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2016/06/10

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 作家(十一章)

 

       作家

 

 文を作るのに缺くべからざるものは何よりも創作的情熱である。その又創作的情熱を燃え立たせるのに缺くべからざるものは何よりも或程度の健康である。瑞典式體操、菜食主義、複方ヂアスタアゼ等を輕んずるのは文を作らんとするものの志ではない。

 

       又

 

 文を作らんとするものは如何なる都會人であるにしても、その魂の奧底には野蠻人を一人持つてゐなければならぬ。

 

       又

 

 文を作らんとするものの彼自身を恥づるのは罪惡である。彼自身を恥づる心の上には如何なる獨創の芽も生へたことはない。

 

       又

 

 百足 ちつとは足でも步いて見ろ。

 蝶 ふん、ちつとは羽根でも飛んで見ろ。

 

       又

 

 氣韻は作家の後頭部である。作家自身には見えるものではない。若し又無理に見やうとすれば、頸の骨を折るのに了るだけであらう。

 

       又

 

 批評家 君は勤め人の生活しか書けないね?

 作家 誰か何でも書けた人がゐたかね?

 

       又

 

 あらゆる古來の天才は、我我凡人の手のとどかない壁上の釘に帽子をかけてゐる。尤も踏み臺はなかつた訣ではない。

 

       又

 

 しかしああ言ふ踏み臺だけはどこの古道具屋にも轉がつてゐる。

 

       又

 

 あらゆる作家は一面には指物師の面目を具へてゐる。が、それは恥辱ではない。あらゆる指物師も一面には作家の面目を具へてゐる。

 

       又

 

 のみならず又あらゆる作家は一面には店を開いてゐる。何、わたしは作品は賣らない? それは君、買ひ手のない時にはね。或は賣らずとも好い時にはね。

 

       又

 

 俳優や歌手の幸福は彼等の作品ののこらぬことである。――と思ふこともない訣ではない。

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年十一月号『文藝春秋』巻頭に(十月号には芥川龍之介「侏儒の言葉――病牀雜記――が掲載されているが、これは病中と名打つからには仕方がないとも言えるものの、本来の「侏儒の言葉」の属性とは異なり、ひどく弛緩した雑記録風のものである。芥川はこの前月初旬、静養先の軽井沢(八月二十日より滞在)で感冒のために四~五日病臥し、小穴隆一や堀辰雄らが看病をしたとあり、病態はかなり重いものであったらしい。九月七日に帰京するも、数日後の十二日前後にぶり返し、再び二十日迄、病臥している。これはその二十日前後の時期の執筆と推定される。リンク先は私の電子テクスト)、以上の全十一章で初出する。

 

・「瑞典式體操」筑摩全集類聚は「瑞典」に『スヱエデン』とルビする。採る。スウェーデン体操(Swedische Gymnastik)は十九世紀の初めにスウェーデンの近代体育の先駆者であったリング(Pehr Henrik Ling 一七七六年~一八三九年)が創始した体操。生理学・解剖学理論を基礎として構成されており、特に教育体操と医療体操に特色がある。スウェーデン体操の特質は、(一)科学的である。つまり指導が段階的に行われる。(二)年齢に応じて発展的に教材を配列でき、性別に関係なく実施できる。(三)身体各部分の運動を含み全身的である。(四)保健的、矯正的特色をもっている。(五)準備運動、整理運動としても優れている。しかしその反面、興味に乏しい、人為的、形式的で日常生活との関係が薄い、律動性に乏しい、運動が局部的などの欠点もあった。日本には明治三五(一九〇二)年に紹介され、学校体育の中心教材として取り入れられ(ここまでは小学館「日本大百科全書」の上迫忠夫氏の解説に拠った)永く日本の体操の根幹を成したが、個々には完成を見なかった。

・「複方ヂアスタアゼ」「diastase」ジアスターゼはデンプンを分解する酵素に用いられた名称で、一八三三年にフランスのパヤン(Anselm Payen 一七九五年~一八七一年)とペルソ(Jean François Persoz 一八〇五年~一八六八年)によって麦芽から分離された。主成分はアミロースを分解するアミラーゼである。よく名を聴く「タカジアスターゼ」は高峰譲吉博士が明治(一九〇九)年に創製した酵素剤の商標で、米麹菌から抽出されたもの。アミラーゼのほかにタンパク分解酵素をも含む。ジアスターゼ製剤には他に「ジアスターゼ重曹散」「複方ジアスターゼ重曹散」「複方ロートエキス・ジアスターゼ散」などがあり、ここはその「複方ジアスターゼ重曹散」のことで、現在の「日本薬局方」にも「複方ジアスターゼ・重曹散」(Compound Diastase and Sodium Bicarbonate Powder)として、ある。

・「文を作らんとするものは如何なる都會人であるにしても、その魂の奧底には野蠻人を一人持つてゐなければならぬ。」私は芥川龍之介の、このアフォリズム一篇を殊の外、秘かに偏愛し続けてきたことをここに告白する。何を今更?――いいや、何故なら私は遂に「文を作らんとするもの」にはなれなかったからである。

・「氣韻」「きゐん(きん)」とは限定的には東洋画の神髄とされる玄妙な趣き、画面に漂う精神的生命を指すが、ここは広義の優れた芸術作品に湛えられる品格や気品のこと。

・「あらゆる古來の天才は、我我凡人の手のとどかない壁上の釘に帽子をかけてゐる。尤も踏み臺はなかつた訣ではない。」/「しかしああ言ふ踏み臺だけはどこの古道具屋にも轉がつてゐる。」この二章は大変に面白いことを言っている。ありとあらゆる古来の天才たちの天才の秘訣は、「我我凡人の手のとどかない壁上の釘に」その天才となる鍵を我々に見えるようにさりげなく、「かけてゐる」のである。しかも、そこに手を届かせることの「踏み臺はなかつた訣ではない」、いやそれどころか寧ろ、それに適した手軽に天才の鍵を取れる「踏み臺だけはどこの古道具屋にも轉がつてゐる」のである。ただ、そうした「踏み臺だけは」まさに「どこの古道具屋」でも、売れることなく、「天才」の鍵を摘むことが出来る「踏み臺」なのに、その役に立てられることも一切なく、「轉がつて」埃を被って朽ち果てるのを待って「ゐる」ばかりである、と龍之介は言っているのである。さて?! その踏み台とは? それをここで明解に答えられるなら、私はここで、こんなことは、して、いない――

・「指物師」「さしものし」とは、板を細かに指し合わせて机・簞笥・障子・箱などを組み立てて作る職人のこと。私の妻の祖父は名古屋でも知られた指物師であった。

 最後に。

 これらが現在、岩波旧全集が「侏儒の言葉」と標題するところの、遺稿分を含まない狭義の「侏儒の言葉」の最後である。但し、このことはあまり理解されているとは思えないので注記しておきたいのであるが、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の鳥居邦朗氏の「侏儒の言葉」の解説によれば、『文藝春秋』は大正一二(一九二三)年一月の創刊号から、以後、『芥川自裁の翌月の』昭和二(一九二七)年八月『まで、芥川の文章が常に『文芸春秋』巻頭にあった』のである。即ち、現在の「侏儒の言葉」以外のものがその後、芥川龍之介が自死した翌月まで、『文藝春秋』には「侏儒の言葉」と同じような形で、龍之介の文章が巻頭に配され続けていたのである。しかも鳥居氏による同項のコラム記事「『文藝春秋』の目次」には以下のようにあるのである。

   《引用開始》

 創刊号から第4年(1926)の8月号まで[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年八月号まで。言わずもがな改元は同一九二六年の十二月二十五日(改元日は両元号併存)で、昭和元年は同年十二月二十五日から十二月三十一日までの七日間しかない。]は目次は表紙にあった。その間、最後の8月号[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年八月号。]を除いて、第1行[やぶちゃん注:目次の、である。]は常に「侏儒の言葉芥川龍之介」であった。そして8号[やぶちゃん注:この大正一五(一九二六)年八月号のこと。]から「追憶」に変わる。本文の標題は第3年の12月号[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年十二月号。]から変わるのだから、[やぶちゃん注:「追憶」に、である。]以後[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年十二月号からの謂い。]8回[やぶちゃん注:大正十四年十二月号と、翌年の一月号・二月号・三月号・四月号・五月号・六月号・七月号の八回分。]、目次と本文標題がくい違ったままだったのである[やぶちゃん注:「目次」は――「侏儒の言葉」芥川龍之介――でありあがら、本文の方は――「追憶」芥川龍之介――であったことを指す。]。そこには「侏儒の言葉」というタイトルにこだわる編集者菊池寛の意志が感じられる。芥川にもそれは分かっていながら、「侏儒の言葉」のスタイルで書きつづけられなかったのであろう。その事情を物語るのが変わったばかりの十二月号の本文標題である。「澄江堂雑記」に副題「「侏儒の言葉」の代わりに」がついているのである。菊池への友情を守りながらみずからの意志をとおそうとする芥川の姿が見える。

   《引用終了》

この事実からは、実は当時の読者の圧倒的多数は、本文表題が「追憶」に変えられ、芥川龍之介自身が「侏儒の言葉」と認識せず、しかも同じコンセプトでも実はない(龍之介が題名を変えたのはまさにそこにある。或いは、そうした『「侏儒の言葉」のスタイルで書きつづけられな』い感じが実はこの前号の「若楓」「蟇」「鴉」となって現われたのではなかったか?)、「侏儒の言葉」ならざる短文を依然として「侏儒の言葉」として大正一五(一九二六)年七月号まで読み続けた、ということを意味するのである。さらに言えば、読者の中には、目次が正しく「侏儒の言葉」に改められ、本文も「追憶」になっているのにもかかわらず、十年一日で、「侏儒の言葉」の正統にして一貫した「続・侏儒の言葉」として彼が自裁した翌月のそれまで、「侏儒の言葉」としてそれらを読み続けたのだ、とも言えるのである。

 そこで、可能な限り、書誌情報から、この大正一四(一九二五)年十一月号『文藝春秋』の翌月以降、自死翌月までの芥川龍之介の『文藝春秋』所載(鳥居氏は『芥川の文章が常に『文芸春秋』巻頭にあった』と記しておられるが、現物を今の私は見ることが出来ず、書誌情報にも必ずしも巻頭とは記されていないので、「所載」とする)の疑似「侏儒の言葉」と思われるものを順に拾い出して掲げることとする。幸い、二篇を除いて総て、私のオリジナル電子テクストがあるのでそれをリンクしておく。

 

『文藝春秋』

大正一四(一九二五)年十二月号『澄江堂日記――「侏儒の言葉」の代りに』

大正一五(一九二六)年 一月号『澄江堂日記――「侏儒の言葉」の代りに』

大正一五(一九二六)年 二月号『病中雜――「侏儒の言葉」の代りに

大正一五(一九二六)年 三月号『病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに』

大正一五(一九二六)年 四月号「追憶――病中雜記――(「一 埃」「二 位牌」「三 庭木」『四 「てつ」』四章)

大正一五(一九二六)年 五月号「追憶――病中雜記――(「猫の魂」「草双紙」「お狸樣」「蘭」四章)

大正一五(一九二六)年 六月号「追憶」(「夢中遊行」『「つうや」』「郵便箱」「灸」四章)

大正一五(一九二六)年 七月号「追憶」(「剝製の雉」「幽靈」「馬車」「水屋」四章)

大正一五(一九二六)年 八月号「追憶」「追憶」(「幼稚園」「相撲」「宇治紫山」「學問」四章)

大正一五(一九二六)年 九月号「追憶」(「活動寫眞」「川開き」「ダアク一座」「中洲」「壽座」五章)

大正一五(一九二六)年 十月号「追憶」(「いぢめつ子」「晝」「水泳」三篇)

大正一五(一九二六)年十一月号「追憶」(「體刑」「大水」「答案」「加藤淸正」「七不思議」五篇)

大正一五(一九二六)年十二月号「追憶」(「動員令」「久井田卯之助」「火花」三篇)

昭和 二(一九二七)年 一月号「追憶」(「日本海々戰」「柔術」「西川英次郎」三篇)

昭和 二(一九二七)年 二月号「追憶」(「勉強」「金」「虛榮心」「發火演習」「綽名」五篇)

昭和 二(一九二七)年 三月号「輕井澤で――「追憶」の代りに――

昭和 二(一九二七)年 四月号「續文藝的な、餘りに文藝的な」の前篇分(リンク先は私の「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」。なお、同号にはシナリオ「淺草公園」も載るが、流石にこれをアフォリズム集と勘違いする者は皆無であろう)

昭和 二(一九二七)年 五月号『「道芝」の序』・無題

昭和 二(一九二七)年 六月号二人の紅毛人(私のリンク先は私の「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」であるが、「二十八 國木田獨步」の後にこれが配してある)・『「我が日我が夢」の序』

昭和 二(一九二七)年 七月号「續文藝的な、餘りに文藝的な」の後篇分(リンク先は私の「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」)

   *

昭和 二(一九二七)年 八月号「續芭蕉

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