芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「侏儒の言葉」草稿(全) ~ 全注釈完遂
「侏儒の言葉」草稿
[やぶちゃん注:以下は岩波新全集二十一巻「草稿」の『「侏儒の言葉」草稿』を底本としつつも、漢字を旧字体に恣意的に変えたものである。底本では、頭に『〔侏儒の言葉〕』と標題し、それぞれの章に「Ⅰ」から「Ⅵ」の記号が新全集編者による推定排列で打たれてあるが、この注釈版では削除し、注に組み入れて解説した。但し、底本後記によれば、『「侏儒の言葉」と見られるものからまとまりのあるものを選んだ。但し、前後の切れたものは除外した』とあり、現存する総てではないことが分かる。]
奴隷
奴隷廢止と云ふことは唯奴隷たる自意識を廢止すると云ふことである。我々の社會は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオンの共和國さへ、奴隷の存在を豫想してゐるのは必しも偶然ではないのである。
又
暴君を暴君と呼んだ爲に鼎鑊爐火の苦を受けたのは我々の知らぬ昔であ[やぶちゃん注:底本新全集ではここで切れていることを示す鉤記号がある。続きは存在しない。]
[やぶちゃん注:底本で『Ⅰ』とする連続する草稿。第一章は現行の「侏儒の言葉」の中の大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』発表分、
奴隷
奴隷廢止と云ふことは唯奴隷たる自意識を廢止すると云ふことである。我我の社會は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオンの共和國さへ、奴隷の存在を豫想してゐるのは必ずしも偶然ではないのである。
と完全に相同である。ところが続く、「又」は現行のそれ、
又
暴君を暴君と呼ぶことは危險だつたのに違ひない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危險である。
とは冒頭の「暴君を暴君と呼」の七文字が一致するだけで、以下の不完全部分は異なっている。なお、次の「悲劇」の冒頭に附した私の注も参照されたい。
・「鼎鑊爐火」「ていくわくろくわ(ていかくろか)」。「鼎鑊」は原義は、肉を煮るのに用いた三本足の鼎(かなえ)と脚のないそれ又は大きな鼎を指すが、中国の戦国時代に重罪人を煮殺すのに用いた道具或いは煮殺す刑罰を言う。「爐火」は通常は囲炉裏の火を指すが、これは前から見て、炮烙(ほうらく)の刑(殷の紂王のそれに倣えば、猛火の上に多量の油を塗った銅製の丸太を渡して熱し、その丸太の上を罪人に裸足で渡らせる火刑)の謂いである。似たような、刑罰を指す四字熟語に「刀鋸鼎鑊(とうきょていかく)」などがある。]
悲劇
悲劇とはみづから羞づる所業を敢てしなければならぬことである。この故に萬人に共有する悲劇は排泄作用を行ふことである。
[やぶちゃん注:底本で『Ⅱ』とする草稿。底本後記には、この次の『ラツサレの言葉』と一緒で一枚の原稿用紙に書かれたものであるが、この原稿用紙の冒頭には、前原稿(現存せず)からの続きと思われる、
呼ぶこともやはり甚だ危險である。
とあるが、それは採用しなかった旨の記載がある。この『呼ぶこともやはり甚だ危險である。』というのは現行の「侏儒の言葉」の中の大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』発表分「侏儒の言葉」の中の、「奴隷」の第二章、
暴君を暴君と呼ぶことは危險だつたのに違ひない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危險である。
の十六字(句点含む)分と全く相同である。これは一つの可能性として、草稿の「奴隷」は前の草稿にある後部不全のそれに続いて甚だ長い一章(二百字詰め原稿用紙一枚分)があったか、或いは「奴隷」の「又」が今一つあって現行の第二章に続いていたかの孰れかと考え得る。
なお、現行でも「奴隷」(二章)の次は「悲劇」であり、それは、
悲劇
悲劇とはみづから羞ずる所業を敢てしなければならぬことである。この故に萬人に共通する悲劇は排泄作用を行ふことである。
で完全に相同である。]
ラツサレの言葉
「未來は聰明の不足を咎めない。咎めるのは情熱の不足だけである。」
これはラツサレの言葉である。が、この言葉の當嵌まるのは必しもひとり未來ばかりではな[やぶちゃん注:底本新全集ではここで切れていることを示す鉤記号があり、以下は存在しない。]
[やぶちゃん注:底本で『Ⅱ』とする草稿で、前の「悲劇」と連続するが、この不完全な「ラツサレの言葉」と相同或いは相似の章句は「侏儒の言葉」(遺稿をその他を含む)の中には存在しない。「ラツサレ」は恐らく、プロイセン(ドイツ)の政治学者・社会主義者で、後の「ドイツ社会民主党」(Sozialdemokratische Partei
Deutschlands:SPD)の母体となる「全ドイツ労働者同盟」(Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein:ADAV)の創設者であったフェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb
Lassalle 一八二五年~一八六四年)であろう。ウィキの「フェルディナント・ラッサール」には、『社会主義共和政の統一ドイツを目指しつつも、ヘーゲル哲学の国家観に強い影響を受けていたため、過渡的に既存のプロイセン王政(特に宰相オットー・フォン・ビスマルク)に社会政策やドイツ統一政策を取らせることも目指した。その部分を強調して国家社会主義者に分類されることもある』とある。小学館「日本大百科全書」の松俊夫氏の解説によれば、『ドイツの社会主義者。ユダヤ人絹商人の子としてブレスラウ(現ポーランド、ブロツワフ)に生まれる。ブレスラウ、ベルリン両大学に学び、ヘーゲル哲学の影響を受けたが、ローレンツ・フォン・シュタインの著作やシュレージエン織工の蜂起』『をもたらした社会情勢に刺激されて社会主義的思想を抱いた』。一八四五年、『研究のためパリに赴き、そこでハイネと交わり、また』一八四八年の革命(同年のフランスの二月革命の影響を受けて翌三月にドイツ各地に起った市民革命)では、『新ライン新聞』に『寄稿してマルクスとも知り、彼の影響を受けた』。一八四九年、『革命の際の活動を理由に禁錮刑の判決を受けたが、出獄後は革命前から手がけていたハッツフェルト伯爵夫人』ゾフィー(Sophie Grfin von Hatzfeldt 一八〇五年~一八八一年)の離婚訴訟を勝利に導き、以後、夫人から多大の経済援助を受ける身となった』(ウィキの「フェルディナント・ラッサール」によると、『夫であるエドムント・フォン・ハッツフェルト(Edmund von Hatzfeldt)伯爵は放蕩者なうえ、妻ゾフィーに様々な迫害を加えていた。ゾフィーは伯爵との離婚を希望していたが許してもらえずにいた。そのことをラッサールに相談したところ、彼はこれを「封建主義の横暴に対する闘争」と看做し、彼女に代わって伯爵と闘う決意を固めた』。『ラッサールははじめ伯爵に決闘を申し込んだが、「バカなユダヤの小僧」と相手にしてもらえなかった』。『結局離婚訴訟で闘うことになり、ラッサールは』一八四六年から一八五四年までの『長きにわたってこの訴訟に尽力することにな』り、八年にも及んだ『訴訟に疲れたハッツフェルト伯爵が夫人に対して彼女が持つべき財産を返還すると和解を申し出た結果』、『離婚訴訟は終了』、『これにより』、『伯爵夫人は巨額の財産を獲得し、ラッサールも伯爵夫人からかなりの年金を受けるようになり、裕福な生活を送れるようになった』。『この年金はラッサールにとって執筆業や政治活動に専念する上で重要な収入源となった』という解説がある)、一八六二年、『ベルリン郊外の手工業者組合で講演し、官憲の忌諱(きき)に触れて起訴されたが、』それを同年六月に「労働者綱領」(Zur
Arbeiterfrage)として公刊、さらに翌一八六三年三月に「公開答状」(Offenes
Antwortschreiben)によって(ここはウィキの「フェルディナント・ラッサール」の著作データに拠った)『彼の所見を具体化した。そのなかで彼は、賃金鉄則の考え方を基礎に、国家の補助による生産者協同組合の設立、普通選挙権の獲得などを強調したため、マルクスから強い批判を受けたが、労働者には大きな影響を与えた。その結果』、一八六三年、『彼の起草した綱領草案に基づいて設立された全ドイツ労働者協会の会長となり、目的の達成を図ってビスマルクにも接近した』。しかし一八六四年八月、『スイス滞在中に女性問題をめぐってルーマニアの貴族と決闘、その際』に『受けた負傷によって同月』三十一日、『急死した』とある(決闘の経緯はウィキに詳しい)。なお、ウィキの「フェルディナント・ラッサール」には、『日本におけるラッサール』の項があり、『日本における社会主義草創期である明治時代末にはラッサールは日本社会主義者たちのスターだった』。『幸徳秋水にとってもラッサールは憧れの人であり』、明治三七(一九〇四)年には『ラッサールの伝記を著している。その著作の中で幸徳は「想ふに日本今日の時勢は、当時の独逸と極めて相似て居るのである。(略)今日の日本は第二のラッサールを呼ぶの必要が有るのではないか」と書いている。また吉田松陰とラッサールの類似性を主張して「若し松陰をして当時の独逸に生まれしめば、矢張ラッサールと同一の事業を為したかも知れぬ」と述べる』。『社会主義的詩人児玉花外もラッサールの死を悼む詩を作っている』。『後にコミンテルン執行委員となる片山潜もこの時期にはラッサールの国家社会主義に深く傾倒し、ラッサールについて「前の総理大臣ビスマルク侯に尊重せられし人なり。然り、彼は曹てビスマルクに独乙一統の経営策を与え、又た進んでビスマルクをして後日社会主義の労働者制度を執らしめたる偉人物」と評した』。『しかしロシア革命後には社会主義の本流はマルクス=レーニン主義との認識が日本社会主義者の間でも強まり、ラッサールは異端視されて社会主義者たちの間で語られることはなくなっていった』。『逆に反マルクス主義者の小泉信三や河合栄治郎はマルクスの対立者であるラッサールに深い関心を寄せるようになり、彼に関する評伝を書くようになった』。『小泉は「マルクスは国家と自由は相いれないと考えていたが、逆にラッサールは自由は真正の国家のもとでのみ達成されると考えていた」とし、マルクスの欠陥を補ったのがラッサールであると主張した』。『河合はビスマルク、マルクス、ラッサールを』「十九世紀『ドイツ社会思想の三巨頭」と定義し、ラッサールが他の二人と違う点として「社会思想家なだけではなく社会運動家」だった点を指摘する』。『この二人と二人の研究を引き継いだ林健太郎が戦前の主なラッサール研究者であった』とある。こうした当時の本邦でのコンセプトのラッサール受容の文脈の中で、芥川龍之介がここで彼の言葉を引こうとしたこと、さらにその引用されたラッサールの言葉の意味、それに添えて述べようとした龍之介の見解を推理する必要があろう。
・「未來は聰明の不足を咎めない。咎めるのは情熱の不足だけである。」引用元のラッサールの著作は不詳。識者の御教授を乞う。]
強弱
強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一擊に敵を打ち殺すことには何の痛痒も感じない代りに、知らず識らず友人を傷けることには兒女に似た恐怖を感ずるものである。
弱者とは友人を恐れぬ代りに敵を恐れるものである。この故に又至る處に架空の敵ばかり發見するものである。[やぶちゃん注:底本新全集ではここで切れていることを示す鉤記号がある。]
[やぶちゃん注:底本で『Ⅲ』(単独)とする草稿。大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』発表分、
強弱
強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一擊に敵を打ち倒すことには何の痛痒も感じない代りに、知らず識らず友人を傷けることには兒女に似た恐怖を感ずるものである。
弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る處に架空の敵ばかり發見するものである。
とは、ご覧の通り、「弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである」の読点が読点が除去されている以外は同じであり、底本新全集で原稿の切れを示す鉤記号があるものの、公開分でもこの後に文は続いておらず、完結した一章を成している。因みに公開分でも同一号に続いて「S・Mの知慧」が載る。]
S・Mの知慧
これは友人のS・Mの僕に話した言葉である。
辯證法の功績――所詮何ものも莫迦げてゐると云ふ結論に到達せしめたこと。
少女――どこまで行つても淸冽な淺瀨。
早教育――ふむ、知慧の悲しみを知ることにも責任を持つには當らないからね。
自己――結局は自己にかへることかね。その醜い裸體の自己と向かひ合ふのも一興だらうさ。[やぶちゃん注:底本新全集ではここで切れていることを示す鉤記号があり、以下は存在しない。]
[やぶちゃん注:底本で『Ⅳ』(単独)とする草稿。以下に示す、大正一三(一九二四)年六月号『文藝春秋』発表分とはかなりの箇所に異同があり(異同部に下線を引いた)、「自己――結局は自己にかへることかね。その醜い裸體の自己と向かひ合ふのも一興だらうさ。」に相当するものは現行分には全く存在しない。
S・Mの智慧
これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。
辨證法の功績。――所詮何ものも莫迦げてゐると云ふ結論に到達せしめたこと。
少女。――どこまで行つても淸冽な淺瀨。
早教育。――ふむ、それも結構だ。まだ幼稚園にゐるうちに智慧の悲しみを知ることには責任を持つことにも當らないからね。
追憶。――地平線の遠い風景畫。ちやんと仕上げもかゝつてゐる。
女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出來てゐるものらしい。
年少時代。――年少時代の憂欝は全宇宙に對する驕慢である。
艱難汝を玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男は到底玉になれない筈である。
我等如何に生くべき乎。――未知の世界を少し殘して置くこと。
この「自己――結局は自己にかへることかね。その醜い裸體の自己と向かひ合ふのも一興だらうさ。」という一条の謂いとは、これ、じっくりと対峙してみる価値がある。但し、くれぐれも注意しなくてはならないのは、これは芥川龍之介の言葉ではなく、「S・Mの智慧」、室生犀星の言葉という形をとっていることではある。但し、彼に仮託した芥川龍之介の言葉ととっても無論、構わないわけではあるが。]
武者修業と云ふことは修業の爲ばかりの旅だつたであらうか? 僕は寧ろ己自身以外に餘り名人のゐないことを確める爲だつたと思つてゐる。少くとも武者修業の甲斐があつたとすれば、それはたとひ偶然にもせよ、餘り名人のゐないことを發見した爲だつたと思つてゐる。
[やぶちゃん注:底本では、表題なく、この前の稿の次行の頭に『Ⅴ』のローマ数字が配されて以上が示されてある。但し、これは遺存するこの草稿原稿の前が欠損しているために標題がないだけである。これは以下に掲げる大正一三(一九二四)年十一月号『文藝春秋』に発表された、「武者修業」の内容と相似する。
武者修業
わたしは從來武者修業とは四方の劍客と手合せをし、武技を磨くものだと思つてゐた。が、今になつて見ると、實は己ほど強いものの餘り天下にゐないことを發見する爲にするものだつた。――宮本武藏傳讀後。
決定稿の方が、遙かに無駄が殺がれ、引き締まったアフォリズムとなっている。]
天才
天才は羽根の生へた蜥蜴に似てゐる。必しも空ばかり飛ぶものではない。が、四つん這ひになつた時さへ、不思議に步みの疾いものである。
[やぶちゃん注:底本『Ⅴ』で前の不完全なものに続いて載る草稿。大正一四(一九二五)年三月号『文藝春秋』に五章から成る「天才」があるが、これと類似する章句は存在しない。]
飜譯
偉大なる作品はたとひ外國語に飜譯したにしろ、原作の光彩を失はないさうである。僕は勿論かう云ふ放言に餘り信用を置いたことはない。[やぶちゃん注:底本新全集ではここで切れていることを示す鉤記号がある。]
[やぶちゃん注:底本『Ⅴ』で前の「天才」に続いて載る草稿。これと類似する標題も章句も存在しない。]
は炒豆を嚙んで古人を罵るを快とせし由、炒豆を嚙めるは儉約の爲か、さもなければ好物の爲なりしなるべし。然れども古人を罵れるは何の爲なるかを明らかにせず。若し強いて解すべしとせば、妄りに今人を罵るよりはうるさからざりし爲ならん乎。我等も罵殺に快を取らんとせば、古人を罵るに若くはなかるべし。幸ひなるかな、死人に口なきことや。
[やぶちゃん注:底本では、表題なく、この前の稿の次行の頭に『Ⅵ』のローマ数字が配されて以上が示されてある。但し、これは遺存するこの草稿原稿の前が欠損しているために標題がないだけである。「萩生徂徠」の「萩」は底本の岩波新全集のママ。このアフォリズムは大正一四(一九二五)年九月号『文藝春秋』発表分の「荻生徂徠」、
荻生徂徠
荻生徂徠は煎り豆を嚙んで古人を罵るのを快としてゐる。わたしは彼の煎り豆を嚙んだのは儉約の爲と信じてゐたものの、彼の古人を罵つたのは何の爲か一向わからなかつた。しかし今日考へて見れば、それは今人を罵るよりも確かに當り障りのなかつた爲である。
と内容的には同じであるが、擬古文である(これは対象が徂徠であることや「古人を罵る」ということからの色附けのための仕儀であったろう)以外に、言い回しが草稿は如何にも、くどい。決定稿の方が遙かによい。]
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