芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自己嫌惡
自己嫌惡
最も著しい自己嫌惡の徴候はあらゆるものに譃を見つけることである。いや、必ずしもそればかりではない。その又譃を見つけることに少しも滿足を感じないことである。
[やぶちゃん注:これは今少し誤読する者を救うために、補助具を使用する必要がありそうだ。
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(「)最も著しい自己嫌惡の徴候(」と)は(「外界の)あらゆるもの〔=對象〕に(對し、そこにあらゆる)譃を見つけること(」)である。いや、必ずしもそればかりではない。その又(、)(「)譃を見つけること(」)に(「見つけている自分自身が)少しも滿足を感じないこと(」)である。
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整序する。
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1 「最も著しい自己嫌惡の徴候」とは「外界のあらゆる對象に對し、そこにあらゆる譃を見つけること」である。
1・1 いや、必ずしも「外界のあらゆる對象に對し、そこにあらゆる譃を見つけること」が「最も著しい自己嫌惡の徴候」であるばかりではない。
2 それに加へて、「外界のあらゆる對象に對し、そこにあらゆる譃を見つけること」に「見つけている自分自身が少しも滿足を感じないこと」である。
☆
自己の置かれて「在(あ)る」ところの家庭・村落・集団・社会・世界・宇宙という、あらゆる外的対象(他者・生物・物質・現象総てを包含する対峙対象)の中に、あらゆる「噓」(=「偽(ぎ)」)を発見してしまう……
――そもそも外的状況は個我にとっては基本的に総てが虚偽であるのに――
そこに、今更に「嘘」を感じ、そればかりが神経症的に眼につき出す……
そうして、そのX線のように、総て「嘘」を見透かしている自分自身に少しも満足感を感じなくなってしまう……
――普通ならその聡明さやその解明するプロセスに満悦するところなのに――
それが「最も著しい」病的で致命的な「自己嫌惡の徴候」である。
見え過ぎる眼――外界への強い嫌悪は自己への破壊的嫌悪の初期症状である。
と芥川龍之介は言っているのである。彼自身の貴重な一度限りしか出来ない体験に、基づいて。…………]
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