芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 處世的才能
處世的才能
何と言つても「憎惡する」ことは處世的才能の一つである。
[やぶちゃん注:何故に、そうなのか? まず、ここで言う「憎惡」には自己に対する嫌悪を含まないことを条件とするであろう。でなくては「處世」、社会での生き様の必須アイテムたりえないからである。真の自己嫌悪は自己抹殺以外に法はないからである。さらに「憎惡」の反対の「偏愛」を考えてみるがよい。ひたすらに愛する者は必ず裏切られるのである。さすれば、「偏愛」は「憎惡」によって贖われると言える。とすれば、愛したが故に裏切られた末にやっとこ「憎惡」に至るという迂路を通ることは人生にとっては無駄足となる。さればこそ上手く巧妙に世渡りをしてゆくためには常に他者を「憎惡する」に若くはなく、「何と言つても」何事にも自己以外の外的対象を悉く内心では『「憎惡する」こと』こそが最も有効な「處世的才能の一つ」なの「である」。言っておくが、私は芥川龍之介の言説を解釈したに過ぎない。私がそうだと思っているわけではない。念のため。]
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