芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたしの愛する作品
わたしの愛する作品
わたしの愛する作品は、――文藝上の作品は畢竟作家の人間を感ずることの出來る作品である。人間を――頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を。しかし不幸にも大抵の作家はどれか一つを缺いた片輪である。(尤も時には偉大なる片輪に敬服することもない訣ではない。)
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「親子」(全四章)「可能」「ムアアの言葉」「大作」と合わせて全八章で初出する。
ここで芥川龍之介は「わたしの愛する作品は、――文藝上の作品は」と芸術作品の中でも文学に限ったそれとして示しているように見える。しかしどうであろう。この直前の「大作」で彼は『ミケル・アンヂエロの「最後の審判」の壁畫よりも遙かに六十何歳かのレムブラントの自畫像を愛してゐる』と述べている。ミケランジェロの「最後の審判」が私(藪野直史)にとって退屈だったのは、それが聖書世界を「どうだ!」と言わんばかりに閉じられた系として示しているばかりで、そこにミケランジェロという天性の超絶技巧の筆鋒は見えても、少しもそこにミケランジェロという男の「人間を感ずることの出來」なかったからだと思う(あの壁画にはミケランジェロの絵を批判し、修正を要求した連中への強烈な揶揄が込められている箇所もあるが、それは龍之介風に言わせてもらえば、私にとっては「正に器用には描いてゐる。が、畢竟それだけだ。」と言うべきものでしかない)。それに対し、「レムブラントの自畫像」のなんと「頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた」「人間を感」じさせることだろう!
翻って、別な角度からこのアフォリズムを見るなら、芥川龍之介自身の作品はどうなのか、という問題が浮上してくる。「不幸にも大抵の作家はどれか一つを缺いた片輪である」とし、「時には偉大なる片輪に敬服することもない訣ではない」という謂いからは、龍之介はまず、「頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を」「感ずることの出來る作品」書ける小説家であることは自認していると考えてよい。但し、問題は〈そうした「人間」存在を書ける作家〉(そうした「人間」を書くことが可能な作家)であって、それは自ずから現に〈そうした「人間」現に書いている作家〉の謂いではないということである。そうして彼が「頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を」「感ずることの出來る作品」を「わたし」は「愛する」と呟く時、そこには一抹の寂しさ――そうした「頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を」「感ずることの出來る作品」を現に自分が書いていない、或いは嘗て「書けた」と信じていたものの今考えると書けていなかった、或いは以前は書けたのに今は書けなくなってしまった/もう書けなくなるかもしれないという恐れにも似た寂寥が龍之介を襲っているとも読めるのである。]
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