芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 彼の幸福
彼の幸福
彼の幸福は彼自身の教養のないことに存してゐる。同時に又彼の不幸も、――ああ、何と云ふ退屈さ加減!
[やぶちゃん注:これはごく当たり前の捻りのないつまらぬアフォリズムに見える。実際、洋の東西を問わず、どこかの自称哲人・思想家が宣うていておかしくない見かけ上、陳腐な箴言である。ところが一つ気がつくことがある。この末尾に配された、特異点の龍之介の肉声の嘆息「――ああ、何と云ふ退屈さ加減!」である。これはもうお分かりの通り、先の「結婚」の二章目で、
*
彼は二十代に結婚した後、一度も戀愛關係に陷らなかつた。何と言ふ俗惡さ加減!
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と、酷似した形で既出しているのである。そこで考える。本章は「教養のない」「彼」とは芥川龍之介以外の誰彼(「過半の大衆」と言い換えてもよいと思う。これは大いに大衆に遠慮して、である)である。とすれば、我々は「結婚」のようにこの「彼」を芥川龍之介に読み換えることで、このアフォリズムを次のように容易に書き換えることが出来る。
《言換版開始》
彼の幸福
彼の幸福は彼自身の教養の頗る富んでゐることに存してゐる。同時に又彼の不幸も、――ああ、何と云ふ退屈さ加減!
《言換版終了》
芥川龍之介がここで本当に言いたかったのは、衆愚の幸福/不幸の真の属性などではなかった。彼自身の智故(ゆえ)の地獄のような孤高であり続けることの幸福めいた地獄と、不幸にして幸福なな愚衆らと、遂に繋がることのない不幸なる孤独地獄の醜状をこそ述べたかったのではあるまいか?]
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