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2016/06/11

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 理性

 

       理性

 

 わたしはヴォルテェルを輕蔑してゐる。若し理性に終始するとすれば、我我は我我の存在に滿腔の呪咀を加へなければならぬ。しかし世界の賞讃に醉つたCandideの作者の幸福さは!

 

[やぶちゃん注:「ヴォルテェル」フランスの文学者・思想家として知られるヴォルテールは、本名をフランソワ=マリー・アルエ("Voltaire" François-Marie Arouet 一六九四年~一七七八年)という。ウィキの「ヴォルテール」によれば、『姓はアルーエとも表記され』、『 Voltaireという名はペンネームのようなもので、彼の名のArouetをラテン語表記した"AROVET LI" のアナグラムの一種、「ヴォロンテール」(意地っぱり)という小さい頃からの渾名(あだな)をもじった等、諸説ある』とある。以下、平凡社「世界大百科事典」の中川信氏の解説から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『啓蒙思想の代表的存在で、生前の影響力は全ヨーロッパに及び、十八世紀を〈ボルテールの世紀〉と呼ぶほどである。ことに文学者の社会参加の伝統を確立した、晩年の実践活動は特記されよう。パリの裕福なブルジョアの生れで、ルイ・ル・グラン学院で古典的教養を修得の後、一時は父親の希望で法律を学ぶが、まもなく文学を志す。早くから自由思想家の影響下にあった彼は、一七一七年』、『摂政オルレアン公を風刺した詩を書いたかどで、バスティーユに約一年投獄される。翌十八年処女作の悲劇「オイディプス」』(Oedipe 一七一八年)『の大成功で社交界の注目を集め,この頃よりボルテールの筆名を名のる。アンリ四世をたたえた叙事詩「アンリアッド」』(La Henriade 一七二三年)に『よって、その文名を確固たるものにする。名門貴族ロアンとの口論がもとで、無法な侮辱を受けたばかりか、不当にも再度バスティーユに投獄される』(一七二六年)。『海外亡命を条件に釈放され、イギリスに渡り、この国の政治・思想・言論の自由に深い感銘を受ける。また、シェークスピア劇のエネルギーに感嘆する反面、古典派作家として反発を覚える。帰国』(一七二九年)『後その影響のうかがえる悲劇数編を著したが、そのなかには代表作「ザイール」』(一七三二年)がある。『滞英中に構想された「シャルル十二世伝」』Histoire de Charles XII 一七三〇年)は『歴史分野の最初の著作であるが、偉人とは戦場での勝利者ではなく、人類の進歩と幸福に貢献した人物であるという彼の史観の基本的立場が表明されている。続く』「哲学書簡(Lettresphilosophiques 英語版一七三三年・フランス語版一七三四年)は『滞英見聞報告にことよせて、フランスの政治・宗教・哲学などをきびしく批判した、〈フランス旧政体に投ぜられた最初の爆弾〉である。本書は発禁処分となり,著者は投獄を免れるため,愛人シャトレ侯爵夫人の所領で』、ドイツ『国境に近いシレーに逃れ、以後約十年間は悲劇「マホメット」』(Mahomet, ou le Fanatisme 一七四一年:「マホメット、又は狂信)・「メロープ」(Mérope 一七四三年)などの『著述・研究・科学実験などに費やされる。一七四四年ころからルイ十五世の愛妾ポンパドゥール夫人や友人のとりなしで、ベルサイユに宮廷詩人として迎えられ、修史官』(一七四五年)、『アカデミー会員』(一七四六年)『となる。哲学小説「ザディーグ」』(Zadig ou la Destinée, Histoire Orientale 一七四七年:ザディーグ或いは運命、東洋の物語)に『その一端がみられるように、国王にうとんじられ、そのうえ愛人の急死による精神的打撃もあり、プロイセン王の招きに応じ、ベルリンに向か』い(一七五〇年)、『フリードリヒ二世に文芸の師として仕えるかたわら、史書の代表作「ルイ十四世の世紀」(Le Siècle de Louis XIV 一七五一年)を『書き終えたほか、哲学小説「ミクロメガス」』(Micromégas 一七五二年)などを公にする。国王との友情に破綻が生じ、啓蒙君主フリードリヒに失望』、一七五三年に『ベルリンを退去。一年半各地を転々の末』、一七五四年の暮れ、『ジュネーブに到着、翌』年に『郊外に求めた邸を〈レ・デリス(快楽荘)〉と命名する。ここで世界文明史「習俗論」』(Essai sur les Moeurs et l'esprit de nations 一七五六年;「諸国民の風俗と精神について」)や『哲学小説の代表作「カンディド」』(Candide ou l'optimisme 一七五九年:カンディド又は楽天主義)を『著す。宗教問題などの発言から、ジュネーブ市当局と気まずくなったのを機に、スイス国境のフランス領の寒村フェルネーに土地を買い求め』、一五六〇年に移住。『両国に足場をもち、身の安全と自由を確保した〈フェルネーの長老〉は、ヨーロッパの知識人の指導者として、〈恥知らずをひねりつぶせ〉のスローガンをかかげ、旧政体・教会批判のさまざまな形式の戦闘的匿名文書を』矢継ぎ早に『発表する。また地域の産業振興や免税運動に尽力するほか、カラス事件』(一七六二年十月にフランス南西部ラングドック地方の主要都市トゥールーズのカラス家で二十九歳の長男マルク=アントワーヌ・カラスが怪死したことに端を発するもので、改宗しようと悩む青年が狂信的な新教徒一家の共謀によって殺害されたという冤罪に仕立てられ、父親が死刑に処せられた事件。ヴォルテールらの尽力により一七六五年三月に再審無罪で名誉回復した。山野光正氏のブログ「Kousyoublog」の『「カラス事件」歴史を変えた18世紀フランスのある老人の冤罪死』に詳しい経緯が載る)やラ・バール事件(一七六五年にセーヌの名橋ポン・ヌフで、十字架が傷つけられ、偶像破壊の罪により逮捕された青年シュヴァリエ・ド・ラ・バールの持ち物から当時、禁書であったまさにヴォルテールの「哲学辞典」(Dictionnaire philosophique 一七六四年)が発見され、異端審問によって翌年に斬首された上、ヴォルテールの「哲学辞典」とともに火あぶりにされた冤罪事件。ボルテール没後のずっと後の一七九一年に名誉回復した。ここはネット上の複数の記載を参考にした)などの『狂信や偏見のために死刑判決を受けた人びとの名誉回復の再審活動に乗り出す。これらの実践活動の所産である「寛容論」』(Traité sur la Tolérance 一七六三年)、辛辣な『文明批評エッセー集「哲学辞典」『はこの時期の代表作である』。一七七八年、『自作の悲劇「イレーヌ」』(Irène 一七七八年)『の上演に立ち会うため、二十八年ぶりにパリに戻った彼は市民の熱狂的歓迎を受けたが、疲労から死去した』。『生前の悲劇詩人としての名声は今日色あせてしまったが、風刺に富んだ、明快な文体の哲学小説、合理的立場に立脚した歴史著作、啓蒙・批判を目的とする軽妙な文明批評などの散文の著書は、一万数千通にのぼる膨大な書簡(彼の最高傑作という評価もある)とともに、彼をフランス知性を代表する存在としている。そして彼の偉大さは、その思想的独創性よりは、人間の自由と幸福を阻むものへの激しい戦闘的精神活動にあるといえる。また。ディドロ・ルソーらとともに百科全書派(アンシクロペディスト)の一人として重要な役割を果たした』とある。

 芥川龍之介には二十六歳の時に、大正七(一九一八)年五月の『帝國文學』にヴォルテールの「Voltaire publie Lettre d'un Turc sur les fakirs à son ami Bababec」(一七五〇年:「ヴォルテールが公にする行者たちと彼の友人ババベックに就いてのトルコ人の手紙」)を翻訳した「ババベツクと婆羅門行者」があり、この頃には寧ろ、ヴォルテールの作品構造へ興味関心が強かったことが窺われる。また、龍之介はアフォリズム「才一巧亦不二」(「さいのいつこうなるもまたにならず」と訓ずる。大正一四(一九二五)年九月『新潮』)の冒頭では、

   *

 ヴオルテールが子供の時は神童だつた。

 處が、或る人が、

 『十で神童、十五で才子、二十過ぎれば並の人、といふこともあるから、子供の時に悧巧でも大人になつて馬鹿にならないとは限らない。だから神童と云はれるのも考へものだ』と云つた。

 すると、それを聞いたヴオルテールが、その人の顏を眺めながら、

 『おぢさんは子供の時に、さぞ悧巧だつたでせうね』

と云つたといふことがある。

   *

というエピソードを載せるが、怪作「河童」では、河童世界の哲学者マツグの書いた「阿呆の言葉」(リンク先は私の電子テクスト。後者は特にその部分を独立させたもの)の抄録の最後の条に、

   *

 若し理性に終始するとすれば、我々は當然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴオルテエルの幸福に一生を了(をは)つたのは即ち人間の河童よりも進化してゐないことを示すものである。

   *

とあきらかな揶揄が出、前に「自由」で全文を引いた「西方の人」の第二十章「エホバ」の中でも揶揄を込めて、

   *

ヴオルテエルは今日では滑稽なほど「神學」の神を殺す爲に彼の劍(つるぎ)を揮つてゐる。しかし「主なる神」は死ななかつた。同時に又クリストも死ななかつた。

   *

と記している。そうして芥川龍之介は「或阿呆の一生」では、自己の文学体験を総括する中で、

   *

 

       十九 人工の翼

 

 彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲學者たちに移つて行つた。が、ルツソオには近づかなかつた。それは或は彼自身の一面、――情熱に驅られ易い一面のルツソオに近い爲かも知れなかつた。彼は彼自身の他の一面、――冷かな理智に富んだ一面に近い「カンディイド」の哲學者に近づいて行つた。

 人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴォルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。

 彼はこの人工の翼をひろげ、易やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴びた人生の歡びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまつ直に太陽へ登つて行つた。丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに燒かれた爲にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘人(ギリシヤじん)も忘れたやうに。……

 

   *

という、彼への愛憎半ばする感懐を漏らしている。同じく「或阿呆の一生」の「三十三 英雄」は既に「レニン」の項の注で引いたが、冒頭のロケーションは。

   *

 彼はヴォルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。氷河の懸つた山の上には禿鷹の影さへ見えなかつた。が、背の低い露西亞人(ロシアじん)が一人、執拗に山道を登りゞけてゐた。

 ヴォルテエルの家も夜になつた後(のち)、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。あの山道を登つて行つた露西亞人の姿を思ひ出しながら。………

   *

昼間(若き日)の「彼はヴォルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた」。が、その「ヴォルテエルの家も」晩年には「夜になつた」と読める、読むように構造されていることが分かる。やはり、龍之介にとってヴォルテールは、ヴォルテールの楽天主義的構成主義は龍之介の人生に大きな影響力を与えてしまったことを語っていると言える。それは最早、取り返しのつかないところまで、である。

・「滿腔」「まんかう(まんこう)」は体中に満ち満ちていることで、体全体・満身の意であるが、同時に心の底からという強意ともなる。

 

・「Candide」ヴォルテールが一七五九年に発表した風刺小説「Candide, ou l'Optimisme」(カンディド、或いは楽天主義)。師であるパングロス(哲学者ライプニッツを揶揄した人物)の教え「この正しい可能な現実世界にあっては、あらゆる事象はすべて最善である」を馬鹿正直に受け入れ、信じて疑わない純真なカンディド青年は、従妹キュネゴンドを恋して追放される。その苦難の遍歴の途次、彼が体験するのは、戦争や地震という現実世界のあらゆる天災や人災であった。結末に至ってキュネゴンドやパングロスと再会し、労働の中に意義を見出して、ささやかな暮らしを立てることとなるが、結句、未だにライプニッツ流の楽天主義を口にするパングロスに対してカンディドは言う、「もっともなことです。しかし、私たちはまず私たちの庭を耕さなければなりません」と。子細な梗概はウィキの「カンディがよい。]

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