芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 死
死
マイレンデルは頗る正確に死の魅力を記述してゐる。實際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圈外に逃れることは出來ない。のみならず同心圓をめぐるやうにぢりぢり死の前へ步み寄るのである。
[やぶちゃん注:現行は編者によって総てより正確な音写である「マインレンデル」に「訂正」されてしまっているが、これは初出も単行本も孰れも上記の通り、「マイレンデル」である。今回は、それに従って示した。
・「マイレンデル」ドイツの詩人で哲学者フィリップ・マインレンダー(Philipp Mainländer 一八四一年~一八七六年:日本語音写は「マインレンデル」とも)。ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer 一七八八年~一八六〇年)の厭世哲学に心酔、後に精神に異常をきたし、満三十四歳で縊死自殺した。ウィキの「フィリップ・マインレンダー」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『もとはバッツ(Batz)という名であったが、彼の故郷であるオッフェンバッハ・アム・マイン(Offenbach am Main)への愛慕から、後にマインレンダーに改名した。 厭世主義者であり、主著「救済の哲学」(Die
philosophie der Erlosung)において、人生は全く無価値であるとした』。『六人兄弟の末子としてオッフェンバッハに生まれる。一八五六年、父の教えにより、商人を志してドレスデンの商業学校に入学する。二年後、ナポリの貿易商社に入社する。この間にイタリア語を学び、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、ジャコモ・レオパルディの著作に精通した。マインレンダーは後に、ナポリでの五年間が人生で最も幸福な期間だったと述べている。この決定的な期間に、十九歳のマインレンダーはアルトゥル・ショーペンハウアーの主著「意志と表象としての世界」』(Die
Welt als Wille und Vorstellung 一八一九年刊)『と出会う。彼は後に、一八六〇年の二月を「人生で最も重要な時期」と言い、この出来事を「貫くような新発見」と描写している。実際に、ショーペンハウアーはマインレンダーの晩年の哲学的著作に最も大きな影響を与えた』。『一八六三年、マインレンダーは父の事業を手伝うためにドイツへ帰国する。同年、「最後のホーエンシュタウフェン(Die
letzten Hohenstaufen)」という三編の詩を作る。二年後の十月五日、マインレンダーの二十四歳の誕生日に母が亡くなる。母親の喪失に深く影響を受け、彼は詩から哲学へ転向していった。続く数年の間に、ショーペンハウアー、カント、エッシェンバッハ』、『そして哲学の古典を』学んだ。『一八六九年三月、マインレンダーはベルリンの金融会社 J. Mart Magnusに入社する。この時彼は、数年間』、『貯蓄し、その後利子収入で生活しようと考えていた。しかし、ウィーン証券取引所が一八七三年五月八日に崩壊したため、彼は破産して計画は突如潰えた。同年、マインレンダーは今後のあてもないまま辞職した』。『マインレンダーの富裕な』『親は一八六一年に彼の兵役を金で免除させたが、彼は自伝において、「全てにおいて完全に何かに服従すること、最低の仕事をすること、盲目的に服従せねばならぬこと」への願望があったことを記しており、また、軍務に服するための数多くの試みを周到に企てた。一八七四年四月六日、既に三十二歳となったマインレンダーはヴィルヘルム一世に直接懇願したが、これは認められ、ハルバーシュタット(Halberstadt)の胸甲騎兵として九月二十八日から働くことになった。徴兵までの四か月の間に、マインレンダーは取り付かれたように著作活動に打ち込み、彼の中心的著書「救済の哲学」の第一巻を完成させ』ている。『彼は完成した原稿を姉のミナに渡し、軍務に服している間に出版社を探してくれるよう頼んだ。原稿には未だ知らぬ出版社に対しての手紙を付し、その中において、匿名での出版を希望すること、そしてそれは「世界中の目に晒されること」を忌み嫌っているだけに過ぎないということを記した』。『一八七五年十一月一日、マインレンダーは、姉のミナへの手紙の中で述べているように、「疲れ果てた、本当に疲れた……完全に……健康な身体が、言葉では言い表せないほど疲れた」ため、本来は三年間の軍役のはずだったが、わずか一年で軍を辞め、故郷のオッフェンバッハに戻った。彼はそこで再び著作活動に取りつかれ、わずか二か月の内に未製本の「救済の哲学」を校正し、回想録や中編小説「Rupertine
del Fino」』(固有名詞と思われる)『を書きあげ、そして六百五十ページにおよぶ「救済の哲学」第二巻を完成させた』。『一八七六年二月からマインレンダーの精神的衰弱が顕著になる。ついには誇大妄想狂になり、自身を社会民主制の救世主だと信じ込む。同年四月一日の夜、マインレンダーはオッフェンバッハの自宅で、前日に出版社から届いた「救済の哲学」を山積みにして壇にし、首を吊って自殺し』ている。今回、私は初めて知ったが、この死にざまはまっこと、強烈である!。
御承知の如く、彼の名は芥川龍之介の公的遺書と言える遺稿「或舊友へ送る手記」(昭和二(一九二七)年八月四日刊の雑誌『文藝時報』第四十二号に発表とされるが、既に死の当日である同年七月二十四日日曜日夜九時に自宅近くの貸席「竹むら」で久米正雄(「或旧友」とは彼を指す。リンク先は私の古い電子テクスト)によって報道機関に発表されており(これには彼の遺書が読後に焼却を厳命していることから、親族を中心にこの一篇の公表についても反対する意見が複数あった)、死の翌日の二十五日月曜日の『東京日日新聞』朝刊にも掲載されている)の第二段落に以下のように出る。
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僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを讀んだのもこの間(あひだ)である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具體的に同じことを描きたいと思つてゐる。家族たちに對する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。これも亦君には、Inhuman の言葉を與へずには措かないであらう。けれども若し非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。
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なお、これもしばしば言われることであるが、「或舊友へ送る手記」が公表された際、この「マインレンデル」が何者であるか知る者は、弔問に訪れた龍之介の友人たちの中にさえ少なかったことは、菊池寛「芥川の事ども」(昭和二(一九二七)年九月号『文藝春秋』の以下の下りからも判る(引用は筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」別巻に拠ったが、恣意的に正字化した)。
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彼は、文學上の讀書に於ては、當代その比がないと思ふ。あの手記の中にあるマインレンデルについて、火葬場からの歸途、恒藤君が僕に訊いた。
「君、マインレンデルと云ふのを知つてゐるか」
「知らない。君は」
「僕も知らないんだ、あれは人の名かしらん。」
山本有三、井汲淸治、豐島與志雄の諸氏がゐたが、誰も知らなかつた。あの手記を讀んで、マインレンデルを知つてゐたもの果して幾人いただらう。二三日して恒藤君が來訪しての話では、獨逸の哲學者で、ショペンハウエルの影響を受け、厭世思想をいだき、結局自殺が最良の道であることを鼓吹(こすゐ)した學者だろらうとの事だつた。芥川は色々の方面で、多くのマインレンデルを讀んでゐる男に違ひなかつた。
*
しかし、意地悪く言うなら、龍之介は「しみじみした心もちになつてマインレンデルを讀んだ」と記しているものの、龍之介はドイツ語には必ずしも堪能ではなく、私か過去に読んだ評論の記載ではマインレンデルの著書の英訳も当時は抄録訳が少し出ていただけだったとあったように記憶している。そして、実は彼の名は森鷗外晩年の知られた随想「妄想」(まうぞう(もうぞう):明治四四(一九一一)年『三田文學』)の後半に(引用は岩波版「鷗外選集」に拠ったが、恣意的に正字化した。「フイリツプ
マインレンデル」「ハルトマン」はルビ)、
*
自分は此儘で人生の下り坂を下つて行く。そしてその下り果てた所が死だといふことを知つて居る。
併しその死はこはくはない。人の説に、老年になるに從つて增長するといふ「死の恐怖」が、自分には無い。
若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に橫はつてゐる謎を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなつた。次第に薄らいだ。解けずに橫はつてゐる謎が見えないのではない。見えてゐる謎を解くべきものだと思はないのでもない。それを解かうとしてあせらなくなつたのである。
この頃自分は
Philipp Mainlaender(フイリツプ マインレンデル)が事を聞いて、その男の書いた救拔の哲學を讀んで見た。
此男は
Hartmann(ハルトマン)の迷の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆迷だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面を背ける。次いで死の𢌞りに大きい圏を畫いて、震慄しながら步いてゐる。その圏が漸く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項(うなじ)に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。
さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。
自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬(しようけい)」も無い。
死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。
*
と出るのである。……「死の目の中に平和を見出す」(鷗外)――「死の魅力」(龍之介)……「死の廻りに大きい圏を畫いて」(鷗外)――「その圈外」(龍之介)……「その圏が漸く小くなつて」「死と目と目を見合はす」(鷗外)――「同心圓をめぐるやうにぢりぢり死の前へ步み寄る」(龍之介)……これ以上は、言うまい。]
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