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2016/06/14

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自殺(三章)

 

       自殺

 

 萬人に共通した唯一の感情は死に對する恐怖である。道德的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。

 

       又

 

 自殺に對するモンテェエヌの辯護は幾多の眞理を含んでゐる。自殺しないものはしないのではない。自殺することの出來ないのである。

 

       又

 

 死にたければいつでも死ねるからね。

 ではためしにやつて見給へ。

 

[やぶちゃん注:二章目の太字下線「しない」及び「出來ない」は原文では傍点「丶」。

 

・「自殺に對するモンテェエヌの辯護」「モンテェエヌ」は「エセー」(Les Essais:随想録)で知られる、ルネサンス期のフランスを代表する哲学者でモラリストのミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne 一五三三年~一五九二年)のこと。岩波新全集の奥田政元氏の注に、モンテーニュが『自殺を積極的に勧めることはないが、「エセー」第一巻巻二〇や第五巻一三なふぉに、死に対する自然な人間のあり方などが説かれている』とある。芥川龍之介は「河童」の「十五」で自死した詩人トツクの霊が降霊会で語るシークエンスの台詞に、冥界での交友関係を問われたトツクが友人の一人として彼を挙げるシーンを用意して、

   *

 問 君の交友は自殺者のみなりや?

 答 必しも然りとせず。自殺を辯護せるモンテエニユの如きは予が畏友の一人なり。唯予は自殺せざりし厭世主義者、――シヨオペンハウエルの輩(はい)とは交際せず。

   *

とここに通ずる台詞を言わせている。私は「エセー」を読んだことがなく、所持もしないので、ネット検索をかけてみると、「エセー」には、自殺についての思索として、「死はすべての苦痛に対して用いられる万能薬である。」という見解、「アンブラキアのクレオンブロトスはプラトンの『パイドン』」を読んで大いに来世にあこがれ、ほかにこれという理由もないのに、海に身を投げた。このことから、自殺を絶望と呼ぶのがいかに不適当であるかは明らかである。」とか、「小カトーについて」で例外的なこととしながら、「場合によっては自殺も徳からの行為であり得る」と考えたということが記されてある。ウィキの「エセによれば、『モンテーニュの目的は人間、特に彼自身を、完全に率直に記述することであると『随想録』の中で述べている。モンテーニュは人間性の大きな多様性と移り変わりやすさこそがその最大の特徴であると認識していた。「私自身というものよりも大きな怪物や驚異は見たことがない。」』『というのが典型的な引用句である』。『モンテーニュは自身の貧弱な記憶力や、本当に感情的にはならずに問題を解決し争いを仲裁する能力や、後世にまで残る名声を欲しがる人間への嫌悪感や、死に備え世俗から離れようとする試みのことなどを書いている』。『当時のカトリックとプロテスタントの間の暴力的で(モンテーニュの意見によれば)野蛮な紛争をモンテーニュは嫌悪しており、その書き物にはルネサンスらしからぬ悲観主義と懐疑主義が覗いている』。『総じて、モンテーニュはユマニスム』(humanisme:人文主義)『の強力な支持者であった。モンテーニュは神を信じ、カトリック教会を受け入れていたが、神の摂理がどのような意味で個々の歴史上の出来事に影響していたかを述べることは拒否していた』。『新世界の征服に反対しており、それが原住民にもたらした苦しみを嘆いていた』。『モンテーニュは人間が確実さを獲得できないと考えて』おり、『その懐疑主義は』、『我々は自身の推論を信用できない、なぜなら思考は我々に起こるものであるから。我々は本当の意味ではそれらをコントロールできない。我々が動物よりも優れていると考える相応の理由はない』といった見解に現われているとし、通常、『「知識は人を善良にはできない」と題されている節において、モンテーニュは自身のモットーが「私は何を知っているのか?」(Que sçay-je?)であると書いて』おり、『表面的にはキリスト教を弁護している』箇所もあるものの、『キリスト教徒ではない古代ギリシア・ローマの著述家たちに言及し』、『引用して』いる。『モンテーニュは結婚を子供を育てるためには必要だと考えていたが、恋愛による激しい感情は自由にとって有害なものとして嫌った。「結婚は鳥籠のようなものである。その外にいる鳥は必死になって入ろうとするが、中にいる鳥は必死になって出ようとする。」という言葉がある』。『教育に関しては、抽象的な知識を無批判で受け入れさせることよりも具体的な例や経験の方を好んでいた』。『モンテーニュのエセーに明白に現れている思考の現代性は、今日でも人気を保っており、啓蒙時代までのフランス哲学で最も傑出した作品となっている。フランスの教育と文化に及ぼす影響は依然として大きい』とある。

・「自殺しないものはしないのではない。自殺することの出來ないのである。」ここは次の三章目の台詞と併せ、やはり、前に掲げた萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」の「9」の最後の龍之介が朔太郎に言った言葉、『「だが自殺しない厭世論者の言ふことなんか、皆ウソにきまつてゐるよ。」/それから笑つて言つた。/「君も僕も、どうせニセモノの厭世論者さ。」』を直ちに想起させる。しかし、芥川龍之介が「ニセモノの厭世論者」でないことを〈演じるために死んだ〉とすれば、しかしこれはやはり救いがたい阿呆ということになる。というより、有象無象の明確な複数の自殺要因を抱えながら、自らのダンディズムから、その一つをも示し得ずに「ぼんやりとした不安」と一括して曖昧に表現して厭世主義者として自殺を完遂したのだとしたら、これはやはり想像しがたい悲惨な自裁であったと言わざるを得ない。なお、一見、モンテーニュがこれと同じことをどこかに書いているように見せているが、私はこれは龍之介得意のやらせではないか、と考えている。諸注は特に引用元を示していない。]

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