芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 無意識
無意識
我我の性格上の特色は、――少くとも最も著しい特色は我我の意識を超越してゐる。
[やぶちゃん注:この「無意識」は、まずはオーストリアの精神科医で精神分析学者のジークムント・フロイト(Sigmund Freud 一八五六年~一九三九年)の提唱した精神分析学に於ける、無意識に抑圧の構造を仮定、そのような構造の中で神経症が発症するとした(治療)理論に於ける「無意識」のそれと考えてよいであろう。芥川龍之介には、夢記述の体裁をとった異作「死後」(大正一四(一九二五)年九月『改造』)があるが(リンク先は私の古い電子テクスト)、そのエンディング(夢の覚醒後のシークエンス)は、
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僕はおのづから目を覺ました。妻や赤子は不相變靜かに寢入つてゐるらしかつた。けれども夜はもう白みかけたと見え、妙にしんみりした蟬の聲がどこか遠い木に澄み渡つてゐた。僕はその聲を聞きながら、あした(實はけふ)頭の疲れるのを惧れ、もう一度早く眠らうとした。が、容易に眠られないばかりか、はつきり今の夢を思ひ出した。夢の中の妻は氣の毒にもうまらない役まわりを勤めてゐる。Sは實際でもああかも知れない。僕も、――僕は妻に對しては恐しい利己主義者になつてゐる。殊に僕自身を夢の中の僕と同一人格と考へれば、一層恐しい利己主義者になつてゐる。しかも僕自身は夢の中の僕と必しも同じでないことはない。フロイドは――僕は一つには睡眠を得る爲に、又一つには病的に良心の昂進するのを避けるために〇・五瓦のアダリン錠を嚥み、昏々とした眠りに沈んでしまつた。………
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と、このアフォリズム同様に截ち切られた不完全構文で出現している(宮坂覺「芥川龍之介全集総索引 付年譜」(岩波書店一九九三年刊)によれば、これ以外に龍之介のフロイトへの言及は現資料中には見出せない)。但し、「夢判断」(Die
Traumdeutung)の出版は一九〇〇年(明治三十三年)、「精神分析入門」(Vorlesungen
zur Einführung in die Psychoanalyse)は一九一七年(大正六年)であるものの、それらの著作の全翻訳は芥川龍之介の死後のことであり、スイスの精神科医で心理学者であったカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung 一八七五年~一九六一年)がフロイトと袂を分かったのは一九一四年(大正三年)のことであるが、日本で最初のユング紹介は小熊虎之助(おぐまとらのすけ 一八八八年~一九七八年)によるユングの論文の全訳「精神病学における人本主義運動」(『心理研究』大正七(一九一八)年)があるものの、これは学術雑誌であり、ユングの著作の本格的翻訳は中村古峡と小熊虎之助の共訳による大正一五(一九二六)年の「連想実験法」が最初だと考えられており、分析心理学(ユング心理学)理論の日本への本格的な導入は第二次世界大戦後のことである(以上は「日本における臨床心理学の導入と受容過程2」(PDFファイル)の小泉晋一氏の解説に拠った)。龍之介がどの程度までフロイトやユングの無意識理論を知っていたかは判然としないが、作家寮美千子氏のサイト「ハルモニア」の「祖父の書斎/科学ライター寮佐吉」内にある『日本の精神分析黎明期の啓蒙書/寮佐吉訳「精神分析學」』によって、科学ライターであった寮佐吉(りょう さきち 明治二四(一八九一)年~昭和二〇(一九四五)年)の翻訳本「精神分析學」(ヒングレー著・大正一二(一九二三)年東京聚英閣刊)が紹介されており、『目次には「精神分析學の起源と発達/夢/無意識/ユングの説」などの言葉が見受けられる。ひもとけば、フロイトの理論の紹介などが詳細にあり、精神分析学の入門・啓蒙書のようだ』とあって、『国会図書館のネット検索で精神分析・フロイト・ユング関係の本を検索してみた』結果として以下の著作を掲げておられる。
大正 九(一九二〇)年「愛の幻」(ウィルヘルム・ジェンセン/フロイド他著/良書普及会刊)
大正一一(一九二二)年「精神分析法」(久保良英著/中央館書店刊)
大正一二(一九二三)年「精神分析學」(上記書)
大正一五(一九二六)年「精神分析入門」(フロイト著/安田徳太郎訳/アルス刊)
昭和 二(一九二七)年「聯想實驗法」(チェ・ゲー・ユング著 /日本精神医学会刊)
私が見る限り、最後のものは先に記した中村古峡と小熊虎之助の共訳による大正一五(一九二六)年のものの後の中村の単独訳版かのようにも見える。龍之介の自死より前か後かを知りたかったが、調べて見ても残念ながら、発行月は分らなかった。以下、『「愛の幻」が、精神分析関係ではいちばん古い本のようだ』とされ、『「精神分析法」を翻訳した久保良英は、大正期に米国に留学、日本に精神分析を持ちこんだ最初の人物だという。その翌年に祖父は「精神分析學」を翻訳。ユングの著作が翻訳されるまでには』、「聯想實驗法」の出を『待たなければならなかった。ということは、ひょっとすると、祖父が翻訳した「精神分析學」が、ユングに関しては、日本で初めての紹介の書であった可能性もある』と述べておられる。一般書では、という条件付きならば、寮美千子氏の謂いはほぼ正しいと言えよう。なお、厳密なユングの邦訳目録と原典との対比は、礒前順一氏と和田光俊氏の共著論文「C・G・ユング著作邦訳文献目録(1918-1989)
: C. G. Jung Bibliographie (Die Gesammelten Werke von C. G. Jung, 19. Bd.),
Japanische Ubersetzungenへの補遺/Bibliography of the
Japanese Translations of the Works of C. G. Jung」(PDFファイル)に詳しいので、原著名などはそちらを参照されたい。
龍之介の著作にはユングへの言及はないが(宮坂覺「芥川龍之介全集総索引 付年譜」(岩波書店一九九三年刊)に拠る)、これ以外に、果たしてユングのそれと関係するかどうか不詳乍ら、芥川龍之介の遺した手帳のうち、旧岩波全集「手帳㈡」(岩波新全集で「手帳2」)とされるものの中(旧岩波全集第十二巻四七三頁上段九行目/新全集第二十三巻二八六頁十六行目)になんと(引用は旧全集に拠った)、
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○聯想實驗法の衝突する例。
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という驚くべきメモが見える。この「手帳2」は新全集同巻の「後記」によれば、大正七~八年(一九一八年~一九一九年)に書かれたものと推定されるから、もしこれが正しくユングの言う連想実験法であるとするならば(あくまで仮定であるので注意)、英訳書辺りからの龍之介の知見ということになろうか?
ともかくも龍之介はフロイトの汎性論的な無意識だけではなく、集団的無意識やポジティヴな自己実現の無意識をも知っていた可能性は否定出来ない。
ただ、このアフォリズム、「無意識」と題し、「我我の性格上の特色は、――少くとも最も著しい特色は我我の意識を超越してゐる。」という龍之介らしからぬ構文の不全性から見ても、彼の言わんとする「我我の意識を超越してゐる」「無意識」、即ち、「我我の性格上の」「無意識」下の「特色」、その「最も著しい」「無意識」下の「特色」というのは、明らかに、フロイトの提唱した「リビドー」(ラテン語:Libido:性的衝動を発動させる力)を濃厚に匂わせるものではある。]
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