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2016/06/04

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 天才(五章)

 

       天才

 

 天才とは僅かに我我と一步を隔てたもののことである。只この一步を理解する爲には百里の半ばを九十九里とする超數學を知らなければならぬ。

 

       又

 

 天才とは僅かに我我と一步を隔てたもののことである。同時代は常にこの一步の千里であることを理解しない。後代は又この千里の一步であることに盲目である。同時代はその爲に天才を殺した。後代は又その爲に天才の前に香を焚いてゐる。

 

       又

 

 民衆も天才を認めることに吝かであるとは信じ難い。しかしその認めかたは常に頗る滑稽である。

 

       又

 

 天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心の好い名聲」を與へられることである。

 

       又

 

 耶蘇「我笛吹けども、汝等踊らず。」

 彼等「我等踊れども、汝足らはず。」

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年三月号『文藝春秋』巻頭に、前の「藝術」(四章)と、後の「譃」(三章)「レニン」と合わせて全十三章で初出する。天才芥川龍之介の傲岸なアフォリズムの炸裂である。しかし、私は何か、ちっとも不快でない(私は自らを「天才」だとは哀しいことに思っておらず、寧ろ「大衆」を代表する凡愚の一人と自認しているにも拘わらず、である)。特に第一章は「侏儒の言葉」のベスト・テンには入れたい章句である。

 

・「百里の半ばを九十九里とする」は実は芥川龍之介のオリジナルではない。「戦国策」(周の安王(紀元前四〇二年即位)から秦の始皇帝に至る約二百五十年間のいろいろな策士が諸国を遊説して主張した策略を十二ヶ国のい国別に分けて書いた歴史書。中国史の「戦国時代」という呼称は本書に由来する。前漢の学者劉向(りゅうきょう:紀元前七七年頃~紀元前六年)が当時の史料に基づいて編集してかく名づけた)の「秦策 上」に、

   *

詩云、行百里者、半於九十。此言末路之難。

(詩に云く、「百里を行く者は、九十を半ばとす。」と。此れ、末路の難きを言ふなり。)

   *

とあるのに基づく(「詩」とあるが、現行の「詩経」にはない。恐らくは原「詩経」にあって佚文となったものであろう。原典は、後の文(ここは現在、殆んど問題にされない)を見れば明らかな通り、最後の僅かな部分(ツメ)を美事に完遂することの難きを警したものであるが、「半於九十」の箇所は「九十に半ばす」という訓読も可能であり、その場合は、九十里まで来て、しかし「あぁ、やっと半分まで来た」という感慨を述べるとする解釈が実際にある。そうして、龍之介の謂いも、実はその後者の謂いを踏まえていて、実に面白い、確かな「超數學」と言える。私などは、有名な偽命題とされる「ゼノン(Zeno)のパラドックス」の「アキレスと亀」やら……相対性原理が現実化するブラック・ホールの入口の出来事……限りなく近づきながらも絶対に接しない漸近線を無限に拡大し続ける……そうした夢想に耽ってしまうのである。

・「香を焚いてゐる」神に祭り上げるように、その才能を人間扱いせず、訳も何も分かろうともせず、ただただ、無暗矢鱈に崇め奉っている。

・「吝かである」「さぶさかである」と読む。「吝か」とは「ためらうさま・思いきりの悪いさま」「物惜しみするさま。吝嗇(けち)な様子」の意。ここは前者。一般に現在では専ら「~にやぶさかでない」(~する努力を惜しむつもりはない・かえって喜んで~する気持ちがある)の形以外では使う人が激減し、またそれもまた、使わなくなりつつあるため、向後はここにかくも注を附さないと若い読者には意味が分からなくなることと思う。

・「我笛吹けども、汝等踊らず。」「マタイによる福音書」の第十一章第十六から十七節の(引用はウィキソース大正改訳を参考にした)、

   *

『われ、今の代を何に比へん、童子、市場に坐し、友を呼びて、「われら汝等のために笛吹きたれど、汝ら踊らず、歎きたれど、汝ら胸うたざりき」と言ふに似たり。』

   *

或いは、酷似した「ルカによる福音書」の第七章第三十一・三十二節に基づく。

・「彼等」前に注したように、龍之介の引いた箇所は、キリストが、素直に懇切に「まこと」を述べても、それを全く理解しようとしない、天邪鬼で愚かな「大衆」に対し、強い皮肉を込めて言った警喩の中の台詞内台詞である。

「我笛吹けども、汝等踊らず。」――「私が笛吹いて上げたのに、あなたたちは、誰も踊って呉れない。」

と強い批難の意を込めて言った章句の中の片句なのである。それを龍之介は大胆に截ち切って、これをイエスの肉声に還元させた、そうしてそれを捩じり皮肉る形で「彼等」なる集団の台詞、

「我等踊れども、汝足らはず。」――「俺たちが楽しく踊ってんのによ! て前(めえ)独りが、辛気臭く文句をほざくたぁ、どいういう了見でえ!」

を案出、対峙させてあるのである。本「天才」パートの流れから言えば、「彼等」は天才でない、天才を理解出来ない愚昧なる「大衆」の謂いであり、「耶蘇」(イエス・キリスト)はここでは「天才」の換喩となることになる。そうして「大衆」は読者であり、「耶蘇」は芥川龍之介その人なのである。]

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