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2016/06/14

芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  或理想主義者

 

       或理想主義者

 

 彼は彼自身の現實主義者であることに少しも疑惑を抱いたことはなかつた。しかしかう云ふ彼自身は畢竟理想化した彼自身だつた。

 

[やぶちゃん注:まず、本文中の「彼」とは芥川龍之介自身であることに異論を挟む方はあるまい。従ってこれは彼自身の自己同一性認識の齟齬を語っていると判断してよい。

 では、次は標題である。「或」はお得意の自己韜晦(及び、彼に類似したタイプの読者への敷衍を確信犯で意味するが、そこはここでは問題としない)としての接頭語であるから、「理想主義者」が問題となる。

 「理想主義者」とは「idealism」の訳語で、辞書的(ここでの龍之介の言いを限定した哲学的政治的芸術的なそれとわざわざ採る必要性は私は全く感じない)に記すなら、「現実の状況に充足したり、満足したしてそこに留まることを潔しとせず、自己(或いはそれを同じゅうする集団)の理想の実現を目指そうと不断に努力し続ける生き方」を絶対信条とする人間である。

 それに対するところの「現実主義者」は「realism」の訳語で、「理想や建前に拘ることなく、現実に柔軟自在に即応し、対象を出来得る限り望ましい方途を以って処理し、その結果として生じた結果や状況を有意には不満に思うことなく、受け入れてゆくことをよしとする生き方」をぶれのない規範信条とする人間である。

 芥川龍之介の、売文業者としての生活者、〈人〉としての立ち位置が、基本的にリアリストであることを規範とし、龍之介自身、自分がそうした「現實主義者であることに少しも疑惑を抱いたこと」が晩年になるまでは「なかつた」ことは、すこぶる納得出来る謂いと言える。しかし芥川龍之介が「現實主義者」であることと、彼の産み出した全作品が徹底した「現實主義」に貫かれた、「現實主義」こそが人生そのもの実体であることを表明するものでなければならない必要はないのである。これは我々自身、胸に手を当てて半生を顧みれば、即応に理解出来る〈事実〉である。我々はどこかで現実に折り合いをつけねば、生まれ落ちて大した時間差もなく、命を絶たれる〈事実〉を考えてみれば判る。即ち、我々は人間である以上、人間として生きる以上、核心的には「現實主義者」であることが必要条件だと言える。

 しかしそれはあまりに、等身大のちっぽけな惨めで淋しい、虫けらの如き人間存在の実相に自らを追い込んでしまうことにもなりかねない(ならないかも知れない。可能性の問題である)。さすれば、人間は多かれ少なかれ誰しもが、同時に「理想主義者」であることによって、人生を波乱万丈に生きられる〈仮想〉をすることを可能にしているとも言える(そう出来るだけでしなくともよい。同じく自己選択の問題である)。

 しかしそうなると、龍之介がそうした「理想主義者」と「現實主義者」のヤヌスであったとしても、それは彼の特異性ではなく、万民に共通する人間の属性であると言えてしまうことになる。さればここで題名が「或理想主義者」であるのに、「彼は彼自身の現實主義者であることに少しも疑惑を抱いたことはなかつた」が、「しかし」現にこう言っている「彼自身」が結局は「理想化した彼自身だつた」ということが驚くべきことに分かってしまった、と言っているのだということになり、これは、読者の後から走ってきて読者が皆分かり切っていることを鬼の首を獲ったように言上げしている、実につまらんアフォリズムということに成り下がってしまう。

 かくも「理想主義者であると同時に現實主義者」であることは可能である。但し、その場合、孰れが役者であり、孰れが役かは問わずともよい。問う必要がない、問うことそれ自体が無意味である、と言ってもよい。

 だから、龍之介がここで、大上段に振りかぶって(というより、インキ臭く)、

――私は私自身を現実主義者だと微塵も疑わずに生きて来たが、結局それは私自身が理想化し、思い込んできたところの理想的似非現実主義者だった。

と告解されても、「ふ~ん、だから、何?!」という言葉しか出ないことになる――ように見える。

 しかし、当然、それは違う。翻って考えてみよう。

 問題はこれを記している芥川龍之介が自殺を目前に控えていた事実である。

 「現實主義者」であろうが、「理想主義者」であろうが、彼らはそれを生物学的な生の間中、不断に連続させるからこそ「理想主義者」であり、「現實主義者」であり続けられる、自己同一性を保つことが出来る。さればこそ、「理想主義者」も「現實主義者」も自殺は出来ない。自殺した瞬間に、自らの人生の信条に反逆することになるからである。「理想主義者であると同時に現實主義者」であってもことは同じである。立っている場所は所詮、同じ土の上だからである。

 ところが、「理想主義者であると同時に厭世主義者」であるという人間は自らを言明した途端に、「疑惑」どころか、とんでもない嘘つきであることになる。「厭世主義者」(ここでは、物事を悲観的に考える傾向を意味する「pessimism」の訳語としてではなく、「厭世」という熟語そのものの指し示すところはショーペンハウアーばり(あくまで「ばり」である。何故なら私は若き弟子たちを自死に追い込んでおいて、自らは自死どころかコレラをさえ恐れて田舎へ引っ込んだ彼を嘘つきだと思うからである)の人生や歴史は不合理で無意味であって、その〈事実〉も〈現実〉も本質的に変えることは不可能だとする意味で私は使っている)は理想主義とは相容れないとこは言を俟たぬ。では「現實主義者であると同時に厭世主義者」はあり得るかと言えば、これもあり得ぬ。人生や歴史は不合理で無意味であって、その〈事実〉も〈現実〉も本質的に変えることは不可能であるという大前提の後に、その不合理で無意味な属性しか持たない〈現実〉に即応して出来得る限り、望ましい方途を以って処理し、その結果として生じた結果や状況を有意には不満に思うことなく受け入れていった時、それはその瞬間に「厭世主義」的自己存在と致命的な矛盾を生ずることになるからである。

 芥川龍之介は、この「或理想主義者」で、実際には、こう言いたかったのではないか?

 

 私は私自身の現實主義者であることに少しも疑惑を抱いたことはなかつた。しかしかう云ふ彼自身は畢竟理想化した彼自身だつた。さうして私は最後に厭世主義者となつた。しかしかう云ふ彼自身も又畢竟理想化した彼自身に過ぎなかつた。

 

 以前に或自警團員の言葉で私が引いた、萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」(リンク先は私の古い電子テキスト)の「9」の最後の龍之介が朔太郎に言った言葉を思い出すがよい。

 

「だが自殺しない厭世論者の言ふことなんか、皆ウソにきまつてゐるよ。」

 それから笑つて言つた。

「君も僕も、どうせニセモノの厭世論者さ。」]

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