芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 忍從
忍從
忍從はロマンテイツクな卑屈である。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年四月号『文藝春秋』巻頭に、前の「賭博」(三章)「懷疑主義」「正直」「虛僞」(三章)「諸君」(二章)と、後の「企圖」(二章)と合わせて全十三章で初出する。
・「忍從」内心、望んでいないにも拘わらず、耐え忍んで、言われる儘に従うこと。内心、実は望んでいる場合もあるが、その場合は「romanticism」ではなく「masochism」である。しかし、寧ろ、龍之介のここで言っている「ロマンテイツクな卑屈」から得られる苦痛は快感と双方向性を持っており、それに馴れさえすれば、それは快感となるのであって、このマゾヒズムの注も満更、場違いでない気がしてくるではないか?(次注参照)
・「ロマンテイツク」romantic。浪漫(ロマン)的。現実の平凡さや冷たさを離れて、甘美で空想的・情緒的或いは情熱的であるさま。英語の辞書では「空想にふける・空想的な」、「恋愛に夢中な状態にある・恋愛に適した」、「空想の物語風に・小説にでもありそうな」、「(批判的に)計画・考えなどが非実際的な・実行し難い」、「(話や言説が)架空の・虚構の」とある。夢想は現実と齟齬するどころか、対立的である。とすれば「ロマンテイツクな卑屈」趣味とは「リアリステイクな被虐」趣味と言い変えることが出来るのである。
・「卑屈」必要以上に自分を著しく卑(いや)しめ貶(おと)しめて、ある他者に対して諂(へつら)う(「諂う」とは、相手に気に入られるように意識的に振る舞う・その相手に世辞を言う・おもねる・追従 (ついしょう)する等と同義)。おどおどしていじけていること。しかしこれは時に自己韜晦(自らの才能や本心などを内に秘めておいて、決して人に知られないように表に出さないこと)の格好の技法とも言える。とすれば、「ロマンテイツクな卑屈」と見せかけて「忍從」としか見えぬ振る舞いをしている人間は真正のマゾヒストか、或いは、その忍従している人間を心底、軽蔑し、救いがたい人間として認めていないからこそ自己韜晦的に忍従しているのであるとも言えるであろう。こう考えていくと、この短いアフォリズムも、妙にグラデーションが出てきて面白くなるではないか(面白くなるのは、さて、俺だけか?)。]
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