芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 文章
文章
文章の中にある言葉は辭書の中にある時よりも美しさを加へてゐなければならぬ。
又
彼等は皆樗牛のやうに「文は人なり」と稱してゐる。が、いづれも内心では「人は文なり」と思つてゐるらしい。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に、前の「小説」と、後の「女の顏」「世間智」(二章)「恒産」「彼等」「作家所生の言葉」と合わせて全九章で初出する。第一章のアフォリズムは「侏儒の言葉」の中で特異的に素直で優等生の模範解答的なそれである。而して毒だらけの中に配すると、実にその美しさが際立つということを龍之介はしっかり認識していたに違いない。私も癪だけれど、教師時代の抄録には必ずこれを入れぬ訳には行かなかった。
・「樗牛」「ちよぎう(ちょぎゅう)」と読む。私も偏愛する小説「滝口入道」の作者であるが、一般には評論家として紹介される高山樗牛(明治四(一八七一)年~明治三五(一九〇二)年)のことである。平凡社「世界大百科事典」の野山嘉正氏の解説を見てみよう(コンマを読点に代えた)。『明治期の美学者、倫理学者、文芸評論家。山形県鶴岡生れ。本名林次郎。旧姓斎藤、幼い』時に『高山家へ入籍。第二高等中学(後の第二高等学校)を経て』、明治二九(一八九六)年、『東京帝大文科大学哲学科を卒業』しているが、在学中の明治二七(一八九四)年に『読売新聞』の懸賞小説に「平家物語」に材を取った悲恋物語「滝口入道」が入選、『注目されたが、樗牛自身は学問の活性化をめざしてエッセイストの道を選んだ』(「滝口入道」の作者は樗牛の生前はずっと匿名のままあったとウィキの「高山樗牛」にはある)。大学卒業と同時に『第二高等学校教授となったが、翌年辞任して博文館に入社』、雑誌『太陽』主筆となって『鋭い批評文を精力的に書いた。日本主義から、ニーチェ賛美、〈美的生活〉の提唱、日蓮研究へとめまぐるしく主張は変化したが、本能に基づくロマン的な意志の確立という姿勢は一貫している』。「吾人(ごじん)は須(すべか)らく現代を超越せざるべからず」(「無題錄」)という『名文句で知られるが、留学直前に病で倒れ、美学・美術史の研究を緒に就かせたままで永眠』した。芥川龍之介には大正八(一九一九)年一月に、樗牛会が刊行した『人文』に載せた「樗牛の事」があるが(リンク先は青空文庫のそれ。但し、新字新仮名遣で、勝手な表記変更が施された角川文庫版を底本としている)、それを読むと、冒頭から中学の三年の学年末休暇の時(明治四〇(一九〇八)年三月で満十六歳。樗牛はそれより五年前に亡くなっている)、『始めて樗牛に接した自分は、あの名文から甚よくない印象を受けた。と云ふのは、中學生たる自分にとつて、どうも樗牛は噓つきだといふ氣がしたのである』と始まり、その後、作家になって間もなく、改めて樗牛全集を読み返してみたところ、『無論そこには』相変わらず、『厭味や淚があつた。いや、詠歎そのものさへも、すでに時代と交渉がなくなつてゐたと言っても差支へない。が、それにも關らず』、そ『の文章の中にはどこか樗牛と云ふ人間を彷彿させるものがあつた。さうしてその人間は、迂餘曲折を極めた七めんだうな辭句の間に、やはり人間らしく苦しんだりもがいたりしてゐた。だから樗牛は、噓つきだつた譯でも何でもない。唯中學生だつた自分の眼が、この樗牛の裸の姿をつかまへそくなつただけである。自分は樗牛の慟哭には微笑した。が、その最もかすかな吐息には、幾度も同情せずにゐられなかつた』と綴って、彼の強烈な日本主義にはほとんど触れずに、あくまで樗牛の持っていた人間性を愛惜し、『しかし怪しげな、國家主義の連中が、彼らの崇拜する日蓮上人の信仰を天下に宣傳した關係から、樗牛の銅像なぞを建設しないのは、まだしも彼にとつて幸福かもしれない――自分は今では、時々こんなことさへ考えるやうになつた』と擱筆している(引用は「青空文庫」のものではなく、総て岩波旧全集に拠った)。
・「彼等」芥川龍之介以外の作家、就中、「人」が「文」だと内心思っているとすれば、それはそれこそ唯物史観に立つ左派作家ということか。
・「文は人なり」岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、逝去の年、明治三五(一九〇二)年発表の「文は人也」で、そこで樗牛は『文字は符號のみ、そを註解するものは作者自らの生活ならざるべからず。文は是に至りて畢竟人也、命也、人生也』と言っているとある(引用部の漢字を一部、正字化した)。なお、筑摩全集類聚版の注はこれに注するに、『フランス十八世紀の博物学者ビュフォンの』『「文体論」中の“Le style est l’homme même”の訳語とされる』(実は底本では『ビュフォンの物「文体論」』なのであるが、意味がとれないので除去した)とある。前者が正統な注だが、後者も、悪くない。
・「人は文なり」前の「文は人なり」と並べる時、私は思わず、ウィトゲンシュタインの写像理論を想起する。ウィトゲンシュタイン風に言うなら、鏡に写った僕たちの像を僕たちの姿が説明するのである。文がそれを書いた人間を説明しているんじゃあ、ない。その人間こそが文を説明しているのである。しかしそれは私にとっては、ここで龍之介が鼻白んでいるような唯物的な「人は文なり」(人の思想が外化したものがと文である)と同義なのではない。小説家の場合なら、その作家が芸術家として実在せんとする必死の覚悟こそが小説そのものの実在性を保証し説明していなくてはならないという意味でである。]
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