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2016/06/13

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 或物質主義者の信條

 

       或物質主義者の信條

 

 「わたしは神を信じてゐない。しかし神經を信じてゐる。」

 

[やぶちゃん注:これは後出る、複数の「私」の中の知られた一章、

   *

       わたし

 わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神經ばかりである。

   *

を想起させるものの、どうもしっくりこない。確かに、芥川龍之介は同時期の執筆になる「齒車」の中でかく語ってはいる。

   *

……先生、A先生、――それは僕にはこの頃では最も不快な言葉だつた。僕はあらゆる罪惡を犯してゐることを信じてゐた。しかも彼等(ら)は何かの機會に僕を先生と呼びつづけてゐた。僕はそこに僕を嘲る何ものかを感じずにはゐられなかつた。何ものかを?――しかし僕の物質主義は神祕主義を拒絶せずにはゐられなかつた。僕はつひ二三箇月前にも或小さい同人雜誌にかう云ふ言葉を發表してゐた。――「僕は藝術的良心を始め、どう云ふ良心も持つてゐない。僕の持つてゐるのは神經だけである。」………

   *

 

問題は「僕の物質主義」という謂いである。そもそもこれは唯物主義と同義では、実はない。辞書を引いても、「物質・金銭の充足を第一として、精神面を軽視する考え方」とある。しかし、我々は芥川龍之介の作品群や彼の人生にそのような決定的属性を見出だし得るであろうか? 私は「ノー」と鮮やかに答える。そうして、芥川龍之介は遂に「神を信じ」ることはなかったが、しかし、では、この「わたし」のアフォリズムと直流に繋げ、芥川龍之介は冷徹無比な「物質主義者」であったかと言われると、私は首を傾げざるを得ないからである。物質主義者は確かに十分条件としては「良心」を持たないという十分条件の属性があると規定することは肯んじよう。だが、物質主義者に対して――あなた「は良心を持つてゐない。」あなた「の持つてゐるのは神經ばかりである。」――であると断じた時、どれだけの「物質主義者」がそれにイエスと答えるかを考えてみるならば、私の疑問は納得戴けるものと思うのである。私はこの二つのアフォリズムは酷似しなからも、全然別なことを表明しているように思えてならないのである。正直、「齒車」の「僕の物質主義」なる表現は一種自己韜晦のポーズ、或いは「僕」にのみ理解される孤独で特異な「物質主義」なるものが、龍之介のなかにあったのではないかと強く感じるのである。だからこそこのアフォリズムでも標題を「物質主義者の信條」と限定したのではなかったか? 但し、現時点では、これ以上、その問題を掘り下げるだけの中身を、貧しく疲弊した私は持ち合わせていないようにも感じている。また、何かが私の挫滅した脳に閃くことのあれば、追記したいとは思っている。]

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