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2016/06/22

北條九代記 卷第九 日蓮上人宗門を開く

 

      ○日蓮上人宗門を開く

去ぬる正嘉元年八月より、天變地妖樣々にて風雨、洪水、飢饉、疾疫、打續きければ諸寺諸社に仰せて、國家安鎭の大法を修し、祈禱の懇誠(こんぜい)を致さるれども、變災愈(いよいよ)重りて、餓莩(がへう)、野に盈(み)ちて、鳥犬(てうけん)、尸(かばね)を爭ひ、臭氣、風に乘つて、行人(かうじん)、鼻を蔽ふ。「是(これ)只事にあらず、如何樣(いかさま)、政道の邪(よこしま)なる歟(か)、理世(りせい)に私ある歟。天怒り、地怨むる所あらば、罪を一人に示し給へ。民、何の科(とが)に依(よつ)て、かゝる災禍(さいくわ)に逢ふ事ぞ」と、時賴入道、深く歎き給ひけれども、時運(じうん)の環(めぐ)る所、力及ばざる折節なり。去ぬる四月十三日に改元ありて、正嘉二年を引替て文應元年とぞ號せられける。同十八日に改元の詔書、鎌倉に到來す。同二十二日政所において、改元の吉書、行はれ、松殿(まつどのの)法印に仰せて、御祈禱の爲、千手陀羅尼(だらに)の法を修(しゆ)せらる。爰に、法華經の持者(じしや)沙門、釋(しやく)の日蓮法師とて、學智の上人あり。本姓(ほんしやう)は三國氏、安房國長狹郡(ながさのこほり)東條鄕(とうでふのがう)市川村小湊(こみなと)の浦の人なり。父は貫名(ぬきなの)左衞門尉重忠、母は淸原氏、日天耀きて胸を照すと夢みて孕(はら)めり。後堀河院貞應元年二月十六日に誕生あり。十二歲にして淸澄山(きよすみさん)の道善房(だうぜんばう)の上人の弟子となり、十八歲にして出家受戒し、日蓮房とぞ號しける。虛空藏求問持(こくうざうぐもんぢ)の法を修し、其より台嶺寺門(たいれいじもん)の間に、學行修道し、三十二歲にして大道(だいだう)利生の志を起し、建長五年三月二十八日、七字の題目を唱へて、宗門を開かれし所に、淸澄の追善房、是を妬(ねた)みて、地頭(ぢとう)東條左衞門尉景信と心を合せて、寺中を追放す。力なく寺を出でて、相州鎌倉に來り、名越の松葉谷(まつばがやつ)に草菴を構へ、日每に出でて巷に立ちつゝ、七字の題目を稱揚す。是を聞く人、或は信をおこし、或は毀(そしり)を致し、其(その)名、漸く鎌倉中に隱(かくれ)なし。去ぬる正嘉元年より、今文應の初に及びて、天變妖災、暇(ひま)なく行はれて、人民、飢疫(きえき)の愁(うれへ)に罹る。日蓮卽ち立正安國論一卷を作り、文應元年七月十六日に、鎌倉の奉行宿谷(しゆくやの)左衞門入道最信(さいしん)を以て、時賴入道に參せたり。時賴入道、是(これ)を聞き、見給ふ所に、「日蓮の志、我執輕慢(がしうきやうまん)の中より、宗門建立(こんりふ)の爲(ため)、書記せられ、天下この宗門を用ひざる事を憤り、世を呪咀する思(おもひ)あり。文章の趣(おもむき)、穩(おだし)からず」と讒(さかしら)申す人ありければ、打捨てられて侍りけり。又、傍(かたはら)には「日蓮法師、珍しき宗門を立てゝ、諸宗を誹謗し、鎌倉の執權、奉行、頭人(とうにん)を惡口(あくこう)し、我慢自大(がまんじだい)なる事、世の爲(ため)、人の爲、災害の根(ね)なり」と申し沙汰しければ、「かゝる惡僧ならば、鎌倉中に許し置く事然るべからず」とて、弘長元年五月十二日行年四十歲にして、日蓮法師を伊豆國伊東の浦へ流され、伊東八郞左衞門尉朝高(ともたか)にぞ預けられける。同三年五月に召返(めしかへ)さる。文永年中に、日蓮法師、名越(なごや)の草菴にありながら、諸宗を誹謗し、行德(ぎやうとく)の碩學(せきがく)を惡口し、將軍家を呪詛せらるゝ由、伊和瀨(いわせの)大輔、申し行(おこな)ふ旨、有りて、弟子檀那六人と共に宿谷(やどや)の土牢に入れたりけり。然れども、猶諸人の怒(いかり)を宥(なだ)めん爲(ため)、龍口(たつのくち)の海邊(かいへん)に引出し、斬罪(ざんざい)に行はんとす。相州、深く憐(あはれ)みて、俄(にはか)にせられけり。この法師、鎌倉近く叶ふべからず、遠島(ゑんたう)に移すべしとて、武藏〔の〕前司に仰せて、佐渡島にこそ流されけれ。同十年二月に、相州時宗、大赦(たいしや)行はれ、鎌倉に歸り入り、其より甲州に赴き、身延(みのぶ)と云ふ所に一宇を構へて、移住せらる。弘安五年九月に、武藏國に打越(うちこえ)て、池上といふ所に行致(ゆきいた)り、同年十月十三日に遷化(せんげ)あり。其弟子日朗(らう)、日昭(せう)以下、上足の弟子等(ら)諸方に𢌞(めぐ)りて、法華經を讀誦(どくじゆ)し、題目を唱へ、不惜身命(ひしやくしんみやう)の行を勤め、漸く宗門、世に弘通(ぐつう)し、持經修道(じきやうしゆだう)の男女貴賤、諸國に今、盛(さかり)なり。

[やぶちゃん注:湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この部分は、「吾妻鏡」巻四十九の文応元(一二六〇)年四月十八日・二十二日の他、日蓮関連記載の方は「日蓮聖人註画讃」(五巻一冊・日澄著・寛永九(一六三二)年板他)に拠っており、『冒頭に天変地妖が続き、時頼の憂いとなっていたと述べ、救済者日蓮登場の前話とする』とある。

「正嘉元年」西暦一二五七年。

「懇誠(こんぜい)」真心を込めて行うこと。

「餓莩(がへう)」現代仮名遣は「がひょう」と読む。「莩」はこれだけで「飢え死に」の意。

「理世(りせい)」「治世」に同じい。

「罪を一人に示し給へ」その罪と罰は、為政者たるこの私時頼一人にお示し下されよ。

「去ぬる四月十三日に改元ありて、正嘉二年を引替て文應元年とぞ號せられける」誤り。正嘉二(一二五八)年には改元はなく、翌正嘉三年の三月二十六日に正元に改元され、正元二年「四月十三日」(ユリウス暦一二六〇年五月二十四日)に文応に改元されている。

「同十八日に改元の詔書、鎌倉に到來す」こkは正しい。「吾妻鏡」巻四十九の文応元(一二六〇)年四月十八日の条に、「今日。改元詔書到來。去十三日。改正元二年爲文應元年。」(今日、改元の詔書到來す。去ねる十三日、
正元二年を改め、文應元年と爲す。)とある。

「松殿(まつどのの)法印」(?~文永三(一二六六)年)関白藤原忠通の次男基房の孫で真言僧であった良基(りょうき)の通称。定豪(じょうごう)に学び、鎌倉で祈禱に従事した。この後の文永三年には第六代将軍宗尊親王の護身験者(げんざ)に昇ったが、親王の謀反の疑いに関係して高野山に遁れ、食を断って同年中に死去した。

「千手陀羅尼(だらに)の法」千手観音を本尊とした除災を祈請する修法(ずほう)。

「持者(じしや)沙門」一般には経典を常に持って拝読することや、寺に参って経典を読誦することを指すが、特に法華経を信読する者を「持経者」と称した。

「釋(しやく)の」ここは広く仏教者が釈迦の宗教的一族であるとして法名の上に宗教的な姓として附した語。

「本姓は三國氏」日蓮(貞応元(一二二二)年~弘安五(一二八二)年)の父は三国大夫(貫名(ぬきな)次郎(現在の静岡県袋井市の藤原北家支流の武家貫名一族を出自とする)重忠、母は梅菊とされる。日蓮は「本尊問答抄」に『海人(あま)が子なり』、「佐渡御勘気抄」に『海邊の施陀羅が子なり』(旃陀羅(せんだら)は中世の被差別民に対する呼称であるが、或いは殺生を生業とする漁師の子の謂いかも知れぬ)、「善無畏三蔵抄」には『片海(かたうみ)の石中(いそなか)の賤民が子なり』(「片海」は地名で「石中」は「磯辺」の謂いであろう)、「種種御振舞御書」では『日蓮貧道の身と生まれて』等と記している(ここは一部でウィキの「日蓮」の記載を参考にした)。

「安房國長狹郡(ながさのこほり)東條鄕(とうでふのがう)市川村小湊」現在の千葉県鴨川市安房小湊。

「母は淸原氏」ウィキの「日蓮」の注に、「百家系図稿」(江戸末期から明治にかけての系図家である鈴木真年の著)『では、幼名を薬王丸、母を清原兼良の娘とする』とある。

「淸澄山(きよすみさん)」現在の千葉県鴨川市清澄にある寺で、今は日蓮が出家得度及び立教開宗した寺とされて、日蓮宗大本山千光山清澄寺(せいちょうじ)として、久遠寺・池上本門寺・誕生寺とともに日蓮宗四霊場と呼ばれているが、元は凡そ千二百年前の宝亀二(七七一)年に「不思議法師」なる僧が訪れて虚空蔵菩薩を祀って開山し、承和三(八三六)年に天台宗比叡山延暦寺の中興の祖慈覚大師円仁がこの地を訪れて修行を成して以来、天台宗の寺として栄えていた。

「道善房」日蓮の出家得度の師であり、薬王丸という名も彼から貰ったともされる。詳細な事蹟は不詳であるが、清澄寺で強い発言力を持つ僧であったらしい。日蓮は後に彼の死去の報に接した際、「報恩抄」を執筆し、その中でその真摯な感謝と追悼の思いを吐露している。

「虛空藏求問持(こくうざうぐもんぢ)の法」虚空蔵菩薩を本尊とした修法で、虚空蔵菩薩の真真言(マントラ)を「ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」を百万遍唱えつつ行うという。

「台嶺寺門(たいれいじもん)」「台嶺」は「台岳」とも称し、比叡山を中国浙江省にある仏教の聖山天台山に模して唐風に呼んだ称。「寺門」とあるから、日蓮の遊学した天台寺門宗の三井寺(園城寺)などをも含む。

「三十二歲にして大道(だいだう)利生の志を起し」ウィキの「日蓮」に、建長五(一二五三)年(年)四月八日(他に五月二十六日、六月二日説があり、本文の「三月二十八日」もその一説か)のこと、『朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める』とある。

「東條左衞門尉景信」(生没不詳)は、鎌倉前期の武将。ウィキの「東条景信」より引く。『安房国長狭郡東条郷の地頭を務めて』おり、念仏宗徒であったらしい(但し、未確認)。この時、日蓮が法華経信仰を説いた際、『景信の信仰している念仏も住生極楽の教えどころか』、『無間地獄に落ちはいる教えであると述べ、法華経のみが成仏の法であると述べたことに怒り、日蓮を殺害しようとしたが』、『清澄寺の道善坊の取り計らいで事なきを得た』(本文は道前坊を日蓮追放の首魁の如く語っているが、前に記した後の日蓮の追悼文などから見ると、この記載の方が真実味がある)。『日蓮は念仏宗を批判することをやめず、その後も他宗教排撃を弘通活動の中で盛んに行っている。景信はこの信仰上の恨みとともに、日蓮やその両親が恩顧を受けた領家の尼の所領を景信が侵略した時、日蓮が領家の尼の味方をして領家側を勝訴に導いたことなどから、一層の恨みが募ったのではないかと思われている。景信は』文永元(一二六四)年に『日蓮が天津の領主工藤吉隆のもとへ招かれた帰途を待ち伏せ』て襲撃したが』、討ちもらしている(小松原法難。これはかなり有名な法難で日蓮は額を斬られて左腕を骨折、信徒の工藤吉隆と弟子の鏡忍房日暁が殺害されている)。『景信のその後の消息に関しては現在のところ正確にはわからないが』、『一説によると』正応四(一二九一)年八月、享年六十三で『病死したとされる。法号は宝昌寺殿道悟景信大禅門と伝えている。この説によれば小松原で日蓮を襲撃してから』二十七年後に『没したことになる』とある(法名に「禅門」とあるが、融通念仏宗ではよく見られる戒名である)。

「名越の松葉谷(まつばがやつ)」現在の鎌倉市大町の名越(なごえ:現行はこちらであるが、鎌倉時代は「なごや」の訓が一般的であった)に含まれる一地域名として現存。

「日每に出でて巷に立ち」知られた辻説法である(但し、現行の小町大路の二箇所に「辻説法跡」とする記念碑が建てられてあるが、当時の幕府の位置や鎌倉市街の路線などから推理しても、特にそこでという限定は却っておかしく信ずるに足らないと私は思っている。各所で行ったとすればよろしい)。

「正嘉元年より、今文應の初」正元を挟んで凡そ三年。

「立正安國論」文応元(一二六〇)年七月十六日に得宗北条時頼(彼は執権をこの四年前の康元元(一二五六)年十一月に義兄の北条長時に譲って出家していた。嫡子時宗が未だ六歳と幼少であったことによる中押さえの代役(眼代(がんだい):代理人)であって、以前、実権は時頼にあった)に上呈している。題名は正しい正法(しょうぼう:彼の場合は法華経に基づく唯一無二の真の仏法理)を建立し、国土を安穏にするという意。日蓮は他宗を邪宗として排撃する際に「四箇格言(しかかくげん)」(念仏無間 (念仏宗徒は無間地獄に落ちる) ・禅天魔 (禅宗は天魔の行い)・真言亡国 (真言宗は国を滅ぼす元)・律国賊 (律宗は国賊そのもの) )が知られるが、同書では特に法然の念仏をやり玉に挙げ、現世を厭離(おんり)して来世に於ける極楽往生をただ冀(こいねが)うという末法思想的解釈こそが邪法であることを訴え、穢土(えど)たる現実をこそ仏国土化するという発菩提心(ほつぼだいしん)を起こすことこそ正法とする姿勢が読みとれる。

「宿谷(しゆくやの)左衞門入道最信(さいしん)」北条氏得宗家被官の御内人で当時、寺社奉行であった宿屋光則(やどやみつのり 生没年未詳」読み方は孰れもあった。本文でも後で「やどや」と読んでいる)。「吾妻鏡」では後の弘長三(一二六三)年の時頼の臨終の場で、最後の看病を許された得宗被官七名の中の一人に含まれている。ウィキの「宿屋光則」によれば、『光則は日蓮との関わりが深く』、『日蓮が「立正安国論」を時頼に提出した際、寺社奉行として日蓮の手から時頼に渡す取次ぎを担当している。また、日蓮の書状』を見ると、文永五(一二六八)年八月二十一日及び十月十一日にも『北条時宗への取次ぎを依頼する書状を送るなど、宿屋入道の名前で度々登場している』。本文に出る文永八(一二七一)年の日蓮とその一党の捕縛の際には、『日朗、日真、四条頼基の身柄を預かり』、鎌倉の長谷にある『自身の屋敷の裏山にある土牢に幽閉した。日蓮との関わりのなかで光則はその思想に感化され、日蓮が助命されると深く彼に帰依するようになり、自邸を寄進し、日朗を開山として』現存する日蓮宗行時山(ぎょうじさん)光則寺(こうそくじ)を建立している(山号は光則の父の名)。

「我執輕慢(がしうきやうまん)」自身の執心にのみとらわれており、それに慢心し、他者を一切軽んずる心に満ちていることを指す。

「書記せられ」書き記された(もので)。「られ」は受身であって尊敬ではないので、注意。

「穩(おだし)からず」「おだし」は形容詞で「穏やかだ」の意。

「讒(さかしら)」如何にも解っているという風に振る舞うこと。或いは、差し出口(でぐち)をきくこと、でしゃばること。

「頭人(とうにん)」引付衆のこと。評定衆(執権・連署とともに幕府最高意思決定機関を構成したが、鎌倉後期には有名無実化した)を輔弼して政務一般及び訴訟審理の実務に当たった中間管理職。

「我慢自大(がまんじだい)」我儘放題で、慢心し、おごり高ぶること極まりないことを指す。

「弘長元年」一二六一年。

「伊豆國伊東の浦へ流され」所謂、伊豆法難。現在の静岡県伊東市に流罪となったが、実際には伊豆到着前に伊東沖にある「俎岩(まないたいわ)」という小さな岩礁に置き去りにされている(後二漁師の弥三郎という者に助けられたという)。

「伊東八郞左衞門尉朝高(ともたか)」監視役であった伊東の地頭。幾つかのネット記載を見ると、理屈上、繋げるなら、弥三郎(或いは伴左衛門とも)に助けられた日蓮は、形式上で幕府から指示されていたのであろう伊東朝高に預けられ(俎岩放置事件を知らなかったなんてことはあり得ない。或いはそんな事件は実はなかったのかも知れぬ)、日蓮は川奈の岩屋に幽閉したというコンセプトらしい。ところが、朝高が原因不明の重病に罹って危篤となり、家臣綾部正清が幽閉された日蓮を訪ねて平癒祈願を懇願、当初は断ったものの、正清に信仰の兆しを見、祈禱を行い、目出度く快癒したというオチがあるようである。

「同三年五月に召返さる」調べた限りでは時頼の措置によって赦免状が発せられ、日蓮が鎌倉の草庵に帰ったのは弘長三(一二六三)年二月二十二日(配流から一年九ヶ月後)とある。

「文永年中」文永元(一二六四)年に先に記した「小松原法難」があったが、文永五(一二六八)年には蒙古から幕府へ国書が届き、日蓮が主張していた他国からの侵略の危機が現実となった。ウィキの「日蓮」の年譜には、この時、日蓮は執権北条時宗(時頼から継いだ第六代執権の北条長時は文永元(一二六四)年七月に第二代執権北条義時五男北条政村に執権を譲り、まさにこの文永五年三月に十八歳になっていた時宗に、やっと第八代執権職が回ってきたのであった)、内管領(うちかんれい)『平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観』(忍性の通称)『などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫』っている。文永八(一二七一)年七月には極楽寺忍性との祈雨対決での忍性の敗北を指弾、九月には、歯に物着せず盛んに、批難を浴びせてくる(宗旨だけではなく、彼らが幕府から受けていた経済活動に対しても敢然と物申した)のに業を煮やした忍性や『念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴え』、『平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れ』た(知られた「龍ノ口の法難」。時宗が死一等を減じたのは、この時に正妻(後の覚山尼)が懐妊していた(十二月に嫡男貞時を出産)ことが理由(比丘殺しは仏者には祟りが怖い)と私は踏んでいる)。翌十月に佐渡へ流罪となった。

「伊和瀨(いわせの)大輔」不詳。ある記載によれば、忍性一派による謀略上の傀儡ともする。確かに、この法難の前後は怪しいことだらけではある。

「相州」北条時宗。

「武藏〔の〕前司」恐らくは北条宣時(暦仁元(一二三八)年~元亨三(一三二三)年)のことであろう。大仏(おさらぎ)宣時とも称した。父は大仏流北条氏の祖である北条朝直。建治元(一二七七)年引付頭人になり、後の弘安一〇(一二八七)年には第九代執権北条貞時の連署を務めた。因みにかの「徒然草」の第二百十五段に現れる最明寺入道時頼が自邸でサシでかわらけに残った味噌を肴に酒を酌みをかわした相手は、実に若き日のこの宣時である。

「同十年二月に、相州時宗、大赦(たいしや)行はれ、鎌倉に歸り入り」文永十年は文永十一年の誤り。文永一一(一二七四)年二月十四日に時宗の大赦によって赦免となった。ウィキの「日蓮」の年譜には、『幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する』三度目の諌暁(かんぎょう:諌(いさ)め諭(さと)すの謂いであるが、主に信仰上の誤りについての場合に用いる)をしている。以下、記されるように、『その後、身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて身延入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山』している。因みに、この直後に蒙古が襲来(文永の役)、五年後の弘安四(一二八一)年には再襲来(弘安の役)している。

「弘安五年」一二八二年。

「日朗」(にちらう(にちろう) 寛元三(一二四五)年~元応二(一三二〇)年)は日蓮六老僧の一人(日蓮より二十三歳年下)。下総国出身。文応二(一二六一)年に日蓮を師として法を学び、文永八(一二七一)年の日蓮の佐渡流罪の際には土牢に押込めとなっている。文永一一(一二七四)年には佐渡に日蓮を八回にも亙って訪ね、最後は赦免状を携えて佐渡に渡っている。師の遷化直前(弘安五(一二八二)年)には池上宗仲の協力のもとに池上本門寺の基礎を築いた。元応二(一三二〇)年に鎌倉の安国論寺にて荼毘にふされ、逗子の法性寺に葬られた。

「日昭」(「につせう(にっしょう) 嘉禎二(一二三六)年?~元亨三(一三二三)年)は下総国の出身。日蓮六老僧の一人。ウィキの「日昭によれば、生年については師の日蓮より年長で承久三(一二二一)年とする説もあるとし、池上本門寺の土地を寄進した『池上宗仲とは親戚関係にある』。『初め天台宗の僧であったが、のちに日蓮に師事して改宗し、日蓮が配流となっている間も鎌倉を離れず』、『師日蓮の説を広めた。天台宗的な色彩を残しながらも、鎌倉浜土の法華寺を拠点として布教を行った。鎌倉幕府の弾圧に対しては自らは天台沙門徒と称するなど臨機応変に対応している』。徳治元(一三〇六)年には『越後国風間氏の庇護により相模国鎌倉に妙法寺(その後越後国に移転)を建立している。晩年比叡山戒壇と関係を持っていたことから、この派にはその影響が残された』とある。なお、「日蓮六老僧」とは日蓮が臨終に際して後継者として指名した六人の高弟を指し、この日昭と日朗の他に、日興(にっこう)・日向(にこう)・日頂(にっちょう)・日持(にちじ)がいる。

「上足」「じやうそく(じょうそく)」で弟子の中で特に優れた者を指す語。高弟。

「弘通(ぐつう)」仏教や経典が広まること。

「持經修道(じきやうしゆだう)」先に注した通り、法華宗の仏道修行を特に限定して指す語である。]

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