芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 作家所生の言葉
作家所生の言葉
「振つてゐる」「高等遊民」「露惡家」「月並み」等の言葉の文壇に行はれるやうになつたのは夏目先生から始まつてゐる。かう言ふ作家所生の言葉は夏目先生以後にもない訣ではない。久米正雄君所生の「微苦笑」「強氣弱氣」などはその最たるものであらう。なほ又「等、等、等」と書いたりするのも宇野浩二君所生のものである。我我は常に意識して帽子を脱いでゐるものではない。のみならず時には意識的には敵とし、怪物とし、犬となすものにもいつか帽子を脱いでゐるものである。或作家を罵る文章の中にもその作家の作つた言葉の出るのは必ずしも偶然ではないかも知れない。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に、前の「小説」「文章」(二章)「女の顏」「世間智」(二章)「恒産」「彼等」と合わせて全九章で初出する。「所生」は「しよしやう(しょしょう)」或いは「しよせい(しょせい)」と読むが、私は後者で読む。生みの親の意(出生地の意もある)。ここは近代小説家由来(新たな意味を纏わせることを含む)の新造語の濫觴の作家を並べているが、夏目漱石は彼の師であり、「久米正雄」「宇野浩二」や、以下の注で引く菊池寛など、殆んどが龍之介の作家仲間で親友であった。
・「振つてゐる」小学館「日本国語大辞典」の「ふるっている」(「ふるう」(振・奮・揮)内の小見出し)には、『ふつうはかなり変わっている。注意をひくほど、とっぴである。また、他人のしたことが自分に快く感じられる時それを肯定し、たたえる意をこめていう場合にも用いる』として、夏目漱石の「吾輩は猫である」(明治三八(一九〇五)年一月から翌年八月まで『ホトトギス』に連載)の三の『迷亭は大きな聲を出して「奥さん奥さん、月並の標本が來ましたぜ。月並もあの位になると中々振つて居ますなあ。さあ遠慮は入らんから、存分御笑ひなさい」』の当該箇所が引かれてあり(底本は岩波旧全集に拠ったが、踊り字「〱」は正字化し、ルビは除去した。同辞典の表記は異なる)、さらに森鷗外の「ヰタ・セクスアリス」(明治四二(一九〇九)年七月『昴』)の真ん中辺りに出る、『僕は憤然とした。人と始て話をして、おしまひに面白い小僧だは、結末が余り振つてゐ過ぎる。』の当該箇所が引かれてある(底本は岩波の「鷗外選集」に拠った)。
・「高等遊民」小学館「日本国語大辞典」は、『高等教育を受けていながら、職業につかないで遊んで暮らしている人。』とし、夏目漱石の「彼岸過迄」(明治四五(一九一二)年『朝日新聞』連載)の「報告」の第「十」章の冒頭のそれを引くが、既に前の「九」末尾で、『「餘裕つて君。――僕は昨日雨が降るから天気の好い日に來てくれつて、貴方を斷わつたでせう。其譯は今云ふ必要もないが、何しろそんな我儘な斷わり方が世間にあると思ひますか。田口だつたら左う云ふ斷り方は決して出來ない。田口が好んで人に會ふのは何故(なぜ)だと云つて御覧。田口は世の中に求める所のある人だからです。つまり僕のやうな高等遊民(かうとういうみん)でないからです。いくら他(ひと)の感情を害したつて、困りやしないといふ餘裕がないからです」』(底本は岩波旧全集に拠ったが、ルビは一部を除いて省略した)と先に出る。漱石の作品の登場人物には「それから」(明治四二(一九〇九)年『朝日新聞』連載)の主人公「代助」(そこでは父から単に「遊民」と揶揄される。但し、「遊民」単独では既に江戸時代、文人を職業として分類するに際して「遊民」の語を用いた例があるとウィキの「遊民」にある)や「こゝろ」(大正三(一九一四)年『朝日新聞』)の「先生」や「私」のように高等遊民が非常に多い。「日本国語大辞典」では次に高村光太郎の詩集「道程」(大正三(一九一四)年刊)の詩「夏の夜の食慾」の『淺草の洋食屋は暴利をむさぼつて/ビフテキの皿に馬肉(ばにく)を盛る/泡の浮いた馬肉(さくら)の繊維、シチユウ、ライスカレエ/癌腫の膿汁(うみ)をかけたトンカツのにほひ/醉つぱらつた高等遊民の群れは/田舍臭い議論を道聽途説し/獨乙派の批評家は/文壇デパアトメントストアを建設しようとする』(国立国会図書館デジタルコレクションの初版の画像を視認した。「/」は改行を示す)の箇所から『醉つぱらつた高等遊民の群れは、田舍臭い議論を道聽途説し』(読点はママ)を引いた上、驚くべきことに、芥川龍之介のこのアフォリズムの冒頭の一文全部を示して、「高等遊民」の使用例としている。
・「露惡家」小学館「日本国語大辞典」は、『自分の欠点などをわざとさらけ出したがる人。露悪趣味のある人。』とし、夏目漱石の「三四郎」の「七」の中の(下線はやぶちゃん)、
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「御母(おつか)さんの云うふことは成(なる)べく聞いてあげるが可(よ)い。近ごろの靑年は我々時代の靑年と違って自我の意識が強すぎて不可(いけ)ない。吾々の書生をして居る頃には、する事爲す事一として他(ひと)を離れたこ事はなかつた。凡(すべ)てが、君とか、親とか、國とか、社會とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいふと教育を受けるものが悉(ことごと)く僞善家であつた。其僞善が社會の變化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行爲の上に輸入すると、今度は我意識が非常に發展仕過ぎてし舞つた。昔(むか)しの僞善家に對して、今は露惡家(ろあくか)許(ばか)りの狀態にある。――君、露惡家(ろあくか)といふ言葉を聞いた事がありますか」
「いゝえ」
「今ぼくが即席に作つた言葉だ。君も其露惡家(ろあくか)の一人(いちにん)――だかどうだか、まあ多分さうだらう。與次郎の如きに至ると其最(さい)たるものだ。あの君の知つてる里見といふ女があるでせう。あれも一種の露惡家(ろあくか)で、それから野々宮の妹(いもうと)ね、あれはまた、あれなりに露惡家だから面白い。昔は殿樣と親父(おやぢ)丈(だけ)が露惡家ですんでいたが、今日では各自(めいめい)同等の權利で露惡家になりたがる。尤も惡い事でも何でもない。臭いものゝ葢(ふた)を除(と)れば肥桶(こえたご)で、美事な形式を剝ぐと大抵は露惡になるのは知れ切つてゐる。形式丈(だけ)美事だつて面倒な許(ばかり)だから、みんな節約して木地(きぢ)丈(だけ)で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫(てんしうらんまん)としてゐる。所が此爛漫(らんまん)が度を越すと、露惡家同志が御互に不便を感じて來る。其不便が段々高(かう)じて極端に達した時利他主義が又復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に歸參する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮(くら)してゆくものと思へば差支(さしつかへ)ない。さうして行くうちに進步する。英國を見給へ。此兩主義が昔からうまく平衡(へいかう)が取れてゐる。だから動かない。だから進步しない。イブセンも出なければニイチエも出ない。氣の毒なものだ。自分だけは得意の樣だが、傍(はた)から見れば堅くなつて、化石しかゝつてゐる。……」
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の私が最初に下線を引いた箇所を引いて(引用底本は岩波旧全集に拠ったが、踊り字「〱」「〲」は正字化した)、ここでも次に龍之介のこのアフォリズムの冒頭の一文全部を示して、「高等遊民」の使用例としている。因みに同辞典のすぐ前項である「露悪」を見ると、『わるいことをすべてさらけ出すこと。』として、前の注で示した漱石の「三四郎」の「七」の後の方の下線部分を用例として提示し、その後には里見弴の「今年竹」(大正八(一九一九)年に『時事新報』に連載したが途絶、後年完成)の「昼の酒」の「二」から『さすが露悪と皮肉とに鍛へあげられた須田の心も』という使用例を出す。
・「月並み」この語自体は「月次」とも書いて古語としてもともとあり、小学館「日本国語大辞典」の「つきなみ」では、①毎月。月ごと。また、毎月決まって行うこと。月に一度あること。/②陰暦六月と十二月の十一日に宮中に於いて神祇官に百官を召集させて行った「月次(つきなみ)の祭り」の略。/③月例として催される和歌・連歌・俳諧の座(席)。/④女性の月経。メンス。/⑤江戸時代の避妊薬の隠語、といった意味を載せた後で、⑥「月並俳句」の略とし、正岡子規の「十たび歌よみに與ふる書」(末尾に明治三一(一八九八)年三月四日のクレジットを持つ)から『俳句の觀を改めたるも月並連に構はず思ふ通りを述べたる結果に外ならず候』を引く(国立国会図書館デジタルコレクションの旧字の版本を画像視認してオリジナルに旧字で示した)。この「月並俳句」とは正岡子規を中心とした明治の俳句革新運動に於いて、子規が自ら作句して示した俳句観「写生」を旨とする新派の俳句作品に対して、伝統的なそれまでの旧派の俳句観に基づいて作られた句を子規が排撃するために用いた卑称であるが、同辞典は「つきなみ」の⑦として、『(形動)(⑥から転じて)平凡で新鮮みのないこと。とりたてて変わった点のないこと。常套陳腐なこと。また、そうした物事や、さま。』という意味を挙げる。そうしてそこにはやはり夏目漱石の「吾輩は猫である」の「二」の、例の苦沙彌(くしゃみ)先生の友人の美学者迷亭(めいてい)が東京の西洋料理店でやらかす「トチメンボー」事件についての越智東風の語りの初めのシーン、
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「夫(それ)から首を捻捻つてボイの方を御覧になつて、どうも變つたものもない樣だなとおつしやるとボイは負けぬ氣で鴨のロースか小牛のチヤツプ抔(など)は如何(いかゞ)ですと云ふと、先生は、そんな月並(つきなみ)を食ひにわざわざこゝまで來やしないと仰しやるんで、ボイは月並といふ意味が分らんものですから妙な顏をして默つて居ましたよ」「さうでせう」「夫(それ)から私の方を御向きになつて、君佛蘭西(フランス)や英吉利(イギリス)へ行くと随分天明調(てんめいてう)や萬葉調(まんえふてう)が食へるんだが、日本ぢやどこへ行つたつて版で壓(お)した樣で、どうも西洋料理へ這入る氣がしないと云ふ樣な大氣燄で――全體あの方(かた)は洋行なすつた事があるのですかな」「何迷亭が洋行なんかするもんですか、そりや金もあり、時もあり、行かうと思へば何時(いつ)でも行かれるんですがね。大方是から行く積りの所を、過去に見立てた洒落(しやれ)なんでせう」と主人は自分ながらうまい事を言つた積りで誘い出し笑をする。
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の私の引いた傍線部を引用している(引用底本は岩波旧全集に拠ったが、踊り字「〱」は正字化した)。次の例は菊池寛の文壇出世作で半自伝的な小説「無名作家の日記」(大正七(一九一八)年『中央公論』)で『が、俺のペンから出て來る臺詞(せりふ)は月並の文句ばかりだ』(恣意的に漢字を正字化した)、そのつぎにまたしても龍之介の、このアフォリズムが挙がっている。
・「久米正雄」(明治二四(一八九一)年~昭和二七(一九五二)年)についてはウィキの「久米正雄」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)『長野県上田市生まれ。父・由太郎は江戸出身で町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)の校長として上田に赴任し、正雄が生まれた。父は一八九八年(明治三十一年)に小学校で起きた火災によって明治天皇の御真影を焼いてしまった責任を負って、自らの腹を切って自殺。このため、正雄は母の故郷である福島県安積郡桑野村で育つ。母方の祖父は中條政恒とともに安積原野開拓に携わった一人』。『旧制の福島県立安積中学校(現福島県立安積高等学校)では俳句に熱中し、俳壇で有望視された。無試験で第一高等学校文科に推薦入学。東京帝国大学文学部英文学科に在学中、成瀬正一、松岡譲らと第三次『新思潮』を創刊し、作品を発表。戯曲「牛乳屋の兄弟」(一九一四年)で認められる。『新思潮』廃刊後は、『帝国文学』同人』。『一九一五年(大正四年)、夏目漱石の門人となる。一九一六年(大正五年)、芥川龍之介、菊池寛らと第四次「新思潮」を創刊。同年大学卒業。このころ、中条百合子と恋愛関係にあった。百合子の父中条精一郎の父は、久米の母方の祖父とともに安積を開拓した仲で両家につきあいが深く、精一郎は久米が大学に入る時の保証人だった』。『しかし年末に漱石が急死し、夏目家へ出入りするうち、漱石の長女筆子に恋して、漱石夫人鏡子に結婚の許しを請うたところ、筆子が同意するなら許すとの言質を得たが、筆子は松岡譲を愛していた。それに加えて、筆子の学友の名を騙る何者かが、久米を女狂い・性的不能者・性病患者などと誹謗中傷する怪文書を夏目家に送りつける事件が発生した(関口安義『評伝松岡譲』によると、この怪文書の作者は久米と長年にわたり反目していた山本有三だったという)。筆子は久米があまり好きではなく松岡が好きであった。じきに自分が筆子と結婚する予定であるかのような小説を発表し、結婚は破断となり、筆子は松岡と結婚した』。『久米は失意のあまりいったん郷里に帰るが、一九一八年(大正七年)』、『四日ほどいただけで再上京し、「受験生の手記」などを発表する。これは大学受験の失敗と失恋の苦悩を綴ったもので、同年の短編集『学生時代』に収められ、長く読まれた。しかしその四月、松岡と筆子の結婚が報じられると、久米は恨みをこめた文章をあちこちに書いた。菊池が同情して、「時事新報」に「蛍草」を連載させ、この通俗小説は好評を博した。以後、数多くの通俗小説を書いた』。『一九二二年(大正十一年)になって、久米は筆子への失恋事件を描いた小説「破船」を『婦人之友』に連載、これによって、主に女性読者から同情を集めた。翌一九二三年(大正十二年)、奥野艶子と結婚』。『自らは通俗小説の大家となりながら、芸術小説への憧れが強く、評論「私小説と心境小説」』(大正一四(一九二五)年)で、『トルストイもドストエフスキーも所詮は高級な通俗小説で、私小説こそが真の純文学だと論じた。だが自身は、妻への遠慮などから、私小説が書けなくなっていく。通俗小説の多くは映画化された』。『一九二五年(大正十四年)から亡くなるまで鎌倉に居住した。一九三二年(昭和七年)、石橋湛山の後を継いで鎌倉の町議に立候補し』、『トップ当選したが、一九三三年(昭和八年)、川口松太郎や里見弴と共に花札賭博で警察に検挙された。一九三八年(昭和十三年)には東京日日新聞(のちの毎日新聞)の学芸部長に就任』、『第二次世界大戦中は、日本文学報国会の事務局長を務めた。一九四五年(昭和二十年)五月、鎌倉文士の蔵書を基に川端康成たちと開いた貸本屋(戦後に出版社となる)“鎌倉文庫”の社長も務め、文藝雑誌『人間』や大衆小説誌『文藝往来』を創刊した。鎌倉ペンクラブ初代会長としても活躍。菊池との友情は長く続いた。戦後松岡と和解し、桜菊書院『小説と読物』を舞台に、夏目漱石賞を創設して松岡とともに選考委員を務めたが、桜菊書院が倒産したため一回で終った』。『晩年は高血圧に悩み、脳溢血で急逝した。忌日は三汀忌、もしくは微苦笑忌と呼ばれる』とあり、冒頭梗概部にはわざわざ「微苦笑」『という語の発明者として有名』と記してある。
・「微苦笑」小学館「日本国語大辞典」にも、『微笑と苦笑との交じった複雑な笑い。かすかなにがわらい。』と意味を記した後、はっきりと、『久米正雄の造語。』と記す。例文は久米正雄の「微苦笑藝術」(大正一三(一九二四)年新潮社刊)の「私の社交ダンス」で、『『文化生活』と云ふものも、味って置いて損はない。そんな一種皮肉な氣持もあって、例の微苦笑を湛へながら』とあり、最後にまたまた龍之介のこのアフォリズムが引用されてある。
・「強氣弱氣」岩波新全集の山田俊治氏の注によれば、久米正雄は「大人の喧嘩」(大正八(一九一九)年作)で、『「強気弱気」という小説を書いたSとのトランプ遊びの上での喧嘩と仲直りを描き、「弱気を弱気として肯定して、そこに安住しようと云ふ傾向」を記している「強気弱気」という言葉は、里見弴の作品名が先行しており、久米はむしろ「弱気」に徹しようとしていて、彼の造語とは言えない』と龍之介の主張を否定しておられる。孰れにせよ、「強気弱気」(弱気であることを相手に悟られないために逆に強気に振る舞う傾向という謂いか)という語は私自身使ったことも聴いたこともなく、小学館「日本国語大辞典」にも載らない。
・「宇野浩二」(明治二四(一八九一)年~昭和三六(一九六一)年)については平凡社「世界大百科事典」の紅野敏郎氏の解説を引く(コンマを読点に代え、記号の一部も変更した)。『福岡県に生まれ、大阪で育った。本名格次郎。天王寺中学より早大英文科に進』むも、中退している。彼は『育った大阪の南区宗右衛門町の花柳界近辺への追憶をもちつづけた』。大正二(一九一三)年刊の処女作品集「清二郎 夢見る子」には『すでに宇野文学特有の夢と詩の合奏が見られる。翌年。永瀬義郎、鍋井克之らのはじめた美術劇場にも協力』、大正八(一九一九)年には、終世の友であった『広津和郎の紹介で「蔵の中」を『文章世界』に発表し、さらに』同年の「苦の世界」、大正一二(一九二三)年「の子を貸し屋」『などにより大正文学の中心作家となる。饒舌体の文章で物語るユーモアとペーソスを基調とした作風であった。「軍港行進曲」(昭和二(一九二七」)年発表後、精神異常に陥る』(芥川龍之介の自死の前で、彼は盟友宇野の発狂状態に自分(の中の母からのその遺伝)のそれを見、大きな衝撃を受けている。龍之介の自殺の素因一つには、私は宇野の精神異常を目の当たりにしたことが含まれていると考えている。彼の精神病は脳梅毒による進行性麻痺と考えてよく、彼の復帰後の文体の著しい変化も脳の変質に拠るものである可能性が高い)『が、やがて回復、大阪の画家小出楢重とのかかわりを軸にした「枯木のある風景」』(昭和八(一九三三)年)『により文壇に復帰、作風も叙述体に変わり、「枯野の夢」「子の来歴」』(孰れも昭和八年)、「器用貧乏」(昭和一四(一九三九)年)『などを発表、戦後の代表作は「思ひ川」』(昭和二三(一九四八)年)である。随筆的評論も巧妙で「芥川龍之介」は力作である(私は同作を「上」・「下」オリジナル注附きで電子化している。ブログ版はこちら。御笑覧あれかし)。「文学の三十年」(昭和一五(一九四〇)年)・「文学的散歩」(昭和一七(一九四二)年)『などの回想的文学も多い。松川事件にさいしては広津和郎に呼応して「世にも不思議な物語」』(昭和二八(一九五三)年)を『書いた。文学への執念を最後までもちつづけた文学の鬼的存在といえよう。その周辺より渋川驍(ぎょう)、水上勉らが育った』とある。因みに、先にリンクさせた私の電子テクスト、宇野浩二の「芥川龍之介」では「等、等、等」の三連投は全体で三度、登場している。]
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