芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 正直
正直
若し正直になるとすれば、我我は忽ち何びとも正直になられぬことを見出すであらう。この故に我我は正直になることに不安を感ぜずにはいられぬのである。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年四月号『文藝春秋』巻頭に、前の「賭博」(三章)「懷疑主義」と、後の「正直」「虛僞」(三章)「諸君」(二章)「忍從」「企圖」(二章)と合わせて全十三章で初出する。これもトートロジーに見えるが、同じである。その意識過程と行動を想起すれば、腑に落ちる。
――「若し」我々が「正直にな」ろうと決心したと仮定してみるがよい。すると、その「正直にな」ろうと決心した自分自身が、その心内に溢れているところの、あらゆる隠れた欲望を完全に外部に対して隠蔽せねばならぬことに気づいて、実は自分は「正直」でないということに気づく。さればこそ「我我は忽ち何びとも」「正直にな」ることは出来ないという真理を「見出す」ことになるからである。「この故に我我は正直になること」を少しでも思ったり、考えたり、欲したりすれば、必ず、自身の良心が認めることの出来ない忌まわしい欲望欲求が無数の亡霊のように心の中に立ち現われることになり、即「不安を感ぜずにはいられぬ」ことになるから「である」。――
少なくとも私は、五十九の人生を、そのようにして生きて来た。生きて来てしまった。これからの僅かなそれも同じである。しかしそれが確かに「私」の実相であったのだ。私は「こゝろ」の先生の遺書の最後の、『記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。』という台詞をそのようなものとして心に刻んでいるのである。]
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