芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 恒産
恒産
恒産のないものに恒心のなかつたのは二千年ばかり昔のことである。今日では恒産のあるものは寧ろ恒心のないものらしい。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年八月号『文藝春秋』巻頭に、前の「小説」「文章」(二章)「女の顏」「世間智」(二章)と、後の「恒産」「彼等」「作家所生の言葉」と合わせて全九章で初出する。標題「恒産」(こうさん)は「一定の資産或いはそれを生み出すところの安定した職業」のことで、ここは「恒心」(常に定まって変わることのない正しい心。ぐらつくことないしっかりとしたまことの心)とともに「孟子」の「梁惠王篇」の問答の以下の一節に基づく。
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○原文
王曰、「吾惛、不能進於是矣。願夫子輔吾志、明以教我、我雖不敏、請嘗試之。」曰、「無恆産而有恆心者、惟士爲能。若民、則無恆産、因無恆心。苟無恆心、放辟邪侈、無不爲已。及陷於罪、然後從而刑之、是罔民也。焉有仁人在位、罔民而可爲也。是故、明君制民之産、必使仰足以事父母、俯足以畜妻子、樂歳終身飽、凶年免於死亡、然後驅而之善。故民之從之也輕。今也、制民之産、仰不足以事父母、俯不足以畜妻子、樂歳終身苦、凶年不免於死亡。此惟救死而恐不贍。奚暇治禮義哉。」
○やぶちゃんの書き下し文
王曰く、
「吾惛(くら)くして、是れに進むこと能はず。願はくは夫子(ふうし)、吾が志を輔け、明らかに以つて我に敎へよ。我れ不敏なりと雖も、請ふ、之を嘗試(しやうし)せん。」
と。曰く、
「恒産無くして恒心有る者は、惟(た)だ士のみ能(よ)くするを爲す。民のごときは則ち、恒産無ければ、因(よ)つて恒心無し。苟(いや)しくも恒心無ければ、放辟邪侈(はうへきじやし)、爲さざること無し。罪に陷るに及んで、然(しか)る後に從つて之を刑(つみ)するは、是れ、民を罔(あみ)するなり。
焉(いづく)んぞ仁人(じんひと)、位(くらゐ)に在りて、民を罔するを爲すべきこと有るべけんや。是の故に、明君は民の産を制するに、必ず仰ぎては以つて父母(ぶも)に事(つか)ふるに足(た)り、俯(ふ)しては以つて妻子を畜(やしな)ふに足り、樂歳(らくさい)には身を終ふるまでの飽きありて、凶年にも死亡を免れしめて、然る後、駆(か)けりて善に之(ゆ)かしむ。故に民の之れに從ふや輕(やす)し。今や、民の産を制するに、仰ぎては以つて父母に事ふるに足らず、俯しては以つて妻子を畜ふに足らず、楽歳には身を終ふるまで苦しみ、凶年には死亡を免れず。此(こ)れ惟だ、死を救ふだにも贍(た)らざらんことを恐る。奚(なん)ぞ礼義を治むるに暇(いとま)あらんや。」
と。
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「嘗試」とは、嘗(な)めて食物の味を確かめる意から、試してみること・経験してみることを言う。「放辟邪侈」は勝手気儘に我儘放題に悪い行いをすること。「無不爲已」は一般には最後に「のみ」と訓ずるあ、どうもここはそうすると意味を誤認しかねない。ここは二重否定であって強い肯定(必ず放辟邪侈に及んでそうしない者は一人としていない)であるから、かく訓じておいた。「罪に陷るに及んで、然る後に從つて之を刑(つみ)するは、是れ、民を罔(あみ)するなり」全訳しておく。――かくも人民が罪を犯す原因を認知していながら、それに適切な対処もせずに捨ておいておきながら、いざ、人民が罪を犯したときにはこれを厳しく処罰するというのは、人民にかすみ網を張っておいて罠をにかけるのと同じことである。――「民の産を制する」人民のそれぞれの生業を定める。「樂歳」豊年の年。「贍(た)らざらん」不足している。
ここで龍之介の言っていることは二十一世紀の今に於いてこそ、ますます致命的に正しい。]
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