芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 經驗
經驗
經驗ばかりにたよるのは消化力を考へずに食物ばかりにたよるものである。同時に又經驗を徒らにしない能力ばかりにたよるのもやはり食物を考へずに消化力ばかりにたよるものである。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、前の『「虹霓關」を見て』と、後の「アキレス」「藝術家の幸福」「好人物」(二章)「罪」「桃李」「偉大」と合わせて全九章で初出する。私はこの章を読むと必ず思い出す、ある作品の、ある箇所がある。そう、あそこである。
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Kは私より強い決心を有してゐる男でした。勉強も私の倍位(くらゐ)はしたでせう。其上持つて生れた頭の質が私よりもずつと可かつたのです。後では專門が違ひましたから何とも云へませんが、同じ級にゐる間は、中學でも高等學校でも、Kの方が常に上席を占めてゐました。私には平生(へいせい)から何をしてもKに及ばないといふ自覺があつた位です。けれども私が強ひてKを私の宅へ引張つて來た時には、私の方が能く事理を辨(わきま)へてゐると信じてゐました。私に云はせると、彼は我慢と忍耐の區別を了解してゐないやうに思はれたのです。是はとくに貴方のために付け足して置きたいのですから聞いて下さい。肉體なり精神なり凡て我々の能力は、外部の刺戟で、發達もするし、破壞されもするでせうが、何方にしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、能く考へないと、非常に險惡な方向へむいて進んで行きながら、自分は勿論傍(はた)のものも氣が付かずにゐる恐れが生じてきます。醫者の説明を聞くと、人間の胃袋程橫着なものはないさうです。粥ばかり食つてゐると、それ以上の堅いものを消化(こな)す力が何時の間にかなくなつて仕舞ふのださうです。だから何でも食ふ稽古をして置けと醫者はいふのです。けれども是はたゞ慣れるといふ意味ではなからうと思ひます。次第に刺戟を增すに從つて、次第に營養機能の抵抗力が強くなるといふ意味でなくてはなりますまい。もし反對に胃の力の方がぢりぢり弱つて行つたなら結果は何うなるだらうと想像して見ればすぐ解る事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全く此處に氣が付いてゐなかつたのです。たゞ困難に慣れてしまへば、仕舞に其困難は何でもなくなるものだと極(き)めてゐたらしいのです。艱苦を繰り返せば、繰り返すといふだけの功德で、其艱苦が氣にかゝらなくなる時機に邂逅(めぐりあ)へるものと信じ切つてゐたらしいのです。
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「こゝろ」の「先生」の「遺書」の中の、Kが「先生」の下宿へ引き移って少し快活になりだすというシークエンスの部分に出る、妙に「先生」にしてはやや「先生」らしからぬ(寧ろ、強迫神経症と私が踏んでいる作者夏目漱石の肉声っぽい)説教臭く、くだくだしいKのストイックな信条への批判箇所である(それだけに妙に私は「こゝろ」の中で引っかかっている箇所でもある。リンク先は私の初出復元版の当該章)。私は正直、このアフォリズムは、まさに「こゝろ」のここをインスパイアしたものではないかと秘かに疑っているのである。
・「徒らにしない」「いたづら(いたずら)にしない」と読むが、老婆心乍ら、ここは意味の上で前の部分の「逆」を言っている訳だから――即ち、「經驗」に全く拠らずに、「經驗」による学習なしに、「經驗」を全く無視して、「能力ばかりにたよる」の謂い――であるのだから、この「徒らにしない」の「徒らに」は、「無駄に」の改まった言い方であるところの副詞としての本来の「無駄に・むなしく」の謂いであるよりも、「しない」ことの程度の甚だしいことを強調する特殊な用法と言える。即ち、全く経験することなしに、自己の能力のみに全幅の信頼をおいて、未知の対象を喰らおう、それに向き合おう、対峙しよう、それと対決しよう、というのは全く以って暴虎馮河、無謀の極み、というのである。若い読者の中には「徒らに」を使わぬ者や、副詞としてのその意味が分からぬものもいるかとも思われ、中には半可通に「徒らにはしない」という意味で採ってしまい、訳が分からなくなる者もあろうかと、蛇足するものである。]
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