芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 懷疑主義
懷疑主義
懷疑主義も一つの信念の上に、――疑ふことは疑はぬと言ふ信念の上に立つものである。成程それは矛盾かも知れない。しかし懷疑主義は同時に又少しも信念の上に立たぬ哲學のあることをも疑ふものである。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年四月号『文藝春秋』巻頭に、前の「賭博」(三章)と、後の「正直」「虛僞」(三章)「諸君」(二章)「忍從」「企圖」(二章)と合わせて全十三章で初出する。これは見かけ上、トートロジー(同語反復)のように見えるがそうではなく、真の懐疑主義とは、哲学・宗教・思想・信条と呼称する対象は孰れも信念の上に立ったものであるという立場に立って、それらを真摯に懐疑するものである、と言っているのである。それを反転させれば、懐疑主義とは個々の哲学・宗教・思想・信条に真摯に一対一で対峙し、そこで感じた疑問をその対象や、それを諸手を挙げて讃美したり、無条件に信望したり、それに命を殉じても惜しくないなどとほざく連中に投げかけ、その哲学・宗教・思想・信条の実相を明らかにしようとする思考法であると言っているのである。しかし考えてみると、このアフォリズムはもっと絶望的な世界を開示してはおるまいか? 神仏の存在など信じてもいない無数の信者を抱え込んだ教祖たち――垂れ流される放射線を放置して民衆を死に至らしめても屁とも思わぬ民主主義を標榜する政治家――ゲンジホタルやムツゴロウを守ると称してヘイケボタルや微小貝類地味を絶滅に追い込んで恥じないナチュラリストども――実は正当にして必要欠くべからざるものである懐疑主義が通用しない「少しも信念の上に立たぬ哲學」が蔓延している世界が、今、我々の目の前に現前しているではないか!……]
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