芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 罰
罰
罰せられぬことほど苦しい罰はない。それも決して罰せられぬと神々でも保證すれば別問題である。
[やぶちゃん注:芥川龍之介は、二つ前の「外見」では「由來最大の臆病者ほど最大の勇者に見えるものはない。」と言った。
「臆病者」とは常に漠然と何ものかに「罰せられ」るのではないか、と病的に感じ続ける者の謂いである。
前の「人間的な」では「我我人間の特色は神の決して犯さない過失を犯すと云ふことである。」と言った。
「過失を犯」した者はその軽重によって相応の「罰」を受けるのが当然である――はず――である。
既に先に「神」の二章目で龍之介は「我我は神を罵殺する無數の理由を發見してゐる。が、不幸にも日本人は罵殺するのに價ひするほど、全能の神を信じてゐない。」とやらかしている。
「罵殺するのに價ひするほど、全能の神を信じてゐない」「日本人」が、その程度の「神々」から「決して罰せられぬと」「保證」されたとしても「別問題」として安心など出来る筈はない。
ここでは寧ろ、龍之介は、
「誰か私を罰して呉れ!」
と叫んでいるのである。「罰せられぬことほど苦しい罰はない」という冒頭こそが真意であり、二文はその悲痛な心底の叫喚を照れ隠しする龍之介得意の売文者の、誰も笑って呉れない一発芸の哀れなポーズに過ぎないのである。
「誰か私を罰して呉れ!……」
恐らくは龍之介の言葉は、こう続く……
「誰か私を罰して呉れ! そうすれば私は自死せずに済むかも知れぬから!…………」]
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