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2016/06/18

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 民衆(三章)

 

       民衆

 

 シエクスピイアも、ゲエテも、李太白も、近松門左衞門も滅びるであらう。しかし藝術は民衆の中に必ず種子を殘してゐる。わたしは大正十二年に「たとひ玉は碎けても、瓦は碎けない」と云ふことを書いた。この確信は今日(こんにち)でも未だに少しも搖がずにゐる。

 

       又

 

 打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、藝術は永遠に滅びないであらう。 (昭和改元の第一日)

 

       又

 

 わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。 (同上)

 

[やぶちゃん注:「民衆」「ハンマアのリズム」には確かに革命や、プロレタリア文学運動への芥川龍之介の関心や後代への期待の一部は認められる。しかし所詮、革命のための文学、革命に奉仕する文学は龍之介には到底、肯んぜられるものではなかった(同時に文学報国会の如き、国粋主義に奉仕する体制翼賛文学も当然に、である)。数年後のスターリン体制下のルースキイ・アヴァンガールト(Русский авангардRussian avant-garde/ロシア・アヴァンギャルド)の衰退を見るまでもなく、一人のトルストイもドストエフスキイも生まれなかったソヴィエトを見るがよい(私はただ一人、アンドレイ・タルコフスキイ(Андрей Арсеньевич ТарковскийAndrei Arsenyevich Tarkovsky 一九三二年~一九八六年)を生んだことに於いてのみソヴィエトの芸術を認める)。

 龍之介の遠い射程は権威や正義を振りかざす「思想」や、しゃっちょこばった「文芸思潮」などの作り出すクソ小説には、ない。――広く民衆が親しみ楽しみ――民衆の中の少しそうした智恵と技を持った者によって永遠に生み出され続けるところの――珠玉の小品の夢――なのである(以下の引用を参照のこと)。

 

・『わたしは大正十二年に「たとひ玉は碎けても、瓦は碎けない」と云ふことを書いた』大正一二(一九二三)年十一月一日発行の『改造』に芥川龍之介が震災後、逸早く発表した震災関連レーゼ・ドラマ風随想妄問妄答もうもうとう)の以下の箇所(リンク先はこの注のために私がこれを書きながら急遽、同時に電子化したもの)。

   *

 客 ぢや藝術は人生にさ程痛切なものぢやないと云ふのかね?

 主人 莫迦を云ひ給へ。藝術的衝動は無意識の裡にも我我を動かしてゐると云つたぢやないか? さうすりや藝術は人生の底へ一面に深い根を張つてゐるんだ。──と云ふよりも寧ろ人生は藝術の芽に滿ちた苗床なんだ。

 客 すると「玉は碎けず」かね?

 主人 玉は──さうさね。玉は或は碎けるかも知れない。しかし石は碎けないね。藝術家は或は亡びるかも知れない。しかしいつか知らず識らず藝術的衝動に支配される熊さんや八さんは亡びないね。

   *

因みに、遺稿中問答」(昭和二(一九二七)年九月号『文藝春秋』――芥川龍之介追悼号――)の中にも、

   *

或聲 お前は詩人だ。藝術家だ。お前には何ごとも許されてゐる。

僕  僕は詩人だ。藝術家だ。けれども又社會の一分子だ。僕の十字架を負ふのは不思議ではない。それでもまだ輕過ぎるだらう。

或聲 お前はお前のエゴを忘れてゐる。お前の個性を尊重し、俗惡な民衆を輕蔑しろ。

僕  僕はお前に言はれずとも僕の個性を尊重してゐる。しかし民衆を輕蔑しない。僕はいつかかう言つた。――「玉は碎けても、瓦は碎けない。」シエクスピイアや、ゲエテや近松門左衞門はいつか一度は滅びるであらう。しかれ彼等を生んだ胎は、――大いなる民衆は滅びない。あらゆる藝術は形を變へても、必ずそのうちから生まれるであらう。

或聲 お前の書いたものは獨創的だ。

僕  いや、決して獨創的ではない。第一誰が獨創的だつたのだ? 古今の天才の書いたものでもプロトタイプは至る所にある。就中僕は度たび盜んだ。

   *

とも出る。

・「打ち下ろすハンマアのリズムを聞け」お分かりか? この心地よい「リズム」を奏でるかのように「ハンマア」を「打ち下ろす」のは〈労働者=プロレタリアート(ドイツ語:Proletariat)〉なんてへんてこりんなもんじゃあ、ござんせんぜ! 横丁の儂ら、『熊さんや八さん』(前注の引用を見よ)でござんすよ!

・「昭和改元の第一日」昭和改元第一日は西暦一九二六年十二月二十五日。改元日は元号が重なるため、昭和改元第一日は同時に大正最後の日、大正十五年十二月二十五日と同日である。

・「區々たる」「くくたる」。小さくて取り上げるに足らぬさま。些末で有意な価値を持たないさま。]

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