譚海 卷之一 明和七年夏秋旱幷嵯峨釋迦如來開帳の事
〇明和七年夏枯旱(なつがれひでり)に付、閏六月中三(ちゆうさん)より麥(むぎ)稗(ひえ)等ぶじき被ㇾ下(くだされ)、江戶近在家七歲已下と五十已上のものを除き、人數ごとに賜りぬ。年賦にて上納被二仰付一候(おほせつけられさふらふ)よし。今年梅雨(つゆ)中(うち)一切雨降(ふる)事なし。わづかに降(ふり)たる事五六日なるべし。それも日をへだてて時々降(ふり)たる計(ばかり)にて、六月閏月七月迄打(うち)つゞき日でりにて、七月十八日初(はじめ)て雨ふる。されどもおもふやうにはふらず、其後冷氣つよく段々雨降(ふる)事に成(なり)たり。夏の中(なか)夕立少し計りづつあれども、やがて晴(はれ)て旱氣(かんき)甚しき故、近鄕の田(た)ひわれ、畑物(はたもの)などは一向に枯(かれ)うせたるゆへ、肴(さかな)の價(あたひ)野菜ものより却(かへつ)て賤(やす)し。近江(あふみ)湖水近き田地は、有年來(いうねんらい)未曾有(みぞう)の豐作なるよし、京都及(および)勢州東海道筋都(すべ)て旱損(かんそん)のよし、雨乞(あまごひ)度々(たびたび)あれども絶(たえ)て雨ふらざるよし飛脚の物語也。閏月の末武州神奈川いけすの鯛三千枚ほど死(しに)たりと納屋(なや)より注進に付(つき)鯛一切拂底(ふつてい)也。其外江戶近き海にが鹽(しほ)と云もの出(いで)て、魚悉く死し内川(うちかは)へうかび來(きた)る、半死の魚もおほくあり。海うなぎ・こちなどの類ひ、うかみいでて人々おびたゞしくとり得たり。されども毒あるよし、喰(く)たる人食傷せしものおほしといふ。江戶の町に鬻(ひさ)ぐ白米鳥目(てうもく)百文に九合づつに及べり。菊・山椒・未央柳(びやうやなぎ)などの類、庭にあるみな旱死(ひでりじに)たり。八月十八日はじめて大雨珍しき事といへり。今年冬に至て狗(いぬ)おほく病死せり。今年嵯峨釋迦如來兩國囘向院(ゑかうゐん)にて、六月十五日より七月十五日まで開帳、又三十日の日延(ひのべ)ありて八月十五日まで開帳、同時下總(かづさ)布施辨才天本所壹(ひと)つ目八幡御旅所(おたびしよ)にて開帳、又京都伏見東福寺塔中(たつちゆう)海藏院の毘沙門天、囘向院にて八月十一日より開帳、後水尾院東福門院兩宮の御調度袞龍(こんりよう)の御衣(ぎよい)大嘗會(だいじやうゑ)御衣冠(ぎよいかん)等をはじめ、あこめ・扇子(せんす)・ゆするつき、御持念彿等種々の物披露あり。
[やぶちゃん注:調べてみると、明和七(一七七〇)年六月から八月にかけて、全国的な旱魃被害があった。この年の旧暦六月は大の月でグレゴリオ暦では六月一日が六月二十三日、しかもこの年は本文に出るように閏六月(小の月。新暦では一日は七月二十三日)があったから、七月は小の月で一日が新暦では八月二十一日、旧暦八月三十日は十月十八日に相当し、六月から八月というのは四ヶ月になることに注意されたい。
「閏六月中三(ちゆうさん)」中旬の三旬(週目)という謂いであろう。旧暦の当月の三旬目(十五日から二十一日)は新暦では八月六日から十二日に相当するから、平年でも暑い時期に相当する。
「ぶじき被ㇾ下」「ぶじく」という動詞は見当たらないが、これは前後から「扶持(ふち)おく」の訛りで、糧食の援助のために現物を下賜下され、の意ではあるまいか?
「年賦にて上納被二仰付一候(おほせつけられさふらふ)」下賜した分は、平時に戻った際の年貢で、当該分を上納(返納)すればよいという意味か。
「六月閏月七月迄打(うち)つゞき日でりにて、七月十八日初(はじめ)て雨ふる」旧暦六月一日なら新暦六月二十三日で、旧暦七月十八日は新暦の九月七日になる。実に四十六日もの間、江戸近郊では降雨がなかったことになる。
「夏の中(なか)」夏の中旬。閏月が入るので旧暦の暦上は意味がないので(叙述が時系列通りとすると、現在の九月中旬頃を夏中旬と称していることになり、幾ら異常気象であってもそういう風には言うまいと考えたことによる)、ここまでの叙述から新暦で考えると、この前の叙述期間の半ばを指すと考える方が自然で、閏六月が新暦の七月二十三日から八月二十日に相当するので、まさにこの時期を指していると考えてよかろう。
「肴(さかな)」魚介類。
「近江(あふみ)湖水近き田地は、有年來(いうねんらい)未曾有(みぞう)の豐作なるよし」現行の不作でも見られることであるが、局地的に琵琶湖沿岸では何十年この方、記憶にないほど極めて珍しい、米の豊作であったことを例外的特異点として記載している。
「閏月の末」閏六月末日二十九日は新暦の八月二十日に相当する。
「枚」一応「まい」で読んでおくが、「ひら」と読んでいるかも知れぬ。平たいものを数える数詞。
「納屋(なや)」これは限定的に河岸(かし)に建てられた商品保管用倉庫を指し、この場合は、そうしたものを所有する大手の海産物を扱う商人らのことを指すのであろう。
「注進」急に発生した事件を急いで支配の者に報告すること。
「一切拂底(ふつてい)」物が完全にすっかりなくなってしまうこと。
「にが鹽(しほ)」「苦潮」で、現行の赤潮のこと。極端に酸素の少ない貧酸素水塊が海面に浮上して起こる現象。貧酸素水塊は水流の遅滞や多量の生活排水などの流入によって富栄養化した海で、海水面近くにプランクトン(鞭毛虫類・ケイ藻・ヤコウチュウなど)が短期間に爆発的に増殖し、水中の酸素が徹底的に消費されることにより、海面が赤褐色等に変わる現象。東京湾のような河川の注ぐ内湾で起こり易い。時に魚介類に大被害が発生する。魚介類の死滅は溶存酸素濃度の低下や鰓にプランクトンが詰まることによる物理的な窒息などの他、その原因プランクトン(特に有毒藻である渦鞭毛藻類などの藻類)が産生する毒素によっても起り、これらの産生する毒素は主に魚貝類(主に貝類)の体内に蓄積され、強力な魚貝毒となってそれを食べた人にも健康被害を及ぼすことがあり、ここでもそうした現象が後述されている。
「内川(うちかは)」固有名詞としての河川名「内川」(東京の南部現在の大田区に位置し、大森地区の東海道本線付近からほぼ直線的に東流し、東京湾に注ぐ二級河川)があるが、ここは所謂、河口部の潮汐に応じて川の殆んど全域が有意に水位変動を起こす東京湾(当時の江戸湾)の感潮河川群全体を指す一般名詞であろう。赤潮が発生すればこうした河川域では魚介類の大量死滅が容易に起こる。
「海うなぎ」この場合は、江戸前で知られる条鰭綱新鰭亜綱カライワシ上目ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科クロアナゴ亜科アナゴ属マアナゴ Conger myriaster のことであろう。
「こち」新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目コチ亜目コチ科コチ属マゴチ Platycephalus sp. でとっておくが、分類学上は全くの別種の、形状のよく似たものも総称する語ではある。
「鳥目」元は穴のあいた銭を指したが、ここは金銭の意。
「百文に九合づつに及べり」明和年間の平均値は米一升が百文であるから、一割増しである。思ったよりは高値(こうじき)ではない。
「未央柳(びやうやなぎ)」現代仮名遣では「びようやなぎ」。キントラノオ目オトギリソウ科オトギリソウ属ビヨウヤナギ Hypericum monogynum 。中国原産で庭木として好まれる。高さは約一メートルで、よく分枝し、葉が柳のそれに似る。夏に茎頂に径約五センチメートルの黄色の五弁花をつける。多数の長い雄蕊が五群に分かれて附属し、目立って美しい。ウィキの「ビヨウヤナギ」によれば、『中国では金糸桃と呼ばれている。ビヨウヤナギに未央柳を当てるのは日本の通称名。由来は、白居易の「長恨歌」に』、
太液芙蓉未央柳 太液の芙蓉 未央の柳
芙蓉如面柳如眉 芙蓉は面のごとく 柳は眉のごとし
對此如何不淚垂 此れに對(むか)ひて 如何(いかん)ぞ淚(なみだ)垂れざらむ
『と、玄宗皇帝が楊貴妃と過ごした地を訪れて、太液の池の蓮花を楊貴妃の顔に、未央宮殿の柳を楊貴妃の眉に喩えて 未央柳の情景を詠んだ一節があり、美しい花と柳に似た葉を持つ木を、この故事になぞらえて未央柳と呼ぶようになったといわれている』。『「美容柳」などを当てることもあるが、語源は不明、単に未央を美容と置き換えたものであろう』とある。
「八月十八日」新暦では十月六日で、既に仲秋である。
「今年冬」同年の十月(旧暦ではここから冬)一日は新暦の十一月七日に当たり、十月十五日が新暦十二月一日に当たった。
「嵯峨釋迦如來」現在の京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗五台山清凉寺は「嵯峨釈迦堂」の名で知られ、中世以来、「融通念仏の道場」としても知られるが、ここの本尊釈迦如来、ウィキの「清凉寺」によれば、十世紀に『中国で制作されたものであるが、中世頃からはこの像は模刻像ではなく、インドから将来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようにな』り、『こうした信仰を受け』て、本文時制の七〇年前の元禄一三(一七〇〇)年から『本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始ま』っていた。
「兩國囘向院」現在の東京都墨田区両国二丁目にある浄土宗諸宗山(しょしゅうざん)無縁寺回向院。
「六月十五日より七月十五日」同年のそれは新暦七月七日より閏六月を挟んだ九月四日までの六十日間。
「三十日の日延(ひのべ)ありて八月十五日まで」同年の八月十五日は新暦十月三日。旱魃の民草の苦しみを考慮しての日延べか。
「下總(かづさ)布施辨才天本所壹(ひと)つ目八幡」現在の東京都墨田区千歳にある江島杉山神社。ウィキの「杉山和一」によれば、杉山検校の称号で知られる鍼灸師杉山和一(わいち 慶長一五(一六一〇)年~元禄七(一六九四)年:伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身。管鍼(かんしん)法の創始者として知られ、鍼・按摩技術の取得教育を主とした世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した)の『献身的な施術に感心した徳川綱吉から「和一の欲しい物は何か」と問われた時、「一つでよいから目が欲しい」と答え、その代わりに同地(本所一つ目)の方』一町(約一万二千平方メートル)を『拝領し、同地屋敷内に修業した江の島の弁天岩窟を模して祠を建て』、江島神社としたことに由来する神社である。杉山和一と江の島については、私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之六」の「福石(ふくいし)」の私の注を参照されたい。
「御旅所(おたびしよ)」神仏の祭礼(神幸祭)やこうした出開帳に於いて、神仏が巡幸の途中、休憩又は宿泊滞在する場所(或いはその目的地)を指す。
「京都伏見東福寺塔中海藏院の毘沙門天」現在の京都市東山区本町十五丁目(ここは同東山区の東南端で現在の伏見区と境を接する)にある臨済宗慧日山(えにちさん)東福寺塔頭海蔵院で本尊は聖観音菩薩であり、毘沙門天はない。調べてみると、東福寺の別の塔頭に勝林寺が現存するが、サイト「京都観光ナビ」の「勝林寺」によれば、この寺は海蔵院の鬼門に当たったことからその鎮守とされ、ここには現在も仏法と北方を守護する毘沙門天を祀り、「東福寺の毘沙門天」として知られていることが判った。ここの『毘沙門天立像は高さ百四十五・七センチメートルの等身大に近い一木造の像で、左手に宝塔、右手に三叉戟をもった憤怒相、作は平安時代十世紀後半頃に遡ると言われている。長く東福寺仏殿の天井裏にひそかに安置されていたが、江戸時代に開山・高岳令松の霊告により発見され、勝林寺の本尊として祀られたという』とあるから、この像のことを指すか?
「八月十一日」新暦では九月二十九日。
「後水尾院東福門院兩宮」後水尾天皇(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年 在位:慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)と、その中宮で徳川秀忠と正室江の五女であった東福門院徳川和子(まさこ/かずこ 慶長一二(一六〇七)年~延宝六(一六七八)年:明正天皇の生母)。
「袞龍(こんりよう)の御衣(ぎよい)」現代仮名遣「こんりょうのぎょい」。昔、天皇が着用した中国風の礼服で、上衣と裳(も)とからなり、上衣は赤地に日・月・星・龍・山・火・雉子などの縫い取りをした綾織物。即位式や大嘗会・朝賀などの儀式に用いた。直後の「大嘗會御衣」は同じことを指すか(衍字?)、或いはその「大嘗會御衣」と併せて被る専用の「冠(かん)」(かんむり)の謂いか。
「あこめ」「衵」「袙」などと書き、束帯の際に下襲 (したがさね)と単(ひとえ) との間に着用したもの。打ち衣(ぎぬ)とも称した。
「ゆするつき」「泔坏」と書き、泔(ゆする:頭髪を洗って梳(くしけず)るのに用いる湯水。古くは米の研ぎ汁などを用いた)の水を入れる器。古くは土器であったが、この頃のものは漆器や銀器である。]
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