芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) レニン
レニン
わたしの最も驚いたのはレニンの餘りに當り前の英雄だつたことである。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年三月号『文藝春秋』巻頭に、前の「藝術」(四章)と「天才」(五章)及び「譃」(三章)と合わせて全十三章で初出する。底本後記によれば、本章の初出は(短いので題名も一緒に出す)、
レニン
驚いたね、レニンと言ふ人の餘りに當り前の英雄なのには。
である。この方が、「侏儒の言葉」の流れの中では特異点となり、芥川龍之介の生の肉声が聴こえてきて面白いと思うのだが、しかし、この特異的な「やくざな眇め」の言葉遣いにはまた、明らかに揶揄の気味が強く感じられ、読む者に厭味な印象を強く与える(私は「龍之介がレーニンを批判的に揶揄している」と断言するのではない。これは、ある人にとっては、龍之介の素直なありのままの感動感懐の吐露表現ともとれるし、そう読む人も決して少なくはないとも思う。しかしそれでもかく私が指摘するのは、短文故に宿命的に付き纏うところの誤解誤読のことを言っているのである)。
そうすると、一部の左派作家から「芥川龍之介はレーニンを馬鹿にしている」という、謂われのない(いや、龍之介マジックにある程度馴れ親しんでいる人物なら「謂れのある」というべきかも知れぬ)批判を受ける可能性が出てくる。周囲の誰彼からそうした表現上の危うさの指摘を忠告されたのかも知れぬ(私が龍之介と親しければ、そうしたことを言うように思う)。いや、或いはそうした批難を、実際にこの号が発売されてから左派系の誰かから受けたのかも知れない(いつの世にもクレーム好きの輩はいるものであり、また、龍之介には今ならストーカーと認定されるような、龍之介が忌まわしく感じるところの、一方的に作品や長々しい手紙を送りつけてきたり、突然、弟子入りを望んでアポなし訪問をしてくる自称「文学青年」「文学少女」、キビの悪い「ファン」もかなりいた)。
ともかくも、初出で肉声の特異点であったこれが、かく書き換えられて出た単行本「侏儒言葉」では、「侏儒の言葉」全体のマニエリスム的秩序に吸収されて目立たなくなっていることは事実である。それは、寧ろ――左からも右からも――このアフォリズムを「侏儒の言葉」群の中で目だってとんがっては見えないようにした――とはまず言える。しかしそれは、龍之介の自己保身のための隠蔽や目眩(めくら)ましといった小手先の狡猾な技なんどでは決して、ない。そこには実は龍之介の内心に於けるレーニンへのアンビバレントな感懐が大きく影響しているように私は思うのである。それを以下の「レニン」について注した後に考えてみたい。
さても「レニン」(この音写は必ずしもおかしくはない)は言わずもがな、ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин 一八七〇年~一九二四年一月二十一日)のことである。本章が書かれたであろう頃から、ほぼ一年前に亡くなったばかりであった。出生だけウィキの「ウラジーミル・レーニン」にから見ておく。『ヴォルガ河畔のシンビルスク(現ウリヤノフスク)にて、アストラハン出身の物理学者イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフとドイツ・スウェーデン系ユダヤ人(ロシア正教に改宗していた)のマリア・アレクサンドロヴナ・ブランク』『の間に生まれる。父方の祖父は解放農奴出身の仕立屋で民族的にはチュバシ系』(祖先は十世紀にヴォルガ・ブルガール国を建国したブルガール人のスアル部族・サビル部族に遡ると考えられている民族。モンゴルによるヴォルガ地域の征服後にブルガール人の一部が北方のフィン・ウゴル系諸民族と混交、十五世紀から十六世紀頃に現在のチュヴァシ人の原型が形成されたとみられている。チュヴァシ人は十五世紀にはカザン・ハン国の支配下におかれてイスラーム化した一部は現在のタタール人と同化したとされる。ここはウィキの「チュヴァシ人」に拠る)『で、曽祖父はモンゴル系カルムイク人(オイラト)であった(曾祖母はロシア人であったという)』。『この様に幾つもの民族や文化が混じるウリヤノフ家は帝政ロシアの慣習から見て「モルドヴィン人、カルムイク人、ユダヤ人、バルト・ドイツ人、スウェーデン人による混血」と定義された。一族の慣わしにより、ウラジーミルはロシア正教会の洗礼を施された』。『父イリヤは物理学者としてだけでなく、著名な教育者(ドヴォリャンスキー学院の物理と数学の上席教師で、非ユークリッド幾何学の発見者の一人であるニコライ・ロバチェフスキーとは大学時代からの親友だった)でもあり、その学者としての活躍を皇帝に評価され』、一八八二年には『貴族に列せられた地元きっての名士だった。当然、息子のレーニンも貴族に属していた訳であるが、父は貴族の地位に甘んじず奴隷や貧困といった階級問題を息子達に伝える努力を惜しまなかった。父の影響により生じたレーニンら子供達の価値観はより貧しい階級や異民族への同情と、階級制度への嫌悪を育む事になる』。事実、早世した者を除くと、『レーニンを含むウリヤノフ兄弟姉妹』五人『全員が革命家の道を選んでいる』とある。以降の革命家人生はリンク先を辿って戴きたい。
何故、華々しい「革命の英雄」の人生に入る前の出生部分だけを抽出したか。それは、この出生だけを見ても、それは「餘りに當り前の英雄」、余りに当たり前に我々の知っている神話や古伝承や無双の戦士の武勇伝にありそうな、貴種流離譚的で波乱万丈伝の幕開けに相応しい出自だと私は言いたいからである。
――レーニンはその出生からしても、全く後に「英雄」なんぞには凡そなりそうにもない「民衆」の名もなき一人なんぞではない――
ということを見たかったからである。
私が問題にしたいのは、龍之介の謂う(「餘りに」+「當り前の」)+「英雄」という語の組み立て方、その組み合わされた「成語」が表現する言説(ディスクール)が、実は必ずしも、論理的な絶対的一義性を保持していないという点である。
思い出して戴きたい、一緒に発表された二つ前の「譃」の第二章目のアフォリズムを。
*
一體になつた二つの觀念を採り、その接觸點を吟味すれば、諸君は如何に多數の譃に養はれてゐるかを發見するであらう。あらゆる成語はこの故に常に一つの問題である。
*
これはまさにこの――「餘りに當り前の」+「英雄」――という二つの語句の「成語」に言えることではないか? ここで私が前の二語を「餘りに當り前の」に纏めたのは、「餘りに」という形容動詞或いはその副詞化したものは、修辞上、「當り前の」に係ると断じてよいと判断するからである。改稿したものは「英雄」の後が「である」と続くから、そこでは「餘りに」→「(英雄)である」という係り受けを主張する方もいようが、それは、ない、のである。何故か? 初出を見ると、そこでは「英雄」の後は「なのに」である。これは「餘りに」→「(である状態)な(こと)に」であるが、そうなるとこの「な」は名詞節を作ることになり、「であるという状態」の強調表現であることになって、修辞効果としては動詞「である」を強調しているとは言えないと私は思うからである。
では「餘りに當り前の」とは如何なる意味かと考えてみる。
するとこのアフォリズムには二つの読みがそこから引き出し得ることが解る。
一つはフラットな素直な読みとしての、
*
①「レニン」という存在が、「餘りに當り前の」――あらゆる他者が――味方だろうが敵だろうが無関係な第三者であろうが――「英雄」だと絶対的に認めて賞賛するような――誰もが知っている神話や伝承や物語の中に出てくるところの――「英雄だつたこと」に「わたし」は「最も驚いた」。
*
という命題である。ところが、一方で、
*
②「レニン」という存在が、「餘りに當り前の」――文字通りの古典的「英雄」然とした――伝説の輝かしい「英雄」の人生を生きたところの――誰彼が彼を讃える〈大衆の「英雄」〉や〈人民の「英雄」〉とは実は全く以って無縁な――立志伝中の「英雄」たるべくして波乱万丈の物語の「英雄」となった――現実から乖離した神話のような――反吐(へど)の出そうになる如き「英雄」然とした――「英雄だつたこと」に「わたし」は「最も驚いた」。
*
という命題も挙げられる。或いはまた、それらとも異なる以下のような命題も引き出し得る。
*
③「レニン」という存在が、「餘りに當り前の」――古典的伝承的な貴種流離譚にしばしば立ち現われてくるところの悲劇の「英雄」――孤高にして不幸な死に至るところの数奇な伝説の――それは誰彼が彼を讃える〈大衆の「英雄」〉や〈人民の「英雄」〉とは実は全く以って無縁な――孤独な――「英雄だつたこと」に「わたし」は「最も驚いた」。
*
私は今、このどれかだと明言することは出来ない。芥川龍之介にあの世で訊ねるまでは。然しながら、私は、個人的には、まず以って、
――①ではない。その含意や匂わせはあるとしても、それは芥川龍之介のポーズ、演技に過ぎぬ。
と思う。そうして、
――②には多少、そう思った部分もないとは言えぬが、しかし正直、芥川龍之介はレーニンに対して、ある種の共有的「天才」自覚としてのシンパシーを抱いていたと思われ、レーニンをここまで完膚なきまでに貶める気持ちは芥川龍之介には微塵もない。
と断言出来る(理由はこの後で私が引用する芥川龍之介の作品群を見られたい)。さればこそ、
――③の感懐こそが芥川龍之介のこのアフォリズムの真意である可能性がすこぶる高い。
と考えている。
以上の私の芥川龍之介のレーニン観に激しく疑義を言い出す諸輩の方々のために、以下を進呈しておくこととする。
まず、死の年(昭和二(一九二七)年)に書かれたと推定されている芥川龍之介のレーニンを詠んだ詩篇群(「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」より)、そして、その詩の一篇が引かれている、芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」(リンク先は私の電子テクスト)の一節である。前者は昭和三(一九二八)年二月一日発行の雑誌『驢馬』に「僕の瑞威(スヰツツル)から(遺稿)」として掲載されたものの一部である(行の空きと詰りに関してのみ今回、新全集のそれで示したのでリンク先のそれとは少し異なる)。
*
レニン第一
君は僕等東洋人の一人だ。
君は僕等日本人の一人だ。
君は源の賴朝の息子だ。
君は――君は僕の中にもゐるのだ。
レニン第二
君は恐らくは知らずにゐるだらう、
君がミイラになつたことを?
しかし君は知つてゐるだらう、
誰も超人は君のやうにミイラにならなければならぬことを?
(僕等の仲間の天才さへエヂプトの王の屍骸のやうに美しいミイラに變つてゐる。)
君は恐らくあきらめたであらう、
兎に角あらゆるミイラの中でも正直なミイラになつたことを?
註 レニンの死体はミイラとなれり。
レニン第三
誰よりも十戒を守つた君は
誰よりも十戒を破つた君だ。
誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を輕蔑した君だ。
誰よりも理想に燃え上つた君は
誰よりも現實を知つてゐた君だ。
君は僕等の東洋が生んだ
草花の匀のする電氣機関車だ。
*
以下、「或阿呆の一生」の「三十三 英雄」。
*
三十三 英雄
彼はヴォルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。氷河の懸つた山の上には禿鷹の影さへ見えなかつた。が、背の低い露西亞人(ロシアじん)が一人、執拗に山道を登りゞけてゐた。
ヴォルテエルの家も夜になつた後(のち)、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。あの山道を登つて行つた露西亞人の姿を思ひ出しながら。………
――誰(たれ)よりも十戒を守つた君は
誰よりも十戒を破つた君だ。
誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を輕蔑した君だ。
誰よりも理想に燃え上つた君は
誰よりも現實を知つてゐた君だ。
君は僕等の東洋が生んだ
草花の匂のする電氣機關車だ。――
*
最後に。
この解釈の多様性を意識的に孕ませたアフォリズムに対して、或いは、先に私が否定したことを蒸し返し、「これはやっぱり、体(てい)のいい、龍之介お得意の、どうにでも解釈可能な、事前に逃げ道を作っておく、小賢しい隠遁隠蔽目眩ましの術に過ぎない。」と、鬼首獲ったみたようにあげつらう輩もおるやも知れぬ。
あなたに言おう。
「もっと「侏儒の言葉」を丁寧に読め。
丁寧に読めば必ず、そんなさもしい根性は芥川龍之介にはないことが分かる。
分からない奴は芥川龍之介を解らない人間であり、それは人生に於いてある意味では不幸であり、ある意味ではおめでたくも幸福であるのであって、それは確かに「あなたの幸福」では、ある。
その代り、もう芥川龍之介を読むのはやめたが、よい。」
と。]
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