芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 男子
男子
男子は由來戀愛よりも仕事を尊重するものである。若しこの事實を疑ふならば、バルザツクの手紙を讀んで見るが好い。バルザツクはハンスカ伯爵夫人に「この手紙も原稿料に換算すれば、何フランを越えてゐる」と書いてゐる。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年六月号『文藝春秋』巻頭に、前の「徴候」(二章)「戀愛と死と」「身代り」「結婚」(二章)「多忙」「男子」と、後の「行儀」と合わせて全九章で初出する。
・「バルザツク」フランス写実主義文学の始祖とされる文豪オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 一七九九年~一八五〇年)。平凡社「世界大百科事典」の高山鉄男氏の解説から引く(コンマを読点に、アラビア数字を漢数字に代えた)。フランス中部の都市トゥール(Tours)に生まれた。『父親は当時、陸軍トゥール師団糧秣部長。一八〇七年より一三年まで、バンドーム中学に学ぶ。一六年パリ大学法学部に入学、同時に見習書記として法律事務所に勤務。一九年文学志望を表明、職業の選択をめぐって両親と対立したが、結局、二年の猶予期間を得、パリのレスディギエール街の屋根裏部屋にこもって文学修業に専念した。二〇年』に韻文悲劇「クロムウェル」(Cromwell)を『完成、さらに二二年より二七年にかけて』、「ビラーグの女相続人」(L'Héritière de Birague)や、『その他多数の通俗小説を偽名で発表した。一八二五年、出版業、印刷業、活字鋳造業などの実業に乗り出すが、いずれも失敗に終わり、二八年に業務の清算が行われ、約六万フランの借金を背負った。二九年』、「ふくろう党」(Chouans:シュアン。以下にも説明されるが、フランス革命期にカトリック王党派が起こしたヴァンデの反乱(Rébellion Vendéenne)の後、その残党らによって作られた反政府ゲリラ集団の名。これは農村地域に出没した彼らがフクロウ(chouan)の鳴声を真似て合図したからとも、反徒の指導者の一人ジャン・コトロー(Jean Cottereau)の偽名ジャン・シュアン(Jean Chouan)によるとも言われる)及び「結婚の生理学」(Physiologie
du mariage)を『発表して文壇に登場。社交界に出入りするとともに、多数の雑誌に短編小説や雑文を寄稿するようになった』。「ふくろう党」は『ブルターニュ地方の反革命的反乱を扱っており、歴史小説の手法を近い過去に適用したものといえる。次いで』、「ウージェニー・グランデ」(Eugénie
Grandet 一八三三)、「ゴリオ爺さん」(Le Père Goriot 一八三五年)、「谷間の百合」(Le Lys
dans la vallée 一八三六年)、「幻滅」(Illusions perdues 一八四三年)、「従妹ベット」(La
cousine Bette 一八四六年)、「従兄ポンス」(Le cousin Pons ou les deux
musiciens 一八四七年)などの『作品を次々に発表し、四二年から四八年にかけて』はフランス社会史を再現するという壮大なプロジェクトとして『人間喜劇』(La
Comédie humaine)十六巻・補巻一を刊行した。『これは、初期習作、劇作、雑文』などを除いた、「ふくろう党」『以後のすべての小説を、一種の全集としてまとめたものである』(但し、試み自体は作者の死によって途絶)。他方、『バルザックとポーランドの貴族ハンスカ夫人』(後注参照)『との交際は一八三二年に始まっているが、四一年』に『同夫人が寡婦となったので、夫人との結婚が彼の人生の最大の関心事となった。四九年はもっぱらハンスカ夫人の領地、ウクライナのベルディチェフで過ごし、五〇年三月』、晴れて『同夫人と結婚、五月パリに帰着』したが、その三ヶ月後の八月に満五十一で世を去った。『バルザックの生きた時代は、フランス市民社会の成立期に当たり、身分的秩序の崩壊と競争原理の出現、生活水準の向上、現世的・個人中心的な思想の一般化など、ひとことで〈近代化〉とよばれる現象が生じたが、このような社会変動こそバルザックの小説の背景にあったものである。彼は興隆する市民階級のエネルギーと欲望を描き、フランス市民社会の最初の描き手となった。同時にまた市民的〈近代化〉の最初の批判者ともなった。なぜならば』、「ゴリオ爺さん」を『はじめとして、バルザックの作品には、個人の心情を容赦なく押し潰す近代社会の過酷な原理が描かれているからである。彼は政治的には君主制主義者、宗教的には正統的カトリシズムの支援者だったが、そのような思想は、フランス革命以後に成立した社会的・思想的原理への批判を含むものと解すべきである。バルザックの作風は、ひとことでいえば写実主義であるが』、「あら皮」(Peau de
chagrin 一八三一年)「セラフィータ」(Séraphîta 一八三五年)などの『哲学小説をはじめとして、幻想的な傾向がうかがわれる作品もある』。
芥川龍之介はかなり多くの著作の中で彼の名を挙げている。例えば「賣文問答」(大正一〇(一九二一)年)のエンディングでは、龍之介と思しい作家と編集者の談話の最後に、突如、二人の間に黒子らしき覆面の人物を登場させ(底本は岩波旧全集の拠る)、
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覆面の人 (作家に)貴樣は情(なさけ)ない奴やつだな。偉らさうな事を云つてゐるかと思ふと、もう一時の責塞(せめふさ)ぎに、出たらめでも何なんでも書かうとしやがる。おれは昔バルザツクが、一晩に素破らしい短篇を一つ、書き上げる所を見た事がある。あいつは頭(あたま)に血が上ると、脚湯(きやくたう)をしては又書くのだ。あの凄まじい精力を思へば、貴樣なぞは死人も同樣だぞ。たとひ一時の責塞ぎにもしろ、なぜあいつを學ばないのだ? (編輯者に)貴樣も心がけはよろしくないぞ。見かけ倒しの原稿を載せるのは、亜米利加でも法律問題になりかかつてゐる。ちつとは目前(もくぜん)の利害の外にも、高等な物のある事を考へろ。
編輯者も作家も聲を出す事能はず、茫然と覆面の人を見守るのみ。
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と語らせる。また、「點心」(大正一〇(一九二一)年)の「印税」の項では、
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印税
Jules
Sandeau のいとこが Palais Royal のカツフエへ行つてゐると、出版書肆のシヤルパンテイエが、バルザツクと印税の相談をしてゐた。その後彼等が忘れて行つた紙を見たら、無暗に澤山の數字が書いてあつた。サンドオがバルザツクに會つた時、この數字の意味を問ひ訊すと、それは著者が十萬部賣切れた場合、著者の手に渡るべき印税の額だつたと云ふ。當時バルザツクが定めた印税は、オクタヴオ版三フラン半の本一册につき、定價の一割を支拂ふのだつた。して見ればまづ日本の作家が、現在取つてゐる印税と大差がなかつた譯である。が、これがバルザツクがユウジエニエ・グランデエを書いた時分だから、千八百三十二年か三年頃の話である。まあ印税も日本では、西洋よりざつと百年ばかり遲れてゐると思へば好い。原稿成金なぞと云つても、日本では當分小説家は、貧乏に堪へねばならぬやうである。(一月三十日)
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と記している(リンク先の私の電子テクストには私が附した語注があるので参照されたい)。この印税への龍之介の不満を読むと、この後のアフォリズムで超然として見せる彼は、ちょっとおかしい。
二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の大場恒明氏の「バルザック」の項によると、最も古い言及は、大正四年五月二十三日附の井川(後の恒藤)恭宛書簡(岩波旧全集書簡番号一六〇)で、『ねてゐるまもあれでバルザツクをよんで大へん感心した』(引用は独自に岩波旧全集に拠った)とあるものとされておられる。大場氏は以下、『この書簡の中では作品名を挙げていないが、他の所で言及しているバルザックの作品は、「ウジェニイ・グランデ」、「あら皮」、「幻減」である。芥川の関心は作品にだけでなく、伝記的な人間像にもむけられ、豊富な読書体験から得たバルザックに関するさまぎまなエピソードを随所で紹介している』と述べた後、『バルザックの渾成』(こんせい:一つに纏め上げること、一つに纏まること。「渾」は 総て・全部の、の意の他、「混」と通用して一つに混じり合うの意もある)『された長篇の力強さに芥川は創作欲を大いに刺激されたが、ときにはその冗漫さに辟易することもあったようだ。殊に「あら皮」などはそれが「甚だしい」と言っている』(大正八(一九一九)年十月十日附佐佐木茂索宛書簡とあるが、旧全集にはないので新規発見分らしい)とある。しかし、『冷徹な現実観察眼と神秘的幻視者としてのロマンティシズムとの融合にバルザックの本質を発見したのは、特に「あら皮」の読書を通じてであろう。作家的資質の隔たりは大きいが、芥川はバルザックを「近代文芸の将帥」と呼び、「リアリズムなるものは、ロマンティシズムたると、ナテユラリズムたるを間はず、唯「現実に味到した」表現の中にのみ存する」のであって、「既に過去のロマンティシストたるバルザックは、このリアリズムを持ってゐた」』と「或悪傾向を排す」(大正七(一九一八)年十一月)で論じ、『高く評価している』とまとめておられる。
・「ハンスカ伯爵夫人」ポーランドの貴族女性で晩年のバルザックの妻(正式な婚姻期間は僅か)となったヴェリーナ・ハンスカ(ポーランド語:Ewelina Hańska 一八〇一年~一八八二年)。ウィキの「エヴェリーナ・ハンスカ」によれば、『ポーランドの名門貴族ジェヴスキ家の出身で、曾祖父はヘトマンのヴァツワフ・ピョトル・ジェヴスキである。またエヴェリーナの兄ヘンリク・ジェヴスキ』『伯爵は著名なジャーナリスト、小説家であった。エヴェリーナは』二十歳以上も『年上のヴァツワフ・ハンスキ伯爵と結婚し、夫とのあいだに一人娘アンナをもうけ、田舎の地主貴族の妻としての生活を送っていた』。『バルザックとエヴェリーナは』一八三三年に『出会って以来、定期的に文通を交わしていた』。一八四一年に『ハンスキ伯爵が死んだ後』、一八四三年、『バルザックは伯爵夫人エヴェリーナに逢うためサンクトペテルブルクに赴いた』。二人は『ドイツ、ベルギー、イタリアなどへ何度か旅行をしている』。一八四六年、エヴェリーナはバルザックの子供を死産している』。一八四七年に二人は『ウクライナへ旅行し、バルザックは』一八四八年に『パリへ戻った。翌年にバルザックは再びエヴェリーナの待つウクライナを訪れ』、一八五〇年三月十四日に二人はやっと結婚したが、バルザックはその五ヶ月後の八月十八日にパリで亡くなっている。]
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