フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 僕の愛する「にゃん」
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 大作 | トップページ | ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 小人國(6) ハイ さやうなら (その一) »

2016/06/01

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) わたしの愛する作品

 

       わたしの愛する作品

 

 わたしの愛する作品は、――文藝上の作品は畢竟作家の人間を感ずることの出來る作品である。人間を――頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を。しかし不幸にも大抵の作家はどれか一つを缺いた片輪である。(尤も時には偉大なる片輪に敬服することもない訣ではない。)

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一月号『文藝春秋』巻頭に、前の「親子」(全四章)「可能」「ムアアの言葉」「大作」と合わせて全八章で初出する。

 ここで芥川龍之介は「わたしの愛する作品は、――文藝上の作品は」と芸術作品の中でも文学に限ったそれとして示しているように見える。しかしどうであろう。大作」で彼は『ミケル・アンヂエロの「最後の審判」の壁畫よりも遙かに六十何歳かのレムブラントの自畫像を愛してゐる』と述べている。ミケランジェロの「最後の審判」が私(藪野直史)にとって退屈だったのは、それが聖書世界を「どうだ!」と言わんばかりに閉じられた系として示しているばかりで、そこにミケランジェロという天性の超絶技巧の筆鋒は見えても、少しもそこにミケランジェロという男の「人間を感ずることの出來」なかったからだと思う(あの壁画にはミケランジェロの絵を批判し、修正を要求した連中への強烈な揶揄が込められている箇所もあるが、それは龍之介風に言わせてもらえば、私にとっては「正に器用には描いてゐる。が、畢竟それだけだ。」と言うべきものでしかない)。それに対し、「レムブラントの自畫像」のなんと「頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた」「人間を感」じさせることだろう!

 翻って、別な角度からこのアフォリズムを見るなら、芥川龍之介自身の作品はどうなのか、という問題が浮上してくる。「不幸にも大抵の作家はどれか一つを缺いた片輪である」とし、「時には偉大なる片輪に敬服することもない訣ではない」という謂いからは、龍之介はまず、「頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を」「感ずることの出來る作品」書ける小説家であることは自認していると考えてよい。但し、問題は〈そうした「人間」存在を書ける作家〉(そうした「人間」を書くことが可能な作家)であって、それは自ずから現に〈そうした「人間」現に書いている作家〉の謂いではないということである。そうして彼が「頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を」「感ずることの出來る作品」を「わたし」は「愛する」と呟く時、そこには一抹の寂しさ――そうした「頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を」「感ずることの出來る作品」を現に自分が書いていない、或いは嘗て「書けた」と信じていたものの今考えると書けていなかった、或いは以前は書けたのに今は書けなくなってしまった/もう書けなくなるかもしれないという恐れにも似た寂寥が龍之介を襲っているとも読めるのである。]

« 芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 大作 | トップページ | ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 小人國(6) ハイ さやうなら (その一) »