芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 罪
罪
「その罪を憎んでその人を憎まず」とは必しも行ふに難いことではない。大抵の子は大抵の親にちやんとこの格言を實行してゐる。
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年二月号『文藝春秋』巻頭に、前の『「虹霓關」を見て』「經驗」「アキレス」「藝術家の幸福」「好人物」(二章)と、後の「桃李」「偉大」と合わせて全九章で初出する。「侏儒の言葉」の中の優れた真理命題の一つである。
・「その罪を憎んでその人を憎まず」この諺の濫觴を考証したものでは、yasukichi 氏のブログ「日々不穏なり」(私のブログの「日々の迷走」に親和的でいい感じだ)の『「罪を憎んで人を憎まず」考』かなりディグしていて素晴らしい。その記載を参考にして考えてみると、東洋の淵源は「孔叢子(くぞうし/こうそうし)」(全三巻から成る孔子とその弟子の言行を書き記したもので、漢の孔鮒(子魚)編とされるが、後世の偽作)とあり、調べてみると、同書の「刑論」の中に、
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「書」曰、「若保赤子。」子張問曰、「聽訟可以若此乎。」孔子曰、「可哉。古之聽訟者惡其意、不惡其人、求所以生之、不得其所以生、乃刑之。君必與眾共焉、愛民而重棄之也。今之聽訟者不惡其意、而惡其人、求所以殺。是反古之道也。」
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とあることが分かった。さても、この下線部の前後を訓じようなら、
「古へ訟へを聽く者、其の意を惡むも、其の人を惡まず、之れを生かさんとする所以を求め、其の生かさんとする所以を得ざれば、乃(すなは)ち之れを刑す。」
であろう。即ちここは、
「古えの訴訟を裁く者は、その犯意を憎むも、その罪を犯した人間を憎もうとはせず、その罪人をなるべく生かそうとするような理由を(動機や犯意や犯罪行為の中に)求めようとし、しかもそうした生かしておいてやろうと思えるような理由が全く見つからなければ、初めてそこで死刑に処した」
の謂いである。即ち、この「其の意を惡むも、其の人を惡まず」の真意は、
――犯人を罰する際には、何よりも動機やその背景及び犯行手段の実際にこそ目を向けて裁くべきであって、社会秩序を乱す犯罪は憎んでも、一律にそうした犯罪を犯した人間を人非人と断じて処罰すべきではない。
と言っていると読めるのである。即ち、これは、
――犯罪を裁定する場合の唯一の重要性は、可能な限りの客観性の保持にこそある、それしかない。
という人が人を裁く司法の絶対原理を述べているものなのである。ところが、現行の「罪を憎んでその人を憎まず」の辞書的な意味合いは、
――犯した罪は憎むべきだが、その人間がその罪を犯すまでにはそれなりの事情もあったのであるから、罪を犯したその人自身まで憎んではいけない。
であって、本来の初出の意義とは、実は異なることに気づくのである。yasukichi 氏のブログでは次に、この後者の認識法について、『キリスト教の教えにも同様のものは存在する』、『英語の慣用句としても『「Condemn the offense, but pity
the offender」というのがある』(英文は「罪人を憎むな、罪を憎め」の意)と記される。このキリスト教のそれとは、例えば「ヨハネによる福音書」第八章第一節から第十一節のシークエンス(「ウィキソース」の「ヨハネ傳福音書(文語訳)」を使用したが、読み易くするために章節番号を省略、字配を変え、句読点も追加し、一部の漢字を正字化した)、
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イエス、オリブ山にゆき給ふ。夜明ごろ、また宮に入りしに、民みな御許に來りたれば、坐して教へ給ふ。ここに學者・パリサイ人ら、姦淫のとき捕へられたる女を連れきたり、眞中に立ててイエスに言ふ、
「師よ、この女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。モーセは律法に、斯かる者を石にて擊つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言ふか。」
かく云へるは、イエスを試みて、訴ふる種を得んとてなり。イエス身を屈め、指にて地に物書き給ふ。かれら問ひて止まざれば、イエス身を起して、
「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て。」
と言ひ、また身を屈めて地に物書きたまふ。
彼等これを聞きて良心に責められ、老人をはじめ若き者まで一人一人いでゆき、唯イエスと中に立てる女とのみ遺れり。イエス身を起して、女のほかに誰も居らぬを見て言ひ給ふ。
「をんなよ、汝を訴へたる者どもは何處にをるぞ、汝を罪する者なきか。」
女いふ、
「主よ、誰もなし。」
イエス言ひ給ふ、
「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」
*
の箇所など現われる。
さらに、『イスラムでは「復讐」の教義があるため相容れないかもしれないが、中国というよりも西洋世界での一般的な考え方と解釈するほうが近いのではなかろうか』とされた上で、『この言葉が日本で何故メジャーなのか?』と言えば、それは『第一に、「大岡裁き」で有名な大岡政談の影響が大きい。講談や、最近では時代劇で脚色された「人情派」的イメージで捉えられる。罪人を処罰する話と、勧善懲悪的な要素が絡み合い、罪を償うほうも納得してしまうような裁きを下す。つまり、「情状酌量」のニュアンスがこの言葉にはある』。『第二に、仮名手本忠臣蔵、日本人が大好きな忠臣蔵の話に由来する。九段目で、「君子はその罪を憎んでその人を憎まずと言えば、縁は縁、恨みは恨みと、格別の沙汰もあるべきにさぞ恨みに思われん」という由良助(大石蔵助)の台詞があるのだが。浅野内匠頭を殿中で抱きとめた梶川与惣兵衛が大石力に殺害された際、蔵助がその動機を説明する際に使われる台詞として有名。「罪を憎んで人を憎まずではあるのだが、主君の恨みを雪ぐためやむなく殺害に至った」ということ』であり、『つまりは、「罪を憎んで人を憎まず」は、孔子が原典というものの、かなりその意味が日本では曲解されて定着していて、かつ、その曲解された意味がキリスト教世界の普遍的価値観と合致する、という構造になっているわけ』だとされ、『孔子の言葉のニュアンスは、恐らく「正しい動機に基づく罪は罪ではない」ということと推察されるので、むしろ「造反有理」や「愛国無罪」にニュアンスは近い。なぜ「意を悪みて罪を悪まず」が「罪を悪みて人を悪まず」になったのかは不明』と記されておられる。これは非常に納得がいく解説であると私は思う。但し、これだけ注しておいてなんなんだが、龍之介は通用の意――その人が犯した罪は罪として憎んでも、その罪を犯した人までも憎むことは決してするな――で使用してはいる。
・「大抵の子は大抵の親にちやんとこの格言を實行してゐる」この超ブラッキーなアイロニーに分からぬ読者おるまいが、それでもこの部分は是非、既に掲げられた「親子」、及びその直後の「可能」の、私の如何にもな、くだくだしい注と併せて読まれれば、否が応にも、十全にお分かり戴けるものと存ずる。]
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