華民国の大衆が北京で起こし、瞬く間に全国に広がった抗日・反帝国・反封建主義を掲げた大衆運動。呼称は五月四日に発生したことに由来する)『以降、中国では共産主義思想への共感が拡大』、『一九二一年には中国共産党が結成され』ている。『一九二〇年七月十四日の安直戦争』(中国の北京政府の主導権を巡って華北地方で安徽派(袁世凱の北洋軍閥の分派の一つ)の段祺瑞(だんきずい:派名は彼の出身地が安徽省だったことに因む)と直隷(ちょくれい)派(同じく北洋軍閥の分派の一つで、当初、同派を率いていた馮国璋(ふうこうしょう)の曹錕(そうこん)の対戦。五日間の戦闘で安徽派が大敗)『によって段祺瑞の政権は崩壊した。天津攻撃をおそれた日本は鉄道沿線各地に軍兵を配置した。十月二日には馬賊団が、琿春の日本領事館を全焼させ、日本人十三人を殺害、数人を拉致する。 一九二〇年十一月、張作霖の使者が日本を訪問し、支援を求める』。『一九二二年四月、孫文が北伐を開始』、『四月二十八日 には第一次奉直戦争』(直隷派の呉佩孚(ごはいふ)と奉天派(北洋軍閥の分派で中国東北部を基盤として日本の支援を受けていた総帥が張作霖及び息子の張学良)の張作霖の間で一九二二年に起った戦争。この時は直隷派が勝利したが、以下に見る通り、第二次(一九二四年)では奉天派が勝利して張作霖が政権を掌握した)が起き十月二十五日には日本軍がシベリアを撤兵、一九二三年六月には長沙事件が発生している(一九二三年(大正十二年)六月一日、湖南省長沙に於いて発生した排日運動を鎮圧するため、日本海軍陸戦隊が上陸した事件。汽船「武陵丸」の入港に反対する学生の排日運動を鎮圧することが目的とされたが、上陸を機に排日運動はさらに激化したため、鎮圧に手間取り、完全に沈静化したのは六月十九日であった。ここはウィキの「長沙事件」に拠った)。『一九二四年一月二十日、軍閥および北京政府に対抗する国共合作が成立、孫文の広東政府はコミンテルン』(ロシア語:Коминтерн/英語:Comintern)一九一九年から一九四三年まで存在した共産主義政党による国際組織。第三インターナショナルとも呼ぶ)『工作員ミハイル・ボロディンを最高顧問に迎え、ソ連の支援で国民革命軍を組織し』、一九二四年六月十六日には『軍官学校を設立した』。『一九二四年七月一日、蒋介石と汪兆銘』(おうちょうめい)『等による広東国民政府が成立。ソ連はボロディンら工作員を派遣し』、『広東などで反英運動を展開』、『一九二五年七月には蒋介石は東シベリア赤軍』『にイギリスとの武力戦争のためにロシア人顧問が必要であると伝え』ている。『一九二四年九月一八日、第二次』奉直戦争『が起こると、日本は内政不干渉を表明する一方、日本陸軍による張作霖への支援は続け、一九二五年に郭松齢』(かくしょうれい:張作霖の片腕であったが、この時、反旗を翻して張作霖討伐を画したが、結局、敗北、銃殺された)『が奉天に迫ると、満州出兵を行い、張作霖への軍事支援を実施した。一九二五年五月三十日、上海で数万の反日デモが発生、その後全市規模のストライキがコミンテルンと中国共産党の陳独秀指揮のもとで行われた。デモに対して上海共同租界当局は鎮圧にあたって発砲、十三人が死亡する五・三〇事件』(ごさんじゅうじけん)『が発生、以後、大衆運動の矛先は上海共同租界の代表であるイギリスに向けられ、香港などでも反英運動が展開した』。『その後もソ連は多額の資金を提供し、大青年反帝国主義同盟、中国プロレタリアート作家同盟、中国社会科学作家同盟などの組織が設立されていった』とある。因みに、ここに出る日本の支援を受けていた奉天軍閥の指導者張作霖が日本にとって邪魔となり、関東軍によって爆殺されるのは昭和三(一九二八)年六月四日のことである。

・「國家的羅曼主義者」「羅曼」に筑摩全集類聚版は『ロマン』とカタカナでルビする。従う。ナショナル・ロマンティシズム(National Romanticism)の訳語。ウィキの「ナショナル・ロマンティシズムより引く。『民族的ロマン主義または国民的ロマン主義とも訳され、ヨーロッパの』十八~十九世紀の『文学や政治におけるロマン主義を起源とし、美術や音楽、建築など広範囲の芸術領域に波及した潮流』。『芸術におけるナショナル・ロマンティシズムは、汎ヨーロッパ的な意味合いを持つ古典主義に対する、民族や国民国家などのアイデンティティを意識したローカリズムの主張と模索であったとひとまず考えることができる。したがって、イギリス・フランス・イタリアといったヨーロッパ文化の中心をなす国よりも、北欧・東欧・南欧(特にスペイン)などの周辺的な存在の国や地域により強く出現する傾向にあった』。『政治的には国民国家やファシズムなどの形成に影響を与えた』。

・「若き支那」ここで芥川は「少年中国学会」を意識して括弧書きしていると思われる。「少年中国学会」は一九一八年六月三十日に主に日本留学生によって企図された(正式成立は連動した五・四運動直後の一九一九年七月一日)、軍閥の専制や日本帝国主義の侵略に反対することを目的として結成された学生組織の名称。しかし当然のことながら、そこでは有意に共産主義を志向する学生が占めていた。芥川は新生中国の胎動の中にある青年の理想――共産主義の機運――を包括的に、このように呼んでいると考えてよい思われるが、そこには当然、当時の検閲を見越しての巧妙な「ぼかし」の意味もあると思われる。

・「ムツソリニ」ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini 一八八三年~一九四五年)平凡社「世界大百科事典」の北原敦氏の解説を引く(アラビア数字を漢数字に、コンマを読点に代えた)。『イタリアの政治家、ファシズム指導者。ロマーニャ地方のフォルリ近くに生まれ、鍛冶職人でアナーキスト系社会主義者の父、小学校教諭の母のもとで育ち、師範学校を出て』、『教員資格を取得。一九〇二年から約二年間』を『スイスで過ごし、社会主義者との交わりを深める。帰国後、兵役、教職を経て、一時』、『オーストリア領トレントの労働会議所の書記を務めた。一〇年社会党フォルリ支部書記となり、翌年イタリア・トルコ戦争(リビア戦争)』一九一一年から翌年にかけて、イタリアがオスマン・トルコ領リビアの領有を企図して起こした戦争)『に反対する行動で五ヵ月間投獄された。彼の思想は文化雑誌』『ボーチェ』(La Voce:「声」。一九〇八年にフィレンツェで創刊され、当時の主要な知識人が寄稿した)やソレル(Georges Sorel 一八四七年~一九二二年:フランスの哲学者・社会理論家で革命的サンディカリスム(労働組合主義)で知られ、反民主主義やファシズムに大きな影響を与えた。ムッソリーニは彼について「ファシズムの精神的な父」「私の師」「私自身はソレルに最も負っている」と発言している。ここはウィキの「ジョルジュ・ソレルに拠った)やヴィルフレド・パレート(Vilfredo Frederico Damaso Pareto 一八四八年~一九二三年:イタリアの経済学者・哲学者。社会は性質の異なるエリート集団が交互に支配者として入れ替わる循環構造を持っているとする「エリートの周流」という概念に基づく「循環史観」(歴史は同じような事象を繰り返すという考え方)を提唱、当時の社会進化論や史的唯物論を批判した。ここはウィキの「ヴィルフレド・パレート」に拠った)・『ニーチェらの書に負うところが多く、その社会主義も意志、直観、暴力の契機を重視した直接行動的性格を帯びていた。十二年社会党全国大会での改良派に対する痛烈な批判演説で脚光を浴び、指導部に選出された。さらに』党機関紙『アバンティ!』(Avanti!:「前進!」)の編集長の『ポストを与えられ、ミラノに活動の拠点を移す。ジャーナリストの才と激しい論調の革命主義の主張で党内に一派をなし、注目を集めた。第一次大戦の当初、党の方針である反戦中立の論陣を張ったが、一四年十月』、『突如として参戦論を機関紙に掲げ、十一月には独自の』日刊紙『ポポロ・ディタリア』(Il Popolo d'Italia:「イタリア人民」)を『創刊して参戦主義の活動を始めた。このため社会党から除名され、その後参戦派のサンディカリストとともに〈革命行動ファッシ〉』(Fasci Autonomi d'Azione Rivoluzionaria)『に加わって、いわゆる革命派参戦主義を唱えた。戦時中、前線勤務に就くが』、『事故で負傷して十七年に除隊、ジャーナリスト活動に戻った』。『大戦後の一九年三月〈戦闘ファッシ〉』(Fasci Italiani di Combattimento)『を結成してファシズム運動を開始し、二一年五月』、『下院議員に当選』、二二年十月に『ファシストのローマ進軍の圧力によって、国王から組閣令を引き出し、三十九歳で首相となった。以後二十年にわたって首相の地位にあり、とくに二五年一月』、『力による支配の方針を表明した後、ファシズム体制を築いて独裁的な権力を掌握した。ファシズム内の諸潮流の均衡の上に立って、その時々で大臣を交代させながら、みずからはドゥーチェ duce(ラテン語 dux に由来し、指導者の意味)として最高の地位を保持した。しかし、第二次大戦で敗色が濃くなると』、『政・財・軍各界からの批判が高まり、四三年七月二十四日』、『ファシズム大評議会で不信任の動議を突きつけられた。翌日』、『国王に逮捕され』、『山中に幽閉されたが、九月』には『ドイツ軍の救出をうけ、新たにイタリア社会共和国(サロ共和国)を樹立した』ものの、一九四五年四月には『レジスタンスの勢いが強まり、ドイツ軍にまじってスイスに逃れようとしたが、コモ湖畔でパルチザンに捕らえられ、銃殺刑に処せられた』。本章発表は大正一四(一九二五)年七月であるから、正に既にして独裁者としてイタリア・ファシズムの頂点に君臨していたわけだが、ここで龍之介が言っているのは、それ以前の「若き」日のムッソリーニの、変革への、扇動者にして先導者である旗手としてのむんむんするエネルギッシュな情熱とパワーを指している読める。而して、「若き支那」にいぶかしく首を捻った検閲官も、ここに「ムツソリニ」と出たのを見て、一人合点して笑みを浮かべ、問題なし、としたに違いない。]

2016/06/07

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 唯物史觀

 

       唯物史觀

 

 若し如何なる小説家もマルクスの唯物史觀に立脚した人生を寫さなければならぬならば、同樣に又如何なる詩人もコペルニクスの地動説に立脚した日月山川を歌はなければならぬ。が、「太陽は西に沈み」と言ふ代りに「地球は何度何分𢌞轉し」と言ふのは必しも常に優美ではあるまい。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年七月号『文藝春秋』巻頭に、前の「自由」(四章)「言行一致」と、後の「藝術至上主義者」「唯物史觀」「支那」(二章)と合わせて全十章で初出する。諸氏はこの「マルクス」だの「コペルニクス」だの「地動説」だのにせっせと注をつけておられるのだが、それって読者を馬鹿にしてるでしょ?

 

・「唯物史觀」「史的唯物論」(ドイツ語:historischer Materialismus)のこと。「歴史的唯物論」とも訳す。マルクス主義の歴史観で、歴史発展の原動力は人間の意識・観念にはなく、社会の物質的な生産にあり、生産過程に於ける人間相互の諸関係は生産力との関係で弁証法的に発展すると考える立場。この物質的な生産の諸条件が全社会経済構成を規定すると同時に、宗教・哲学・芸術などの精神構造をも究極的に決定するとされる。以上は三省堂「大辞林」の記載であるが、中経出版の「世界宗教用語大事典」は以下。『マルクス主義の歴史観。史的唯物論。物質的・経済的生活関係を以て歴史的発展の究極の原動力と考える立場。神が人間をつくったのではなく、人間が神をつくったことを明らかにする』とあり、ここに注するなら後者の方が達意的でよろしい。
 
・「日月山川」「じつげつさんせん」。

・「何分」「なんふん」。何でこんな注をつけるかって? 筑摩全集類聚版はこれに「ぶ」とルビを振ってるからさ。これは角度単位(一度の六十分の一)だろ。]

メヌエツト   立原道造

 

     メヌエツト

 

やさしい鳥 やさしい花 やさしい歌

私らは 林のなかの 一軒家の

にほひのよい春を 夢みてゐた

鄙びた 古い 小唄のやうに

 

靑い魚

光る果實

ながれる雲 星のにほひ

ちひさい炎

 

風が 語つて 忘れさせてゆく

淡い色のついた春を 夢みてゐた

ひとつの 古い 物語のやうに……

 

夜窓の星と 置洋燈(おきランプ)の またたきが

祝つてくれた ひとつの ねがひ

優しい鳥 優しい花 優しい歌

 

[やぶちゃん注:本詩篇は底本解説の記載から推定して、昭和一四(一九三九)年一月の作と思われる。死(同年三月二十九日)の直前の詠唱である。]

八月旅情の歌   立原道造

 

  八月旅情の歌

 

山の頂の草むらに ささやかな食事

日傘のなかに 花をひらき

ああ 夏の日の行樂は 指させば

あかるい空のひとすぢのながれ

その白雲も 夢のやう

 

旅にあればその日のうつつ 心に映り

しづかに消える、落葉松の林の

ああ その色も 山の頂に澄みわたり

その果てにとほく山なみは透き

また故知らない 郷愁

 

 

[やぶちゃん注:ここまでが解説の言う、昭和一〇(一九三五)年から翌年にかけて雑誌に発表されたものである。]

ヴアカンス   立原道造

 

  ヴアカンス

 

 森の中の小學校。浮雲が、空をすぎて行く、口笛を吹きながら、何かものを考へながら。

 小學校の庭に、ぶらんこの下に、空つぽのかげが。日まはりが咲いてゐる、ちやうど黃蜂やもんしろてふの日時計のやうに。

 ふと、大きなもののかげり。おしろいの花が散る。

 ……それ程の短いひととき。

 たのしいことがすぎて行く、浮雲のやうに、みなはればれと。

 

 

[やぶちゃん注:「黃蜂」「きばち」は、恐らくは膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科マルハナバチ亜科(ミツバチ亜科とする説もある)マルハナバチ族マルハナバチ属 Bombus マルハナバチ類の仲間で黄色の筋模様の強い種を指すものと思われる。]

フアンタスチツク   立原道造

 

  フアンタスチツク

 

 その現實は明るい綠色であつた。

 幾臺もの自動車は、最初そのため殆ど平面のやうに思はれる程橫倒しになつて幾分ゆるやかに疾走して來る。そして、或る點まで來るとそれは突然に速力を早めながら四角な骰子(さいころ)に變形して彼方へ點のやうに消えてしまふ。その彈道はコンコイドに似た線を畫いてゐる。

 歩いてゐる人間も同じやうに、豆粒の大きさが急に突拍子もないばうだいなものに變つたり、歩く方向によりその反對になつたりする。

 遠くの景色は一體にじつに小型に出來てゐるため、漠然とその微妙な色彩を感じさせるだけのものである。

 僕は、しばらくその現實を眺めてゐた。……するとそれ自身が急にゆらゆらと動き出して、景色をすこしかへながら、だんだんと遠ざかつてしまつた。そして、しまひには、ただ綠色に光る點になつてしまつた。

 そのとき風景の一部が切りひらかれて、なかから一人の少女が顏を出して

 ――さよなら!

 と、呼んだやうな氣がする。

 それは麗かな日の午後の出來事である。

 

[やぶちゃん注:「コンコイド」conchoid)は平面曲線の一つ。数式をここに注しても私自身が分からないので、グーグル画像検索「conchoidリンクさせておく。

「麗かな」「うららかな」。]

夏へ   立原道造

 

  夏へ

 

ここにかうして待つてゐる 或る時の

僕の少年 僕の祕密……

さうして僕の 知らない人の

忘れた 誰かの とおい出發

 

人は ハンカチをふつてゐる

人は 窓からほほゑむ

人は お辭儀をする

さうしてどこかへ行くのだらう――

 

(さう 僕は 帽子を用意した

それから紙より白い肌衣を

さうして さがしに行くのだらう)

 

プラツトフオームで手をふつた 或る時の

僕の昨日 僕の少年……あれから

あの人だけゐない すぎた幾つもの出發

 

[やぶちゃん注:私にはこの詩篇はデジャ・ヴである――]

切拔畫   立原道造

 

  切拔畫

 

日が落ちたので 空は着物を脱ぐと

鳩の時計に⦅もう夜よ⦆とそつと教へる

 

ランプからは小さい星がとびだして

めいめいに町の部屋たちを光らせる

 

⦅僕のお部屋よおやすみ!⦆と

子供はひとりづつ消えて行った――

 

夜 といふのはこのはなしです

このかなしみは僕をよろこばす

天の籠   立原道造

 

  天の籠

 

田舍娘は 汽車に乘つて

隣の町まで買ひ物に行く

大きな籠を手に持つて

――歸り……その籠は

果物・麺麭(パン)・花で いつぱいになり

娘は そのにほひに埋れて

ほんの短い居眠りをする

 

いつもすつかりおんなじだつた

やがて暗くなりはじめる頃

自分の家で籠はまた空つぽ――

なぜだか知らない

田舍娘は 竃の下に

火を焚きながら

今度は自分のためにだけ

小鳥や眞珠や花でいつぱいな

買物籠の唄をうたふ

葬送歌   立原道造

 

  葬送歌

 

窓硝子(ガラス)に 映つて

過ぎる 斜の人影

かさなり かさなりもつれ 消え

消え……

 

あのとき あのとき

かげのやうに さうして笑つてゐたひと

いつも いつも

歪んだ字を書いて來たひと

 

死ぬとき うつすら笑つたといふ――

しかし その聲を 私は

人をとほして 聞いたにすぎない

 

卓の上に 落ちた花のかげ 皿の影

指でふれてみてふれてみても

記憶は一つびとつ消えて行く 消えて行く弱い物音……

旅の手帖 ――その日、生田勉に――   立原道造

 

  旅の手帖

     ――その日、生田勉に――

 

 その町の、とある本屋の店先で――私は、やさしい土耳古(トルコ)娘の聲を聞いた。私は、そのひとから赤いきれいな表紙の歌の本をうけとつた。幼い人たちのうたふやうな。

 

 また幾たびか私は傘を傾けて、空を見た。一面の灰空ではあつたが、はかり知れない程高かつた。しづかな雨の日であつた。

 

 誰かれが若い旅人にささやいてゐた、おまへはここで何を見たか。

 さう、私は土耳古娘を見た、あれから公園で、あれからうすやみの町はづれで。

 

 ――いつの日も、さうしてノヴァリスをひさぎ、リルケを賣るであらう。さうして一日がをはると、あの夕燒けの娘は……私の空想はかたい酸い果實のやうだ。

 

 私はあの娘にただ燃えつきなかつた蠟燭を用意しよう、旅の思ひ出の失はれないために。 ――夏の終り、古い城のある町で、私は、その人から、この歌の本をうけとつたと、私はまた旅をつづけたと。

 

 

[やぶちゃん注:「生田勉」(いくたつとむ 一九一二年~一九八〇年)は立原道造と同じ建築家仲間の友人。後に東京大学名誉教授。ウィキの生田勉によれば、『北海道小樽市生まれ。第一高等学校から』、昭和一四(一九三九)年、『東京帝国大学工学部建築学科卒。一高同期に立原道造、大学の一期上に丹下健三・浜口隆一がいる。特に立原とは深く交わった。また、ル・コルビュジェの作品・思想に強い影響を受けた。逓信省営繕課勤務を経て』、昭和一九(一九四四)年一高教授。その後、東大教養学部助教授となり、昭和三六(一九六一)年教授、昭和四七(一九七二)年に定年退官した。『木造の温かみを生かした住宅・山荘作品に独自の境地を開いた。また、アメリカの文明批評家、ルイス・マンフォードの著作の紹介者としても知られる』とある。道造より二歳年上であった。

「酸い」は「すい」。]

夏の弔ひ   立原道造

 

  夏の弔ひ

 

 嘗(かつ)てのやうに、それはおだやかな陽氣な日よりであつた。私はどこかで或る日さういふ日曜日に會つたことがあるやうに思つた。

 

 夜に入つてから、窓の外に霧が降りてゐた。私たちは集まつてゐた。燭火(ともしび)のまはりに。いくたびかおなじ言葉を編みかへながら、もうすくなくなつた話のまはりに。

 

 私たちの手に、晝の花束はのこつてゐない。……あれは何かとほい母たちの住む國の色のやうであつた。

 

  虫が鳴いてゐた。鳴きつづけるこほろぎは逝く夏のしるべして。しばらく。一人は聞いてゐたが聞きさしてどこかに出て行つた。

 

 私は明日のことを思つてゐた。決して訊くことも語ることも出来ないものを。……窓ひらく。音もなくながれる霧に、月の出は明るく窓にさしてゐた。

 

 

[やぶちゃん注:立原道造には既に電子化した、生前刊行の処女詩集「萱草に寄す」の知られた一篇「SONATINE No.2」の第二篇に同題異篇のひ」がある。

「聞きさして」「聞き止(さ)して」で、聞くのを途中でやめて、の意。]

離愁   立原道造

 

  離愁

 

慌しい別れの日には

 

汽笛は 鳥たちのする寂しい挨拶のやうに呼びかはし

あなたたちをのせた汽車は 峠をくだつた

 

秋の 染みついた歩廊のかげに

私はいつまでも立ちつくし

いつまでも帽子をふつてゐた――

 

失はれたものへ

幼きものへ

天の誘ひ   立原道造

 

  天の誘ひ

 

 死んだ人なんかゐないんだ。

 どこかへ行けば、きつといいことはある。

 

 夏になつたら、それは花が咲いたらといふことだ、高原を林深く行かう。もう母もなく、おまへもなく。つつじや石楠(しやくなげ)の花びらを踏んで。ちやうどついこの間、落葉を踏んだやうにして。

 林の奥には、そこで世界がなくなるところがあるものだ。そこまで歩かう。それは麓をめぐつて山をこえた向うかも知れない。誰にも見えない。

 僕はいろいろな笑いひ聲や泣き聲をもう一度思ひ出すだらう。それからほんたうに叱られたことのなかつたことを。僕はそのあと大きなまちがひをするだらう。今までのまちがひがそのためにすつかり消える。

 

 人は誰でもがいつもよい大人になるとは限らないのだ。美しかつたすべてを花びらに埋めつくして、霧に溶けて。

 

 さやうなら。

旅裝   立原道造

[やぶちゃん注:以下、先日、古本屋(恐らく古本屋に入ったのは十数年振り)でタダ同然の安値で買い求めた一九八八年岩波文庫刊「立原道造詩集」(杉浦民平編)から、私がこのブログ・テゴリ「立原道造」で未電子化である詩篇を電子化する。但し、私のポリシーに則り、漢字は恣意的に正字化する。まずは、底本「拾遺詩篇」より引くが、各篇の初出は附されておらず、最後の解説には、初出についてはは底本の底本である角川書店第三次版「立原道造全集」(一九七一~一九七二年刊)の編注にくわしい、とするのみである。私は当該全集を所持していないので各篇の書誌は記せない。悪しからず。ただ、解説によれば、この「旅裝」から「八月旅情の歌」までの詩篇は昭和一〇(一九三五)年から翌年にかけて雑誌に発表されたものとする。]

 

 

  旅裝

 

まぶしいくらゐ 日は

部屋に隅まで さしてゐた

旅から歸つた 僕の心……

 

ものめづらしく 椅子に凭(よ)り

机の傷を撫でてみる

机に風が吹いてゐる

――それはそのまま 思ひ出だつた

僕は手帖をよみかへす またあたらしく忘れるために

 

――その村と別れる汽車を待つ僕に

平野にとほく山なみに 雲がすぢをつけてゐた……

 

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  藝術至上主義者

 

       藝術至上主義者

 

 古來熱烈なる藝術至上主義者は大抵藝術上の去勢者である。丁度熱烈なる國家主義者は大抵亡國の民であるやうに我我は誰でも我我自身の持つてゐるものを欲しがるものではない。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年七月号『文藝春秋』巻頭に、前の「自由」(四章)「言行一致」「方便」と、後の「唯物史觀」「支那」(二章)と合わせて全十章で初出する。標題に含まれる「藝術至上主義」についてウィキの芸術のための芸術を引いておく。『芸術のための芸術』(フランス語:l'art pour l'art)は、十九世紀初頭の『フランスで用いられ始めた標語。芸術それ自身の価値は、「真の」芸術である限りにおいて、いかなる教訓的・道徳的・実用的な機能とも切り離されたものであることを表明している。そのような作品は時として「自己目的的」』(autotélique:ギリシア語の「autoteles」由来)、『すなわち人間存在の「内向性」や「自発性」を取り入れるために拡張された概念であると評される。日本ではこれを主義として捉え』、『芸術至上主義と呼ぶこともある』。『「芸術のための芸術」はテオフィル・ゴーティエ』(Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年:フランスの詩人・作家)の『言葉とされる。ゴーティエが初めてこの言葉を書いたわけではないと異論を唱える者もいる。ヴィクトル・クーザン』(Victor Cousin 一七九二年~一八六七年:フランスの哲学者)やバンジャマン・コンスタン(Henri-Benjamin Constant de Rebecque 一七六七年~一八三〇年:スイス出身のフランスの小説家・思想家・政治家)や、アメリカの詩人で幻想作家のエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)の『作品にもこの言葉は現れる。ポーは評論「詩の原理」(The Poetic Principle 一八四八年)に於いて、以下のように論じている。――『我々は詩をただ詩のためだけに書こうと決意するようになった(中略)そうしたことが我々の意図であると認めるならば、我々は真に詩的な威厳や力に根本的に欠けていると告白せねばならぬだろう。しかしながら純然たる事実としては、我々がただ我々自身の魂の中を覗き込むに委せるなら、まさにこの詩、この詩それ自身、詩でありそれ以外の何物でもないところのこの詩、「ただ詩のためだけに書かれた詩」よりも威厳のあり高貴な作品などはこの世界には存在せず存在し得ることもないことを我々は直ちに発見するであろう』。――『しかしながら、ゴーティエはこの言葉を最初に標語として掲げた人物である。「芸術のための芸術」は』十九世紀のボヘミアニズム(Bohemianism:自由奔放な生活を追究することを人生の実相とする考え方)の信条であり、ジョン・ラスキン(John Ruskin 一八一九年~一九〇〇年:イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家)から始まり、『ずっと後の社会主義リアリズムを唱道する共産主義者たちに至るまでの、芸術の価値は何らかの道徳や教訓的な目的に奉仕することであると考える人々を物ともせずに掲げられた標語であった。「芸術のための芸術」は、芸術は芸術として価値があるのであり、芸術の探求はそれ自身で正当化されるものであり、芸術は道徳的な正当化を必要としないものであると主張した。そして実際に、彼らは道徳の破壊者を自認していた』。さらにジェームズ・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler 一八三四年~一九〇三年:アメリカ人の画家。但し、生涯の殆んどをロンドンで過ごした)は十六世紀の対抗宗教改革(カトリック教会内の改革刷新運動)以降、『ずっと付き纏ってきた国家や国教のために奉仕するという芸術の因習的な役割を否定してこう書い』ている。――『芸術はどんなナンセンスとも無関係でなければならぬ。独り立ちしており(中略)信仰、憐憫、愛、愛国心などといった芸術とは凡そ相容れない感情と混同させることなく、耳目の芸術的感覚に訴えかけねばならぬ』。――『このような素っ気ない棄却は』、また、『芸術家が感傷主義から距離を置くことも表明していた。この声明に見えるロマン主義の残滓は、芸術家が決定者として自身の目と感覚に信頼を寄せるということに現れている』。レオポール・セダール・サンゴール(Léopold Sédar Senghor 一九〇六年~二〇〇一年:セネガル共和国初代大統領であった詩人)やチヌア・アチェベ(Chinua Achebe 一九三〇年~二〇一三年:ナイジェリア出身の小説家)といった芸術家たちはこの標語を』、『限界のあるもので』、『ヨーロッパ中心主義的な芸術・創造観であると批判している』。サンゴールは「ブラックアフリカの美学」の中で、『「芸術は機能的」であり「ブラックアフリカには『芸術のための芸術』は存在しない」と論じ』、『アチェベはさらに辛辣で、評論集』「Morning Yet on Creation Day」(「創造の日の朝まだき」の意か?)の中で『「芸術のための芸術は脱臭された犬の糞のさらなる』一欠片に『過ぎない」としている』。『ドイツのマルクス主義の評論家・批評家であるヴァルター・ベンヤミン』(Walter Bendix Schönflies Benjamin 一八九二年~一九四〇年)は『さらに進んで、この標語はファシズムにおいて「完遂された」と、後世に大きな影響を与えた評論』「複製技術時代の芸術」(Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit 一九三六年から一九三九年頃にかけて執筆され、初版は一九三六年に発表された)の結びで明言している、とある。

 なお、何度も述べているが、近年、私は芥川龍之介の芸術至上主義自認に懐疑的である。「地獄變」で良秀を自裁させることに、私は龍之介の中の異様なほどに強い倫理意識を感じとるからであり、彼の自死の子どもらへの遺書を読んでも、それをことさらに激しく感じざるを得ないからである(リンク先は私のもの)。このアフォリズムはまさにそれを裏づけるものであると言える。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 方便

 

       方便

 

 一人を欺かぬ聖賢はあつても、天下を欺かぬ聖賢はない。佛家の所謂善巧方便とは畢竟精神上のマキアヴエリズムである。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年七月号『文藝春秋』巻頭に、前の「自由」(四章)「言行一致」と、後の「藝術至上主義者」「唯物史觀」「支那」(二章)と合わせて全十章で初出する。

 

・「佛家」「ぶつか(ぶっか)」「ぶつけ(ぶっけ)」二様に読める。筑摩全集類聚版では前者でルビされている。私も生理的にはその方を好む。

・「善巧方便」「ぜんげうはうべん(ぜんぎょうほうべん)」と読む。仏菩薩が衆生を導き救うに当たって、各人の資質や個性に応じた、臨機応変な種々多様な方法を用いて、巧みに教化することを意味する仏教用語。

・「マキアヴエリズム」この場合の「Machiavellism」は、「君主論」(Il Principe 一五三二年刊)を著わし、そこであるべき君主像を語ったイタリアの政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリ(Niccolò Machiavelli 一四六九年~一五二七年)の思想そのものを指すものではなく、目的のためには手段を選ばず、また、反道徳的な行為であっても結果オーライで正当化してしまうような、権謀術数を敢えてして恥じない考え方の謂い、と私は採る。マキャヴェッリの「君主論」の内容はウィキの「君主論」が分かり易いが、それによれば、君主が『理想国家における倫理的な生活態度にこだわり、現実政治の実態を見落とすことは破滅をもたらすことを強く批判しており、万事にわたって善行を行いたがることの不利益を指摘する。君主は自身を守るために善行ではない態度をもとる必要がある。あらゆる君主はその気質が評価されるが、一人の君主があらゆる道徳的な評判を勝ち得ることは原理的に不可能であり、自分の国家が略奪されるような重大な悪評のみを退けることになる。しかしながら自国の存続のために悪評が立つならばそのことにこだわらなくてもよい。なぜならば、全般的に考察すると、美徳であっても破滅に通じることがあり、逆に悪徳であっても安全と繁栄がもたらされることが、しばしばあるからである』。『このような気質の中で気前が良いこととけちに思われることについて考察する。一般的に気前の良さを発揮するとは害悪である。一部の人々のために大きな出費がかさむ事で重税を課さざるを得なくなり、その他の大勢の領民に憎まれるだけでなく、そのような出費を止めようとすると逆にけちだという悪評が立つことになる。それよりも多くの人々の財産を取り上げないことが重要である。つまりけちという評判について君主は全く問題視すべきではなく、支配者にとって許容されるべき悪徳の一つである』。『また君主の気質として残酷さと憐れみ深さについて考慮すると、憐れみ深い評判が好ましいことは自明である。しかしマキャヴェッリは注意を促しており、君主は臣民に忠誠を守らせるためには残酷であると評価されることを気にしてはならないと論じている。憐れみ深い政策によって結果的に無政府状態を許す君主よりも、残酷な手段によってでも安定的な統治を成功させることが重視されるべきである。原則的には君主は信じすぎず、疑いすぎず、均衡した思慮と人間性を以って統治を行わなければならない。しかし愛される君主と恐れられる君主を比較するならば、「愛されるより恐れられるほうがはるかに安全である」と考えられる』。『なぜなら人間は利己的で偽善的なものであり、従順であっても利益がなくなれば反逆する。一方で君主を恐れている人々はそのようなことはない』。『さらに君主にとって信義も間違いなく重大であるが、実際には信義を意に介せず、謀略によって大事業をなしとげた君主が信義ある君主よりも優勢である場合が見受けられる。戦いは法によるものと武力によるものがあるが、これら謀略と武力を君主は使い分けなければならない。もしも信義を守ることで損害が出るならば、信義は一切守る必要はない。重要なことは立派な気質を君主が備えている事実ではなく、立派な気質を備えているという評価をもたせることである』とあり、マキャヴェッリは『強力な君主によるイタリア統一が肝要と考え』、「君主論」に於いては『政治を宗教や道徳から分離して政治力学を分析している』とある。新潮文庫の神田由美子氏の「マキアヴエリズム」の注には(但し、神田氏は私と異なり、これをマキャヴェッリの思想と規定しておられる)、『国家目的のために政治をキリスト教的モラルから解放し』たとも記す。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  言行一致

 

       言行一致

 

 言行一致の美名を得る爲にはまづ自己辯護に長じなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年七月号『文藝春秋』巻頭に、前の「自由」(四章)と、後の「方便」「藝術至上主義者」「唯物史觀」「支那」(二章)と合わせて全十章で初出する。……ここのところ、見たくないいまわしい男のツラを毎度、ニュースで見せられるのに生理的嫌悪感を感じている。……そいつは数年前にこんなことを言っている。――『そんなに公費で海外に行くのがうれしいのか。そもそも「せっかく大臣になったんだからファーストクラスで海外」というさもしい根性が気に食わない』……『ひとつひとつは小さな失敗でも、繰り返されることで国民から少しずつ』信頼を『失っていった』。『そうした小さなほころびからでも、繰り返されればリーダーとしての信頼を失ってしまう』(舛添要一「39の毒舌」(二〇一〇年扶桑社刊)より。但し、ネット上記載から採録した)……こういうのが、典型的な誰にでも分かる――言行不一致――である。しかも哀しいかな、舛添要一なるこの大盗人(おおぬすっと)は致命的なことに「自己辯護に長じ」ていないのである。合掌。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自由(四章)

 

       自由

 

 誰も自由を求めぬものはない。が、それは外見だけである。實は誰も肚の底では少しも自由を求めてゐない。その證據には人命を奪ふことに少しも躊躇しない無賴漢さへ、金甌無缺の國家の爲に某某を殺したと言つてゐるではないか? しかし自由とは我我の行爲に何の拘束もないことであり、即ち神だの道德だの或は又社會的習慣だのと連帶責任を負ふことを潔しとしないものである。

 

       又

 

 自由は山巓の空氣に似てゐる。どちらも弱い者には堪へることは出來ない。

 

       又

 

 まことに自由を眺めることは直ちに神々の顏を見ることである。

 

       又

 

 自由主義、自由戀愛、自由貿易、――どの「自由」も生憎杯の中に多量の水を混じてゐる。しかも大抵はたまり水を。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年七月号『文藝春秋』巻頭に、後の「言行一致」「方便」「藝術至上主義者」「唯物史觀」「支那」(二章)と合わせて全十章で初出する。

 

・「肚」「はら」と訓ずる。

・「無賴漢」この「金甌無缺」(次注参照)「の國家の爲に某某を殺したと言つてゐる」殺人者というのは、龍之介には具体にイメージされており、そうして読者も一読、「ああ、あいつのことを言ってるな。」と合点出来るところの、殺人事件或いは謀殺事件であるように思われる。しかし、私は近現代史に疎く、また諸本も一切注されていないので、全く分からない。何方かお教え願えまいか?

・「金甌無缺」「きんおうむけつ」と読む(後半を訓じて「金甌欠くる無し」と読む場合もある)。傷のない黄金の甕(かめ)のように、完全で欠点のないこと。完全無欠。もともとは国家が強固で、外国の侵略を受けたことがないことを指す比喩である。「南史」の「朱异(しゅい)伝」の「我國家猶若金甌、無一傷缺」から出た故事成句。戦前の日本ではしばしば用いられた。後の昭和一二(一九三七)年に閣議決定された「國民精神総動員」の方針の下に「國民が永遠に愛唱すべき國民歌」として同年に組織された内閣情報部(後の情報局)によって歌詞公募されて作られ、盛んに歌われた「愛国行進曲」(原作詞・森川幸雄/作曲・瀬戸口藤吉)の一番の歌詞にもある。参照したウィキの「」から一番のみを正字化して引く。

   *

見よ 東海の空明けて

旭日高く輝けば

天地の正氣 潑溂と

希望は踊る大八洲(おおやしま)

おお晴朗(せいろう)の朝雲(あさぐも)に

聳ゆる富士の姿こそ

金甌無缺搖るぎなき

わが日本(にっぽん)の誇りなれ

   *

・「某某」「ぼうぼう」。誰それ。

・「山巓」「さんてん」と読む。「山顚」とも書く。山の頂(いただ)き。山頂。

・「まことに自由を眺めることは直ちに神々の顏を見ることである。」この一章だけは一見、難解に見える。いや、そう思われず、容易に私の【解1】に辿り着く人も多かろうとは思う。しかし、私の迂遠な考察につき合って戴こう。それはまた、この「自由」全体に対する私の全解釈へと繋がるからである。

 まず、本章を解く一つの鍵は、これ以外の章が孰れも、顕在的に「自由」の存在に対して批判的否定的である点にある。第一章は、

 

――「誰も」が『「自由を求め」ている』と公言する。が、「それは外見だけであ」って、「實は誰も」腹「の底では少しも」真の「自由を求めて」などいない。「その證據に」、「人命を奪」う「ことに少しも躊躇しない」、即ち、〈殺したいから殺すのであって、殺しに建前や大義名分など要らぬ〉という、謂わば、何ものからも教唆指示を受けず、自身の「自由」意志による、如何なる外的権力からも束縛されない「自由」な〈殺しの美学〉に生きているはずの「無賴漢さ」え、「金甌無缺の國家の爲に」こそ誰それを俺は「殺したと」、お為ごかしの義憤などほざいては、殺人を天下「國家」と御「爲」であったなどと、さも、神の、天子さまの御寛恕でも得たいかの如く、さもしくも、社会的に正当化しようとしているではないか? 「しかし」、真の「自由とは」、「我我の行爲に何の拘束もないこと」なのであって、「即ち」、「だの道德だの或」い「は」また、「社會的習慣だのと」いったような有象無象の五月蠅く下らないものと「連帶責任を負」うことなど、これ、決して許さぬ、極めて厳粛な絶対の存在なのである。

 

〈具体的例示〉を挙げて「自由」を定義 している。それを受ける続く第二章では、

 

――以上のように、真の「自由」というものは、極めて人間の個体の生身にとっては厳しい世界なのである。喩えるなら、高い「山」の頂上「の空氣に似」たようなものと言える。高い山の上というものは酸素が有意に少ないため、ちょっと小走りしただけでも息が切れ、拍動が増し、場合によっては高山病(高度障害)となって、身動き出来ずなって疲労凍死したり或いは餓死したり、脳浮腫や肺水腫を起こして遂には命を落とすことさえもある。即ち、「自由」も、高い「山」の頂上の酸素の薄い「空氣」も、「どちらも弱い」人間「には堪へることは出來ない」、すこぶる苛酷な環境なのである。

 

〈比喩〉する。そしてこの一章を挟んだ上で、最後の章では、

 

――確かに、我々の周囲の世界には「自由」の文字がゴロゴロしている。『「自由」主義』・『「自由」恋愛』・『「自由」貿易』……美事にはなばなしき「自由」を大安売りするキャッチ・コピーが蔓延・氾濫している。だがしかし、その『どの「自由」も』、これ、生憎(あいにく)、本来のネクターたる銘醸酒のはずの「自由」が注がれてあるはずの、その「杯(さかずき:歴史的仮名遣:さかづき)」の中には「多量の水」がたっぷりと「混じて」(「こんじて」:混入して)いて、本当の「自由」という美酒は数万倍にまで希釈されてしまっており、味も香りも分からずなってしまっているのである。しかも、それのみに止まらず、「大抵は」その水増しに用いられた水は「たまり水」、滞留して流れない腐ったそれ、飲用出来ないばかりでなく、飲めば誰もが腹を下し或いは恐ろしい感染症に罹って命を落とすこと請け合いの毒「水」なのである

 

と〆てあって、結果して龍之介は、〈換喩〉によって、危険な病いの感染源に対して注意を促していると言える。即ち、この第三章の前後は

 

社会に蔓延している似非「自由」病の強毒性・致死性をガッシと固めている

 

のである。

 さすれば、この、「まことに自由を眺めることは直ちに神々の顏を見ることである。」という第三章も、到底、「自由」の真実の姿や肯定的なアフォリズムであろうはずは毛頭なく、やはり前後と同様に、真の「自由」というものの実体を人間が捉えることは至難の技であること、即ち、現実世界に於ける「自由」というものが、一見、強い幻想性を帯びているように見えることを述べているに違いないことは明白である。

 ここまでは異論のある方は、あるまい。そうして今一度、虚心にこの三章を見てみる。

 

――まことに自由を眺めることは直ちに神々の顏を見ることである。

 

すると、何のことはない、

「まことに」~するという「ことは」~するという「ことである」

という構文は、

実に~するという動態は~するという動態と同じ「ことである」

というメタファー、〈隠喩〉であることに気づく(既に多くの方は「そんなことはいまさら言われずとも、最初から気づいていた」と言われるであろう。しかしここまで読まれたなら、さても最後までおつき合い戴こう。多分、私が考えている〈その先と同じ地平〉まで考えておられる方は、必ずしも多いとは、思われぬから)。

 ともかくも言い換えてみよう。

 

――実に、そうした――真の「自由」の様態を「眺めること」(対象として視認し、その全体像を把握すること)――が出来ることがあるとするならば、それは丁度――「直ちに」、今日只今はっきりやすやすと、眼前に実際の「神々」と対峙し、その「顏を見ること」(神々の垂迹した仮の姿や偶像や絵画や彫刻の写像なんぞではない、本物実物の神々の実相としての御尊顏に対面して有り難くも拝顔し申し上げること)――と同じく、極めてあり得ぬことなの「である」。

 

であろう。要するにこれは、このわざわざ一章立てとしたそれも結局、

 

――第一章の「無賴漢」の〈例示〉(これも個別例を提示する〈比喩〉の一種である)やら、第二章の「山巓の空氣」の〈直喩〉やら、第四章の水増し合成酒「銘醸 自由」の〈換喩〉やらと並列の、〈隠喩〉に過ぎない――

 

ということになる――なる? 「本当にそうだろうか? レトリックの天才である以前に、読者を飽きさせないストリー・テラーたるはず芥川龍之介が、そんな退屈の連射をするだろうか?」

 

私の最初の素朴な佇立、立ちどまりは「そこ」にあったのである。

 

――そんな屋上屋の、分かり切った、ゴテゴテの比喩の蔵(くら)を芥川龍之介は決して建てぬ

 

というのが、私の龍之介に対する絶対の信頼感から引き出される結論だったからである。

 そこから私の神経症的なグルグルが始まる。……

 

……この「眺める」というところが、このアフォリズムのミソではないか?……真の「自由」を己(おの)が手に摑むのではなくて「眺める」……というのはこれ……実際にそれが「在る」ということを意味していない……「在るかのように」「眺める」ことが出来る、という意味にも採れるのえはないか?……というか、そういう意味を含意すると言えはしまいか?……

 

 また、翻って、この謂いを逆に辿って考えてもみる。……

 

……「神々の顏を見」たことがある人間はいるだろうか?……私は見たことがない。当たり前だ、神(も仏も)を信じていないから。……しかし、日本には八百万神(やおよろずのかみ)がいて、祖霊の皆、神になるはずなのだかから、その神となった者の顔を日常的に見ているはずなのに、その神となった御尊顔について私は聴いたことがない。現人神(あらひとがみ)は昭和天皇自身が否定したし、心(神)霊写真もアイコラ時代になって急速に人気を失ったから信ずるに及ばず、無数に神がいるはずの現在の本邦でさえ、圧倒的多数の人は「神々の顏」を見たことがないのではあるまいか?……三位一体説でキリストがヤハウェと同じ顔だなどと言うに至っては、理屈としても阿呆臭くて議論の俎上に持ち出す気にもならない……そもそもが原始キリスト教と濫觴を同じくするイスラム教では偶像を排斥するのは正しいとさえ私は思う……ウィトゲンシュタイン流に言うなら、神は「名指す」ことは出来ても、「示す」ことは出来ないのであり、だからこそ「神」なのである、と神を信じぬ、人でなしの私でさえ、思うからである……そもそもが「ヤハウェ」という尊名自体、キリスト者は神聖にして冒すべからざるものとして口にしてはいけないのだ……神は実は「名指す」ことさえも禁忌なのだ……

……しかしだ、有史以来、ごく少数の者は「神々の顏」(或いは一神教ならば「神」「の顏」)を見ているはずである……例えば、イエス・キリストは「神」の「顏」を見ているはずである……見ていなくてはおかしい……見ているとしなければキリスト教は成り立たぬ……と私は思う……

……そこで私は読みかえす……芥川龍之介「西方の人」を……

※[やぶちゃん補注:「西方の人」は彼の自裁の翌月、昭和二(一九二七)年八月発行の『改造』に載った。しかしこれは彼の遺稿ではない。自死するまさに直前(前日二十三日の深夜。薬物の服用は翌日になった二十四日午前二時前後と推定され、芥川龍之介は寝床で聖書を読みながら最後の眠りに就いた。かかりつけ医で友人の下島勲による死亡確認は同日朝七時過ぎであった)に続編まで含めて脱稿した最後の作品である。実は彼は、これが書き上がらなかったために、自死を遅らせていたのである(甥の葛巻義敏には、二十二日に死ぬと告げていたが、「續 西方の人」が完成していなかったためにその日の決行は中止したという(葛巻談。昭和二九(一九五四)年『明治大正文学研究』所収の葛巻義敏と吉田精一の対談「芥川龍之介を語る」より。但し、以上は新全集の宮坂覺氏の年譜記載とデータに拠った)。以下、私の電子テクスト「西方の人(正續完全版)」から引く。下線は私が引いた。]

……すると……第二十章の「エホバ」が眼にとまる……

   *

 

       20 エホバ

 

 クリストの度たび説いたのは勿論天上の神である。「我々を造つたものは神ではない、神こそ我々の造つたものである。」――かう云ふ唯物主義者グウルモンの言葉は我々の心を喜ばせるであらう。それは我々の腰に垂れた鎖を截りはなす言葉である。が、同時に又我々の腰に新らしい鎖を加へる言葉である。のみならずこの新らしい鎖も古い鎖よりも強いかも知れない。神は大きい雲の中から細かい神經系統の中に下り出した。しかもあらゆる名のもとにやはりそこに位(くらゐ)してゐる。クリストは勿論目のあたりに度たびこの神を見たであらう。(神に會はなかつたクリストの惡魔に會つたことは考へられない。)彼の神も亦あらゆる神のやうに社會的色彩の強いものである。しかし兎に角我我と共に生まれた「主(しゆ)なる神」だつたのに違ひない。クリストはこの神の爲に――詩的正義の爲に戰ひつづけた。あらゆる彼の逆説はそこに源を發してゐる。後代の神學はそれ等の逆説を最も詩の外に解釋しようとした。それから、――誰(たれ)も讀んだことのない、退屈な無數の本を殘した。ヴオルテエルは今日では滑稽なほど「神學」の神を殺す爲に彼の劍(つるぎ)を揮つてゐる。しかし「主なる神」は死ななかつた。同時に又クリストも死ななかつた。神はコンクリイトの壁に苔の生える限り、いつも我々の上に臨んでゐるであらう。ダンテはフランチエスカを地獄に墮した。が、いつかこの女人を炎の中から救つてゐた。一度でも悔い改めたものは――美しい一瞬間を持つたものはいつも「限りなき命」に入つてゐる。感傷主義の神と呼ばれ易いのも恐らくはかう云ふ事實の爲であらう。

 

    *

……これで、龍之介もイエスは神の顔を見ていたと考えていることが分かる……彼は直に悪魔と遇っている、悪魔に遇っている者が直に神に逢っていなかったなどということは、凡そ考えられないことだ、と龍之介は言っているのである……

※[やぶちゃん補注:この「西方の人」の強烈な逆説を含んだ一章は非常に興味深いものである。そこで彼は――「神は人間が造った」という命題を論理的に認めながら、その神が今も死なずに絶対化され、現在に至るまで人間を現に支配している――と語っているからである。ただ、この一章を解析するだけでも膨大な時間を必要とするので、ここではその内容について語るのはやめておく。しかし敢えて言えば、下線部の後の「彼の神も亦あらゆる神のやうに社會的色彩の強いものである」という謂いは、このアフォリズム「自由」に直に通底すると私は考えている。]

……こんなことを考える……

……神の顔に過(よ)ぎってまことに存在するかの如く見える真の「自由」とは絶対の「自由」である……

……神の顔は凡愚には見られぬものである……

……絶対大多数の凡愚の大衆に見えもせず、認識も享受も出来ない真の「自由」など、存在しないも同じである……

……そもそもが、社会的多数集団の中にあってのみ、「自由」は問題にされるものである……

……たった一人の人類になった人間には最早、「孤独」は……ない……

……と同時に、「自由」も……ない…………

 

(最後までお読み戴いた奇特な読者に対し、ここで私から謝意を表して、この迂遠な実際家である私の、牛の涎れのような注を終りと致す)]

2016/06/06

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 行儀

 

       行儀

 

 昔わたしの家に出入りした男まさりの女髮結は娘を一人持つてゐた。わたしは未だに蒼白い顏をした十二三の娘を覺えてゐる。女髮結はこの娘に行儀を教へるのにやかましかつた。殊に枕をはづすことにはその都度折檻を加へてゐたらしい。が、近頃ふと聞いた話によれば、娘はもう震災前に藝者になつたとか言ふことである。わたしはこの話を聞いた時、ちよつともの哀れに感じたものの、微笑しない訣には行かなかつた。彼女は定めし藝者になつても、嚴格な母親の躾け通り、枕だけははづすまいと思つてゐるであらう。……

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年六月号『文藝春秋』巻頭に、前の「徴候」(二章)「戀愛と死と」「身代り」「結婚」(二章)「多忙」「男子」と合わせて全九章で初出する。

 

・「十二三の娘」満では十から十二歳の間。まんず、昨今の人々には数えの感覚はますます失われているわけだから(私自身がそうである)、今後は戦前の作品には総てこうした注が不可欠となるのではなかろうか? 少なくとも、教科書に出るものは皆、これを頭で換算させることは必須である。私は実に大真面目に注意喚起しているのである。二十代後半から壮年期、またはそれ以上、棺桶に片足突っ込んだような登場人物の輩などは全く以って問題外である。しかし、二十代前半より前となると、実体認識の一、二歳の違いというのは、これ、相当にイメージが異なり、極めて重大である。

・「躾け」「しつけ」。「躾」と書けないどころか、「躾」も読めないような現代の日本人に、「行儀」を語っても芥川先生、無駄でござんすよ。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 行儀

 

       行儀

 

 昔わたしの家に出入りした男まさりの女髮結は娘を一人持つてゐた。わたしは未だに蒼白い顏をした十二三の娘を覺えてゐる。女髮結はこの娘に行儀を教へるのにやかましかつた。殊に枕をはづすことにはその都度折檻を加へてゐたらしい。が、近頃ふと聞いた話によれば、娘はもう震災前に藝者になつたとか言ふことである。わたしはこの話を聞いた時、ちよつともの哀れに感じたものの、微笑しない訣には行かなかつた。彼女は定めし藝者になつても、嚴格な母親の躾け通り、枕だけははづすまいと思つてゐるであらう。……

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年六月号『文藝春秋』巻頭に、前の「徴候」(二章)「戀愛と死と」「身代り」「結婚」(二章)「多忙」「男子」と合わせて全九章で初出する。

 

・「十二三の娘」満では十から十二歳の間。まんず、昨今の人々には数えの感覚はますます失われているわけだから(私自身がそうである)、今後は戦前の作品には総てこうした注が不可欠となるのではなかろうか? 少なくとも、教科書に出るものは皆、これを頭で換算させることは必須である。私は実に大真面目に注意喚起しているのである。二十代後半から壮年期、またはそれ以上、棺桶に片足突っ込んだような登場人物の輩などは全く以って問題外である。しかし、二十代前半より前となると、実体認識の一、二歳の違いというのは、こえr、相当にイメージが異なり、極めて重大である。

・「躾け」「しつけ」。「躾」と書けないどころか、「躾」も読めないような現代の日本人に、「躾」を語っても芥川先生、無駄でござんすよ。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  男子

 

       男子

 

 男子は由來戀愛よりも仕事を尊重するものである。若しこの事實を疑ふならば、バルザツクの手紙を讀んで見るが好い。バルザツクはハンスカ伯爵夫人に「この手紙も原稿料に換算すれば、何フランを越えてゐる」と書いてゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年六月号『文藝春秋』巻頭に、前の「徴候」(二章)「戀愛と死と」「身代り」「結婚」(二章)「多忙」「男子」と、後の「行儀」と合わせて全九章で初出する。

 

・「バルザツク」フランス写実主義文学の始祖とされる文豪オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 一七九九年~一八五〇年)。平凡社「世界大百科事典」の高山鉄男氏の解説から引く(コンマを読点に、アラビア数字を漢数字に代えた)。フランス中部の都市トゥール(Tours)に生まれた。『父親は当時、陸軍トゥール師団糧秣部長。一八〇七年より一三年まで、バンドーム中学に学ぶ。一六年パリ大学法学部に入学、同時に見習書記として法律事務所に勤務。一九年文学志望を表明、職業の選択をめぐって両親と対立したが、結局、二年の猶予期間を得、パリのレスディギエール街の屋根裏部屋にこもって文学修業に専念した。二〇年』に韻文悲劇「クロムウェル」(Cromwell)を『完成、さらに二二年より二七年にかけて』、「ビラーグの女相続人」(L'Héritière de Birague)や、『その他多数の通俗小説を偽名で発表した。一八二五年、出版業、印刷業、活字鋳造業などの実業に乗り出すが、いずれも失敗に終わり、二八年に業務の清算が行われ、約六万フランの借金を背負った。二九年』、「ふくろう党」(Chouans:シュアン。以下にも説明されるが、フランス革命期にカトリック王党派が起こしたヴァンデの反乱(Rébellion Vendéenne)の後、その残党らによって作られた反政府ゲリラ集団の名。これは農村地域に出没した彼らがフクロウ(chouan)の鳴声を真似て合図したからとも、反徒の指導者の一人ジャン・コトロー(Jean Cottereau)の偽名ジャン・シュアン(Jean Chouan)によるとも言われる)及び「結婚の生理学」(Physiologie du mariage)を『発表して文壇に登場。社交界に出入りするとともに、多数の雑誌に短編小説や雑文を寄稿するようになった』。「ふくろう党」は『ブルターニュ地方の反革命的反乱を扱っており、歴史小説の手法を近い過去に適用したものといえる。次いで』、「ウージェニー・グランデ」(Eugénie Grandet 一八三三)、「ゴリオ爺さん」(Le Père Goriot 一八三五年)、「谷間の百合」(Le Lys dans la vallée 一八三六年)、「幻滅」(Illusions perdues 一八四三年)、「従妹ベット」(La cousine Bette 一八四六年)、「従兄ポンス」(Le cousin Pons ou les deux musiciens 一八四七年)などの『作品を次々に発表し、四二年から四八年にかけて』はフランス社会史を再現するという壮大なプロジェクトとして『人間喜劇』(La Comédie humaine)十六巻・補巻一を刊行した。『これは、初期習作、劇作、雑文』などを除いた、「ふくろう党」『以後のすべての小説を、一種の全集としてまとめたものである』(但し、試み自体は作者の死によって途絶)。他方、『バルザックとポーランドの貴族ハンスカ夫人』(後注参照)『との交際は一八三二年に始まっているが、四一年』に『同夫人が寡婦となったので、夫人との結婚が彼の人生の最大の関心事となった。四九年はもっぱらハンスカ夫人の領地、ウクライナのベルディチェフで過ごし、五〇年三月』、晴れて『同夫人と結婚、五月パリに帰着』したが、その三ヶ月後の八月に満五十一で世を去った。『バルザックの生きた時代は、フランス市民社会の成立期に当たり、身分的秩序の崩壊と競争原理の出現、生活水準の向上、現世的・個人中心的な思想の一般化など、ひとことで〈近代化〉とよばれる現象が生じたが、このような社会変動こそバルザックの小説の背景にあったものである。彼は興隆する市民階級のエネルギーと欲望を描き、フランス市民社会の最初の描き手となった。同時にまた市民的〈近代化〉の最初の批判者ともなった。なぜならば』、「ゴリオ爺さん」を『はじめとして、バルザックの作品には、個人の心情を容赦なく押し潰す近代社会の過酷な原理が描かれているからである。彼は政治的には君主制主義者、宗教的には正統的カトリシズムの支援者だったが、そのような思想は、フランス革命以後に成立した社会的・思想的原理への批判を含むものと解すべきである。バルザックの作風は、ひとことでいえば写実主義であるが』、「あら皮」(Peau de chagrin 一八三一年)「セラフィータ」(Séraphîta 一八三五年)などの『哲学小説をはじめとして、幻想的な傾向がうかがわれる作品もある』。

 芥川龍之介はかなり多くの著作の中で彼の名を挙げている。例えば「賣文問答」(大正一〇(一九二一)年)のエンディングでは、龍之介と思しい作家と編集者の談話の最後に、突如、二人の間に黒子らしき覆面の人物を登場させ(底本は岩波旧全集の拠る)、

   *

 覆面の人 (作家に)貴樣は情(なさけ)ない奴やつだな。偉らさうな事を云つてゐるかと思ふと、もう一時の責塞(せめふさ)ぎに、出たらめでも何なんでも書かうとしやがる。おれは昔バルザツクが、一晩に素破らしい短篇を一つ、書き上げる所を見た事がある。あいつは頭(あたま)に血が上ると、脚湯(きやくたう)をしては又書くのだ。あの凄まじい精力を思へば、貴樣なぞは死人も同樣だぞ。たとひ一時の責塞ぎにもしろ、なぜあいつを學ばないのだ? (編輯者に)貴樣も心がけはよろしくないぞ。見かけ倒しの原稿を載せるのは、亜米利加でも法律問題になりかかつてゐる。ちつとは目前(もくぜん)の利害の外にも、高等な物のある事を考へろ。

  編輯者も作家も聲を出す事能はず、茫然と覆面の人を見守るのみ。

   *

と語らせる。また、心」(大正一〇(一九二一)年)の「印税」の項では、

   *

 

       印税

 

 Jules Sandeau のいとこが Palais Royal のカツフエへ行つてゐると、出版書肆のシヤルパンテイエが、バルザツクと印税の相談をしてゐた。その後彼等が忘れて行つた紙を見たら、無暗に澤山の數字が書いてあつた。サンドオがバルザツクに會つた時、この數字の意味を問ひ訊すと、それは著者が十萬部賣切れた場合、著者の手に渡るべき印税の額だつたと云ふ。當時バルザツクが定めた印税は、オクタヴオ版三フラン半の本一册につき、定價の一割を支拂ふのだつた。して見ればまづ日本の作家が、現在取つてゐる印税と大差がなかつた譯である。が、これがバルザツクがユウジエニエ・グランデエを書いた時分だから、千八百三十二年か三年頃の話である。まあ印税も日本では、西洋よりざつと百年ばかり遲れてゐると思へば好い。原稿成金なぞと云つても、日本では當分小説家は、貧乏に堪へねばならぬやうである。(一月三十日)

    *

と記している(リンク先の私の電子テクストには私が附した語注があるので参照されたい)。この印税への龍之介の不満を読むと、この後のアフォリズムで超然として見せる彼は、ちょっとおかしい。

 二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の大場恒明氏の「バルザック」の項によると、最も古い言及は、大正四年五月二十三日附の井川(後の恒藤)恭宛書簡(岩波旧全集書簡番号一六〇)で、『ねてゐるまもあれでバルザツクをよんで大へん感心した』(引用は独自に岩波旧全集に拠った)とあるものとされておられる。大場氏は以下、『この書簡の中では作品名を挙げていないが、他の所で言及しているバルザックの作品は、「ウジェニイ・グランデ」、「あら皮」、「幻減」である。芥川の関心は作品にだけでなく、伝記的な人間像にもむけられ、豊富な読書体験から得たバルザックに関するさまぎまなエピソードを随所で紹介している』と述べた後、『バルザックの渾成』(こんせい:一つに纏め上げること、一つに纏まること。「渾」は 総て・全部の、の意の他、「混」と通用して一つに混じり合うの意もある)『された長篇の力強さに芥川は創作欲を大いに刺激されたが、ときにはその冗漫さに辟易することもあったようだ。殊に「あら皮」などはそれが「甚だしい」と言っている』(大正八(一九一九)年十月十日附佐佐木茂索宛書簡とあるが、旧全集にはないので新規発見分らしい)とある。しかし、『冷徹な現実観察眼と神秘的幻視者としてのロマンティシズムとの融合にバルザックの本質を発見したのは、特に「あら皮」の読書を通じてであろう。作家的資質の隔たりは大きいが、芥川はバルザックを「近代文芸の将帥」と呼び、「リアリズムなるものは、ロマンティシズムたると、ナテユラリズムたるを間はず、唯「現実に味到した」表現の中にのみ存する」のであって、「既に過去のロマンティシストたるバルザックは、このリアリズムを持ってゐた」』と「或悪傾向を排す」(大正七(一九一八)年十一月)で論じ、『高く評価している』とまとめておられる。なお、この「手紙」については新全集で山田俊治氏は、『一八四四年一一月八日付書簡に、「私は、貴女のために私の夜の三時間を捧げました。貴女は、お読みになる手紙がどのような価値を持つものか決して御存じないでしょう」(私市保彦訳)とある』と注しておられる(「私市」は「きさいち」と読む)。

・「ハンスカ伯爵夫人」ポーランドの貴族女性で晩年のバルザックの妻(正式な婚姻期間は僅か)となったヴェリーナ・ハンスカ(ポーランド語:Ewelina Hańska  一八〇一年~一八八二年)。ウィキの「エヴェリーナ・ハンスカによれば、『ポーランドの名門貴族ジェヴスキ家の出身で、曾祖父はヘトマンのヴァツワフ・ピョトル・ジェヴスキである。またエヴェリーナの兄ヘンリク・ジェヴスキ』『伯爵は著名なジャーナリスト、小説家であった。エヴェリーナは』二十歳以上も『年上のヴァツワフ・ハンスキ伯爵と結婚し、夫とのあいだに一人娘アンナをもうけ、田舎の地主貴族の妻としての生活を送っていた』。『バルザックとエヴェリーナは』一八三三年に『出会って以来、定期的に文通を交わしていた』。一八四一年に『ハンスキ伯爵が死んだ後』、一八四三年、『バルザックは伯爵夫人エヴェリーナに逢うためサンクトペテルブルクに赴いた』。二人は『ドイツ、ベルギー、イタリアなどへ何度か旅行をしている』。一八四六年、エヴェリーナはバルザックの子供を死産している』。一八四七年に二人は『ウクライナへ旅行し、バルザックは』一八四八年に『パリへ戻った。翌年にバルザックは再びエヴェリーナの待つウクライナを訪れ』、一八五〇年三月十四日に二人はやっと結婚したが、バルザックはその五ヶ月後の八月十八日にパリで亡くなっている。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 多忙

 

       多忙

 

 我我を戀愛から救ふものは理性よりも寧ろ多忙である。戀愛も亦完全に行はれる爲には何よりも時間を持たなければならぬ。ウエルテル、ロミオ、トリスタン――古來の戀人を考へて見ても、彼等は皆閑人ばかりである。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年六月号『文藝春秋』巻頭に、前の「徴候」(二章)「戀愛と死と」「身代り」「結婚」(二章)と、後の「男子」「行儀」と合わせて全九章で初出する。これも世のあらゆるアフォリズム中、三本指に入る名言と存ずる! 暗唱の苦手な私でもこれだけはソラで言える。

 

・「ウエルテル」(Werther)はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の一七七四年に刊行された書簡体の恋愛悲劇小説「若きウェルテルの悩み」(Die Leiden des jungen Werthers:一七八七年改訂版:Die Leiden des jungen Werther)の、相応に高貴な出の孤高の青年詩人(たらんとする)主人公で、三角関係の煩悶の果てに自裁する。未読の方はウィキの「若きウェルテルの悩みをどうぞ。

・「ロミオ」(Romeo)はウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare 一五六四年~一六一六年)の恋愛悲劇「ロミオとジュリエット」(Romeo and Juliet:初演は一五九五年前後と推定されている)の皇帝派の貴族モンタギュー家(Montague)の一人息子(ジュリエット(Juliet)の方は皇帝派と対立する教皇派のキャピュレット家(Capulet)の一人娘。両家は血で血を洗う如き熾烈な抗争関係にある)で、最後に二人はやや数奇な形で心中して果てる。未読の方はウィキの「ロミオとジュリエットをどうぞ。

・「トリスタン」(Tristan)は中世に宮廷詩人たちが広く語り伝えた恋愛悲譚の騎士道物語である「トリスタンとイゾルデ」(Tristan and Iseult)の主人公の騎士の名。作品としてはヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner  一八一三年~一八八三年)の楽劇(Tristan und Isolde:一八五七年から一八五九年にかけて作曲)で最も知られる。私はワーグナーのそれはCDで持ってはいるものの、話を十全に理解して聴いたことは実は全く、ない。されば、この物語はよう知らん。されば、平凡社「世界大百科事典」の新倉俊一氏による、伝承の方の「トリスタンとイゾルデ」の解説を引いておく(コンマを読点に代えた)。『フランスを中心に広くヨーロッパに流布した恋愛伝説の主人公。コーンウォール王マルクの甥トリスタン Tristan と、マルクに嫁ぐアイルランド王女イゾルデ Isolde(フランス語でイズー Iseut)は、誤って媚薬入りの酒を飲み、激しい恋に落ちる。モロアの森に追放されたあと、二人は離別を強いられるが』、『愛は変わらず、やがて重傷を負ったトリスタンがイゾルデの到着を待ちきれず死ぬと、イゾルデもあとを追うようにして死ぬ』。『制度の弾圧によっても抑止できぬ性愛、それも死によって完結する運命的情熱の物語は』、『ケルト人の伝承に起源を』持つ(ストーリーの流れの異なる発展過程がここに書かれてあるが、割愛する)。『この衝撃的な情熱の物語は、円卓騎士物語とからみ合ったり、数々の模倣あるいは批判の作品を生み、後世に伝わっていくが、そのなかでも最も大きな影響を及ぼしたのは、昼の常道と夜の情熱の相克を歌い上げ、この題材から象徴主義の神話をつくり出した』『ワーグナーの楽劇であった。これはこれで記念碑的作品ではあるが』、十二世紀の本来の『物語とは非常に異なったものであることに注意しなければならない』とある。英文学専攻の龍之介が言った場合の「トリスタン」は本来の伝承譚の主人公としての彼と考えるべきであろう。

・「閑人」「ひまじん」。実に美事な語を龍之介は選んだ。快哉!]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 結婚(二章)

 

       結婚

 

 結婚は性欲を調節することには有効である。が、戀愛を調節することには有効ではない。

 

       又

 

 彼は二十代に結婚した後、一度も戀愛關係に陷らなかつた。何と言ふ俗惡さ加減!

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年六月号『文藝春秋』巻頭に、前の「徴候」(二章)「戀愛と死と」「身代り」と、後の「多忙」「男子」「行儀」と合わせて全九章で初出する。

 

・「結婚は性欲を調節することには有効である。が、戀愛を調節することには有効ではない。」正論而真理命題也!

・「彼は二十代に結婚した後、一度も戀愛關係に陷らなかつた。何と言ふ俗惡さ加減!」「彼は二十代に結婚した」芥川龍之介が塚本文と結婚したのは大正七(一九一八)年二月二日(田端の自宅にて)、龍之介満二五歳(彼の誕生日は明治二五(一八九二)年三月一日)の時で、文さんは満十七歳(明治三三(一九〇〇)年七月四日生まれ)であった(婚約は前年末十二月中)。

 以下は私のモノローグである――

……芥川センセ! 嘘はいけませんね、嘘は! あなたはこの時点まででも、僕の知ってるだけでも、何人もあったじゃありませんか! それにこの後にだって! もしかして、冥界のあなたは、

……『確かに……しかし……私のそれはただの恋とも呼べぬ愚かな遊びに過ぎなかった……愁人秀しげ子などとのそれは物理的な肉体上の交合に過ぎない忌まわしい関係であって恋愛とは程遠いものだったのだ……その他の女人(にょにん)たちも結局は似たり寄ったりだつた……いや……この後の片山廣子とだけなら……真のそれたり得たかも知れないが……それも私はそうした美しい恋愛関係に陥る前に自ら截ち切ったのだ……』…………

とでもおっしゃるつもりなのですか!?!…………]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  身代り

 

       身代り

 

 我我は彼女を愛する爲に往々彼女の外の女人を彼女の身代りにするものである。かう言ふ羽目に陷るのは必しも彼女の我我を却けた場合に限る訣ではない。我我は時には怯懦の爲に、時には又美的要求の爲にこの殘酷な慰安の相手に一人の女人を使ひ兼ねぬのである。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年六月号『文藝春秋』巻頭に、前の「徴候」(二章)「戀愛と死と」と、後の「結婚」(二章)「多忙」「男子」「行儀」と合わせて全九章で初出する。このアフォリズムには私自身も内心忸怩たるものを感ずる、あなたと同様に。

 

・「却けた」「しりぞけた」。

・「怯懦」「けふだ(きょうだ)」。臆病で気が弱いこと。意気地(いくじ)のないこと。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 戀愛と死と

 

       戀愛と死と

 

 戀愛の死を想はせるのは進化論的根據を持つてゐるのかも知れない。蜘蛛や蜂は交尾を終ると、忽ち雄は雌の爲に刺し殺されてしまふのである。わたしは伊太利の旅役者の歌劇「カルメン」を演ずるのを見た時、どうもカルメンの一擧一動に蜂を感じてならなかつた。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年六月号『文藝春秋』巻頭に、前の「徴候」(二章)と、後の「身代り」「結婚」(二章)「多忙」「男子」「行儀」と合わせて全九章で初出する。

 

・「戀愛の死を想はせるのは進化論的根據を持つてゐるのかも知れない」生物は自己の種を存続・保存(結果として「繁栄」)させるために、生殖を目的として生まれてくる。されば、その目的が達せられれば――用なし――となるので、速やかに死んで、新たな若い個体らのために、生存の場所を空けてやることが自然である。こうした進化論上のセオリーから考えれば――「戀愛」は即、生殖であり、基本的には性行為によって精子が卵子に到達して受精に成功したならば、はその瞬間に――用なし――となって「死」ぬのが自然なのである。この龍之介の謂いは「知れない」ではなく、まさに理屈じゃあない、厳然たる事実なのである。

・「蜘蛛や蜂は交尾を終ると、忽ち雄は雌の爲に刺し殺されてしまふ」この謂いは、精密巧緻な彼にしては珍しく、何重にも致命的な誤りを犯している。芥川龍之介は実は私同様、実は昆虫はあまり好きでなかったのではなかろうか? 考えてみると、かれの著作で生物を美事に活写したものを挙げよと言われると、はたと困る。実は彼は進化学には惹かれても、個々の生物種の生態学的知見などには実はあまり関心がなかったのではあるまいか(そこは私と極端に異なる)?

 順に、分かり易い箇所から示そう。まず判り切ったことであるのだが、表現が荒っぽく、係り受けが決定的におかしい。

――「蜘蛛」の「雄は雌の爲に刺し殺され」たりはしない。交尾後にが死んでに食われたり、食い殺されることはままある。

であり、また、

――「蜂」の方も、「交尾を終ると、忽ち雄は雌の爲に刺し殺され」たりはしない。の生殖器を含む体の下部が千切れてしまって結果、は死に至る(ある種では必ず死ぬ)のであって、に刺し殺されるのではない。

 以下、具体に説明する。

 まずクモであるが、石川誠男氏の随筆集「生き物の謎と神秘」の「哀れで健気な雄たち」の中の「ナガマルコガネグモの場合」に以下のようにある(アラビア数字を漢数字に代え、一部表記を変更させて頂いた。なお、ナガマルコガネグモは鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科コガネグモ科 Argiopinae 亜科コガネグモ属ナガコガネグモ Argiope bruennichi である。下線は私が引かっせて貰った)。

   《引用開始》

 ナガマルコガネグモは奄美半島以南に分布するクモで、雄の体が雌(体長二センチ)に比べ約五分の一と小さく、 雄は網を張らず、雌の網の上で居候生活を送りながら交尾の機会を待つ。クモの頭部にある触肢は歩脚状で、歩脚が全部で十本あるように見えるが、歩脚よりも短く細い。これは機能的には生殖の際の補助器官として重要な役割を演じている。雌が求愛に応じると、雄は二本ある触肢のうち一本を使い、一回目の交尾を行う。

 少し脇道にそれるが、この触肢のおもしろい働きについて紹介しよう。ある雄のクモが雌と交尾すると、他の雄と交尾するのを防ぐため、触肢の先端にある付属物が触肢から外れて雌の生殖孔を物理的にふさいでしまう場合がある。これは「交尾栓」と呼ばれており、いわゆる貞操帯となるという。

 さて、ナガマルコガネグモの場合は交尾による触肢の破損は見られず、交尾栓もされないが、なぜか雄はそれぞれの触肢を一度しか使わない。

 交尾を終えた雄は素早く雌から飛び離れようとするが、それに失敗すると雌にそのまま捕まり食われる羽目となる。無事に雌から逃れた雄は、再び同じ雌に求愛し、もう一本の触肢を使って二回目の交尾を行う。ところが、ほとんどの雄はこの二回目の交尾中に雌に食われてしまい、三回以上交尾した雄は観察されていないという。

 不思議なことに、一回目に食われた雄は雌に捕まると激しく脚を動かして逃げようとするが、二回目の交尾中に食われた雄は、まるで死んでいるかのように無抵抗であった。

 雄の二回目の交尾を様々な時間で中断し、雄の状態を調べると、交尾時間が約六〇秒に達すると雄は交尾したまま死ぬことが明らかになった。また、この交尾中の雄の死は、雌の交尾回数とは関係なく、雄の二回目の交尾でのみ生ずることから、雄は雌に殺されるのではなく、雄自身の原因で死ぬものと考えられている。しかし、この雄の死の生理的要因はまだ明らかにされていない。

 本来、雄は一匹でも多くの雌と交尾した方がより多くの子孫を残すことができる。しかし、体の小さいナガマルコガネグモの雄にとって、他の網に移動するのにはリスクを伴い、再交尾の可能性はかなり低い。そこで、雄にとっては最初に交尾した雌にすべてを投資し、自分の子を産ませることが最善の戦略である。そして、交尾中に死ぬことで雌の摂食を保証していると考えられている。いずれにしても、この場合、雄は自らを結婚のプレゼントとして投げ出すのである。

   《引用開始》

このケースでは食われて死ぬのではなく、理由は不明ながら、交尾後には自動的に死に至り、結果的に受精したの栄養源として食われるということになる(これはこれで実に不思議に面白い)。

 次にハチのケースであるが、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apisのミツバチ類の場合は、は女王蜂と交尾するためだけに生まれて来て、空中での交尾直後に生殖器が女王蜂の体内に残って引き抜かれてしまい、必ず死んでしまうのである。くどいが、に刺されて死ぬのではないのである。

 なお、私が殊更に取り上げた――交尾後にが食われる――という話は、多くの諸君は昆虫綱カマキリ目 Mantodea のカマキリ類の「残酷な習性」として記憶しておられることと思うが、これも実は、食われる頻度はそれほど高くないのが実は事実なのである。これについては龍之介はここで蟷螂(かまきり)を挙げておらず(当時の一般的理解からは挙げておけばよかったのにとは思うのだが、そうすると刺されて死ぬわけではないので、アフォリズムが長くなると警戒したものか。しかしだったら「蜘蛛」も変ですぜ、芥川センセ!)脱線的(私は脱線では全くないと思うのだが)になるので語らぬが、生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(7) 四 命を捨てる親の私の注を是非、参照されたい。そこではミツバチのケースも詳述してある。

・「伊太利の旅役者」「伊太利」には筑摩全集類聚版では『イタリイ』とルビする。私は個人的趣味からそれを採る。水谷彰良氏の論文「日本におけるロッシーニ受容の歴史 明治元年から昭和43年まで(1868~1968年)」(PDF)によると、イタリア人 A.Carpi(同論文では『フルネームと生没年未詳』とあり、音写も『カルピ』と『カーピ』の二様で出るが、ここでは「カーピ」で統一する(同論文に画像で載る大正一五(一九一六)年の公演パンフレット(「筋書」とある)と思しいものの表記が『カーピ』となっているのに基づく)率いる「カーピ伊太利大歌劇団」は日本に四回来日している。但し、第四回目は昭和二年で、第三回目は本章公開の翌大正十五年であるから除外される。第一回は大正一二(一九二三)年で演目にビゼーの「カルメン」があり、公演は一月二十六日から二月二十四日までで、十四演目を東京の帝国劇場をはじめとする六都市で計三十回行っている。一方、二回目の来日は本章発表の直前に当たる、大正十四年三月一日から四月九日までで、やはり「カルメン」が演目にあり、東京・大阪・京都・神戸で計三十八回公演を行っている。芥川龍之介の年譜(新全集宮坂覺年譜に拠る)には、孰れにもオペラ鑑賞の記載はないが、大正十二年の一回目の時期は、盟友小穴隆一の脱疽による右足首切断手術(龍之介が立ち会っている)の直後で龍之介自身も著しく体調を崩しており(一月五日以降、神経や筋肉の興奮を抑えるための塩化カリウム注射をほぼ毎日、主治医の下島勲に打って貰っている)、しかも義兄の弁護士西川豊(姉ヒサの再婚相手)が偽証教唆で市ケ谷刑務所に収監されていたため、その面会など(その様子は小説「冬と手紙と」(昭和二(一九二七)年)の「一 冬」に描かれている。リンク先は私の電子テクスト)、『この春は病院と警視庁と監獄との間を往來して暮した娑婆界にあり經るのは樂ぢやない』と書いている(大正十二年一月二十二日附松岡譲宛書簡・岩波旧全集書簡番号一一〇〇)ほどであるから、とてものんびり歌劇鑑賞という雰囲気ではないようには感じられる。二回目なら記憶が直近で、如何にも本アフォリズムの鮮明な印象映像と合うようには思われるものの、この時期も三月上旬は病気がちで、一高以来の友人で劇作家岡榮一郎の離婚騒動(芥川龍之介夫妻が初めて仲人をした)、義弟(妻文の弟)塚本八洲の喀血などで仕事が滞り、外来者との面会日を中止して原稿執筆に追われてはいる。どちらとも確定はし兼ねるが、強いて言えば、やはり二回目か

・『歌劇「カルメン」』「Carmen」はフランスの作曲家ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet 一八三八年~一八七五年)が、フランスの作家プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée 一八〇三年~一八七〇年)の小説「カルメン」を基にした歌劇で全四幕。音楽(歌)の間を台詞で繫いでいく「オペラ・コミック」(フランス語:Opéra comique)と呼ばれる様式で書かれた悲劇。一八七五年パリの「オペラ=コミック座」で初演されたが不評で、その直後にビゼーは死去した。ところが、その後、改作がなされて上演されると、俄然、人気を博すようになり、今や、フランス歌劇の代表作として世界的人気を持つ。私は原作のメリメのそれが大好きだが、オペラは正式な西洋のオペラ自体を一度として見たことがない(舞踏劇化したアントニオ・ガデス舞踊団の「カルメン」の舞台は実に素晴らしかったが、何度か見た日本人による日本語のマガイ物歌劇は反吐が出るほどキビ悪かった。私はストレス言語でない日本語はオペラと最も相性の悪い言葉であると堅く信じて疑わない)ので、梗概その他は参照したウィキの「カルメン(オペラ)」を御覧になられたい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 徴候(二章)

 

       徴候

 

 戀愛の徴候の一つは彼女は過去に何人の男を愛したか、或はどう言ふ男を愛したかを考へ、その架空の何人かに漠然とした嫉妬を感ずることである。

 

       又

 

 又戀愛の徴候の一つは彼女に似た顏を發見することに極度に鋭敏になることである。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年六月号『文藝春秋』巻頭に、後の「戀愛と死と」「身代り」「結婚」(二章)「多忙」「男子」「行儀」と合わせて全九章で初出する。底本後記によれば、二章目の初出は末尾が『極度に鋭敏なることである。』となっているとあるが、これはもう、誤植か、芥川龍之介自身の原稿の脱字の域である。二章とも、高校教師時代の「侏儒の言葉」の抄録プリントでは確信犯で必ず入れた、私偏愛のアフォリズムである。これは実際に恋愛を体験した異性愛者の男性ならば必ず大きく頷かざるを得ない不可避にして宿命的な、心理現象上の絶対真理命題二種であり、そうした経験がないとのたもう恋愛者がいるとしたなら、その男はおぞましくも「その女に恋をしているという真似をしている」に過ぎない哀しいナルシストである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) つれづれ草

 

       つれづれ草

 わたしは度たびかう言はれてゐる。――「つれづれ草などは定めしお好きでしせう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未嘗愛讀したことはない。正直な所を白狀すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中學程度の敎科書に便利であることは認めるにもしろ。

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月号『文藝春秋』巻頭に、前の「兵卒」(二章)「軍事敎育」「勤儉尙武」「日本人」「倭寇」と合わせて全七章で初出する。私も「徒然草」(卜部兼好著。二巻。鎌倉時代末期の元徳二(一三三〇)年から元徳三・元弘元(一三三一)年頃に纏められたとする説が主流であるが、定説はない。古文の文学史上では「枕草子」と並ぶ随筆文学の傑作とされている)は、「あだし野の露」の絶対無常観の辛気臭い表明(しかし兼好はそんなこと微塵も信じていなかったことは請け合う)と、「花は盛りに」の逆説的臍曲がり部分は読んで、なかなか小気味よくは思うものの(よく高校教師時代には好んでこれらを授業した)、親しく再読したいなどとは、ゆめゆめ思わぬ。

・「未嘗」「いまだかつて」。

・「中學」旧制の中学校。ィキの「旧制中学校」を元に記述する。昭和二二(一九四七)年の学校教育法施行より前の、日本で男子に対して中等普通教育(現在の後期中等教育)を行っていた学校の一つ。学校教育法施行後の学制改革によって新制の高等学校に移行した(構造的には現行の中学校一年から高等学校二年に相当)。中学校令(明治一九(一九八六)年勅令第十五号及び明治三二(一八九九)年勅令第二十八号)に基づいて、各道府県に少なくとも一校以上の規定で設立された。入学資格は尋常小学校(後に国民学校初等科に移行)を卒業していることであり、修業年限は五年間であったが、昭和一八(一九四三)年に制定された中等学校令(昭和一八(一九四三)年勅令第三十六号)によって四年間に短縮された(戦後、学校教育法施行前の短い期間であるが、再び五年間に戻されている)。旧制の中学校と類似した学校として、女子に対する中等教育を行った高等女学校、小学校卒業者に職業教育を行った実業学校がある(但し、これらから上級学校に進学する場合には旧制中学校よりも制限が存在した)。旧制中学校の開始時年齢は一年生が十二歳、五年生が十六歳であった。旧制中学校を経ると(中等学校令制定前は四年修了後に)、旧制高等学校・大学予科・大学専門部・高等師範学校・旧制専門学校・陸軍士官学校・海軍兵学校に進学することが出来た。また、旧制中学校二年生修了で師範学校への進学も可能であった。五年制でも四年修了(四修)で旧制高等学校及び大学予科の受験資格が与えられた。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 倭寇

 

       倭寇

 

 倭寇は我我日本人も優に列強に伍するに足る能力のあることを示したものである。我我は盜賊、殺戮、姦淫等に於ても、決して「黃金の島」を探しに來た西班牙人、葡萄牙人、和蘭人、英吉利人等に劣らなかつた。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月号『文藝春秋』巻頭に、前の「兵卒」(二章)「軍事教育」「勤儉尚武」「日本人」、後の「つれづれ草」と合わせて全七章で初出する。「倭寇」「わこう」。「和寇」とも書く。十三世紀から十六世紀にかけて、朝鮮半島・中国大陸の沿海地域を侵犯略奪した日本人に対する朝鮮・中国側の呼称。その中心勢力は、北九州・瀬戸内の土豪や沿岸漁民であり、元来は私貿易を目的としていたものが、十四世紀半ばから海賊化し、米穀・人民を奪取殺害するなど、相手国に深刻な脅威を与えた。勘合貿易などの進展により、十五世紀中頃には一旦、鎮静した。十六世紀になって、中国大陸南岸・南洋方面に再び発生したが、その集団には日本人は少なく、多くは中国人の密貿易者・海賊であったと考えられている。豊臣秀吉の禁圧で消滅(以上は三省堂「大辞林」に拠った)。……しかし、芥川先生、倭寇と日本帝国の「皇軍」をいっしょくたにしちゃあ、また、ヤバいですぜ……

 

・「黃金の島」「わうごん(おうごん)のしま」とは、イタリアの商人で旅行家であったマルコ・ポーロ(Marco Polo 一二五四年~一三二四年)が「東方見聞録」(Il Milione 或いは La Description du Monde であるが、原題は不詳。一二七一年から一二九五年にかけて、彼が旅した中央アジア・中国の体験談を、イタリアの物語作家ルスティケロ・ダ・ピサ(Rustichello da Pisa)が筆録したもの。マルコ・ポーロはジェノバとの戦争で捕虜となって、獄中で同じ囚人であった彼に出逢い、獄中で聴き取って完成させたものであるという。但し、原記載は古フランス語に拠るものである)の中に記したジパング(Zipangu:綴りは諸説有り)、一説に日本とされ、ここもそれに則(のっと)った謂い。ウィキの「ジパングによれば、「東方見聞録」では『ジパングは、カタイ(中国大陸)の東の海上』千五百マイル(二千四百十四キロメートル)に『浮かぶ独立した島国である。莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。人々は偶像崇拝者で外見がよく、礼儀正しいが、人肉を食べる習慣がある』。『モンゴルのクビライがジパングを征服するため軍を送ったが、暴風で船団が壊滅した。生き残り、島に取り残された兵士たちは、ジパングの兵士たちが留守にした隙にジパングの都を占領して抵抗したが、この国で暮らすことを認める条件で和睦して、ジパングに住み着いたという話である』と記すとし、『マルコ・ポーロが伝え聞いたジパングの話は、平安時代末期に奥州藤原氏によって平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた奥州平泉の中尊寺金色堂がモデルになっているとされる。当時の奥州は莫大な金を産出し、これらの財力が奥州藤原氏の栄華の源泉となった。 マルコポーロが元王朝に仕えていた』十三世紀頃には、『奥州地方の豪族安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に中国と交易を行っていたとされ、そこからこの金色堂の話が伝わったものとされる』とあるものの、異義も多く、『中世の日本はむしろ金の輸入国であり、黄金島伝説と矛盾する』、『マルコ・ポーロの記述やその他の黄金島伝説ではツィパングの場所として(緯度的にも気候的にも)明らかに熱帯を想定しており、実際の日本(温帯に属する)の位置とはかなり異なる』、『元が遠征に失敗した国は日本以外にも多数存在する』といった『理由から、ジパングと日本を結びつけたのは』十六世紀の『宣教師の誤解であるとする説もある。またジパングの語源としても、元が遠征した東南アジアの小国家群を示す「諸蕃国」(ツィァパングォ)の訛りであるとする。またイスラーム世界(アラビア語・ペルシア語圏)に伝わった日本の旧称「倭國」に由来するといわれる』「ワークワーク」乃至「ワクワーク」は『金山を有する土地として知られているが、「ワクワク」に類する地名はアラビア語・ペルシア語による地理書や地図においてアフリカや東南アジアによく見られる地名でもあり、日本のことを指したものではないとする説もある』とある。

・「西班牙人、葡萄牙人、和蘭人、英吉利人」老婆心乍ら、西班牙(スペイン)、葡萄牙(ポルトガル)、和蘭(オランダ)、英吉利(イギリス)と読む。]

2016/06/05

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  日本人

 

       日本人

 我我日本人の二千年來君に忠に親に孝だつたと思ふのは猿田彦命もコスメ・テイツクをつけてゐたと思ふのと同じことである。もうそろそろありのままの歷史的事實に徹して見ようではないか? 

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月号『文藝春秋』巻頭に、前の「兵卒」(二章)「軍事教育」「勤儉尚武」、後の「倭寇」「つれづれ草」と合わせて全七章で初出する。

・「猿田彦命」「さるたひこのみこと」と読む。記紀神話の天孫降臨に際し、その道案内をしたとされる異形の神。容貌魁偉にして、鼻は高く(実際に神楽や祭りの舞いなどでは赤面の天狗の面を猿田彦役が被るケースが多く見られる)身長は七尺を越える(二メートル強)とする。後世には庚申信仰や道祖神などとも結びついていて、比較的、メジャーな神である。然しながら、彼の髪は蓬髪の白髪で描かれることが多く、私は実はコスメチックがピンと来ない。黒々とした豊かな黒髪でビシッと決め、勇猛果敢に戦っても結髪一糸も乱れずとするなら、寧ろ、私は素戔嗚命(すさのおのみこと)や日本武尊(やまとたけるのみこと)としたくなるのである。実は何で「猿田彦命」なのか、高校時代からずうっと気になってしょうがないのである。諸注も遂にそれを解き明かして呉れていない。何方か、この老いぼれの永年の悩みを解いて下さらぬか? 【緊急追記】……とここでアップしたところが、三女のアリスがお散歩連れてってワンワンを始めたので散歩に出た……犬……犬猿……猿――うん?!――猿! そうだ! これは「猿田彦」神に意味があるんじゃあ、ないんだ! 「猿」なんだ! 龍之介は進化論に引っ掛けて日本神話をパロったのだ! 猿、ホモ・サピエンス以前の猿人や猿「もコスメ・テイツクをつけてゐたと思ふの」は馬鹿げたことだ、と龍之介は言っているんだ! さすれば、まっこと、面白や! 中国の孫悟空もインド神話のハヌマーンも実はダーゥイン以前に猿から人が進化していたと無意識に感じていたんじゃないか? などと考えると、これまた面白いぞ! 四十数年の不審が一瞬の「機」を以って雲散霧消! アリス禪師! 五体投地して謝しまする!

・「コスメ・テイツク」cosmetic。白蠟(はくろう:虫白蠟 insect wax。別名をイボタ蠟などとも称する。キク亜綱ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属イボタノキ(水蝋樹・疣取木)Ligustrum obtusifoliumに群生する昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)カイガラムシ上科カタカイガラムシ科イボタロウカイガラムシ属イボタロウカイガラムシ Ericerus pela(一属一種)が分泌するものから採取した動物性油脂)やパラフィン(paraffin:石油から分離される白色半透明の固体)などに香料を加えて棒状に練り固めた男性用の固形髪油。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 勤儉尚武

 

       勤儉尚武

 

「勤儉尚武」と言ふ成語位、無意味を極めてゐるものはない。尚武は國際的奢侈である。現に列強は軍備の爲に大金を費してゐるではないか? 若し「勤儉尚武」と言ふことも痴人の談でないとすれば、「勤儉遊蕩」と言ふこともやはり通用すると言はなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月号『文藝春秋』巻頭に、前の「兵卒」(二章)「軍事教育」、後の「日本人」「倭寇」「つれづれ草」と合わせて全七章で初出する。「勤儉尚武」は「きんけんしやうぶ(しょうぶ)」と読み、仕事に勤め励み、倹約を重んじ、武勇を「尊(たっと)ぶ」(「尚」はその意)ことを言う。

 

・「奢侈」「しやし(しゃし)」と読む。度を外れて贅沢なこと。

・「列強は軍備の爲に大金を費してゐる」小野圭司氏の論文「第1次大戦・シベリア出兵の戦費と大正期の軍事支出-国際比較とマクロ経済の視点からの考察-」(PDF)の「表1:20世紀初頭の日本と欧米列強の軍事・経済指標(ドル換算名目値)」に出る数値とそこに関わる小野氏の解説がすこぶる参考になる。必見。GNPに対する軍事支出と海軍費の急激な侵食、特に日英米の海軍費の突出に着目されたい。

・「遊蕩」「いうたう(ゆうとう)」でここは広義の「恣(ほしいまま)に振る舞うこと」「放蕩」等のニュアンスだろうが、「遊蕩」には特に「酒や女遊びにふけること」の謂いがあるから、この一章も武人たる軍人には前の「兵卒」並みに許し難い暴言と言えよう。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  軍事教育

 

       軍事教育

 

 軍事教育と言ふものは畢竟只軍事用語の知識を與へるばかりである。その他の知識や訓練は何も特に軍事教育を待つた後に得られるものではない。現に海陸軍の學校さへ、機械學、物理學、應用化學、語學等は勿論、劍道、柔道、水泳等にもそれぞれ專門家を傭つてゐるではないか? しかも更に考へて見れば、軍事用語も學術用語と違ひ、大部分は通俗的用語である。すると軍事教育と言ふものは事實上ないものと言はなければならぬ。事實上ないものの利害得失は勿論問題にはならぬ筈である。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月号『文藝春秋』巻頭に、前の「兵卒」(二章)、後の「勤儉尚武」「日本人」「倭寇」「つれづれ草」と合わせて全七章で初出する。

 

・「海陸軍の學校さへ」「語學」「にも」「專門家を傭つてゐる」芥川龍之介は大正五(一九一六)年七月十日、東京帝国大学文科大学英吉利文学科を卒業(成績は二十人中二番で、引き続いて同大学大学院に在籍したが、院の講義には全く出ず、後に除籍となっている)、十一月に一高時代の恩師畔柳都太郎(くろやなぎくにたろう)教授から横須賀の海軍機関学校を紹介されて即座に就職が内定、十二月一日には同校の教授嘱託(英語学)として就任した(当初の受持授業時間は週十二時間で初任給は六十円であった。前年の大卒初任給で平均三十五円だから、かなり高給とは言える)、二年後対象七(一九一八)年八月頃までには仕事に対して精神的に強い不快感を覚えるようになり(この頃には週平均授業時数は八時間ほどになり、授業のない日もあったが、午前八時から午後三時までは勤務時間として学校に拘束された。また同時期に、海軍拡張のための計画が公にされ、学校の生徒数が約三倍増員、授業も倍以上に増えることが、彼の転職志向に拍車をかけた)、九月になると、「龍門の四天王」の一人で慶応大学予科の教員であった小島政二郎から慶応大学英文科教授招聘の話が持ち込まれたりした(これは結局、実現しなかった)が、同年十一月頃になって大阪毎日新聞社社友の話が持ち上がり、翌大正八年三月八日に同新聞社客員社員(出勤を要しない)の辞令を受けた。海軍機関学校での正式な最後の授業は同月二十八日で、同三十一日に退職している(以上は、岩波新全集の宮坂覺氏の年譜に負うところである)。実に二年三ヶ月の短い間ではあった。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  兵卒(二章)

 

       兵卒

 

 理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶對に服從しなければならぬ。絶對に服從することは絶對に批判を加へぬことである。即ち理想的兵卒はまづ理性を失はなければならぬ。

 

       又

 

 理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶對に服從しなければならぬ。絶對に服從することは絶對に責任を負はぬことである。即ち理想的兵卒はまづ無責任を好まなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年五月号『文藝春秋』巻頭に、後の「軍事教育」「勤儉尚武」「日本人」「倭寇」「つれづれ草」と合わせて全七章で初出する。「侏儒の言葉」の中で、同一題複数形式の中で、恐らく最も美しい対句を成しいて、しかも即座にソラで誦したくなるのが、この「兵卒」の全二章である。しかも(下線部が相同箇所、太字が異なる箇所。対応を綺麗に見せるために「理性」の前後を半角空けた)、

   *

 理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶對に服從しなければならぬ。絶對に服從することは絶對に批判加へぬことである。即ち理想的兵卒はまづ 理性 失はなければならぬ。

   *

 理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶對に服從しなければならぬ。絶對に服從することは絶對に責任負はぬことである。即ち理想的兵卒はまづ無責任好まなければならぬ。

   *

と、異なっているのは、たった四単語だけである。読者は第一章で暗澹となり、第二章ではっしと膝を打って痛快がる。それをたったこれだけの選語によって成し遂げてしまう。私が龍之介マジックと称する所以である。そうして私はこの二章こそが、のちのち、彼の子ら、比呂志・多加志・也寸志が軍事教練で教官から厭味やイジメを喰らう遠因となるのである(と私は思っている。どんな皺のない脳味噌の軍人でも、この二章にカチンとこない連中は、まずいない、と思うからである)。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  企圖(二章)

 

       企圖

 

 成すことは必しも困難ではない。が、欲することは常に困難である。少くとも成すに足ることを欲するのは。

 

       又

 

 彼等の大小を知らんとするものは彼等の成したことに依り、彼等の成さんとしたことを見なければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年四月号『文藝春秋』巻頭に、前の「賭博」(三章)「懷疑主義」「正直」「虛僞」(三章)「諸君」(二章)「忍從」と合わせて全十三章で初出する。「企圖」(きと)とは、「あることを行おうと企(くわだ)てること・その企て・目論(もくろ)み」の謂い。

 

・「成すことは必しも困難ではない。が、欲することは常に困難である。少くとも成すに足ることを欲するのは。」自然(じねん)流で訳してみる。

――あることを成し遂げることは必ずしも困難なことではない。しかし、あることを切に心から欲求し、望むとこは常に困難ことである。少なくとも、成し遂げるにたるだけの素晴らしいことをしようと心から望むことは著しく難しく、それは成就しないと言ってよい。――

・「彼等の大小を知らんとするものは彼等の成したことに依り、彼等の成さんとしたことを見なければならぬ。」同じく、自然流で訳してみる。

――ある者たちの器量や度量や意気がどれほどのものか――覚悟を持った有意に立派な大きな素晴らしいものであるか、それとも、吝嗇(けち)臭くさもしくしょぼいものであるか――を知ろうとする者は、まず、そのある者たちが実際に成した事実・現実を判断材料とした上で、そのある者たちが当初、成し遂げようとした――しかし、成し遂げることは遂に出来なかったこと――即ち、その企図を知り、それらを総合して最終的な判断を下さねばならない。――]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  忍從

 

       忍從

 

 忍從はロマンテイツクな卑屈である。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年四月号『文藝春秋』巻頭に、前の「賭博」(三章)「懷疑主義」「正直」「虛僞」(三章)「諸君」(二章)と、後の「企圖」(二章)と合わせて全十三章で初出する。

 

・「忍從」内心、望んでいないにも拘わらず、耐え忍んで、言われる儘に従うこと。内心、実は望んでいる場合もあるが、その場合は「romanticism」ではなく「masochism」である。しかし、寧ろ、龍之介のここで言っている「ロマンテイツクな卑屈」から得られる苦痛は快感と双方向性を持っており、それに馴れさえすれば、それは快感となるのであって、このマゾヒズムの注も満更、場違いでない気がしてくるではないか?(次注参照)

・「ロマンテイツク」romantic。浪漫(ロマン)的。現実の平凡さや冷たさを離れて、甘美で空想的・情緒的或いは情熱的であるさま。英語の辞書では「空想にふける・空想的な」、「恋愛に夢中な状態にある・恋愛に適した」、「空想の物語風に・小説にでもありそうな」、「(批判的に)計画・考えなどが非実際的な・実行し難い」、「(話や言説が)架空の・虚構の」とある。夢想は現実と齟齬するどころか、対立的である。とすれば「ロマンテイツクな卑屈」趣味とは「リアリステイクな被虐」趣味と言い変えることが出来るのである。

・「卑屈」必要以上に自分を著しく卑(いや)しめ貶(おと)しめて、ある他者に対して諂(へつら)う(「諂う」とは、相手に気に入られるように意識的に振る舞う・その相手に世辞を言う・おもねる・追従 (ついしょう)する等と同義)。おどおどしていじけていること。しかしこれは時に自己韜晦(自らの才能や本心などを内に秘めておいて、決して人に知られないように表に出さないこと)の格好の技法とも言える。とすれば、「ロマンテイツクな卑屈」と見せかけて「忍從」としか見えぬ振る舞いをしている人間は真正のマゾヒストか、或いは、その忍従している人間を心底、軽蔑し、救いがたい人間として認めていないからこそ自己韜晦的に忍従しているのであるとも言えるであろう。こう考えていくと、この短いアフォリズムも、妙にグラデーションが出てきて面白くなるではないか(面白くなるのは、さて、俺だけか?)。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  諸君(二章)

 

       諸君

 

 諸君は靑年の藝術の爲に墮落することを恐れてゐる。しかしまづ安心し給へ。諸君ほどは容易に墮落しない。

 

       又

 

 諸君は藝術の國民を毒することを恐れてゐる。しかしまづ安心し給へ。少くとも諸君を毒することは絶對に藝術には不可能である。二千年來藝術の魅力を理解せぬ諸君を毒することは。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年四月号『文藝春秋』巻頭に、前の「賭博」(三章)「懷疑主義」「正直」「虛僞」(三章)と、後の「忍從」「企圖」(二章)と合わせて全十三章で初出する。「諸君」一章目をを読むと、「諸君」は「靑年」に代表される未成年の少年少女或いは今少し広げて若い人々を除いた大人連中を指すように読んで、読者の過半は不愉快に思ったが、二章目を読むに及んでそこで苦虫を潰した彼らもやはり過半はニンマリした。そこでは「諸君」とは「國民」に対峙する者ども、「大日本帝国」の政治家や官僚・軍人を限定していたことに気づくからである。

 

・「二千年來」因みに二千年前の日本は弥生時代である。皇国史観に立つと垂仁天皇の治世となるが、馬鹿馬鹿しくてこれを書くだけでやめにしておく。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  虛僞(三章)

 
       虛僞

 わたしは或譃つきを知つてゐた。彼女は誰よりも幸福だつた。が、餘りに譃の巧みだつた爲にほんたうのことを話してゐる時さへ譃をついてゐるとしか思はれなかつた。それだけは確かに誰の目にも彼女の悲劇に違ひなかつた。

       又

 わたしも亦あらゆる藝術家のやうに寧ろ譃には巧みだつた。が、いつも彼女には一籌を輸する外はなかつた。彼女は實に去年の譃をも五分前の譃のやうに覺えてゐた。

       又

 わたしは不幸にも知つてゐる。時には譃に依る外は語られぬ眞實もあることを。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年四月号『文藝春秋』巻頭に、前の「賭博」(三章)「懷疑主義」「正直」と、後の「諸君」(二章)「忍從」「企圖」(二章)と合わせて全十三章で初出する。

・「わたしは或譃つきを知つてゐた。彼女は誰よりも幸福だつた」これは芥川龍之介の不倫相手であった秀しげ子と断定して間違いない。こんな注は研究者は恥ずかしくって絶対につけられないだろう。ざまあ、見ろ。

・「一籌を輸する」「いつちうをゆする(いっちゅうをゆする)」と読み、「一段階、劣る」「一歩、譲る」の意。「籌」は実務や占術に於いて数を数えるのに用いた木の串(くし)で、「輸する」の「輸」には「致す・運ぶ・移す」以外に「負ける・負け」の意があり、ここはそれ。もともとは宋の陸游の詩「九月六夜夢中作笑詩覺而忘之明日戲追補一首」の最終句「道得老夫輸一籌」に基づくという。

・「わたしは不幸にも知つてゐる。時には譃に依る外は語られぬ眞實もあることを。」私は芥川龍之介は自裁に際し、その遺書を認(したた)めている最中(リンク先は私渾身の芥川龍之介の遺書テクスト)、この自分が二年前に書いたこの言葉を鮮やかに蘇らせていたものと思う。

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  正直

 

       正直

 

 若し正直になるとすれば、我我は忽ち何びとも正直になられぬことを見出すであらう。この故に我我は正直になることに不安を感ぜずにはいられぬのである。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年四月号『文藝春秋』巻頭に、前の「賭博」(三章)「懷疑主義」と、後の「正直」「虛僞」(三章)「諸君」(二章)「忍從」「企圖」(二章)と合わせて全十三章で初出する。これもトートロジーに見えるが、同じである。その意識過程と行動を想起すれば、腑に落ちる。

――「若し」我々が「正直にな」ろうと決心したと仮定してみるがよい。すると、その「正直にな」ろうと決心した自分自身が、その心内に溢れているところの、あらゆる隠れた欲望を完全に外部に対して隠蔽せねばならぬことに気づいて、実は自分は「正直」でないということに気づく。さればこそ「我我は忽ち何びとも」「正直にな」ることは出来ないという真理を「見出す」ことになるからである。「この故に我我は正直になること」を少しでも思ったり、考えたり、欲したりすれば、必ず、自身の良心が認めることの出来ない忌まわしい欲望欲求が無数の亡霊のように心の中に立ち現われることになり、即「不安を感ぜずにはいられぬ」ことになるから「である」。――

少なくとも私は、五十九の人生を、そのようにして生きて来た。生きて来てしまった。これからの僅かなそれも同じである。しかしそれが確かに「私」の実相であったのだ。私は「こゝろ」の先生の遺書の最後の、『記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。』という台詞をそのようなものとして心に刻んでいるのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  懷疑主義

 

       懷疑主義

 

 懷疑主義も一つの信念の上に、――疑ふことは疑はぬと言ふ信念の上に立つものである。成程それは矛盾かも知れない。しかし懷疑主義は同時に又少しも信念の上に立たぬ哲學のあることをも疑ふものである。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年四月号『文藝春秋』巻頭に、前の「賭博」(三章)と、後の「正直」「虛僞」(三章)「諸君」(二章)「忍從」「企圖」(二章)と合わせて全十三章で初出する。これは見かけ上、トートロジー(同語反復)のように見えるがそうではなく、真の懐疑主義とは、哲学・宗教・思想・信条と呼称する対象は孰れも信念の上に立ったものであるという立場に立って、それらを真摯に懐疑するものである、と言っているのである。それを反転させれば、懐疑主義とは個々の哲学・宗教・思想・信条に真摯に一対一で対峙し、そこで感じた疑問をその対象や、それを諸手を挙げて讃美したり、無条件に信望したり、それに命を殉じても惜しくないなどとほざく連中に投げかけ、その哲学・宗教・思想・信条の実相を明らかにしようとする思考法であると言っているのである。しかし考えてみると、このアフォリズムはもっと絶望的な世界を開示してはおるまいか? 神仏の存在など信じてもいない無数の信者を抱え込んだ教祖たち――垂れ流される放射線を放置して民衆を死に至らしめても屁とも思わぬ民主主義を標榜する政治家――ゲンジホタルやムツゴロウを守ると称してヘイケボタルや微小貝類地味を絶滅に追い込んで恥じないナチュラリストども――実は正当にして必要欠くべからざるものである懐疑主義が通用しない「少しも信念の上に立たぬ哲學」が蔓延している世界が、今、我々の目の前に現前しているではないか!……]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 賭博(三章)

 

       賭博

 

 偶然即ち神と鬪ふものは常に神祕的威嚴に滿ちてゐる。賭博者も亦この例に洩れない。

 

       又

 

 古來賭博に熱中した厭世主義者のないことは如何に賭博の人生に酷似してゐるかを示すものである。

 

       又

 

 法律の賭博を禁ずるのは賭博に依る富の分配法そのものを非とする爲ではない。實は唯その經濟的ディレツタンティズムを非とする爲である。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年四月号『文藝春秋』巻頭に、後の「懷疑主義」「正直」「虛僞」(三章)「諸君」(二章)「忍從」「企圖」(二章)と合わせて全十三章で初出する。余り知られているとは思われないので言っておくと、龍之介は花札の「こいこい」を非常に好んだ。実は私は賭け事は全く不案内で、賭け事はただ一度しかしたことがない。「ばんえい競馬」に友達に連れられて行き、妻誕生日の日付なんぞの馬券を買ったりして数千円をすったのは二年前のことで、その五十七の時が人生初めての賭け事経験であった(いや、考えてみれば、結婚とは人生の命運を左右する一つの大きな賭け事とは言える)。因みに、麻雀のルールも私は知らない(いやいや、それどころか、私の異常なのは野球のルールさえも知らないことである)。しかし、だからこそ最初と二番目のアフォリズムを読むと、思わず相槌を打ってしまう私がいる。確かに私は神秘的な威厳とは無縁であるし、人生を楽天的には生きていないから。

 

・「經濟的ディレツタンティズム」「ディレツタンティズム」の「ディレッタント」は元はフランス語の「dilettante」で、学問・芸術などを趣味として愛好する好事家(こうずか)の謂いであるが、ここはそれから出た英語の「dilettantism」でディレッタント風・芸術趣味、或いは揶揄を強く込めた道楽・半可通の謂いであるから、この部分の意味は、金銭所得を得るに際し、正当・相当な体力や知力消耗の労働に対する報酬としてそれを得るのではなく、それを道楽や趣味として楽しむことをメインとし、従でそれら得る(多寡を問わず)ことを指して言っているのであろう。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) レニン

 

       レニン

 

 わたしの最も驚いたのはレニンの餘りに當り前の英雄だつたことである。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年三月号『文藝春秋』巻頭に、前の「藝術」(四章)と「天才」(五章)及び「譃」(三章)と合わせて全十三章で初出する。底本後記によれば、本章の初出は(短いので題名も一緒に出す)、

 

       レニン

 

 驚いたね、レニンと言ふ人の餘りに當り前の英雄なのには。

 

である。この方が、「侏儒の言葉」の流れの中では特異点となり、芥川龍之介の生の肉声が聴こえてきて面白いと思うのだが、しかし、この特異的な「やくざな眇め」の言葉遣いにはまた、明らかに揶揄の気味が強く感じられ、読む者に厭味な印象を強く与える(私は「龍之介がレーニンを批判的に揶揄している」と断言するのではない。これは、ある人にとっては、龍之介の素直なありのままの感動感懐の吐露表現ともとれるし、そう読む人も決して少なくはないとも思う。しかしそれでもかく私が指摘するのは、短文故に宿命的に付き纏うところの誤解誤読のことを言っているのである)

 そうすると、一部の左派作家から「芥川龍之介はレーニンを馬鹿にしている」という、謂われのない(いや、龍之介マジックにある程度馴れ親しんでいる人物なら「謂れのある」というべきかも知れぬ)批判を受ける可能性が出てくる。周囲の誰彼からそうした表現上の危うさの指摘を忠告されたのかも知れぬ(私が龍之介と親しければ、そうしたことを言うように思う)。いや、或いはそうした批難を、実際にこの号が発売されてから左派系の誰かから受けたのかも知れない(いつの世にもクレーム好きの輩はいるものであり、また、龍之介には今ならストーカーと認定されるような、龍之介が忌まわしく感じるところの、一方的に作品や長々しい手紙を送りつけてきたり、突然、弟子入りを望んでアポなし訪問をしてくる自称「文学青年」「文学少女」、キビの悪い「ファン」もかなりいた)。

 ともかくも、初出で肉声の特異点であったこれが、かく書き換えられて出た単行本「侏儒言葉」では、「侏儒の言葉」全体のマニエリスム的秩序に吸収されて目立たなくなっていることは事実である。それは、寧ろ――左からも右からも――このアフォリズムを「侏儒の言葉」群の中で目だってとんがっては見えないようにした――とはまず言える。しかしそれは、龍之介の自己保身のための隠蔽や目眩(めくら)ましといった小手先の狡猾な技なんどでは決して、ない。そこには実は龍之介の内心に於けるレーニンへのアンビバレントな感懐が大きく影響しているように私は思うのである。それを以下の「レニン」について注した後に考えてみたい。

 さても「レニン」(この音写は必ずしもおかしくはない)は言わずもがな、ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин 一八七〇年~一九二四年一月二十一日)のことである。本章が書かれたであろう頃から、ほぼ一年前に亡くなったばかりであった。出生だけウィキの「ウラジーミル・レーニン」にから見ておく。『ヴォルガ河畔のシンビルスク(現ウリヤノフスク)にて、アストラハン出身の物理学者イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフとドイツ・スウェーデン系ユダヤ人(ロシア正教に改宗していた)のマリア・アレクサンドロヴナ・ブランク』『の間に生まれる。父方の祖父は解放農奴出身の仕立屋で民族的にはチュバシ系』(祖先は十世紀にヴォルガ・ブルガール国を建国したブルガール人のスアル部族・サビル部族に遡ると考えられている民族。モンゴルによるヴォルガ地域の征服後にブルガール人の一部が北方のフィン・ウゴル系諸民族と混交、十五世紀から十六世紀頃に現在のチュヴァシ人の原型が形成されたとみられている。チュヴァシ人は十五世紀にはカザン・ハン国の支配下におかれてイスラーム化した一部は現在のタタール人と同化したとされる。ここはウィキの「チュヴァシ人」に拠る)『で、曽祖父はモンゴル系カルムイク人(オイラト)であった(曾祖母はロシア人であったという)』。『この様に幾つもの民族や文化が混じるウリヤノフ家は帝政ロシアの慣習から見て「モルドヴィン人、カルムイク人、ユダヤ人、バルト・ドイツ人、スウェーデン人による混血」と定義された。一族の慣わしにより、ウラジーミルはロシア正教会の洗礼を施された』。『父イリヤは物理学者としてだけでなく、著名な教育者(ドヴォリャンスキー学院の物理と数学の上席教師で、非ユークリッド幾何学の発見者の一人であるニコライ・ロバチェフスキーとは大学時代からの親友だった)でもあり、その学者としての活躍を皇帝に評価され』、一八八二年には『貴族に列せられた地元きっての名士だった。当然、息子のレーニンも貴族に属していた訳であるが、父は貴族の地位に甘んじず奴隷や貧困といった階級問題を息子達に伝える努力を惜しまなかった。父の影響により生じたレーニンら子供達の価値観はより貧しい階級や異民族への同情と、階級制度への嫌悪を育む事になる』。事実、早世した者を除くと、『レーニンを含むウリヤノフ兄弟姉妹』五人『全員が革命家の道を選んでいる』とある。以降の革命家人生はリンク先を辿って戴きたい。

 何故、華々しい「革命の英雄」の人生に入る前の出生部分だけを抽出したか。それは、この出生だけを見ても、それは「餘りに當り前の英雄」、余りに当たり前に我々の知っている神話や古伝承や無双の戦士の武勇伝にありそうな、貴種流離譚的で波乱万丈伝の幕開けに相応しい出自だと私は言いたいからである。

――レーニンはその出生からしても、全く後に「英雄」なんぞには凡そなりそうにもない「民衆」の名もなき一人なんぞではない――

ということを見たかったからである。

 私が問題にしたいのは、龍之介の謂う(「餘りに」+「當り前の」)+「英雄」という語の組み立て方、その組み合わされた「成語」が表現する言説(ディスクール)が、実は必ずしも、論理的な絶対的一義性を保持していないという点である。

 思い出して戴きたい、一緒に発表された二つ前の「譃」の第二章目のアフォリズムを。

   *

 一體になつた二つの觀念を採り、その接觸點を吟味すれば、諸君は如何に多數の譃に養はれてゐるかを發見するであらう。あらゆる成語はこの故に常に一つの問題である。

   *

これはまさにこの――「餘りに當り前の」+「英雄」――という二つの語句の「成語」に言えることではないか? ここで私が前の二語を「餘りに當り前の」に纏めたのは、「餘りに」という形容動詞或いはその副詞化したものは、修辞上、「當り前の」に係ると断じてよいと判断するからである。改稿したものは「英雄」の後が「である」と続くから、そこでは「餘りに」「(英雄)である」という係り受けを主張する方もいようが、それは、ない、のである。何故か? 初出を見ると、そこでは「英雄」の後は「なのに」である。これは「餘りに」「(である状態)な(こと)に」であるが、そうなるとこの「な」は名詞節を作ることになり、「であるという状態」の強調表現であることになって、修辞効果としては動詞「である」を強調しているとは言えないと私は思うからである。

 では「餘りに當り前の」とは如何なる意味かと考えてみる。

 するとこのアフォリズムには二つの読みがそこから引き出し得ることが解る。

 一つはフラットな素直な読みとしての、

   *

「レニン」という存在が、「餘りに當り前の」――あらゆる他者が――味方だろうが敵だろうが無関係な第三者であろうが――「英雄」だと絶対的に認めて賞賛するような――誰もが知っている神話や伝承や物語の中に出てくるところの――「英雄だつたこと」に「わたし」は「最も驚いた」。

   *

という命題である。ところが、一方で、

  *

「レニン」という存在が、「餘りに當り前の」――文字通りの古典的「英雄」然とした――伝説の輝かしい「英雄」の人生を生きたところの――誰彼が彼を讃える〈大衆の「英雄」〉や〈人民の「英雄」〉とは実は全く以って無縁な――立志伝中の「英雄」たるべくして波乱万丈の物語の「英雄」となった――現実から乖離した神話のような――反吐(へど)の出そうになる如き「英雄」然とした――「英雄だつたこと」に「わたし」は「最も驚いた」。

   *

という命題も挙げられる。或いはまた、それらとも異なる以下のような命題も引き出し得る。

   *

「レニン」という存在が、「餘りに當り前の」――古典的伝承的な貴種流離譚にしばしば立ち現われてくるところの悲劇の「英雄」――孤高にして不幸な死に至るところの数奇な伝説の――それは誰彼が彼を讃える〈大衆の「英雄」〉や〈人民の「英雄」〉とは実は全く以って無縁な――孤独な――「英雄だつたこと」に「わたし」は「最も驚いた」。

   *

私は今、このどれかだと明言することは出来ない。芥川龍之介にあの世で訊ねるまでは。然しながら、私は、個人的には、まず以って、

――ではない。その含意や匂わせはあるとしても、それは芥川龍之介のポーズ、演技に過ぎぬ。

と思う。そうして、

――には多少、そう思った部分もないとは言えぬが、しかし正直、芥川龍之介はレーニンに対して、ある種の共有的「天才」自覚としてのシンパシーを抱いていたと思われ、レーニンをここまで完膚なきまでに貶める気持ちは芥川龍之介には微塵もない。

と断言出来る(理由はこの後で私が引用する芥川龍之介の作品群を見られたい)。さればこそ、

――の感懐こそが芥川龍之介のこのアフォリズムの真意である可能性がすこぶる高い。

と考えている。

 以上の私の芥川龍之介のレーニン観に激しく疑義を言い出す諸輩の方々のために、以下を進呈しておくこととする。

 まず、死の年(昭和二(一九二七)年)に書かれたと推定されている芥川龍之介のレーニンを詠んだ詩篇群(「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」より)、そして、その詩の一篇が引かれている、芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の電子テクスト)の一節である。前者は昭和三(一九二八)年二月一日発行の雑誌『驢馬』に「僕の瑞威(スヰツツル)から(遺稿)」として掲載されたものの一部である(行の空きと詰りに関してのみ今回、新全集のそれで示したのでリンク先のそれとは少し異なる)。

   *

 

   レニン第一

君は僕等東洋人の一人だ。

 

君は僕等日本人の一人だ。

 

君は源の賴朝の息子だ。

 

君は――君は僕の中にもゐるのだ。

 

   レニン第二

君は恐らくは知らずにゐるだらう、

君がミイラになつたことを?

 

しかし君は知つてゐるだらう、

誰も超人は君のやうにミイラにならなければならぬことを?

(僕等の仲間の天才さへエヂプトの王の屍骸のやうに美しいミイラに變つてゐる。)

 

君は恐らくあきらめたであらう、

兎に角あらゆるミイラの中でも正直なミイラになつたことを?

  註 レニンの死体はミイラとなれり。

 

   レニン第三

誰よりも十戒を守つた君は

誰よりも十戒を破つた君だ。

 

誰よりも民衆を愛した君は

誰よりも民衆を輕蔑した君だ。

 

誰よりも理想に燃え上つた君は

誰よりも現實を知つてゐた君だ。

 

君は僕等の東洋が生んだ

草花の匀のする電氣機関車だ。

 

   *

 以下、「或阿呆の一生」の「三十三 英雄」。

   *

 

       三十三 英雄

 

 彼はヴォルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。氷河の懸つた山の上には禿鷹の影さへ見えなかつた。が、背の低い露西亞人(ロシアじん)が一人、執拗に山道を登りゞけてゐた。

 ヴォルテエルの家も夜になつた後(のち)、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。あの山道を登つて行つた露西亞人の姿を思ひ出しながら。………

 

 ――誰(たれ)よりも十戒を守つた君は

   誰よりも十戒を破つた君だ。

 

   誰よりも民衆を愛した君は

   誰よりも民衆を輕蔑した君だ。

 

   誰よりも理想に燃え上つた君は

   誰よりも現實を知つてゐた君だ。

 

   君は僕等の東洋が生んだ

   草花の匂のする電氣機關車だ。――

 

   *

 最後に。

 この解釈の多様性を意識的に孕ませたアフォリズムに対して、或いは、先に私が否定したことを蒸し返し、「これはやっぱり、体(てい)のいい、龍之介お得意の、どうにでも解釈可能な、事前に逃げ道を作っておく、小賢しい隠遁隠蔽目眩ましの術に過ぎない。」と、鬼首獲ったみたようにあげつらう輩もおるやも知れぬ。

 あなたに言おう。

「もっと「侏儒の言葉」を丁寧に読め。

 丁寧に読めば必ず、そんなさもしい根性は芥川龍之介にはないことが分かる。

 分からない奴は芥川龍之介を解らない人間であり、それは人生に於いてある意味では不幸であり、ある意味ではおめでたくも幸福であるのであって、それは確かに「あなたの幸福」では、ある。

 その代り、もう芥川龍之介を読むのはやめたが、よい。」

と。]

2016/06/04

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 譃(三章)

 

       譃

 

 我我は如何なる場合にも、我我の利益を擁護せぬものに「淸き一票」を投ずる筈はない。この「我我の利益」の代りに「天下の利益」を置き換へるのは全共和制度の譃である。この譃だけはソヴイエツトの治下にも消滅せぬものと思はなければならぬ。

 

       又

 

 一體になつた二つの觀念を採り、その接觸點を吟味すれば、諸君は如何に多數の譃に養はれてゐるかを發見するであらう。あらゆる成語はこの故に常に一つの問題である。

 

       又

 

 我我の社會に合理的外觀を與へるものは實はその不合理の――その餘りに甚しい不合理の爲ではないであらうか?

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年三月号『文藝春秋』巻頭に、前の「藝術」(四章)と「天才(五章)、後の「レニン」と合わせて全十三章で初出する。「譃」は「噓(嘘)」に同じい。芥川龍之介が好んで用いる用字である。

 

・「全共和制度」「全」とあるから、これは広義の「republic」、世襲による君主制に対して、主権が複数者にある政治形態の謂い。少数特権階級にのみ主権がある古形の貴族的共和制や寡頭的共和制体制などから、国家元首や人民の代表者を間接・直接に選出して主権が人民にあると謳い上げる民主的共和制体総て。

・「ソヴイエツトの治下」一九一七年のロシア革命を起源とするソビエト社会主義共和国連邦(Союз Советских Социалистических Республик)の正式な成立は一九二二年十二月三十日(一九九一年十二月二十六日(連邦建国から六十九年後)に崩壊)。未だ成立から二年三ヶ月後のことであることを認識された上で、読まれんことを望む。にしても、龍之介は既にして「共和制」、人民主義・社会主義・共産主義・民主主義等々に巣食うところの、官僚主義の家ダニの「譃」の臭いを、これ、既にして嗅ぎ取っていたようにも思われる。

・「成語」(せいご)とは辞書上からはまず、「古くから一纏まりで慣用的に用いられる言葉」、即ち、「諺」・「格言」等の成句の謂いが想起されるが、とすると、実は「侏儒の言葉」自体がそうした「譃」だという自己矛盾を引き起こすことにも成りかねない。それでも龍之介はほくそ笑むであろうが、しかし、ここは前文から、もっと厳密な言語学や論理学上の、二語以上が結合して一つの意味を表わす熟語や複合語などの謂いととるべきである。本来、成句になるはずがない、微妙に或いはひどく異なる属性を持った二対象が、容易にして安易に結合して語られる時、そこにはあらゆる「譃」が蔓延している、と彼は言いたいのであろう。私はこれは、ヘーゲルの弁証法への根本的な疑義の表明のように受け取れる。とすれば、それを継承しながら、怪しげな精神を除外した唯物論・マルクス主義に於いても、その疑義は十全に寧ろ、物質相手となることによって活性化し、指弾の矛先は完璧に向けられてあるとも考えられよう。そうすると、最終章の「我我の社會に合理的外觀を與へるものは實はその不合理」であるという意味が、少なくとも私には腑に落ちるのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 天才(五章)

 

       天才

 

 天才とは僅かに我我と一步を隔てたもののことである。只この一步を理解する爲には百里の半ばを九十九里とする超數學を知らなければならぬ。

 

       又

 

 天才とは僅かに我我と一步を隔てたもののことである。同時代は常にこの一步の千里であることを理解しない。後代は又この千里の一步であることに盲目である。同時代はその爲に天才を殺した。後代は又その爲に天才の前に香を焚いてゐる。

 

       又

 

 民衆も天才を認めることに吝かであるとは信じ難い。しかしその認めかたは常に頗る滑稽である。

 

       又

 

 天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心の好い名聲」を與へられることである。

 

       又

 

 耶蘇「我笛吹けども、汝等踊らず。」

 彼等「我等踊れども、汝足らはず。」

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年三月号『文藝春秋』巻頭に、前の「藝術」(四章)と、後の「譃」(三章)「レニン」と合わせて全十三章で初出する。天才芥川龍之介の傲岸なアフォリズムの炸裂である。しかし、私は何か、ちっとも不快でない(私は自らを「天才」だとは哀しいことに思っておらず、寧ろ「大衆」を代表する凡愚の一人と自認しているにも拘わらず、である)。特に第一章は「侏儒の言葉」のベスト・テンには入れたい章句である。

 

・「百里の半ばを九十九里とする」は実は芥川龍之介のオリジナルではない。「戦国策」(周の安王(紀元前四〇二年即位)から秦の始皇帝に至る約二百五十年間のいろいろな策士が諸国を遊説して主張した策略を十二ヶ国のい国別に分けて書いた歴史書。中国史の「戦国時代」という呼称は本書に由来する。前漢の学者劉向(りゅうきょう:紀元前七七年頃~紀元前六年)が当時の史料に基づいて編集してかく名づけた)の「秦策 上」に、

   *

詩云、行百里者、半於九十。此言末路之難。

(詩に云く、「百里を行く者は、九十を半ばとす。」と。此れ、末路の難きを言ふなり。)

   *

とあるのに基づく(「詩」とあるが、現行の「詩経」にはない。恐らくは原「詩経」にあって佚文となったものであろう。原典は、後の文(ここは現在、殆んど問題にされない)を見れば明らかな通り、最後の僅かな部分(ツメ)を美事に完遂することの難きを警したものであるが、「半於九十」の箇所は「九十に半ばす」という訓読も可能であり、その場合は、九十里まで来て、しかし「あぁ、やっと半分まで来た」という感慨を述べるとする解釈が実際にある。そうして、龍之介の謂いも、実はその後者の謂いを踏まえていて、実に面白い、確かな「超數學」と言える。私などは、有名な偽命題とされる「ゼノン(Zeno)のパラドックス」の「アキレスと亀」やら……相対性原理が現実化するブラック・ホールの入口の出来事……限りなく近づきながらも絶対に接しない漸近線を無限に拡大し続ける……そうした夢想に耽ってしまうのである。

・「香を焚いてゐる」神に祭り上げるように、その才能を人間扱いせず、訳も何も分かろうともせず、ただただ、無暗矢鱈に崇め奉っている。

・「吝かである」「さぶさかである」と読む。「吝か」とは「ためらうさま・思いきりの悪いさま」「物惜しみするさま。吝嗇(けち)な様子」の意。ここは前者。一般に現在では専ら「~にやぶさかでない」(~する努力を惜しむつもりはない・かえって喜んで~する気持ちがある)の形以外では使う人が激減し、またそれもまた、使わなくなりつつあるため、向後はここにかくも注を附さないと若い読者には意味が分からなくなることと思う。

・「我笛吹けども、汝等踊らず。」「マタイによる福音書」の第十一章第十六から十七節の(引用はウィキソース大正改訳を参考にした)、

   *

『われ、今の代を何に比へん、童子、市場に坐し、友を呼びて、「われら汝等のために笛吹きたれど、汝ら踊らず、歎きたれど、汝ら胸うたざりき」と言ふに似たり。』

   *

或いは、酷似した「ルカによる福音書」の第七章第三十一・三十二節に基づく。

・「彼等」前に注したように、龍之介の引いた箇所は、キリストが、素直に懇切に「まこと」を述べても、それを全く理解しようとしない、天邪鬼で愚かな「大衆」に対し、強い皮肉を込めて言った警喩の中の台詞内台詞である。

「我笛吹けども、汝等踊らず。」――「私が笛吹いて上げたのに、あなたたちは、誰も踊って呉れない。」

と強い批難の意を込めて言った章句の中の片句なのである。それを龍之介は大胆に截ち切って、これをイエスの肉声に還元させた、そうしてそれを捩じり皮肉る形で「彼等」なる集団の台詞、

「我等踊れども、汝足らはず。」――「俺たちが楽しく踊ってんのによ! て前(めえ)独りが、辛気臭く文句をほざくたぁ、どいういう了見でえ!」

を案出、対峙させてあるのである。本「天才」パートの流れから言えば、「彼等」は天才でない、天才を理解出来ない愚昧なる「大衆」の謂いであり、「耶蘇」(イエス・キリスト)はここでは「天才」の換喩となることになる。そうして「大衆」は読者であり、「耶蘇」は芥川龍之介その人なのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 藝術(四章)

 

       藝術

 

 畫力は三百年、書力は五百年、文章の力は千古無窮とは王世貞の言ふ所である。しかし敦煌の發掘品等に徴すれば、書畫は五百年を閲した後にも依然として力を保つてゐるらしい。のみならず文章も千古無窮に力を保つかどうかは疑問である。觀念も時の支配の外に超然としてゐることの出來るものではない。我我の祖先は「神」と言ふ言葉に衣冠束帶の人物を髣髴してゐた。しかし我我は同じ言葉に髯の長い西洋人を髣髴してゐる。これはひとり神に限らず、何ごとにも起り得るものと思はなければならぬ。

 

       又

 

 わたしはいつか東洲齋寫樂の似顏畫を見たことを覺えてゐる。その畫中の人物は綠いろの光琳波を描ゐた扇面を胸に開いてゐた。それは全體の色彩の效果を強めてゐるのに違ひなかつた。が、廓大鏡に覗いて見ると、綠いろをしてゐるのは綠靑を生じた金いろだつた。わたしはこの一枚の寫樂に美しさを感じたのは事實である。けれどもわたしの感じたのは寫樂の捉へた美しさと異つてゐたのも事實である。かう言ふ變化は文章の上にもやはり起るものと思はなければならぬ。

 

       又

 

 藝術も女と同じことである。最も美しく見える爲には一時代の精神的雰圍氣或は流行に包まれなければならぬ。

 

       又

 

 のみならず藝術は空間的にもやはり軛を負はされてゐる。一國民の藝術を愛する爲には一國民の生活を知らなければならぬ。東禪寺に浪士の襲擊を受けた英吉利の特命全權公使サア・ルサアフォオド・オルコツクは我我日本人の音樂にも騷音を感ずる許りだつた。彼の「日本に於ける三年間」はかう言ふ一節を含んでゐる。――「我我は坂を登る途中、ナイティンゲエルの聲に近い鶯の聲を耳にした。日本人は鶯に歌を教へたと言ふことである。それは若しほんたうとすれば、驚くべきことに違ひない。元來日本人は音樂と言ふものを自ら教へることも知らないのであるから。」(第二卷第二十九章)

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年三月号『文藝春秋』巻頭に、後の「天才」(五章)と、「譃」(三章)「レニン」と合わせて全十三章で初出する。

 

・「王世貞」(一五二六年~一五九〇年:異説あり)は「わうせいてい(おうせいてい)」と読む。明代の学者で政治家。李攀竜(りはんりょう)とともに古文復古運動を主導した古文辞派後七子(こうしちし:李攀竜・王世貞・謝榛(しゃしん)・宗臣・梁有誉・徐中行・呉国倫の七人)の一人。詩文のみならず、書画の学究者としても知られる。以下、ウィキの「王世貞」より引く((アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『字は元美、号は弇州山人(えんしゅうさんじん)。南直隸太倉(江蘇省)出身。官は刑部尚書に至った』。『書法・書論をよくし、特に評論家として有名である。万暦年間前半の二十年、文壇に君臨し、文は前漢、詩は盛唐を貴んだ。著に題跋として「弇州山人題跋」・「弇州書画題跋」、書論として「古今法書苑」(漢から明に至る書学関連文献の集大成)・「弇州山人四部稿」百七十四巻(四部とは賦・詩・文・説の四目)・同「続稿」二百七巻(賦・詩・文の三部)・「芸苑巵言」』(げいえんしげん)『(古今の書についての見解を述べたもの)など多数ある』。

・「畫力は三百年、書力は五百年、文章の力は千古無窮」芥川龍之介は「雜筆」(大正九(一九二〇)年)の「不朽」の条でも同じことを引いている(リンク先は私の電子テクスト。下線やぶちゃん)。

   *

 

      不朽

 

 人命に限りあればとて、命を粗末にして好いとは限らず。なる可く長生をしようとするのは、人各々の分別なり。藝術上の作品も何時かは亡ぶのに違ひなし。畫力は五百年、書力は八百年とは、王世貞既にこれを云ふ。されどなる可く長持ちのする作品を作らうと思ふのは、これ亦我々の隨意なり。かう思へば藝術の不朽を信ぜざると、後世に作品を殘さんとするとは、格別矛盾した考へにもあらざるべし。さらば如何なる作品が、古くならずにゐるかと云ふに、書や畫の事は知らざれども、文藝上の作品にては簡潔なる文體が長持ちのする事は事實なり。勿論文體即作品と云ふ理窟なければ、文體さへ然らばその作品が常に新なりとは云ふべからず。されど文體が作品の佳否に影響する限り、絢爛目を奪ふ如き文體が存外古くなる事は、殆疑なきが如し。ゴオテイエは今日讀むべからず。然れどもメリメエは日に新なり。これを我朝の文學に見るも、鷗外先生の短篇の如き、それらと同時に發表されし「冷笑」「うづまき」等の諸作に比ぶれば、今猶淸新の氣に富む事、昨日校正を濟まさせたと云ふとも、差支へなき位ならずや。ゾラは嘗文體を學ぶに、ヴオルテエルの簡を宗とせずして、ルツソオの華を宗とせしを歎き、彼自身の小説が早晩古くなるべきを豫言したる事ある由、善く己を知れりと云ふべし。されど前にも書きし通り、文體は作品のすべてにあらず。文體の如何を超越したる所に、作品の永續性を求むれば、やはりその深さに歸着するならん。「凡そ事物の能く久遠に垂るる者は、(中略)切實の體あるを要す」(芥舟學畫編)とは、文藝の上にも確論だと思ふ。(十月六日)

 

   *

また、王の名は出さずに、この後の大正十五(一九二六)年一月四日付『大阪毎日新聞』に掲載した「文章と言葉と」の「言葉」でもこのアフォリズムに酷似したことを言っている(リンク先は私の電子テクスト。下線やぶちゃん)。

   *

 

      言葉

 

 五十年前の日本人は「神」といふ言葉を聞いた時、大抵みづらに結ひ、首のまはりに勾玉をかけた男女の姿が感じたものである。しかし今日の日本人は――少くとも今日の靑年は大抵長ながと顋髯をのばした西洋人を感じてゐるらしい。言葉は同じ「神」である。が、心に浮かぶ姿はこの位すでに變遷してゐる。

 

       なほ見たし花に明け行く神の顏(葛城山)

 

 僕はいつか小宮さんとかういふ芭蕉の句を論じあつた。子規居士の考へる所によれば、この句は諧謔を弄したものである。僕もその説に異存はない。しかし小宮さんはどうしても莊嚴な句だと主張してゐた。畫力は五百年、書力は八百年に盡きるさうである。文章の力の盡きるのは何百年位かかるものであらう?

 

   *

岩波新全集の山田俊治氏の注では、『引用の出典は、年数は相異するが「芸苑巵言付録四」冒頭の』「力可五百年至八百年而神去千年絶矣書力可八百年至千年而神去千二百年絶矣唯於文章更萬古而長新」(中文サイトで私が独自に本文を確認した)

『によると思われる』とされる。調べてみると、明の謝肇淛(しゃちょうせい)の「五雜俎」(十六巻からなる随筆集であるが、殆んど百科全書的内容を持ち、日本では江戸時代に愛読された。書名は五色の糸で撚(よ)った組紐のこと)にも、

「書力可千年、畫力可五百年。書之傳也以臨拓、屢臨拓而書之意盡失。矣畫之傳也以裝潢、屢裝潢而畫之神盡去矣。」

という似たような表現を発見出来る。

・「敦煌」「とんくわう(とんこう)」(中国語を音写すると「トゥンホワン」)は現在の中国甘粛省北西部にある敦煌市(とんこうし)で、かつてシルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市。別名、沙州。紀元前二世紀、漢が西域経営のために敦煌郡を置いて以来、中国北西端の軍事・交通の要衝となった。近隣にある莫高(ばっこう)窟と、そこから出た敦煌文書で知られる。私は訪れたことがあり、三日間に亙って親しく見学した経験があるので、これ以上は注さないこととする。

・「髯の長い西洋人」言わずもがな、イエス・キリスト。

・「東洲齋寫樂」「とうしうさいしやらく(とうしゅうさいしゃらく)」(生没年未詳)は御存知、というか誰もその実体を知らぬ謎の江戸後期の浮世絵師である。東洲斎は号。徳島藩主蜂須賀氏のお抱え能役者ともされるが、正体は未だに不明である。参照した小学館「大辞泉」によれば、『役者似顔絵や相撲絵を描いたが、特に役者の個性豊かな顔を誇張的な描写で表し、大首絵に本領を発揮。現存する約』百四十点の作品の制作期間は』、寛政六(一七九四)年五月からの僅か約十ヶ月間と『推定され』ているとある。僅かな事蹟や正体の仮説はウィキの「東洲斎写楽」に詳しい。なお、ここで龍之介が語っている今は緑色に見える扇を胸のところで開いた絵となれば、これはもう、写楽の初期の作品の一枚として知られる歌舞伎役者三代目澤村宗十郎(宝暦三(一七五三)年~享和元(一八〇一)年)が演じた寛政六年五月都座上演の「花菖蒲文禄曽我」の「大岸蔵人」と考えてよい(岩波新全集の山田氏も同じく推定同定されている。同ウィキにあるパブリック・ドメインの当該の絵を以下に掲げておく。

 

Sawamura_sojuro_iii_as_ogishi_kuran

 

・「光琳波」「大辞泉」は「くわうりんなみ(こうりんなみ)」と読んでいる。江戸中期の名画家で琳派の祖尾形光琳(万治元(一六五八)年~享保元(一七一六)年))が創始した、装飾的な波の図柄。但し、筑摩全集類聚版は『くわうりんは』(こうりんは)とルビする。個人的には「琳派」の発音と紛らわしく、朗読として聴いて分かり易い「なみ」がよい。

・「廓大鏡」「くわくだいきやう(かくだいきょう)。拡大鏡に同じい。虫眼鏡。

・「綠靑」「ろくしやう(ろくしょう)」。銅の表面にできる緑色の錆(さび)。

・「軛」「くびき」。自由を束縛するもの(原義は、牛車(ぎっしゃ)や馬車の轅(ながえ:「長柄」から。馬車・牛車などの前に長く突き出させた二本の棒)の先端につけ、車を引かせるために牛馬の頸の後ろに掛けて、同時に牛馬を制御する横木のこと)。

・「東禪寺」ウィキの「東禅寺(東京都港区)」から引く。『東京都港区高輪にある臨済宗妙心寺派の別格本山。詳名は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺』。寺名は開基である日向国飫肥(おび)藩(現在の宮崎県日南市の全域および宮崎市南部)二代藩主伊東祐慶(すけのり)の『法名(東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士)に由来する。幕末に日本初のイギリス公使館が置かれていた』。慶長一四(一六〇九)年、『伊東祐慶が嶺南崇六』(れいなんすうろく)『を開山に招聘して、現在の東京都港区赤坂に創建』、寛永一三(一六三六)年、現在地に移転した。『眼前に東京湾が広がることから海上禅林とも呼ばれた』。『幕末の安政年間』(一八五五年~一八六〇年)以降、『当寺は西洋人用の宿舎に割り当てられ』。安政六(一八五九)年には『日本初のイギリス公使館が当寺に置かれ、公使ラザフォード・オールコック』(次注参照)『が駐在した』が、文久元(一八六一)年七月五日(グレゴリオ暦五月二十八日)、『攘夷派の常陸水戸藩浪士によって寺が襲撃される(第一次東禅寺事件)。オールコックは難を逃れたが、書記官らが負傷し、水戸藩浪士、警備兵の双方に死傷者が出た』。翌文久二年『には護衛役の信濃松本藩藩士伊藤軍兵衛によって再び襲撃され、イギリス人水兵』二名が『殺害された(第二次東禅寺事件)』とある。次の注も参照のこと。

・「特命全權公使サア・ルサアフォオド・オルコツク」イギリスの医師で外交官サー・ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock 一八〇九年~一八九七年)。清国駐在領事。初代駐日総領事・同公使を務めている。ウィキの「ラザフォード・オールコック」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『ロンドン西郊のイーリングで医師トーマス・オールコックの息子として生まれた。母親が早く亡くなったため、イングランド北部の親戚の家に預けられ、十五歳の時に父の元に戻り、医学の勉強を始めた。最初ウェストミンスター病院とウェストミンスター眼科病院で一年間』、『教育を受けた後、一八二八年までパリに留学し、解剖学、化学、自然史を修め、またフランス語だけでなく、イタリア語も身につけた。勉学の傍ら、彫刻家のアトリエに通い、彫刻の手ほどきを受けている。ロンドンに戻った後、上の二病院で研修医として二年間過ごし、一八三〇年に王立外科学校から外科の開業医としての免許を得た』。『一九三二年からの四年間はイギリス軍の軍医として、戦乱のイベリア半島に赴任している。ロンドンに戻った後、内務省解剖検査官などをしたが、外務省の要請により、イベリアでの外交問題処理のため、再びスペイン、ポルトガルに赴任した。しかし、イベリアでの過労がたたってリウマチに侵され、両手の親指が全く利かなくなった。このため、外科医として将来を断念した』。その後、外務省に入って、外交官に転身したが、この頃の『イギリスは一八四〇年からのアヘン戦争で清を破って海禁を解き、南京条約により清の五港を開港させていた。この極東情勢に興味を持った』『オールコックは、一八四四年に福州領事に任命されると、しばらくアモイで過ごした後、条約港福州での領事業務に携わった。不平等条約で規定された租界管理や領事裁判権などの複雑な業務で成果を挙げ、一八四六年に上海領事、一八五五年に広州領事に転じ、十五年の長きにわたって中国に在勤した。この間、福州、上海における租界の発展に尽力した。オールコックは市場開拓のため清との再戦論を唱え、上海領事だった頃には首相パーマストン子爵に清に武力行使をするよう進言する書簡を送り、アロー戦争(一八五六年)を引き起こした』。安政五(一八五八)年、『エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースが訪日して日英修好通商条約が締結され、翌一八五九年七月一日(安政六年六月二日)をもって長崎、神奈川、箱館の三港が開港することが約束された。オールコックは極東在勤のベテランとしての手腕を買われ』、遡って『一八五九年三月一日付けで初代駐日総領事に任命され』ている。『五月三日にこの命令を香港で受け取ると、五月十六日には香港を立ち、上海』『経由で六月四日(五月三日)に長崎に到着した。日英修好通商条約の批准書交換を七月一日(六月二日)以前に行うように命令されていたため、長崎を六月二十日(五月二十日)に出発し、六月二十六日(五月二十六日)に品川沖に到着し、高輪の東禅寺に入った』。『オールコックは、七月一日(六月二日)に開港予定地である神奈川の視察に赴き、七月六日(六月七日)、オールコックは東禅寺に暫定のイギリス総領事館を開き』、『軍馬売却を幕府に要請するなどした。幕府側はオールコックらの到着を事前に知らされていなかったが、交渉は順調に進み、七月十一日(六月十二日)に一行は江戸城に登城、批准書の交換が行われた。なお、神奈川を視察した際に、対岸の横浜に居留地が建ち、そこが実際の開港地』『であることを知らされる。オールコックは実利的な面からは横浜が有利と認めながらも、条約遵守を要求し、結局領事館を神奈川の浄瀧寺に設置することで妥協した』。『一八五九年九月から十月にかけて、もう一つの開港地である函館へ旅行。十二月二十三日(安政六年十一月三十日)、特命全権公使に昇格。また一八六〇年九月十一日(万延元年七月二十七日)には富士山村山口登山道を用いて富士山への登山を行ったが(途中村山三坊に宿泊)、この登頂は記録の残る中では外国人として初めてのことであった』。『その帰路、熱海に旅行』している。『彼は日本の農村の様子について、こう書き残している』。

――『このよく耕された谷間の土地で、人々が、幸せに満ちた良い暮らしをしているのを見ると、これが圧政に苦しみ過酷な税金を取り立てられて苦しんでいる場所だとはとても信じられない。ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民はいないし、またこれほど穏やかで実りの多い土地もないと思う』。(オールコック「大君の都」(The Capital of the Tycoon: a Narrative of a Three Years' Residence in Japan  一八六三年刊)――

ところが、『一八六一年一月十四日(万延元年十二月四日)、米国駐日公使タウンゼント・ハリスの通訳を務めていたヘンリー・ヒュースケンが攘夷派に襲われ、翌日死去』、『オールコックは外国人の安全を保証できない幕府への抗議として、外交団が横浜へ引き移ることを提案したが、ハリスはこれに反対した。結局オールコックはフランス公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールと共に、横浜へ移った。江戸へ戻ったのは一ヵ月後であったが』、『この頃からハリスとの関係が悪化し始めた』。『一八六一年四月下旬からモース事件の後処理のため香港に滞在した。この間にロシア軍艦対馬占領事件の報告を受け、英国東インド艦隊司令官ジェームズ・ホープと協議し、軍艦二隻を対馬に派遣して偵察を行わせた。オールコックは五月後半に長崎に到着、六月一日(四月二十三日)に長崎を出発、瀬戸内海および陸路を通る三十四日の旅行をし、七月四日(文久元年五月二十七日)に江戸に戻った。翌七月五日(五月二十八日)、イギリス公使館を攘夷派浪士十四名が襲撃した。オールコックは無事であったが、一等書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷した(第一次東禅寺事件)。これを機にイギリス水兵の公使館駐屯が認められ、イギリス艦隊の軍艦が横浜に常駐するようになった。八月十三日(文久元年七月八日)、艦隊を率いてホープが来日すると、翌八月十四日(七月九日)、オールコックはホープと共にイギリス艦隊の圧力による対馬のロシア軍艦退去を幕府に提案し、幕府はこれを受け入れた。九月十九日(八月十五日)、ロシア軍艦は対馬から退去した』。『この八月十四日(七月九日)および翌十五日(七月十日)に行われた会談は、オールコック、ホープ、オリファント(第一次東禅寺事件で負傷し帰国予定)、老中・安藤信正、若年寄・酒井忠眦に通訳を加えただけの秘密会談であった。オールコックはここで幕府権力の低下という実態を知った。一八六〇年』(万延元年)『頃より、幕府は新潟、兵庫および江戸、大坂の開港開市延期を求めていたが、オールコックはこれを断固拒否していた。しかし、この会談の後、オールコックは開港開市延期の必要性を理解し、幕府が派遣予定の遣欧使節を強力にサポートする。オールコックはこの遣欧使節が』、『一八六二年五月一日から開催予定のロンドン万国博覧会に招待客として参加できるよう手配していたが、それに加えて自身の休暇帰国を利用して、直接英国政府に開港開市延期を訴えることとした。使節一行は一八六二年一月二十一日(文久元年十二月二十二日)日本を立ったが、オールコックは同行せず、三月二十三日(文久二年二月二十三日)に日本を離れ、後を追った。帰国直前の三月十六・十七日(二月十六・十七日)の両日、オールコックは老中首座・久世広周と秘密会談を持ち(安藤信正は坂下門外の変』(文久二年一月十五日(一八六二年二月十三日)に江戸城坂下門外に於いて尊攘派の水戸浪士六名が老中安藤信正を襲撃した事件)『で負傷)より詳しく日本の情勢を理解した。五月三十日にロンドンに着き、六月六日、五年間の開港開市延期を認めるロンドン覚書が調印された』。帰国中、彼はサーの称号を得、先に引いた自著「大君の都」を出版する手配を終えてもいる(同書は翌年にロンドンで出版された)。『この著述で、日本が美しく国民の清潔で豊かな暮らしぶりを詳述する一方で、江戸市中での体験から「ペルシャ王クセルクセス』(クセルクセス一世 Xerxēs I 紀元前五一九年~紀元前四六五年:ペルシア帝国の王(在位:紀元前四八六年~紀元前四六五年)。父ダレイオス一世の末年に起こったエジプトの反乱を平定して間もなく、バビロニアの反乱に直面するも鎮圧、しかしその後も内乱が相次ぎ、父の遺志を継いだギリシア遠征は漸く紀元前四八〇年に実施された。王自ら兵を率いて進軍、アテナイまで達したものの、サラミスの海戦の敗北を知って帰国、遠征は失敗に終わった(但し、ペルシア戦争自体は息子のアルタクセルクセス一世(Artaxerxes I)の代まで継続した)。最後は側近に暗殺されている。ここは主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)『の軍隊のような大軍でも編成しないかぎり、将軍の居城のある町の中心部をたとえ占領できたとしても、広大すぎるし』、『敵対心をもった住人のもとでは安全に確保し』、『持ちこたえられるヨーロッパの軍人はいないだろう」と書いた上で、日本人について』「大君の都」で『以下のように綴っている』。

――『彼らは偶像崇拝者であり、異教徒であり、畜生のように神を信じることなく死ぬ、呪われた永劫の罰を受ける者たちである。畜生も信仰は持たず、死後のより良い暮らしへの希望もなく、くたばっていくのだ。詩人と、思想家と、政治家と、才能に恵まれた芸術家からなる民族の一員である我々と比べて、日本人は劣等民族である』。――

『約二年の休暇の後、一八六四年(元治元年)春に日本に帰任したが、日本の様相は一変していた。帰国中に生麦事件とそれに対する報復としての薩英戦争が発生、長州藩による外国船砲撃のため、関門海峡は航行不能となるなど、日本国内の攘夷的傾向が強くなっていた。幕府も、攘夷派懐柔のためにヨーロッパに横浜鎖港談判使節団を派遣していた』。『オールコックはこれを打破しようとして、四国艦隊下関砲撃事件では主導的役割を果たすが、これを認めなかった外相ジョン・ラッセルにより帰国が命じられ』、『駐日公使はかつて清で彼の部下だったハリー・パークス』(Sir Harry Smith Parkes 一八二八年~一八八五年)に引き継がれた。その後、『オールコックの外交政策が至当であったことが認められたため、日本への帰任を要請するが』、拒否されている。『しかし、一八六五年には当時のアジア駐在外交官の中では最も地位が高いとされた清国駐在公使に任じられ、一八六九年まで北京に在任している。同年に外交官を引退し、その後は王立地理学会や政府委員会委員などを歴任』、一八九七年(明治三十年)にロンドンで死去している。

・「日本に於ける三年間」先の注に引いてある、オールコックの「大君の都」(The Capital of the Tycoon: a Narrative of a Three Years' Residence in Japan  一八六三年刊)のこと(筑摩全集類聚版脚注と新潮文庫の神田由美子氏注は出版を『ニューヨーク』とするが、原本画像を確認したが、これは前注引用に示した通り、「ロンドン」の誤りである)。

・「ナイティンゲエル」(英語:Nightingale)は鳥綱スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ(小夜啼鳥)Luscinia megarhynchos。「西洋のウグイス」称せられるほどに鳴き声が美しく、和名でもそのまま「ナイチンゲール」の名の方が通りがよい。ウィキの「サヨナキドリによれば、『ヨーロッパ中央部、南部、地中海沿岸と中近東からアフガニスタンまで分布する。ヨーロッパで繁殖した個体は冬季アフリカ南部に渡りを』行って越冬する、とある。「世界大百科事典」の谷口幸男の解説によると(コンマを読点に代えた)、『中世ドイツの抒情詩で、夜の歌姫ナイチンゲールは愛する若い男女の恋の点景をなしているが、透明で美しい歌声をもつこの恋の使者は古来多くの詩や民謡にうたわれてきた。したがって』、『この鳥をめぐる伝説も多い。ギリシア神話ではフィロメラ』(Philomēla:アテナイ王パンディオンPandiōnの娘)或いはプロクネ(Proknēフィロメラの姉。トラキア王テレウスTēreusに嫁いだ)が『ナイチンゲールに姿を変えられたという。北欧神話では、フレイヤ』(Freja:美・愛・豊饒・戦い、そして魔法や死を守護する太母。女性の美徳と悪徳を全て内包した女神で非常に美しく、自由奔放な性格で欲望のまま行動し、性的にも奔放とされる。ここはウィキの「フレイヤに拠った)『が長旅に出た夫を慕って探し回ったとき、哀愁をおびた歌をうたって慰めたのは彼女のお気に入りのこの鳥だったという。愛の鳥としてこの鳥との出会いが吉兆とされる一方、民間信仰では〈墓場鳥〉と称されて、死と結びつけられている。南ドイツでは病床にある病人にナイチンゲールは歌をうたいながらおだやかな死をもたらすとか、窓をつついて異国で死んだ者のことを告げ、家の近くで鳴いて、その家の凶事を知らせるといわれる』とある。鳴き声姿確認出来 wildaboutimages をリンクしておく。

・「鶯」スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 廣告 追加廣告 再追加廣告

 

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 「侏儒の言葉」十二月號の「佐佐木茂索君の爲に」は佐佐木君を貶したのではありません。佐佐木君を認めない批評家を嘲つたものであります。かう言ふことを廣告するのは「文藝春秋」の讀者の頭腦を輕蔑することになるのかも知れません。しかし實際或批評家は佐佐木君を貶したものと思ひこんでゐたさうであります。且又この批評家の亞流も少くないやうに聞き及びました。その爲に一言廣告します。尤もこれを公にするのはわたくしの發意ではありません。實は先輩里見弴君の煽動によつた結果であります。どうかこの廣告に憤る讀者は里見君に非難を加へて下さい。「侏儒の言葉」の作者。

 

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 前掲の廣告中、「里見君に非難を加へて下さい」と言つたのは勿論わたしの常談であります。實際は非難を加へずともよろしい。わたしは或批評家の代表する一團の天才に敬服した餘り、どうも多少ふだんよりも神經質になつたやうであります。同上

 

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 前掲の追加廣告中、「或批評家の代表する一團の天才に敬服した」と言ふのは勿論反語と言ふものであります。同上

 

[やぶちゃん注:以上の三章は先の大正一三(一九二四)年十二月号『文藝春秋』巻頭に載った「批評學――佐佐木茂索君に――」についての「侏儒の言葉」内の入れ子にしたメタ・パロディ・アフォリズム三章(芥川龍之介らしい趣向によって、アイロニーが章ごとに多重化していくのが面白い)であるが、不思議なことに、この初出が――分からない。単行本「侏儒の言葉」(私は所持していないので国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認)の後記も見たが、本三章に言及していない。岩波旧全集の後記に載る『文藝春秋』掲載内訳一覧にはこの三つは載らず、それについての注記もないのである。諸注もそれについて触れていない。私の所持する芥川龍之介の諸評論も管見した限りでは、これについて触れたものはない(但し、管見であって、所持する総ての芥川龍之介論を確認したわけではない)。或いは新全集の後記はそのことに触れているのかも知れぬが、私は不幸にして新全集の「侏儒の言葉」を所収する巻を所持していない(なお、私が引用している山田俊治氏の注はそこだけをコピーして所持しているものを用いている)。不審極まりなく、気持ちが悪い。何方か、これに答えられる方からの御教授を切にお願い申し上げるものである。『文藝春秋』の大正一四(一九二五)年一月号に載ったものであることは内容から見て確実ではある。

 

・「貶した」「けなした」。

・「嘲つた」「あざけつた(ざけった)」。

・「一言」筑摩全集類聚版は『いちごん』とルビする。それでよいと私も思う。

・「公」筑摩全集類聚版は『おほやけ』(おおやけ)とルビする。同前。

・「或批評家」岩波新全集の山田俊治氏注では『不詳』とする。

・「里見弴」名前と事蹟は知っているが、二、三作に眼を通しただけで、全く興味がない作家なので、平凡社「世界大百科事典」の西垣勤氏の解説を主参考にして記載する。里見弴(とん 明治二一(一八八八)年~昭和五八(一九八三)年)は横浜生れの作家(芥川龍之介より四歳年上)。本名山内英夫。小説家有島武郎、画家有島生馬は実兄。東京帝国大学英文科中退。明治四三(一九一〇)年に武者小路実篤・志賀直哉らと『白樺』を創刊、大正二(一九一三)年の「君と私と」等を発表。大阪での芸者との恋愛、結婚を清新に描いた「晩い初恋」(大正四(一九一五)年や「妻を買ふ経験」(大正六(一九一七)年)、及び、志賀らとの青春の彷徨を描いた「善心悪心」(大正五(一九一六)年)によって文壇にデビューした。大正八(一九一九)年には吉井勇・久米正雄らと『人間』を創刊。長編小説にも手を染め、「今年竹」(大正八(一九一九)年~大正一五(一九二六)年)・「多情仏心」(大正一一(一九二二)年から翌年)などを書いた。後者は彼の〈まごころ哲学〉の体現として彼の代表作とされる。「安城家の兄弟」(昭和二(一九二七)年~昭和一六(一九三一)年)も自伝的小説として成功作であった。戦後は「見事な醜聞」(昭和二二(一九四七)年・「五代の民」昭和四五(一九七〇)年)など、流暢な文体によって多様な人間模様を描出している。昭和三六(一九六一)年に書かれた「極楽とんぼ」は、自己に似た人物の〈極楽とんぼ〉振りを軽妙に楽しげに描き切った最後の秀作である。若き日に泉鏡花を偏愛したことや、彼と親しい作家連で芥川龍之介とクロスする人物も多いこと、ここでフル・ネームの「君」づけ記していること、龍之介最晩年の改造社円本全集(「現代日本文学全集」)の宣伝のための東北・北海道の講演旅行では同伴したことなどから、接点は多かったとは思われるものの、龍之介の里見宛書簡は最晩年の三通しか現存せず、その内容を見ても(二通は里見からの献本への礼で最後のものは、改造社宣伝班との講演旅行を終えて里美と別れた後、個人の講演に行った先である新潟からの戯文調の短文に句を添えた絵葉書である)、これ、必ずしも親しかったわけではないようで、少なくとも龍之介の方は親しみを感じていたとは私には思われない。

・「常談」冗談に同じい。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 偉大

 

       偉大

 

 民衆は人格や事業の偉大に籠絡されることを愛するものである。が、偉大に直面することは有史以來愛したことはない。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、前の『「虹霓關」を見て』「經驗」「アキレス」「藝術家の幸福」「好人物」(二章)「罪」「桃李」と合わせて全九章で初出する。このアフォリズムの核心は能動態と受動態の表現辞にあるように思われる。表現だけを見ると、「有史以來」の Homo sapiens たる「民衆」は、物理的な見かけの「人格や事業の偉大に籠絡されることを愛する」のであって、真に「偉大に直面すること」に就いては、これを一度として「愛したことはない」、愛せない、そういう場面を避け続けてきた、ということを意味する。しかし、

 

「愛する」という動態は感性上の感懐であって理性上の意志ではない。

「籠絡」するという動態は冷徹巧緻な理性の産物である。

 

ということは、何を意味するか?

 

――「民衆」即ち――Homo sapiens たる人間は「籠絡される」だけの存在である。

――「籠絡される」ことはあっても――例えば、「偉大」だとされる対象に「直面」し、その実体を冷静に分析把握し、己れのオリジナルな知性によってその実相を見極めた上で――それを「偉大」と判断するか偽物と判断するか――さらにはそれを、真の「偉大」と認めつつも、それを拒否し、敢えて自ら荒野へ向かうか――ということを、選ぶ能力を持っていない。

 

ということを意味しているのではないか?  即ち、

 

――人間には「自由意志」は存在しない。

 

という命題である。

 私はこのアフォリズムをそのようなものとして、読む。

 

・「籠絡」「ろうらく」。自分の手の中に対象を包み丸め籠めること。巧みに手なずけて言い包(くる)め、自分の思い通りに操ること。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 桃李

 

       桃李

 

「桃李言はざれども、下自ら蹊を成す」とは確かに知者の言である。尤も「桃李言はざれども」ではない。實は「桃李言はざれば」である。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、前の『「虹霓關」を見て』「經驗」「アキレス」「藝術家の幸福」「好人物」(二章)「罪」と、後の「偉大」と合わせて全九章で初出する。なお、下線太字とした「ざれば」は、原文では傍点「丶」である。

 

・「桃李言はざれども、下自ら蹊を成す」「たうり(とうり)ものいはざれども、したおのづからみちをなす」と訓ずる。「史記」の「李將軍列傳」の末にある司馬遷の賛の前の部分、

   *

○原文

太史公曰、傳曰、「其身正、不令而行、其身不正、雖令不從。」。其李将軍之謂也。余睹李將軍、悛悛如鄙人、口不能道辭。及死之日、天下知與不知皆爲盡哀。彼其忠実心、誠信於士大夫也。諺曰、「桃李不言、下自成蹊。」。此言雖小、可以諭大也。

○やぶちゃんの書き下し文

太史公曰く、『伝に曰く、「其の身、正しければ、令せずして行はれ、其の身、正しからざれば、令すと雖も從はず。」と。其れ、李將軍の謂ひなり。余、李將軍を睹(み)たるに俊俊(しゆんしゆんと)して鄙人(ひじん)の如く、口に道辭(だうじ)する能はず。死するの日に及び、天下の知ると知らざると、皆、爲(ため)に盡(ことごと)く哀しむ。彼(か)の其の忠實の心、誠に士大夫に信ぜられしなり。諺に曰く、「桃李、言はざれども、下、自ずから蹊を成す。」と。此の言は小なりと雖も、以つて大いに諭(たと)ふべきなり。』と。

   *

この「李將軍」は敵の匈奴から「飛将軍」と讃称されたことで知られる前漢の名将李広(?~紀元前一一九年)。文帝・景帝・武帝に仕え、武勇に優れていたが、戦功を認められることなく、自刎して亡くなった。司馬遷(紀元前一四五~一三五年~紀元前八七~八六年?)よりも少し前の人である。「悛悛」は慎み深いこと。「鄙人」は無骨な田舎者。「道辭」は「道」「辭」孰れも「述べる」の意。「諭(たと)ふべきなり」「諭」は「喩」に同じい。「寓意(の教訓)とすべきでものである」の意。ウィキのには、「逸話」の項には、『李広は清廉な人物であり、泉を発見すれば部下を先に飲ませ、食事も下士官と共にし、全員が食事を始めるまで自分の分には手をつけなかったという』。彼に纏わる今一つの諺「虎と見て石に立つ矢のためしあり」について、『李広は虎に母を食べられて、虎に似た石を射たところ、その矢は羽ぶくらまでも射通した。のちに石と分かってからは矢の立つことがなく、のちに石虎将軍といわれた。このことを揚子雲』(揚雄(紀元前五三年~紀元後一八年)は前漢末の文人。学者としても辞賦作家としても非常に優れていた)『にある人が話したところ、子雲は「至誠なれば則ち金石、為に開く」(誠心誠意で物事を行えば金石をも貫き通すことができる)と言った(西京雑記)』(引用書は「せいけいざっき」と読み、前漢の出来事に関する逸話を集めた書物。「抱朴子」の作者として有名な晋の葛洪(かっこう)撰ともされるが、不詳。内容は随筆というよりも小説に近い)。本故事成句は一般に現在でも、「桃や李(すもも)は何も言わないけれども、花や実を慕って人々が多く集まる故に、その下には自然、道が出来る、と言う喩えから、まことの徳望のある人の下(もと)へは、その人が殊更に何主張・宣明などをせずとも、多くの誠意を持った人々が自然、集まってくるものである、という比喩として通用理解されている

・『實は「桃李言はざれば」である』老婆心乍ら、「桃李」に迷わされて「實は」を「みは」などと読んではいけない。「じつは」。冗談はさて置き、本句の、前の注で示した辞書上の意味を龍之介は「侏儒」的パラドックスで上手く捻って、

 

――この我が邦の訓読は真意に於いて誤つてゐる。此處は「桃李言はざれども」と讀むのべきではなく、實は「桃李言はざれば」と讀まねばならぬ。これは『自(みづか)ら「ここに桃李がある」と喋ることは出來ないけれども』の謂ひなどではない。『敢へて自ら「ここに桃李がある」とか何とか辯舌を弄することをせぬからこそ』の謂ひである。

 

という彼得意のオリジナル解に転じたのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  罪

 

       罪

 

 「その罪を憎んでその人を憎まず」とは必しも行ふに難いことではない。大抵の子は大抵の親にちやんとこの格言を實行してゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、前の『「虹霓關」を見て』「經驗」「アキレス」「藝術家の幸福」「好人物」(二章)と、後の「桃李」「偉大」と合わせて全九章で初出する。「侏儒の言葉」の中の優れた真理命題の一つである。

 

・「その罪を憎んでその人を憎まず」この諺の濫觴を考証したものでは、yasukichi 氏のブログ「日々不穏なり」(私のブログの「日々の迷走」に親和的でいい感じだ)の『「罪を憎んで人を憎まず」考』かなりディグしていて素晴らしい。その記載を参考にして考えてみると、東洋の淵源は「孔叢子(くぞうし/こうそうし)」(全三巻から成る孔子とその弟子の言行を書き記したもので、漢の孔鮒(子魚)編とされるが、後世の偽作)とあり、調べてみると、同書の「刑論」の中に、

   *

「書」曰、「若保赤子。」子張問曰、「聽訟可以若此乎。」孔子曰、「可哉。古之聽訟者惡其意、不惡其人、求所以生之、不得其所以生、乃刑之。君必與眾共焉、愛民而重棄之也。今之聽訟者不惡其意、而惡其人、求所以殺。是反古之道也。」

   *

とあることが分かった。さても、この下線部の前後を訓じようなら、

「古へ訟へを聽く者、其の意を惡むも、其の人を惡まず、之れを生かさんとする所以を求め、其の生かさんとする所以を得ざれば、乃(すなは)ち之れを刑す。」

であろう。即ちここは、

「古えの訴訟を裁く者は、その犯意を憎むも、その罪を犯した人間を憎もうとはせず、その罪人をなるべく生かそうとするような理由を(動機や犯意や犯罪行為の中に)求めようとし、しかもそうした生かしておいてやろうと思えるような理由が全く見つからなければ、初めてそこで死刑に処した」

の謂いである。即ち、この「其の意を惡むも、其の人を惡まず」の真意は、

――犯人を罰する際には、何よりも動機やその背景及び犯行手段の実際にこそ目を向けて裁くべきであって、社会秩序を乱す犯罪は憎んでも、一律にそうした犯罪を犯した人間を人非人と断じて処罰すべきではない。

と言っていると読めるのである。即ち、これは、

――犯罪を裁定する場合の唯一の重要性は、可能な限りの客観性の保持にこそある、それしかない。

という人が人を裁く司法の絶対原理を述べているものなのである。ところが、現行の「罪を憎んでその人を憎まず」の辞書的な意味合いは、

――犯した罪は憎むべきだが、その人間がその罪を犯すまでにはそれなりの事情もあったのであるから、罪を犯したその人自身まで憎んではいけない。

であって、本来の初出の意義とは、実は異なることに気づくのである。yasukichi 氏のブログでは次に、この後者の認識法について、『キリスト教の教えにも同様のものは存在する』、『英語の慣用句としても『「Condemn the offense, but pity the offender」というのがある』(英文は「罪人を憎むな、罪を憎め」の意)と記される。このキリスト教のそれとは、例えば「ヨハネによる福音書」第八章第一節から第十一節のシークエンス(ウィキソースの「ヨハネ傳福音書文語訳を使用したが、読み易くするために章節番号を省略、字配を変え、句読点も追加し、一部の漢字を正字化した)、

   *

 イエス、オリブ山にゆき給ふ。夜明ごろ、また宮に入りしに、民みな御許に來りたれば、坐して教へ給ふ。ここに學者・パリサイ人ら、姦淫のとき捕へられたる女を連れきたり、眞中に立ててイエスに言ふ、

「師よ、この女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。モーセは律法に、斯かる者を石にて擊つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言ふか。」

かく云へるは、イエスを試みて、訴ふる種を得んとてなり。イエス身を屈め、指にて地に物書き給ふ。かれら問ひて止まざれば、イエス身を起して、

「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て。」

と言ひ、また身を屈めて地に物書きたまふ。

 彼等これを聞きて良心に責められ、老人をはじめ若き者まで一人一人いでゆき、唯イエスと中に立てる女とのみ遺れり。イエス身を起して、女のほかに誰も居らぬを見て言ひ給ふ。

「をんなよ、汝を訴へたる者どもは何處にをるぞ、汝を罪する者なきか。」

女いふ、

「主よ、誰もなし。」

イエス言ひ給ふ、

「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」

   *

の箇所など現われる。

 さらに、『イスラムでは「復讐」の教義があるため相容れないかもしれないが、中国というよりも西洋世界での一般的な考え方と解釈するほうが近いのではなかろうか』とされた上で、『この言葉が日本で何故メジャーなのか?』と言えば、それは『第一に、「大岡裁き」で有名な大岡政談の影響が大きい。講談や、最近では時代劇で脚色された「人情派」的イメージで捉えられる。罪人を処罰する話と、勧善懲悪的な要素が絡み合い、罪を償うほうも納得してしまうような裁きを下す。つまり、「情状酌量」のニュアンスがこの言葉にはある』。『第二に、仮名手本忠臣蔵、日本人が大好きな忠臣蔵の話に由来する。九段目で、「君子はその罪を憎んでその人を憎まずと言えば、縁は縁、恨みは恨みと、格別の沙汰もあるべきにさぞ恨みに思われん」という由良助(大石蔵助)の台詞があるのだが。浅野内匠頭を殿中で抱きとめた梶川与惣兵衛が大石力に殺害された際、蔵助がその動機を説明する際に使われる台詞として有名。「罪を憎んで人を憎まずではあるのだが、主君の恨みを雪ぐためやむなく殺害に至った」ということ』であり、『つまりは、「罪を憎んで人を憎まず」は、孔子が原典というものの、かなりその意味が日本では曲解されて定着していて、かつ、その曲解された意味がキリスト教世界の普遍的価値観と合致する、という構造になっているわけ』だとされ、『孔子の言葉のニュアンスは、恐らく「正しい動機に基づく罪は罪ではない」ということと推察されるので、むしろ「造反有理」や「愛国無罪」にニュアンスは近い。なぜ「意を悪みて罪を悪まず」が「罪を悪みて人を悪まず」になったのかは不明』と記されておられる。これは非常に納得がいく解説であると私は思う。但し、これだけ注しておいてなんなんだが、龍之介は通用の意――その人が犯した罪は罪として憎んでも、その罪を犯した人までも憎むことは決してするな――で使用してはいる

・「大抵の子は大抵の親にちやんとこの格言を實行してゐる」この超ブラッキーなアイロニーに分からぬ読者おるまいが、それでもこの部分は是非、既に掲げられた親子」、及びその直後の可能」の、私の如何にもな、くだくだしい注と併せて読まれれば、否が応にも、十全にお分かり戴けるものと存ずる。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 好人物

 

       好人物

 

 女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。

 

       又

 

 好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。第一に歡喜を語るのに好い。第二に不平を訴へるのに好い。第三に――ゐてもゐないでも好い。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、前の『「虹霓關」を見て』「經驗」「アキレス」「藝術家の幸福」と、後の「罪」「桃李」「偉大」と合わせて全九章で初出する。

 

・「天上の神」このアフォリズムは「神」を語るそれでもある点に注視する必要がある。即ち、「神」とは「歡喜を語るのに好」く、「不平を訴へるのに好」く、そして最終的には「ゐてもゐないでも好い」存在だというのである。龍之介の毒は「好人物」に対する異なった変態的嗜好を有する「人間の男女」のみに向けられるものではなく、実は「神」にこそ本当は向けられていると読むべきである。そこに龍之介の深い絶望が示されてあると言えるのである。

・「好人物」辞書上では「気だてのよい人・善人・お人よし」であるが、ここでの謂いは、多分に蔑視を含んだところの「お人よし」の意味である。でなくてどうして「ゐてもゐないでも好い」と言い得るであろう。]

2016/06/03

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 藝術家の幸福

 

       藝術家の幸福

 

 最も幸福な藝術家は晩年に名聲を得る藝術家である。國木田獨步もそれを思へば、必しも不幸な藝術家ではない。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、前の『「虹霓關」を見て』「經驗」「アキレス」と、後の「好人物」(二章)「罪」「桃李」「偉大」と合わせて全九章で初出する。芥川龍之介は本章を書いた時は満三十二歳、彼が「鼻」で夏目漱石から激賞されたのは満二十三歳、その直後に文壇の寵児となっている。芥川龍之介の自死は、このアフォリズムが発表されてから僅か二年五ヶ月後、満三十五歳と五ヶ月弱の後のことであったから、彼のこの時の確かな「名聲」は結果として彼の言う通り、「晩年」であったのである。とすれば、芥川龍之介はこのアフォリズムに合わせるように、自死したとも言えるのである。これは偶然でも皮肉でも言葉の遊びでも何でもないのだ。芥川龍之介は大真面目にそれを自ら進んで確信犯で実行したということに気づかなければ、あなたは芥川龍之介を真に知ったことにはならぬ、と私は声を大にして言いたいのでもある。

 

・「國木田獨步」(明治四(一八七一)年~明治四一(一九〇八)年)はジャーナリストにして小説家で本邦に於ける自然主義の先駆者に位置づけられる作家である。以下、ウィキの「国木田独歩」から主節を引きつつ、不明な箇所は私の所持する、個人全集としては頗る優れたものと思う、昭和五三(一九七八)年(増訂版)学研刊「定本 国木田独歩全集」の第十巻の年譜などに拠って記載する。断わっておくと、私は独歩を愛すること、龍之介に劣らぬ。ここは、今までのようによく知らないから注するのではなく、偏愛する作家ゆえに詳述するのである。読むのが面倒な方は下線部(総て私が引いた)のみを拾い読みするされんことをお薦めする。以下、梗概部。『田山花袋、柳田國男らと知り合い』、「独歩吟」(明治三〇(一八九七)年)『を発表。詩、小説を書いたが、次第に小説に専心』し、「武蔵野」忘れえぬ人々」(孰れも明治三四(一九〇一)年民友社刊の作品集「武蔵野」所収。以上二つのリンク先は私の電子テクスト。表紙画像もある)・「牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)」(明治三四(一九〇一)年)『などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」』(明治三七(一九〇四)年)・「号(明治三九(一九〇六)年。リンク先は私の電子テクスト)・「竹の木戸」(没年の明治四一(一九〇八)年)『などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編』「巡査」(明治三五(一九〇二)年)を『絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた』。以下、詳細事蹟。幼名は国木田亀吉(後に哲夫と改名)。千葉県銚子生まれ。父専八は、旧龍野藩士で榎本武揚討伐後に銚子沖で難破し、銚子の吉野屋という旅籠でしばらく療養していたが、『そこで奉公していた、まんという女性と知りあい、独歩が生まれた。このとき専八は国元に妻子を残しており、まんも離縁した米穀商の雅治(次)郎との間にできた連れ子がいたとされる。独歩は、戸籍上は雅治郎の子となっているが、その他の資料から判断して、父は専八であるらしい』。明治七(一八七四)年、『専八はまんと独歩を伴い上京し、東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に一家を構えた』。明治三二(一八九九)年『頃、専八は司法省の役人となり、中国地方各地を転任したため、独歩は』五歳から十六歳まで『山口、萩、広島、岩国などに住んだ』。『少年期、学校の成績は優秀で読書好きである反面、相当な悪戯っ子で喧嘩のとき相手を爪で引っ掻くことからガリ亀と渾名された。自らの出生の秘密について思い悩み、性格形成に大きく影響したとみられる』。明治二〇(一八八七)年、学制改革で編入規則が不服であったのために『退学すると、父の反対を受けた』ものの、『上京し、翌年に東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科に入学。吉田松陰や明治維新に強い興味を持ち学生運動にも加わる。徳富蘇峰と知りあい』、『大いに影響を受けると、その後一転して文学の道を志し』、明治二二(一八八九)年十九歳の時、処女作「アンビシヨン(野望論)」『を『女学雑誌』に発表するほか、『青年思海』などの雑誌に文章を寄稿するようになる。さらにこの頃から教会に通うようになり、日本基督教会の指導者・植村正久を崇拝する』ようになった。明治二二(一八八九)年七月に『哲夫と改名』し、翌年九月には『英語政治科へと転科した』。この頃は』ワーズワース・ツルゲーネフ(私はその点に於いてなら、若き日より耽読しており、独歩に引けはとらぬと秘かに自負している。私の「心朽窩新館」のツルゲーネフの電子テクスト群を御覧戴きたい)・『カーライルなどを好んだという。明治二四(一八九一)年一月に『植村正久より洗礼を受けた。この年、学校改革と校長・鳩山和夫への不信のために同盟休校を行ない』、まもなく退学している(退学願書提出は三月三十一日)。同年五月一日、麻郷村(おごうむら:現在の山口県熊毛郡田布施町(たぶせちょう))の『家族が移り住んでいた吉見家に身を寄せ、しばらく釣りや野山の散策をして過ごす。月琴という弦楽器が上手で月夜の晩によく奏でていたという。近所の麻郷小学校で英語の教鞭を執ることもあったようだ。吉田松陰の門弟で狷介な老人として知られる富永有隣を訪ね、刺激を受けて廃校となった小学校の校舎を借りて波野』(はの:学校のあった村の名)『英学塾を開設し、弟の収二や近隣の子供を集めて英語や作文などを熱心に教えた。後に富永有隣をモデルとした』「富岡先生」(明治三五(一九〇二)年)を著している。八月に田布施町麻里府(まりふ)村に『仮住し、石崎家に家庭教師として出入りするうち、石崎トミと恋仲となった。翌年トミに求婚するがトミの両親に反対されて思いを遂げられず、後、失意のうちに弟と共に上京した。独歩が余りにも熱狂的なクリスチャンだったことが原因とされる』。その後、「帰去来」(明治三四(一九〇一)年)や「酒中日記」(明治三五(一九〇二)年。私の好きな作品である)『など田布施を舞台にした作品を多数発表している』。明治二六(一八九三)年年初に新聞記者になる決意をし、『徳富蘇峰に就職先の斡旋を依頼』したが、まずは『蘇峰の知人でジャーナリストの矢野龍渓から紹介された、大分県佐伯の鶴谷学館に、英語と数学の教師として赴任し』(同年十月)、『熱心に教育を行』ったが、『クリスチャンである独歩を嫌う生徒や教師も多く、翌』年六月末を以って退職している(なお、ジャーナリストたらんとした明治二十六年二月三日からは没後に出版されることになる日記「欺かざるの記」を書き始めている。因みに芥川龍之介の出生はこの前年明治二十五年三月一日である)。明治二七(一八九四)年二十四歳の時、『青年文学』に参加し、民友社に入って徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となった。この年に『起きた日清戦争に海軍従軍記者として参加し、弟・収二に宛てた文体の「愛弟通信」をルポルタージュとして発表し、「国民新聞記者・国木田哲夫」として一躍有名となる』(但し、この時、彼の名が初めて世間に流布したのは「記者」としてであって「小説家」としてではない点に注意されたい)。『帰国後、日清戦争従軍記者・招待晩餐会で、日本キリスト教婦人矯風会の幹事佐々城豊寿』(ささき とよじゅ 嘉永六(一八五三)年~明治三四(一九〇一)年:女性。女権運動家。)の長女信子(豊寿が医師で伊東家の婿であった伊東友賢と密通して出来た子。後に友賢は伊東家から離縁されて佐々城本支となって入籍している)『と知りあう。熱烈な恋に落ちるが、信子の両親から猛烈な反対を受けてしまう。信子は、母・豊寿から監禁された上、他の男との結婚を強要されたという。独歩は、信子との生活を夢見て単身で北海道に渡り、僻地の田園地帯に土地の購入計画をする』。「空知川の岸辺」(明治三五(一九〇二)年。本作もとてもよい)は『この事を綴った短編である』。明治二八(一八九五)年十一月、『信子を佐々城家から勘当させることに成功し、徳富蘇峰の媒酌で結婚。逗子で二人の生活が始まったが、余りの貧困生活に耐えられず』、帰郷、『両親と同居する』も、翌年に信子が失踪、『協議離婚となり、強い衝撃を受ける。この顛末の一部は後に有島武郎によって』「或る女」(明治四四(一九一一)年一月創刊の『白樺』に「或る女のグリンプス」の題で連載を開始、大正二(一九一三)年三月まで十六回続くが、これは前半のみで、その後に後半を書き下ろし、「或る女」と改題して大正八(一九一九)年になって全篇刊行となった)『として小説化された。一方、信子側からの視点では、信子の親戚の相馬黒光が手記「国木田独歩と信子」を書いており、独歩が理想主義的である反面』、『かなり独善的で男尊女卑的な人物であったと記されている』(私は個人的に有島の「或る女」が有意に好きである。反対に、独歩自身が同じシチュエーション(鎌倉滑川での信子との数奇な再会)を描いた「鎌倉夫人」(明治三五(一九〇二)年)は私の偏愛する鎌倉、独歩、の作品であり乍ら、「嫌い」である)。『傷心の独歩は、蘇峰や内村鑑三にアメリカ行の助言を受け』たものの、実現していない。明治二九(一八九六)年に『渋谷村(現東京都渋谷区)に居を構え、作家活動を再開』、同年十一月、『田山花袋、柳田國男(当時は新体詩人・松岡国男)らを知り』、明治三〇(一八九七)年に『「独歩吟」を『国民之友』に発表。さらに花袋、国男らの詩が収められた』「抒情詩」(宮崎湖處子編・同年民友社刊)が『刊行されるが、ここにも独歩の詩が収録された』。八月には小説「源叔父」(後の作品集「武蔵野」では「源おぢ」と表記変更)を発表している(なお、日記「欺かざるの記」の記述はこの頃迄)。翌明治三一(一八九八)年、『下宿の大家の娘・榎本治(はる)と結婚する。治は、後に国木田治子の名前で小説を発表し、独歩社の解体までを描いた「破産」を『萬朝報』に寄稿』(明治四一(一九〇八)年)、『『青鞜』の創刊にも参加している』。この明治三十一年に、二葉亭四迷の訳「あひゞき」(ツルゲーネフの「猟人日記」の一篇)に影響され(リンク先は明治二一(一八八八)年版の私の注附き電子テクスト。他に同じ二葉亭明治二九(一八九六)年改稿版も作成している)、「今の武蔵野」(後に「武蔵野」に改題)を発表、『浪漫派として作家活動を始める』。その後、明治三四(一九〇一)年に、今や近代文学の名著と讃えられる、初の作品集たる「武蔵野」を刊行するも、実は『当時の文壇で評価はされなかった。さらに「牛肉と馬鈴薯」「鎌倉夫人」「酒中日記」を書』き、明治三六(一九〇三)年に発表した「運命論者」「正直者」を以って『自然主義の先駆となった。これらの作品はのちに』、作品集「独歩集」(明治三八(一九〇五)年)や「運命」(翌明治三十九年)に纏められ、高く評価されはしたものの、『作品発表当時の文壇はまだ「紅露時代」であり、時代に早過ぎた独歩の作品はあまり理解されず、文学一本では生計を立てられなかった』のが現実であった。明治三二(一八九九)年には『再び新聞記者として『報知新聞』に入社。翌年には政治家・星亨の機関紙『民声新報』に編集長として入社する。編集長としても有能だったが、すぐに星が暗殺され』(星は衆議院議長や立憲政友会の結成に参加したり、第四次伊藤内閣の逓信大臣なども勤めたが、東京市会議長在職中に暗殺された)、明治三四(一九〇一)年に『『民生新報』を退社。再び生活に困窮して、妻子を実家に遣り、単身、その頃知遇を得ていた政治家・西園寺公望のもとに身を寄せる。その後、作家仲間の友人達と鎌倉で共同生活を行った』(由比ヶ浜近くの坂ノ下にある御霊神社境内などに寓居している)。明治三六(一九〇三)年には、『矢野龍渓が敬業社から創刊を打診されていた、月刊のグラフ雑誌『東洋画報』の編集長として抜擢され』た『が、雑誌は赤字だったため』、直に『矢野龍溪が社長として近事画報社を設立し、雑誌名も『近事画報』と変更した』。明治三七(一九〇四)年、日露戦争が開戦すると、月一回の発行を月三回にし、『戦時画報』と誌名を変更、『戦況を逸早く知らせるために、リアルな写真の掲載や紙面大判化を打ち出すなど有能な編集者ぶりを発揮し、また派遣記者の小杉未醒の漫画的なユニークな絵も好評で、最盛期の部数は、月間』十万部を『超えた。また、戦争終結後のポーツマス条約に不満な民衆が日比谷焼き打ち事件を起こすと、僅か』十三日後には、『その様子を克明に伝える特別号『東京騒擾画報』を出版し』ている。明治三八(一九〇五)年五月の『日本海海戦で、日露戦争の勝利がほぼ確実になると、独歩は戦後に備えて、培ったグラフ誌のノウハウを生かし』、翌年『初頭にかけて新しい雑誌を次々と企画・創刊する。子供向けの『少年知識画報』『少女知識画報』、男性向けの芸妓の写真を集めたグラビア誌『美観画報』、ビジネス雑誌の『実業画報』、女性向けの『婦人画報』、西洋の名画を紹介する『西洋近世名画集』、スポーツと娯楽の雑誌『遊楽画報』など。多数の雑誌を企画し』、十二誌もの『雑誌の編集長を兼任した。だが、日露戦争の終結後、『近事画報』の部数は激減。新発行の雑誌は売れ行きのよいものもあったが、社全体としては赤字であり』、明治三九(一九〇六)年、『矢野龍渓は近事画報社の解散を決意した』。『そこで独歩は、自ら独歩社を創立し、『近事画報』など』五誌の『発行を続ける。独歩の下には、小杉未醒』(彼は後に芥川龍之介と親しく交際した)『をはじめ、窪田空穂、坂本紅蓮洞、武林無想庵ら、友情で結ばれた画家や作家たちが集い、日本初の女性報道カメラマンも加わった。また、当時人気の漫画雑誌『東京パック』にヒントを得て、漫画雑誌『上等ポンチ』なども刊行。単行本としては、沢田撫松』(ぶしょう:明治四(一八七一)年~昭和二(一九二七)年:新聞記者・小説家。『二六新報』『国民新聞』『読売新聞』等で司法記者を勤め、犯罪の実話物語を『中央公論』『婦人倶楽部』などに発表した)『編集で、当時話題となった猟奇事件・臀肉事件』(明治三五(一九〇二)年三月に東京府麹町区下二番町(現在の千代田区二番町)で発生した未解決殺人事件。少年が何者かに殺され、尻の肉を切り取られたもので以下の野口男三郎はこの少年殺害と他二件(義兄の野口寧斎殺害及び薬局主人殺害)の容疑者であった。裁判の結果、少年と義兄殺しについては証拠不十分で無罪とされたが、薬局主人殺し及び文書偽造で有罪とされて死刑に処された。この事件には複雑な背景がある。詳しくはウィキの「臀肉事件を参照されたい)『の犯人・野口男三郎の』センセーショナルな告白手記「獄中之告白」を売らんかな主義で明治三九(一九〇六)年に発売したりしている。しかし、翌明治四〇(一九〇七)年に『独歩社は破産。独歩は肺結核にかかる。しかし皮肉にも、前年に刊行した作品集『運命は』が高く評価され、独歩は自然主義運動の中心的存在として、文壇の注目の的になっていた』。その後、『神奈川県茅ケ崎にある結核療養所の南湖院で療養生活を送る。「窮死」「節操」(以上、明治四十年)「竹の木戸」(明治四十一年)などを発表するが、病状は悪化していき』、明治四一(一九〇八)年六月二十三日に満三十六歳で死去した(南湖院で療養生活では妻も愛人も一緒で妻妾同衾と揶揄もされた。因みに、芥川龍之介の自死は既に述べた通り、満三十五歳であった)。絶筆は「二老人」である。『葬儀は当時の独歩の名声を反映して、多数の文壇関係者らが出席し、当時の内閣総理大臣、西園寺公望も代理人を送るほどの壮大なものであった。友人の田山花袋は、独歩の人生を一文字で表すなら「窮」であると弔辞で述べている』とある。彼の没した年、龍之介は十六歳、府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の第四学年であった。
 
 芥川龍之介は
「文藝的な、餘りに文藝的な」(昭和二(一九二七)年)で一章を割いて、独歩への親近感を述懐している。以下、私の電子テクスト(リンク先)より、全文を引く。

   *

 

       二十八 國木田獨歩

 

 國木田獨歩は才人だつた。彼の上に與へられる「無器用」と云ふ言葉は當つてゐない。獨歩の作品はどれをとつて見ても、決して無器用に出來上つてゐない。「正直者」、「巡査」、「竹の木戸」、「非凡なる凡人」……いづれも器用に出來上つてゐる。若し彼を無器用と云ふならば、フィリツプも亦無器用であらう。

 しかし獨歩の「無器用」と云はれたのは全然理由のなかつた訣ではない。彼は所謂戲曲的に發展する話を書かなかつた。のみならず長ながとも書かなかつた。(勿論どちらも出來なかつたのである。)彼の受けた「無器用」の言葉はおのづからそこに生じたのであらう。が、彼の天才は或は彼の天才の一部は實にそこに存してゐた。

 獨歩は鋭い頭腦を持つてゐた。同時に又柔かい心臟を持つてゐた。しかもそれ等は獨歩の中に不幸にも調和を失つてゐた。從つて彼は悲劇的だつた。二葉亭四迷や石川啄木も、かう云ふ悲劇中の人物である。尤も二葉亭四迷は彼等よりも柔かい心臟を持つてゐなかつた。(或は彼等よりも逞しい實行力を具へてゐた。)彼の悲劇はその爲に彼等よりもはるかに靜かだつた。二葉亭四迷の全生涯は或はこの悲劇的でない悲劇の中にあるかも知れない。…………

 しかし更に獨歩を見れば、彼は鋭い頭腦の爲に地上を見ずにはゐられないながら、やはり柔かい心臟の爲に天上を見ずにもゐられなかつた。前者は彼の作品の中に「正直者」、「竹の木戸」等の短篇を生じ、後者は「非凡なる凡人」、「少年の悲哀」、「畫の悲しみ」等の短篇を生じた。自然主義者も人道主義者も獨歩を愛したのは偶然ではない。

 柔い心臟を持つてゐた獨歩は勿論おのづから詩人だつた。(と云ふ意味は必しも詩を書いてゐたと云ふことではない。)しかも島崎藤村氏や田山花袋氏と異る詩人だつた。大河に近い田山氏の詩は彼の中に求められない。同時に又お花畠に似た島崎氏の詩も彼の中に求められない。彼の詩はもつと切迫してゐる。獨歩は彼の詩の一篇の通り、いつも「高峰(かうほう)の雲よ」と呼びかけてゐた。年少時代の獨歩の愛讀書の一つはカアライルの「英雄論」だつたと云ふことである。カアライルの歴史觀も或は彼を動かしたかも知れない。が、更に自然なのはカアライルの詩的精神に觸れたことである。

 けれども彼は前にも言つたやうな鋭い頭腦の持ち主だつた。「山林に自由存す」の詩は「武藏野」の小品に變らざるを得ない。「武藏野」はその名前通り、確かに平原に違ひなかつた。しかしまたその雜木林は山々を透かしてゐるのに違ひなかつた。德富蘆花氏の「自然と人生」は「武藏野」と好對照を示すものであらう。自然を寫生してゐることはどちらも等しいのに違ひない。が、後者は前者よりも沈痛な色彩を帶びてゐる。のみならず廣いロシアを含んだ東洋的傳統の古色を帶びてゐる。逆説的な運命はこの古色のある爲に「武藏野」を一層新らしくした。(幾多の人びとは獨歩の拓いた「武藏野」の道を歩いて行つたであらう。が、僕の覺えてゐるのは吉江孤雁氏一人だけである。當時の吉江氏の小品集は現世の「本の洪水」の中に姿を失つてしまつたらしい。が、何か梨の花に近い、ナイイヴな美しさに富んだものである。)

 獨歩は地上に足をおろした。それから――あらゆる人々のやうに野蠻な人生と向ひ合つた。しかし彼の中の詩人はいつまでたつても詩人だつた。鋭い頭腦は死に瀕した彼に「病牀錄」を作らせてゐる。が、かう云ふ彼は一面には「沙漠の雨」(?)と云ふ散文詩を作つてゐた。

 若し獨歩の作品中、最も完成したものを擧げるとすれば、「正直者」や「竹の木戸」にとどまるであらう。が、それ等の作品は必しも詩人兼小説家だつた獨歩の全部を示してゐない。僕は最も調和のとれた獨歩を――或は最も幸福だつた獨歩を「鹿狩り」等の小品に見出してゐる。(中村星湖氏の初期の作品はかう云ふ獨歩の作品に近いものだつた。)

 自然主義の作家たちは皆精進して歩いて行つた。が、唯一人獨歩だけは時々空中へ舞ひ上つてゐる。…………

   *]

2016/06/02

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) アキレス

 

       アキレス

 

 希臘の英雄アキレスは踵だけ不死身ではなかつたさうである。――即ちアキレスを知る爲にはアキレスの踵を知らなければならぬ。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、前の『「虹霓關」を見て』「經驗」と、後の「藝術家の幸福」「好人物」(二章)「罪」「桃李」「偉大」と合わせて全九章で初出する。「アキレス」はギリシア神話に登場する無敵を謳われた英雄で、ホメーロスの叙事詩「イーリアス」の主人公(特に足が速かったとされて「イーリアス」では『駿足のアキレウス』」と形容されている)。ギリシャ語では「アキレウス」(ラテン文字転写・Achilleus)であるが、ラテン語では「アキレス」(Achilles)である。アキレウスはプティア(Phthía:古代ギリシャのテッサリア(Thessalía:現在のギリシャ中部)の最南部)の王で英雄として知られたペレウス(Pēleus)と海神ネレウス(Nēreus)の娘テティス(Thetis)の間に生まれたが、母テティスはわが子を愛するが故に、その肉体を不死身にしようと、冥府の川ステュクス(Styx:ギリシャ神話版三途の川)にまだ赤子であったアキレウスの全身を浸したが、その時、母親が摑んでいた踵(かかと)だけが水に漬からず、踵の部分のみ、生身のままで残ってしまった。アキレウスは長じて最大の英雄となり、トロイア戦争(小アジアのトロイアに対してミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行ったとするギリシア神話上の戦争)で活躍するが、ついにはパリス(Paris:「パリスの審判」で知られるトロイア戦争の原因を作ったトロイアの王子)に弱点の踵を弓で射抜かれ、命を落とした(この伝説から「踵骨腱(しょうこつけん):足にある脹脛の腓腹筋とヒラメ筋を踵の骨にある踵骨(しょうこつ)隆起に附着させる腱。人体で最も強く最大の腱であり、歩行や跳躍などの運動の際に最重要な部位である)を「アキレス腱」と呼び、転じて「致命的な弱点」の代名詞ともなった(以上の主節部分はウィキの「アキレス腱」及びそこからリンクした複数のウィキを参照した。くれぐれもウィキの「アキレウス」参照ではないので注意されたい)。にしても……芥川先生……あの女には……先生のアキレス腱……知られちゃった……ですね…………]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 經驗

 

       經驗

 

 經驗ばかりにたよるのは消化力を考へずに食物ばかりにたよるものである。同時に又經驗を徒らにしない能力ばかりにたよるのもやはり食物を考へずに消化力ばかりにたよるものである。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、前の『「虹霓關」を見て』と、後の「アキレス」「藝術家の幸福」「好人物」(二章)「罪」「桃李」「偉大」と合わせて全九章で初出する。私はこの章を読むと必ず思い出す、ある作品の、ある箇所がある。そう、あそこである。

   *

 Kは私より強い決心を有してゐる男でした。勉強も私の倍位(くらゐ)はしたでせう。其上持つて生れた頭の質が私よりもずつと可かつたのです。後では專門が違ひましたから何とも云へませんが、同じ級にゐる間は、中學でも高等學校でも、Kの方が常に上席を占めてゐました。私には平生(へいせい)から何をしてもKに及ばないといふ自覺があつた位です。けれども私が強ひてKを私の宅へ引張つて來た時には、私の方が能く事理を辨(わきま)へてゐると信じてゐました。私に云はせると、彼は我慢と忍耐の區別を了解してゐないやうに思はれたのです。是はとくに貴方のために付け足して置きたいのですから聞いて下さい。肉體なり精神なり凡て我々の能力は、外部の刺戟で、發達もするし、破壞されもするでせうが、何方にしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、能く考へないと、非常に險惡な方向へむいて進んで行きながら、自分は勿論傍(はた)のものも氣が付かずにゐる恐れが生じてきます。醫者の説明を聞くと、人間の胃袋程橫着なものはないさうです。粥ばかり食つてゐると、それ以上の堅いものを消化(こな)す力が何時の間にかなくなつて仕舞ふのださうです。だから何でも食ふ稽古をして置けと醫者はいふのです。けれども是はたゞ慣れるといふ意味ではなからうと思ひます。次第に刺戟を增すに從つて、次第に營養機能の抵抗力が強くなるといふ意味でなくてはなりますまい。もし反對に胃の力の方がぢりぢり弱つて行つたなら結果は何うなるだらうと想像して見ればすぐ解る事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全く此處に氣が付いてゐなかつたのです。たゞ困難に慣れてしまへば、仕舞に其困難は何でもなくなるものだと極(き)めてゐたらしいのです。艱苦を繰り返せば、繰り返すといふだけの功德で、其艱苦が氣にかゝらなくなる時機に邂逅(めぐりあ)へるものと信じ切つてゐたらしいのです。

   *

「こゝろ」の「先生」の「遺書」の中の、Kが「先生」の下宿へ引き移って少し快活になりだすというシークエンスの部分に出る、妙に「先生」にしてはやや「先生」らしからぬ(寧ろ、強迫神経症と私が踏んでいる作者夏目漱石の肉声っぽい)説教臭く、くだくだしいKのストイックな信条への批判箇所である(それだけに妙に私は「こゝろ」の中で引っかかっている箇所でもある。リンク先は私の初出復元版の当該章)。私は正直、このアフォリズムは、まさに「こゝろ」のここをインスパイアしたものではないかと秘かに疑っているのである。

 

・「徒らにしない」「いたづら(いたずら)にしない」と読むが、老婆心乍ら、ここは意味の上で前の部分の「逆」を言っている訳だから――即ち、「經驗」に全く拠らずに、「經驗」による学習なしに、「經驗」を全く無視して、「能力ばかりにたよる」の謂い――であるのだから、この「徒らにしない」の「徒らに」は、「無駄に」の改まった言い方であるところの副詞としての本来の「無駄に・むなしく」の謂いであるよりも、「しない」ことの程度の甚だしいことを強調する特殊な用法と言える。即ち、全く経験することなしに、自己の能力のみに全幅の信頼をおいて、未知の対象を喰らおう、それに向き合おう、対峙しよう、それと対決しよう、というのは全く以って暴虎馮河、無謀の極み、というのである。若い読者の中には「徒らに」を使わぬ者や、副詞としてのその意味が分からぬものもいるかとも思われ、中には半可通に「徒らにはしない」という意味で採ってしまい、訳が分からなくなる者もあろうかと、蛇足するものである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「虹霓關」を見て

 

       「虹霓關」を見て

 

 男の女を獵するのではない。女の男を獵するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事實を戲曲化した。しかしこれを戲曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳の「虹霓關」を見、支那にも既にこの事實に注目した戲曲家のあるのを知つた。のみならず「戲考」は「虹霓關」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と劍戟とを用ひた幾多の物語を傳へてゐる。

 「董家山」の女主人公金蓮、「轅門斬子」の女主人公桂英、「雙鎖山」の女主人公金定等は悉かう言ふ女傑である。更に「馬上緣」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年將軍を馬上に俘にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士』を除きさへすれば、全京劇の價値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲學的である。哲學者胡適氏はこの價値の前に多少氏の雷霆の怒を和げる訣には行かないであらうか?

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、後の「經驗」「アキレス」「藝術家の幸福」「好人物」(二章)「罪」「桃李」「偉大」と合わせて全九章で初出する。標題『「虹霓關」を見て』の「虹霓關」とは京劇の題名で日本語では「こうげいくわん(こうげいかん)」と読む(中国を音写するなら「ホォンニィーグゥァン」か)。「隋唐演義」の一節を素材とした歴史物で、隋末の群雄割拠の頃、揚州(現在の江蘇省揚州市一帯)の要めである虹霓関の守備大将であった夫が反乱軍に殺される。妻の女将東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるというストーリーらしい(私は見たことがないので、複数のネット記載を参考に纏めた)。岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、芥川龍之介は大正一三(一九二四)年十月に京劇の女形の名優梅蘭芳(メイランファン:後注参照)の二回目の来日の際に演ぜられた「虹霓關」を観劇している、とある(さらに山田氏は、梅蘭芳の初来日は大正八(一九一九)年であるが、その時ではなかったことは『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』と記しておられる。ただ、この「虹霓關」観劇の記載は現在の複数の龍之介詳細年譜では記載がない。しかし、宮坂覺氏の新全集年譜の同年十月二十七日の条に龍之介が『演劇新潮』主催の談話会に出席したとあり、その同席者の中にまさに梅蘭芳の名を見出せる

 

・「獵」「れう(りょう)」。狩る。情欲に耽る目的で異性を求めること。一般に「漁色(ぎょしょく)」と言うが、「漁色」は男が女をの一方向でしか用いないから、龍之介は敢えて「獵」を用いたものかと思われる。

・「シヨウ」近現代の英語圏の作家たちに強い影響を与えたアイルランドの劇作家・評論家ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw 一八五六年~一九五〇年)。平凡社「世界大百科事典」の喜志哲雄氏の解説を主として引く(コンマを読点に代えた)。『ダブリン生れ。ロンドンに出てジャーナリストとなり、音楽批評。次いで劇評を執筆。劇評家としては在来のウェルメード・プレー』(wellmade play:「よく作られた戯曲」の意であるが、演劇用語としては、登場人物人物の個性よりも巧みに組み立てられた構成によってプロットが進行する戯曲を指す)『を排撃して、イプセン風の社会意識をもった劇を擁護した。他方、穏健な社会主義者としてフェビアン協会』(Fabian Society:一八八四年に創設されたイギリスの社会主義知識人団体。現在も同国の労働党の基盤団体)『の設立に参加。彼は世界は〈生命力〉に動かされて進化するという哲学をもっていた。戯曲で最初に話題になったのはスラム街の住宅事情を攻撃した』「やもめの家」(Widowers' Houses 一八九二執筆・初演)で、『それ以後、ヒロイズムを風刺した』「悪魔の弟子」(The Devil's Disciple 一八九七年執筆・初演)、『売春問題を扱った』「ウォレン夫人の職業」(Mrs Warren's Profession 一八九四年執筆・一九〇二年初演)、ここで龍之介が挙げる『生命力の哲学を具体化させた』「人と超人」(後注参照)、『英雄を茶化した』「シーザーとクレオパトラ」(Caesar and Cleopatra 一八九八年一九〇六年初演)、『ジャンヌ・ダルクを主人公にした』「聖ジョーン」(Saint Joan 一九二三年初演)の他、『おびただしい数の戯曲を発表した。音声学者が花売り娘に上流階級の言葉づかい、礼儀作法を教えこんでレディに仕立てる』「ピグマリオン」(Pygmalion 一九一三年)は、『のちにアメリカで、ブロードウェーでのミュージカル・ドラマ化を経て』、「マイ・フェア・レディ」(My Fair Lady 一九六四年製作公開/ジョージ・キューカー監督)『として映画化された。ロマンス性も強いが、イギリスの階級制度を風刺している。ショーの作品はいずれも思想性や問題性に富んではいるが、他方、作者が退けたウェルメート・プレーの技巧を取り入れた娯楽劇にもなっており、逆説を盛りこんだせりふによって生気を与えられている』。ショーは一九二五年に『ノーベル文学賞を受賞』している。

・「人と超人と」(Man and superman)ショーが一九〇三年執筆し、一九〇五年に初演された哲学的喜劇。やはりまず、平凡社「世界大百科事典」の喜志哲雄氏の解説を引く(コンマを読点に代えた)。『作者の親友グランビル・バーカーの主演により初演』。但し、『並外れた長さのため、完全』な上演は一九一五年が最初であった。『ドン・フアン』(スペイン語: Don Juan:スペインの伝説上の人物で放蕩無頼の色事師として文学作品に取り上げられる。イタリア語名「ドン=ジョバンニ」で、この「人と超人」はまさに、かのモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」(Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni:罰せられし放蕩者又はドン・ジョヴァンニ)をモチーフにしたともされるのである)『伝説をニーチェの超人思想や生命力の哲学によって解釈した皮肉な作品で、女嫌いを自称する社会主義者の青年が女に追いつめられて結婚を決意する物語が中心になっている』。全四幕の内、第三幕の『大半はドン・フアンなど』四人の『人物が哲学的議論を戦わせる〈地獄のドン・フアン Don Juan in Hell〉というプラトン風対話の場面によって占められて』おり、この部分のみを切り離して一九〇七年に初演された、とある。岩波新全集の山田氏の注では、『「喜劇にして哲学」の副題を持つ四幕劇。恋愛を「生命力」の哲学で捉え、女を猟師、男を獲物として能動的な女を描いた喜劇』とし、新潮文庫の神田由美子氏は、『恋愛の諸相は生の力の動きであり、女性こそが、この力の遂行者であると主張している。男は女の自己達成の手段に過ぎぬという、ドン・ジュアン劇をパロディ化した思想劇で、主人公アン』(Ann Whitefield)『は様々の策略によって、自分に都合のいい夫タナー』(John Tanner)『を手に入れる』と注されている。市川又彦訳の岩波書店目録に附されたコピーには、『宇宙の生の力に駆られる女性アンは、許婚の詩人ロビンスン』(Octavius Robinson)を捨て、「革命家必携」を『書いた精力的な男タナーを追いつめ、ついに結婚することになる』と記す私は十代の終わり、大学生の時に読んだが(私は高校時代は演劇部で真面目に俳優になろうかとも思っていたほどに演劇好きであった。しかし、何より、役者は体力勝負、私のような文弱ではダメと心得たのであった)、実は全くストーリーが思い出せない。ただ、読み終えた後の不快さだけが記憶に残っているシロモノであることを告白しておく。

・「梅蘭芳」(méi lánfāng 本名・梅瀾 méi lán 一八九四年~一九六一年)。ここは「ばいらんはう(ばいらんほう)」ではなく、「メイランフアン(メイ・ランファン)」と中国語音写で読む。彼の芸名は当時から本邦でも一般に中国語音写で通用していたからである(以下のウィキの引用を参照)。芥川龍之介の「上海游記 八 城内(下)」では、かくルビが振られているし(リンク先は私の注釈附電子テクストで、実は注で本アフォリズムを引用し、既に注もしている)、筑摩全集類聚版「侏儒の言葉」でも『メイランフアン』とルビしているからである。彼は清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形。京劇の名女形を言う「四大名旦」の一人である(他は程硯秋・尚小雲・荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」の旧版(前掲の「上海游記 八 城内(下)」で引用したもの。現在は削除・変更されている)によれば(下線やぶちゃん)、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した』。二十世紀『前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の』一九五六年、『周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた』。一九五九年、『中国共産党に入党』したが、二年後、『心臓病で死去』した。

・「戲考」王大錯の編になる全四十冊からなる膨大な脚本集(一九一五年~一九二五年刊)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。岩波新全集の山田氏の注に、『芥川旧蔵書には、そのうちの三一冊が残されている』とある。恐るべし! 芥川龍之介!

・「孫呉」孫武と呉起の併称。孫武(紀元前五三五年?~?)はは兵法書「孫子」の著者で、春秋時代の兵家(へいか:軍略と政略を説く諸子百家の一つ)、孫子のこと。呉起(?~紀元前三八一年)は兵法書「呉子」の著者で、戦国時代の軍人・政治家。孫武とその子孫である孫臏(そんぴん 生没年未詳・紀元前四世紀頃とされる)と並んで兵家の祖とされ、兵法は別名「孫呉の術」とも呼ばれる。

・「兵機」戦略・戦術の意。

・「劍戟」「けんげき」。刀剣類で切り合う戦い。

とを用ひた幾多の物語を傳へてゐる。

・「董家山」「とうかざん」。岩波版新全集の山田氏の注によると、『金蓮は、容姿、武勇ともに傑れた女傑。領主である父の死後、家臣と山に籠り山賊となり、一少年を捕虜とする。彼を愛して結婚を強要、その後旧知の間柄とわかり結ばれる』というストーリーとある。

・「轅門斬子」「えんもんざんし」。別名「白虎帳」。野村伸一氏の論文「四平戯――福建省政和県の張姓宗族と祭祀芸能――(PDFファイル)によると、『宋と遼の争いのなか、楊延昭は息子の楊六郎(宗保)を出陣させる。ところが、敵の女将軍穆桂英』(ぼくけいえい)『により敗戦を強いられ、楊宗保は宋の陣営に戻る。しかし、父の楊延昭は息子六郎が敵将と通じるという軍律違反を犯したことを理由に、轅門(役所の門)において、息子を斬罪に処するように指示する。/そこに穆桂英が現れる。そして楊延昭の部下を力でねじ伏せ、楊六郎を救出する。こののち女将軍穆桂英と武将孟良の立ち回りが舞台一杯に演じられる。』(改行は「/」で示し、写真図版への注記を省略、読点を変更した)とあり、岩波版新全集の山田俊治氏の注解では、宋代の物語で、穆桂英は楊宗保を夫とし、楊延昭を『説得して、その軍勢に入って活躍する話』とする。題名からは、前段の轅門での息子楊宗保斬罪の場がないとおかしいので、野村氏の平戯の荒筋と京劇は同内容と思われる。

・「雙鎖山」「さうさざん(そうさざん)」は岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『宋代の物語。女賊劉金定』(本文にも出るので、ここでは「りゅうきんてい」と読んでおく)『は若い武将高俊保へ詩をもって求婚、拒絶されて彼と戦い、巫術を使って虜にし、山中で結婚する』とある。なお、この下の「等」は「ら」或いは「など」で(龍之介がどちらで訓じているかは不明。筑摩全集類聚版では『ら』とする。読んだ時のハリからすると確かに「ら」の方がよい)、人を表す語に附いて複数を示す接尾語である。ゆめゆめ「金定等」という名と誤読されぬように。

・「悉」「ことごとく」。

・「馬上緣」明治大学法学部の加藤徹氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」によれば、唐の太宗の側近であった武将薛仁貴(せつじんき)の息子薛丁山(龍之介の謂う「少年將軍」)が父とともに戦さに赴くも、敵将の娘の女傑樊梨花に一目惚れされてしまい、無理矢理夫にされてしまう、とある。岩波版新全集の山田氏の注解によると、二人は前世の因縁で結ばれており、梨花はやはり仙術を以っていどみ、遂に丁山と結婚を遂げる、とある。なお、新潮文庫の神田氏は前の「董家山」から、この「馬上緣」までの四作品を並べて、『いずれも女性の武将がヒロインとなる京劇』で、『女が男を口説いて自分のものとするという点で共通している』と一括纏めて注してある。

・「俘」「とりこ」。

・「胡適」(Hú Shì 一八九一年~一九六二年)は「こせき」又は「こてき」と読むが個人的には「こせき」と読みたい(大学時分よりずっと一貫してそう私は読んできたからである)。中華民国の学者・思想家で外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の一九一〇年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。一九一七年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議(すうぎ)」(「芻」は中国語の謙譲語に相当する語で、自分に属する事柄を遜(へりくだ)って表現する際に用いる)をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、一九一九年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は、歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。一九三一(昭和六)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の一九三八年には駐米大使となった。一九四二年に帰国して一九四六年には北京大学学長に就任したが、一九四九年の中国共産党国共内戦の勝利と同時に、アメリカに亡命した。後、一九五八年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介は中国特派の途次、北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介の「新芸術家の眼に映じた支那の印象」にその旨の記載がある。リンク先は私の電子テクスト)。先に引いた加藤氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」には胡適の日記の民国十年六月二十七日の条の、芥川龍之介の訪問の際の加藤氏の訳が載り、その中で、龍之介が『中国の旧式の舞台は改良する必要がある』と言ったとして、龍之介の指摘したすこぶる具体的な内容が記されてある(当該日記全部を引用するのは、加藤氏の訳でもあり、気が引けるので前の部分を省略してある)。

   《引用開始》

一、背景幕は色柄が地味なものを用いるべきである。紅や緑の緞帳は不適切である。

二、舞台にしく絨毯も色柄が地味なものにすべきである。

三、伴奏楽隊は幕の中にかくれて坐るべきである。

四、舞台上の助手は、色柄が地味な同じ服を着るべきで、舞台上を駆け回ってはいけない。

 私はこれに答えて、中国の旧式の芝居は歌の部分が往々にして長すぎて役者に茶を飲ませる必要があること、机や椅子なども運ぶ必要があること、もし西洋式に場面転換用の幕を採用すれば、助手が茶や椅子を手に駆けずり回らずに済むかもしれないこと、などを言った。

 彼はまた、旧式の芝居に背景は必要ない、と言った。私も同意した。

   《引用終了》

とあり、加藤氏はこの後で、『芥川の提議は、今日の視点から見ても妥当なものである。実際、その後の京劇の舞台改良運動は、ほぼ彼の意見どおりに進んだ』と解説なさっておられる。リンク先の「芥川龍之介が見た京劇」は一般にあまり知れらているとは言えない、当時としては驚くべき京劇通であった(上記の提案を見ても凄いことはお分かりになろう)芥川龍之介を扱った非常に優れた論考である。是非、御一読されんことをお薦めする(なお、同ページには一部で私のブログ記事が追加で登場するが、お恥ずかしい限りなれば、そこはスルーされたい。私はその追加がなされる以前から、このページには逆に大変、お世話になっているのである)。

・「四進士」恐らく四人の登場人物の数奇な運命を描く京劇。岩波版新全集の山田氏の注解によると、『明代の物語で、楊素貞が夫の死後身売りされ、商人と結ばれ、彼女を陥れた悪人を懲す話』で、題中にある四人の同期に科挙に登第した進士は、一人を除いて悪の道に入ってしまう、といった『複雑な筋に比して、正邪が明確で、情節共に面白く、旧劇中の白眉と胡適が推称した』と記す。新潮文庫の神田氏の注には、腐敗官吏や悪人が登場し、様々の曲折をへて最後に正義感にあふれた州知事毛彭』(もうほう)『の助けでヒロインが幸福になるという筋』とある。

・「是等の京劇」「虹霓關」「董家山」「轅門斬子」「雙鎖山」「馬上緣」の五作品を指す。

・「甚だ哲學的である」かどうかは残念ながら、総て未見の私には分らない。少なくとも龍之介の謂う「哲學的」というのは、人間の男女の恋の駆引や性愛行動に於ける「哲學」という特殊特異なそれであるとは言えるようである。「四進士」については龍之介は何も言っていないが、「哲學者胡適氏」が別格とするのだから、さぞ「哲學的」なのであろう。にしても龍之介が「四進士」については何も述べていないのは不審ではある。それとも「四進士」はまさにこの龍之介の限定した意味に於いては「哲學的」ではないという含みでもあるのか? やはり「四進士」未見の私には何とも言いようがないのである。

・「雷霆の怒」「らいていのいかり」ドスン! と一発の神鳴りのこと。胡適の「わたしは『四進士』を除きさへすれば、全京劇の價値を否定したい」という一刀両断式の強烈な断じ方を喩えたもの。

 

附記

 私は京劇をまともに見たことがない。されば、ここを注する資格は、実は、ない。上記の注も私が昔、芥川龍之介の注で本章を引いた際に使用したものをベースとしただけで、私にとっては実は全く以って新味がない、のである。されば、昨日、中国在住の京劇通の教え子に何かヒントを呉れとメールをしたところ、以下のような返事があった(一部を抜粋)。

   *

『戦う女という意味では、本邦にも巴御前の例があります。しかしそこには戦う女がいるだけで、ちっとも色気を感じない。しかし京劇の女武者は十分にセクシーである。コケティッシュでさえある。彼女たちは、武力と性が渾然と溶け合った非常に特異な存在だと思うのです。暴力とフェロモンの化学反応、そしてあの原色の艶やかな衣装。私はそこに生命というものの官能を見るのです。雌に食われつつ陶然としてしまう雄の蟷螂のように』。『雄としての私が穆桂英[やぶちゃん注:龍之介が挙げている「轅門斬子」の女主人公。京劇や民間説話では穆桂英を主人公とした物語が多い、とウィキの「穆桂英」にある。]の舞台を見に行く時、心の中はそのようなマゾヒスティックな密かなる期待に満たされます。今日はどんな雌蟷螂に喰われるのかという、尾骶骨がビリビリするような官能です』。『暴力と生命と官能をとろ火で煮込んだスープです』。

   *

これは、是非とも、この注の最後に附け加えたい表現であった。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 小人國(7) ハイ さやうなら (その二) /「小人國」(リリパット国)~了

八章

 私がブレフスキュ島へ來てから三日目のことです。〔した。〕

 島の北東〔の〕岸をぶらぶら步いて行つてみると、沖〔の方〕に何かボートのやうな物のひつくりかへつてゐるのが見えます。早速、靴をぬいで、二三百ヤード海の中を步いてゆくと〔行つてみ〕ると、その物は潮に乘つて、だんだん近づいてくるやうに見えます。よく見ると、ほんとのボートです。たぶん、暴風雨にでも〔これはあらしに〕あつて本船から流されたのでせう。

[やぶちゃん注:「二三百ヤード」百八十三~二百七十四メートルほど。]

 私はすぐ首府へ引かへして、皇帝にお願ひして〔、〕二十隻の軍艦と三千人の水兵を借りまし〔て〕來ました。それから私は海に入つて、ボートのところへ泳いで行きました。すると水兵たちが軍艦から綱の端を投げてくれたので、それをボートの穴に結びつけ、もう一方の端は〔、〕軍艦に結びつけました。〔さらに〕私は泳ぎながらいろいろ骨を折つて、九隻の軍艦にボートの綱を結びつけました。ちようど風むきもよかつたので、私はボートを押し、水兵は引つぱり、かうして、たう〔と〕う海岸に來ました。

 それから十日ばかりかかつて、オールをこしらへ、それでやつと〔、〕ブレフスキユの港へ〔、〕ボートを漕いで入つたわけです。私が港へつくと、大変な人出で、なにしろ〔、〕あんまり大きな船なので、すつかり仰天してゐました。私は皇帝にむかひ、

 「天の助けでボートが手に入りました。これに乘つてゆけば、どこかわたし私〕の故國へ帰れるところまで行けるでせう。つきましては、それに必要な品物を〔出發の〕許可をいただいて、いろいろ準備することをお許し下さい」とお願いしました。皇帝ははじめは思ひ止まるやうに〔とどまつてはどうかと〕云はれましたが、ついに喜んで許して下さいました。

[やぶちゃん注:現行版では「天の助け」は「天の祐」(「祐」は「たすけ」と訓ずる。「天の助け」「天の御加護」「天助」を意味する「天佑」(てんゆう(歴史的仮名遣なら「てんいう」)は「天祐」とも書く)となっている。昭和二六(一九五一)年とは言え、子供向けで、これはあるまい漢字をひらがなにすることに気を使っていて、そもそもがこの自筆原稿で「天の助け」と書いている民喜が、こんな用字を決定稿でする可能性は限りなくゼロである。編集者がしたにしても奇異極まりなく、現在の子どもらもこれでは読めない極めて不審である。

 一方、〔さて、〕リリパツトの國の方か〔國で〕は、私がブレフスキュ〔國〕皇帝のところへ行つたのは、〔それは〕ただ、前の約束をはたすために行つたのだらうと思つて〔決め〕ゐました。らしいので、ので〕だから〔そして〕二三日すれば帰つて來るだらう待つて〔思つて〕ゐました。

[やぶちゃん注:現行版ではここで改行(自筆原稿は続いているが、改行校正のマークがあるので改行した)はなく、次の段に続いている。やや表記に混乱がある。現行版を以下に次の段も続けて示す。

   *

 さて、リリパット国では、私がブレフスキュ国皇帝のところへ行ったのは、それはただ、前の約束をはたすために行ったので、二三日すれば帰って来るだろう、と思っていました。ところが、いつまでたっても、私が戻らないので、とうとうやきもきして、大臣一同が会議を開きました。その相談のあげく、一人の使者が、リリパット皇帝の手紙を持って、ブレフスキュ皇帝に会いにやって来ました。その手紙は、私の手足をしばって、リリパットへ送り返してくれというのでした。

   *]

 〔ところが〔、〕〕いつまでたつても〔、〕私が戾らないので、とうとうやきもきして、大臣一同が相談〔會議〕をし〔開き〕ました。その相談の結果、〔そしての相談のあげく、〕一人の貴族〔使者〕がの〔あの〕彈劾文をもつて、こちらへ〔リリバット皇帝の命令〔手紙〕をもつ〕て、ブレフスキユ皇帝にあひにやつてきました。その手紙は、私の手足を〔しば〕つて、リリバットへ送り返して欲〔ほ〕しいと云ふのでした。

 ブレフスキユ國皇帝は〔の〕三日〔間の〕その手紙の返事はかう〔書かれました。でした。〕〔その返事はかうでした。〕あの男私〕を縛つて送り返すことが無理〔など、〕とてもできないことは、すでに貴國家でもよく御存知のはずである。〔リリバット皇帝も知られるとほり〔ですしですだし、〕それに〕それに私 それに私〔をは〕間もなく、〔私はブレフスキユ〕國を〕去ることになつてゐるので、兩國のいざこざはなくなるのでせう〔御安心下さい〕、といふのでした〔のがブレフスキユ皇帝の返事でした。〕

[やぶちゃん注:現行版では、以下の通り。

   *

 その返事はこうでした。私をしばって送り返すことなど、とてもできないことは、すでにリリパット皇帝も知られるとおりだし、それに間もなく、私はブレフスキュ国を去ることになっているので、御安心ください、というのでした。

   *]

 〔こんなことをきかされたので、〕〔とにかく〕私はなるべく早く出發しようと思ひだしました。〔ました。〕宮廷の方でも一日も早く〔私を出發して〔行つて〕もらひたかつたので、いろいろ手助けをしてくれました〔す〕。五百人の職人がかかつて、ボートにつける二枚の帆をこしらへました。私の指圖にしたがひ、一番丈夫なきれを十三枚重ねて〔、〕〔縫〕ひ合はせました。私は一番丈夫な太い綱を〔、〕十本、二十本、三十本と〔一生けんめいに、〕なひあはせました。それから海岸をかがし𢌞つて〔、〕錨のかはりになりさうな〔、〕大きな石を見つけました。ボートに塗ったり、その他いろんなことに使ふため、三百頭の牛の脂をもらひました。何より骨の折れたのは、オールとマストにするため大きな木を伐りたほすことでした。しかし、これは陛下の船大工が手傳つてくれました。〔て、〕私がただ粗けずりすれば、あとは大工がきれいに仕上げてくれました。

 一月もすると準備はすつかり出來上りました。私はいよいよ出發の許可の御命令がいただきたいと〔陛〕下に願ひました。陛下は皇族たちと一緒に宮殿から、わざわざ出て來られました。私は皇帝の手に接吻〔キス〕しようとして、うつぶしに寢ました。

 陛下は快く手を貸して下さいます。皇后も、皇子たちも、みなさう〔手に〕接吻〔キス〕を許して下さいました。〔それから、それから〕皇帝は二百スプラグ入りの金袋を五十箇と、陛下の肖像畫を〔せんべつに餞別に〕私に下さい〔賜はり〕ました。肖像畫の方は、〔い〕たまないやうに、すぐ片一方の手袋の中にしまつておきました。

[やぶちゃん注:現行版は以下の通り。

   *

 陛下は快く手を貸してくださいます。皇后も、皇子たちも、みな手にキスを許してくださいました。それから、皇帝は二百スプラグ入りの金袋を五十箇と、陛下の肖像画を私にくださいました。肖像画の方は、いたまないように、すぐ片一方の手袋の中にしまっておきました。

   *

「スプラグ」不詳。原文を確認すると、「sprugs」で御覧の通り、斜体である。リリパット国固有の貨幣単位或いは貴金属の重量単位か。]

 私はボートのなかに、牛百頭、羊三百頭の肉と、それ〔に相當する〕 〔同〕じくらゐのパンと飮みもの〔〕〔を積みこみました。〕それから四百人のコツクの手でととのへてくれた肉など〔も〕積みこみました。それから、〔生きた〕牝牛六頭と牡牛を二頭、それから〔、〕牝羊六頭と牡羊二頭を、これらは國へ持つて帰つて、飼ってみようと思ひました。その〔船の〕なかで〔食べさせ〕るために〔、〕乾草を一袋と麥を一袋〔、〕積みこみ〔用意し〕ました。

 私はこの國の人間も十人ばかりつれて行きたかつたのですが、これはどうしても陛下〔の〕〔お〕許〔し〕て下さいません〔でした〕〔が出ません〕。それどころか〔それどころか〕〔こつそりつれてゆきはしないかと〕私のポケツトをすつかり調べられましたたとへ自分から進密航者はゐ〕志願する者があつても、人民は〔決して〕〔つ〕れて行かない誓はされました。

 そんなふうに〔、〕できるかぎりの準備をととのへ、いよいよ、一七〇一年九月二十日の朝六時〔、〕私は出帆しました。風は南東だつたので、北へ向けて四リーグばかり行くと、丁度午后六時頃、小さな島の影が見えて來ました。ぐんぐん進んで行つて、その島に近づき、〔の側で、〕上陸しみましたが〔ボートの錨をおろしましたが〕、ここは〔誰も人のすんでゐない、〕無人島らしいのです私は輕い食事をすませて、ぐつすり眠りました。六時間も眠つた頃、目が〔さ〕め、それから二時間ばかりすると、夜が〔あ〕けて來ました。日の出前に朝飯をすまし、錨をあげて、風向もよかつたので、羅針盤をたよりに、〔昨〕日と同じ進路をつづけて行きました。私の考〔へ〕では、ヴアン・デイーメンの國(濠州タスマニア)の北東にある〔群〕島の、〔どれか〕一つに〔、〕辿〔たど〕りつかうと思つてゐたのでした。

[やぶちゃん注:「無人島らしいのです私は」の句点なしはママ。この段落は現行版は大きく異なる。以下に示す(下線は私が振った、大きな異同部分)。

   *

 そんなふうに、できるかぎりの準備をととのえ、いよいよ、一七一年九月二十日の朝六時、私は出帆しました。風は南東だったので、北へ向けて四リーグばかり行くと、ちょうど午後六時頃、小さな島の影が見えてきました。ぐんぐん進んで行って、その島のそばで、ボートの錨をおろしました。こゝは誰も住んでいない無人島らしいのです。私は軽い食事をすませ、ぐっすり眠りました。六時間も眠った頃、目がさめ、それから二時間ばかりすると、夜が明けました。日の出前に朝飯をすまし、錨を上げて、風向もよかったので、羅針盤をたよりに、昨日と同じ進路をつゞけて行きました。私の考えでは、ヴァン・ディーメンズ・ランドの北東にある群島の、どれか一つに、たどりつこうと思っていたのです。だが、その日はついに何も見えませんでした。

   *

「一七一年」「ガリヴァー旅行記」(Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of several Ships)の初版公開は一七二六年であるから、設定を二十五前にしてあることが分かる。因みに、一七〇一年は元禄十四年、一七二六年は享保十六年に相当する。

「四リーグ」ヤード・ポンド法の単位であるが、時代によって一定しないが、凡そ、一リーグ(league)は三・八~七・四キロメートルの範囲内にある。本書公刊よりもずっと後であるが、イギリスで十九世紀頃に定められた現在の「一リーグ」は「三マイル」で「約四・八二八キロメートル」である。但し、海上では「一リーグ」を「三海里(nautical mile:ノーティカル・マイル:現在の国際海里では一八五二メートルに規定)」として使うこともあるので、前者ならば十四・五キロメートル弱、後者の海里換算なら五・五キロメートル強となる。

「ヴアン・デイーメンの國(濠州タスマニア)」原文は「the north-east of Van Diemen’s Land」。「Van Diemen's Land」(ヴァン・ディーメンズ・ランド)はヨーロッパ人によってかつて使われていたオーストラリアの南南東海上にあるタスマニア島の旧名である。同島は一六四二年にタスマニア島最初の探検家であったオランダ人アベル・タスマン(Abel Janszoon Tasman)がオランダ東インド会社(彼の探検は同社の元で行った者)総督アントニオ・ヴァン・ディーメン(Antonio van Diemen)に因んで、「Anthoonij van Diemenslandt」と名づけられた。一八〇三年にイギリスによって流刑植民地とされた際に正式に「Van Diemen's Land」となり、植民された(その後の一八五六年になってアベル・タスマンの方に因んで「タスマニア」に改名されている)とウィキの「ヴァン・ディーメンズ・ランド」にあるが、正式呼称化の一八〇三年どころか、「ガリヴァー旅行記」公開の一七二六年の遙か以前、本文内時制の一七一年の時、既に英語圏(或いはイギリス)では、現在のタスマニアは最早、「Van Diemen's Land」と通称されていたことが分かる。]

 翌日、午后三時頃、ブレフスキユから二十四リーグばかりも來たと思へる海上で、一隻の帆船を見つけました。船は南西に向つて進んでゐます。私は大聲〔で〕呼んでみましたが、返事してくれません。しかし丁度、風が凪いだので、私の船はだんだん向へ近づいて行くのでした。私はありつたけの帆を張りました。半時間もすると、向の船でも氣がついて、〔合図〕に旗を出し鐵砲を打ちました。

[やぶちゃん注:「二十四リーグ」前掲の二種の換算では、百十六キロメートル弱か、四十四キロメートル強。]

 これで私はもう一度〔、〕故國が見られ、あの懷しい人たちともあへるのかと思ふと、〔うれ〕しさがこみあげてきました。船は帆をゆるめました。〔それで〕私〔は〕そ〔の〕〔船に〕追ひついたの〔きまし〕た。その時刻は九月二十六日の夕方の五時か六時頃のことでした。私はイギリスの國旗を見ただけで、〔胸が〕ワクワクしました。牛と羊を上衣のポケットに入れると、〔私は〕食料の小さな荷物を抱へて、向ふの船に乘り移りました。

 この船はイギリスの商船で、北海、南海を通つて、日本から帰る途中でした。船長のジヨン・ビデルはデットフッド生れで、大変親切な えらい〔男でした。〔、〕〔そして〕〔おまけに、立派な〕船乘でした。乘組員は五十人ばかりゐましたが、が〕、〔たま〕そのなかに私の以前の仲間のウイリアムがゐました〔たのです〕。このウイリアムが私のことを船長になにかと〔大変よく〕云つてくれました。

[やぶちゃん注:現行版は以下。

   *

 この船はイギリスの商船で、北海、南海を通って、日本から帰る途中でした。船長のジョン・ビデルはデットフォッド生れで、大へん親切な男でした。乗組員は五十人ばかりいましたが、そのなかに私の以前の仲間のウィリアムがいたのです。このウィリアムが私のことを船長に大へんよく言ってくれました。

   *

「日本から帰る途中」江戸初期(一六一三年~一六二三年)にイギリス(厳密には当時は国名おしての「イギリス」は存在せず、「イングランド王国」と「スコットランド王国」の同君連合国であるが、現行の通称で述べる)の東インド会社が肥前国平戸に設置したイギリス商館が存在はしたが、延宝元(一六七三)年のリターン(Return)号事件(日本で売るための羊毛を積んで江戸幕府に貿易再開を求めるために長崎に来航したイングランド船リターン号に対して江戸幕府が上陸を拒絶した事件)を以って幕府は正式にイギリス船の来航を禁じる通告を行っているから、作中時制(一七一年)に日本に来たとすればこれはもう、密貿易である。

「デットフッド」原文「Deptford」で、音写は「デプトフォード」が正しい。ロンドン中心部から少し離れた南東部にある小さな町の名で現存する。]

 船長は私 大変よく〔もてな〕してくれました。一たいそして私に一たい君は〕どこから來て、どこへ行くつもりだつたか、身の上話をきかせてくれ〔話してくれ〕 といふのでひます。ひましたふので〕、私は〕今迄のことをごく簡單に話すと〔しま〕した。だが、すると、だが、〕船長は、私が気が変になつてゐると〔の頭がどうかしてゐると〕思つたやうです。いろんな危險にあつたので頭がどうかしたと〔気が変になつ〕たらしい〕と思つて〔、〕〔ほんとにしてくれません。〕そこで私はポケツトから黒い牛や羊を出して見せてやりました。これには船長も非常に驚いて、私の云ふことが噓でないと納得したやうです〔。〕それから私は〔、〕ブレフスキュ皇帝から貰つた金貨〔や〕肖像画や〔、〕その他この國の珍しい品品をとり出して見せました。そして〔私は〔、〕〕彼には〕二百スプラグ入りの金入を〔船長に〕やり、ました。イギリスに着いたら〔、〕中の羊を一頭づつあげると約束しました。

[やぶちゃん注:現行版は、

   *

 船長は私をよくもてなしてくれました。一たい、どこから来て、どこへ行くつもりだったか、話してくれと言うので、私は今までのことをごく簡単に話しました。だが、船長は、私の頭がどうかしている、と思ったようです。いろんな危険に会ったので、気が変になったと思って、ほんとにしてくれません。そこで私はポケットから黒い牛や羊を出して見せてやりました。これには船長も非常に驚いて、私の言うことが嘘でないと納得したようです。それから私は、ブレフスキュ皇帝からもらった金貨や肖像画や、その他いろいろ珍しい品を取り出して見せました。私は二百スプラグ入りの金袋を船長にやりました。

   *

細部が微妙に違うことが分かり、最終文(無論、原文にある)が丸ごとカットされてしまっている。]

 船は無事に穩かに進み、一七〇二年四月十日、私たちはダウンスに着きました。ただ、途中一つ〔ちよつと〕不幸な事が起きました。それは船にゐる鼠どもが私の羊を一頭、引いていつてしまつたことです。〔そして、〕きれいに肉をむ〔しりと〕られた羊の骨〔は〕、穴の中でみつかりました。

[やぶちゃん注:現行版は、

   *

 船は無事におだやかに進み、一七〇二年四月十日、私たちはダウンスに着きました。ただ、途中でちょっと不幸な事件が起きました。それは船にいる鼠どもが、私の羊を一頭、引いて行ってしまったことです。きれいに肉をむしりとられた羊の骨は、穴の中で見つかりました。

   *

である。しかし例えば、「鼠どもが私の羊を」の読点の除去などは民喜としては珍しく、ちゃんと「トル」と指示しているのである。

「ダウンス」原文「Downs」で「ダウンズ」が正しい。小学館「日本大百科全書」の小池一之氏の解説を引く。『イギリス、イングランド南部、西のハンプシャー県から東のドーバー海峡にかけて続く白亜紀のチョーク質の丘陵。サウス・ダウンズは海岸沿いを東西に延びるケスタ性の丘陵で、南に緩く傾き、北に急斜面をもつ。短毛の肉用ヒツジ、サウスダウン種の原産地。ノース・ダウンズは、ロンドン南方を東西に延び、北方へ緩斜しつつロンドン盆地へ向かって下り、南に急斜面をもち、東方はドーバーの白い崖(がけ)で終わっている。両丘陵とも牧羊地となっており、両丘陵間の地域はウィールドThe Wealdとよばれる農業地帯となっている』。]

 殘りの家畜はみな無事にイギリスへ〔も〕つてもどりました。私はそれをグリニツヂの球場の芝生に放してやりました。〔はじめ〔こ〕ここの草〔でも〕食べるかしら、と心配でしたが、〕〔ここに放してみると〕家畜たちは、この〔〔こ〕この〕草がきれいなので、喜んで食べるやうになりました。〔のでした。〕

 私が長い航海の間、この家畜を無事に飼つたのは、全く船長のおかげでした。私は船長から特別製のビスケツトを分けてもらひ、それを水でこね〔粉にして〕水でこねて、〔家畜に〕食べさせてゐたのです。私はイギリスに暫く滯在してゐる間に、〔私は〕この家畜を見世もの〔物〕にして、かなりお金をもうけました〔。〕が二度目 二度目 〔また、私は〕航海に出ることになつて、〔その〕六百ポンド〔で〕賣りはらひました。

[やぶちゃん注:「六百ポンド」現在(二〇一六年六月二日現在)の一ポンドはたった百五十九円であるが、ネット上の信頼出来る金に拠る換算データでは、一七〇〇年代の一ポンドは、実に二千七百万円以上はあるという。従って「六百ポンド」は軽く十六億二千万円以上はあることになる。これならガリヴァー君、世界の涯まで、確かに行けそうだわ。]

 私が妻子と一緒に暮したのはたつた二ケ月でした。〔もつともつと〕外國を見たいといふ氣持がうづうづして、どうしても、私は家にじつとしてゐられなくなりました。そこで、私は商船「アドヴヱンチュア」号〔の〕乘組員になりました。この航海の話は、〔次に〔に語りますの〕第二篇を讀んで下さい。次の第次の大人國→■〕を讀んで下さい。次の「大人國」で述べます。〕

[やぶちゃん注:「小人国」の最後、自筆原稿八十五枚目は以下五行空き(但し、推敲案は一行後までマス目に無関係にはみ出してはいる)。最後の「を讀んで下さい。次の「大人國」で述べます。」の併存はママ。現行版は以下。

   *

 私が妻子と一しょに暮したのは、たった二カ月でした。もっともっと外国を見たいという気持がうずうずして、どうしても、私は家にじっとしていられなくなりました。そこで、私は商船『アドベンチュア号』乗組員になりました。この航海の話は、次の『大人国』を読んでください。

   *]

2016/06/01

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 小人國(6) ハイ さやうなら (その一)

 

     ハイ さやうなら

 

[やぶちゃん注:現行版では「六、」と頭に通し番号を打つ。]

 

 私は〔私は〕〔、〕この國を去るやうになつたことを〔のですが、それを〕述べる前に、まづ、二ケ月前から〔二ケ月前から〕、私〔を〕陷れようと企てられてゐた〔ねらつて〕ゐた〔私についての〕陰謀のことを語り〔たいと思ひ〕ます。

[やぶちゃん注:「私は〔私は〕」の併存はママ。「語り〔たいと思ひ〕ます」は、現行版では「語ります」である。]

 私が丁度ブレフスキ皇帝を訪ねようと〔、〕準備してゐる最中〔とき〕のことでした。ある晩、宮廷の、ある大官がやつて來ました。(この男〔の大官〕〔は〕は以前〔、〕皇帝の〔機〕嫌を損じたとき、〔じ、そのとき〕私は〔、〕彼のために大いに骨折つてやつたことがあるのです)彼は輿車(くるま)でこつそり、私の家を訪ねて來たのです。〔ました。〕

[やぶちゃん注:「くるま」は「輿」のルビだったのを抹消し忘れたの可能性が強い。現行版では、以下のように推敲前の形に近くなっている。

   *

 私がちょうどブレフスキュ皇帝を訪ねようと、準備しているときのことでした。ある晩、宮廷の、ある大官がやって来ました。(この大官が、以前、皇帝の機嫌を損じたとき、私は彼のために大いに骨折ってやったことがあるのです)彼は車で、こっそり、私の家を訪ねて来たのです。

   *]

是非、お目にかかりたいと〔こつそり内密にお話ししたいことがあると〕云ふので、從者たちは遠〔→ざ〕けました。私は彼を乘せたまま輿→車〕をポケツトに入れると、召使に命じて〔家の〕戸口をしつかり閉めさせました。それから、テーブルの上に車をおいて、その側に座りました。一通り挨拶をすませて〔から〕、相手の顏色を見ると、非常に心配さうな顏色をしてゐるのです。〔、〕

[やぶちゃん注:段落冒頭の字空けなしはママ。現行版では「内密」は「内証」、「相手の顏色を見ると、」と「ゐるのです。〔、〕」は孰れも削除部分が生きていて「相手の顏色を見ると、」「ゐるのです。」である。]

 「一たいどうしたのです。〔何か變つたことでもあるのですか。〕」と私はそのわけを尋ねました。

 「いや、なにしろ、あなたの名譽と生命にかかはる問題ですから、これはどうか〔、〕ゆつくり聞いてください」と言つて、彼は次のやうに話してくれました。〔話しだしました。〕

 「まづお知らせしたいのは、あなたのことで〔、〕近頃、数回〔祕密〕の會議が數〔回〕行は〔ひらか〕れましたが、陛下が、いよいよ決心されたのは、つい二日前のことです。

[やぶちゃん注:以下、【★→】から【←★】の間は自筆原稿の七〇枚目に当たるが、当該原稿は欠落している。そこで青土社版を元にしつつ、歴史的仮名遣や漢字は今までの復元で得た書き癖に基づいて推定して手を加え、全くオリジナルに作成したことをお断りしておく。

 御存知のとほり、ボルゴラム提督は、あなたがこの國に到着以來、あなたをひどく憎んでゐます。どうしてそんなうら→怨〕むのかは【★→】私にはよくわからないのですが、あなたが、ブレフスキュで大手柄をたてられて以來、彼の提督としての人氣が減つたやうに考へ、それからいよいよ憎みだしたのでせう。この人と大藏大臣のフリムナプ、それからまだあります、陸軍大將リムトック、侍從長ラルコン、高等法院長バルマッフ、これらの人々が一しよになつて、あなたを罪人にしようとして、彈劾文を書きました。」

 ここまで彼の話を聞いてゐると、私はむしやくしやしてきたので、

 「何だつて、みんなは私を罪人にしようとするのか、私はそんなに……」

 と云ひかけました。

 「まあ、默つて聞いていて下さい。」

 と、彼は私を默らせました。

 「私はいつかあなたの御恩になつたので、こんなことを打ち明けるのですが、もしかすると、そのために私まで罪になるかわかりません。が、それも覺悟でお知らせするのです。【←★】ここに、その彈劾文の寫しを手に入れてゐますから、今それを讀みあげてみませう〔す〕。

   人間

   人間山に対する彈劾文

 

 第一條

 カリン・デフアー・プリユン陛下の御代に作られた法律によると、宮城の中で立小便をした者は、死刑にされることになつてゐる。それなのに、人間山は皇后陛下の御殿が燒けた〔火事の〕時、火を消すことを口実にして、不埒千萬にも、小便を〔水で〕宮殿の火を消しとめた。

 第二條

 人間山はブレフスキユ國の艦隊を引ぱつて持つて戾つたが、その後、陛下は殘りの敵も全部とらへて來いと命令された。それ皇帝→陛下〕はブレフスキユ國を我が〔征服して〕属國にしてしまうふつもり〔お考へ〕だつた。すると人間山は〔不忠にも〔、〕〕陛下の御考へに反對し、その命令に從はなかつた。

〔「罪のない〕人民の自由や生命は■■奪へません」と、こんな口実を云つなまいきなことを云つた。〔ことを云つた。〕

 第三條

 ブレフスキユ國から陛下に講和の使節が〔やつて〕來た時、その使節→は〕敵國の〔皇帝の〕使であることを知つてゐながら、人間山は、まるで叛逆者のやうに、これを助けたり慰めた〔り〕した。

 第四條

 人間山は近頃、ブレフスキユ國へ渡らうとして航海の準備をしてゐる。陛下はただ、口〔さき〕で航海を→ちよつと〕許可された〔だけな〕のだ。それをいいこと口実→こと〕にして、彼は不忠にも敵國の皇帝と會ひ、敵國を助けようと企んでゐる。

[やぶちゃん注:「彈劾文」中の「人間山」の下線は底本では傍点「ヽ」。「彈劾文」には甚だしい異同はない。現行版では標題が、「人間山に対する彈劾文」とゴシック太字となっており、後に行空けはなく、この標題も一字下げでしかない。]

 

 このほかにもまだあるのですが、主なところを今讀みあげてみたのです。

 〔ところで〔、〕あなたの罪状について〔、〕〕この彈劾文をめぐつて、何度も議論が行はれましたが〔たのですが〕、陛下は〔、〕あなた〔が〕これまで〔立派な〕手柄→を〕ことを云はれ持出さ→立ててゐられるので、〕〔〕まあ、大目にみて罪は輕くしてやれ、と仰せな〔云はれ〕のです。だが〔しかし〕、大藏大臣と提督の二人は、どこまでもどこまでも頑固で、〕〔「〕夜中にあなたの家に火をつけて、燒き殺してしまつた方がいい、と〔ひどいことを〕云ふのです。それから〔、〕陸軍大將は、〔その時には〕毒矢をもつた二萬の兵をひきいて、あなたの手や顏を攻擊する、と、こんなことを云ふのですひます→ふのです〕。

[やぶちゃん注:「〔云はれ〕のです。」の「る」の脱字はママ。]

 それから、〔また、〕あなたの味方の宮内大臣レルドレザルは〔の〕意見を陛下がきかれますと、彼はこんなことを言いました〔す〕。殺すのは〔、〕どうもひどすぎるから、ただ、あなたの兩方の眼をつぶすことにしたらどうでせうか、と〔、〕こんなことを陛下に申し上げたのです。すると、これには議員たちみ〔ん〕な反對〔て、〔少〕騒がしくなり〕しました。

 〔おま→君は〕叛逆者の生命を助けようとするのかと〔、〕ボルゴラムは〔■ど→は〕どなりだしました。皇后の御座所の火事を立小便で消すことのできるやうな男〔なら〕、いつ大水を起して〔宮〕城を■■水浸しにしてしまふかもわからない、それに、敵艦隊を引張つて來たあの力〔で〕は、一たん何か腹を立ててあばれだしたら大變なことになる、と〔、〕ボルゴラムは云ふのです〔死刑を〔とく→説く〕のです〕。

 大藏大臣も、あんな男を養つてゐては、間もなく國が貧乏になつてしまふと言つて、死刑を主張しました。しかし、陛下はどこまでも、あなたを死刑にはしたくないお考へでした。

 兩方の眼を潰しただけでは〔、〕刑が輕すぎるといふのなら、食物を減して、だんだんやせ衰へさせるといいでせう、身躰が半分以上も小さくなつて死ねば、死骸から出る臭ひ〔だつて、〕さう恐しくはないし、骸骨だけは記念物として殘しておけます、と、宮内大臣は云ひました。

 そんなわけで、結局どうやら→とにかく、〕〔議論 〔どうやら結局、事件〔みんなの意見〕はまとまりました〔が〕、〔この、〕あなたを餓死さす、計劃は、〔ごくごく〕祕密にされてゐました。ます〕〔るのです。〕

 〔あと〕三日後に〔する〕と、あなたの味方の大臣がここへ訪ねて來るでせう。そして〔、〕彈劾文を讀んできかせます。〔、〕それから、陛下のおかげで、あなたの罪は兩眼を失くするだけですむことになつた〔、〕と告げることになつてゐます。陛下は〔、〕あなたがよろこんで、この〔刑〕に服されると信じて〔すだらうと思つて〕ゐられます。そこで、外科醫二十名が立合のうえで、あなたを地面に寢かせ、あなたの眼球に〔、〕鋭く尖つた矢を〔、〕何本も射込むことにな手筈になつてゐます。

 私はただ、ありのままを、あなたにお知らせしたのですから→が、どうか、そのつもりでゐてください。〔あまり〕長居をしてゐると〔、〕人から疑れますから、これで失禮〔いた〕します。」

 さう云つて〔高官〕〔は〕は歸つて〔ゆ〕きました。後に殘された私は、どうしたらいゝのかしらと、いろいろ惱みました。

[やぶちゃん注:現行版では「高官」は「大官」。]

 とうとう私は逃げ出すことに決心しました。三日が來ないうちに、私は宮内大臣に手紙を送り、明日の朝ブレフスキュー島へ出發するつもりだと云つてやりました。〔もう〕返事など待つてはゐられないので〔ません〕、そのまま海岸の方へ步いて行きました。

 そこで大きな軍艦を一隻つかまへ、綱を結びつけ、錨をあげると、裸になつて、着物は軍艦に積み込みました。それから、その船を引張つて、步いたり泳いだりしながら、ブレフスキュの港に着きました。

 向では私の來るのを待ちかねてゐたところでした。〔す。〕二人の案内者をつけて、首都まで案内してくれました。城門から〔私は二人〕を兩手にのせて城の近くまで行きましたが、ここで、誰か大臣を呼んで〔に知らせて〕きてくれ〔、〕と賴みました。

 しばらく待つてゐると、皇帝御自身が私を出迎へになるといふ返事ことでした。私は百ヤードばかり步いて行きました。皇帝〔と〕その從者たちは〔、〕馬から降りられました。皇后は馬車から降りられました。みんなちよつと〔すこし〕も私を恐がつてゐる樣子はありません。私は地面に橫になつて、陛下の手に接吻しました。それから私は〔かう〕申し上げました。いつかの約束どほり、リリバツト皇帝の許を得て、今このとほりブレフスキユ大帝にお目にかかりに來ました、私の力でできることなら何でも致します、と。

[やぶちゃん注:この最後の段落は自筆原稿の指示に私ならこう従うという形で校正した結果である。現行版は、

   *

 しばらく待っていると、皇帝御自身が私を出迎えになるということでした。私は百ヤードばかり歩いて行きました。皇帝とその従者たちは、馬からおりられました。皇后は馬車からおりられました。みんな、少しも私を怖がっている様子はありません。私は地面に横になって、陛下の手にキスしました。それから、いつかの約束どおり、リリパット皇帝の許しを得て、今このとおりブレフスキュ大帝にお目にかゝりに来ました、私の力でできることなら何でもいたします、と、私はこう申し上げました。

   *

とまるで違う。

「百ヤード」九十一・四四メートル。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたしの愛する作品

 

       わたしの愛する作品

 

 わたしの愛する作品は、――文藝上の作品は畢竟作家の人間を感ずることの出來る作品である。人間を――頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を。しかし不幸にも大抵の作家はどれか一つを缺いた片輪である。(尤も時には偉大なる片輪に敬服することもない訣ではない。)

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「親子」(全四章)「可能」「ムアアの言葉」「大作」と合わせて全八章で初出する。

 ここで芥川龍之介は「わたしの愛する作品は、――文藝上の作品は」と芸術作品の中でも文学に限ったそれとして示しているように見える。しかしどうであろう。大作」で彼は『ミケル・アンヂエロの「最後の審判」の壁畫よりも遙かに六十何歳かのレムブラントの自畫像を愛してゐる』と述べている。ミケランジェロの「最後の審判」が私(藪野直史)にとって退屈だったのは、それが聖書世界を「どうだ!」と言わんばかりに閉じられた系として示しているばかりで、そこにミケランジェロという天性の超絶技巧の筆鋒は見えても、少しもそこにミケランジェロという男の「人間を感ずることの出來」なかったからだと思う(あの壁画にはミケランジェロの絵を批判し、修正を要求した連中への強烈な揶揄が込められている箇所もあるが、それは龍之介風に言わせてもらえば、私にとっては「正に器用には描いてゐる。が、畢竟それだけだ。」と言うべきものでしかない)。それに対し、「レムブラントの自畫像」のなんと「頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた」「人間を感」じさせることだろう!

 翻って、別な角度からこのアフォリズムを見るなら、芥川龍之介自身の作品はどうなのか、という問題が浮上してくる。「不幸にも大抵の作家はどれか一つを缺いた片輪である」とし、「時には偉大なる片輪に敬服することもない訣ではない」という謂いからは、龍之介はまず、「頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を」「感ずることの出來る作品」書ける小説家であることは自認していると考えてよい。但し、問題は〈そうした「人間」存在を書ける作家〉(そうした「人間」を書くことが可能な作家)であって、それは自ずから現に〈そうした「人間」現に書いている作家〉の謂いではないということである。そうして彼が「頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を」「感ずることの出來る作品」を「わたし」は「愛する」と呟く時、そこには一抹の寂しさ――そうした「頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を」「感ずることの出來る作品」を現に自分が書いていない、或いは嘗て「書けた」と信じていたものの今考えると書けていなかった、或いは以前は書けたのに今は書けなくなってしまった/もう書けなくなるかもしれないという恐れにも似た寂寥が龍之介を襲っているとも読めるのである。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 大作

 

       大作

 

 大作を傑作と混同するものは確かに鑑賞上の物質主義である。大作は手間賃の問題にすぎない。わたしはミケル・アンヂエロの「最後の審判」の壁畫よりも遙かに六十何歳かのレムブラントの自畫像を愛してゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「親子」全四章と「可能」「ムアアの言葉」、後の「わたしの愛する作品」の全八章で初出する。

 

・『ミケル・アンヂエロの「最後の審判」の壁畫』ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 一四七五年~一五六四年)のシスティーナ礼拝堂の祭壇にフレスコ(fresco:生乾きの壁に顔料を水で溶いて絵を描き、壁の乾燥によって定着させる絵画技法。イタリア語の「新鮮な・生気ある」という形容詞に由来する)で描かれた壁画「最後の審判」は実に一五三四年から一五四一年まで七年をかけて描かれた。現世の終末に於いてキリストが再臨し、天使に囲まれたキリストが生前の行いによって人々の魂を裁いている情景をパノラミックに描き出した十三メートル七十センチ×十二メートルに及ぶ非常な「大作」である(主にウィキの「ミケランジェロ・ブオナローティに拠った)。私は修復前に見たが、全く感動することなく、ただ首筋を痛めただけであった。

・「六十何歳かのレムブラントの自畫像」ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家でバロック期を代表する画家レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn 一六〇六年~一六六九年)は生涯多くの自画像を手掛けているが、「六十何歳かの」(一六六六年頃から没年まで)それとなると、逝去する一六六九年の作とされるこれか。

 

Rembrandt1669

 

因みに私は断然、一六五九年から一六六〇年の作(或いは一六六一年作とも)とされる、以下の白い帽子の自画像を殊の外、偏愛している。

 

Rembrandt1661

 

諸注は芥川龍之介が愛しているというレンブラントの自画像の同定すらしていない。そんな注は注の風上にも置けぬものと私は思うのだが、如何?]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) ムアアの言葉

 


       ムアアの言葉

 

 ジヨオヂ・ムアアは「我死せる自己の備忘錄」の中にかう言ふ言葉を挾んでゐる。――「偉大なる畫家は名前を入れる場所をちやんと心得てゐるものである。又決して同じ所に二度と名前を入れぬものである。」

 勿論「決して同じ所に二度と名前を入れぬこと」は如何なる畫家にも不可能である。しかしこれは咎めずとも好い。わたしの意外に感じたのは「偉大なる畫家は名前を入れる場所をちやんと心得てゐる」と言ふ言葉である。東洋の畫家には未だ甞て落欵の場所を輕視したるものはない。落欵の場所に注意せよなどと言ふのは陳套語である。それを特筆するムアアを思ふと、坐ろに東西の差を感ぜざるを得ない。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「親子」全四章及び「可能」と、後の「大作」「わたしの愛する作品」の全八章で初出する。底本後記によると、初出では最初の一段落目が、

 

 ジヨオヂ・ムアアは「我死せる自己の備忘錄」の中にかう言ふ言葉を挾んでゐる。――「偉大なる畫家は名前を入れる場所をちやんと心得てゐるものである。又決して同じ所に二度と名前を入れぬものである。」實際、

 

となっているとするが、これが事実とすると、奇異である(後記の記載はこれで以下が繋がっているとも書かれていないし、そもそもが「実際、勿論、……」という言い回しはお洒落でなく、凡そ芥川龍之介らしくない。在り得るミスは、この「實際、」は龍之介の原稿の抹消字を植字工と校正工が誤って活字化してしまったケースである。だとすれば、龍之介はこのアフォリズムを初め、現在の――「勿論、」の改行――ではなく、「勿論、」と改行はなしで、

   《仮定復元開始》

 ジヨオヂ・ムアアは「我死せる自己の備忘錄」の中にかう言ふ言葉を挾んでゐる。――「偉大なる畫家は名前を入れる場所をちやんと心得てゐるものである。又決して同じ所に二度と名前を入れぬものである。」實際、「決して同じ所に二度と名前を入れぬこと」は如何なる畫家にも不可能である。しかしこれは咎めずとも好い。わたしの意外に感じたのは「偉大なる畫家は名前を入れる場所をちやんと心得てゐる」と言ふ言葉である。東洋の畫家には未だ甞て落欵の場所を輕視したるものはない。落欵の場所に注意せよなどと言ふのは陳套語である。それを特筆するムアアを思ふと、坐ろに東西の差を感ぜざるを得ない。

   《仮定復元終了》

と一段落で書こうとした可能性が浮上するとは言える。しかし、字面上からダッシュ引用に直に続けて龍之介が語り出すという形式もまた、龍之介の表現のダンディズムからは外れる。この仮定が正しいとしても、現行の形がよい。なお、死後刊行の単行本「侏儒の言葉」の編者注には、以下のようにある(編著者不詳。社主にして龍之介の盟友菊池寛が主導したものとは思われる)。

   《引用開始》[やぶちゃん注:本文引用は原本では全体が一字下げで、下部が二字インデントである。]

二、本交七十五頁 「ムアアの言葉」

――「偉大なる畫家は名前を入れる場所をちやんと心得てゐるものである。又決して同じ所に二度と名前を入れぬものである。」實際、

勿論「又決して同じ所に二度と名前を入れぬことは」如何なる畫家にも不可能である。

(以下略)

校正者はこの「實際」、の二字を削つた。これは當を得たことではないかも如れない。――しかし當時の原稿の散らばつてしまつた今日では。その當時の原稿はいま誰の手にあるのか。

   《引用終了》

 「ムアア」「ジヨオヂ・ムアア」ジョージ・ムーア(George Moore  一八五二年~一九三三年)はアイルランド生まれの詩人・小説家。一八七三年に画家を志してパリに行き、ステファーヌ・マラルメ、エミール・ゾラ、エドゥアール・マネ、エドガー・ドガらと交友を結んだ。パーシー・ビッシュ・シェリー、テオフィル・ゴーチエ、オノレ・ド・バルザック、ウォルター・ペイター(Walter Horatio Pater 一八三九年~一八九四年:イギリスの批評家。代表作の一つである一八七三年発表の「ルネサンス」(The Renaissance:「文芸復興」)はオスカー・ワイルドら世紀末の唯美主義文学者に強い影響を与えた)の四人の詩人・小説家に多大なる影響を受けた、と自伝的作品「一青年の告白」(Confessions of a Young Man 一八八八年)に綴っており、また、エドゥアール・デュジャルダン(Édouard Émile Louis Dujardin 一八六一年~一九四九年:フランスの詩人・小説家・評論家。象徴派詩人としてマラルメに師事する一方、音楽評論に優れ、ワーグナーをフランスに紹介。象徴主義雑誌『ワーグナー評論』(Revue wagnérienne  一八八五年)など、幾つかの雑誌を創刊して卓抜した象徴主義理論を展開した)から小説技法について多大なる影響を受けている。ロンドン文壇に小説家としてデビューするが、その後、故郷アイルランドにUターンして定住、ウィリアム・バトラー・イェイツやグレゴリー夫人らとダブリンでアイルランド文芸復興運動に参加した。小説「湖」でイメージを反復させる印象派的技法を取り入れ、ジェイムズ・ジョイスにも影響を与えている。晩年はロンドンで創作を続けた(主節部分は「はてなキーワード」を元にし、私の知らない人物その他についてはネットの諸情報で補填した。私は私の知る人物については原則、注、特に細かなそれは附けない主義であるので、悪しからず。逆に注が附いている箇所はその人物や書物を見たことも聴いたこともないという私の智の致命的欠落瑕疵であると、ほくそ笑まれて全く構わない)。

・「我死せる自己の備忘錄」(Memoirs of My Dead Life)はジョージ・ムーアの一九〇六年の刊本(英語版の彼のウィキに拠る)。岩波新全集の山田俊治氏の注では、『芥川旧蔵書では、引用部分に下線があり、「カウ言ウヿヲマジメニ言フホド moor ノミナラズ毛唐人ハ鈍感ト見エタリ」との書き込みがある』とある(「moor」の綴りはママ)。老婆心乍ら、「ヿ」は「コト」(事)の約物(やくもの)。なお、山田氏は本書の刊行を一九〇五年と記しておられる。

・「偉大なる畫家は名前を入れる場所をちやんと心得てゐるものである。又決して同じ所に二度と名前を入れぬものである。」海外サイト「Internet Archive」のMemoirs of My Dead Life全文テクスト・データから当該箇所を見つけることが出来た。以下に示す。

   *

A great painter always knows where to sign his pictures, and he never signs twice in the same place.

   *

・「落欵」「らくくわん(らくかん/らっかん)」。落款に同じい。「落成款識(らくせいかんし)」の略語。書画を作成した際に製作時や記名識語(揮毫の場所・状況・動機等)や詩文などを書き付けたもの(或いはその行為)を指す。慣習上は署名として押捺された印影又は署名に代えて押捺した印影を指すことが多い(ウィキの「落款を参照した)。

・「陳套語」「ちんたう(とう)ご」決まりきっていて古臭い言い回し。「陳套」は陳腐・旧套に同じい。「陳」は「古臭い・古くて悪化した」の意で、「套」は「物に掛ける覆い」の意から「同じことを重ねる・ありきたり」の意となったもの。

・「坐ろに」「そぞろに」と訓ずる。何となく、何とも言えず、の意。]

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 可能

 

       可能

 

 我々はしたいことの出來るものではない。只出來ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社會も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出來なかつたであらう。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「親子」全四章と、後の「ムアアの言葉」「大作」「わたしの愛する作品」の全八章で初出する。冒頭の「我々」はママ(他の二箇所は「我我」であるのに、である)。

 ここまでで「侏儒の言葉」は八十三章(「又」を一回に数えて)になるが、私は幸いと言うか、ただのマニアックな拘りというか、まだ一度も書誌情報だけで注せずに阿呆のように、この『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)』を掲げたことは、ない。しかし、私はこの語注も不要に見える、分かり切ったアフォリズムを書誌情報のみで終わらせて次に流そうとも思ったものである。しかし、どうも気になる。このアフォリズムは、言わずもがなであるが、

 

○「我々はしたいことの出來るものではない。」

●「我々」という存在は何人(なんぴと)も――「したいこと」――やりたいこと、願望し、熱望すること――を人生に於いて実現「出來る」存在ではない。

○「只出來ることをするものである。」

「我々」という存在は何人(なんぴと)も――ただ「出來ること」――「した」くもない「こと」、やりたくないこと、これっぽちっも望んでなどはいないこと――を人生に於いて成している存在である。

○「これは我我個人ばかりではない。我我の社會も同じことである。」

●このまことに残念なおぞましい事実は「我我個人ばかり」に見られる事実ではない。「我我の社會も同」様で、現実社会国家というものも、ただ「出來ること」――「した」くもない「こと」、やりたくないこと、「社會」を構成している誰一人として、これっぽっちも望んでなどはいないこと――をやっているのである。

○「恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出來なかつたであらう。」

●そうしてその命題は社会国家からより外縁へと敷衍されるであろう。即ち――この世界宇宙を塑像した「神」でさえ「も」、「希望通りに」は「この世界を造ることは出來なかつた」――「神」は創「造」したくもない世界を、「造」りたいなんぞとは微塵も思いもしなかった宇宙を、たまたま――ただ「出來ること」を成すのみである――というこの蒼ざめた真理に基づいて創「造」したに過ぎなかった――という真理である。

 

という極めて救いがたい厭世主義として読める。ところが、ふと気がつくと、この原理は既に提出された「親子」の個別命題にフィード・バックするように読めるのである(この号は巻頭が前の「親子」全四章でその後にこのアフォリズムが来る)。謂い方を変えるなら、帰納法的にこの「可能」の真理命題が引き出されるかのように龍之介は書いていると言えるのではあるまいか?

 試みに煩を厭わず、「親子」と「又」「可能」を総て「*」に代えて再現してみる。

 

   *

 親は子供を養育するのに適してゐるかどうかは疑問である。成程牛馬は親の爲に養育されるのに違ひない。しかし自然の名のもとにこの舊習の辯護するのは確かに親の我儘である。若し自然の名のもとに如何なる舊習も辨護出來るならば、まづ我我は未開人種の掠奪結婚を辨護しなければならぬ。

   *

 子供に對する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に與へる影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。

   *

 人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる。

   *

 古來如何に大勢の親はかう言ふ言葉を繰り返したであらう。――「わたしは畢竟失敗者だつた。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」

   *

 我々はしたいことの出來るものではない。只出來ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社會も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出來なかつたであらう。 我々はしたいことの出來るものではない。只出來ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社會も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出來なかつたであらう。

 

これを、最後の「可能」の命題を用いて私なりに書き直してみるならば、

 

【「親子」第一章】「親は子供を養育するのに適してゐるかどうかは疑問である」。何故なら、「子供を養育」したいと思って子供を産んだのではないからである。我々は「只出來ることを」した結果として子供を産んだに過ぎないからである。「未開人種の掠奪結婚」に象徴されるような性的欲求の充足の結果として子供は生まれるとも言える。「これは我我個人ばかりではない。我我の」現代「社會も同じことである」。《但し、芥川龍之介の名誉のために言っておくと、「未開人種の掠奪結婚」は人間の獣性の単なる比喩に過ぎない。寧ろ、私などは、生物学的遺伝学的に考えるならば、同族内による繁殖は滅亡に至るリスクが一気に高まるから、後世の下らぬ倫理などを無視するならば、他の族からの掠奪婚の有用性を、私は「辯護」することが出来ると言える。なお、ここで殊更に龍之介が「牛馬」を出すのは、子が親の使役の道具として生まれさせられ、将来の親の養育という使役に駆り立てられることを隠喩しているようにも私には読めることをここで言い添えておく》

【「親子」第二章】「「我々はしたいことの出來るものではない。只出來ることをする」のみである。その結果として、自らの腹を痛めて生んだ「子供に對」して、「母親」というものは、ある意味、最も不可思議な心性を持つものである。即ち、彼女が捧げるところの「最も利己心のない愛」である。「が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に與へる影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかであ」って、結果として「子」自身の不幸、或いは「我我の社會」にとって甚大な禍(わざわ)いとなる。「最も利己心のない愛」という神聖な「愛」が、個人はおろか、「社會」国家も宇宙までも滅亡の危機に陥れる虞れがあるとしたら――それはまさに「神も希望通りにこの世界を造ることは出來なかつた」という命題が真であることの証しと言えるのである。

【「親子」第三章】「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる」。何故なら、「我々はしたいことの出來るものではない。只出來ることをするもの」だからである。子が生まれて親となった時、「子」の方は、小説「河童」で私芥川龍之介が皮肉に描いた如く、自身の生まれたいという願望に従って生まれたのではない、という厳然たる事実がある。また、「親」は、現象としては性行為という性的欲求の充足の結果として「子」が出現した。それを「養育」すれば、将来の自身を「養育」してくれる、するのが当たり前である、それが「只出來ることをする」しかない我々人間「社會」の常であるからである。そうした荒涼たる景色の中には互いに笑い合うようなことは一時だに存在しない。だからこそ「人生」そのものが壮大で退屈な、しかも窮屈な椅子に縛り付けられて見続けなければならぬ「悲劇」なのである。

   *

【「親子」第四章】「我々はしたいことの出來るものではない。只出來ることをするものであるこれは我我個人ばかりではない。我我の社會も同じことである」。いや、「恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出來なかつた」のである。だからこそ、「古來」、「大勢の親は」、『わたしは畢竟失敗者だつた。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。』」と「言ふ言葉を繰り返」さざるを得なかったのである。そんな見当違いの誤った、誰にも――神にも――実現不可能な絶望的な願望を抱かねばならぬ/その願望を義務として背負わされる対象者とならねばならぬからこそ、「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる」とも言えるのである。

 

となろう。

 いや――そうして――そうして私が今回、驚愕したのはこの、標題である。「可能」というそれである。

 芥川龍之介はその遺書(私の二〇〇九年に作成した「芥川龍之介遺書全六通 他 関連資料一通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」で全文が読める)の『□4 「わが子等に」遺書』の末尾を次のように擱筆している。因みに、龍之介の自死は昭和二(一九二七)年七月二十四日未明で、本章の発表から二年半後のことである。

 

八汝等の父は汝等を愛す。 (若し汝等を愛せざらん乎、 或は汝等を棄てて顧みざるべし。 汝等を棄てて顧みざる能はば、 生路も亦なきにしもあらず)

 

要らぬことかも知れぬが、敢えて口語訳しておこう。

 

第八条 お前たちの父である私は、お前たちを愛している。(もし、お前たちを愛していなかったとしたなら、或いは、お前たちを棄てて一顧だにしないことも可能であろうお前たちを棄てて顧みぬことが可能であるとしたならば、或いは生き残る道もまた、ないわけではない、のである)

 

……私が戦慄した意味が、諸君にもお分かり戴けるものと信ずる。…………]

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