芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 桃李
桃李
「桃李言はざれども、下自ら蹊を成す」とは確かに知者の言である。尤も「桃李言はざれども」ではない。實は「桃李言はざれば」である。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、前の『「虹霓關」を見て』「經驗」「アキレス」「藝術家の幸福」「好人物」(二章)「罪」と、後の「偉大」と合わせて全九章で初出する。なお、下線太字とした「ざれば」は、原文では傍点「丶」である。
・「桃李言はざれども、下自ら蹊を成す」「たうり(とうり)ものいはざれども、したおのづからみちをなす」と訓ずる。「史記」の「李將軍列傳」の末にある司馬遷の賛の前の部分、
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○原文
太史公曰、傳曰、「其身正、不令而行、其身不正、雖令不從。」。其李将軍之謂也。余睹李將軍、悛悛如鄙人、口不能道辭。及死之日、天下知與不知皆爲盡哀。彼其忠実心、誠信於士大夫也。諺曰、「桃李不言、下自成蹊。」。此言雖小、可以諭大也。
○やぶちゃんの書き下し文
太史公曰く、『伝に曰く、「其の身、正しければ、令せずして行はれ、其の身、正しからざれば、令すと雖も從はず。」と。其れ、李將軍の謂ひなり。余、李將軍を睹(み)たるに俊俊(しゆんしゆんと)して鄙人(ひじん)の如く、口に道辭(だうじ)する能はず。死するの日に及び、天下の知ると知らざると、皆、爲(ため)に盡(ことごと)く哀しむ。彼(か)の其の忠實の心、誠に士大夫に信ぜられしなり。諺に曰く、「桃李、言はざれども、下、自ずから蹊を成す。」と。此の言は小なりと雖も、以つて大いに諭(たと)ふべきなり。』と。
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この「李將軍」は敵の匈奴から「飛将軍」と讃称されたことで知られる前漢の名将李広(?~紀元前一一九年)。文帝・景帝・武帝に仕え、武勇に優れていたが、戦功を認められることなく、自刎して亡くなった。司馬遷(紀元前一四五~一三五年~紀元前八七~八六年?)よりも少し前の人である。「悛悛」は慎み深いこと。「鄙人」は無骨な田舎者。「道辭」は「道」「辭」孰れも「述べる」の意。「諭(たと)ふべきなり」「諭」は「喩」に同じい。「寓意(の教訓)とすべきでものである」の意。ウィキの「李広」には、「逸話」の項には、『李広は清廉な人物であり、泉を発見すれば部下を先に飲ませ、食事も下士官と共にし、全員が食事を始めるまで自分の分には手をつけなかったという』。彼に纏わる今一つの諺「虎と見て石に立つ矢のためしあり」について、『李広は虎に母を食べられて、虎に似た石を射たところ、その矢は羽ぶくらまでも射通した。のちに石と分かってからは矢の立つことがなく、のちに石虎将軍といわれた。このことを揚子雲』(揚雄(紀元前五三年~紀元後一八年)は前漢末の文人。学者としても辞賦作家としても非常に優れていた)『にある人が話したところ、子雲は「至誠なれば則ち金石、為に開く」(誠心誠意で物事を行えば金石をも貫き通すことができる)と言った(西京雑記)』(引用書は「せいけいざっき」と読み、前漢の出来事に関する逸話を集めた書物。「抱朴子」の作者として有名な晋の葛洪(かっこう)撰ともされるが、不詳。内容は随筆というよりも小説に近い)。本故事成句は一般に現在でも、「桃や李(すもも)は何も言わないけれども、花や実を慕って人々が多く集まる故に、その下には自然、道が出来る、と言う喩えから、まことの徳望のある人の下(もと)へは、その人が殊更に何主張・宣明などをせずとも、多くの誠意を持った人々が自然、集まってくるものである、という比喩として通用理解されている。
・『實は「桃李言はざれば」である』老婆心乍ら、「桃李」に迷わされて「實は」を「みは」などと読んではいけない。「じつは」。冗談はさて置き、本句の、前の注で示した辞書上の意味を龍之介は「侏儒」的パラドックスで上手く捻って、
――この我が邦の訓読は真意に於いて誤つてゐる。此處は「桃李言はざれども」と讀むのべきではなく、實は「桃李言はざれば」と讀まねばならぬ。これは『自(みづか)ら「ここに桃李がある」と喋ることは出來ないけれども』の謂ひなどではない。『敢へて自ら「ここに桃李がある」とか何とか辯舌を弄することをせぬからこそ』の謂ひである。
という彼得意のオリジナル解に転じたのである。]
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