芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 譃(三章)
譃
我我は如何なる場合にも、我我の利益を擁護せぬものに「淸き一票」を投ずる筈はない。この「我我の利益」の代りに「天下の利益」を置き換へるのは全共和制度の譃である。この譃だけはソヴイエツトの治下にも消滅せぬものと思はなければならぬ。
又
一體になつた二つの觀念を採り、その接觸點を吟味すれば、諸君は如何に多數の譃に養はれてゐるかを發見するであらう。あらゆる成語はこの故に常に一つの問題である。
又
我我の社會に合理的外觀を與へるものは實はその不合理の――その餘りに甚しい不合理の爲ではないであらうか?
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年三月号『文藝春秋』巻頭に、前の「藝術」(四章)と「天才(五章)、後の「レニン」と合わせて全十三章で初出する。「譃」は「噓(嘘)」に同じい。芥川龍之介が好んで用いる用字である。
・「全共和制度」「全」とあるから、これは広義の「republic」、世襲による君主制に対して、主権が複数者にある政治形態の謂い。少数特権階級にのみ主権がある古形の貴族的共和制や寡頭的共和制体制などから、国家元首や人民の代表者を間接・直接に選出して主権が人民にあると謳い上げる民主的共和制体総て。
・「ソヴイエツトの治下」一九一七年のロシア革命を起源とするソビエト社会主義共和国連邦(Союз Советских Социалистических
Республик)の正式な成立は一九二二年十二月三十日(一九九一年十二月二十六日(連邦建国から六十九年後)に崩壊)。未だ成立から二年三ヶ月後のことであることを認識された上で、読まれんことを望む。にしても、龍之介は既にして「共和制」、人民主義・社会主義・共産主義・民主主義等々に巣食うところの、官僚主義の家ダニの「譃」の臭いを、これ、既にして嗅ぎ取っていたようにも思われる。
・「成語」(せいご)とは辞書上からはまず、「古くから一纏まりで慣用的に用いられる言葉」、即ち、「諺」・「格言」等の成句の謂いが想起されるが、とすると、実は「侏儒の言葉」自体がそうした「譃」だという自己矛盾を引き起こすことにも成りかねない。それでも龍之介はほくそ笑むであろうが、しかし、ここは前文から、もっと厳密な言語学や論理学上の、二語以上が結合して一つの意味を表わす熟語や複合語などの謂いととるべきである。本来、成句になるはずがない、微妙に或いはひどく異なる属性を持った二対象が、容易にして安易に結合して語られる時、そこにはあらゆる「譃」が蔓延している、と彼は言いたいのであろう。私はこれは、ヘーゲルの弁証法への根本的な疑義の表明のように受け取れる。とすれば、それを継承しながら、怪しげな精神を除外した唯物論・マルクス主義に於いても、その疑義は十全に寧ろ、物質相手となることによって活性化し、指弾の矛先は完璧に向けられてあるとも考えられよう。そうすると、最終章の「我我の社會に合理的外觀を與へるものは實はその不合理」であるという意味が、少なくとも私には腑に落ちるのである。]
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